第五十六話 豚バラ大根
本日は土曜日、時刻は11時。
俺は今、先輩の家のスタイリッシュなキッチンで、手を洗っている。
電話で、
「お前、明日うちに来い」と先輩が俺を呼び出したのは昨夜のこと。
近所にある老舗洋菓子店の、アーモンドケーキを手土産に持参した俺を、先輩はエプロン姿で出迎え、
「今日は、お前に料理を教える」と言った。
「何を作るんですか?」
冷蔵庫から先輩が大根を取り出す。
「豚バラ大根と、ほうれん草の胡麻和えと、お吸い物。ご飯はセットしてあるから」
「……」
目があったまま沈黙する俺に、先輩が眉間を寄せる。
「何?」
「いや、先輩ってパスタとか作りそうなのに、しっかり和の献立だなぁと思って」
意外です。この間の漬物もそうでしたけど。
「俺、よく作るのご飯に合うものばっかりかも。嫌だった?」
「大好きです」
何がって、豚バラ大根とか胡麻和えとか作ろうと思う先輩が言葉に表せないくらい大好きです。オシャレじゃなくて家庭的な所が、むしろ尊いというか、かわいいというか、愛しいというか、俺のツボをピンポイントで撃ち抜いてくる感じが、すごく……。
「なら、ぼさっとしてないで手動かせ」
「あ、はい」
先輩が、大根を使う分だけ切り分け、皮を剥く。
「大根は、ちゃんと下茹でした方がおいしいから」
この間も思ったけど、料理してる先輩、やっぱりきれいだな。
「はい、これくらいに切って」
突然の指示にまじろぐ。
「何? 難しい?」
「すみません。先輩に見惚れていて手元を見ていませんでした」
「俺は! お前に! 料理を教えている!」
「わ、分かってます! ありがとうございます! 包丁を俺に向けないで下さい!」
先輩が、大根を2㎝くらいの半月切りにする。
それを真似て切っていく。
「先輩、料理は誰から教わったんですか?」
「ハウスキーパーさん」
「先輩はいつも素敵ですけど、料理してると特に輝いて見えますね」
「……」
もの言いたげな目が向けられる。
「手、手は動かしてます!」
先輩はため息を吐き、
「料理は好き」と言った。
え……なんですか、それもーかわ……。
「お前、いちいち止まるな。イライラする」
「はい、すみません」
「想像と見切り発車で料理するな。思いつきで味付けするのは慣れてからにしろ。もっと食材に対して敬意を払え。あとお前は、まず包丁の使い方が恐い」
嵐のようなご指摘。
「は、はい。精進します」
落し蓋をした鍋からグツグツと音がして、湯気と共に食欲をそそるニオイが漂う。
「すっごくいいニオイですね」
「あと少し煮詰めたら完成。お吸い物に入れる豆腐のパック開けて」
豆腐のフィルムに包丁を突き立てる。
「あ」
押さえていた手に包丁が当たり、人差し指が浅く切れて血が滴った。
「え? 切ったの?」
「はい……」
「お前……包丁苦手なんだから普通に手で開ければいいだろ」
怪訝な顔で文句を言いながら、まるで、それが自然な流れかのように、先輩が俺の血の滴る指を咥えた。
「……」
「……」
不意打ちでキスをされた時のように、全身が熱くなる。
「あ……ごめん。つい」
名残惜しそうに指から口を離し、先輩が艶っぽい吐息を吐いた。
「あの……もう少しだけ、舐めちゃダメ?」
先輩が気まずそうに俯いて、俺に問いかける。
「こ、こんなもので良ければ、どうぞ」
「じゃあ、遠慮なく」
久しぶりのご馳走を味わうように、先輩が俺の血を舐める。傷に舌が触れる度、指先がヒリヒリと痛むけれど、どちらかと言えば俺の方が先輩によからぬ事をしているような気になってくる。
「いただきます」
味が染み染みの豚バラ大根は、大根がトロトロで、ほかほかの白いご飯が進む。ほうれん草の胡麻和えやお吸い物も、丁度いい引き立て役になってくれている。
「めちゃめちゃおいしいです」
「よかった。俺もおいしかった」
「……」
絆創膏の貼られた人差し指に視線を落とすと、先ほどの光景が蘇ってきて、何となく気まずさを感じる。
何故か俺の方が恥ずかしい……。
「触れてほしいって変な意味じゃないから、誤解しないで」
「え?」
突然の話題に付いていけずに、思わず聞き返すと、先輩は俺の困惑をよそに話を続けた。
「吸血鬼は、絶対浮気なんてしない」
「は、はい……」
え? 本当に何の話だろう。
戸惑う俺を置いてきぼりにして、先輩は淡々と語る。
「独占欲が強いから」
「なるほど」
「離れていると誰かに取られるかもしれないと不安になるし、他の人と二人きりでいるだけで嫉妬する。自分が一番じゃないと嫌だし、スキンシップもかなり激しい」
え、何それかわいい。
「だから、血が欲しいと伝えた相手が、他の吸血鬼に血を吸われたいとか言ったり、誰だか知らない奴と二人で写真を撮ったり、ましてキスなんてしたら……」
「したら……?」
これから死刑を言い渡そうとしているような重苦しい空気に、緊張感が高まる。
ゴクリ。
「いっそ首を噛み切ってやりたいと思う」
背筋に悪寒が走る。
「先輩、ほぼ事実ではない心当たりのある話なんですが」
「ほぼ?」
俺に向けられた宝石のような瞳がギラリと光る。
「これはもしや最後の晩餐ですか……?」
先輩が深いため息を吐く。
「だけどそんな事できないから、せめて傷つけた分、触れてほしい。手を繋いだり、肩に寄りかかったり、何でもいいから近くに存在を感じていたい」
眉を下げて、顔を傾けた先輩が、
「俺って面倒くさい?」と聞いた。




