香りの魔法戦士
お読みいただきありがとうございます。
第七話は、保健室の扉の向こうから始まります。
白いカーテン。
静かなベッド。
整えられた薬品棚。
いつもなら、少し安心できるはずの場所。
けれど、由香里の周囲に漂う黒霧は、そこでさらに濃くなっていきます。
あいと美咲は、まだ何が起きているのかを完全には理解できないまま、由香里を守ろうとします。
そして、保健室にいる鶴岡先生もまた、ただの体調不良ではない何かを静かに見つめていました。
日常の中に入り込んだ黒霧。
白いカーテンの向こうで、何が起きるのか。
あい、美咲、由香里の三人を、ぜひ見守っていただければ嬉しいです。
◆ 保健室の白いカーテン
あいは、保健室の扉に手をかけた。
指先に、ひんやりとした金属の感触が伝わる。
背後には、由香里の浅い呼吸。
隣には、いつもよりずっと真剣な顔をした美咲。
足元には、アムルとフルルの気配。
そして、由香里の周りには、黒いもやが揺れている。
さっきよりも濃い。
教室で見た時より、廊下を歩いていた時より、ずっと近く、重たくなっている。
あいは小さく息を吸った。
ここまで来た。
あとは、扉を開けるだけ。
「失礼します……!」
声が少し震えた。
あいは、保健室の扉をゆっくり開けた。
白い光が、廊下へこぼれる。
中は、思っていたより静かだった。
窓から入る朝の光。
壁際に並んだ棚。
消毒液のかすかな匂い。
清潔に整えられたベッド。
その奥で、白いカーテンが、さらりと揺れていた。
いつもの保健室。
具合が悪くなった時に休む場所。
怪我をした時に手当てをしてもらう場所。
学校の中で、少しだけ安心できる場所。
そう思いたかった。
けれど、今日は違う。
白いカーテンの揺れが、なぜか普通の風のせいだけには見えなかった。
窓の光は明るいのに、部屋の奥の影だけが、ほんの少し濃く沈んでいる。
由香里の周りにまとわりつく黒霧が、その影に引き寄せられるように、ゆっくり揺れた。
「どうしました?」
落ち着いた声がした。
保健室の奥から、ひとりの女性教師が立ち上がる。
鶴岡先生だった。
白衣の襟元は、きちんと整えられている。
黒髪は、すっと一つにまとめられていた。
柔らかな印象の先生だ。
普段なら、その姿を見ただけで安心できる。
声も穏やかで、表情にも急かすようなところはない。
けれど、由香里を見た瞬間。
鶴岡先生の目の奥が、ほんのわずかに変わった。
視線は優しい。
でも、その奥にある判断は鋭い。
あいは、それを見て、胸の奥がきゅっと縮んだ。
この先生は、何かに気づいた。
そう思った。
「田村さんですね。こちらへ」
鶴岡先生は、すぐにベッドの方へ歩いた。
動きは落ち着いている。
でも、迷いがない。
あいと美咲は、由香里を支えたまま保健室へ入った。
「由香里ちゃん、もう少しだよ」
「うん……」
由香里の声は、かすれていた。
あいの腕にかかる重みが、さっきより増している気がする。
由香里は自分で歩こうとしている。
けれど、足元は少しふらついていた。
美咲が反対側から、そっと支え直す。
「ゆっくりでいいからね」
「ごめん……」
「謝らなくていいって」
美咲の声は明るくしようとしていた。
けれど、その奥には隠しきれない不安がある。
ベッドの横まで来ると、鶴岡先生が白いカーテンを少し開けた。
「田村さん、ここに座れますか?」
「……はい」
由香里は小さくうなずいた。
あいと美咲は、ゆっくり由香里をベッドへ座らせる。
その瞬間、由香里の肩口にまとわりついていた黒霧が、ふわりと揺れた。
あいは息を呑む。
黒霧は、保健室の白いシーツの上では、余計に目立って見えた。
白と黒。
清潔な空間の中に、そこだけ違うものが混じっている。
普通の人には、見えていないのかもしれない。
けれど、あいには見える。
美咲にも、きっと見えている。
そして――。
あいは、そっと鶴岡先生を見た。
鶴岡先生は、由香里の顔色を確認しながら、静かに手を伸ばした。
「少し横になりましょう。無理に話さなくていいですよ」
その声は、あくまで養護教諭としてのものだった。
優しくて、落ち着いていて、生徒を不安にさせない声。
由香里は言われるまま、ゆっくりベッドに横になる。
白い枕に、由香里のポニーテールがそっと触れた。
鶴岡先生は、由香里の額に手を当てる。
次に、呼吸の様子を見る。
目の動き、顔色、指先の力の入り方。
ひとつひとつ、丁寧に確認していく。
「目まいはありますか?」
「少し……あります……」
「吐き気は?」
「それは……少しだけ……」
「息は苦しい?」
由香里は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、あいの胸が痛くなる。
「……少し、息が浅い感じがします」
「そう」
鶴岡先生は、小さくうなずいた。
「大丈夫。今は、ゆっくり息をしましょう。吸って、吐いて。無理に深く吸わなくていいです」
由香里は、言われた通りに呼吸を整えようとする。
けれど、そのたびに黒霧がかすかに震えた。
まるで、由香里の呼吸に合わせているようだった。
あいは、思わず一歩近づきそうになる。
その足元に、アムルが静かに寄り添った。
黒猫の姿は、普通の保健室にはあまりにも不自然だ。
けれど、ここにいる誰も、声を上げたりはしない。
フルルも、ベッドの反対側に回っていた。
いつもの元気な雰囲気は抑えられ、耳をぴんと立てて由香里を見ている。
そして、保健室の入口近く。
さっき廊下で見た、淡い光をまとった謎の猫が、静かに座っていた。
白でも黒でもない、やわらかな色の毛並み。
額には、花びらのような模様がある。
その猫は、由香里だけを見つめていた。
あいは、その姿に気づいていた。
美咲も、きっと気づいている。
けれど、鶴岡先生は何も言わない。
見えていないのだろうか。
それとも――見えているけれど、今は触れないだけなのだろうか。
あいには、わからなかった。
「宮本さん、橘さん」
鶴岡先生が、ふたりを見た。
「ここまで連れてきてくれてありがとう。田村さんは、しばらく横になった方がいいわ」
「あ、はい……」
「先生、由香里は……」
美咲が言いかけて、言葉を止める。
何を聞けばいいのかわからない。
体調は大丈夫ですか。
ただの貧血ですか。
この黒いもやは何ですか。
どの言葉も、普通の保健室では言えない。
鶴岡先生は、美咲の迷いを見ているようだった。
「まずは落ち着いて。二人とも、少し下がっていてください」
「……はい」
あいと美咲は、ベッドから少し離れた。
白いカーテンが、もう一度さらりと揺れる。
その音が、やけにはっきり聞こえた。
保健室は静かだった。
遠くの教室から、かすかに授業の声が聞こえる。
廊下を誰かが歩く音はしない。
時計の針の音だけが、小さく刻まれている。
日常の音。
でも、その中に、黒霧の揺れる気配が混じっている。
由香里の周りの黒いもやは、ベッドの上で少しずつ濃くなっていた。
白いシーツ。
白いカーテン。
整えられた薬品棚。
清潔な空気。
そのすべてに守られているはずなのに、あいは安心できなかった。
鶴岡先生は、由香里の様子を見守りながら、静かにカーテンを引いた。
完全に閉めるのではなく、外から少し様子が見えるくらい。
けれど、廊下側からはベッドの中が見えにくくなる。
その手つきは、とても自然だった。
でも、あいには、それがただの目隠しではないように思えた。
何かに備えている。
そんな気がした。
「田村さん、今は目を閉じていて」
鶴岡先生の声が、カーテンの内側から聞こえる。
「苦しくなったら、すぐに言ってください」
「……はい」
由香里の返事は、小さかった。
あいは、カーテンの白い布を見つめる。
その向こうで、由香里の黒霧が揺れているのがわかる。
布越しなのに、気配だけがはっきり届く。
美咲が、そっとあいの袖をつまんだ。
「あいちゃん……」
「うん……」
二人とも、それ以上は言えなかった。
アムルが、あいの足元で静かに座る。
フルルも、美咲の近くでしっぽを低く揺らしている。
謎の猫は、保健室の入口から少しだけ前へ出ていた。
何かが始まろうとしている。
でも、まだ誰もそれを言葉にしない。
鶴岡先生は、白いカーテンの向こうで由香里を診ている。
その横顔は見えない。
けれど、あいにはわかった。
先生は、ただの体調不良として見ているわけではない。
白いカーテンが、また静かに揺れた。
その向こうで、由香里の黒霧が、ゆっくりと濃くなっていく。
◆ 鶴岡先生の診立て
白いカーテンの向こうで、由香里の呼吸が浅く揺れていた。
吸って、吐く。
その一つひとつが、いつもより頼りなく聞こえる。
あいは、カーテンの手前で立ったまま、両手をぎゅっと握りしめていた。
保健室は静かだった。
清潔なシーツ。
整えられた薬品棚。
窓から差し込む朝の光。
壁にかかった時計の針の音。
全部、いつも通りの保健室のはずだった。
けれど、カーテンの内側だけが違う。
由香里の周囲にまとわりつく黒いもやが、白い布越しにも感じられる。
見えているというより、そこだけ空気が重く沈んでいるようだった。
あいは、思わず一歩近づきかける。
「宮本さん」
鶴岡先生の声がした。
穏やかだけれど、はっきりした声だった。
「少し、そのままでいてください」
「あ……はい」
あいは足を止めた。
鶴岡先生は、由香里のそばで静かに診察を続けている。
額に手を当てる。
呼吸の間隔を見る。
顔色を確認する。
手首にそっと指を添える。
その動きは、どれも落ち着いていた。
でも、あいにはわかった。
鶴岡先生は、普通の体調不良だけを見ているわけではない。
由香里の顔色。
呼吸の浅さ。
指先の力。
そして、由香里の周囲に揺れる黒霧。
その全部を、同時に見ているように感じられた。
「田村さん、聞こえますか?」
「……はい」
由香里の声は小さい。
「胸が苦しい感じはありますか?」
「少し……息が、うまく……」
「無理に深く吸わなくていいわ。今は、ゆっくり吐くことを意識して」
鶴岡先生の声は、やさしかった。
由香里を怖がらせないように。
けれど、必要なことを見落とさないように。
そんな声だった。
由香里は、言われた通りに息を吐こうとする。
そのたびに、黒霧がかすかに揺れた。
あいの胸が、ひやりと冷える。
ただの気のせいではない。
黒霧は、由香里の呼吸に反応している。
まるで、由香里の内側に入り込もうとしているみたいに。
「……あいちゃん」
隣で、美咲が小さく呼んだ。
あいは、そっと美咲を見る。
美咲の顔も、強ばっていた。
いつもの明るさは影を潜め、視線はカーテンの内側へ向けられている。
美咲にも見えている。
黒いもやが。
由香里の周りで、少しずつ濃くなっていく気配が。
その時、足元でアムルが静かに動いた。
