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美少女魔法戦士マジカルラブ  作者: 宮本あい
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8/9

屋上のお弁当とミレニアム王国

昼休み。

お弁当を広げる屋上には、いつもどおりの風と笑い声があった。

けれど、あい、美咲、由香里の三人にとって、その昼休みはもう、ただの休み時間ではなくなっていた。

由香里が鶴岡先生から聞いた、謎の王国の話。

魔法戦士やパートナー猫と、その王国との関わり。

そして、自分たちの中にあるという、まだ正体のわからない資質。

少しずつ変わっていく日常の中で、三人は同じテーブルを囲みながら、自分たちが立つ場所を確かめていく。

そんな中、校舎の片隅――普段はほとんど使われない非常階段に、黒い影が忍び寄る。

三人の魔法戦士が、初めて最初から力を合わせて挑む戦いが始まる。


◆ 昼休みの由香里


昼休みを知らせるチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。

椅子を引く音が重なり、あちこちで弁当箱の包みが開かれる。購買へ急ぐ生徒たちが教室を出ていき、残った生徒たちは机を寄せ始めていた。

けれど、あいはすぐに弁当を出す気にはなれなかった。

右隣の席は、ずっと空いたままだった。

朝、そこに座っていた由香里の顔色が、少しずつ悪くなっていったことを思い出す。

周囲にまとわりついていた黒霧。

静かな廊下。

保健室の白いカーテン。

そして――淡い香りの光に包まれ、マジカル・アロマへ変身した由香里の姿。

あいは机の横に掛けた弁当袋へ手を伸ばしかけ、また止めた。

「由香里、大丈夫かな」

美咲が椅子を後ろへ向け、小さな声で言った。

「鶴岡先生が見てくれてるから、大丈夫だと思うけど……」

「うん……」

そう答えながらも、あいの胸には落ち着かないものが残っていた。

妖魔は倒した。

黒霧も消えた。

けれど、由香里が受けた疲れまで、すぐになくなるわけではない。

「お昼になっても戻ってこなかったら、私たちから保健室に――」

あいが言いかけた時、教室の扉が開いた。

「あい、美咲」

聞き慣れた声に、二人は同時に振り返った。

扉の前に、由香里が立っていた。

「由香里ちゃん……!」

「あ、由香里!」

あいと美咲が立ち上がる。

由香里の顔色は、朝よりずっと戻っていた。

いつもの穏やかな表情もある。

それでも、完全に元どおりというわけではなかった。

歩く速度はいつもより少しゆっくりで、机へ近づいてくる間にも、時折呼吸を確かめるように小さく息をついている。

「もう大丈夫なの?」

あいが尋ねると、由香里は微笑んだ。

「うん。鶴岡先生にも、無理をしなければ教室に戻っていいって言ってもらえたの」

「ほんとに無理してない?」

美咲が由香里の顔をのぞき込む。

「少し疲れてはいるけど、大丈夫。ずっと寝ていたら、かえっていろいろ考えすぎちゃいそうだったから」

由香里はそう言って、自分の席へ鞄を置いた。

その動きを見て、あいはほっと息をつく。

声も、表情も、いつもの由香里だ。

けれど、もう昨日までとまったく同じではない。

由香里の足元には、今は姿を見せていないネロリの気配があるように感じられた。

そして、由香里自身も、今朝まで知らなかった秘密を抱えている。

同じ魔法戦士として。

「由香里ちゃん」

「なに?」

「その……さっきのこと、あとでちゃんと話そうね」

あいが言うと、由香里の瞳がわずかに揺れた。

「うん。私も、二人に話したいことがあるの」

「鶴岡先生から何か聞いたの?」

美咲が声を落とす。

由香里は教室の周囲へ目を向けた。

近くでは、クラスメイトたちが机を寄せ、弁当のおかずについて楽しそうに話している。

こちらを気にしている様子はない。

それでも、由香里は小さく首を横に振った。

「ここでは、少し話しにくいかな」

「じゃあ、屋上に行く?」

美咲がすぐに提案した。

「お弁当、三人で食べようよ。外なら、教室よりは話しやすいし」

「うん。私もそれがいいと思う」

あいも頷く。

由香里は少し迷ったあと、やわらかく微笑んだ。

「ありがとう。じゃあ、そうしようかな」

その時だった。

美咲が、由香里の制服姿を見て、不意に目を瞬かせた。

「あれ?」

「どうしたの?」

「由香里、そのスカート……」

美咲の視線につられて、あいも由香里の膝元を見る。

そして、ようやく気づいた。

いつもの由香里のスカートは、膝上五センチほどの落ち着いた丈だった。

けれど、今は明らかにそれより短くなっている。

見慣れた緑と紺のチェック柄。

同じ制服のはずなのに、膝の上に見える範囲がずっと広い。

あいが今朝、何度も意識していた丈と、ほとんど同じだった。

「由香里ちゃんも……十五センチくらい?」

あいが思わず尋ねると、由香里の頬がみるみる赤くなった。

「やっぱり、すぐわかる?」

「う、うん。私も今朝から同じくらいだから……」

あいは答えながら、自分まで恥ずかしくなってくる。

由香里は両手でスカートの前をそっと整えた。

「保健室で休んでいる間に、鶴岡先生から言われたの。変身した時の衣装に驚いたままだと、次に何か起きた時も動けなくなるかもしれないから……少しずつ慣れておいた方がいいって」

