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美少女魔法戦士マジカルラブ  作者: 宮本あい
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6/9

教室の黒霧

お読みいただきありがとうございます。


第六話は、いつもの教室から始まります。

黒板に描かれる複素平面。

静かに進む数学の授業。

机に向かうクラスメイトたち。

すべては普段どおりのはずなのに、あいの心はまだ少し落ち着きません。

短めのスカートで受ける初めての授業。

黒板の前に立つ緊張。

そして、さっきまで戦っていた感覚の名残。

そんな日常の中で、由香里の周囲に小さな異変が現れます。

教室という、いちばん普通で安全に見える場所に忍び寄る黒霧。

それが何を意味するのか、ぜひ見守っていただければ嬉しいです。


◆ 一時間目は数学


がらり、と教室の扉が開いた。

朝の三年A組は、すでにいつものざわめきに包まれていた。

机の上に教科書を出す音。

椅子を引く音。

友人同士で交わす小さな笑い声。

あいは、美咲と由香里の後に続いて教室へ入った。

ついさっきまで、昇降口で靴箱の上にいたアムルとフルルを、由香里が自然に見上げていた。

その光景が、まだ頭から離れない。

けれど、教室はいつも通りだった。

窓から朝の光が差し込み、黒板には前日の板書の跡がうっすら残っている。

クラスメイトたちは、いつものように一時間目の準備をしていた。

日常。

そう呼ぶしかない風景の中へ、あいはゆっくり戻っていく。

「一時間目は数学だからね」

由香里が、いつもの落ち着いた声で言った。

あいは、はっとして自分の席の方を見る。

あいの前には美咲の席。

あいの右隣、廊下側には由香里の席がある。

教室の後ろ側。

いつもなら、黒板まで少し距離があるこの席は落ち着ける場所だった。

でも今日は違う。

一時間目が数学。

それだけで、あいの胸が小さく鳴った。

数学は得意だ。

問題を解くことも、式を追うことも、嫌いではない。

むしろ、落ち着いて考えられるなら、好きな科目だった。

けれど、今日のあいは落ち着いていない。

膝上十五センチのスカート。

初めてのミニスカート通学。

さっきまで残っていた戦闘の余韻。

制服に戻っているのに、まだ身体の奥に戦闘服の軽さが残っているような感覚。

その全部が、一時間目の教室にまでついてきている。

「数学って、北山先生だよね?」

美咲が自分の席に鞄を置きながら、小声で言った。

「うん」

由香里が頷く。

「北山先生って、短めのスカートの子にはけっこう厳しいんだよ」

「えっ……」

あいの手が止まった。

机に置こうとしていたペンケースが、かすかに揺れる。

短めのスカート。

その言葉が、今のあいにはまっすぐ刺さった。

「き、厳しいって……怒られるの……?」

思わず声が小さくなる。

美咲は、少しだけいたずらっぽく目を細めた。

けれど、すぐに由香里が穏やかに補足する。

「怒るというより、所作を見ている先生だよ」

「所作……?」

「うん。立ち方とか、座り方とか、物を拾う時の動き方とか」

由香里はそう言いながら、自分の席に教科書を置いた。

その動作は、いつも通り落ち着いている。

スカート丈も膝上五センチほどで、きちんとしていて、由香里らしい上品さがあった。

由香里は、まだ普通に見えた。

朝の昇降口で猫を見上げたことも、特別なこととは思っていないようだった。

今もただ、いつもの由香里として、一時間目の準備をしている。

だからこそ、あいは少し混乱する。

由香里は本当に、何も気づいていないのだろうか。

でも、今はそれを考えている場合ではなかった。

美咲が、さらに声を潜める。

「ちゃんと自分でガードできてるか、すぐわかるんだって」

「が、ガード……」

あいの顔から、すうっと血の気が引いていく気がした。

ガード。

その言葉だけで、今朝から何度も意識してきたスカート丈が、急に重くなる。

歩道橋。

駅のエスカレーター。

電車の中。

校門前。

昇降口。

階段。

全部、どうにか通ってきた。

でも、授業中はまだだ。

立ち上がる。

礼をする。

黒板の前へ出る。

チョークを持つ。

振り返る。

席へ戻る。

教室中に見られる。

考えただけで、背中が固まった。

「北山先生はね」

由香里が、あいの様子に気づいたのか、少しやわらかい声で続けた。

「短いのがだめって言う先生じゃないよ。ただ、自由に着るなら、見え方にも気を配りなさいっていうタイプ」

「見え方……」

「うん。さくら女子って、スカート丈はわりと自由でしょ。でも、だからって、何でも雑でいいわけじゃないから」

由香里の言葉は、静かだった。

責めているわけではない。

からかっているわけでもない。

ただ、北山先生の考え方を説明しているだけ。

それはわかる。

わかるのに、あいの胸はますます落ち着かなくなった。

「女子校だからって、見えても気にしない、みたいなのは違うってことだよね」

美咲が小さく言った。

さっきまで少し茶化すような声だったのに、そこだけは妙に真面目だった。

「うん」

由香里が頷く。

「清潔感とか、品のある動き方とか、そういうところを見てる先生だと思う」

清潔感。

品のある動き方。

あいは、そっと自分のスカートへ意識を向けた。

今朝、鏡の前で何度も測った膝上十五センチ。

北山先生から見たら、どう見えるのだろう。

きちんと整っているように見えるだろうか。

それとも、慣れていなくて危なっかしい生徒に見えるだろうか。

高瀬先生には、裾ばかり気にすると姿勢が崩れると言われた。

そして今度は、北山先生が所作を見るという。

今日一日だけで、こんなに見られるものなのだろうか。

あいは、机の上に教科書とノートを置きながら、指先に力が入るのを感じた。

「だ、大丈夫かな……」

思わず、声に出ていた。

美咲が振り返る。

「大丈夫だよ、あいちゃん。北山先生、怖い先生じゃないし」

「でも……当てられたら……」

あいの視線が、黒板へ向く。

前に出る。

チョークを持つ。

背中に教室中の視線を受ける。

その想像だけで、顔が熱くなりそうだった。

しかも、今日は普通の日ではない。