黒猫は、あいの前へ出るように一歩進む。
視線は、白いカーテンの向こうへ向けられていた。
フルルも、美咲の近くでしっぽを低く揺らしている。
いつもの元気な様子はなく、耳をぴんと立て、由香里の様子を警戒していた。
二匹とも、声を出さない。
けれど、その沈黙が逆に、今の状況の重さを伝えていた。
そして、保健室の入口近くにいる謎の猫。
淡い光をまとったその猫は、静かに由香里を見つめている。
額の花びらのような模様が、朝の光の中でかすかに浮かんで見えた。
香りがする。
ほんのわずかに、甘く、涼しい香り。
でも、その香りの奥に、黒霧の重さが混じっている。
あいは、息を詰めた。
どうすればいいのかわからない。
ここは保健室だ。
先生がいる。
由香里はベッドに横になっている。
普通なら、それで少し安心できるはずなのに。
今は、まったく安心できなかった。
鶴岡先生が、由香里の手首から指を離した。
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「……普通の貧血とは、少し違うわね」
その言葉に、あいの心臓が跳ねた。
美咲も、息を呑む。
「先生……?」
あいが思わず声を出すと、鶴岡先生はゆっくり振り返った。
白衣の襟元は、乱れていない。
黒髪も、すっと整ったまま。
視線はやさしい。
でも、その奥にあるものは、さっきよりもはっきりしていた。
迷いのない判断。
そして、何かを知っている人の目。
鶴岡先生は、あいと美咲を順に見た。
それから、足元のアムルとフルルへ視線を落とす。
あいの呼吸が止まりそうになった。
見えている。
鶴岡先生には、アムルとフルルが見えている。
しかも、驚いていない。
まるで、最初からそこにいることをわかっていたみたいに。
美咲も、それに気づいたのだろう。
小さく肩を震わせた。
「先生……見えて……」
美咲がそこまで言った時だった。
鶴岡先生が、静かに口を開いた。
「二人とも、もう隠さなくていいわ」
その声は、保健室の空気を静かに切り替えた。
あいは、言葉の意味をすぐには理解できなかった。
隠す。
何を。
そう思った次の瞬間、鶴岡先生の視線がまっすぐこちらを見た。
「あなたたち……魔法戦士ね」
時間が、止まったように感じた。
あいの頭の中が、真っ白になる。
「え……」
声にならない声が漏れた。
美咲も、目を見開いている。
「な、なんで……先生が……」
美咲の声は震えていた。
あいも同じことを思っていた。
どうして。
どうして知っているの。
どうして、そんなに落ち着いて言えるの。
魔法戦士の存在は、一般人に知られてはいけない。
アムルからも、何度もそう言われてきた。
なのに。
鶴岡先生は、まるで最初から知っていたように、あいと美咲を見ている。
あいは、足元のアムルを見た。
アムルは、驚いていなかった。
ただ、静かに鶴岡先生を見上げている。
フルルも同じだった。
二匹の様子が、さらにあいを混乱させる。
この先生は、何者なのだろう。
そう聞きたかった。
けれど、鶴岡先生は先に言った。
「説明はあと」
短い言葉だった。
けれど、強かった。
「今は田村さんを守るのが先よ」
その一言で、あいの意識が由香里へ戻る。
白いカーテンの向こう。
由香里の呼吸が、さっきよりも浅くなっている。
黒霧が、ゆっくりと濃くなっていた。
カーテンの布越しに、黒い影がにじむように見える。
保健室の白い空間の中で、そこだけが冷たく沈んでいる。
「由香里ちゃん……!」
あいは思わず名前を呼んだ。
返事はない。
由香里は目を閉じ、苦しそうに眉を寄せている。
鶴岡先生は、由香里の様子を一瞬だけ確認すると、すぐにあいと美咲へ向き直った。
「宮本さん、橘さん。落ち着いて聞いて」
「は、はい……」
「はい……!」
「田村さんの周りにあるもの。あなたたちには見えているわね?」
あいと美咲は、互いに顔を見合わせた。
それから、同時にうなずく。
「黒い……もやみたいなものが……」
「由香里に、まとわりついてる……」
美咲の声が震える。
鶴岡先生は、静かにうなずいた。
「それなら、私の言葉も理解できるはずです」
あいは、喉が乾くのを感じた。
理解できる。
でも、受け止めきれない。
鶴岡先生は普通の先生ではない。
アムルとフルルが見えている。
黒霧のこともわかっている。
そして、あいと美咲が魔法戦士だと知っている。
知りたいことが、一気に増えていく。
けれど、由香里の呼吸がそれを許してくれなかった。
「……っ」
由香里が、小さく身じろぎした。
黒霧が、ふわりと広がる。
あいは反射的に一歩踏み出した。
その瞬間、アムルの声が静かに響いた。
「ラブ」
あいの胸が、跳ねる。
その呼び方。
宮本あいではなく、マジカル・ラブとして呼ぶ声。
アムルは、カーテンの向こうを見つめたまま言った。
「これは、もう普通の処置では間に合わないわ」
美咲のそばで、フルルも低く言う。
「フローラ、美咲。あなたも準備して」
「準備って……」
美咲が唇を噛む。
あいは、自分の手が震えていることに気づいた。
変身。
その言葉が、頭の中に浮かぶ。
ここで。
保健室で。
由香里の前で。
鶴岡先生の前で。
あいは、思わず鶴岡先生を見る。
鶴岡先生は、静かにうなずいた。
「少し待って」
そう言うと、鶴岡先生は保健室の扉へ向かった。
廊下の様子を一度だけ確認する。
授業中の廊下には、誰の姿もなかった。
鶴岡先生は、扉を静かに閉める。
かちり。
小さな音がして、鍵がかかった。
「あ……」
あいは、思わず息を呑む。
鶴岡先生は振り返り、落ち着いた声で言った。
「これで、すぐに誰かが入ってくることはありません」
「先生……」
「私はここにいます。田村さんの様子を見ます」
鶴岡先生の視線が、白いカーテンの向こうへ向けられる。
「だから、今は田村さんを守ることだけを考えて」
その声に、不思議な重みがあった。
あいは、胸の奥で何かが少しだけ定まるのを感じた。
まだわからないことばかりだ。
鶴岡先生がどうして知っているのか。
謎の猫は何なのか。
由香里に何が起きているのか。
でも、ひとつだけはわかる。
このままでは、由香里が危ない。
あいは、ぎゅっと手を握った。
「美咲ちゃん」
「うん」
美咲は、あいを見る。
怖がっている。
でも、逃げる顔ではなかった。
あいは小さくうなずく。
カーテンの向こうで、由香里の黒霧がさらに濃くなる。
その気配に、アムルとフルルが同時に身構えた。
鶴岡先生は、白いカーテンを少しだけ引き直し、外から中が見えにくいように整える。
その手つきは、やはり落ち着いていた。
ただの養護教諭の動きではない。
何度も、こういう場面を知っている人の動き。
あいはそう感じた。
「説明はあと」
鶴岡先生が、もう一度言った。
「今は、守りなさい」
その言葉が、あいの背中を押した。
あいは、白いカーテンの向こうにいる由香里を見つめる。
そして、胸の奥で呼吸を整えた。
◆ 黒霧の実体化
白いカーテンの向こうで、由香里の呼吸が浅く揺れていた。
吸って、吐く。
そのたびに、黒霧がゆっくりと濃くなっていく。
あいは、カーテンの前で立ち尽くしていた。
保健室の扉には、すでに鍵がかけられている。
鶴岡先生は中に残り、由香里の様子を見守っている。
廊下から誰かが入ってくる心配は、ひとまずない。
けれど、それで安心できる状況ではなかった。
白いカーテンの内側で、黒いもやが膨らんでいる。
最初は、由香里の肩口にまとわりつく薄い霧のようだった。
けれど今は違う。
霧は、ゆっくりと形を持ち始めていた。
人の形ではない。
獣の形でもない。
ただ、黒い影が重なり合い、不安定に揺れながら、何かの輪郭になろうとしている。
白い布越しに見えるその影は、保健室の清潔な空気を少しずつ濁していくようだった。
「……由香里ちゃん」
あいは、思わず名前を呼んだ。
返事はない。
由香里はベッドの上で目を閉じ、苦しそうに眉を寄せている。
額にはうっすら汗が浮かび、指先はシーツを弱くつかんでいた。
美咲が、隣で息を呑む。
「あいちゃん……これ、まずいよね」
「うん……」
声が震えた。
妖魔。
そう呼ぶには、まだ形がはっきりしない。
けれど、昨日から何度も感じてきたあの気配に近い。
黒く、重く、人の不安や苦しさにまとわりつくような気配。
あいは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
アムルが、一歩前へ出る。
黒猫の小さな身体が、白い床の上で静かに影を落とした。
「ラブ」
その声は、低く落ち着いていた。
宮本あいではなく、マジカル・ラブとして呼ぶ声。
あいは、思わず背筋を伸ばす。
「これは、もう放っておけないわ」
アムルは、カーテンの内側へ視線を向けたまま言った。
フルルも、美咲の足元でしっぽを低く揺らしている。
「フローラ、美咲。準備して」
「う、うん……!」
美咲の声は緊張していた。
けれど、逃げる声ではなかった。
その時。
保健室の入口近くで、淡い香りがふわりと広がった。
あいは振り返る。
そこには、謎の猫がいた。
白でも黒でもない、やわらかな色の毛並み。
額には、花びらのような模様。
その猫は、静かに由香里を見つめている。
アムルが、ほんのわずかに目を細めた。
「あなたは、ネロリですね」
謎の猫は、答えなかった。
ただ、由香里の方へ視線を向けたまま、静かに座っている。
その沈黙が、肯定のようにも思えた。
あいの胸が、ざわつく。
ネロリ。
その名前を聞いた瞬間、この猫がただの不思議な猫ではないことだけはわかった。
けれど、今は聞いている時間がない。
白いカーテンの向こうで、黒霧がさらに濃くなる。
ゆらり、と影が膨らんだ。
カーテン越しに、細い腕のようなものが伸びかける。
それはすぐに崩れ、また霧へ戻る。
でも、次の瞬間には別の輪郭が生まれていた。
形を探している。
そんなふうに見えた。
鶴岡先生が、由香里のそばから静かに声をかける。
「田村さん、聞こえますか。無理に動かなくていいわ」
「……っ」
由香里の唇がわずかに動く。
けれど、声にはならない。
あいは、拳を握った。
このままでは、由香里が黒霧に飲み込まれてしまう。
怖い。
でも、動かなければいけない。
アムルが、あいを見上げる。
「ラブ、変身を」
短い言葉だった。
その一言で、あいの中に、いつもの流れが戻ってくる。
呼吸。
姿勢。
呪文。
あいは、ゆっくり息を吸った。
ここは保健室。
学校の中。
由香里の目の前。
それでも、今は迷っていられない。
美咲の隣で、フルルも顔を上げる。
「フローラ、美咲も」
「わかった」
美咲は、小さくうなずいた。
その表情は、いつもの明るさとは少し違う。
緊張している。
でも、真剣だった。
あいと美咲は、白いカーテンの前に並ぶ。
