第二十二話 痛いんじゃなくて
「何してた?」
兄と磯遊びから戻ってきた先輩は、部屋に入るなり、そう聞いた。
「二人で何してた?」
「ええと……」
希惟さんに口止めされてるから……。
「俺に言えないようなことしてたのか?」
わぁ、先輩のきれいなお顔が、極悪犯を追い詰める刑事のような表情に。
「ずっとバルコニーで先輩を見てましたよ」
「ふーん?」
兄がゾッとした顔で、
「亜蘭くんを監視してたんだな」と呟く。
おい、俺が監視してたのはお前の方だよ。
先輩とイチャイチャしやがって。 そのままお前だけ海に流されないか、期待しながら見てたわ。
「暑くなかったか?」
希惟さんが、先輩の頭に手を置いた。
「小さい頃は、よく体調を崩していたのに……。丈夫になったな」
今、やさしい空気がここにある。見えないけれど、確かに。思わず顔が綻んでしまうような……。
先輩が、チベットスナギツネみたいな顔で希惟さんを見ている。
先輩、なんて顔してるんですか! 希惟さんのやさしさ、1ミリも響いてないじゃないですか!
「さてと、汗かいたし、ご飯の前にみんなでお風呂いこーぜ」
浴衣を持ち、いそいそと大浴場に行く準備を始める兄に、希惟さんは、
「私は部屋のシャワーで大丈夫です」と言った。
「え? 何で? 生理?」
「おい、口を慎めバカ兄貴」
「だってここ、露天風呂あるんだぞ?」
何かを察した兄の顔が、不快な表情に変わる。
「上流階級には物珍しくないから遠慮するってか? このやろー嫌味な奴め」
「おい!」
兄の脇腹に拳を入れ、耳打ちする。
「希惟さん、今日中に終わらせないといけない仕事があるみたいで、さっきまで仕事してたんだよ。旅行中に仕事してる所、先輩には知られたくないみたいだし、夕飯は一緒に食べたいからって」
「あー……なるほど」
兄がため息をついて、
「まあ、あんなかわいい弟がいたら、カッコつけたいよな」と言った。
「俺、何か出来ることないか聞いてみるから、二人でお風呂行ってこいよ」
「逆に邪魔になるんじゃ……」
「俺のこと、何年社会人やってると思ってるんだ? そんな事より、お風呂で亜蘭くんにエッチなことするんじゃないぞ?」
「殺すぞ」
お前こそ俺を何だと思ってるんだ。
兄に不安を残しつつ、先輩と二人で大浴場に向かう。
タイミングよく、空いている時間にあたったようで、広々とした脱衣場には俺と先輩しかいない。
Tシャツを脱いで、ロッカーの中に入れる。
「あ、先輩、100円ありますか? よかったら俺の使ってくださ……」
目に飛び込んでくる、先輩の、裸。
「あるからいい」
いや、当たり前なんだけど! お風呂だから当たり前なんだけど! うわー何で俺、今の今まで気づかなかったんだろ。
思わずタオルで顔を覆う。
お風呂に入る前から、全身が真っ赤になっている気がする。
「入らないの?」
「さっ、先にどうぞ」
「俺、のぼせるのやだから早く入ってこいよ」
先輩が大浴場に入ると、俺はロッカーの前でしゃがみ込んだ。
これは、人生最大のピンチだ。
大浴場に入ると、先輩は風呂椅子に座り、髪を流している所だった。
お湯が滴る髪の間から、先輩がこちらを窺う。
う、美しい……。
先輩、今の一瞬を映像に残せたら、そのままシャンプーのコマーシャルに出来ますよ。いや、やっぱり出来ません。先輩の体が公衆の面前に触れるなんて、絶対ダメです。
なるべく先輩を見ないようにしつつ、髪と体を高速で洗う。
余計な事を考えるな文都。他の事を考えろ。他の事、他の事……。
浴場と欲情って似てるよな。
おい……! しっかりしろ俺ー……!
露天風呂に先輩と浸かり、海を眺める。
波の音が心を穏やかに……。穏やかにしてください……。
全力疾走後かっていうくらい、心臓の音がうるさい。
「あのさ……前聞いた、お前の好きなタイプの事なんだけど」
はい、前聞いた、俺の……?
すみません。正直、話を聞く余裕がなくて、内容が頭に入ってきません。
「お前、気になってる人がいるんだろ?」
ちょっと待って。本当に何の話だ?
「俺に、血を吸っていいって言ったくせに……。他の奴のこと、気にしたりするなよ」
先輩、顔が赤いのは、温泉のせいですか?
「ご、誤解です!」
「誤解? じゃあ、気になってる人はいないって事?」
「気になる人というか……」
これはもう、言うしかない。
「好きな人がいます」
先輩が目を見張る。
「だ、誰……?」
「それは……」
ふいに脳内に訪れる、兄の忠告。
お風呂で亜蘭くんにエッチなことするんじゃないぞ?
おい! 何でこのタイミングで、お前の妄言を思い出さなきゃいけないんだ!
「まさかそこまで言っておいて、俺に秘密にするつもりじゃないだろうな?」
「違います! 今、兄の亡霊が俺の脳内を彷徨って、俺に妄言を……! 俺は先輩に対して、そのような事はとても考えていな……」
「は!? お前が俺に対して、そんな事は考えていないって!?」
「えええ!? 何で怒ってるんですか? ていうか先輩、近いです!」
目のやり場に困ります!
「ごまかすな! 早く言え、お前の好きな人! それとも俺に言えないような奴なのか?」
俺に掴みかかる勢いの先輩が、足を滑らせてバランスを崩す。
その拍子に、湯船に注がれている熱い温泉が、先輩の背中にかかってしまった。
「熱っ」
「先輩!? 大丈夫ですか!?」
先輩の二の腕を掴み、背中を確認する。白く透き通るような肌に、赤みはない。
「大丈夫だって。俺すぐ治るって言っただろ」
「だけど、熱かったですよね?」
お湯が当たったであろう場所に、そっと指を触れると、先輩の体がビクッと跳ねた。
「ちょっと、もう大丈夫だって」
「本当に、痛くないですか?」
肌に触れるか触れないかの位置で、背中をそっと指でなぞる。
「んっ……、も……もう、やめろって」
「だって先輩、痛そうじゃないですか!」
「痛いんじゃなくて……っ」
痛いんじゃなくて?
先輩の耳が赤い。
「あんまり見ないで……。恥ずかしい」
体中の血液が沸騰してしまったみたいに熱い。
欠点のない先輩の、弱点を知ってしまった。