さっきまで、妖魔と戦っていた。

美咲が魔法戦士になった。

由香里がアムルとフルルを見た。

その全部を抱えたまま、数学の授業を受けようとしている。

心が、まだ完全に教室へ戻っていない。

そんな状態で黒板に出たら、きっと動きがぎこちなくなる。

北山先生には、それもすぐに見抜かれてしまう気がした。

「もし当てられても、あいちゃんなら問題は解けるでしょ」

美咲が励ますように言う。

「そ、そういう問題じゃなくて……」

「じゃあ、どういう問題?」

「その……黒板の前って、みんなに見られるから……」

言いながら、あいは自分の声がどんどん小さくなるのを感じた。

美咲は少しだけ目を丸くしたあと、すぐに「ああ」と納得したように頷く。

「そっか。今日はそこも気になるよね」

「うん……」

小さく答えると、由香里がやさしく微笑んだ。

「無理に堂々としなくてもいいと思うよ。落ち着いて、ゆっくり動けば」

「ゆっくり……」

「急ぐと、かえって動きが崩れるから」

その言葉は、由香里らしく穏やかだった。

あいは少しだけ息を吐く。

由香里は、何も知らない。

少なくとも、今のところはそう見える。

それなのに、言ってくれることは、どこか今のあいに必要な言葉ばかりだった。

「うん……ありがとう」

あいがそう言うと、由香里は「どういたしまして」と微笑んだ。

その表情は、いつも通りだった。

落ち着いていて、やわらかくて、少し大人びている。

さっきの昇降口でのことがなければ、あいもいつも通りに受け止められたはずだった。

でも今は、由香里の何気ない一言も、少しだけ違って聞こえてしまう。

あいは、右隣の由香里をちらりと見る。

特に変わった様子はない。

顔色も、いつもと大きく違うようには見えない。

ノートを出し、ペンを置き、姿勢よく座っている。

本当に、普通だった。

だからこそ、あいは胸の奥に小さな不安をしまい込むしかなかった。

美咲が前の席に座り、こちらを振り返る。

「まあでも、あいちゃん。北山先生に当てられても、たぶん大丈夫だよ」

「たぶん……?」

「だって、数学は得意じゃん」

「それは……そうだけど……」

「それに、ちゃんとガードできてるかは、私もあとで見てあげるし」

「美咲ちゃん……!」

あいの顔が一気に熱くなる。

「し、声が大きい……!」

「ごめんごめん」

美咲は悪びれずに笑う。

けれど、その笑い方も、いつもより少しだけ慎重だった。

美咲自身も、まだ完全には戻っていないのだと、あいにはわかった。

普段なら、もっと軽く言っていたはずだ。

でも今日は、美咲も少しだけ自分のスカートを意識している。

それが、あいには少しだけ心強かった。

机の上に数学の教科書を開く。

白いページに並ぶ式や図形を見ると、ほんの少しだけ気持ちが整った。

数字。

記号。

条件。

導くべき答え。

そこには、感情で揺れないものがある。

今朝からずっと、恥ずかしいことや落ち着かないことばかりだった。

けれど、数学の問題は、ちゃんと考えれば答えに近づける。

あいは、シャープペンシルを握った。

その時、教室の前の扉が開いた。

すっと、空気が変わる。

黒板の前に、北山玲奈先生が入ってきた。

長めの髪を後ろでまとめ、落ち着いた表情をしている。

派手さはないが、背筋が自然に伸びていて、教室全体を見る目が静かに鋭い。

北山先生は、教卓に教科書と出席簿を置いた。

その動作ひとつにも無駄がない。

あいは、思わず背筋を伸ばした。

見られているわけではない。

まだ、何も言われていない。

それでも、北山先生が教室に入ってきただけで、さっき美咲と由香里が話していたことが現実味を帯びる。

立ち方。

座り方。

物を拾う時の動き方。

ちゃんと自分でガードできているか。

あいは、机の下でそっと膝をそろえた。

チャイムが鳴るまで、あと少し。

一時間目の数学が、もうすぐ始まる。


◆ 起立、礼、着席


キーンコーンカーンコーン――。

チャイムの音が、三年A組の教室に響いた。

それまで小さくざわついていた教室が、少しずつ静かになっていく。

椅子の脚が床を引く音。

教科書を閉じる音。

誰かが小さく咳払いをする音。

いつもの、一時間目が始まる前の空気。

北山先生は、教卓の前で出席簿を開き、教室全体を静かに見渡した。

「始めます」

落ち着いた声だった。

大きな声ではないのに、不思議と教室の端まで届く。

あいは思わず背筋を伸ばした。

「起立」

日直の声で、クラスメイトたちが一斉に立ち上がる。

あいも、椅子を引いて立った。

その瞬間、胸の奥がどきりとする。

ただ立ち上がっただけ。

いつも通りの動作のはずだった。

けれど今日は、足元の感覚が違う。

膝上十五センチのスカート。

朝から何度も意識してきた、いつもより短い丈。

立ち上がると、制服の裾がふわりと小さく動いた。

ただ、それだけ。

周りの誰も気にしていない。

前の席の美咲も、右隣の由香里も、教室のほかの生徒たちも、普通に立っている。

それなのに、あいだけが、足元の空気まで意識してしまう。

(普通に……普通に立てばいいだけ……)

そう思うほど、膝に力が入りそうになる。

あいの席は、教室の後ろの方にある。

前には美咲の背中。

右隣、廊下側には由香里。

黒板までは少し距離があり、北山先生の姿も、いつもなら安心して見られるはずだった。

でも今日は、教室全体が妙に広く感じる。

後ろの席にいるのに、どこからでも見られているような気がしてしまう。

「礼」

日直の声が続いた。

あいは、息を止めかけた。

礼。

ただ上体を少し前に倒すだけ。

毎日何度もしている、何でもない動き。

けれど、今日だけは違った。

角度。

どのくらい前へ倒せば自然なのか。

スカートの裾はどう動くのか。

後ろの席から見た時、変に見えないか。

一瞬の間に、そんなことが頭の中を駆けめぐる。

周りは何も気にしていない。

日直の声に合わせて、クラスメイトたちは普通に礼をしている。

美咲も、由香里も。

だから、あいも遅れないように、そっと上体を倒した。

「お願いします」

教室の声が重なる。

スカートの裾が、動いた気がした。

ほんの少し。

本当に、気にするほどではないくらい。

それでも、あいの心臓は跳ねる。

(だ、大丈夫……?)

