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美少女魔法戦士マジカルラブ  作者: 宮本あい
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戦闘の余韻を抱えたまま

お読みいただきありがとうございます。


ついさっきまで、あいと美咲は黒い影が現れた駅前にいました。

けれど今は、いつものように電車に乗り、学校へ向かわなければなりません。

通学電車、制服のスカート、駅に吹く風。

すべては普段どおりのはずなのに、心だけがまだ戻りきらない。

変身の熱、戦闘の緊張、そして短いスカートへの戸惑い。

その余韻を抱えたまま、あいは“いつもの朝”の中へ戻っていきます。

日常に戻ろうとしているのに、どこか戻りきれない。

そんな朝のお話です。


◆ 改札を抜けて


ピッ、という電子音が鳴った。

あいは、いつものように定期券をかざして、瑞穂台駅の改札を通った。

ほんの少し前まで、同じ駅の中で妖魔と戦っていた。

黒い霧のような影がうねり、虚数空間の境界が揺れ、フローラの剣がコアを貫いた。

それなのに、今の駅はいつもの朝に戻っている。

通勤客が改札を抜けていく。

制服姿の学生たちが、急ぎ足でホームへ向かっている。

駅員の声も、改札機の音も、何もかもが普段どおりだった。

カラーコーンと「設備点検中」の案内板が、改札前の一角にまだ残っている。

けれど、そこに妖魔がいたことを知る人は、ほとんどいない。

あいは、思わず振り返りそうになった。

けれど、すぐに前を向く。

見てはいけない気がした。

見たところで、何がわかるわけでもない。

ただ、胸の奥にはまだ、さっきまでの戦いの熱が残っていた。

虚数空間を展開した時の、広く薄く魔力を伸ばす感覚。

境界を保つために、頭の中で何度も座標を確認した緊張。

変身解除をしたあとも、身体のどこかに魔力の余韻がまとわりついているような、不思議な重さ。

制服に戻っている。

杖も持っていない。

マジカル・ビジョンも消えている。

それなのに、まだ自分の身体が、完全には日常へ戻っていない気がした。

「……あいちゃん」

隣から、美咲の小さな声がした。

あいは、そっと横を見る。

美咲も制服姿に戻っている。

いつもの白いブラウス。薄手の紺色ブレザー。ピンク色のリボンタイ。

そして、いつもどおりの短めのチェック柄スカート。

普段なら、美咲はその姿で堂々と歩いている。

短めのスカートなんて、気にしている様子はほとんどない。

でも、今は少し違った。

足取りはいつものように軽いのに、どこか落ち着かない。

視線が、時々自分のスカートの方へ落ちる。

肩にかけた鞄を持ち直す仕草も、いつもより少しぎこちなかった。

きっと、美咲もまだ残っているのだ。

マジカル・フローラになった感覚が。

あいは、何となくそれがわかった。

「ねえ、さっきの……」

美咲が、さらに声を落とす。

「私、本当に……」

「しっ……」

あいは慌てて口元に指を当てた。

自分でも、少し大げさだったと思う。

けれど、周囲には通勤客も、通学中の生徒もいる。

今この場所で、魔法戦士の話をするわけにはいかない。

美咲は、はっとして口を閉じた。

「ご、ごめん……」

「ううん……私も、話したいことはあるんだけど……」

あいは声を小さくする。

聞きたいことは、山ほどあった。

フルルのこと。

美咲の変身のこと。

フローラの剣のこと。

謎の女性駅員のこと。

そして、自分が展開した虚数空間のこと。

でも、どれもここで口にしていい話ではない。

その時、足元の気配がふわりと動いた。

見下ろしても、普通の人にはきっと何も見えない。

けれど、あいにはわかった。

アムルが、すぐそばにいる。

「魔法戦士に関する話は、公の場では控えて」

落ち着いた声が、あいと美咲にだけ届く。

「人間の言い方を借りるなら、国家機密に近いものよ。誰が聞いているかわからない場所では、話さないこと」

「こ、国家機密……」

美咲が小さく息を呑む。

その言葉は、今の美咲にはかなり重く聞こえたようだった。

あいも、胸がきゅっと締まる。

国家機密に近いもの。

昨日の夜、アムルから説明を受けた時にも、魔法戦士のことは一般人に知られてはいけないと聞いていた。

頭ではわかっていたはずなのに、こうして朝の駅の中で言われると、急に現実味を帯びる。

自分たちは、もう普通の秘密を抱えているわけではない。

家族にも、クラスメイトにも、周りの人にも言えない秘密。

あいは、無意識に鞄の持ち手を握りしめた。

「……わかった」

美咲が、小さく答える。

いつもの明るい声ではなかった。

けれど、ふざけているわけでもなかった。

美咲も、この秘密の重さを少しずつ感じ始めているのだと思った。

二人は、ホームへ降りるエスカレーターへ向かった。

瑞穂台駅の改札は二階にある。

ホームへは、階段やエスカレーターで下りる。

いつもなら、何も考えずに乗るだけのエスカレーター。

でも、今日は違った。

あいは、エスカレーターの手前で一瞬だけ足を止めそうになった。

膝上十五センチ。

朝、鏡の前で定規を使って測ったスカート丈。

今朝から始めた、短めスカートへの適応訓練。

歩道橋も、駅までの道も、改札前も通ってきた。

それでも、エスカレーターで下りるのは初めてだった。

下り。

前の段。

後ろの段。

周囲の人の位置。

普段なら気にしないことまで、頭の中に次々と浮かんでくる。

(だ、大丈夫……普通にしていれば……)

