第五十五話 キュンとさせて
「こんにちは、甲斐文都さん」
カレーを食べた次の日。
学校帰りに、スーパーで買った鍋の材料を下げて帰宅した俺を、鬼ちゃんさんが玄関先で迎えた。見慣れない車が家の前に止まっている。
「こ……こんにちは」
遭遇してはいけない人と遭遇してしまった。
「ふふ、警戒しなくても大丈夫ですよ」
「今日はどのようなご用件で?」
鬼ちゃんさんが流し目を俺に送る。色気のある瞳がキラリと光って見えた。
「俺とデートしましょう」
「行きませんよ」
この人のペースに乗せられてはいけない。
「今日は兄に鍋を作らないといけないので」
「その必要はありませんよ。甲斐公都さんは社長が拉致しました」
拉致……?
「お食事をされてからのご帰宅になります。社長から、気を遣うことのない店をとの事でしたので、ドレスコードなしでカジュアルに楽しめるフレンチをセレクトしました」
そもそもドレスコードに縁がないというのに。
「じゃあ俺は家で一人鍋でもしますので」
玄関のドアノブに手をかける。
「実をいうと、不治の病にかかっているんです」
「……」
「でまかせを言っているのではと思っている、違いますか?」
鬼ちゃんさんが深いため息を吐く。
「とても恐ろしい病気です。アドレナリン、ノルエピネフリン、ドーパミン等の化学物質が脳にあふれかえり、心拍数が上がり
、食欲も低下し、やがてオキシトシンやバソプレシン等のホルモンが活性化し始めます」
何かすごそう……結局何が起こるのかは分からないけど。
「甲斐文都さん、人助けだと思って付いてきてくれませんか?」
日が落ちるのがすっかり早くなった。
墨汁の様な空の下を、ショーウィンドウや街灯が明るく照らしている。クリスマスはまだ先だというのに、早くも色めき立っているように、街を彩るイルミネーションが車窓に流れる。
付いてきてしまった……。
運転席でハンドルを握る鬼ちゃんさんを横目で見る。
「今日はスーツじゃないんですね」
ブロックチェックのパンツに膝丈のコート、ベージュのマフラー。全身をアースカラーでまとめている。大人っぽいけど、かわいい。
「惚れましたか?」
「惚れません」
「君は制服を着ていないと大人っぽく見えますね」
「それは嬉しいです」
「早く大人になりたいですか?」
「そうですね」
俺は先輩に頼られる男になりたいので。
「大丈夫です、ゆっくり大人になって下さい。君が成人するまで待ちますよ」
「何を待つんですか……」
鬼ちゃんさんが、一つ一つ向き合って会話をするように、展示された作品を鑑賞している。
連れてこられた場所は美術館だった。
なぜ……。
この人の行動が全く読めないんだけど。もうかれこれ1時間、俺そっちのけで一人で楽しんでるし。
壁にかけられた作品たちが、静かな息遣いで俺たちの様子を伺っているようにも思える。
「退屈ですか?」
「正直、よく分からないですけど。嫌いではないです」
どういう楽しみ方をすればいいのかが、分からないのかもしれない。
「君の素直な所に好感が持てます。絵に込められた意味を知ると、もっと楽しめるかもしれませんね」
「意味ですか」
「ミレーの落穂拾いという絵はご存知ですね? ほのぼのとした農村の風景を描いたようにも思えますが、旧約聖書のルツ記に基づいた作品で、農民の貧困を訴える政治的プロパガンダとも批評されました。ミレー自身は、あるがままの姿を描き、政治的なメッセージは込めていないと答えているようですが」
「なるほど」
「つまりは、目に見えることが全てではない、という事です」
鬼ちゃんさんが顔を傾けて、にっこりと微笑む。
「お腹が空きましたね。次はご飯を食べに行きましょう」
年季の入った木目のカウンターで、並んで昔ながらの正油ラーメンをすする。冷えた体に温かいスープがしみる。
何なんだこのセレクト。
鬼ちゃんさんってほんと謎だな。
「なぜ美術館とラーメンと思っている、違いますか?」
「うっ」
思考を読まれた。
「俺は、美術館とラーメンが好きです」
「あ、そうなんですね。俺もラーメンは好きです」
「今日は、俺の好きなものを君に知っていただきたいと思いまして。それに美術館とラーメンには共通点があります」
「えっ?」
なぞかけ?
「どちらもキュンとします」
「ほう」
そうかな? まあ感じ方は人それぞれだから。
「甲斐文都さん、俺をキュンとさせて下さい」
鬼ちゃんさんが、湯気で曇ったメガネをハンカチで拭きながら言った。
「何で俺なんですか?」
「さぁ何ででしょう」
鬼ちゃんさんが顔を近づけて、俺の顔を観察する。
近っ。それはメガネを掛けていないせいで見えないからなんですよね!?
「君は、人の意見に流されやすく、目の前の事に惑わされる。人をすぐ信用する上に、自分より他者を優先し、危害を加えられても許してしまう。繊細な受け取り方をするくせに、遠回しな感情表現は伝わらない。はっきり言ってめんどくさいですね」
「すごいボロクソに言いますね」
あれ、この人、俺と恋愛したい的な事言ってなかった?
「そうですね……でも心がきれいだと思います。君は健気だから、君の恋人は幸せになるでしょう。それに、君のやさしさには癒されます」
は?
「ふふ、顔が赤いですよ」
「ラーメンが熱くて!」
鬼ちゃんさんが、俺の手を取って小指を絡める。
「甲斐文都さん、君のおかげで今日は俺の好きなもので満たされた1日になりました。今度は君の好きなものを教えてください。約束ですよ」
鬼ちゃんさんは、そう言って指切りをした。