自分で自分に問いかけてしまう。

礼の姿勢のまま、時間が長く感じられた。

実際には、ほんの一秒か二秒だったはずなのに。

顔を上げると、北山先生はいつも通り教卓の前に立っていた。

特に何かを言うわけでもない。

あいだけを見ているわけでもない。

けれど、その静かな目が、教室全体をきちんと見ていることはわかった。

立ち方。

姿勢。

礼の仕方。

座る時の動き。

さっき美咲と由香里が話していたことが、また頭の中によみがえる。

「着席」

日直の声で、クラスメイトたちが椅子に座っていく。

あいも、そっと腰を下ろした。

椅子に座る動きまで、今日は妙に慎重になる。

鞄の位置。

机との距離。

スカートの裾の落ち方。

考えすぎだと、自分でもわかっていた。

でも、考えずにはいられない。

前の席で、美咲が座り直した。

いつもなら、何も気にせず軽やかに椅子へ座る美咲だ。

でも今日は、ほんの少しだけ動きが硬い。

あいほどではない。

それでも、いつもの美咲とは少し違う。

美咲も、まだ残っているのだ。

戦闘服の感覚が。

フローラとして戦った時の、あの落ち着かない余韻が。

あいはそのことに気づいて、少しだけ胸が軽くなった。

自分だけではない。

そう思えるだけで、ほんの少し息がしやすくなる。

「大丈夫?」

右隣から、小さな声がした。

由香里だった。

あいは、少し驚いて横を見る。

由香里は、いつも通り落ち着いた表情でこちらを見ていた。

膝上五センチほどのスカート丈も、姿勢も、座り方も、自然で整っている。

「う、うん……大丈夫」

あいは小さく答えた。

けれど、声は少しだけ硬かった。

由香里は、それを責めるでもなく、やさしく目を細める。

「焦らなくていいよ。動作をゆっくりにすると、少し落ち着くから」

「ゆっくり……」

「うん。急いで隠そうとしたり、気にしすぎたりすると、かえって目立っちゃうこともあるから」

由香里の声は、穏やかだった。

何気ない助言。

いつもの由香里らしい言葉。

でも今のあいには、それがとてもありがたかった。

「ありがとう……」

あいがそう言うと、由香里は小さく頷き、前を向いた。

由香里は落ち着いている。

少なくとも、あいにはそう見えた。

その静かな横顔を見ていると、少しだけ呼吸が整う気がした。

北山先生が、チョークを手に取る。

白いチョークが、黒板に触れた。

かつ、かつ、と乾いた音が教室に響く。

まず、横に一本の直線が引かれる。

その右端に、小さく「実数軸」と書かれた。

続いて、中央から上へ向かって、もう一本の線がまっすぐ伸びる。

そこには「虚数軸」と記される。

実数軸と虚数軸。

黒板の上に、複素平面の図が整った形で描かれていく。

あいはノートを開き、シャープペンシルを握った。

複素数。

実数だけでは表せない数を、別の方向へ広げて考えるための考え方。

北山先生の板書は、いつも通り無駄がなかった。

点の位置、線の長さ、文字の配置。

どれもきれいに整っていて、見ているだけで頭の中まで少し整理されていく気がする。

黒板は遠い。

でも、北山先生の字は読みやすい。

複素平面の図も、式の流れも、すっと頭に入ってくる。

数学の授業。

いつもの授業。

そう思えば、少し落ち着けるはずだった。

けれど、あいの意識はまだ完全には戻りきらない。

前の席の美咲の背中。

右隣の由香里の静かな気配。

遠くの黒板。

そして、教室全体の視線。

誰もあいのことなど見ていない。

見ているとしても、普通のクラスメイトとしてそこにいるだけ。

わかっている。

わかっているのに、今日のあいには、すべてが少しだけ近く、少しだけ強く感じられた。

北山先生の声が響く。

「では、前回の続きから入ります」

教室の空気が、授業のものへ変わっていく。

あいは、息を整えた。

スカートのことばかり考えていたら、また動きが固くなる。

高瀬先生にも、アムルにも、似たようなことを言われた。

背筋を伸ばす。

呼吸を整える。

ゆっくり動く。

そして、考える。

数学なら、まだ大丈夫。

そう思った、その時だった。

北山先生が、黒板に式を書き終え、教室の方へ振り返った。

静かな視線が、列の前から後ろへと流れていく。

あいは、思わずシャープペンシルを握る手に力を込めた。

どうか、今は当たりませんように。

そんな願いが、胸の奥に小さく浮かんだ。


◆ 北山先生の指名


北山先生の授業は、静かに進んでいった。

黒板には、実数軸と虚数軸が交わる複素平面の図が描かれている。

横に伸びる実数軸。

そこからまっすぐ上へ伸びる虚数軸。

白い線はどれも整っていて、文字の間隔も乱れていない。

北山先生の板書は、いつもそうだった。

無駄がなく、見やすく、どこを見ればよいのかが自然にわかる。

あいは、ノートに同じ図を書き写しながら、少しずつ呼吸が落ち着いていくのを感じていた。

複素数。

実数だけでは届かない場所を、もう一つの軸で考える。

その考え方は、少し不思議だけれど、あいにはわかりやすかった。

数字が、ただの記号ではなく、平面上の一点として見えてくる。

条件が整理されると、頭の中まで整っていく気がする。

数学なら、大丈夫。

そう思いかけた、その時だった。

「では、この点を複素数として表すところまで確認しましょう」

北山先生が、黒板の右側に小さな点を打った。

その点から、実数軸と虚数軸へ向かって薄い補助線が引かれる。

「ここまでの流れは、前回の復習も含んでいます。式だけで追うのではなく、図として捉えることが大切です」

先生の声は落ち着いていた。

厳しい。

けれど、怖いわけではない。

ただ、聞き逃すと置いていかれるような、静かな緊張感がある。

あいは、シャープペンシルを握り直した。

当たりませんように。

さっきから胸の奥で、ずっとそう願っている。

問題そのものは、難しくない。

複素数の考え方も、複素平面の図も、あいにとってはむしろ得意な範囲だった。

いつもなら、点の位置を見た瞬間に、実数部と虚数部を分けて考えられる。

落ち着いてさえいれば、すぐに解ける。

けれど、今はその「落ち着いて」が、いちばん難しかった。

黒板の前に立つこと。

教室中の視線を浴びること。

膝上十五センチのスカートで、みんなの前を歩くこと。

それを考えるだけで、胸がきゅっと縮む。

北山先生の視線が、教室の前列からゆっくり後ろへ流れていった。

あいは、思わずノートに目を落とす。

見られているわけではない。

ただ先生が、生徒全体を見ているだけ。

それなのに、あいの背筋は自然と固くなった。

「宮本さん」

静かな声が、教室の後ろまで届いた。

「……はいっ」

あいの声が、思ったより高く響いた。

前の席の美咲が、ほんの少しだけ振り返る。

右隣の由香里も、気づかうようにこちらを見る。

あいは、椅子から立ち上がった。

その瞬間、またスカートの裾が気になる。

ただ立っただけなのに。

朝から何度も繰り返している動作なのに。

教室の中で、先生に名前を呼ばれて立つと、それだけで全然違って感じられた。

「この点を、複素数の形で表してみてください。途中の考え方も、黒板に書いてもらえますか」

「は、はい……」

北山先生は、あいが解けると思って指名している。

それはわかった。

あいは数学が得意だ。

授業中に指名されることも、これまでなかったわけではない。

だから、これは普通のこと。

先生が、解ける生徒に問題を任せただけ。

頭では、そう理解している。

けれど、心は別だった。

今の格好で、黒板に出るの?