あいは、そっとスカートの裾に意識を向けた。

押さえたくなる。

でも、押さえすぎると逆に不自然になる。

アムルに言われたことを思い出す。

裾ばかり気にすると、余計に動きが固くなる。

背筋を伸ばして、呼吸を整える。

あいは、ゆっくり息を吸った。

片手で鞄を持ち、もう片方の手でエスカレーターの手すりに触れる。

視線は足元。けれど、下ばかり見ないようにする。

一段目に足を乗せた。

機械の動きに合わせて、身体がゆっくりと下へ運ばれていく。

いつもと同じはずなのに、足元の風が妙に気になる。

制服のスカートがわずかに揺れるだけで、胸が落ち着かなくなる。

そのうえ、さっきまで着ていた戦闘服の感覚が、まだ身体のどこかに残っていた。

制服に戻ったはずなのに。

今のスカートは、戦闘服よりずっと見慣れているはずなのに。

それでも、いつもの制服ではないような、不思議な違和感があった。

隣では、美咲も手すりにつかまっていた。

普段なら、エスカレーターでも平気で話しかけてくる。

笑いながら、少し先の段へ乗ったり、振り返ってあいをからかったりする。

でも今日は、やけに静かだった。

美咲の視線が、自分の足元に落ちる。

それから、すぐに前へ戻る。

あいは、その小さな動きに気づいてしまった。

美咲ちゃんも、気にしてる。

そのことに少し驚き、同時に少しだけ安心する。

美咲はいつもミニスカートに慣れている。

自分とは違って、自然で、堂々としていて、怖いものなんてないように見える。

でも、今朝だけは違う。

マジカル・フローラになったあとだから。

あの戦闘服を着て、剣を持って、妖魔と戦ったあとだから。

いつもの制服まで、いつもの制服ではないように感じているのかもしれない。

美咲が、ほんの少しだけ顔を寄せる。

「ねえ、あいちゃん」

「な、なに……?」

「私さ……さっきから、制服なのに制服じゃないみたいで……変な感じ」

あいは目を丸くした。

同じだ。

自分が感じていたことと、ほとんど同じ。

「私も……」

「え?」

「私も、そう。変身は解いたのに……まだ、体が戻りきってないみたいで」

美咲は小さくうなずいた。

「だよね……」

その声は、とても小さかった。

エスカレーターは、ゆっくりとホームへ近づいていく。

前の方では、通勤客たちが無言で下へ運ばれている。

後ろからも、人の気配が続いている。

誰も、あいと美咲の会話の意味なんて知らない。

知らないままでいい。

知られてはいけない。

あいは、もう一度手すりを握り直した。

エスカレーターの下に、ホームの床が見えてくる。

発車案内の電子音が聞こえた。

桜坂方面へ向かう電車の表示が、朝の光の中で淡く光っている。

日常に戻ってきた。

そう思いたいのに、胸の奥にはまだ、さっきまで戦っていた感覚が残っている。

隣には、美咲がいる。

同じ秘密を抱えた親友がいる。

それだけで、少し心強い。

でも同時に、その秘密が二人分になった重さも感じた。

エスカレーターを降りる直前、アムルの声がもう一度聞こえた。

「詳しい話はあと。今は、普通の通学生として振る舞って」

「普通の……」

あいは小さくつぶやく。

普通の通学生。

その言葉が、今日は少しだけ難しく感じた。

エスカレーターがホームに着く。

あいは、足元を確かめながら一歩を踏み出した。

スカートの裾が、動きに合わせて小さく揺れる。

気になる。

恥ずかしい。

落ち着かない。

けれど、立ち止まるわけにはいかない。

美咲も隣に並んだ。

「……行こ、あいちゃん」

「うん……」

二人は、ホームの案内表示を確認しながら、女性専用車の乗車位置へ向かって歩き出した。

さっきまで妖魔と戦っていた駅で、今は電車を待つ普通の高校生として。

けれど、あいの胸の奥には、まだ戦闘の余韻が残っていた。


◆ 電車の中の秘密


女性専用車の乗車位置には、すでに人の列ができていた。

あいは、ホームに並ぶ人たちを見て、思わず息を呑む。

いつもなら、もう少し余裕があるはずだった。

美咲と合流して、少し話をして、それからいつもの電車に乗る。そういう朝の流れに慣れていた。

けれど、今日は違う。

歩道橋でハンカチを落とし、瑞穂台駅の改札前で妖魔と遭遇し、変身して、戦って、変身を解いて——。