鶴岡先生は、何も言わずに二人を見ていた。
その視線には驚きがない。
ただ、静かに見守っている。
あいは胸の前で手を握り、声を出した。
「ラブ・レボリューション!」
ピンク色の光が、保健室の空気をやわらかく照らした。
制服が光の粒子へほどけていく。
白いブラウス。
紺のブレザー。
緑と紺のチェック柄スカート。
それらが、ふわりとほどけ、魔力の光に包まれる。
代わりに、セーラー型の戦闘服が形成されていく。
胸元に大きなリボン。
動きやすいトップス。
短い紺系のスカート。
最後に、あいの眼鏡の上へ、白く透き通るマジカル・ビジョンが重なった。
マジカル・ラブ。
あいは、二度、三度と経験してきたはずのその姿に、まだ少しだけ胸が熱くなる。
でも、今は恥ずかしさよりも、由香里を守らなければという思いの方が強かった。
隣で、美咲も息を吸う。
「フローラ・レボリューション!」
淡い花の光が広がった。
美咲の制服が光にほどけ、花びらのような魔力が舞う。
マジカル・ラブと同系統のセーラー戦闘服が形作られ、胸元のリボンには花属性を思わせる色味が宿る。
白いマジカル・ビジョンが、美咲の目元に展開される。
マジカル・フローラ。
二人の変身の光が、保健室の白い壁に反射した。
黒霧が、その光に反応するように揺れる。
カーテンの内側で、由香里がうっすらと目を開けた。
「……あい……ちゃん……?」
かすれた声。
由香里の視線が、まずラブを捉える。
黒髪ツインテールの親友。
けれど、今は制服ではない。
マジカル・ビジョンを身につけ、魔法戦士の戦闘服をまとっている。
由香里の目が、ゆっくりと大きくなる。
次に、隣のフローラを見る。
いつも明るく笑っていた美咲もまた、同じように魔法戦士の姿で立っている。
由香里の唇が震えた。
「あいちゃん……美咲……その姿……」
言葉が、そこで途切れる。
信じられないものを見ているような顔だった。
でも、見間違いではない。
由香里は、白いシーツの上で小さく身を起こそうとする。
「二人とも、本当に……?」
その声には、驚きと、混乱と、ほんの少しの寂しさが混じっていた。
ラブは、胸が痛くなるのを感じた。
言いたいことはたくさんある。
ごめんね。
隠していてごめん。
でも、今は説明している時間がない。
ラブは、由香里を見つめたまま、そっと首を振った。
「由香里ちゃん……今は、動かないで」
フローラも、一歩前へ出る。
「あとでちゃんと話す。だから、今は私たちを信じて」
由香里は、二人を見つめたまま、何かを言おうとした。
けれど、その前に。
黒霧が、白いカーテンの内側で大きく揺れた。
ラブとフローラは、同時に身構える。
アムルとフルルも、二人の足元で低く構えた。
そして、ネロリと呼ばれた謎の猫だけが、静かに由香里を見つめていた。
◆ ネロリの声
白いカーテンの前に、マジカル・ラブとマジカル・フローラが並んでいた。
保健室の中に、変身の光の余韻がまだかすかに残っている。
白い壁。
清潔なシーツ。
薬品棚。
そのすべてが、今は少しだけ非日常の色を帯びて見えた。
由香里は、ベッドの上で目を見開いていた。
苦しそうに呼吸をしながらも、その視線はラブとフローラから離れない。
「あいちゃん……美咲……」
かすれた声が、白いカーテンの内側からこぼれる。
ラブは、胸の奥がきゅっと痛んだ。
由香里にこんな形で見せることになるなんて、思っていなかった。
隠していた。
言えなかった。
でも、今は説明している余裕がない。
由香里の視線が、ラブの胸元に移る。
大きなリボン。
セーラー型の戦闘服。
制服とはまったく違う、魔法戦士の姿。
そして、短いトップスから見えるお腹。
由香里の目が、さらに大きくなる。
「お、お腹……出てる……」
「う……」
ラブは、思わず腕を少し下げそうになった。
今さら隠しても仕方ない。
戦闘服なのだから。
これで戦うのだから。
そうわかっていても、親しい友人にまじまじと見られると、頬が一気に熱くなる。
「こ、これは……その……戦闘服だから……」
言い訳のような声になってしまった。
フローラも、隣で小さく肩をすくめる。
「わ、私も最初びっくりしたから……由香里の反応、すっごくわかる……」
由香里の視線は、今度は二人のスカートへ向いた。
制服のスカートとは、明らかに違う。
軽くて、動きやすそうで、けれど普段の学校生活では絶対に落ち着かない丈。
由香里は、信じられないものを見るように、小さく息を呑んだ。
「スカートも……そんなに短いの……?」
「み、見ないで……って言いたいけど、今は見えてるよね……」
ラブは、ますます顔を赤くする。
フローラも、気まずそうにスカートの裾へ意識を向けた。
「うん……これ、初めてだと本当に落ち着かないんだよね……」
「美咲でも……?」
「私でも」
フローラは、少し困ったように笑った。
その笑顔は、いつもの美咲に近かった。
でも、今はマジカル・フローラの姿をしている。
由香里は、その事実を受け止めきれないように、二人を見比べた。
「あいちゃんが……魔法戦士……。美咲も……」
声が震えていた。
驚き。
混乱。
少しの不安。
そして、自分だけが何も知らなかったことへの戸惑い。
ラブは、由香里の表情を見て胸が苦しくなる。
「ごめんね、由香里ちゃん」
思わず、そう言っていた。
由香里は、小さく首を振ろうとした。
「違う……怒ってるんじゃ、なくて……ただ……」
言葉の途中で、由香里の顔が歪んだ。
「っ……」
黒霧が、カーテンの内側で大きく揺れた。
白い布の向こうに、黒い影がにじむ。
さっきよりも濃い。
さっきよりも近い。
まるで、由香里の混乱に引き寄せられるように、黒霧が膨らんでいく。
「由香里ちゃん!」
ラブが一歩踏み出そうとする。
しかし、アムルが低く言った。
「ラブ、近づきすぎないで。黒霧が反応しているわ」
「でも……!」
「今は、由香里の呼吸を乱させないことが大事よ」
呼吸。
その言葉に、ラブははっとする。
由香里の息は、さらに浅くなっていた。
胸元が小さく上下し、指先がシーツをつかんでいる。
フローラも、剣を召喚する前のように身構えかけたが、フルルが止めた。
「フローラ、まだ攻撃しないで。形が固まりきっていないわ」
「じゃあ、どうすれば……!」
フルルは答えず、視線を入口近くへ向けた。
そこに、淡い光をまとった猫がいた。
ネロリと呼ばれた猫。
白でも黒でもない、やわらかな色の毛並み。
額に浮かぶ花びらのような模様。
静かで、慈しむような目。
その猫の周りに、かすかな香りが広がっていた。
甘すぎない。
強すぎない。
深呼吸をしたくなるような、涼しく澄んだ香り。
ネロリは、ゆっくりとベッドの方へ歩き出した。
足音はしない。
けれど、彼女が一歩進むたびに、保健室の空気が少しずつ整っていくように感じられた。
黒霧が、わずかに揺らぐ。
ネロリは、由香里のそばまで来ると、静かに顔を上げた。
「由香里」
初めて聞く声だった。
落ち着いた、女性的な声。
やわらかいのに、芯がある。
由香里が、ゆっくりと目を向ける。
「……猫……?」
小さな声だった。
だが、由香里には聞こえている。
ネロリの声が。
「呼吸を整えて」
ネロリは言った。
その言葉は、保健室の中に静かに広がった。
「無理に深く吸わなくていいわ。まず、ゆっくり吐いて。黒霧の速さに合わせないで。あなた自身の呼吸を思い出して」
由香里は、ぼんやりとネロリを見つめた。
「私……の……?」
「ええ」
ネロリは、優しくうなずくように目を細めた。
「あなたの呼吸。あなたの心。あなたの中にある、澄んだ香り」
黒霧が、ざわりと動いた。
まるで、その言葉を嫌がるように。
由香里は小さく身を震わせる。
「何……これ……私に、何が……」
ラブは、何か言おうとして口を開きかけた。
けれど、言葉が出なかった。
由香里の問いに、今のラブは答えられない。
自分だって、すべてをわかっているわけではない。
フローラも、唇を噛んでいる。
鶴岡先生は、カーテンのそばで由香里の様子を見守っていた。
その表情は静かだが、目は鋭く状況を追っている。
ネロリだけが、迷わず由香里を見つめていた。
「由香里。あなたにも、感じているはずよ」
「感じる……?」
「怖いだけではないはずです。苦しさの奥に、何かが流れている。黒霧とは違う、あなた自身の魔力が」
由香里の瞳が、かすかに揺れた。
魔力。
その言葉に、由香里の表情が変わる。
混乱の中に、ほんの少しだけ理解しようとする色が生まれた。
「私にも……?」
か細い声だった。
けれど、さっきまでとは違う。
ただ苦しみに耐えているだけの声ではなかった。
ネロリは、静かに言った。
「私はネロリ」
保健室の空気が、少しだけ澄んだ気がした。
「あなたを導くために来ました」
由香里は、息を止めたようにネロリを見つめる。
ラブも、フローラも、言葉を失っていた。
ネロリ。
由香里を導くために来た猫。
その意味を、ラブはまだ完全には理解できない。
けれど、胸の奥でひとつだけわかった。
由香里は、ただ巻き込まれているだけではない。
由香里自身にも、何かがある。
アムルと出会った時の自分。
フルルに導かれた時の美咲。
それと同じことが、今、由香里に起きようとしている。
由香里は、震える指先でシーツをつかんだまま、ネロリを見つめ続けていた。
「私……どうしたら……」
その声は、まだ弱い。
でも、聞こうとしている。
逃げるのではなく、目の前の不思議な存在に、答えを求めようとしている。
ネロリは、由香里のそばで静かに座った。
「まず、呼吸を整えましょう」
黒霧が、また大きく揺れる。
白いカーテンの内側で、黒い影が形を取りかけていた。
けれど、由香里の目は、もうただ怯えているだけではなかった。
自分にも何かが起きている。
そのことに、由香里は気づき始めていた。
◆ アロマ・レボリューション
白いカーテンの内側で、黒霧が揺れていた。
由香里はベッドの上で、浅い呼吸を繰り返している。
その目は、まだラブとフローラの姿を追っていた。
あいちゃんが、魔法戦士だった。
美咲も、魔法戦士だった。
その事実を、由香里はまだ受け止めきれていないようだった。
ラブにも、それはわかる。
もし、自分が何も知らないまま、親友二人が目の前で変身したら。
同じように驚いて、混乱して、何を信じればいいのかわからなくなるはずだ。
けれど、由香里の視線には、ただの疑いだけではないものがあった。
戸惑い。
驚き。
そして、少しずつ何かを理解しようとする光。
「あいちゃん……美咲……」
由香里の声は細かった。
「二人とも……ずっと、こんなことを……?」
ラブは、すぐには答えられなかった。
ずっと、というほど長くはない。
あいが魔法戦士になったのは、ほんの少し前のことだ。
美咲が変身したのは、今朝が初めてだった。