その思いが、足元からじわじわ上がってくる。

あいは、机の横を通り抜けようとして、鞄に手が触れた。

少しだけ動きがぎこちなくなる。

落ち着いて。

ゆっくり動く。

急がない。

由香里が言ってくれた言葉を思い出す。

焦ると、かえって目立つ。

あいは小さく息を吸い、椅子の横を抜けた。

前の席の美咲が、声には出さず、口元だけで「がんばって」と言った気がした。

あいは、ほんの少しだけうなずく。

そして、教室の通路を黒板へ向かって歩き始めた。

一歩。

二歩。

上履きが床を踏む音が、やけにはっきり聞こえる。

実際には、教室は静かすぎるわけではない。

誰かがノートをめくる音も、ペンを置く音もする。

けれど、あいの耳には、自分の足音ばかりが大きく響いていた。

クラスメイトたちは、普通に黒板の方を見ている。

指名された生徒が前へ出るのだから、視線が向くのは当然だ。

誰かがあいをじっと見ているわけではない。

誰かがからかっているわけでもない。

それでも、あいには、教室中の視線が自分に集まっているように思えた。

全方位から見られている。

そんな感覚だった。

スカートの裾。

膝の動き。

歩幅。

背筋。

手の位置。

普段なら気にしないことまで、ひとつひとつ意識してしまう。

北山先生は、教卓の横で静かに待っていた。

その表情は変わらない。

急かすこともない。

ただ、あいが黒板の前に立つのを待っている。

その落ち着きが、少しだけありがたかった。

あいは黒板の前に立った。

チョーク入れに手を伸ばす。

白いチョークを一本取ると、指先に粉の感触がついた。

いつもの感触。

いつもの黒板。

いつもの数学。

そう思おうとする。

けれど、背中にはまだ教室の気配がある。

前を向けば黒板。

後ろにはクラスメイト。

右側には北山先生。

自分の立っている場所が、教室の中で一番目立つ場所に思えた。

「焦らなくていいですよ」

北山先生が静かに言った。

あいは、はっとして先生を見る。

「図を見て、実数部と虚数部を分けて考えれば大丈夫です」

「あ……はい」

問題の話だった。

けれど、その声は、今のあいの緊張まで見抜いているように聞こえた。

あいは、もう一度黒板を見る。

複素平面。

実数軸。

虚数軸。

点の位置を見れば、答えはわかる。

大丈夫。

恥ずかしくても。

見られている気がしても。

問題は、解ける。

あいはチョークを黒板に当てた。

かつ、と小さな音が鳴る。

白い線が、黒板の上に伸びていった。


◆ 落ちたチョーク


黒板の前に立つと、教室は思っていた以上に広く感じられた。

目の前には、北山先生が描いた複素平面の図。

横に伸びる実数軸と、上へ伸びる虚数軸。

その上に打たれた一点。

解くべきことは、わかっている。

その点の位置を見て、実数部と虚数部を読み取る。

複素数の形に直す。

必要なら、途中の考え方を式と図で示す。

いつもなら、すぐにできる。

あいにとって、複素平面は嫌いな分野ではなかった。

むしろ、数を平面上の点として捉える考え方は、頭の中を整えてくれる。

けれど、今は背中が気になった。

黒板に向かっている。

だから、教室の様子は見えない。

見えないからこそ、気になる。

後ろの席の誰かが、ノートにペンを走らせる音。

椅子がわずかにきしむ音。

誰かが息をのむような、小さな気配。

どれも、普段なら聞き流しているはずの音だった。

でも、今のあいには、それが全部、自分に向けられているように感じられた。

(落ち着いて……問題は、解ける……)

あいはチョークを握り、黒板に式を書き始めた。

実数部。

虚数部。

点の座標。

頭の中では、きれいに整理できている。

なのに、手元が少しだけ硬い。

チョークを持つ指先に、余計な力が入っているのがわかった。

背中にある教室の気配。

膝上十五センチのスカート。

黒板の前という、教室の中でいちばん目立つ場所。

全部が重なって、いつもの自分より少し遅くなる。

かつ、かつ、とチョークが黒板を叩く音がする。

あいは、途中式を書こうとして、少しだけ手を持ち替えた。

その瞬間だった。

「あ……」

指先から、チョークが滑った。

白いチョークが、黒板の下の受け皿に当たり、そこからさらに床へ落ちる。

ころん、と小さな音。

教室の空気が、ほんのわずかに止まった気がした。

あいの胸が、跳ねる。

(拾わなきゃ……!)

反射的に、体が動いた。

落ちたチョークは、あいの足元から少し横に転がっている。

すぐ拾える距離だった。

だから、あいは慌てて手を伸ばそうとした。

膝を曲げずに。

上半身だけを、前へ倒すように。

その瞬間、朝の歩道橋で落としたハンカチのことが、頭の隅をかすめた。

あの時も、同じだった。

慌てて、すぐに拾わなきゃと思って。

膝を曲げることも、身体の向きを整えることもできないまま、上半身だけで手を伸ばそうとして。

今回も、焦りが先に出てしまった。

どう拾えば自然なのか考えるより先に、体だけが動きかけていた。

「宮本さん」

北山先生の声が、静かに響いた。

大きな声ではなかった。

けれど、あいの動きを止めるには十分だった。

あいは、半端な姿勢のまま固まった。

「その体勢はよくありません」

「……っ」

顔が、熱くなる。

叱られた、と思った。

けれど、北山先生の声は、叱るためのものではなかった。

授業中に計算の間違いを直す時のような、落ち着いた声だった。

「短めのスカートの日は、物を拾う時の姿勢にも気をつけましょう」

北山先生は、ゆっくりと言った。

「膝を曲げて、身体の向きを整えてから拾いなさい」

「は、はい……」

あいは小さく答えた。

声が震えそうになる。

教室は静かだった。

クラスメイトたちは、北山先生の言葉を聞きながら、黒板の方を見ている。

授業中の、真剣な視線。

けれど、あいにはその視線が、全部自分に向けられているように感じられた。

黒板の前に立つ自分。

膝上十五センチのスカート。

北山先生に姿勢を直された、その一瞬。

教室中が、そこを見ているような気がして、顔が一気に熱くなった。

クラス全体が、北山先生の言葉を聞いている。

そして、今の例が自分なのだと、嫌でもわかってしまう。

北山先生は、教室全体へ視線を向けた。

「これは、宮本さんだけの話ではありません」

あいの心臓が、また小さく跳ねる。

自分だけの話ではない。

そう言ってくれているのに、やっぱり中心にいるのは自分だった。

「制服をどう着るかに自由がある分、自分の見え方を整えることも大切です」

北山先生の声は、変わらず静かだった。

「清潔感のある所作は、周りへの配慮でもあります」

教室の誰かが、そっと姿勢を正す気配がした。

あいは、ますます顔が熱くなる。

言われていることは、正しい。

短めのスカートを選んだのは自分だ。

なら、その丈に合った動き方を覚えなければいけない。

わかる。

わかるから、余計に恥ずかしい。

北山先生は、さらに一言だけ付け加えた。

「服装の自由と、所作の無頓着は同じではありません。その二つを混同しないように」

その言葉は、数学の定義を区別する時のように、冷静ではっきりしていた。

あいは、胸の奥でその言葉を受け止める。

自由。

所作。

無頓着。

どれも、今朝の自分に突き刺さる言葉だった。

「では、宮本さん。もう一度」

「は、はい」

あいは、北山先生に言われた通り、ゆっくり動いた。

まず、身体の向きを整える。

背中を教室へ不用意に向けすぎないように、少し斜めにする。

それから、膝を曲げる。

急がない。

慌てない。

スカートの裾を必要以上に押さえつけるのではなく、自然に意識しながら、体を低くする。

落ちたチョークを拾う。

ただそれだけの動作なのに、あいにはとても長く感じられた。

指先がチョークに触れる。

拾えた。

あいは、そっと立ち上がる。

「それでいいです」

北山先生が静かに言った。

その一言に、あいは少しだけ息を吐いた。

「続けましょう」

「はい……」

あいは黒板に向き直った。

背中はまだ熱い。

耳まで赤くなっている気がする。

教室中が、静かにこちらを見ていた。

それは授業中の視線だった。

北山先生の指導を聞き、黒板の前に立つあいの動きを見ているだけ。

それでも、今のあいには、自分のスカート丈も、立ち方も、拾い方も、全部見られてしまったように思えた。

胸の奥が、ぎゅっと縮まる。

(恥ずかしい……でも……)