「鶴岡先生も、同じこと言うんだ」

美咲が納得したように頷く。

「でも、絶対に短くしなさいって言われたわけじゃないの」

由香里は急いで付け加えた。

「無理をする必要はないって。慣れる方法のひとつとして教えてもらっただけ。それで……私が、自分でやってみようと思ったの」

「由香里ちゃんが?」

「うん」

由香里は少しうつむいた。

「今朝の私は、何もできなかったから。ネロリに言われたことを、そのまま繰り返しただけで……二人がいなかったら、たぶん変身することもできなかった」

「そんなことないよ」

あいは思わず言った。

「由香里ちゃんの魔法がなかったら、黒霧の中のコアは見えなかった。由香里ちゃんがいてくれたから、三人で倒せたんだよ」

「そうそう」

美咲も明るく続ける。

「初めてであれだけできたんだから、十分すごいって。それに、私だって最初は何が何だかわかんなかったし」

「美咲は、そのまま剣で飛び込んでいったけどね……」

あいが小さく言うと、美咲は照れたように笑った。

「そこはほら、考えるより先に動いちゃうから」

由香里の表情が、少しだけ和らいだ。

「二人も……最初は怖かった?」

「怖かったよ」

あいは迷わず答えた。

「今も、怖くないわけじゃないし……このスカートだって、全然慣れてない」

そう言ってから、あいは自分の膝元へ視線を落とした。

由香里も、同じように自分のスカートを見る。

二人の丈は、ほとんど同じだった。

「なんだか、不思議だね」

由香里がつぶやく。

「昨日までは、あいがこんなに短くするなんて思ってなかったし……私も、自分がこうするなんて考えたこともなかった」

「私もだよ」

あいが答えると、美咲が二人を見比べた。

「でも、似合ってるよ。二人とも」

「美咲ちゃん……」

「急にそういうこと言わないでよ……」

あいと由香里の声が重なる。

二人は顔を見合わせ、同時に頬を赤くした。

その様子を見て、美咲が小さく笑う。

あいも、由香里も、つられるように笑った。

ほんの少し前まで、由香里は黒霧に包まれて苦しんでいた。

自分たちは、保健室の中で魔法戦士になって戦っていた。

それなのに今は、三人で制服のスカート丈について話している。

日常に戻ったのか、まだ非日常の中にいるのか、あいにはよくわからなかった。

ただ、由香里がここに戻ってきてくれた。

それだけで、胸の奥に残っていた不安が、少しずつほどけていく。

「それじゃあ、お弁当を持って屋上へ行こう」

由香里が言った。

「鶴岡先生から聞いたこと、二人にも話したいから」

「うん」

あいは弁当袋を手に取った。

美咲も自分の弁当を抱え、勢いよく立ち上がる。

「じゃ、三人で屋上ランチだね」

三人。

その言葉が、あいの胸に静かに残った。

あいと美咲だけが共有していた秘密。

今はそこに、由香里も加わっている。

あいは教室を出ようとする由香里の背中を見ながら、弁当袋をそっと抱き直した。

三人で話す、初めての昼休みが始まろうとしていた。


◆ 屋上へ向かう階段


三人はそれぞれの弁当袋を手に、昼休みの教室を出た。

廊下には、購買から戻ってくる生徒や、友だちの教室へ向かう生徒たちが行き交っている。いつもの昼休みの風景だったが、あいには少しだけ違って見えた。

隣に美咲がいる。

そして今は、由香里も一緒に歩いている。

あいと美咲だけが共有していた秘密。

今はそこに、由香里もいる。

「屋上、混んでるかな?」

先を歩く美咲が振り返った。

「お天気がいいから、いつもより人が多いかも」

由香里が答える。

朝より顔色は戻っていたが、歩く速さはまだ少しゆっくりだった。あいは由香里の歩幅に合わせながら、何度か横顔を確かめる。

「由香里ちゃん、階段は大丈夫?」

「うん。ゆっくりなら平気」

「無理そうだったら、すぐ言ってね」

「ありがとう、あい」

廊下の端にある階段へ近づくにつれ、人の流れが少し細くなった。

三年A組の教室は三階にある。屋上へ向かうには、そこからさらに上の階段を進まなければならない。

あいは最初の段に足をかけ、手すりへそっと手を添えた。

その瞬間、自分の制服のスカートがいつもより短いことを、改めて意識してしまう。

階段では、立つ位置が少し違うだけで、周囲との視線の高さも変わる。

前を歩く人。

後ろから上ってくる人。

すれ違いながら下りてくる人。

誰もあいのことなど気にしていない。それはわかっているのに、手すりを持つ指へ自然と力が入った。

裾を押さえた方がいいだろうか。

そう思ったところで、朝の数学の授業を思い出す。

北山先生から教えられた、服装と所作のこと。

裾ばかりを気にして、姿勢や足元がおろそかになれば、かえって危ない。

あいは小さく息を吸い、背筋を伸ばした。

一段ずつ、慌てずに上る。

普通に。

それだけでいい。

そう自分に言い聞かせていると、すぐ横を歩いていた由香里も、どこかぎこちない動きをしていることに気づいた。

由香里は弁当袋を胸元に抱き、いつもより慎重に足を運んでいる。もう片方の手は手すりに置かれ、視線は一段先からほとんど動かない。

「由香里ちゃんも、気になる?」

あいが小声で尋ねると、由香里の肩がわずかに揺れた。

「……やっぱり、わかる?」

「うん。私も同じだから」

由香里は、少し恥ずかしそうに笑った。

「五センチと十五センチで、こんなに感じ方が違うとは思わなかった」

「私も、初めての日は階段がすごく長く感じたよ」

「今日も、まだ長く感じてるんじゃない?」

前を歩いていた美咲が、くるりと振り返る。

「美咲ちゃん、前を向いて。危ないよ」

あいが慌てて注意すると、美咲は「はーい」と答えて向き直った。

「二人とも、裾より足元ね。一段ずつ普通に上れば大丈夫だから」

「美咲は慣れてるから、簡単に言えるのよ」

由香里が少しだけ不満そうに言う。

「まあ、制服のスカートならね」

美咲の声が、そこでわずかに小さくなった。

あいは、美咲の手が一瞬だけ自分のスカートの横へ動くのを見た。

すぐに何事もなかったように弁当袋を持ち直したが、その仕草は朝までの美咲にはなかったものだ。

「美咲ちゃんも、気にしてる?」

「ちょっとだけ」

美咲は照れくさそうに笑った。

「制服なら平気なはずなんだけどね。今朝のあの服を思い出すと、なんか変な感じが残ってて」

「美咲でも、そうなるんだ……」

由香里が驚いたように目を丸くする。

「なるよ。あれは制服とは全然違うもん」

美咲の言葉に、あいは思わず頷いた。

変身していた時間は、それほど長くなかったはずだ。

それでも、短い戦闘服で動いた感覚は、制服姿に戻った今も身体のどこかに残っている。

朝、妖魔と戦ったこと。

保健室で由香里が変身したこと。

そんな出来事が、この普通の階段とつながっているのが不思議だった。

「じゃあ、三人とも同じなのね」

由香里が言った。

「同じって?」

「制服のスカートを気にしながら、階段を上ってるところ」

「私は二人より、ちょっとだけ先輩かな」

美咲が得意そうに言う。

「でも、さっき気にしてたよね」

「それは戦闘服のせい!」

美咲の返事が少し大きくなり、前を歩いていた二人の生徒が振り返った。

三人はそろって口を閉じる。

振り返った生徒たちは、不思議そうな顔をしただけで、そのまま階段を上っていった。

「美咲ちゃん、声……」

「ごめん」

美咲が肩をすくめる。

由香里は口元を押さえ、声を出さないように笑っていた。あいもつられて頬を緩める。

ほんの少し前まで、由香里の体調を心配していた。

魔法戦士になったことを、由香里が受け止められるのか不安だった。

けれど、こうして三人で話しながら歩いていると、張りつめていたものが少しずつほどけていく。

上の階へ進むにつれて、すれ違う生徒は少なくなった。

屋上へ続く最後の階段は、下の階よりも静かだった。窓から差し込む昼の光が踊り場を照らし、その向こうに重い扉が見えている。

扉の小さな窓から、明るい空の色がのぞいていた。

あいは、あと数段のところで由香里を振り返る。

「もう少しだけど、大丈夫?」

「うん。これくらいなら」

由香里は少し息を弾ませながらも、しっかりと頷いた。

美咲が先に屋上の扉へ着き、取っ手へ手をかける。

「それじゃ、行くよ」

扉が押し開かれる。

まぶしい光とともに、初夏の風が階段の中へ流れ込んできた。

あいは反射的にスカートの裾へ手を添える。

隣では由香里も、ほとんど同じ動きをしていた。

少し遅れて、美咲も片手を添える。

三人は顔を見合わせた。

そして誰からともなく、小さく笑った。

扉の向こうには、青い空と、昼休みの屋上が広がっていた。


◆ 三人のお弁当


屋上へ出た途端、明るい日差しが三人を包んだ。

階段の中にまで入り込んでいた風が、今度は遮るもののない空の下から吹いてくる。

あいは反射的にスカートの前へ手を添えた。

隣では由香里も、ほとんど同じ動きをしている。少し遅れて、美咲まで片手で裾を押さえた。

三人は顔を見合わせた。

「……また一緒になったね」

美咲が言うと、由香里が恥ずかしそうに目を伏せた。

「風が急に来たから……」

「わ、私も同じだから」

あいが小さく付け加える。

その言葉をきっかけに、三人の間に控えめな笑いが広がった。

屋上には人工芝が敷かれ、いくつかのベンチとテラス席が並んでいた。昼休みが始まったばかりということもあり、すでに何組かの生徒がお弁当や購買の袋を広げている。

扉の近くでは四人ほどの生徒がベンチを囲み、少し離れた人工芝の上では、レジャーシートを敷いた二人組が話していた。

美咲は辺りを見回すと、テラス席の端を指さした。

「あそこ、空いてるよ」

校舎の陰が少しだけ落ちる場所だった。ほかの生徒たちとは離れているが、わざと隠れているように見えるほどではない。

三人はそこへ向かい、丸いテーブルを囲むように腰を下ろした。

椅子に座る直前、あいは少しだけ動きを止めた。

普段なら、何も考えずに座っていたはずだ。けれど今日は、膝上十五センチほどに短くしたスカートを意識してしまう。

あいは両膝をそろえ、スカートの形を乱さないように静かに腰を下ろした。弁当袋はすぐに膝の上へ置く。

向かい側の由香里も、あいとよく似た動きで座っていた。

その様子を見て、美咲が小声で言う。

「二人とも、すごく慎重」

「美咲ちゃんだって、さっき裾を押さえてたよね」

「あれは風が強かったから」

美咲はそう言いながらも、椅子へ腰を下ろす時にはきちんと膝をそろえ、鞄を膝の横へ置いていた。

やっぱり慣れている。

あいはそう思いながら、屋上にいるほかの生徒たちへそっと目を向けた。

短めのスカートを着ている生徒も何人かいた。

けれど、誰も無造作に座っているわけではない。

ベンチに座った生徒は、膝を自然にそろえている。購買の袋や鞄を膝の上へ置いている生徒もいれば、レジャーシートの端をうまく使い、座る位置を整えている生徒もいた。

女子だけの学校の屋上だからといって、気を抜いているわけではない。

むしろ、短めのスカートを選んでいる生徒ほど、自分の服装に合った座り方や動き方が、自然に身についているように見えた。

(……そっか。みんな、ちゃんと気をつけてるんだ)