それだけのことが起きたあとで、いつもの電車に間に合うはずがなかった。

「……一本、遅れちゃったね」

あいが小さく言うと、美咲が苦笑した。

「うん。一本遅れると、やっぱり混むね……」

その声は、いつもの美咲より少しだけ弱かった。

普段なら、美咲は「まあ何とかなるって」と笑い飛ばす。

けれど今は、列の先を見つめたまま、少し落ち着かない様子だった。

あいも同じだった。

電車を一本逃したこと自体は、まだ大きな問題ではなかった。

あいは普段から、少し余裕を持って家を出ている。

美咲と一緒に乗る電車も、ぎりぎりの時間ではない。

一本遅れても、急げば始業には十分間に合うはずだった。

ただ、もし戦いがもう少し長引いていたら。

変身解除に手間取っていたら。

あのまま駅前の混乱が続いていたら。

その時は、本当に遅刻していたかもしれない。

でも、本当の理由は言えない。

妖魔と戦っていました。

魔法戦士になりました。

そんなことを、誰かに言えるはずがない。

ホームに、桜坂方面の電車が滑り込んできた。

風がふわりと吹きつける。

あいは思わずスカートの裾を意識したが、すぐに手を止めた。

押さえすぎると不自然になる。

背筋を伸ばして、呼吸を整える。

アムルの言葉を思い出す。

扉が開くと、車内から人が降り、そのあとで列が少しずつ動き出した。

あいと美咲も、人の流れに合わせて女性専用車へ乗り込む。

車内は、思っていたよりも混んでいた。

座席はすべて埋まっている。

吊り革の下にも、すでに立っている人が多い。

さくら女子の制服を着た生徒が何人かいて、通勤中らしい女性たちも静かにスマートフォンを見ている。

朝の電車特有の、少し重たい空気。

誰も大きな声では話さない。

けれど、完全な沈黙でもない。

鞄が擦れる音。

吊り革が小さく揺れる音。

発車を知らせるチャイム。

その全部が、いつもの朝の音だった。

あいと美咲は、ドア横から少し奥へ進んだところで立ち止まる。

混んでいるせいで、自然と肩が近くなった。

「ご、ごめん、あいちゃん。近いかも」

「う、ううん。大丈夫」

大丈夫、と言いながら、あいの心臓は落ち着かない。

美咲の腕がすぐそばにある。

鞄が触れそうな距離にある。

人の流れに押されるたび、二人の距離がほんの少し縮まる。

普通の満員電車。

そう思えばいい。

けれど、さっきまで戦闘服を着ていた感覚が、まだ身体の奥に残っているせいか、いつもよりもずっと自分の制服が気になった。

膝上十五センチのスカート。

朝からずっと意識している短めの丈。

戦闘服よりはずっと見慣れているはずなのに、今はなぜか、制服まで特別なもののように感じてしまう。

美咲も、吊り革に手を伸ばしかけて、少し迷うように自分の足元を見た。

あいはそれに気づいてしまう。

美咲ちゃんも、まだ気にしてる。

普段なら、短めのスカートでも平気で歩いている美咲が。

あいよりずっと自然に着こなしているはずの美咲が。

今日は、ほんの少しだけ違う。

それが、あいには不思議で、同時に心強かった。

その時、頭上から小さな気配がした。

あいは、そっと視線だけを上げる。

網棚のあたりに、アムルとフルルがいた。

黒猫のアムルは、落ち着いた様子で座っている。

白猫のフルルは、少し身を乗り出すようにして、車内をきょろきょろ見ていた。

もちろん、周囲の人たちは誰も気づいていない。

網棚に猫が二匹いるなど、本来なら大騒ぎになるはずだ。

でも、誰も見上げない。誰も反応しない。

パートナー猫は、普通の人には見えない。

その事実を、あいは改めて実感した。

美咲も、ちらりと網棚を見上げて、小さく目を丸くする。

そして、さらに小さな声で言った。

「ねえ、あいちゃん……」

「な、なに?」

「あの白い子……フルルって、私の……その……」

美咲は言葉を探しているようだった。

パートナー猫。

魔法戦士。

変身。

どの言葉も、この車内では口にしづらい。

あいも、どう答えればいいのかわからなかった。

「私、さっき本当に……なっちゃったんだよね?」

美咲の声は、ほとんど吐息のようだった。

その言葉が何を指しているのか、あいにはすぐにわかった。

