第四十ニ話 俺から逃げるな
ソファに倒れ込んだ拍子に服が捲れて、俺を誘うように、先輩の白い肌が露出してしまっている。
え……? 誘われてる……?
俺の中の悪魔が、本能に身を任せろと囁く。悪魔の誘惑に従い、身を委ねようとした瞬間、天使が、何か理由があるんじゃない?と訴えた。
「……どうして、急にそんな事を?」
俺の吐息が耳に当たって、先輩が身をよじらせた。
す、すみません。わざとじゃありません。
体を離そうとすると、先輩が、
「俺から逃げるな」と言って引き留める。
え!? な、なんでですか!? 俺のこと試してますか!?
先輩の耳に、俺の口が当たってしまうくらいに体が近い。先輩の鼓膜を傷つけないように、なるべく囁くようにゆっくりと話す。
「文化祭の後から、よく電話をくれますよね? また、先輩を不安にさせてしまいましたか?」
「っ……それは……」
俺の左手を、指を組みように握った先輩の右手に、力が込められる。
「それとも、別な理由ですか? 最近、先輩の態度が、俺に都合が良すぎて、期待してしまいます」
「っ……ん……」
先輩の顎を引き、逸らされていた視線を俺に向ける。先輩の潤んだ瞳が、俺を捉えた。
「先輩? 泣いてるんですか?」
「ち、違うって」
もしかして、怖がらせてる?
「先輩、怖いですか? 体がこわばってます」
服が捲れ、白い肌が露出していた脇腹に触れると、先輩の体がビクッと震えた。
「大丈夫です。俺、先輩の嫌がることはしないです」
「ん……文都……」
「先輩、教えてください。俺のこと、今どう思ってますか? 食欲の対象のままですか?」
「は……早く……」
「え……? は、早く?」
「俺……ずっと、待ってるんだけど……」
「……」
俺は、目を潤ませる先輩の顔に、ゆっくりと顔を近づけた。
「先輩〜……どこ行っちゃったの?」
唇が触れる直前、理人の眠そうな声が聞こえてくる。同時に、リビングに近づいてくる足音も。
「せ、先輩、理人が……」
先輩が、俺の腕を掴み、ソファから立ち上がる事を拒否した。
「え……?」
怒っているような、でも少し甘えるような強い視線を向けられる。
か、かわいい……。じゃなくて、せ、先輩!? 理人が、そこまで来てますよ!?
「うわあぁっ!!」
突然、兄の部屋から響く悲鳴。
今度は何だ……?
バタバタと騒がしい足音が、こちらに向かってくる。
せ、先輩!? な、何か来ます!
先輩が、俺の体を引き寄せる。
柔らかな唇の感触がした。
「俺のことだけ見てろって言っただろ」
「は……はい……」
体が燃えているように熱い。
近づいていた二つの足音が、リビングに到着するのと同時に、先輩は何事もなかったかのように、ソファから立ち上がった。
「先輩? 何でここに? 中々戻ってこないから心配したよ〜……あれ? 甲斐くんのお兄さんまで、なんでいるの?」
兄が、何か、とてつもなく怖いものでも見たような顔をしている。
「か、か、か……」
「か?」
「どうしたの? 甲斐くんのお兄さん? 怖い夢でも見たの?」
「か……噛まれた……」
「え?」
「噛まれたの! 希惟に!」
「……」
「……」
「……」
え? 希惟さんに?
「ほら! ここ!」
兄の首元に、見覚えのある二つの点が。
「あー……あのさ、今更なんだけど、あの人、先輩のお兄さん?」
俺と先輩が揃って頷く。
「今? なんで今、そんなこと聞くの? 理人くんは俺のこと心配じゃないの?」
今だからだよ。
「エーン……俺、お嫁に行けなくなっちゃう」
その程度でそれなら、俺はどうなるんだ。
「私が、公都さんを噛んだ?」
翌朝、一番驚いていたのは希惟さん本人だった。
「覚えてないのかよ……。とんでもない寝相だな。おかげで俺、傷物になっちゃったんだぞ?」
「そ、そんな、今までそんな事一度も……」
「そりゃそうだろ、寝てる間に何回も誰か噛んだら、やばい奴だって」
二人の会話を聞いて、理人が、
「知らないの? 吸血鬼ってこと」と聞く。
「うん。言ったらショックで倒れちゃうんじゃないかな……」
「おもしろいから、そのままにしておこうよ」
「はは……」
希惟さんが、真面目な顔で、
「責任は取ります」と言った。
「そういう冗談は求めてねーんだわ」
理人が、コーンスープを混ぜながら、
「ところで、昨日、先輩と何してたの?」と聞いた。
「……」
「俺、先輩が中々帰ってこないから心配になっちゃって」
「……」
「え……? 甲斐くん? 顔、真っ赤だけど……。湯気出てるよ?」
「き、気にしないで」
「そういえば、亜蘭くんもリビングにいたよね。何かあったの?」
先輩は、他人事のように、
「さぁ」と言った。