それでも、由香里から見れば、二人は自分の知らない世界の側に立っているように見えるのだろう。
ラブは、小さく首を振った。
「私も……まだ、ちゃんとわかってないの」
「え……」
「でも、由香里ちゃんを助けたいのは、本当」
ラブの声は、少し震えていた。
魔法戦士として、堂々とした言葉ではなかったかもしれない。
けれど、それが今のあいの本心だった。
フローラも、由香里の方へ一歩近づく。
「私も、今日いきなりだったよ。だから、由香里が混乱するの、すっごくわかる」
美咲らしい言葉だった。
明るさを残そうとしている。
でも、声の奥には真剣さがある。
「でもさ、今は……一緒にいるから」
由香里の瞳が、わずかに揺れた。
二人も同じだった。
自分だけが突然おかしなことに巻き込まれたわけではない。
あいも、美咲も、戸惑いながらこの場所に立っている。
そのことが、由香里の中で少しずつ形を持ち始めているように見えた。
けれど、黒霧は待ってくれなかった。
ざわり、と白いカーテンの内側が揺れる。
黒い影が、由香里の肩口からふくらむように広がった。
「っ……!」
由香里が、苦しそうに眉を寄せる。
黒霧は、由香里の呼吸に絡みつくように濃くなっていく。
まるで、迷いや不安を見つけて、そこへ入り込もうとしているみたいだった。
ラブは杖を握ろうとして、まだ召喚していないことに気づく。
でも、アムルは首を横に振った。
「まだ攻撃ではないわ」
「でも……!」
「黒霧は由香里の内側に触れかけている。無理に払えば、由香里への負担が大きい」
フルルも低く言う。
「フローラも、剣はまだ。今はネロリに任せて」
フローラは唇を噛み、由香里を見つめた。
「……わかった」
ネロリは、由香里のそばに静かに座っていた。
淡い香りが、保健室の空気に溶けていく。
甘すぎず、強すぎない。
呼吸を思い出させるような、澄んだ香り。
ネロリの声が、白いカーテンの内側にやわらかく響く。
「由香里。私の声を聞いて」
由香里は、震えるまぶたを開けた。
「ネロリ……」
「ええ。ここにいます」
ネロリは、少しだけ目を細めた。
「怖いのは当然です。知らないことが、いくつも目の前にあるのだから」
由香里の指先が、シーツをぎゅっとつかむ。
「私……何が起きてるのか、わからない……」
「わからなくてもいいの。今、すべてを理解する必要はありません」
その声は、とても穏やかだった。
「大切なのは、黒霧に呼吸を奪われないこと。あなた自身の呼吸を、あなた自身のものとして取り戻すこと」
「呼吸……」
「ゆっくり吐いて。黒霧の重さを、外へ流すように」
由香里は、言われた通りに息を吐こうとした。
細く、震える息。
黒霧が、わずかに反応する。
黒い影が由香里の胸元へ近づきかけ、また揺らいだ。
ネロリの周りに、淡い光が浮かぶ。
花びらのような、霧のような、やわらかな光。
「あなたの中には、黒霧とは違う流れがあります」
ネロリは言った。
「香りのように広がり、水のように澄ませる力。誰かを癒し、濁りをほどく力」
由香里は、苦しそうにしながらも、ネロリの言葉を聞いていた。
「私に……そんな力が……?」
「あります」
迷いのない声だった。
「だから、私は来ました。あなたを導くために」
ラブは、そのやり取りを見つめていた。
胸の奥が、不思議に熱くなる。
昨日の夜、マンションの前でアムルに出会った時のことを思い出す。
何もわからないまま、変身しなければならなかったあの瞬間。
怖くて、恥ずかしくて、逃げ出したいのに、逃げられなかった夜。
そして今、由香里も同じ入口に立っている。
違うのは、由香里のそばにはネロリがいて、ラブとフローラもいること。
一人ではない。
そのことを、由香里にも感じてほしかった。
「由香里ちゃん」
ラブは、そっと声をかけた。
由香里が、ゆっくりこちらを見る。
「私も、最初は何もわからなかった。怖かったし、すごく恥ずかしかったし……今も、全部わかってるわけじゃない」
ラブは、胸元のリボンにそっと手を添えた。
「でも、アムルがいてくれたから、戦えたの。美咲ちゃんも、フルルがいて……」
フローラが、うなずく。
「うん。私も、まだ全然慣れてない。でも、あいちゃんがいたから、なんとかなった」
由香里は、二人を見つめた。
マジカル・ラブ。
マジカル・フローラ。
見慣れた親友の、見慣れない姿。
でも、その声は、いつものあいと美咲だった。
由香里の表情が、ほんの少しだけ変わる。
怯えだけではない。
迷いながらも、前を見ようとする色が混じる。
「私も……できるの……?」
ネロリが、静かに答えた。
「できます。ただし、無理に強くなろうとしなくていいのです」
「え……?」
「あなたの力は、押し返す力ではありません。整える力。濁りをほどき、乱れたものを澄ませる力」
黒霧が、ざわりと大きく揺れた。
その言葉を嫌がるように、黒い影が由香里の肩へ伸びる。
ラブとフローラが身構える。
けれど、ネロリの声は揺れなかった。
「由香里。唱えてください」
由香里の喉が、小さく動く。
「何を……?」
「あなたの変身呪文です」
保健室の空気が、静かに張りつめた。
ラブは息を呑む。
フローラも、目を見開いた。
由香里が、変身する。
その瞬間が、近づいている。
ネロリは、由香里の目をまっすぐ見つめた。
「アロマ・レボリューション」
その言葉が、白いカーテンの内側に落ちた。
由香里は、かすかに唇を震わせる。
「アロマ……レボリューション……」
まだ、声になりきっていない。
黒霧が近づく。
由香里の呼吸が乱れかける。
ネロリが、そっと言った。
「大丈夫。吸って、吐いて。あなたの香りを思い出して」
「私の……香り……」
「あなたが大切にしてきたもの。落ち着き。やさしさ。人を放っておけない心。それは、黒霧に奪われるものではありません」
由香里の瞳が揺れた。
ラブは、その横顔を見ていた。
いつもの由香里。
落ち着いていて、優しくて、周りをよく見ている由香里。
今は苦しそうで、震えている。
でも、それでも。
由香里の中にあるものは、消えていない。
フローラが、小さく声をかける。
「由香里、私たちここにいるから」
ラブも続けた。
「一緒にいるよ」
由香里は、二人を見た。
そして、ネロリを見た。
黒霧が、白いカーテンの内側で大きく膨らむ。
迷っている時間は、もうなかった。
由香里は、震える手でシーツをつかみながら、ゆっくり息を吸った。
そして、吐く。
黒霧の重さに飲まれないように。
自分の呼吸を、取り戻すように。
かすかな香りが、由香里の周りに広がった。
ラブは、目を見開く。
それは、ネロリの香りだけではなかった。
由香里自身の内側から、淡い光が生まれている。
水面に花びらが落ちるような、静かな光。
由香里は、目を閉じた。
もう一度、息を吸う。
そして、今度ははっきりと声にした。
「アロマ・レボリューション……!」
その瞬間、保健室の空気が澄んだ。
黒霧が、ふっと押し返される。
淡い香気を帯びた光が、由香里の身体を包み込んだ。
白いカーテンが、風もないのにふわりと揺れる。
由香里の制服が、光の粒子へほどけていく。
白いブラウス。
紺のブレザー。
緑と紺のチェック柄スカート。
それらが、淡い光の中で静かに消え、代わりに新しい輪郭が形を取り始める。
ラブは、息を呑んだ。
フローラも、言葉を失って見つめている。
ネロリは、由香里のそばで静かに座っていた。
その表情は、穏やかだった。
まるで、長い間待っていたものが、ようやく目を覚ましたのを見守るように。
光が、保健室の白い空間を満たしていく。
香りの魔法戦士が、今、目覚めようとしていた。
◆ マジカル・アロマ
淡い光が、保健室の白い空間を満たしていた。
花の香りにも、水の気配にも似た、やわらかな魔力。
それは黒霧の重さとはまったく違う、澄んだ空気を連れてくるようだった。
由香里の制服が、光の粒子へほどけていく。
白いブラウス。
紺のブレザー。
緑と紺のチェック柄スカート。
いつもの落ち着いた制服姿が、淡い香気の中で静かに消えていく。
代わりに形作られていくのは、ラブやフローラと同じ系統のセーラー型戦闘服だった。
紺と白を基調にした、動きやすい魔法戦士の衣装。
胸元には、大きなリボン。
その色は、ラブのピンクとも、フローラの花色とも違う。
淡い紫。
そこに、清らかな水を思わせる薄い青が、ほんの少し混じっている。
リボンの中央には、小さなブローチのような光が宿っていた。
香りを閉じ込めた雫のように、柔らかく輝いている。
そして、最後に。
由香里の目元へ、白く透き通るマジカル・ビジョンが展開された。
光が、ゆっくりと収まる。
そこに立っていたのは、田村由香里ではあって、田村由香里ではない姿だった。
マジカル・アロマ。
ラブは、その名前をまだ聞いていない。
けれど、不思議とそう呼ぶのが自然だと思った。
香りと、癒しと、浄化の魔法戦士。
由香里の周りには、淡い香気の光がふわりと漂っている。
黒霧に飲み込まれそうになっていたさっきまでとは違い、その光は由香里自身を守るように、静かに広がっていた。
フローラが、小さく息を呑む。
「由香里……」
由香里は、しばらく自分に何が起きたのか理解できないようだった。
足元を見る。
手を見る。
胸元を見る。
それから、ゆっくりと自分の服装に視線を落とした。
「……え」
小さな声が漏れる。
由香里の顔が、みるみる赤くなっていった。
「な、なに……これ……?」
その声は、さっきまでの苦しげなものとは違っていた。
弱々しさは残っている。
けれど、そこに混じっているのは、はっきりとした戸惑いだった。
由香里は、胸元の大きなリボンを見た。
次に、短いトップスから見えるお腹に気づく。
そして、完全に固まった。
「お、お臍……出てる……」
ラブは、思わず視線をそらした。
気持ちは痛いほどわかる。
自分も初めて変身した時、まったく同じところで固まった。
見慣れた制服から、突然この戦闘服へ変わるのだ。
驚かない方が難しい。
フローラも、気まずそうに頬をかいた。
「うん……そこ、最初びっくりするよね……」
「びっくりするどころじゃないよ……!」
由香里は、慌てて両腕を少し下げる。
けれど、どこをどう隠せばいいのかわからないようだった。
胸元のリボン。
お腹。
腰まわり。
そして、スカート。
由香里の視線が、そこで止まる。
普段の由香里の制服は、膝上五センチほどの落ち着いた丈だった。
清楚で、上品で、彼女らしい着こなし。
けれど、今の戦闘服は違う。
軽い。
短い。
動きやすい。
でも、落ち着かない。
由香里は、両手でスカートの裾をそっと押さえた。
「短い……これ、すごく短い……!」
声が震えている。
ラブは、思わずうなずきそうになった。
「わ、わかる……すごく、わかるよ……」