あいは少しだけ肩の力を抜いた。

短いスカートを履くことと、無防備に振る舞うことは同じではない。

北山先生が言っていた、服装の自由と所作のことが、今になって少しわかった気がした。

「どうしたの、あいちゃん?」

美咲に声をかけられ、あいは慌てて視線を戻した。

「ううん。みんな、座り方がきれいだなって思って」

「ああ、慣れてる子は自然にやってるよね」

美咲は自分の弁当袋を開きながら頷いた。

「いちいち考えなくても、こうした方が落ち着くってわかってくるんだよ」

「私にも、できるようになるかな」

由香里が自分の膝元を見ながら尋ねる。

「なるなる。由香里は普段から動きが丁寧だし、あいちゃんより早いかも」

「美咲ちゃん、それはどういう意味?」

あいが頬を膨らませると、美咲が笑った。

「だって、あいちゃんは考えすぎて固まっちゃうから」

「それは……否定できないけど」

「でも、今はちゃんと座れてるじゃない」

由香里が穏やかに言った。

あいは自分の姿勢を確かめる。

膝をそろえ、背筋を伸ばし、弁当袋を膝の上に置いている。

特別に難しいことをしているわけではない。ただ、少し気を配っているだけだ。

「……うん。さっきよりは、落ち着いてるかも」

「それじゃ、お弁当にしよう」

由香里の言葉に、三人はそれぞれ弁当箱を取り出した。

ふたを開けると、家から持ってきたおかずの色が、明るい日差しの下に並んだ。

「わあ、あいちゃんのお弁当、今日もきれい」

美咲が身を乗り出す。

「そ、そんなに見なくても……」

「だって、おいしそうなんだもん」

「美咲のもおいしそうよ」

由香里が言うと、美咲は嬉しそうに弁当箱を少し持ち上げた。

「でしょ? 朝から動いたから、今日はお腹空いちゃって」

朝から動いた。

その言葉に、あいと由香里の手が一瞬止まった。

駅での戦い。

保健室の黒霧。

由香里の変身。

どれも、この屋上で普通にお弁当を食べている今とは、ひどくかけ離れている。

美咲も自分の言葉に気づいたのか、少しだけ声を落とした。

「……いろいろあったしね」

「うん」

由香里は小さく答え、箸を取った。

けれど、すぐにはおかずへ手を伸ばさなかった。

「由香里ちゃん、食べられそう?」

あいが尋ねる。

「少しずつなら。鶴岡先生にも、無理をせずに食べられる分だけ食べるように言われたの」

「じゃあ、ゆっくり食べよう」

「うん」

由香里は弁当箱の中から、小さなおかずをひとつ選んだ。

慎重に口へ運び、ゆっくりとかむ。

あいと美咲は何も言わず、その様子を見守った。

やがて由香里が飲み込む。

「……おいしい」

その一言に、あいは胸をなで下ろした。

「よかった」

「食欲が戻ってきたなら、もう大丈夫そうだね」

美咲が明るく言う。

「まだ全部は食べられないと思うけど」

「残してもいいよ。今は元気になる方が大事だから」

あいが言うと、由香里は柔らかく微笑んだ。

「ありがとう」

三人はしばらく、他愛のない話をしながら箸を進めた。

午後の授業のこと。

美咲が購買で見かけた新しいパンのこと。

あいが数学のノートを取り直したいと思っていること。

どれも、いつもの昼休みに出てきそうな話ばかりだった。

けれど、あいには少しだけ特別に思えた。

これまでにも、三人で話すことはあった。

同じ教室で笑い、授業のことを話し、一緒に帰ることもあった。

それでも今は、その頃とは違う。

三人は、誰にも話せないものを知っている。

妖魔の存在。

黒霧の恐ろしさ。

変身した時の光と、短い戦闘服。

そして、自分たちが魔法戦士であること。

あいと美咲だけが共有していた秘密。

今はそこに、由香里もいる。

その事実は重いはずなのに、こうして同じテーブルを囲んでいると、不思議と心細さは減っていた。

風が、もう一度屋上を渡った。

さっきよりは弱い風だったが、三人はほとんど同時に片手をスカートへ添えた。

「あ……」

由香里が小さく声を漏らす。

三人の視線が重なった。

「また一緒」

美咲が言う。

「美咲ちゃんも、もう完全に仲間だね」

あいが少しだけ意地悪く返すと、美咲は口を尖らせた。

「私は前からちゃんと気をつけてます」

「でも、今日はいつもより反応が早かったわ」

由香里まで加わる。

「由香里も言うようになったね」

三人は顔を見合わせ、今度は声を抑えながら笑った。

少し離れた席にいる生徒たちは、こちらを気にしていない。

屋上には、弁当箱のふたが触れる音や、あちこちから聞こえる笑い声が広がっていた。

何も変わらない、学校の昼休み。

その中で、あいは三人でいることの温かさを、静かに感じていた。

由香里はそれから、もうひとつ、さらにもうひとつとおかずを口へ運んだ。

まだ食べる速さはゆっくりだったが、先ほどより表情が和らいでいる。

「少し、食べられそう」

「よかった」

あいが笑うと、由香里も頷いた。

けれど、そのあと、由香里は箸を持ったまま、少しだけ黙り込んだ。

穏やかだった表情に、真剣な色が戻ってくる。

「あい、美咲」

声も、自然と小さくなっていた。

「保健室で休んでいる間に、鶴岡先生から聞いたことがあるの」

あいは弁当箱へ向けていた視線を上げた。

美咲も、口元まで運びかけていた箸を止める。

屋上を吹き抜ける風の音が、先ほどより少しだけ近く聞こえた。


◆ 保健室で聞いたこと


「あい、美咲」

由香里の声が、それまでよりも少しだけ低くなった。

「保健室で休んでいる間に、鶴岡先生から聞いたことがあるの」

あいは弁当箱へ伸ばしかけていた箸を止めた。

向かい側では、美咲も口元まで運んでいたおかずを、そっと弁当箱へ戻している。

少し離れたテラス席から、生徒たちの笑い声が聞こえた。屋上を吹き抜ける風が、テーブルの上に置かれた弁当包みの端を小さく揺らす。

ここは誰もいない場所ではない。

あいは周囲へ目を向けた。

近くにいる生徒たちは、それぞれの会話や昼食に夢中になっている。こちらを気にしている様子はないが、魔法戦士の話を普通の声でするわけにはいかなかった。

「小さい声で話そう」

あいが言うと、美咲と由香里が頷いた。

由香里は膝の上に置いた弁当袋へ片手を添え、少しだけ姿勢を正した。

「鶴岡先生から、少しだけ聞いたの。でも、全部じゃないの。私もまだ、ちゃんと理解できているわけじゃなくて……」

「うん」

あいは急かさずに待った。

由香里は、どこから話せばいいのか迷っているようだった。

今朝までは、魔法戦士の存在すら知らなかったのだ。

それが突然、黒霧に包まれ、しゃべる猫と出会い、親しい友人たちが目の前で変身した。

そして、自分も魔法戦士になった。

数時間で受け止められるような話ではない。

「最初に先生から言われたのは……今朝のことは、私のせいじゃないって」

「由香里ちゃんのせい?」

「黒霧が出たこと。私が何か悪いことを考えたから、あんなものを呼び寄せたんじゃないかって……少し思ってたから」

由香里の指が、弁当袋の布をきゅっとつかんだ。

あいは胸の奥が痛くなるのを感じた。

教室で苦しそうにしていた由香里は、自分に起きていることさえわからなかった。そんな状況でも、自分が誰かに迷惑をかけたのではないかと考えていたのだ。

「由香里ちゃんは悪くないよ」

あいは、できるだけはっきりと言った。

「黒霧がどうして由香里ちゃんの周りに現れたのかは、まだわからないけど……由香里ちゃんが望んだことじゃない」

「そうだよ」

美咲も続ける。

「由香里が謝ることじゃないって。むしろ一番大変だったの、由香里なんだから」

「……ありがとう」

由香里は小さく息を吐いた。

「鶴岡先生にも、同じことを言われたの。黒霧は人の弱った心や不安に寄ってくることがあるけれど、心が弱いから襲われたわけじゃないって」

「弱ったところを狙われただけ……ということ?」

「たぶん。先生は、まだ原因を決めつけない方がいいとも言ってたけど」

あいはその言葉に少し安心した。

鶴岡先生は、わからないことを、わかったようには言わなかったらしい。

今朝の保健室でも、先生は落ち着いていた。黒霧を見ても、アムルたちが言葉を話しても、取り乱さなかった。

けれど、何もかも知っているわけではないのかもしれない。

あるいは――知っていても、今は話せないことがあるのだろうか。

「それから、魔法戦士のことも?」

美咲が尋ねた。

「うん。魔法戦士の存在は、普通の人には知られてはいけないって」

由香里は、さらに声を落とした。

「学校の友だちにも、家族にも、今朝のことはそのまま話さない方がいいって言われたの」

家族。

その言葉に、あいの胸がわずかに縮まった。

昨夜、自宅へ戻った時のことを思い出す。

父と母は、いつものようにあいを迎えてくれた。

けれど、あいは本当のことを話せなかった。

妖魔と戦ったことも。

アムルと出会ったことも。

魔法戦士になったことも。

由香里も、これから同じ秘密を抱えることになる。

「やっぱり、家族にも言えないんだね」

美咲の明るい声にも、わずかな重さが混じっていた。

「今のところは、そうみたい」

由香里が答える。