あいは、手の中のチョークを見た。

今度は、少しだけ力を抜いて持つ。

北山先生の言っていたことは、たぶん正しい。

短くしたからには、それに合った動き方を覚える。

気にしすぎて固まるのでもなく、何も考えずに動くのでもなく。

ちゃんと整える。

あいは、黒板の複素平面を見た。

実数軸。

虚数軸。

点の位置。

そこには、恥ずかしさとは別の、落ち着いた規則がある。

大丈夫。

問題は、まだ解ける。

あいはもう一度チョークを黒板に当て、途中式の続きを書き始めた。


◆ 解く力は揺れない


あいは、もう一度チョークを黒板に当てた。

指先はまだ少し熱い。

耳まで赤くなっている気がする。

教室の空気は静かだった。

北山先生の言葉を受けて、クラスメイトたちは黒板の方を見ている。

あいがどう続きを書くのかを、授業の一部として見ている。

それだけのこと。

それだけのことなのに、あいには、背中から視線が集まっているように感じられた。

膝上十五センチのスカート。

黒板の前に立つ自分。

チョークを落として、姿勢を直されたばかりの自分。

全部を見られている気がして、胸の奥がぎゅっと縮まる。

(恥ずかしい……)

逃げ出したいわけではない。

でも、今すぐ席に戻れたらどれだけ楽だろうと思ってしまう。

それでも、黒板にはまだ途中式が残っている。

実数軸。

虚数軸。

複素平面上の一点。

あいは、小さく息を吸った。

目の前の問題へ意識を戻す。

点の位置を確認する。

実数部を読む。

虚数部を読む。

それを複素数の形へ直す。

難しい問題ではない。

むしろ、いつもなら迷わず解ける問題だった。

図を見た瞬間に、何をどう書けばいいかはわかっている。

だから、今するべきことはひとつだけ。

落ち着いて、書く。

あいは、途中式の続きを黒板に書いた。

白いチョークの線が、ゆっくりと伸びていく。

さっきよりも、指先の力を抜く。

文字の大きさをそろえる。

補助線と式の位置を合わせる。

実数部と虚数部を分け、点の座標と対応させる。

頭の中で、複素平面が静かに整っていく。

恥ずかしさは消えない。

教室の気配も、背中にある。

けれど、数式の流れだけは乱れなかった。

あいの中で、ひとつずつ条件が並んでいく。

与えられた点。

実数軸への射影。

虚数軸への射影。

複素数としての表し方。

そこには、感情とは別の規則がある。

恥ずかしいからといって、実数部が変わるわけではない。

緊張しているからといって、虚数部がずれるわけでもない。

図の上にある点は、ただそこにある。

だから、正しく読めばいい。

あいは最後の式を書き、答えを囲んだ。

チョークを少し離す。

黒板には、複素平面の図と、それに対応する式が整って並んでいた。

自分で見ても、悪くないと思った。

途中で失敗はした。

でも、解答そのものは崩れていない。

北山先生が、黒板の前へ一歩近づいた。

あいは、思わず肩に力を入れる。

先生はまず、複素平面の図を見た。

次に、あいが書いた式へ視線を移す。

教室もまた、静かに黒板を見ていた。

チョークの粉が、あいの指先に白く残っている。

その感触が、妙にはっきりしていた。

北山先生は、少し間を置いてから口を開いた。

「良い解答です」

静かな声だった。

けれど、その一言は、教室の後ろまできちんと届いた。

あいの胸が、どきんと鳴る。

「図と式の対応がわかりやすいですね。実数部と虚数部の取り方も正確です」

北山先生は、黒板の一部を指した。

「特にここ。補助線を先に示してから式に移っているので、見ている側にも流れが伝わります」

見ている側。

その言葉に、あいはまた顔が熱くなる。

クラスメイトたちの視線が、黒板へ向いている。

あいの書いた式を見ている。

あいの解答を見ている。

今度は、さっきとは違う意味で注目されていた。

失敗したところではなく、解いたところを見られている。

それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。

あいは、チョークを持ったまま小さくうつむきそうになった。

けれど、北山先生の声が続く。

「皆さんも、今の書き方を確認しておいてください。複素数は、式だけでなく図と対応させて考えると整理しやすくなります」

何人かの生徒が、黒板を見ながらノートに書き写し始めた。

かりかり、とシャープペンシルの音が教室に広がる。

美咲が、少しだけ振り返った。

声には出さない。

でも、口元が「すごい」と言っているように見えた。

あいは、ますます顔が熱くなる。

由香里も、静かに黒板を見ていた。

落ち着いた表情のまま、あいの解答を見て、小さくうなずいている。

その仕草が、なぜかとても嬉しかった。

恥ずかしい。

でも、少しだけ嬉しい。

自分の書いた式を、ちゃんと見てもらえた。

ただ恥ずかしいだけではなく、解答として認めてもらえた。

そのことが、胸の奥に小さな明かりのように灯った。

「宮本さん」

「は、はい」

「席に戻って大丈夫です」

「あ……はい」

あいは、チョークを受け皿に戻した。

今度は落とさないように、そっと置く。

白い粉が指先に残っている。

それを軽く払ってから、黒板の前を離れた。

席へ戻るまでの数歩が、また少し緊張する。

けれど、さっき前へ出た時とは少し違っていた。

視線はまだ気になる。

スカートの裾も、足元の動きも気になる。

でも、胸の奥に、解答を褒められた余韻がある。

あいは、ゆっくり歩いた。

焦らない。

急がない。

北山先生に教えられたように、動きを整える。

席へ戻る途中、美咲が小さく親指を立てた。

あいは目を丸くし、慌てて小さく首を振る。

そんなことしないで、と言いたかった。

けれど、美咲の表情は本当に嬉しそうだった。

あいは、少しだけ頬を緩めた。

自分の席に戻り、椅子に座る。

座る動きも、いつもより慎重に。

けれど、さっきほど固くはならなかった。

由香里が小さくささやく。

「すごくわかりやすかったよ」

「……ありがとう」

あいは、かすかな声で答える。

顔はまだ熱い。

でも、さっきまでとは少し違う熱だった。

恥ずかしさだけではない。

ほんの少しだけ、誇らしさが混じっている。

北山先生は、黒板に向き直り、あいの解答を使いながら説明を続けた。

「今のように、複素平面上の点を読み取る時は、まず軸との対応を見ること。式に直す前に、図の中で何が示されているかを確認します」

先生の声が、また授業の流れを作っていく。

あいはノートを開き、さっき自分が書いた式をもう一度書き写した。

手はまだ少し震えている。

けれど、文字は書ける。

黒板の上に並ぶ実数軸と虚数軸。

その交わる場所を見ていると、不思議と頭の中が少しずつ静かになっていく。

あいは、小さく息を吐いた。

大丈夫。

恥ずかしくても、考えることはできる。

注目されても、解くことはできる。

それだけは、今の自分にも残っている。

そう思えたことが、あいには少しだけ心強かった。


◆ 由香里の異変


授業は、そのまま静かに進んでいった。

北山先生は、あいの解答を使いながら、複素平面上の点と複素数の対応を説明している。

実数軸。

虚数軸。

点の位置。

式への変換。

黒板の上で、白い線と文字が整理されていく。

あいは席に戻ったあとも、まだ少しだけ顔が熱かった。

でも、ノートに式を書き写しているうちに、さっきまでの強い緊張は少しずつ薄れていった。

恥ずかしかった。

けれど、解答は褒められた。

それだけで、胸の奥に小さな安心が残っている。

北山先生の声が、教室に落ち着いたリズムを作っていた。

「では、この場合はどうなるか、各自で考えてみましょう」

生徒たちが、ノートに向かう。

シャープペンシルの音が、教室のあちこちから聞こえ始めた。

あいも問題に目を落とす。

点の位置を読み、実数部と虚数部に分ける。