由香里が、ぱっとラブを見る。
「わかるの……?」
「うん……私も、まだ全然慣れてないから……」
ラブの頬も熱くなる。
自分も同じ姿で立っている。
由香里に驚かれるたびに、改めて自分の服装まで意識してしまう。
胸元のリボン。
お腹。
短いスカート。
戦闘服なのだから仕方ない。
魔力の流れや動きやすさに必要なのだと、アムルから聞いている。
それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。
フローラも、少し顔を赤くしながら笑った。
「私も、最初はほんと無理って思ったよ。普段から短めのスカートはいてるのに、これは別物っていうか……」
「美咲でも……?」
「私でも」
フローラは、力強くうなずいた。
「制服のミニスカとは全然違うよ。軽いし、動きやすいんだけど、その分、落ち着かないっていうか」
由香里は、スカートの裾を押さえたまま、ラブとフローラを見比べた。
三人とも、同じ系統のセーラー型戦闘服。
胸元のリボンの色はそれぞれ違う。
ラブはピンク。
フローラは花を思わせる色味。
由香里は、淡い紫と水色。
でも、基本の形は同じだった。
由香里は、ぽつりと言った。
「二人とも……こんな姿で、戦ってたの……?」
ラブは小さくうなずく。
「うん……」
フローラも、少し苦笑する。
「私は今朝が初めてだったけどね」
「今朝……」
由香里の表情が揺れる。
あいも、美咲も、平気でこの姿になっていたわけではない。
きっと、自分と同じように驚いて、戸惑って、それでも戦っていた。
それが、由香里にも少し伝わったようだった。
ラブは、そっと言った。
「由香里ちゃんだけじゃないよ」
由香里が、ラブを見る。
「私も、すごく恥ずかしかった。今も恥ずかしいし、ちゃんと慣れてるわけじゃない」
ラブは、言いながら自分でも顔が熱くなるのを感じた。
「でも……戦わなきゃいけない時があるから」
フローラも続ける。
「うん。恥ずかしいけど、由香里を守りたいって思ったら、なんとか立てた」
由香里は、二人の言葉を黙って聞いていた。
その目が、少しだけ潤んでいるように見える。
「私……まだ、何もわかってないのに……」
由香里の声は小さい。
「猫が話して、黒い霧が出て、あいちゃんと美咲が魔法戦士で……私まで、こんな姿になって……」
言葉にすると、あまりにも非現実的だった。
ラブは、由香里の気持ちがわかる気がした。
昨日の夜、自分もそうだった。
妖魔。
アムル。
変身。
戦闘服。
マジカル・ビジョン。
何もかもが突然すぎて、心が追いつかなかった。
けれど、今は由香里に言えることがある。
「全部、今すぐわからなくてもいいと思う」
「え……?」
「私も、まだ全部わかってないから」
ラブは、少しだけ苦笑した。
「でも、今は……由香里ちゃんが無事でいてくれることが大事」
由香里は、ラブを見つめた。
その横で、フローラが明るさを少し取り戻したように言う。
「それにさ、三人とも同じなら、ちょっと心強くない?」
「同じ……?」
「うん。恥ずかしいの、三人一緒ってことで」
その言い方に、由香里は一瞬きょとんとした。
ラブも、思わず目を瞬かせる。
「み、美咲ちゃん……それ、心強いのかな……」
「心強いよ! 一人だけじゃないって大事!」
フローラは、少しだけ胸を張る。
けれど、すぐに自分の戦闘服を意識したのか、頬を赤くして小さく咳払いをした。
「……まあ、堂々としすぎるのも、まだちょっと難しいけど」
その言葉に、由香里の口元がわずかに緩んだ。
本当に小さな笑みだった。
けれど、ラブにはそれがとても大きな変化に見えた。
さっきまで黒霧に飲まれそうになっていた由香里が、ほんの少しだけ自分の呼吸を取り戻している。
ネロリが、静かに由香里を見上げていた。
「由香里」
その声に、三人の視線が集まる。
「その姿は、あなたの力が形になったものです。恥ずかしさを消す必要はありません。けれど、恥ずかしさに呼吸を奪われないで」
由香里は、ネロリを見た。
「呼吸を……」
「ええ。あなたの力は、呼吸とともに広がります。香りのように、静かに。水のように、澄んで」
由香里は、ゆっくり息を吸った。
まだ震えている。
まだ頬は赤い。
スカートの裾を押さえる手にも、力が入っている。
それでも、さっきより呼吸は少しだけ深くなっていた。
ラブは、その様子を見て小さく安心する。
しかし、安心できたのは一瞬だけだった。
白いカーテンの奥で、黒霧が大きくうねった。
さっき、アロマの光に押し返されたはずの黒い気配が、再び形を取り始める。
由香里の変身によって薄れた部分もある。
けれど、完全には消えていない。
黒い影が、カーテンの内側で膨らむ。
ラブは、すぐに身構えた。
フローラも、表情を引き締める。
アロマ――由香里も、まだ戸惑いを残したまま、黒霧の方を見た。
「私……どうすれば……」
ネロリが、静かに言った。
「大丈夫。あなたはもう、黒霧に飲み込まれるだけの存在ではありません」
その言葉に、由香里は小さく息を呑む。
ラブは、由香里の隣へ一歩寄った。
フローラも反対側へ立つ。
三人の魔法戦士が、白いカーテンの前に並んだ。
マジカル・ラブ。
マジカル・フローラ。
そして、マジカル・アロマ。
由香里はまだ、自分の姿にも、力にも、名前にも慣れていない。
それでも、三人は同じ場所に立っていた。
恥ずかしさも、戸惑いも、まだ消えていない。
けれど、一人ではなかった。
黒霧が、低くうねる。
白いカーテンが、ふわりと揺れた。
ラブは、杖を召喚する準備をしながら、由香里へ視線を向ける。
「由香里ちゃん。無理しなくていい。でも、一緒に立とう」
フローラも、にっと笑う。
「私たちも、まだ慣れてない仲間だからね」
由香里は、赤い顔のまま、少しだけうなずいた。
「……うん」
その声は小さかった。
でも、確かに前を向いていた。
◆ 保健室の虚数空間
黒霧が、白いカーテンの向こうでうねった。
さっきまで由香里の周囲にまとわりついていたものが、今ははっきりと別の輪郭を持ち始めている。
保健室の白い壁。
整えられたベッド。
棚に並んだ薬品。
窓から入る朝の光。
そのすべては、いつもの保健室のままなのに、空気だけが重い。
黒霧は、もうただのもやではなかった。
妖魔。
ラブの胸に、その言葉が浮かぶ。
まだ完全な形にはなっていない。
けれど、このまま放っておけば、由香里だけでなく、保健室そのものが危ない。
ラブは、由香里――マジカル・アロマの横顔を見た。
アロマはまだ自分の姿にも、状況にも慣れていない。
頬は赤く、スカートの裾を気にする仕草も残っている。
それでも、黒霧から目をそらしてはいなかった。
フローラも、アロマの反対側に立っている。
緊張した表情の中に、今朝の駅前で見せた覚悟があった。
そして、鶴岡先生。
白衣姿のまま、ベッドのそばに立っている。
普通の養護教諭なら、目の前の光景に言葉を失っていてもおかしくない。
けれど、鶴岡先生は違った。
驚きは見せない。
逃げようともしない。
ただ、由香里の呼吸と、黒霧の動きを冷静に見ている。
アムル、フルル、ネロリの三匹も、保健室の床に静かに並んでいた。
ここにいる全員が、もう巻き込まれている。
なら、保健室の一部だけを切り取るのでは足りない。
ラブは、そう感じた。
「アムル」
ラブは、小さく呼んだ。
「このままじゃ、外に……」
「ええ」
アムルは、すぐにうなずいた。
「ここで戦うなら、虚数空間が必要よ」
その言葉に、アロマがびくりとする。
「虚数……空間……?」
聞き慣れない言葉に戸惑っているのがわかった。
けれど、説明している時間はない。
フローラが、アロマに少しだけ顔を向ける。
「大丈夫。ラブが張ってくれる。外からは見えなくなるから」
「見えなく……?」
「うん。駅前でも、それで戦えた」
アロマは、まだ不安そうだった。
無理もない。
目の前で親友二人が変身し、自分も魔法戦士になり、さらに黒霧が妖魔のように形を持ち始めている。
その上、虚数空間と言われても、すぐに理解できるはずがない。
ラブは、アロマに向けて少しだけうなずいた。
「大丈夫。保健室の中だけを、外から少しずらすの」
自分で言いながら、ラブの頭の中に、今朝の黒板が浮かんだ。
実数軸。
虚数軸。
北山先生が、迷いのない線で描いた複素平面。
現実の空間を、実数軸の上にあるものだと考える。
そこから、虚数方向へ一段ずらす。
完全に別の世界へ飛ばすのではない。
今ある保健室の位置を保ったまま、外からは触れられない層へ重ねる。
前よりも、はっきりイメージできた。
瑞穂台駅で初めて虚数空間を作った時は、必死だった。
コインロッカー奥の通路と、カラーコーンで区切られた妖魔のいる範囲をつなげるだけで精いっぱいだった。
でも、今は違う。
保健室はひとつの部屋だ。
四隅がある。
壁がある。
扉がある。
窓がある。
区切りがはっきりしている。
あいの中で、空間の輪郭がつかみやすかった。
ラブは、胸の前に手を伸ばした。
まだ杖を出していない。
虚数空間を安定させるには、杖があった方がいい。
ラブは、心の中で呼びかける。
来て。
次の瞬間、ピンク色の光が手の中に集まった。
細く長い魔法の杖が、光の粒子から形を作っていく。
先端には、ハートを思わせる飾り。
手に馴染む、けれど日常には存在しない重み。
アロマが、小さく息を呑んだ。
「杖まで……」
フローラが、苦笑する。
「最初はびっくりするよね」
ラブは、少しだけ頬を赤くしながらも、杖を握り直した。
今は恥ずかしがっている場合ではない。
ラブは、保健室の中を見渡す。
左奥の窓際。
右奥の薬品棚のそば。
入口の扉。
反対側の壁。
保健室の四隅を、頭の中で点として置く。
その点を結ぶ。
長方形の領域。
そこに、今いる全員を含める。
ラブ。
フローラ。
アロマ。
鶴岡先生。
アムル。
フルル。
ネロリ。
そして、黒霧。
誰も外に出さない。
誰も外から入れない。
けれど、中から外の様子はわかるように。
廊下の音。
時計の音。
遠くの授業の声。
それらは、今までどおり届く。
ただ、外からはここで起きることが見えない。
ラブは、ゆっくり息を吸った。
複素平面の虚数軸を思い出す。
現実の保健室を、ほんの少し虚数方向へずらす。
北山先生が黒板に引いた、整った線。
実数軸と虚数軸の交わる点。
あの図が、ラブの頭の中で静かに重なる。
今なら、できる。
ラブは杖を掲げた。
「ディストーション・フィールド!」
声が、保健室の中に響いた。
次の瞬間、空気が変わった。
強い光が弾けるわけではない。
床が揺れるわけでもない。
けれど、保健室全体に、薄い膜のような感覚が広がっていく。
四隅から、透明な線が伸びる。
壁に沿って、天井へ。
床へ。
窓へ。
扉へ。
目に見えるようで、見えない。