「でも、鶴岡先生は、何でも一人で抱え込まなくていいとも言ってた。私にはネロリがいるし、あいと美咲もいるからって」

あいは由香里を見つめた。

その言葉を鶴岡先生が口にしたということは、先生はあいと美咲のことも、少なくとも味方として認めているのだろう。

「鶴岡先生、私たちのことをどこまで知ってるのかな」

美咲がつぶやく。

「私も聞こうと思ったの。でも、先生は詳しく答えてくれなかった」

「答えてくれなかった?」

「今は、知らないことを一度に増やしすぎない方がいいって」

由香里は鶴岡先生の口調を思い出すように、ゆっくり続けた。

「まずは、自分が魔法戦士になったことと、ネロリがパートナーだってことを受け止めなさいって。ほかのことは、体調が戻ってから少しずつ話すって言われたの」

「鶴岡先生らしいかも」

美咲が言った。

「あの先生、慌てないし、必要なことだけ先に言う感じだったよね」

「うん」

あいも頷いた。

保健室で由香里を診ていた鶴岡先生の手つきを思い出す。

呼吸を確かめ、顔色を見て、黒霧の動きまで観察していた。

ただ魔法のことを知っているだけでは、あれほど冷静に動けない気がする。

「鶴岡先生って、本当に保健室の先生なのかな」

美咲が小声で言った。

「美咲ちゃん」

「だって、普通の先生とは思えないよ。黒霧を見ても驚かないし、虚数空間の中でも平気だったし」

「それは、私も思ったけど……」

あいは言葉を選んだ。

鶴岡先生が何者なのかは、まだわからない。

魔法戦士だったのか。

魔法戦士を支える役割なのか。

それとも、別の何かなのか。

決めつけることはできなかった。

「由香里ちゃんは、先生から何か聞いた?」

「はっきりとは、何も」

由香里は首を横に振った。

「でも……医療や救護について、普通の養護教諭よりもずっと詳しいみたいだった。魔力の消耗とか、変身した後の疲れ方とか、ネロリと話しながら確認していたから」

「ネロリと?」

「うん。私が少し眠っている間にも、何か話していたみたい」

「内容は聞こえた?」

「全部は。でも、“こちらでの経過は私が見ます”って、鶴岡先生が言っていたのは聞こえた」

「こちらでの……?」

あいは、その言葉を繰り返した。

こちら。

ならば、あちらもあるのだろうか。

美咲も同じことを考えたらしく、身を少し乗り出した。

「それって、学校じゃない別の場所でも、誰かが由香里のことを見てるってこと?」

「わからない」

由香里は困ったように眉を寄せた。

「先生に聞いたけど、“まだ心配しなくても大丈夫”って言われただけだったから」

「それ、余計に気になるよ」

美咲が小さく頬を膨らませる。

「でも、先生が今は話さないって決めたなら、理由があるのかもしれない」

あいは言った。

本当は、あいも知りたかった。

鶴岡先生は何を知っているのか。

アムルやネロリはどこから来たのか。

自分たちは、なぜ魔法戦士に選ばれたのか。

わからないことは、増える一方だった。

それでも、一度に全部を聞いたところで、自分たちが受け止められるとは限らない。

「それでね」

由香里が、さらに声を小さくした。

「鶴岡先生が、ひとつだけ名前を教えてくれたの」

「名前?」

あいは聞き返した。

由香里は一度、周囲を確かめた。

ほかの生徒たちは、まだ自分たちの昼食や会話に夢中になっている。

屋上の風が、由香里のポニーテールを揺らした。

「魔法戦士や、アムルたちのようなパートナー猫と深く関係している場所があるんだって」

「場所って……どこ?」

美咲の声には、期待と不安が入り混じっていた。

「現実とは少し違う場所にある、国らしいの」

「国……?」

あいの胸が、かすかに高鳴った。

由香里は、確かめるようにゆっくりとその名を口にした。

「ミレニアム王国」

聞いたことのないはずの言葉だった。

それなのに、あいにはその響きが、どこか遠い場所から届いたもののように感じられた。


◆ ミレニアム王国


「ミレニアム王国……」

あいは、由香里が口にした名前を小さく繰り返した。

響きだけなら、昔読んだ物語に出てくる国のようだった。

けれど、今のあいには、それをただのおとぎ話だと笑うことはできない。

黒い霧のような妖魔も、言葉を話すパートナー猫も、光に包まれる変身も、昨日までは空想の中にしか存在しないと思っていたのだから。

「それって、本当に国なの?」

美咲が声を抑えながら尋ねた。

「鶴岡先生は、そう言っていたわ」

由香里は頷いた。

「でも、私たちが住んでいる世界の、どこか遠い場所にあるわけじゃないみたい。海の向こうとか、宇宙の別の星とか、そういう意味ではなくて……」

そこで由香里は、説明の言葉を探すように少し考え込んだ。

「現実世界とは、次元位相が違う場所に存在しているんだって」

「次元位相……」

あいの中で、その言葉が静かに引っかかった。

数学の教科書にそのまま載っている言葉ではない。それでも、何となく思い浮かぶものはあった。

現実の座標に、普段は見えない方向を重ねる。

この世界の表面を、ほんの少しだけ虚数方向へずらして作る隔離領域。

「虚数空間みたいなものなのかな」

あいがつぶやくと、由香里がこちらを向いた。

「私も先生に聞いてみたの。今朝、あいが作ってくれた空間と同じなのかって」

「鶴岡先生は、なんて?」

「似ているところはあるけれど、同じものではないって」

あいは静かに耳を傾けた。

「虚数空間は、魔法戦士が現実に重ねて、一時的に作る隔離領域でしょう? でも、ミレニアム王国は、私たちが作らなくても最初から存在している世界らしいの」

「最初から……」

「うん。現実世界とは完全に離れているわけではなくて、別の層として重なっているんだって。すぐ近くに重なっているのに、普通の方法では見たり、触れたりできない場所」

由香里の説明を聞きながら、あいは透明な紙を何枚も重ねたような光景を思い浮かべた。

同じ場所に存在している。

けれど、描かれている面が違うから、互いには触れられない。

正しい理解なのかはわからない。それでも、完全に別の宇宙だと考えるより、少しだけ想像しやすかった。

「なんか、一気に話が大きくなったね」

美咲が困ったように笑った。

「今朝は、電車に遅れそうって思ってたのに。今は別の次元の王国の話をしてるんだもん」

「私も、まだ信じられない」

由香里は膝の上の弁当袋へ目を落とした。

「鶴岡先生から聞いた時は、熱のせいで変な夢を見ているのかと思ったもの」

「でも、ネロリは本当にいたし……」

「あいと美咲も、目の前で変身した」

由香里の言葉に、あいは思わず姿勢を小さくした。

あの時の戦闘服を思い出したからではない。

由香里の前で、自分の秘密がすべて明らかになった瞬間を思い出したのだ。

由香里はもう、自分たちと同じ側にいる。

そのことを心強く思う一方で、由香里まで危険な世界へ巻き込まれてしまったことには、まだ小さな痛みが残っていた。

「ミレニアム王国は、魔法戦士と深い関係があるの」

由香里が話を続ける。

「アムルやフルル、ネロリたちのようなパートナー猫とも関係しているみたい」

「じゃあ、アムルたちは、その王国から来たの?」

美咲が尋ねた。

「そこまでは聞けなかったわ」

由香里は申し訳なさそうに首を横に振った。

「先生も、今日は入口だけにしておきましょうって。私の体調が戻ってから、必要なことを少しずつ説明するって言っていたから」

「そっか」

美咲は残念そうにしながらも、それ以上は追及しなかった。

あいも、今はそれでよいのかもしれないと思った。

聞きたいことは山ほどある。

けれど、一度にすべてを知ったところで、頭も心も追いつかないだろう。

「それから……“マジカルソウル”という言葉も聞いたの」

由香里が言った。

「マジカルソウル?」

あいと美咲の声が重なった。

「鶴岡先生も、正式な名前なのかはわからないって言っていたわ。今のところは、そう呼ばれているだけの仮の名前みたい」

「何の名前なの?」

「魔法戦士として目覚める資質を持つ人の中にある、何か」

由香里の説明は、途中から少し曖昧になった。

けれど、それは由香里が話を理解していないからではないようだった。

説明しようとしているもの自体が、まだよくわかっていないのだ。

「何かって……魂みたいなもの?」

美咲が尋ねる。

「それも、わかっていないみたい。魂そのものなのか、魔力の核なのか、心の奥にある別のものなのか……」

由香里は自分の胸元へ、そっと手を添えた。

「ただ、マジカルソウルを持っている人は、ミレニアム王国とつながりやすくて、何かのきっかけで魔法戦士として目覚める可能性があるんだって」

「じゃあ、私たち三人にも、それがあるってこと?」

美咲が、自分とあいと由香里を順番に指した。

「たぶん」

由香里は頷いた。

「もう魔法戦士として目覚めているから、私たちがマジカルソウルを持っていることは間違いないだろうって」

あいは、自分の胸の奥へ意識を向けた。

けれど、そこに特別な何かがあるようには感じられない。

心臓が動いている。

朝の戦闘を思い出すと、少しだけ呼吸が浅くなる。

それだけだった。

(マジカルソウル……)

