第四十九話 チョロすぎる
理人に後ろ襟を掴まれ、思い切り引かれる。その拍子に、俺の後頭部が玄関のドアに打ち付けられ、鈍い痛みが走った。
「あでっ」
「チョロすぎるんだよ、甲斐くん」
え? 今、一体何が起きたの?
「行儀が悪いワンちゃんですね」
「本当は、ウサギさんと甲斐くんのこと応援したいんだけど、先輩がウサギを近づけるなって言うから」
「君は亜蘭くんを好いているのですね。俺と利害関係が一致していると思いますが」
「そうだね。でも俺、ウサギさんの事、気に入らないからなぁ」
玄関に、殺伐とした空気が漂う。
「困りましたね。甲斐文都さんには直接的なアプローチが有効かと思ったのですが、阻まれてしまいました」
「青少年保護育成条例の淫行罪で捕まるんじゃない?」
「賢いワンちゃんですね。確かに同性婚が認められていないかつ、会ってまだ間もない関係上、青少年を単に、自己の性的欲望を満足させるための対象として扱っていると判断される可能性はあるでしょう」
鬼ちゃんさんが、理人に向かって柔らかく微笑む。
「でも、甲斐文都さんが、私を訴える事はないと思いますよ」
「だろうね」
「万が一の時には、介抱の際に誤って唇がぶつかってしまったと言えば、ご納得頂けるのではないでしょうか」
さっきから何の話してるの?
「あの、腹痛は大丈夫なんですか?」
「甲斐くん……。まだ芝居だったって気づかないの?」
「イタタタタ」
鬼ちゃんさんが、その場にしゃがみ込む。
「ソファで横になりますか? 盲腸とかだったらどうしよう……」
「実は月に一回、三日から七日ほど下腹部に痛みが続く体質でして」
「え!? 大変ですね!」
「生理かよ。大変ですね、じゃないよ。甲斐くん、いい加減にして」
ソファに横になり、目を閉じて数分、鬼ちゃんさんは静かに寝息を立て始めた。
「ホッカイロとか貼ってあげた方がいいのかな?」
「甲斐くんのお人好しには付いていけないよ」
「体調が悪い人を放っておけないだろ」
「体調が悪い人ね……。まあいいや、俺も寝るから、ウサギさんが起きたら起こして」
「え?」
理人がクッションを枕にして、ローテーブルの前で横になる。
「甲斐くん、お布団ちょうだい」
こいつは……相変わらず自由人だな……。
寝室から持ってきた布団を理人にそっとかける。反応はない。
もう寝てる? 体調が悪い訳でもないのに、人の家でよく堂々と寝れるよな……。
ソファの側に立ち、鬼ちゃんさんの様子を見る。
何考えてるかよく分からない人だよな。
先輩は俺のことを、全く恋愛対象として見ていないって言ってたっけ。全く……全くか……。そう、なのかな……?
鬼ちゃんさんから言われた事が、鮮明に甦る。
君が逆の立場だったら、好きな人を傷付けたいと思いますか?
鬼ちゃんさんの閉じられていた瞼が、ゆっくりと開かれる。俺と鬼ちゃんさんの視線がぶつかった。
「あ……体調はどうですか?」
ソファから体を起こし、鬼ちゃんさんが、
「おかげさまで、すっかり良くなりました」と笑顔を見せる。
「見苦しいところをお見せして、すみません。これで失礼させていただきますので、甲斐公都さんに快気祝いの事、よろしくお伝え下さい」
「え、あ、はい」
玄関まで鬼ちゃんさんを見送る。
「一度、病院で検査された方がいいですよ」
「君はやさしい子ですね。ああ、そうそう……」
振り向いた鬼ちゃんさんが手を伸ばし、俺の首元に触れた。手の冷たさが伝わってきて、背筋がゾクッとする。
鬼ちゃんさんの顔が近づいて、唇が触れてしまいそうな位置で静止した。
「え……?」
「やっと意識してくれましたね」
首に置かれた手が、俺を離さない。
「これで俺も、君の色恋に参加できますか?」
そ、その位置で話さないでください。
「ふふ、かわいいですね。頑張っている番犬くんが可哀想なので、今日は何もしません」
鬼ちゃんさんが、俺を解放して体を離す。
「またお会いしましょう」
何だったんだ、あの人……。
湯船の中で、夕方のことをおさらいする。
あれから少しして起きた理人は、先輩との約束を守れた事に安堵して帰っていった。
いや、確かに何もなかったけど。なかったけど……? あの人は危険だ。正直もう会いたくない。気づかない内に波にのまれて、深い所まで連れて行かれてしまう、そんな気がする。
「文都〜」
俺を呼びかける兄の声がして、浴室のドアが開かれる。
この家にいる限り、俺のプライバシーが守られる事はない。
「何だよ」
湯船に浸かったまま、乱暴に返事をする。
「お前、今日機嫌悪くない? 夕飯の時も一言も喋らなかったじゃん」
「俺にも色々あるんだわ。で、何?」
「お前にお客さん」
「え? こんな時間に? タイミング悪くない? 誰?」
「亜蘭くん」
兄の後ろから現れた先輩が、決まりの悪い顔をして、
「ごめん、こんな時間に……タイミング悪くて」と言った。




