第三十話 余裕で寝返り
時が止まってしまったみたいに、先輩が動きを止めたまま、俺を見つめている。
静止している先輩、きれいだな……。
「……」
「……」
あれ? 本当に時が止まった?
「先輩?」
紆余曲折あり、苦難を乗り越えた二人がようやく結ばれた時のように、先輩が俺を抱きしめた。
「うれしい……。まさか、お前の方からそう言ってくれるなんて……。信じられない」
な、なんか思っていた反応と違う……。想像以上に喜んでいただいているような……。
「お前がいなかったら俺はいないよ」
あれ? いただきますの話ですよね?
プロポーズみたいに聞こえるのは、俺の願望のせいなのかな?
「ついて来て」
俺という椅子から降りた先輩が、花が咲くような笑顔で俺の手を引いた。
「どこに連れて行ってくれるんですか?」
先輩につられて、微笑んでしまう。
「俺のベッドルーム。こんな所で奪えないよ」
俺の時が止まった。
四人でも余裕で寝返りの打てる広いベッド。真っ白な肌触りのいいリネンに、思わずうっとりとしてしまう、いい香りが漂う。
眠りを誘うような明るさの下、ベッドの上で先輩が、俺の着ているTシャツを脱がせた。
「緊張してる?」
いや、何を奪われるんだ俺は。
「怖くない?」
先輩が、俺の背中に腕をまわして、肩に顎を乗せる。
「は……はい」
いや、やっぱり怖いです。今から何が行われるのか分からなくて。
「大丈夫、やさしくするから」
そう言って、先輩は俺の太腿に手を置き、首元にキスをした。
「ちょっとだけ痛いけど、我慢できる?」
何が始まろうとしているのかは分からないけれど、先輩に、大切なものを扱うようにやさしくされていることが伝わってきて、くすぐったい気持ちになる。
「怖くないよ」
首元に舌が這う感覚がした後で、わずかな痛みが、そこに刺した。初めて血を吸われた時よりも、小指を噛まれた時よりも、ずっとやさしい痛みだ。
奪われたのが血で、ほっと胸を撫で下ろす俺に、先輩が、
「そんなに怖かった? ……ごめん」と申し訳なさそうに謝る。
「い、いや、痛くなくてびっくりしました」
先輩は、ほっとした表情を顔に浮かべると、俺の首元に口づけして、血を吸った。
規則的にやさしく吸われる感覚が続く。
「先輩、すごい……。全く痛くない、むしろ気持ちいいくらいです」
俺がそう言うと、先輩が唇を離し、恥ずかしそうに俯いた。
「恥ずかしいから……やめて」
え……か、か、かわっ……かわ、可愛すぎませんか?
「もうちょっとだけ、吸っていい?」
コテンッと首を傾けて、先輩がおねだりをする。
ワアアアアアアアア!
も、もう、無理です……かわいいの容量オーバーで死にます……。
返事をする余裕はないので、激しく頷いて快諾する。
「おかわり〜」
語尾にハートマークを感じる先輩の上機嫌が尊い。
「俺の血ってどんな味なんですか?」
鉄錆みたいな?
「フルーティーだけど、甘ったるくなくて爽やかな感じ」
グレープフルーツかな?
「そういえば……」
再び、俺の首元に唇を寄せた先輩に、この間、理人がうちに来た時のことを話し始める。
兄にも釘を刺されたし、こういう事は早めに言わないと。
「この間、うちに来た事なんですけど」
「何が? 誰が?」
「先輩の嫌いな人が、うちに来た事です」
「は?」
今、まさに口をつけようとした先輩が、口を開けたまま固まる。
「突然来たので、俺も帰そうとしたんですけど、ぐいぐい家に入られて、ちょっとお高いアイスも頂いてしまったので、お茶を出しました。言っておかないと先輩に申し訳なくて。こんなタイミングですみません」
「……」
あれ? 何か急に寒くなってきたな。
兄の話だと、先輩は知っている風だったのに、先輩、初めて聞いた顔してるし。
「何話したの?」
うーん……。吸血鬼ハンターの話したら、せっかく落ち着いた先輩がまた怖がっちゃうかもしれない。
「血の話とか、恋の話とか……」
「それから?」
「それから、ちょっと色々ありまして、タクシーでホテル併設のダイニングバーに行って、夜の街を歩きました」
「は!? お前、誘われて、のこのこついて行ったの!?」
「いや、それは事情があって。誘われたというか、誘われなくても、むしろ俺が行ったというか……」
「は……?」
あれ? もしかして、先輩、イライラしてる?
「血の話と恋の話って……まさか、血を吸いたいって?」
「はは、先輩、逆です、逆。吸われてみたいって話です」
血を吸いたいだと、理人が吸血鬼みたいですよ。かわいいなぁ先輩は。
「……」
俯いた先輩が肩を揺らしている。
「先輩?」
先輩が俺の首元に勢いよく噛み付いた。雷に打たれたような衝撃が走る。
「い゛っっ!? 痛っ!? い、いた、痛いです! 先輩!」
さっきまでのやさしさはどこへ?
「俺にあんな事言っておきながら……。よくも……、この浮気野郎……!」
先輩が地獄の裁判官みたいな声に。
え? ところで、それ、俺の事ですか?
「う、浮気って何ですか!? 俺、浮気なんてしません!」
「うるせー……。俺を裏切りやがって……」
理人を家に上げた事が、そんなに嫌だったなんて……。
「せ、先輩……本当にごめんなさい。先輩を傷つけるつもりは全くなかったんです。もう二度と、家に上げたりしません」
「じゃあ、もう会わないって約束してくれる?」
「いや……それは、難しいですよね……」
同じクラスだから。
先輩が望むなら、俺はそうしたいですけど。
先輩がふかふかの枕を俺に押し当てる。
うわっすごい、何だこのふかふか……。この世にこんなふかふかあるの?
「くっ、苦し……息が……」
し、死ぬ。ふかふかに殺される。
「お前、ベッドで他の男の話するのは最低なんだぞ! よりによって、お前が好きな、俺の兄の話をするなんて! しかもちょっと……お互い、いい感じになってるし!」
先輩が何かを言っている気がするけれど、枕のせいで、よく聞こえない。
俺は初めて血を吸われた時と同じように、意識を失った。