自分の中に、昨日まで知らなかったものがある。

それが魂なのか、魔力なのかさえわからない。

不思議というより、少し怖かった。

自分のことなのに、自分では何も知らない。

「持っていたら、必ず魔法戦士になるの?」

あいは尋ねた。

「それも、まだわからないみたい」

由香里は答えた。

「持っていても目覚めない人がいるかもしれないし、どういうきっかけで目覚めるのかも、全部はわかっていないって」

「わからないことだらけだね」

「うん」

美咲の言葉に、あいも小さく頷いた。

けれど、何でも説明できると言われるよりは、その方が少しだけ信用できる気がした。

鶴岡先生は、わからないことを無理に断定していない。

由香里も、聞いたことと自分の考えを混ぜないよう、慎重に話している。

「王国の中がどうなっているかは、少し聞いたの?」

あいが尋ねると、由香里の表情がわずかに明るくなった。

歴史が得意な由香里には、こちらの方が説明しやすいのかもしれない。

「王国の中心には、《ミレニアム京》という都があるんだって」

「ミレニアム京……」

「古代の平城京を思わせる、碁盤の目状に整えられた都らしいの」

由香里はテーブルの上に指を置き、縦と横に線を引くように動かした。

「大きな道がまっすぐ延びていて、その間を細い道が区切っている。都の中心には王宮があって、そこが政治の中心でもあるって」

「平城京みたいってことは、昔の都みたいな感じ?」

美咲が尋ねる。

「形は似ているらしいけど、現実世界の平城京と同じではないわ。あくまで、説明するならそれに近いということみたい」

「建物も昔っぽいのかな」

「そこまでは聞いてないの」

「見てみたいなあ」

美咲の目が少し輝いた。

「空に何か浮かんでたり、道が光ってたりするのかな」

「美咲ちゃん、それは想像しすぎだよ」

あいが言うと、美咲は笑った。

「だって、別の次元の王国だよ? 普通の町並みより、何かすごい方が夢があるじゃない」

「観光地じゃないんだから……」

そう答えながらも、あいも少しだけ想像してしまった。

碁盤の目状に伸びる道。

その中心に立つ王宮。

現実とは別の層にあり、魔法戦士やパートナー猫とつながっている都。

どんな空が広がっているのだろう。

昼と夜はあるのか。

そこでは時間も、現実と同じように進むのだろうか。

「国の一番上にいるのは、女王なんだって」

由香里が続けた。

「女王?」

「うん。国家元首として、王宮にいるらしいの。でも、どんな人なのかは聞かなかった」

「本当に王国なんだね」

美咲は感心したように息を吐いた。

「それで、王宮は原則として男子禁制の聖域なんだって」

「男子禁制?」

あいは思わず聞き返した。

「王宮だけじゃないの。王国の各地には《離宮》と呼ばれる場所があって、そこも原則として男子禁制らしいわ」

「どうして?」

「魔法戦士や、昔魔法戦士だった人たちの魂と魔力を休める場所だから」

由香里は、鶴岡先生から聞いた言葉を確かめるように答えた。

「外からの干渉をできるだけ抑えるため、特別な結界の規則があるんだって。だから、誰でも自由に入れる場所ではないみたい」

「魔法戦士のための保養所みたいなもの?」

美咲が尋ねる。

「それに近い部分もあるのかもしれないけど……私には、まだよくわからないわ」

由香里は困ったように笑った。

「先生は“聖域”と呼んでいたから、ただ休むだけの場所ではないのかも」

あいは、王宮と離宮という言葉を頭の中で並べた。

元魔法戦士。

その言葉にも、少し引っかかるものがある。

今は魔法戦士でも、いつか変身できなくなる日が来るのだろうか。

けれど、今ここで聞いても、由香里にはわからないだろう。

あいは、その疑問を心の中へしまった。

「それで……」

由香里の声が、さらに慎重なものへ変わった。

「その離宮には、現実世界と行き来するための門があるらしいの」

「門?」

美咲が身を乗り出した。

「さっきの、こちらとあちらをつなぐ門?」

「うん。誰でも開けるものではないし、どんな方法で使うのかも教えてもらえなかったけど」

由香里は一度言葉を切った。

「さくら女子にも、その門があるんだって」

一瞬、あいには意味がわからなかった。

「うちの学校に?」

美咲が驚いて声を上げかけ、すぐに口元を押さえた。

少し離れた席の生徒が一度こちらを見たが、すぐに自分たちの会話へ戻っていく。

由香里は声をさらに落とした。

「保健室のどこかに、ミレニアム王国の離宮へ通じる門が隠されているらしいの」

「保健室……」

あいの中に、今朝の光景がよみがえった。

白いカーテン。

整えられた薬品棚。

由香里が横になっていたベッド。

ラブが虚数空間を展開した時も、見た目はいつもの保健室のままだった。

あの部屋のどこかに、別の次元へ通じる門が隠されている。

そう考えると、見慣れた学校の中に、突然知らない場所が生まれたような気がした。

「鶴岡先生は、その門を使えるの?」

美咲が尋ねた。

「はっきりとは教えてくれなかった」

由香里は首を横に振った。

「でも、門のことを知っているのは間違いないと思う。ミレニアム王国側の医療や救護にも、何か関わりがあるみたいだったから」

「何かって?」

「それ以上は、本当にわからないの」

由香里は申し訳なさそうに答えた。

「向こうでどんな立場なのかも、実際に行き来しているのかも、先生は話してくれなかった。ただ……保健室と離宮の両方に関係しているような言い方だった」

あいは黙って考えた。

鶴岡先生が黒霧を見ても動じなかった理由。

アムルたちの存在を当然のように受け入れていた理由。

魔力の消耗や、変身後の体調について詳しかった理由。

少しずつ線がつながっていく。

けれど、その先に何があるのかは、まだ霧に隠れていた。

「……なんだか、学校の中に知らない場所が増えていくみたい」

あいは、思わずそうつぶやいた。

教室。

保健室。

屋上。

毎日通っていた場所は何も変わっていない。

それなのに、魔法戦士になってから、それぞれが別の意味を持ち始めている。

由香里は静かに頷いた。

「私も、そう思った。今朝まで、保健室は具合が悪い時に休むだけの場所だったのに」

「今は、異世界への入口があるかもしれない場所だもんね」

美咲が言う。

「異世界と決まったわけじゃないよ。次元位相が違う王国で……」

「似たようなものじゃない?」

「たぶん、そういうところを鶴岡先生に注意されると思う」

あいが言うと、美咲は肩をすくめた。

その様子に、由香里が小さく笑う。

話の内容は、現実離れしていた。

ミレニアム王国。

マジカルソウル。

平城京を思わせる都。

女王の住む王宮。

原則として男子禁制の離宮。

そして、保健室に隠されているという門。

朝まで知らなかった言葉が、次々とあいの世界へ入り込んでくる。

それでも、目の前には食べかけのお弁当があり、少し離れたところからは生徒たちの笑い声が聞こえている。

屋上を風が吹き抜けた。

あいは反射的に、スカートの前へ手を添えた。

隣では由香里も同じ動きをしている。

遠い次元にあるという王国より、指先に触れた制服の方が、今はずっと確かなものに感じられた。

まだ、わからないことばかりだった。

けれど、そのわからなさを、今は三人で共有している。

あいは、それだけで少し心強く思えた。


◆ 十五センチの戸惑い


ミレニアム王国について話し終えたあと、三人の間にはしばらく沈黙が残った。

別の次元に存在する王国。

平城京を思わせる都。

女王の住む王宮と、原則として男子禁制の離宮。

そして、保健室のどこかに隠されているという門。

あいは弁当箱の中に残っていた卵焼きを見つめながら、今聞いた話を頭の中で整理しようとした。

けれど、考えれば考えるほど、新しい疑問が浮かんでくる。

ミレニアム王国とは、どれほど遠い場所なのか。

マジカルソウルとは、本当に魂なのか。

自分たちは、なぜそれを持っているのか。

「……お弁当、冷めちゃうよ」

美咲の声が、重くなっていた空気をふっと動かした。

あいが顔を上げると、美咲は箸で自分のおかずを示していた。

「難しい話も大事だけど、由香里はちゃんと食べないと。鶴岡先生にも言われたんでしょ?」

「うん。食べられる分だけ、少しずつって」

由香里は弁当箱へ視線を戻し、小さなおかずを口へ運んだ。

先ほどよりも、箸の動きは自然になっている。

あいはそれを見て、少しだけ安心した。

「美咲ちゃんの言うとおりだね。今すぐ全部理解しなくてもいいのかも」

「そうそう。別の次元の王国は逃げないんだから」

「逃げるものなのかしら……」

由香里が困ったように笑う。

その笑顔に、いつもの由香里らしさが戻ってきた気がした。

三人はもう一度、弁当を食べ始めた。

けれど、あいが箸を伸ばそうとした時、風がテラス席の間を通り抜けた。

弁当包みの端がふわりと持ち上がる。

同時に、あいは反射的に空いている手をスカートへ添えた。

向かい側の由香里も、ほとんど同じ動きをしていた。

美咲まで一瞬遅れて手を動かし、三人の視線が重なる。

「……まただね」

美咲が言った。

由香里は少し頬を赤くしながら、そっと手を膝の上へ戻した。

「まだ、風が吹くたびに気になってしまうの」

「私もだよ」

あいは苦笑した。

「今朝からずっと、このくらいの丈だけど……全然慣れた気がしない」

あいは膝の上に置いた弁当袋を、少しだけ整えた。

朝、姿見の前で定規を使い、膝からスカートの裾までを何度も測ったことを思い出す。

十四センチ。

あと一センチ。

たったそれだけの差に、あれほど悩んだ。

けれど、アムルから聞いたのは、あくまで変身後の戦闘服に動揺しないための訓練だった。

短くしなければ魔法戦士になれないわけでも、必ず十五センチにしなければならないわけでもない。

それでも、自分でやると決めた。

怖さや恥ずかしさに気を取られて、守れるはずのものを守れなくなるのが嫌だったから。

「由香里ちゃんは、本当に今日からなんだよね」

あいが尋ねると、由香里は頷いた。

「保健室で少し休んだあと、丈を調整したの」

「すぐにやってみようって思ったの、すごいね」

「すごくはないわ」

由香里は首を横に振った。

「鶴岡先生からも、無理をする必要はないって言われたもの。短くすることだけが、慣れる方法ではないって」

「うん」

「でも、今朝のことを思い出したら……何もしないままでいる方が、不安だったの」

由香里の指先が、膝の上に置いた弁当袋の端へ触れた。

「変身した時、私は自分の姿に驚いて、しばらく動けなかったでしょう?」

「それは仕方ないよ」

あいはすぐに言った。

「由香里ちゃんは、あの時初めて魔法戦士のことを知ったんだから」

「そうだけど……黒霧は待ってくれなかった」

由香里は静かに答えた。

「私が戸惑っている間も、あいと美咲は戦っていた。次に同じことがあった時、少しでも早く動けるようになりたいの」

由香里の声は穏やかだったが、その奥にはしっかりとした決意があった。

困っている人を放っておけない。

由香里らしいと思う一方で、あいは少し心配にもなった。

「でも、無理はしないでね」

「うん」

「十五センチは目安だから、つらかったら戻してもいいんだよ」

あいがそう言うと、由香里は少し目を丸くした。

それから、柔らかく微笑む。

「それを、あいが言ってくれるのね」

「え?」

「今朝、あれだけ緊張していたのに」

「そ、それは……」

あいの頬が熱くなる。

今日一日だけでも、何度スカートの丈を意識したかわからない。

歩道橋。

電車。

学校の階段。

数学の授業で黒板の前へ出た時。

屋上へ向かう階段でも、手すりを握る指に力が入っていた。

「私だって、まだ全然平気じゃないよ」

あいは小さな声で言った。

「だから、由香里ちゃんにも無理をしてほしくないの」

「ありがとう」

由香里は素直に頷いた。

「今日は、このまま少し試してみる。でも、難しいと思ったら戻すわ」

「うん。それがいいと思う」

二人の会話を聞いていた美咲が、大きく頷く。

「自分で決めるのが一番だよ。長さより、ちゃんと動ける方が大事なんだから」

「美咲ちゃんが言うと、説得力があるね」

あいが言う。

美咲は普段から膝上十五センチ程度のスカートを自然に着こなしている。

階段の上り下りも、落とした物を拾う時も、特別に意識しているようには見えなかった。

「まあ、制服なら慣れてるからね」

美咲は少し得意そうに答えた。

しかし、その直後、屋上をもう一度風が渡った。

美咲は素早く膝をそろえ、片手をスカートへ添えた。

あいと由香里が、そろって美咲を見る。

「……何?」

「美咲ちゃんも、気にしてるよね」

「今日は、たまたま風が強いだけ」

「さっき階段でも気にしていたわ」

由香里が静かに指摘する。

美咲は一瞬言葉に詰まり、やがて観念したように肩を落とした。

「だって、今朝変身したばかりなんだもん」

その声は、いつもの美咲より少しだけ弱かった。

「制服の丈には慣れてるよ。でも、戦闘服は全然違うし……変身を解除したあとも、なんとなく感覚が残ってるの」

「美咲ちゃんでも、やっぱり恥ずかしいんだ」

「恥ずかしいよ」

美咲は即答した。

「あいちゃんも由香里も、私なら平気だと思ってた?」

二人は顔を見合わせた。

「少しだけ……」

あいが正直に答えると、由香里も申し訳なさそうに頷いた。

「美咲は、いつも堂々としているから」

「堂々としてるのと、何も感じないのは別だよ」

美咲は箸を置き、自分の膝の上で両手を重ねた。

