第十七話 怖かったですか?
先輩が、俺に弱々しく腕を伸ばした。
「これ取って、気分悪い」
先輩の薬指で、槌目の付いた3mm幅くらいのリングが目障りに光った。
引き抜かれて、指輪がスムーズに指を離れる。
指輪のサイズ、ぴったりだった……。
あいつやっぱりヤンデレサイコパス野郎じゃん。
「先輩、大丈夫ですか?」
腰を下ろして覗き込むと、先輩が青白い顔で眉間に皺を寄せていた。
「気持ち悪い……吐きそう……」
膝を抱えて、身を縮める先輩の背中をさする。
「怖かったですか?」
「おい……俺があいつを怖がるわけないだろ」
先輩が強がりを言っているのが分かって、胸が痛い。
「先輩、背中に乗って下さい」
先輩に向けた背中に、体重が預けられる。
背中に担いだ先輩が、俺の首に腕を回した。
俺に触れた手が、夏だというのに氷に触れたように冷たい。
先輩、今、どんな顔してますか?
やっぱり、食欲の対象でいるのは嫌です。
俺は、こういう時に、先輩を正面から抱きしめる権利が欲しい。
次の日の夕方。
「文都ー。ラーメン食べに行かない?」
兄が呑気な声で俺を誘う。
普段ならバイト帰りの先輩を迎えに行く時間だけど、今日は、迎えはいらないと言われてしまったから特に予定はない。
昨日、あんなことがあったから、それでも行きますと言ったものの、絶対来るなと怒られてしまった。
先輩、俺はそんなに頼りないですか?
「一人で行けば?」
「なんだよー給料入ったから奢ってやろうと思って言ったのに。ほら、ここの店、すごい人気店なんだって!」
兄が差し出したスマホの画面には、先輩のバイト先近くの住所が載っていた。
そういえば、いつも人が並んでるラーメン屋さんがあったな。
「行く」
「よし! 行こ行こ。早くしないと並んじゃうよー! もう並んでるかも!」
俺達がラーメン屋さんに着くと、入り口の所で4、5人のお客さんが並んでいた。最後尾に並ぶと、またすぐに後ろに列が伸びる。
先輩のバイト先とは目と鼻の先で、昨日色々あった場所が目に入って苦い思いになる。
「何食べようかなー」
その時、俺達の列の前を、一台の車が横切った。
それを見た兄が、感嘆の声を上げる。
「高級車じゃん! かっけー……乗ってみたーい!」
庶民には、とても手が届かないものに憧れの目を向けていると、車は先輩のバイト先の前で路駐した。
運転席から、長身のサングラスをかけた金髪の男が出てくる。
上質さを感じるスーツが、スタイルの良さを引き立てて、明らかに一般人ではないオーラを漂わせている。
「怪しくない? 何の仕事してる人? この暑い中、よく涼しい顔でスーツ着れるな」
そう言って、ヨレヨレのTシャツにステテコを着た兄が笑う。
お前は、本当にオン、オフの差が激しいな。
いいのか、その格好で。それで外歩いて、お前の尊厳は大丈夫か?
兄が言った通り、日中よりは暑さが落ち着いたものの、アスファルトに残る熱が、留まり続けている。
そんな中、ラーメンを食べる為に行列に並ぶ俺達もどうかと思うけど。
「あれ? ていうかあれ、亜蘭くんじゃん?」
俺達の視線の先で、バイト先から出てきた先輩が、男の車の助手席に乗った。
その時、俺は忘れていた事を思い出した。
「食事」
「ん?」
先輩のカレンダーにあった予定、食事。色々あって忘れてたけど。
「タクシー! へいタクシー!」
ちょうどタイミングよく通りかかったタクシーを捕まえ、兄の腕を掴み強引に連行する。
「ちょっ!? ラーメンは?」
「すみません、あの高級車を追ってください」
「はぁ!?」
俺の隣で、兄が素っ頓狂な声を出した。
タクシーの運転手が、
「一度こういうのやってみたかったんだよね」と言って車を出す。
走る事、十数分。
「文都、あの車、高速とか乗らないよね?」
兄が料金メーターに怯えはじめた頃、車は停まった。
ホテル併設のダイニングバーに二人は入る。
全面ガラス張りで、個性的な照明が放つ華やかな灯りが、夜の街を彩っている。
テラス席に座り、店内に座る二人の様子を窺っていると、兄が、
「この店、サラダで1,800円するんだけど……」と狼狽えた。
その格好で、よくこの店OKしてくれたな。
顔? 顔がいいから?
「お前さ、亜蘭くんに干渉しすぎるなって言っただろ」
「それは分かってるけど、先輩、ヤバい奴から好かれたりしてるから。どう見ても怪しい大人だし。兄貴だって、あの人が車から降りた時、怪しいって言ってただろ?」
「まあ確かに……。亜蘭くんの対応もよそよそしい気がするし」
「何話してるんだろう……」
兄が女性店員を呼ぶ。
兄は、その手を握り、
「あそこのテーブルの会話を教えていただけたら嬉しいのですが」と言った。
女性店員の顔がバラ色に染まる。
ほら、やっぱり顔。
こいつ、顔だけはいいんだよな。顔だけは。
数分後、戻ってきた女性店員はこう言った。
「背の高い方のお声しか聞けませんでしたが、美しい容姿は獲物を惹きつけるためにあると仰ったのと、部屋に行こうとお話されていました」
ここはホテル併設のダイニングバー。
「アウトー! アウトだよ文都! 亜蘭くん、悪い大人にイタズラされちゃうよ!」
その時だった。
「文都とお兄さん?」
店を出た先輩と怪しい男が、こちらを見ている。
サングラスを取った怪しい男が、金色の目で俺達を一瞥し、
「卑しい人間め」と言った。