さっき黒板でやったことと同じ流れだ。

手は、もう震えていない。

そう思った時だった。

隣で、かすかに音が止まった。

ペン先が紙から離れる、小さな気配。

あいは、何となく横を見た。

由香里が、ノートを見つめたまま動きを止めていた。

最初は、考え込んでいるだけに見えた。

由香里はもともと落ち着いている。

問題を解く時も、慌てて手を動かすより、少し考えてから丁寧に書くタイプだ。

だから、あいもすぐには気にしなかった。

けれど、数秒たっても由香里の手は動かなかった。

ペンを持った指先が、少しだけ強く握られている。

視線はノートに向いているのに、文字を追っているようには見えない。

「由香里ちゃん……?」

あいは、小さく名前を呼んだ。

由香里は、すぐには反応しなかった。

その横顔が、いつもより白く見えた。

「……うん?」

少し遅れて、由香里がこちらを見る。

声は出ている。

けれど、いつもの落ち着いた響きより、少しだけ弱い。

「大丈夫?」

「うん……ちょっと、目が回っただけ」

由香里はそう言って、薄く微笑もうとした。

でも、その笑みはすぐに消えた。

由香里の呼吸が、浅い。

肩がほんのわずかに上下している。

ペンを持つ手は、まだノートの上で止まったままだ。

あいの胸に、不安が広がる。

ただの体調不良。

そう思いたかった。

けれど、違和感があった。

由香里の周りの空気が、少しだけ重い。

光が届いている教室の中なのに、由香里の席のあたりだけ、かすかに色が沈んで見える。

黒いもや。

そう呼ぶしかないものが、由香里の肩のあたりに、薄くまとわりついているように見えた。

「……っ」

あいは息を呑んだ。

見間違いかもしれない。

授業中で、気持ちが敏感になっているだけかもしれない。

でも、胸の奥がざわつく。

これは、普通の体調不良ではない。

前の席で、美咲がわずかに振り返った。

あいと目が合う。

美咲の表情が、ほんの少し強ばっていた。

美咲にも、何かが見えている。

そう思った瞬間、あいの背筋に冷たいものが走った。

教室の外、廊下側に小さな気配があった。

あいは、視線だけをそちらへ向ける。

扉の向こうで、黒い影のような気配と、白い光を帯びた気配が一瞬だけ動いた。

アムルとフルル。

姿ははっきり見えない。

けれど、二匹が何かを伝えようとしているのはわかった。

フルルの白い尾が、さっと横に揺れる。

アムルは、瞳だけを細く光らせるようにして、由香里の方を見ていた。

声は聞こえない。

でも、それだけで十分だった。

気をつけて。

そう言われた気がした。

美咲も、同じものを見たのだろう。

前の席からすっと手を上げた。

「先生」

美咲の声は、普段より少し低かった。

北山先生の説明が止まる。

「どうしました、橘さん」

「由香里の様子が……少し、変です」

教室の視線が、自然と由香里へ向いた。

由香里は、そこでようやく自分が注目されていることに気づいたように顔を上げる。

「ごめん……大丈夫、だから……」

そう言いかけて、由香里は小さくこめかみを押さえた。

その仕草で、あいの不安は確信に近づいた。

由香里の周囲の黒いもやが、さっきより少しだけ濃くなっている。

けれど、周囲の生徒たちはそれに気づいていないようだった。

見えているのは、顔色の悪い由香里だけ。

少し苦しそうな友人だけ。

黒いもやは、あいと美咲にだけはっきり感じられている。

そして、おそらく――。

北山先生が、由香里を見た。

その表情は、慌てていなかった。

驚きも、必要以上の不安も見せない。

ただ、ほんの一瞬だけ、目の奥が鋭くなったように見えた。

北山先生は、チョークを置いた。

「田村さん」

静かな声だった。

「気分は悪いですか?」

「少し……目が回る感じがして……」

由香里の声は、いつもより小さい。

北山先生は、うなずいた。

「無理をしない方がいいですね。保健室へ行きましょう」

教室の空気が、少しざわついた。

けれど、北山先生が片手を軽く上げると、そのざわめきはすぐに収まる。

「静かに。授業中です」

その一言だけで、教室はまた落ち着きを取り戻した。

北山先生は、あいと美咲を見る。

その視線は、ほんのわずかに意味を含んでいるようにも見えた。

でも、何も言わない。

美咲が先に口を開いた。

「先生、私とあいちゃんで連れて行きます」

あいは、はっとして美咲を見た。

でも、すぐに頷く。

「わ、私も行きます」

北山先生は、少しだけ間を置いた。

そのわずかな間に、由香里の周囲をもう一度見るような気配があった。

それから、静かにうなずく。

「お願いします。廊下は走らず、ゆっくり連れて行ってください」

「はい」

「はいっ」

あいと美咲は立ち上がった。

由香里も、机に手をつきながらゆっくり立つ。

その動きは、いつもの由香里よりずっと頼りなかった。

あいはすぐに横へ回り、由香里の腕を支える。

「由香里ちゃん、大丈夫?」

「ごめんね……迷惑かけて……」

「迷惑じゃないよ」

美咲も反対側から支えた。

「無理しないで。ゆっくり行こ」

由香里は小さくうなずく。

その瞬間、黒いもやが、由香里の肩口でかすかに揺れた。

あいの指先が冷たくなる。

近い。

さっきより、ずっと近く感じる。

でも、ここは教室だ。

周囲にはクラスメイトがいる。

北山先生もいる。

普通の授業中の、普通の教室。

あいは、声を出さずに息を整えた。

怖がってはいけない。

由香里を不安にさせてはいけない。

北山先生が、教室の扉へ目を向ける。

「保健室は一階です。階段では急がないように」

「はい」

美咲が答える。

あいも、由香里を支えながら小さく頷いた。

教室の扉までの距離が、やけに長く感じられた。

クラスメイトたちは、心配そうにこちらを見ている。

けれど、黒いもやには気づいていない。

あいには、その違いが怖かった。

見えているものが、自分たちと周りとで違う。

それだけで、教室がさっきまでとは別の場所のように感じられる。

美咲が扉を開けた。

廊下の空気が、教室の中へ流れ込む。

授業中の廊下は静かだった。

人の気配は少なく、窓から入る光もどこか薄い。

由香里を支えながら、あいは一歩を踏み出す。

教室の中から、北山先生の声が聞こえた。

「皆さんは、問題の続きを解いていてください」

いつも通りの授業の声。

けれど、あいにはその声の奥に、別の意味が隠れているように聞こえた。

廊下へ出た瞬間、由香里の周囲の黒いもやが、ほんの少し濃くなった気がした。

あいは、息を呑む。

美咲も、何も言わずに由香里の腕を支え直した。

三人の後ろで、教室の扉が静かに閉まった。


◆ 保健室へ


教室の扉が、背後で静かに閉まった。

廊下に出た瞬間、あいは空気が変わったように感じた。

授業中の校舎は、いつもよりずっと静かだった。

休み時間なら生徒の声や足音が響いている廊下も、今はほとんど人の気配がない。

窓からは朝の光が入っている。

けれど、教室の中ほど明るくはなかった。

廊下の奥。

階段へ続く角。

窓と窓の間にできた薄い影。

そういう場所に、いつもより冷たい色が落ちているように見える。

あいは、由香里の腕を支えながら、そっと横顔を見た。

「由香里ちゃん、大丈夫?」

「うん……ごめんね。ちょっと、ふらふらするだけだから……」

由香里はそう答えたが、声には力がなかった。

顔色も、さっきより白い。

呼吸も浅い。

それだけなら、体調不良と言えたかもしれない。

でも、あいには別のものが見えていた。

由香里の肩口から背中のあたりに、黒いもやのようなものが薄くまとわりついている。

教室にいた時よりも、少しだけ濃い。

煙のようで、影のようで、けれど普通の影とは違う。

光の中でも消えず、由香里の呼吸に合わせるように、ゆらりと揺れている。

あいの指先が冷たくなった。

(やっぱり……普通じゃない……)