「私だって最初に変身した時は、すごく驚いたし。動かなきゃって思ったから動いただけで、本当はずっと落ち着かなかった」

あいは、駅のコインロッカー奥での美咲を思い出した。

初めてマジカル・フローラへ変身した美咲は、確かに驚いていた。

それでも、妖魔を前にすると剣を握り、ラブが見つけたコアへ飛び込んでいった。

あの時の美咲を、あいは強いと思っていた。

けれど、怖さも恥ずかしさもなかったわけではない。

感じていても、動いたのだ。

「ごめんね、美咲ちゃん」

「謝らなくてもいいよ」

美咲はいつもの明るい笑顔を見せた。

「でも、二人だけじゃないってこと。三人とも同じなんだから」

「三人とも……」

由香里がその言葉をゆっくり繰り返した。

「短いスカートに戸惑っている魔法戦士?」

「そこだけ聞くと、ちょっと変な集まりだね」

美咲が笑う。

あいも、思わず口元を緩めた。

「でも、本当だよね。三人とも、まだ慣れてない」

「私は制服には慣れてるってば」

「戦闘服には慣れてないでしょう?」

由香里に言われ、美咲は「それはそうだけど」と口を尖らせる。

三人の間に、小さな笑いが広がった。

ミレニアム王国やマジカルソウルの話をしていた時の重さが、少しずつ薄れていく。

恥ずかしいことを誰かに話すのは、勇気が必要だった。

けれど、同じように戸惑っているのだとわかれば、不思議と少し楽になる。

あいは、自分の膝の上に置いた弁当袋へ目を落とした。

十五センチという数字そのものが、大切なのではない。

短い丈でも落ち着いて歩くこと。

階段では足元を見ること。

座る時には膝をそろえること。

風が吹いても慌てすぎないこと。

そうした小さな動作を重ねながら、変身後にも自分を見失わないようにしていく。

それが、この訓練の意味なのだろう。

「一日で慣れなくてもいいんだよね」

あいがつぶやく。

「うん」

由香里が答えた。

「少しずつでいいって、鶴岡先生も言っていたわ」

「じゃあ、今日は屋上まで普通に上れたから合格」

美咲が明るく言う。

「途中で何度も気にしてたけど……」

「それでも上れたでしょ?」

「うん」

「由香里も、ちゃんとここまで来られた」

「そうね」

由香里は自分の足元を見たあと、少しだけ背筋を伸ばした。

「明日は今日より、もう少し自然に歩けるかもしれない」

「私も、そうだといいな」

あいが答える。

風が、三人の髪を静かに揺らした。

今度の風は、スカートを慌てて押さえるほど強くはなかった。

それでも三人は、ほとんど同時に膝をそろえ、姿勢を整えた。

顔を見合わせる。

そして、また小さく笑った。

すぐに平気になる必要はない。

恥ずかしさがなくならなくても、動けるようになればいい。

三人で少しずつ慣れていけばいいのだと、あいは思った。


◆ 非常階段の黒影


屋上に、昼休みの終わりを知らせる予鈴が響いた。

少し離れた場所で昼食を取っていた生徒たちが、次々と立ち上がり始める。

レジャーシートを畳む音。

弁当箱を鞄へしまう音。

「もうこんな時間なんだ」

美咲も空になった弁当箱へふたをした。

「ミレニアム王国の話をしていたら、あっという間だったね」

「聞いているだけでも、考えることが多かったから……」

あいは弁当箱を布で包みながら、由香里から聞いた言葉を頭の中で繰り返した。

ミレニアム王国。

マジカルソウル。

女王の住む王宮。

保健室のどこかに隠されているという、離宮へ通じる門。

どれも、ついさっきまで知らなかったことばかりだった。

「由香里ちゃん、教室まで戻れそう?」

あいが尋ねると、由香里はゆっくりと頷いた。

「うん。お弁当も思ったより食べられたし、さっきより楽になったみたい」

「よかった」

「でも、急がずに戻ろうね」

美咲が立ち上がり、鞄を肩に掛ける。

三人が屋上の扉へ向かおうとした、その時だった。

『待って』

落ち着いた声が、あいの耳に届いた。

あいは足を止めた。

「アムル?」

屋上の出入口近く。

コンクリートの壁が作る細い影の中から、黒猫のアムルが静かに姿を現した。

額のハート形の紋が、淡い光を帯びている。

周囲を歩いている生徒たちは、誰もアムルに気づかない。楽しそうに話しながら、三人の横を通り過ぎていった。

「どうしたの?」

あいは声を落とした。

アムルは答えず、屋上へ続く扉を見つめている。

やがて白猫のフルルも、美咲の足元へ音もなく現れた。

『……本当だ。下から、ちょっと嫌な感じがする』

いつもの明るい声とは違い、フルルの声には緊張が混じっていた。

由香里のそばには、柔らかな色合いのネロリが姿を見せる。

ネロリは目を閉じ、風に混じる何かを確かめるように鼻先を上げた。

『黒霧の気配です』

「黒霧……」

由香里の表情がこわばった。

今朝、教室で由香里を包み込んでいた、あの黒いもや。

あいの胸にも、保健室での戦いがよみがえった。

「どこにあるの?」

『この真下ではありません』

アムルは屋上の扉へ向かって歩き始めた。

『屋上から校舎の端へ続いている、非常階段の方です』

「非常階段?」

美咲が聞き返す。

あいも、その場所を思い浮かべた。

非常階段は、普段の移動ではほとんど使われない。

校舎の端に設けられた避難用の階段で、通常の階段とは灰色の金属扉で隔てられている。

照明は少ない。

細い窓はあるものの、外光もほとんど届かない。

昼間でも薄暗く、生徒が近づくこともめったにない場所だった。

「人がいないから、黒霧が集まったのかな」

あいが言うと、アムルは小さく頷いた。

『可能性はあるわ。妖魔は暗く、人の目が届きにくい場所を好むもの』

「もう妖魔になっているの?」

由香里の声が少し震えた。

『まだ、そこまではわかりません』

ネロリが穏やかに答える。

『ただの残留した黒霧なのか、すでにコアを持ち始めているのか。近くで確かめる必要があります』

由香里は自分の胸元へ手を添えた。

制服姿に戻っていても、朝の変身と戦闘の感覚が残っているのだろう。

「あの……私も行った方がいい?」

その問いに、あいはすぐには答えられなかった。

由香里は今朝、魔法戦士になったばかりだ。

しかも、つい先ほどまで保健室で休んでいた。

無理をさせたくない。

けれど、由香里を一人だけ残すのも違う気がした。

「無理しなくていいよ」

あいは慎重に言った。

「体調が悪くなったら、すぐに戻ろう。戦うことになっても、由香里ちゃんが一人で何かしなくちゃいけないわけじゃないから」

「そうそう。私たちもいるし、ネロリもいるんだから」

美咲が明るく笑う。

由香里は二人を交互に見た。

まだ不安は消えていない。

それでも、由香里は小さく息を吸い、頷いた。

「行く。私にも見えるものなら、知らないふりはできないから」

その答えが、由香里らしいとあいは思った。

三人は、ほかの生徒たちから少し遅れて屋上を出た。

扉を閉じると、風の音と明るい話し声が遠ざかる。

階段の踊り場には、昼の光が細長く差し込んでいた。

通常の階段を下りれば、三年A組の教室へ戻ることができる。

けれど、アムルはそちらへは向かわなかった。

踊り場の端。

壁と同じ灰色に塗られた金属扉の前で足を止める。

扉には赤い文字で、

《非常時以外使用禁止》

と書かれていた。

昼休みを終えた校内から、生徒たちの足音がかすかに聞こえてくる。

しかし、扉の向こうからは何の音もしない。

あいは金属扉を見つめた。

ただ閉じているだけの扉なのに、その向こう側だけが校舎から切り離されているように感じられた。

『この先よ』

アムルが告げる。

美咲が取っ手へ手を伸ばした。

「開けるね」

「待って」

あいは周囲を確認した。

廊下にも、上の階段にも人影はない。

「……大丈夫。今なら誰もいない」

美咲は頷き、扉をゆっくりと押した。

金属の蝶番が、低くきしんだ。

隙間から、ひんやりとした空気が流れ出す。

非常階段の中は、屋上から戻ってきたばかりの目には、ひどく暗く見えた。

灰色のコンクリート壁。

細い鉄製の手すり。

途中で折り返す階段。

狭い踊り場。

高い位置にある小さな窓から、白い光がわずかに差し込んでいる。

それでも、下の階へ続く部分は、濃い影に覆われていた。

「暗い……」

由香里が、あいの隣でつぶやいた。

三人は扉の内側へ一歩入る。

あいはすぐに、空気が違うことに気づいた。

冷たいわけではない。

けれど、胸の奥へ重いものが沈んでくる。

呼吸をするたびに、薄い膜が肺へまとわりつくような、嫌な感覚。

「いる」

美咲も感じたらしい。

先ほどまでの明るい表情を消し、階段の下を見つめている。

あいは目を凝らした。

最初は、ただ手すりの影が揺れただけだと思った。

しかし、その黒い揺らぎは、光の向きとは関係なく動いていた。

下の踊り場。

手すりの根元。

コンクリート壁が作る濃い影の中から、黒い霧がゆっくりとにじみ出している。

黒霧は床を這い、手すりに沿って細く伸びた。

まるで、こちらの様子をうかがっているように。

「朝の黒霧と同じ……?」

由香里の声が小さくなる。

「似てるけど、少し違う」

あいは黒い揺らぎから目を離さずに答えた。

朝の黒霧は、由香里の周囲へまとわりついていた。

目の前の黒霧は、階段の影そのものを身体にしようとしているように見える。

『気をつけて』

アムルの声が鋭くなった。

『すでに小さなコアが形成され始めているわ。黒霧ではなく、妖魔になりかけています』

「ここで倒さないと、どうなるの?」

美咲が尋ねる。

『黒霧をさらに集め、完全な妖魔になる可能性があります』

フルルは階段の下を警戒しながら答えた。

『その前に止めた方がいいよ』

あいは非常階段の構造を見渡した。

細い階段は途中で折り返し、上下の踊り場が壁に隠れている。

三人で並ぶだけでも狭い。

杖を振るうにも、美咲が剣で踏み込むにも、十分な広さがあるとは思えなかった。

けれど、このまま放置することはできない。

「一般の生徒に見つかる前に、ここを隔離しないと」

あいが言うと、アムルが頷いた。

『ええ。戦うなら、非常階段の内部だけを虚数空間へ移す必要があります』

由香里が息をのみ、美咲は静かに拳を握った。

あいも緊張を感じながら、二人を見た。

「三人で、やろう」

「うん」

美咲が答える。

由香里も、胸元へ置いていた手を下ろした。

「私も、逃げない」

階段の下で、黒い影が大きく揺れた。

その動きに呼応するように、三匹のパートナー猫の額の紋が淡く光る。

あいは弁当袋を人目につかない壁際へ置き、制服の胸元へそっと手を添えた。

昼休みの終わりを告げるチャイムが、扉の向こうから遠く響き始める。

日常へ戻るための音を聞きながら、あいは変身の言葉を胸の中で確かめた。


◆ 三人で変身


非常階段の中は、昼休みの終わりとは思えないほど静かだった。

扉の向こう、校舎の廊下からはかすかに人の気配がする。けれど、この階段の中には誰もいない。灰色の壁と金属の手すりに囲まれた空間は、ひんやりとしていて、下の踊り場へ向かうほど影が濃くなっていた。

その影の奥で、黒い揺らぎがじわりと形を変えている。

「……大丈夫。今なら誰にも見られないよね」

あいが小さく言うと、アムルがうなずいた。

『ええ。変身するなら今よ。長引かせないで、一気にいきましょう』

「うん」

美咲が息を整える。

由香里も、胸元に手を当てたまま、緊張した顔で黒い揺らぎを見つめていた。

これは二度目の変身だ。

けれど、慣れたと言えるほどではまったくないのだろう。指先に少し力が入っているのが、あいにもわかった。

「由香里ちゃん」

あいはそっと声をかける。

「大丈夫。三人で一緒だよ」

美咲も明るく続けた。

「そうそう。今度は一人じゃないし。困ったらすぐ言って」

由香里は二人を見て、小さく息をついた。

「……うん。がんばる」

その返事を聞いて、あいも胸の奥に少しだけ力が戻るのを感じた。

黒い影は待ってくれない。

なら、こちらも迷っている時間はない。

あいは制服の胸元へ手を添えた。

「――ラブ・レボリューション!」

言葉と同時に、白い光がふわりとあいの身体を包み込んだ。

制服が光の粒子へほどけ、空気の中へ溶けるように散っていく。その代わりに、紺と白を基調にしたセーラー型の戦闘服が、順を追って形を取っていく。胸元には大きなリボン。動きやすく整えられた軽やかなトップス。短いスカート。そして最後に、白い透過フレームのマジカル・ビジョンが、眼鏡の上へぴたりと重なった。

次の瞬間には、もう隣で美咲が叫んでいた。

「――フローラ・レボリューション!」

今度はやわらかな花びらのような光が広がる。

美咲の制服もまた光の粒になってほどけ、同系統の戦闘服へと変わっていく。共通のセーラー型でありながら、胸元のリボンには花を思わせる色味が宿り、美咲らしい明るさがそこに重なった。変身が完了すると、彼女の目元にも白いマジカル・ビジョンが展開する。

由香里は、その二人を見て一瞬だけ息をのんだ。

目の前に並んだラブとフローラは、もう制服姿の友人であると同時に、確かに魔法戦士だった。

その事実を改めて突きつけられたように、由香里の表情が揺れる。

けれど、黒い揺らぎは待ってくれない。

ネロリが静かな声で告げた。

『由香里。呼吸を整えて』

由香里は目を閉じて、短く息を吸った。

そして、まっすぐ前を見た。

「――アロマ・レボリューション!」

淡い香気を帯びた光が、由香里の周囲へ静かに広がった。

その光は派手ではない。けれど、やわらかく澄んでいて、保健室で見た時よりも少しだけ落ち着いて見えた。制服がきらめく粒子となってほどけ、細い光の流れが由香里の身体を包んでいく。