でも、ラブにはわかった。
空間の輪郭が、きれいに閉じていく。
保健室全体が、現実からほんの少しずれた層へ重なった。
見た目は、ほとんど変わらない。
白いカーテンも、ベッドも、薬品棚も、窓から差す朝の光も、そのままだ。
鶴岡先生も、アムルたちも、アロマも、フローラも、同じ場所にいる。
ただ、部屋の外側に、薄い境界が張られたような感覚があった。
廊下の向こうから、かすかに先生の声が聞こえる。
遠くの教室で、チョークが黒板を叩く音も届く。
外の音は、普通に聞こえる。
けれど、外からは、この中で起きていることは見えない。
そういう空間。
ラブは、杖を握ったまま息を吐いた。
前より、きれいに張れた。
自分でも、それがわかった。
境界がぶれていない。
無理につぎはぎした感じもない。
四隅を基準にしたことで、保健室全体が一つの図形のように安定している。
複素平面の上に、きちんと点を置いた時のような感覚。
頭の中まで、少し整っていく。
「……すごい」
フローラが、小さくつぶやいた。
「駅前の時より、安定してる」
ラブは、少しだけ驚いてフローラを見る。
「わかるの?」
「うん。なんとなくだけど……空気が、ぴんとしてる」
フローラらしい感覚的な言い方だった。
でも、たぶん合っている。
アムルも、静かにうなずいた。
「上出来よ、ラブ。保健室全体をきれいに包めているわ」
「よ、よかった……」
ラブの肩から、少しだけ力が抜ける。
けれど、完全に安心することはできなかった。
黒霧が、虚数空間の中で低くうねった。
隔離されたことで、外に漏れることはない。
けれど、内側での圧はむしろはっきりした。
白いカーテンが、ふわりと揺れる。
アロマが、一歩後ずさりそうになる。
ネロリが、静かにそのそばへ寄った。
「大丈夫。ここから先は、あなたの呼吸が大切になります」
「私の……」
アロマは、自分の胸元に手を当てた。
まだ戸惑っている。
まだ頬も赤い。
それでも、黒霧を見つめる目は、さっきより少しだけ落ち着いていた。
鶴岡先生は、虚数空間の中に立ったまま、静かに周囲を見ていた。
驚きはない。
まるで、この感覚を知っているかのように。
ラブは、それに気づいたが、今は聞かなかった。
説明はあと。
鶴岡先生が言った通りだった。
今は、由香里を――マジカル・アロマを守ることが先だ。
ラブは、杖を構えた。
フローラも、腰を落として前を見る。
アロマは、ネロリのそばで呼吸を整えている。
三人の魔法戦士が、保健室の虚数空間の中に立つ。
白いカーテンの向こうで、黒霧が形を取り始めていた。
ラブは、マジカル・ビジョン越しに、その中心を見つめる。
まだコアは見えない。
黒霧が濃すぎる。
けれど、次に何をすべきかはわかっていた。
アロマの力が必要になる。
香りと浄化の魔法戦士。
その初めての魔法が、きっとこの黒霧をほどく。
ラブは、アロマへ視線を向けた。
「由香里ちゃん」
アロマが、こちらを見る。
ラブは、少しだけ表情をやわらげた。
「一緒に、やってみよう」
アロマは、不安そうに、それでも小さくうなずいた。
「……うん」
◆ アロマ・ピュリファイ
保健室の虚数空間の中で、黒霧がゆっくりとうねっていた。
白いカーテンの向こうに広がる黒い影。
それは、もうただのもやではない。
中心に何かがある。
ラブは、マジカル・ビジョン越しに黒霧を見つめた。
けれど、まだ見えない。
黒霧が濃すぎる。
視界の奥で、赤い点のような反応がかすかに揺れている気はする。
でも、輪郭がぼやけていて、正確な位置を捕まえられない。
「……コアが、見えない」
ラブは小さくつぶやいた。
杖を握る手に力が入る。
ラブ・ショットで黒霧を崩すことはできるかもしれない。
けれど、ここは保健室だ。
虚数空間の中とはいえ、由香里――アロマはまだ変身したばかりで、鶴岡先生もすぐ近くにいる。
不用意に攻撃すれば、黒霧が暴れるかもしれない。
ラブは、迷った。
その時、ネロリの声が静かに響いた。
「アロマ」
由香里が、びくりと肩を震わせる。
「わ、私……?」
「ええ。今、あなたの力が必要です」
アロマは、まだ自分の姿にも慣れていない。
頬は赤く、スカートの裾を気にする手も落ち着かない。
それでも、ネロリの声を聞いて、少しずつ呼吸を整えようとしている。
「でも、私……何をすればいいのか……」
「攻撃しようとしなくていいわ」
ネロリは、やわらかく言った。
「黒霧を押し返すのではなく、ほどくのです」
「ほどく……?」
「ええ。濁った魔力を、香りで薄めていく。乱れた呼吸を整えるように。濁った水を澄ませるように」
アロマは、黒霧を見た。
白いカーテンの向こうで、黒い影が形を探すように揺れている。
怖い。
その気持ちは、ラブにもわかった。
昨日の夜、自分が初めて妖魔を見た時も、怖くて足がすくんだ。
今朝、美咲が初めて変身した時も、戸惑いながら戦っていた。
そして今、由香里が初めて自分の力と向き合っている。
ラブは、一歩だけアロマのそばへ寄った。
「由香里ちゃん。無理に強く撃たなくていいと思う」
アロマが、ラブを見る。
「ラブ……」
「ネロリが言ってるみたいに、呼吸を整える感じで。由香里ちゃんの力は、きっとそういう力なんだと思う」
フローラも、アロマの反対側に立った。
「うん。私たちもいるから。失敗しても大丈夫」
「失敗……」
アロマは、不安そうに眉を寄せる。
フローラは、少しだけ笑った。
「私なんて、今朝いきなり剣持って戦ったんだよ? 全然わかんなかったけど、なんとかなった」
「美咲……」
「だから、由香里も大丈夫。たぶん、最初から完璧じゃなくていいんだよ」
その言葉に、アロマの表情が少しだけゆるんだ。
完璧じゃなくていい。
その一言が、由香里の呼吸をほんの少し楽にしたように見えた。
ネロリが、静かにアロマの足元へ寄る。
「アロマ。胸元のリボンに、そっと意識を向けて」
アロマは、戸惑いながら胸元のリボンに手を添えた。
淡い紫と水色のリボン。
中央のブローチが、かすかに光る。
ラブの胸元のリボンとは違う。
フローラの花色のリボンとも違う。
アロマのリボンは、静かに澄んだ水面のような光を帯びていた。
「そこから、香りが広がるイメージを持って」
「香り……」
「強い風ではなく、静かに広がる香り。誰かを包み込むように。黒霧の中にある濁りを、少しずつ薄めるように」
アロマは、ゆっくり目を閉じた。
まだ指先は震えている。
でも、呼吸はさっきより整っている。
吸って。
吐く。
そのたびに、リボンのブローチが淡く光った。
保健室の空気に、やわらかな香りが広がっていく。
甘すぎず、強すぎない。
深呼吸をしたくなるような、澄んだ香り。
黒霧が、ざわりと揺れた。
まるで、その香りを嫌がるように。
ラブは杖を構えたまま、黒霧の動きを見た。
攻撃ではない。
けれど、黒霧は明らかに反応している。
フローラも、それを感じたのか、身構えたまま小さく息を呑んだ。
「すごい……黒霧が、少し薄くなってる」
アロマは、目を開ける。
「ほんとに……?」
「ええ」
ネロリがうなずく。
「そのまま。怖がらず、呼吸を続けて」
アロマは、もう一度深く息を吸った。
そして、今度は黒霧をまっすぐ見つめる。
まだ頬は赤い。
自分の戦闘服に慣れていない戸惑いも残っている。
けれど、さっきまでのように、ただ震えているだけではなかった。
自分にもできることがある。
そのことを、少しずつ感じ始めているようだった。
ネロリが静かに告げる。
「唱えてください」
アロマは、小さくうなずいた。
胸元のリボンに手を添えたまま、息を整える。
香りが、淡い光になって広がる。
白いカーテン。
清潔なシーツ。
保健室の床。
薬品棚。
窓から差し込む朝の光。
そのすべてを、やわらかな香気が包んでいく。
アロマは、震えながらも声を出した。
「アロマ・ピュリファイ……!」
その瞬間、淡い紫と水色の光が、アロマの胸元からふわりと広がった。
光は弾丸のようには飛ばない。
激しく爆ぜることもない。
香りのように、静かに広がっていく。
保健室の空気を満たし、白いカーテンを揺らし、黒霧の中へゆっくり染み込んでいく。
黒霧が、大きくうねった。
低く濁った気配が、虚数空間の中で揺れる。
けれど、黒霧は膨らまなかった。
むしろ、外側から少しずつほどけていく。
濃い墨を、水の中でゆっくり薄めるように。
絡まった糸を、一本ずつほどくように。
黒霧の輪郭が、少しずつ透けていく。
「効いてる……!」
フローラの声が弾んだ。
ラブは、マジカル・ビジョンに意識を集中する。
黒霧の向こう。
さっきまでぼやけていた赤い反応が、少しずつはっきりしてきた。
赤い点。
妖魔のコア。
まだ完全には見えていない。
けれど、輪郭がある。
位置がわかる。
「見える……」
ラブの声が、思わず漏れた。
アロマは、肩で息をしながらこちらを見る。
「見えるの……?」
「うん。黒霧が薄くなって、コアの輪郭が出てきた」
ラブは、マジカル・ビジョン越しに赤い点を捉えた。
まだ揺れている。
黒霧が完全に消えたわけではない。
でも、さっきまでとは違う。
狙える。
フローラが、自然に一歩前へ出る。
まだ剣は構えていない。
けれど、その身体はもう次に動く準備をしていた。
アロマの浄化。
ラブの解析。
フローラの踏み込み。
三人の役割が、少しずつ形になっていく。
アロマは、自分の手を見つめていた。
淡い光が、まだ指先に残っている。
「私……できた……?」
小さな声だった。
信じられないような、でも少しだけ嬉しそうな声。
ネロリが、穏やかに言った。
「ええ。よくできました、アロマ」
その言葉に、アロマの目が揺れる。
ラブは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
由香里が、初めて魔法を使った。
攻撃ではない。
強く撃ち抜く魔法でもない。
けれど、確かに黒霧を薄めた。
妖魔の中心を見えるようにした。
それは、アロマにしかできないことだった。
黒霧が、再び低くうねる。
浄化された外側を取り戻そうとするように、残った黒い影が集まり始める。
ラブは、杖を構え直した。
「まだ終わってない」
フローラがうなずく。
「コアが見えたなら、次は私の番だね」
アロマは、まだ少し息を乱していた。
それでも、二人を見て、小さくうなずく。
「私も……できること、する」
ラブは、マジカル・ビジョンに映る赤い点を見つめた。
今なら、伝えられる。
黒霧の奥にある、妖魔の中心。
三人でつなげる。
ラブは、フローラへ視線を向けた。
「フローラ、コアの位置を伝えるよ」
フローラが、にっと笑った。
「任せて」
保健室の虚数空間の中で、淡い香りがまだ残っている。
黒霧は薄れ、赤いコアの輪郭が浮かび上がり始めていた。
アロマ・ピュリファイ。