けれど、ここで変身するわけにはいかない。

廊下とはいえ、ここは学校の中だ。

誰かが教室から出てくるかもしれない。

先生が通るかもしれない。

遠くの階段から、生徒が上がってくるかもしれない。

今は、由香里を保健室へ連れていくことが先だった。

反対側で、美咲も由香里を支えている。

いつもの明るい表情は消えていた。

口元をきゅっと結び、由香里の歩幅に合わせて、慎重に足を進めている。

「由香里、無理しないで。ゆっくりでいいから」

「うん……ありがとう、美咲」

由香里は小さくうなずいた。

その動きに合わせて、黒いもやがかすかに揺れる。

美咲の目が一瞬だけ細くなった。

あいと美咲は、声に出さずに視線を交わす。

美咲にも見えている。

それがわかるだけで、あいの不安は少し形を持った。

一人で見ている幻ではない。

二人とも、同じものに気づいている。

廊下の少し先で、小さな気配が動いた。

黒い影が、壁際をすっと走る。

その後ろを、白い光を帯びた影が軽やかに追う。

アムルとフルルだった。

二匹は、廊下の端を音もなく歩いている。

普通の生徒や先生が通ったとしても、きっと気づかない。

アムルは落ち着いた足取りで、時々こちらを振り返る。

フルルは先に立つように、階段の方へ向かっていた。

案内している。

あいには、そう見えた。

「アムル……」

思わず小さくつぶやくと、アムルがちらりとこちらを見た。

声は聞こえない。

けれど、その視線だけで十分だった。

急がないで。

でも、止まらないで。

そんなふうに言われている気がした。

美咲も、フルルを見て小さくうなずく。

「こっちだね」

「うん……」

三人は、階段へ向かった。

三年A組の教室は三階にある。

保健室は一階。

いつもなら、何も考えずに下りていく階段だった。

けれど今は、由香里を支えている。

一段一段、足元を確かめるように進まなければならない。

「由香里ちゃん、段差あるよ」

「うん……」

あいは、由香里の腕を少ししっかり支えた。

由香里の身体は、思っていたより軽く感じた。

けれど、その軽さが逆に怖い。

少し気を抜いたら、ふっと倒れてしまいそうで。

美咲は反対側から、由香里の肩を安定させている。

普段の明るさとは違う、真剣な表情だった。

階段を一段下りるたびに、上履きの音が小さく響く。

こつ。

こつ。

授業中の校舎に、その音だけが浮かんで聞こえる。

あいは、階段の踊り場で一度足を止めた。

「少し休む?」

そう聞くと、由香里はゆっくり首を横に振った。

「大丈夫……保健室まで、行けると思う」

強がっているのが、わかった。

由香里は、そういう子だ。

自分がつらくても、周りに迷惑をかけないようにしようとする。

だからこそ、あいは胸が痛くなった。

「無理しなくていいよ」

「うん……でも、ここで止まる方が……なんだか、落ち着かなくて」

由香里の声は、少し震えていた。

その言葉に合わせるように、黒いもやがまた揺れた。

教室にいた時より、明らかに濃い。

階段の影に入るたび、もやの輪郭が少しはっきりするように見える。

あいは、息をのんだ。

アムルが踊り場の端で立ち止まり、由香里の周囲を見上げている。

フルルも、普段の元気な様子とは違い、しっぽを低くしていた。

ここで何かが起きるかもしれない。

そんな不安が、あいの胸を締めつける。

でも、何も起きなかった。

ただ、由香里の呼吸が浅くなり、黒いもやが少しずつ濃くなるだけ。

その静かさが、かえって怖かった。

「行こう、あいちゃん」

美咲が小さく言った。

「うん」

あいは頷き、もう一度由香里を支え直した。

階段を下りる。

二階の廊下を横切り、さらに一階へ向かう。

校舎の中は、授業中の静けさに包まれていた。

遠くの教室から、先生の声がかすかに聞こえる。

どこかでチョークが黒板を打つ音がする。

そんな普通の音があるからこそ、由香里の周りだけが異質に見えた。

あいは、胸の中で何度も自分に言い聞かせる。

まだ大丈夫。

保健室まで行く。

そこで先生に診てもらう。

でも、本当にそれだけで済むのだろうか。

由香里の肩にまとわりつく黒いもやが、答えを濁すように揺れていた。

一階に着くと、廊下の空気が少し変わった。

外の光が近い。

昇降口の方から、かすかに風が流れてくる。

それでも、保健室へ続く廊下の一角は、少し薄暗かった。

窓の位置のせいか、壁際に影が長く伸びている。

フルルが先に進み、その影の手前で立ち止まる。

アムルも、あいの足元へ戻ってきた。

保健室は、すぐそこだった。

扉の上に、小さな文字で「保健室」と書かれた札がある。

あいは、その文字を見て、少しだけ安心しそうになった。

けれど、由香里の呼吸がまた浅くなる。

「……っ」

由香里が、小さくこめかみを押さえた。

「由香里ちゃん!」

「大丈夫……ちょっと、頭が……」

声が途切れた。

黒いもやが、由香里の背中からふわりと広がる。

ほんの一瞬だけ、廊下の影と混ざるように濃く見えた。

美咲が息を呑む。

あいも、由香里の腕を支える手に力を込めた。

ここで止まってはいけない。

あと少し。

保健室の扉の前まで、あと数歩。

アムルが扉の方を見る。

フルルも、静かに前足をそろえた。

二匹とも、何かを待っているようだった。

あいは、美咲と目を合わせる。

美咲が小さくうなずいた。

三人は、最後の数歩を進む。

保健室の扉の前に立った時、あいの心臓は強く鳴っていた。

扉の向こうには、鶴岡先生がいるはずだ。

いつもなら、体調の悪い生徒を静かに迎えてくれる、穏やかな保健室。

けれど今は、その扉の向こうに何があるのか、あいにはわからなかった。

由香里の周囲の黒いもやが、またゆっくりと揺れる。

あいは息を整え、保健室の扉を見つめた。


◆ 扉の向こう


保健室の扉の前で、あいは足を止めた。

白い札に書かれた「保健室」の文字。

いつもなら、それを見るだけで少し安心できる場所だった。