やがて現れたのは、ラブとフローラと同じ系統のセーラー型戦闘服だった。

けれど、胸元のリボンや魔力の色味は、由香里らしく淡い紫と水色を帯びている。清楚でやわらかな印象なのに、戦うための軽さも感じさせる姿だった。

変身が完了し、白いマジカル・ビジョンが由香里の目元へ展開する。

そこでようやく、由香里は自分の姿をはっきり意識したらしい。

「……っ」

小さく息を詰まらせて、お腹のあたりへ視線が落ちる。

それから、短くなったスカートへ。

「や、やっぱり……これ……」

由香里は思わず両手を下ろしかけ、慌ててスカートの前を軽く押さえた。

「短い……し、お臍も……っ」

その声は、朝の保健室で初めて変身した時よりは落ち着いている。けれど、戸惑いが消えたわけでは全然なかった。

あいは思わずうなずいてしまう。

「う、うん……その気持ち、すごくわかる……」

「ほんとそれ」

美咲も苦笑しながら、自分のスカートの裾を軽くつまんだ。

「私もまだ、これに慣れたとは言えないし」

由香里は二人を見た。

「美咲まで?」

「普段の制服とは、やっぱり別なんだよね」

美咲は肩をすくめる。

「動きやすいけど、軽すぎて落ち着かないっていうか」

「……わかる」

由香里が小さく答える。

あいは、そのやり取りを聞きながら少しだけ肩の力が抜けた。

恥ずかしいのは、自分だけじゃない。

戸惑っているのも、由香里だけじゃない。

三人とも同じように、まだこの戦闘服に慣れきれていない。

けれど、そのことを隠さなくてもいい相手が今ここにいる。

それだけで、胸の中の緊張が少し和らぐ気がした。

『話はあとよ』

アムルの声が、ぴんと空気を引き締める。

『下の影が動き始めているわ』

はっとして、三人は同時に階段の下を見た。

黒い揺らぎが、先ほどよりも濃くなっている。

手すりの影を伝うように、じわりと上へ伸びかけていた。

ラブは杖を握り直す。

フローラもすっと表情を変えた。

アロマはまだ少し頬を赤くしていたけれど、それでも一歩前へ出るように立ち位置を整えた。

灰色の非常階段の踊り場に、三人の魔法戦士が並ぶ。

共通のセーラー戦闘服。

それぞれ違う色を宿したリボン。

白いマジカル・ビジョンの奥で、三人の視線が同じ影を捉える。

昼休みの終わりを告げるチャイムが、遠く校舎の向こうで鳴っていた。

けれど、今の三人にとって大切なのは、目の前の黒い揺らぎを止めることだった。


◆ 狭い階段の共闘


黒い揺らぎが、手すりの影を伝ってゆっくりと上ってくる。

非常階段の踊り場に並んだ三人は、その動きを見つめた。

ラブは杖を召喚し、両手で握る。

保健室で《ディストーション・フィールド》を展開した時は、部屋の四隅を座標として捉えればよかった。

けれど、ここは違う。

狭い階段。

途中で折れ曲がる踊り場。

上下に重なる段差。

壁際へ張り出した手すり。

どこからどこまでを一つの空間として囲めばよいのか、単純な四角形では捉えられない。

『ラブ、黒霧だけでなく、非常階段の構造全体を意識して』

アムルの声が響く。

『上の扉から下の踊り場まで。壁、階段、手すりも含めて、一つの連続した領域として捉えるのよ』

「うん」

ラブは息を整えた。

屋上側の扉。

最初の階段。

折り返しの踊り場。

さらに下へ続く段差。

一つひとつを、頭の中へ点として置く。

ばらばらの点を線で結び、その線へ虚数方向の奥行きを重ねる。

現実の階段に、もう一つの座標面を重ねるように。

「ディストーション・フィールド!」

杖の先から、淡いピンク色の光が走った。

屋上側の扉の輪郭が一瞬だけ二重に揺れる。

光は壁を伝い、手すりの支柱をなぞり、階段の縁へ沿って下へ伸びていった。

折り返しの踊り場。

その下の階段。

さらに黒霧が潜む影の奥まで。

光の線がすべてつながった瞬間、非常階段の空気がかすかに歪んだ。

灰色の壁も、鉄の手すりも、階段の段差も変わってはいない。

それでも、現実空間からほんの少しだけ離れた感覚が、ラブの身体を包む。

非常階段の内部が、虚数方向へずれた層に移行していた。

「できた……」

ラブは小さく息を吐いた。

保健室の時より、境界が複雑だった。

マジカル・ビジョンの端には、いくつもの線が重なった構造図が表示されている。境界の一部がわずかに揺れるたび、胸の奥から魔力を引かれるような感覚があった。

『維持できているわ』

アムルが告げる。

『ただし、無理に範囲を広げないで。非常階段の内部だけに集中して』

「うん」

その時、階段の下で黒霧が大きく膨らんだ。

これまで床や手すりへ薄く張りついていた影が、一つの塊へ集まっていく。

中心には、まだ小さいながらも、赤黒いコアがかすかに脈打っていた。

『来るよ!』

フルルの声と同時に、黒霧から細い影が伸びた。

「まず私が前に出る!」

フローラが片手剣を召喚し、階段を駆け下りる。

「フローラ、足元に気をつけて!」

ラブもその後を追った。

フローラは最初の踊り場へ下りると、手すりの間から迫ってきた黒い影へ剣を振るう。

しかし、剣先はすぐ横の壁へ近づいた。

「くっ……!」

フローラは途中で軌道を変える。

刃は黒霧の端を切り裂いたが、十分に振り抜けていない。

分かれた霧はすぐに再び集まり、手すりの裏側へ滑り込んだ。

「狭すぎる……!」

黒霧が反対側から伸びる。

フローラは身体をひねり、剣を立てて受け止めた。

「フローラ・シールド!」

剣の前に、花びらのような淡い光の盾が広がる。

黒い影は盾の表面を滑り、壁へぶつかるように流れを変えた。

だが、その直後には、妖魔本体が下の踊り場へ逃げ込んでしまう。

「追う!」

「待って、美咲ちゃん!」

ラブは杖を構えた。

けれど、折り返した壁が邪魔になり、妖魔の姿は見えない。

階段を数段下りれば見えるかもしれない。

しかし、フローラが前にいるため、杖の射線を取ることができなかった。

下方向へ撃てば、フローラを巻き込む可能性がある。

手すりの隙間から狙おうとしても、角度が悪い。

マジカル・ビジョンには妖魔の反応が表示されているのに、赤い点は壁の向こうへ隠れたり、手すりの影と重なったりして、位置を定められない。

「見えてるのに……狙えない」

その横で、アロマが胸元のリボンへ手を添えた。

「私が黒霧を薄くする」

アロマは呼吸を整え、階段の下へ両手を向ける。

「アロマ・ピュリファイ!」

淡い紫と水色の光が、香りのように広がった。

しかし、浄化の魔力は踊り場の壁に沿って二つに分かれ、階段の角で流れを失ってしまう。

黒霧の一部は薄くなった。

けれど、妖魔の中心まで十分に届いていない。

「魔力が……途中で散ってしまう」

『この場所では、広げるだけでは駄目です』

ネロリが告げた。

『階段の形に魔力を合わせなければ、妖魔へ届きません』

黒霧が再び動いた。

今度は手すりの下側を這い、ラブたちの足元へ回り込もうとする。

「右下!」

ラブが叫ぶ。

フローラが剣を振るが、段差に立っているため踏み込みが浅い。

黒霧は刃の下をすり抜け、階段の上へ伸びた。

ラブは一歩下がろうとして、かかとを上の段へぶつけた。

「きゃっ……」

体勢が崩れる。

胸元のリボンが淡く光り、《セーフティ・ヴェール》がふわりと身体を支えた。

転倒は免れたものの、ラブの集中が一瞬途切れる。

マジカル・ビジョンの端で、虚数空間の境界が揺れた。

『ラブ、境界を維持して!』

「う、うん!」

ラブは杖を床へつき、姿勢を立て直す。

虚数空間を保たなければならない。

妖魔の位置も見なければならない。

フローラとアロマへ指示を出しながら、自分の足元にも注意する必要がある。

保健室ではできた連携が、この場所ではうまくかみ合わない。

「ラブ、いったん戻って!」

フルルが叫んだ。

「フローラ、アロマ、上の踊り場へ!」

三人は黒霧を警戒しながら、一つ上の踊り場まで後退した。

フローラが剣を構えたまま、下の階段をにらむ。

「広い場所だったら、もっと動けるのに」

「私の魔法も、あの角で流れが切れてしまう」

アロマは少し乱れた呼吸を整えながら言った。

黒霧はすぐには追ってこなかった。

下の踊り場の影に潜み、三人が再び下りてくるのを待っているように揺れている。

ラブは杖を握りしめた。

(このままじゃ、狭さに負ける)

フローラの剣が振れない。

アロマの浄化が届かない。

ラブ自身も、射線を取れない。

妖魔が強いのではない。

非常階段の形が、三人の連携をばらばらにしている。

(階段の形が悪いなら――)

ラブは、マジカル・ビジョンに表示された構造図を見つめた。

(形を変えればいい)

そう考えた瞬間、マジカル・ビジョンの表示が切り替わった。

白いフレーム越しに、非常階段の構造が細い光の線として浮かび上がる。

踊り場。

段差。

折れ曲がった通路。

手すり。

妖魔の位置。

フローラとアロマの座標。

そして、ラブ自身の位置。

すべてが、複素平面の上に配置された点と線のように見えた。

実数軸。

虚数軸。

回転。

平行移動。

射影。

あいの意識の中を、いくつもの数式が走る。

授業で見た座標変換。

点の位置そのものを失うのではなく、基準となる軸を変え、別の見方へ写し直す方法。

(階段を、一直線の座標に写す……)