マジカル・アロマの初めての魔法は、三人の連携への道を開いていた。
◆ 三人の連携
黒霧の奥に、赤い点が浮かび上がっていた。
まだ、完全にはっきりしているわけではない。
黒いもやは残っている。
輪郭も揺れている。
けれど、さっきまでとは違う。
見える。
マジカル・ビジョンの視界の中で、赤い点が小さく脈打つように表示されていた。
妖魔のコア。
ラブは、杖を構えたまま、その位置を見失わないように集中する。
攻撃しない。
今ここで、ラブ・ショットを撃つこともできるかもしれない。
けれど、今回の黒霧は、アロマの周囲から発生したものだ。
強引に撃ち崩すより、アロマの浄化で薄め、フローラの剣で一点を貫く方が確実だと感じた。
ラブは、マジカル・ビジョンに映る赤い点を見つめる。
「フローラ。正面から少し右、カーテンの奥。赤い点が見える?」
フローラは、目元のマジカル・ビジョン越しに黒霧を見た。
「見える。ちょっと揺れてるけど……あれだね」
その声には、もう迷いが少なかった。
駅前で初めて剣を握った時より、ずっと落ち着いている。
フローラは感覚で動くタイプだ。
一度コアの位置さえつかめば、身体が自然に動く。
ラブは、今度はアロマを見る。
「由香里ちゃん」
アロマが、はっと顔を上げる。
まだ少し息は乱れている。
初めての魔法を使ったばかりで、肩にも力が入っている。
でも、胸元のリボンには、淡い光が残っていた。
「マジカル・ビジョンに、赤い点が見えるでしょ?」
「赤い……点……」
アロマは、恐る恐る黒霧を見つめた。
白いマジカル・ビジョンの奥で、彼女の瞳が揺れる。
最初は不安そうだった。
けれど、次の瞬間、アロマの表情が変わる。
「……見える」
小さな声だった。
でも、確かだった。
「黒霧の奥に……赤い点がある……。あれが……?」
「妖魔のコアよ」
アムルが静かに言った。
「コアを壊せば、妖魔は消滅する」
アロマは、息を呑んだ。
コア。
妖魔。
消滅。
言葉はまだ、由香里にとって重すぎるように見えた。
けれど、アロマは目をそらさなかった。
ネロリが、足元からやわらかく告げる。
「アロマ。あなたの役目は、黒霧を薄め続けることです。強く押し返そうとしなくていい。香りを広げるように、呼吸を続けて」
「うん……」
アロマは、胸元のリボンに手を添える。
頬はまだ赤い。
戦闘服にも、戦闘そのものにも、慣れていない。
それでも、呼吸はさっきより安定していた。
吸って。
吐く。
淡い香りが、もう一度保健室の虚数空間に広がっていく。
「アロマ・ピュリファイ……」
アロマの声は、さっきより小さい。
けれど、魔力の流れは途切れていなかった。
淡い紫と水色の光が、黒霧の表面に染み込んでいく。
黒いもやが、少しずつほどけていく。
妖魔が、低くうねった。
白いカーテンが、風もないのに大きく揺れる。
黒霧の中から、細い影のようなものが伸びた。
「来る!」
フローラが一歩前へ出る。
ラブは杖を構えたが、撃たなかった。
ここでラブが撃てば、フローラの進路を乱すかもしれない。
アロマの浄化が作った隙を、もっとも正確に突けるのは、フローラの剣だ。
ラブは、マジカル・ビジョンの表示を見つめる。
コアの位置。
黒霧の揺れ。
フローラとの距離。
全部を重ねる。
「フローラ、今!」
「任せて!」
フローラの手に、光が集まった。
花びらのような魔力がひとつ、ふたつと舞い、彼女の手の中で片手剣の形を作っていく。
剣は、軽やかだった。
けれど、芯がある。
フローラはそれを握ると、迷わず踏み込んだ。
保健室の床を蹴る。
普段の教室や廊下ではありえない速度。
でも、虚数空間の中では、彼女の動きが自然に伸びていく。
黒霧が、フローラを止めようとするように広がった。
その瞬間、アロマの香りがふわりと強くなる。
「ほどけて……!」
アロマの声とともに、黒霧の一部が薄れた。
フローラの進む道が、わずかに開く。
ラブは、赤い点を見失わないように叫んだ。
「もう少し右! そこ!」
フローラの瞳が、マジカル・ビジョン越しにコアを捉える。
「見えた!」
彼女の身体が、しなやかに動いた。
片手剣が、黒霧を裂く。
黒いもやは、刃に触れる直前まで形を変えようとした。
けれど、アロマの浄化で薄くなった場所だけは、逃げ場を失っていた。
赤い点が、露出する。
ほんの一瞬。
けれど、フローラには十分だった。
「これで……!」
フローラが踏み込み、片手剣を突き出す。
剣先が、赤いコアをまっすぐ貫いた。
音はなかった。
ただ、赤い光が一度だけ強く弾けた。
次の瞬間、黒霧が大きく震える。
コアを中心に、ひび割れるように赤い光が走り、黒いもやがほどけ始めた。
ラブは、マジカル・ビジョンの表示を見つめる。
赤い点が、消えていく。
コア反応、消失。
その文字が、淡く表示された気がした。
妖魔の輪郭が崩れる。
黒霧は、霧よりも細かい光の粒へと変わり、虚数空間の中で静かに分解されていく。
濁った黒は、アロマの香りに触れるたび、薄く、淡く、透明に近づいていった。
やがて、最後の黒い揺らぎがほどける。
保健室の中に、静けさが戻った。
フローラは、片手剣を構えたまま息を吐く。
「……やった?」
ラブは、マジカル・ビジョンの表示を確認する。
赤い点は、もうない。
「うん。コア反応、消えてる」
アロマが、胸元のリボンに手を添えたまま立ち尽くしていた。
「私……本当に……」
声が震えている。
ラブは、アロマを見る。
「由香里ちゃんの魔法が、黒霧を薄めてくれたから」
フローラも、振り返って笑った。
「うん。アロマがいなかったら、私、あんなにはっきりコア見えなかったよ」
アロマの目が揺れる。
戸惑いと、驚きと、ほんの少しの実感。
自分にも、できることがあった。
その感覚が、少しずつアロマの中に広がっていくようだった。
ネロリが、静かに目を細める。
「よくできました。初めてにしては、十分すぎます」
アロマは、何かを言おうとして、言葉に詰まった。
その時だった。
遠くから、音が聞こえた。
キーンコーンカーンコーン――。
授業の終わりを告げるチャイム。
虚数空間の中にも、その音は普通に届いていた。
保健室の外では、いつもの学校の時間が流れている。
けれど、この中では、たった今、三人の魔法戦士が初めて力を合わせて妖魔を倒した。
ラブは、チャイムの音を聞きながら、ゆっくり息を吐いた。
日常と非日常が、同じ音の中で重なっていた。
◆ 香りの余韻
チャイムの音が、虚数空間の中に静かに響いていた。
キーンコーンカーンコーン――。
いつもの学校の音。
一時間目の終わりを知らせる、何でもないはずの音。
けれど、保健室の中に立つラブには、その音が少し遠く感じられた。
白いカーテンは、もう激しく揺れていない。
黒霧も、赤いコアの反応も消えている。
保健室の虚数空間には、淡い香りだけが残っていた。
強すぎない。
甘すぎない。
深く息を吸うと、胸の奥のざわめきが少しだけ落ち着くような香り。
それは、アロマの魔法が残した余韻だった。
「……終わった、の?」
アロマが、小さくつぶやいた。
まだ、自分の声にも、自分の姿にも慣れていないようだった。
胸元のリボンに手を添え、短いスカートの裾を少し気にしながら、黒霧が消えた場所を見つめている。
ラブは、マジカル・ビジョン越しにもう一度確認した。
赤い点はない。
黒霧の反応もない。
「うん。コア反応は消えてる」
そう答えると、アロマの肩から、ほんの少し力が抜けた。
フローラも、片手剣を下ろして息を吐く。
「よかった……ほんと、よかったぁ……」
そう言った瞬間、フローラの剣は花びらのような光になってほどけ、空気の中へ消えていった。
ラブも、杖を握る手をゆっくり下ろす。
保健室の四隅を包んでいた虚数空間の境界は、まだ安定している。
きれいに張れている分、解除の感覚もつかみやすかった。
ラブは、保健室の中を見渡した。
左奥の窓際。
右奥の薬品棚。
入口の扉。
反対側の壁。
四隅を結んだ空間の輪郭を、もう一度頭の中で確認する。
外の音は聞こえている。
でも、外からはこの中で起きたことは見えていない。
このままではいけない。
戦いは終わった。
なら、現実へ戻さなければ。
ラブは、小さく息を吸った。
「リターン・フィールド」
声に合わせて、杖の先が淡く光る。
保健室の四隅に張られていた見えない境界が、静かにほどけていく。
強い光はない。
大きな音もない。
ただ、空気が一段、元の位置へ戻るような感覚があった。
虚数方向へずれていた保健室が、現実の層へ重なり直す。
白いカーテン。
ベッド。
薬品棚。
窓から差し込む朝の光。
見た目は、何も変わらない。
けれど、ラブにはわかった。
虚数空間は解除された。
保健室は、いつもの保健室へ戻ったのだ。
それでも、淡い香りだけはまだ残っている。
まるで、さっきまでここで起きていたことを、静かに覚えているみたいに。
「上手に解除できたわ、ラブ」
アムルが言った。
その声に、ラブは少しだけほっとする。
「よかった……」
本当は、足から力が抜けそうだった。
虚数空間を保健室全体に張るのは、駅前の時より範囲としてはわかりやすかった。
けれど、初めて三人で戦い、由香里を守りながら維持するのは、やっぱり緊張した。
フルルが、フローラの足元でしっぽを揺らす。
「フローラも、よく踏み込んだわね」
「うん……でも、アロマが黒霧を薄くしてくれたから」
フローラは、アロマを見る。
アロマは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「私……ほんとに役に立てたの……?」
「もちろん」
ラブはすぐに答えた。
「由香里ちゃんの魔法がなかったら、コアの位置、あんなにはっきり見えなかった」
「私も、あそこまで踏み込めなかったと思う」
フローラも続ける。
アロマは、胸元のリボンに手を添えたまま、少しだけうつむいた。
頬はまだ赤い。
戦ったことへの驚き。
変身したことへの恥ずかしさ。
自分に魔法が使えたことへの戸惑い。
その全部が、まだ混ざっているようだった。
「私……まだ、全然わからない」
アロマの声は、小さかった。
「どうして私なのかも、何が起きたのかも……二人がどうして魔法戦士だったのかも……」
ラブは、言葉に詰まる。
説明しなければならないことは、たくさんある。
アムルのこと。
フルルのこと。
妖魔のこと。
魔法戦士のこと。
そして、秘密にしなければならないこと。
けれど、それを今すべて話すには、由香里は疲れすぎている。
フローラも、同じことを感じているのか、少し困った顔でアロマを見ていた。
その時、鶴岡先生が静かに口を開いた。
「詳しい話は、田村さんが落ち着いてからにしましょう」
三人の視線が、鶴岡先生へ向く。
