第七十三話 たくさん甘えてください
薄暗い映画館のロビーに、甘いキャラメルポップコーンの香りが漂う。
「あの……」
「ずっと楽しみにしていたんです。公開したら、すぐ見に行こうと思っていたのですが、甲斐文都さんと観るために、今日まで我慢しました」
違う映画にしませんか?って、一気に言い出しにくい空気に。
「甲斐文都さん、怖かったら俺を抱きしめていいですよ」
「抱っ……!?」
「いや、しませんよ」
俺はホラーでもいいけど、先輩が……。
「俺も観る」
先輩が決意したような目を向ける。
「え? でも……ホラーですよ?」
先輩の大嫌いな。
「夏休みにホラー映画観せられたり、文化祭でお化け屋敷入ったりして、俺も慣れたから大丈夫。いつまでも逃げてられないし」
「先輩……」
ホラー映画見たせいで、一人でお風呂にも入れず、素人のお化け屋敷で、怖くて泣き出した人が、すごい自信。
先輩はホラーと戦ってるんですか?
「だ、だめです……先輩には見せられません」
怖くて泣いちゃう未来しか見えない。
「やだ」
や、やだ……?
膨れっ面の先輩が、きっぱりと拒否する。
あーもーかわいいー! さっきから、やだって何ですか? 駄々っ子ですか? 高校生にもなって、やだやだ連発とか……全然ありです。むしろもっと聞きたい。
先輩に、やだと言われて強く出れない俺。
「本当に観るんですか?」
「うん」
本当は反対だけど……。
「怖くなかったというレビューも、いくつか拝見しました。もしかしたら、亜蘭くんにとっては怖くないかもしれません」
そんなことありえる?
世の中のホラーというホラーは、先輩にとって全て怖いと思うけど。
「文都、俺を信じて」
先輩……本当に、信じて大丈夫ですか?
開始早々、固く目を閉じ、耳を手で押さえる先輩。
ダメだった。
想像通りだよ、いつもと何も変わってないよ。
あの自信は一体……先輩、まだ序盤です。
靴を脱いだ先輩が、体を硬直させて座席の上で膝を抱えている。
こんなに緊張してたら、疲れちゃうだろうな……。
「先輩」
耳元でそっと声をかける。
「っ!?」
びっくりした先輩が激しく体を揺らした。
「あ……すみません……」
「……」
ああ、今にも泣き出しそう。
バッグから取り出したイヤホンを、先輩の耳に付け、背中から腕を回し、頭を肩に寄りかからせる。
ジェスチャーで、寝ちゃってくださいと伝える。
分かるかな?
うまく伝わったのか、先輩が俺の肩に頭を預けて目を閉じた。
子供を寝かしつけるように、先輩の頭をやさしくポンポンする。
先輩が安心してくれるなら、後で希惟さんに殺されようと……。
俺は、ホラー映画より希惟さんの方が怖い。
「弾圧された歴史にホラーというフィクションを合わせた、興味深い作品でした。権力支配の恐ろしさを感じます」
「実際にあった話ですか?」
「史実を元にしたフィクションです」
やはり、一番怖いのはリアルということですね?
映画の話で盛り上がる俺に、先輩がそっとイヤホンを差し出す。
「これ、ありがとう」
「いえ、全然」
ああ、先輩がばつが悪い顔をしている……。
余計なことは言わず、そっとしておいてあげよう……。
鬼ちゃんさんが、俺にぴったりと寄り添って、
「怖かったですか?」と聞く。
うわー……空気読んでー……。
「甲斐文都さん、俺と君が、いかに気が合うか今日一日で分かってしまいましたね。大人の恋愛をする気になりましたか?」
仕組まれた一日だったようにも思えます。
鬼ちゃんさんが、先輩に見せつけるように、俺の手を握った。
「あの……?」
「手を触れてもいいと言うことだったので」
俺の意思は……?
「触らないで」
「は……はい!」
手を握ったのは俺ではないのに、先輩の冷たい声を聞いて、反射的に鬼ちゃんさんと距離を取る。
はっ……先輩の肩が震えている……。
もしかして、また回し蹴りを……?
緊張する俺の袖を、先輩が弱々しく引いた。
「グスッ……」
先輩の目から、大粒の涙がポロポロと溢れる。
「な!?」
泣いちゃった!?
頬を伝う涙が、希少な宝石のように思えてくる。
先輩の美しい泣き顔に、動揺が隠せない。
「先輩!? 大丈夫ですか? 映画が怖かったですか?」
止むことを忘れた雨のように、先輩の涙が溢れ落ちる。
「ああ……泣かないで……」
水溜まりができそう……。
「やっぱり、無理……我慢できない。俺、お前が他の人とイチャイチャしてるの、やだ」
イチャイチャ?
「もう浮気しないで」
もうっていうか、してない。
「大人の恋愛もしないで」
その話題は俺の方がやめてほしい。
「先輩、俺はずっと先輩一筋ですよ? 鬼ちゃんさんとも、二人で会ったりしませんから……」
抱きしめた先輩が、俺の胸ですすり泣く。
「俺が、やきもち妬いても、嫌いにならないで」
「え……? 嫌いに?」
「やきもちも度が過ぎると嫌われるって聞いたから……過剰なスキンシップも嫌われるって。お前、嫌だった? 俺のこと……嫌い?」
まさか、それでスキンシップしないとか、手が触れても気にしないとか言ってたんですか……?
先輩が、涙でびしょ濡れになった顔を上げる。
かっ……ウワァーン何で泣いてるのに、そんなにかわいいの!?
両手で顔を押さえて天を仰ぐ。
「……嫌いじゃないです」
むしろ好きです。大好きです。
俺に嫌われると思って、頑張ってたってことですか……? これは夢? 俺、生きてる? こんな事になるなんて、鬼ちゃんさんに感謝するべき?
「亜蘭くんは元々、感情を出す子ではなかったので、こんなに泣いたり怒ったりする姿を見るのは新鮮です」
え? そうなの?
俺の前では大抵、喜怒哀楽爆発してますけど。
「亜蘭くん、俺の前でも、そうやって甲斐文都さんにだけ許す、自然体の亜蘭くんでいてくださいね。今まで素直になれなかった分、俺や社長、ご家族に、たくさん甘えてください」
もしかして鬼ちゃんさん、それが目的で……?
ていうか、鬼ちゃんさんおいくつなの?
まるで孫を見るような目……。
「鬼ケ原さん……」
先輩、良かったですね。
これから鬼ちゃんさんとのわだかまりが解けて。
「いや、鬼ケ原伊織! 俺がお前に甘えるわけないだろ! 俺のものに手を出しておきながら、よくも……!」
「おや、少し遅れてやってきた反抗期でしょうか。亜蘭くんの成長が嬉しいです。社長にも報告しておきましょう」
先輩の反抗期を祝って、ご馳走とケーキとプレゼントを並べる、希惟さんと鬼ちゃんさんの未来が見える。
やめてあげて……。
先輩の口にポップコーンを運ぶ。
「ご機嫌が直ってよかったです」
「鬼ケ原伊織に、二人きりで会わないって約束させたからな」
先輩? 俺も、二人で会いませんって言いましたけど……。
あれ? 信用されてないのかな……?
「二人きりでは会いませんよ」
「……は?」
「甲斐文都さんとのデートなら、俺は他に何人いても構いません」
「なっ……!?」
「ふふっ、今日は楽しい一日になりました」
先輩は、一生鬼ちゃんさんに敵わない気がする……。