現実の構造を変えるのではない。

コンクリートの階段を壊したり、壁を消したりするわけでもない。

虚数空間の内部でだけ、位置の対応関係を変える。

折り返しによって途切れている視線と魔力の流れを、一本の仮想的な軸へ並べ直す。

「アムル」

ラブは構造図から目を離さずに呼びかけた。

「できるかもしれない」

『何をするつもり?』

「非常階段の座標を変換するの。現実の形は変えないまま、虚数空間の中だけ、折り返した階段を一本の線として扱う」

アムルは短い間、何も言わなかった。

ラブの視界では、階段を表す線が何度も回転し、重なり、一本の軸へ近づいている。

『座標の変換だけに集中して』

やがてアムルが答えた。

『現実の構造そのものに干渉してはいけません。変えるのは、虚数空間内の見え方と魔力の流路だけよ』

「うん」

『やってみなさい』

アムルの声が静かに響く。

『ラブの魔法は、数学で世界をほどく力です』

ラブは杖を両手で握り直した。

上の踊り場を原点に置く。

そこから下へ続く階段を、一つ目の座標面。

折り返した先を回転させ、同じ方向へ並べる。

上下の段差を、一本の仮想軸へ射影する。

「局所座標を設定……」

マジカル・ビジョンの中で、数字と記号が光る。

複数の線をまとめるように、変換行列が浮かび上がった。

「回転。平行移動。そして――仮想一次元軸への射影」

ラブは杖を前へ向ける。

「非常階段の座標を、一本の流路へ変換!」

杖の先から細い光が走った。

空気が静かに震える。

次の瞬間、折れ曲がっていた階段の景色が、すうっと前方へ伸びた。

壁は消えていない。

足元の段差も、手すりも、現実にはそのまま存在している。

けれど、マジカル・ビジョン越しに見える非常階段は、一本の長い通路のように整列していた。

踊り場。

階段。

折り返し。

そのすべてが、同じ方向へ伸びる座標上に並んでいる。

「えっ……」

フローラが目を見開いた。

「階段が、まっすぐに見える!」

「本当に変形したわけじゃないよ」

ラブは額に汗を感じながら答えた。

「虚数空間の中で、位置の見え方を並べ替えただけ。足元の階段はそのままだから、動く時は気をつけて」

アロマは前方へ手を伸ばした。

「でも……魔力の流れが途切れていない」

先ほどは踊り場の角で散っていた魔力が、今は一本の通路に沿って、妖魔のいる場所までつながっている。

下の影に隠れていた黒霧も、まっすぐに伸びた座標の中央へ押し出されるように現れた。

妖魔は逃げ込むはずだった角を失い、黒い身体を大きく揺らした。

『今です、アロマ』

ネロリが告げる。

アロマは深く息を吸った。

「アロマ・ピュリファイ!」

淡い紫と水色の浄化の光が広がる。

今度は途中で散らない。

一本に整えられた魔力の流路を通り、香気を帯びた光がまっすぐ妖魔へ届いた。

黒霧が少しずつほどけていく。

濁った影が薄くなり、その中心に隠れていたコアの輪郭が浮かび上がった。

マジカル・ビジョンに、赤い点が表示される。

「コアを捕捉!」

ラブは杖を妖魔へ向けた。

「フローラ、正面。中央より少し下!」

「見えた!」

フローラは片手剣を構えた。

座標上では、妖魔までの道が一本につながっている。

けれど、実際の階段には段差が残っている。

フローラは足元を確かめながら一段ずつ駆け下りた。

「右の手すりに黒霧!」

ラブが指示を出す。

妖魔から伸びた影が、フローラの横へ迫った。

フローラは剣を横へ構え、影を受け流す。

広く振り回すのではない。

狭い場所でも壁へ当てないよう、最小限の動きで刃を返す。

黒霧が剣の表面を滑り、アロマの浄化光へ触れて薄くなった。

「そのまま、あと三段!」

ラブは赤い点を見失わないよう、マジカル・ビジョンへ意識を集中させる。

境界の維持。

座標変換。

仲間の位置。

コアの反応。

いくつもの情報が一度に押し寄せ、頭の奥が熱くなる。

それでも、今はすべてが一本の線につながっていた。

「アロマ、もう少しだけ黒霧を薄くできる?」

「やってみる」

アロマは胸元のリボンへ手を添え、呼吸を深くした。

浄化の光が少しだけ強くなる。

妖魔の黒霧が左右へ開き、赤黒いコアが完全に露出した。

「フローラ、今!」

「うん!」

フローラが最後の段を蹴った。

片手剣を大きく振り回すのではなく、正面へ向けてまっすぐ突き出す。

剣先が、ラブの示した赤い点へ吸い込まれるように進む。

妖魔のコアを、真正面から貫いた。

硬いものが割れるような音が響く。

赤黒い核に亀裂が走り、次の瞬間、細かく砕けた。

黒霧が大きく揺れる。

形を保てなくなった妖魔の身体は、光子状の粒へほどけていった。

黒い影が淡い光へ変わり、一本に整えられた虚数空間の中へ静かに散っていく。

やがて、マジカル・ビジョンから赤い反応が消えた。

「……コア反応、消失」

ラブは杖を下ろした。

フローラも、妖魔を貫いていた剣をゆっくりと引く。

「倒せた……?」

「うん」

アロマが浄化の光を収めながら答えた。

「黒霧も、もう残っていないみたい」

三人の間に、しばらく静かな時間が流れた。

遠くからは、午後の授業が始まる前の校内放送が聞こえている。

虚数空間の中でも、学校の日常は変わらず続いていた。

「三人で、できたね」

フローラが振り返り、笑った。

アロマも、まだ少し緊張の残る表情で頷く。

「今度は、最初から最後まで……三人で戦えた」

「うん」

ラブは二人を見た。

保健室での戦いと、同じ役割だった。

アロマが黒霧を薄める。

ラブがコアを捕捉する。

フローラが剣で貫く。

けれど、ただ同じことを繰り返したわけではない。

狭く折れ曲がった階段の中で、それぞれの力が届く形を探し、三人でつなぐことができた。

ラブは、まっすぐに伸びて見える非常階段を見つめた。

「座標を、元に戻さないと」

その言葉とともに、変換されていた光の線がゆっくりとほどけ始める。

一本に並んでいた踊り場と階段が、それぞれ本来の位置へ戻っていく。

まっすぐに見えていた通路は消え、目の前には、いつもの折り返し階段が現れた。

現実の構造は、最初から何も変わっていない。

けれど、ラブには、さっきまでそこに一本の道があったことが確かに感じられた。

三人の力を、妖魔のコアまでつないだ道が。


◆ 午後の授業へ


妖魔の反応が消えた非常階段には、静けさだけが残っていた。

先ほどまで黒霧がまとわりついていた手すりも、薄暗い踊り場も、今は何事もなかったように見える。

ラブはマジカル・ビジョンの表示を確認した。

赤いコア反応はない。

黒霧の残留を示す揺らぎも、少しずつ消えている。

「本当に、倒せたんだよね?」

フローラが片手剣を下ろしながら尋ねた。

「うん。コア反応は完全に消えてる」

ラブは答えたものの、すぐには杖から手を離せなかった。

虚数空間の境界。

非常階段を構成する壁と段差。

先ほど座標変換した魔力の流路。

それらは元の配置へ戻っていたが、《ディストーション・フィールド》そのものは、まだ維持されている。

集中を解けば、境界が崩れてしまうかもしれない。

『慌てなくていいわ』

アムルが、ラブの足元から落ち着いた声をかけた。

『まずは空間内に異常が残っていないか、もう一度確認して』

「うん」

ラブは深く息を吸った。

杖を通して、非常階段全体へ意識を広げる。

屋上側の扉。

折り返しの踊り場。

上下へ続く階段。

鉄製の手すり。

壁際の濃い影。

どこにも、妖魔の気配は感じられなかった。

「大丈夫。黒霧も残ってないと思う」

『こちらでも確認できません』

ネロリが静かに答える。

『浄化は完了しています』

「よかった……」

アロマは安堵したように息を吐いた。

けれど、その表情にはまだ疲れが残っている。

魔法戦士として二度目の戦闘。

しかも、保健室とは違う狭い階段での共闘だった。

「由香里ちゃん、大丈夫?」

ラブが尋ねると、アロマは少し考えてから頷いた。

「少し疲れたけど、朝よりは落ち着いて動けたと思う」

「うん。浄化の魔法、ちゃんとコアまで届いてたよ」

フローラも笑顔を向ける。

「アロマが黒霧を薄くしてくれなかったら、私もコアを狙えなかったから」

「でも、ラブが階段の空間をまっすぐにつないでくれたから……」

アロマがラブを見る。

「私の魔法も、フローラの剣も届いたのよね」

ラブは杖を握ったまま、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。

「私も、二人がいなかったら何もできなかったよ。空間を変換できても、妖魔を倒せるわけじゃないから」

三人の役割は、それぞれ違っていた。

アロマが黒霧を浄化する。

ラブが妖魔のコアを見つける。

フローラが前へ出て、剣でコアを貫く。

一人では届かなかったものに、三人の力なら届いた。

『喜ぶのは戻ってからにしようよ』

フルルが耳を動かした。

『外の時間は止まってないからね』

その言葉に、三人は同時に現実へ引き戻された。

虚数空間の向こう側から、校内のチャイムがかすかに聞こえてくる。

「まずい!」

フローラが屋上側の扉を見上げた。

「もう昼休みが終わっちゃう!」

「急がないと……」

アロマも慌てて一歩進もうとしたが、階段の段差に気づき、すぐに足元を確かめ直した。

「慌てると危ないよ」

ラブはそう言いながら、自分にも言い聞かせるように呼吸を整えた。

虚数空間を解除する前に、三人が安全な場所へ戻らなければならない。

「上の踊り場まで戻ろう。そこで解除するね」

三人は足元へ気を配りながら、屋上側の踊り場へ向かった。

フローラが先に進み、アロマがその後に続く。ラブは最後尾で虚数空間の境界を維持しながら、一段ずつ上った。

先ほどまで一本の通路のように見えていた階段は、もう元の折り返し構造へ戻っている。

狭い。

歩きにくい。

それでも今は、その形に戸惑うことなく進めた。

妖魔と戦った時よりも、三人の呼吸がそろっている。

屋上側の踊り場へ戻ると、壁際には三人の弁当袋が、置いた時のまま残っていた。

「忘れなくてよかった……」

フローラが自分の弁当袋を見て、ほっとしたように笑う。

「戦ったあとに、お弁当箱を置き忘れたら大変だものね」

アロマの声にも、ようやく少しだけ普段の調子が戻っていた。

ラブは二人と三匹のパートナー猫が近くにいることを確認する。

それから、杖を胸の前へ戻した。

「虚数空間を解除するね」

『ええ。展開した時とは逆に、境界をゆっくり戻して』

アムルの助言に、ラブは頷いた。

非常階段を包んでいる境界線へ意識を向ける。

屋上側の扉。

壁。

手すり。

段差。

下の踊り場。

現実から虚数方向へずらしていた空間を、元の座標へ重ね直す。

座標変換を解く時とは違う。

今度は、空間全体を現実へ戻すのだ。

「リターン・フィールド!」

杖の先から、淡い光が静かに広がった。

非常階段の輪郭が、一瞬だけ二重に揺れる。

壁をなぞっていた光の線が下から順に消え、手すり、段差、踊り場が現実側の位置へ重なっていく。

最後に屋上側の扉から光がほどけると、空気が小さく震えた。

次の瞬間、校舎の音が一気に戻ってきた。

廊下を走る足音。

遠くで閉まる教室の扉。

午後の授業を前にした生徒たちの声。

非常階段そのものは、戦う前と何も変わっていない。

壁にも、手すりにも、戦闘の跡は残っていなかった。

「戻れた……」

ラブは安堵し、杖を下ろした。

『空間解除、問題ありません』

ネロリが告げる。

『一般の生徒に気づかれた様子もないわ』

アムルの言葉に、三人はそろって息を吐いた。

「じゃあ、変身も解除しないとね」

フローラが自分の戦闘服を見下ろす。

「この姿で教室に戻るわけにはいかないもの」

アロマはあらためて自分の短い戦闘服を意識したらしく、頬を赤くした。

「早く制服に戻りたい……」

「うん。私も」

ラブも小さく同意する。

動いている間は戦闘へ集中していた。

けれど、妖魔が消えた今は、露出したお腹や軽いスカートの感覚が急に気になってくる。

フローラも平気な顔をしていたが、どことなく落ち着かない様子で姿勢を整えていた。

「三人で一緒に解除しようか」

ラブが提案すると、二人は頷いた。

三人は狭い踊り場で互いに少しずつ距離を取り、顔を見合わせる。

「それじゃあ――」

ラブが息を合わせた。

「ピースフル・モーメント」

三人の声が重なった。

やわらかな光が、ラブ、フローラ、アロマの身体を包む。

白いマジカル・ビジョンが光の粒へ変わり、目元から静かに消えていく。

セーラー型の戦闘服も淡い光へほどけ、その光が三人の身体を包み直すように巡った。

光が収まった時、あいたちは元の制服姿へ戻っていた。

白い半袖ブラウス。

軽い紺色のブレザー。

ピンクのリボン。

緑と紺のチェック柄のスカート。

あいは眼鏡の位置を直し、胸元のリボンと制服を確かめた。

「戻ってる……」

「やっぱり制服って落ち着くね」

美咲が言う。

「今日から短くしたはずなのに、さっきまでの服と比べると、すごく長く感じるわ……」

由香里は自分のスカートを見下ろし、少し困ったように笑った。

「それ、わかる」

あいも頷いた。

膝上十五センチほどにしている制服は、今朝までのあいにとって十分に短いものだった。

けれど、魔法戦士の戦闘服から戻った直後だけは、不思議な安心感がある。

「感想はあと!」

美咲が弁当袋を持ち上げる。

「本当に遅れちゃうよ!」

三人は慌てて荷物を手に取った。

アムルたちは周囲の気配を確かめている。

『非常階段のことは、あとで改めて確認しましょう』

アムルが言った。

『今は教室へ戻りなさい。普通の生徒としてね』

「うん」

あいは頷き、非常階段の金属扉へ手を伸ばした。

扉を少しだけ開け、外を確認する。

階段の踊り場にも、廊下にも人はいない。

「今なら大丈夫」

三人は扉の外へ出ると、金属扉を静かに閉じた。

そこにはもう、薄暗い非常階段へ続く、ただの扉があるだけだった。

あいたちは通常の階段を下り、三年A組の教室へ急いだ。

途中でほかの生徒とすれ違っても、誰も三人を不思議そうには見なかった。

屋上でお弁当を食べて、昼休みの終わりに教室へ戻っている三人。

外から見れば、それだけだ。

教室へ入ると、クラスメイトたちは午後の授業の準備をしていた。

教科書を机の上へ出している生徒。

昼食の話を続けている生徒。

眠そうに机へ伏せている生徒。

教室は、いつもと何も変わっていない。

「あいちゃん、間に合ったね」

美咲が小声で言った。

「うん。ぎりぎりだけど……」

あいは自分の席へ着き、弁当袋を机の横へ掛けた。

右隣では、由香里も静かに腰を下ろしている。

朝は体調を崩し、保健室へ運ばれた由香里。

その由香里が今は、二人と同じ秘密を知り、同じ戦闘服をまとい、同じ妖魔と戦った。

目が合うと、由香里は少しだけ微笑んだ。

あいも、小さく微笑み返す。

その向こうから、美咲が二人へ向かって親指を立てた。

思わず笑いそうになり、あいは慌てて口元を押さえた。

午後の授業のチャイムが鳴る。

教室の扉が開き、担当の先生が入ってきた。

クラスメイトたちは会話をやめ、何事もなかったように前を向く。

あいも教科書を開いた。

教室は、いつものままだった。

けれど、あいの胸の中には、屋上で聞いたミレニアム王国の名と、正体のわからないマジカルソウルという言葉が残っている。

そして、薄暗い非常階段で、三人の力を一本の道へつないだことも。

日常と、魔法戦士としての戦い。

その二つを行き来する秘密を、もうあいと美咲だけが抱えているのではない。

今は、由香里もいる。

あいは右隣の席にいる由香里の気配を感じながら、静かに黒板を見つめた。



◆用語説明

【ミレニアム王国】

現実世界とは異なる次元位相に存在するとされる、謎の王国。

現在の科学では説明することが難しく、死後の世界、天界、多次元宇宙、仮想世界などにたとえられることもあるが、そのどれとも完全には一致しない。

現実世界から完全に切り離されているのではなく、別の層として重なるように存在しているという。

人の魂や意識、魔力と深く関わるとされ、魔法戦士やパートナー猫とも密接な関係を持つ。

特にマジカルソウルを持つ者は、この国とつながりやすく、魔法戦士として目覚める可能性がある。

国家元首は女王。

王国の中心には、古代の平城京を思わせる碁盤目状の都《ミレニアム京》があり、その中心には、女王の住まいであり政治の中心でもある王宮が存在する。

王宮や各地の離宮は、原則として男子禁制の聖域とされている。

魔法戦士や元魔法戦士の魂と魔力を休め、外部からの干渉を抑えるための場所でもあるという。

私立さくら女子高等学校の保健室には、ミレニアム王国の離宮へ通じる門 (ゲート)が隠されているとされる。

ただし、門を開く方法や、誰が使用できるのかは明らかになっていない。

鶴岡先生は、その門やミレニアム王国、王国側の医療・救護について何かを知っているようだが、詳しい立場や関係はまだ明らかになっていない。


読んでいただき、ありがとうございます。


今回は、屋上でのお弁当という日常の中で、ミレニアム王国やマジカルソウルについて、少しずつ明かされる回となりました。

あい、美咲、由香里の三人は、まだ戸惑いを抱えながらも、少しずつ魔法戦士として同じ秘密を共有する仲間になり始めています。

非常階段での戦闘では、狭く複雑な空間という不利な状況の中で、ラブの数学的な空間魔法、フローラの剣、アロマの浄化が、これまでとは違う形でつながりました。

恥ずかしさも、怖さも、失敗もある。

それでも、三人で力を合わせれば前へ進める。

そんな新しい一歩を描けていたら嬉しいです。


感想や気になった場面、「この三人でこんな場面が見たい!」というご意見なども、お気軽にお寄せください。

次回も読んでいただけたら嬉しいです。


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