鶴岡先生は、白衣の襟元を乱すことなく、いつもと同じ落ち着いた姿で立っていた。
けれど、さっきの戦闘を見ていた先生とは思えないほど、表情は穏やかだった。
「今は、休ませることが先です」
その言葉には、有無を言わせない静かな力があった。
アロマ――由香里は、少しだけほっとしたように息を吐く。
「……はい」
「田村さんは、このまま保健室で休みましょう。無理に教室へ戻る必要はありません」
鶴岡先生はそう言って、白いカーテンの奥のベッドを示した。
由香里は一度、ラブとフローラを見る。
「二人は……?」
ラブは、胸が少し痛んだ。
本当は、そばにいたい。
このまま由香里の近くで、全部説明して、安心させたい。
でも、外では授業が終わり、学校の日常が進んでいる。
ここに三人がそろって長く残れば、不自然に思われるかもしれない。
鶴岡先生が、あいと美咲へ視線を向けた。
「宮本さん、橘さん。あなたたちは教室へ戻りなさい。次の授業があります」
「でも……」
ラブは、思わず言いかける。
鶴岡先生の視線は優しかった。
「田村さんは、私が見ています」
その一言で、ラブは言葉を止めた。
鶴岡先生は、ただの保健室の先生ではない。
それはもう、わかっている。
アムルとフルルが見えていた。
魔法戦士のことも知っていた。
虚数空間の中でも、少しも取り乱さなかった。
詳しいことは、まだ何も聞いていない。
でも、この人なら由香里を任せられる。
そう思えた。
フローラも、少し迷った後でうなずいた。
「由香里……あとで、絶対話すから」
由香里は、まだマジカル・アロマの姿のまま、小さくうなずいた。
「うん……」
ラブは、由香里のそばへ一歩近づく。
「大丈夫。ひとりにしないから」
その言葉に、由香里の目が少しだけ揺れた。
「……ありがとう」
かすかな声だった。
けれど、確かに届いた。
ネロリが、由香里の足元へ静かに寄る。
「私はここにいます」
ネロリの声は、落ち着いていた。
「休んでいる間も、呼吸を整えましょう。大丈夫、あなたはもう黒霧に飲まれるだけではありません」
由香里は、ネロリを見る。
そして、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
「……うん」
その様子を見て、ラブはようやく少しだけ安心した。
アムルが、ラブを見上げる。
「そろそろ解除しましょう」
「うん」
フルルも、フローラのそばでうなずいた。
「三人一緒にね」
アロマが、少し緊張したように二人を見る。
「解除……?」
「変身を戻すの」
ラブが説明する。
「呪文は、ピースフル・モーメント」
「ピースフル……モーメント……」
アロマは、小さく繰り返した。
ラブ、フローラ、アロマ。
三人は、白いカーテンのそばに並んだ。
同じ系統のセーラー戦闘服。
違う色のリボン。
それぞれのマジカル・ビジョン。
ほんの少し前まで、由香里は普通の制服姿でベッドに横になっていた。
それが今、三人目の魔法戦士として、同じ場所に立っている。
ラブは、不思議な気持ちになった。
たった一日で、世界がどんどん変わっていく。
ひとりだったはずの戦いに、美咲が加わった。
そして今、由香里も。
まだ怖い。
まだわからない。
でも、もう完全にひとりではない。
三人は、息を合わせる。
「ピースフル・モーメント」
ラブの声。
「ピースフル・モーメント」
フローラの声。
「ピースフル・モーメント……」
アロマの声。
淡い光が、三人を包んだ。
マジカル・ビジョンが静かに薄れ、戦闘服が光の粒子へほどけていく。
胸元のリボンも、短いスカートも、魔力の光となって消えていく。
代わりに戻ってくるのは、いつもの制服。
白いブラウス。
紺のブレザー。
緑と紺のチェック柄スカート。
あいは、自分の制服姿に戻った瞬間、少しだけ息を吐いた。
けれど、不思議なことに、制服に戻っても胸の奥はまだ落ち着かない。
戦闘服の感覚。
虚数空間の境界。
アロマの香り。
由香里が魔法戦士になった瞬間。
全部が、まだ身体の中に残っている。
美咲も、自分の制服を見下ろして、少しだけ頬を赤くした。
「戻ったのに……なんか、まだ落ち着かないね」
「うん……」
あいは小さくうなずいた。
由香里も制服姿に戻っていた。
けれど、まだベッドのそばで少しふらついている。
鶴岡先生がすぐに支えた。
「田村さんは、横になって」
「はい……」
由香里は素直にベッドへ戻る。
白いシーツの上に横になると、さっきまでの戦闘が嘘のように見えた。
でも、違う。
由香里のそばには、ネロリがいる。
あいの足元にはアムル。
美咲のそばにはフルル。
もう、何もなかったことにはできない。
鶴岡先生は、由香里に薄い毛布をかけた。
「少し眠れるなら、その方がいいわ。今は体も魔力も驚いている状態です」
魔力。
鶴岡先生は、ごく自然にその言葉を使った。
あいは、改めて先生を見る。
聞きたいことがある。
どうして知っているのか。
どうして見えているのか。
なぜ、こんなに落ち着いているのか。
けれど、鶴岡先生は先に言った。
「宮本さん、橘さん」
「は、はい」
「次の授業に遅れないように。廊下に出る前に、顔を整えていきなさい」
「顔……?」
美咲が不思議そうに聞く。
鶴岡先生は、少しだけ微笑んだ。
「二人とも、かなり緊張した顔をしています。教室に戻ってすぐに聞かれますよ」
「あ……」
あいと美咲は、思わず顔を見合わせた。
確かに、このまま戻ったら、何かあったのはすぐにわかってしまうかもしれない。
あいは、深呼吸をした。
美咲も、両頬を軽く押さえて表情を整えようとする。
「由香里ちゃん」
あいは、ベッドのそばへもう一度近づいた。
「また、あとで来るね」
由香里は、毛布の中から小さくうなずいた。
「うん……待ってる」
その声は弱かった。
でも、黒霧に苦しんでいた時とは違う。
ちゃんと由香里の声だった。
美咲も、にっと笑おうとする。
「ちゃんと休んでてよ。無理して教室戻ってきたら、私たちが怒るから」
「……美咲らしいね」
由香里の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それだけで、あいは胸がいっぱいになった。
鶴岡先生が、保健室の扉の鍵へ向かう。
かちり、と小さな音がして、鍵が開いた。
その音で、現実の学校へ戻る合図をされたような気がした。
廊下の向こうから、生徒たちのざわめきが少しずつ聞こえ始めている。
休み時間になったのだ。
さっきまで虚数空間の中で妖魔と戦っていたなんて、誰も知らない。
保健室の中にだけ、淡い香りが残っている。
あいと美咲は、扉の前で振り返った。
由香里はベッドに横になっている。
ネロリは、そのそばに静かに座っていた。
鶴岡先生は、白衣の襟元を整え、いつもの養護教諭の顔に戻っている。
けれど、もうただの先生には見えなかった。
「行きましょう、宮本さん、橘さん」
鶴岡先生が静かに言った。
「田村さんは、私が見ています」
「……はい」
あいはうなずいた。
美咲も、小さく頭を下げる。
「お願いします」
保健室の扉を開けると、休み時間の廊下の空気が流れ込んできた。
明るい声。
足音。
次の授業へ向かう生徒たちの気配。
いつもの学校。
でも、あいの中では、何もかもが少し変わっていた。
由香里が、魔法戦士になった。
マジカル・アロマ。
香りと浄化の力を持つ、三人目の仲間。
あいは、廊下へ一歩踏み出す。
隣には美咲がいる。
足元には、アムルとフルルの気配がある。
保健室の中には、由香里とネロリが残っている。
次の授業が始まる。
けれど、あいの胸の奥にはまだ、淡い香りの余韻が残っていた。
◆人物紹介
【北山玲奈 (きたやま れな)】
私立さくら女子高等学校の数学教師。
三年A組の一時間目の数学を担当している。
落ち着いた雰囲気の女性教師で、板書は整っており、授業の進め方も冷静。
厳しさはあるが威圧的ではなく、生徒の力をきちんと見て評価する先生。
第六話「教室の黒霧」では、複素平面の授業中に宮本あいを指名する。
あいが短めのスカートで黒板に出ることに強く緊張し、チョークを落としてしまった際も、叱るのではなく、物を拾う時の姿勢や所作について静かに指導した。
短めのスカートそのものを否定するのではなく、服装の自由と、清潔感のある所作を両立することを大切にしている。
また、あいの複素平面の解答を高く評価し、数学面での強みを認める。
田村由香里の体調異変にも落ち着いて対応し、あいと美咲に保健室への付き添いを任せた。
第六話時点では詳しい事情は語られないが、どこか普通の教師以上に状況を見ているような雰囲気を持つ。
【鶴岡紗英 (つるおか さえ)】
私立さくら女子高等学校の養護教諭。
保健室を担当している、二十代後半の女性教師。
白衣の襟元はきちんと整えられ、黒髪をすっと一つにまとめた落ち着いた印象の人物。
視線は優しいが、判断は鋭い。
生徒の表情や呼吸、体調の変化に敏感で、必要な時には迷わず判断する。
第七話「香りの魔法戦士」では、黒霧に包まれた田村由香里を保健室で診る。
由香里の呼吸や顔色だけでなく、あいと美咲の反応、アムルとフルルの存在から、二人が魔法戦士であることを見抜いた。
「二人とも、もう隠さなくていいわ。あなたたち……魔法戦士ね」
そう告げたうえで、詳しい説明は後回しにし、今は由香里を守ることが先だと判断する。
保健室の扉に鍵をかけ、外部から人が入らないようにしたうえで、三人の魔法戦士を中から見守った。
魔法戦士や黒霧について何かを知っているようだが、第七話時点では自分の過去を詳しく語っていない。
ただし、虚数空間の中でも取り乱さず、戦闘後も由香里を休ませる判断を下すなど、魔法戦士たちにとって頼れる大人側の存在である。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第七話では、由香里が「香りの魔法戦士」として目覚め、あい、美咲、由香里の三人が初めて同じ場所に並びました。
黒霧に飲み込まれそうになりながらも、ネロリの声に導かれ、自分自身の呼吸と力を取り戻していく由香里。
そして、ラブの解析、フローラの剣、アロマの浄化がつながったことで、三人の連携が初めて形になりました。
また、鶴岡先生も、ただの養護教諭ではなさそうな一面を見せました。
詳しいことはまだ語られていませんが、あい達にとって、頼れる大人側の存在になっていきそうです。
由香里はまだ、自分が魔法戦士になったことを受け止めきれていません。
けれど、あいと美咲、そしてネロリがそばにいます。
これから三人がどんな関係になっていくのか、見守っていただければ嬉しいです。
ご意見・ご感想、気になった場面や今後見てみたい展開などがあれば、お気軽にお寄せください。
次回もよろしくお願いします。