体調が悪くなった生徒が休む場所。

怪我をした時に手当てをしてもらう場所。

静かで、清潔で、学校の中では少しだけ時間の流れがゆっくりしている場所。

けれど、今は違った。

由香里の肩を支える腕に、力が入る。

「由香里ちゃん……もう少しだよ」

「うん……」

由香里は小さく答えた。

声は、さっきよりもかすれている。

顔色はさらに白く、こめかみに添えた指先もかすかに震えていた。

あいは、どうすればいいのかわからなかった。

保健室まで来た。

あとは中に入って、先生に診てもらえばいい。

普通なら、それでいいはずだった。

でも、由香里の周囲にまとわりつく黒いもやは、もう普通の体調不良では説明できないほど濃くなっていた。

それは由香里の背中から肩口にかけて、薄い霧のように漂っている。

光が当たっても消えず、廊下の影とつながるように、ゆっくりと形を変えていた。

美咲も、反対側で由香里を支えたまま、息を詰めている。

「……あいちゃん」

美咲の声は小さかった。

言葉の続きはなかった。

けれど、何を言いたいのかはわかった。

これ、本当に保健室で大丈夫なの?

あいも、同じことを思っていた。

でも、ほかに行く場所がない。

ここは学校だ。

廊下には誰もいないとはいえ、どこかの教室から先生や生徒が出てくるかもしれない。

変身することも、戦うこともできない。

今は、扉を開けるしかない。

足元で、小さな気配がした。

アムルが、あいのすぐそばに来ていた。

いつものように落ち着いた姿勢で座り、保健室の扉を見上げている。

少し離れたところには、フルルがいた。

元気な白猫は、今はいつもの明るさを抑え、低くしっぽを揺らしている。

二匹とも、何も言わない。

けれど、警戒しているのはわかった。

アムルの瞳が、細く光るように見える。

フルルの耳が、ぴくりと扉の方へ向いた。

その時だった。

廊下の空気に、ふっと別の気配が混じった。

甘いような、涼しいような、かすかな香り。

あいは、思わず息を止めた。

香りは強くない。

花の匂いとも、薬品の匂いとも違う。

保健室の前にいるから消毒液の匂いがするのは当然なのに、それとはまったく別の、やわらかな香気だった。

「……今の」

美咲が、目を細める。

アムルとフルルが、同時に顔を上げた。

あいは、廊下の端へ視線を向ける。

保健室の扉のすぐ横。

壁際の影が、ほんの少し揺れた。

そこに、小さな猫の影があった。

白でも黒でもない。

淡い光をまとった、やわらかな色の猫。

廊下の薄い影の中に、静かに座っている。

額のあたりに、花びらのような模様が見えた気がした。

あいは、声を出せなかった。

誰?

そう思った瞬間、その猫はゆっくりと由香里の方を見た。

とても静かな目だった。

アムルとも、フルルとも違う。

落ち着いていて、どこか慈しむような気配を持っている。

由香里は、その猫に気づいているのかいないのか、目を伏せたまま苦しそうに息をしていた。

黒いもやが、ふわりと揺れる。

すると、謎の猫の周りに漂っていた香りが、ほんの少しだけ強くなった。

あいの胸の奥が、ざわつく。

この猫も、パートナー猫なのだろうか。

そう聞きたい。

けれど、ここで声を出すことはできなかった。

アムルが一歩だけ前に出る。

フルルも、黙ったまま謎の猫を見ている。

二匹とも、驚いているようで、どこか知っていたようにも見えた。

まるで、来るべきものが来たとでもいうように。

保健室の中から、かすかな物音がした。

白いカーテンが揺れるような、さらりという音。

あいは、扉に手を伸ばしかけて止まる。

中には、鶴岡先生がいるはずだ。

いつも穏やかで、体調の悪い生徒にも静かに声をかけてくれる保健室の先生。

でも今は、その扉の向こうに、いつもの保健室だけがあるとは思えなかった。

由香里の呼吸が、また浅くなる。

「……っ」

あいは慌てて由香里を支え直した。

「由香里ちゃん、もう入るね」

由香里は、かすかにうなずいた。

美咲も、緊張した顔で扉を見ている。

アムルとフルル。

そして、謎の猫。

三匹の視線が、同じ扉へ向けられていた。

あいは息を整える。

ここから先に何があるのか、まだわからない。

けれど、扉の前で立ち止まっている時間はもうなかった。

あいは、保健室の扉に手をかけた。

その瞬間、由香里の周囲の黒いもやが、すっと濃くなる。

扉の向こうから、白いカーテンの揺れる音がした。



◆用語説明


【黒霧 (くろぎり)】

妖魔の気配が、霧やもやのような形で現れたもの。

普通の人間には、はっきりとした姿としては見えにくく、体調の悪さや空気の重さ、黒い揺らぎのように感じられることが多い。

魔法戦士や魔力に強く反応する者には、黒いもやのように見えることがある。

今回、由香里の周囲に現れた黒霧は、彼女の体調不良と深く関係しているようだが、詳しい原因はまだ明らかになっていない。

妖魔本体とは限らないが、妖魔の出現や魔力干渉の前兆として扱われることがある。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第六話では、あいが数学の授業の中で小さな試練を経験し、その直後に由香里の異変が始まりました。

黒板の前に立つ緊張。

短めのスカートに慣れない中での所作。

それでも、あいは自分の得意な数学で、きちんと答えを示すことができました。

一方で、由香里の周囲に現れた黒霧は、ただの体調不良ではない気配を残しています。

アムルとフルル、そして扉の前に現れた謎の猫。

保健室の扉の向こうで、何が待っているのか。

次回は、由香里に関わる大きな出来事が動き出します。


ご意見・ご感想、気になった場面や今後見てみたい展開などがあれば、お気軽にお寄せください。

次回もよろしくお願いします。


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