マジカル・フローラ。

美咲は、本当に魔法戦士になった。

あいは小さくうなずきかけた。

けれど、その前に、網棚の上からアムルの声が届く。

「その話は、ここではしない方がいいわ」

静かで、落ち着いた声だった。

けれど、はっきりとした注意でもあった。

あいは、すぐに口を閉じる。

美咲も、はっとして周囲を見た。

近くには、さくら女子の制服を着た生徒が二人いる。

少し離れたところには、通勤中らしい女性が吊り革につかまっている。

誰もこちらを見てはいない。

でも、聞こえていないとは限らない。

「魔法戦士に関する話は、公の場では控えること。さっきも言ったでしょう」

アムルの声は、あいと美咲にだけ届く程度の小ささだった。

「ご、ごめんなさい……」

あいが反射的に謝る。

すると、フルルが網棚の上でしっぽを揺らした。

「美咲に説明したいこと、ほんとに山ほどあるんだけどね。今は電車の中だから、がまん!」

「山ほど……」

美咲が、少しだけ顔を引きつらせる。

「そう。山ほど」

フルルは明るく言い切った。

「でも、ここではだめ。周りに人がいるし、どこで誰が聞いてるかわからないもの」

「……うん」

美咲は、不満そうに唇を結んだ。

納得している、というより、納得するしかないという顔だった。

あいは、その横顔を見て、胸が少し痛くなる。

美咲は今日、突然巻き込まれた。

猫がしゃべり、変身を促され、戦闘服になって、片手剣を握って、妖魔のコアを貫いた。

聞きたいことが山ほどあるのは当然だった。

でも、ここでは話せない。

それが、魔法戦士の秘密を抱えるということなのだ。

あい自身も、昨日の夜からずっと、その重さを感じている。

家族に言えない。

学校でも話せない。

電車の中でも話せない。

日常の中に戻れば戻るほど、秘密は重くなる。

「……あとで、ちゃんと聞くから」

美咲が、小さく言った。

それはフルルに向けた言葉のようで、あいにも向けられているようだった。

あいは、控えめにうなずく。

「うん。私も……一緒に聞きたい」

「そっか。あいちゃんも、まだ全部わかってるわけじゃないんだよね」

「うん。全然」

正直に言うと、美咲はほんの少しだけ笑った。

「じゃあ、二人で質問攻めだね」

「し、質問攻め……」

「だって、山ほどあるんでしょ?」

美咲が網棚のフルルを見上げる。

フルルは、どこか得意そうに胸を張った。

「受けて立つわ。場所を選んでからね」

その言い方が少しおかしくて、あいは小さく笑いそうになる。

けれど、電車が動き出した瞬間、車体がわずかに揺れた。

「っ……」

あいは吊り革につかまろうとしたが、人の位置が近くて、思ったより腕を伸ばしにくい。

美咲が、すぐ隣で体勢を整える。

その肩が、あいの肩に軽く触れた。

「ごめん」

「だ、大丈夫」

ほんの少し触れただけ。

それなのに、あいの心臓は跳ねる。

戦闘のせい。

変身のせい。

短めスカートへの緊張のせい。

どれなのか、自分でもわからない。

ただ、今朝の自分は、いつもよりずっと過敏になっている気がした。

美咲も、同じように少し肩をすくめている。

いつもの美咲なら、こんなことで動揺しない。

でも今日は、彼女もどこか落ち着かない。

二人は、周囲に気づかれないように視線だけを合わせた。

言葉はない。

でも、何となく同じことを考えている気がした。

さっきまで、あんな格好で戦っていたんだよね。

その感覚が、制服に戻った今も、まだ消えていない。

あいは、深く息を吸った。

普通に。

普通の通学生として。

アムルに言われたことを思い出す。

今は、電車の中。

周りには、何も知らない人たちがいる。

秘密を抱えたまま、普通の顔をしていなければならない。

それが、こんなにも難しいことだとは思わなかった。

車内アナウンスが流れる。

次の駅名が告げられ、電車は朝の線路を走っていく。

あいは吊り革につかまりながら、隣の美咲の気配を感じていた。

話したいことは、山ほどある。

聞きたいことも、山ほどある。

けれど今は、言葉にできない。

二人は、電車の揺れに合わせて小さく体勢を整えながら、同じ秘密を胸の奥にしまい込んだ。


◆ 混雑と戦闘の余韻


電車が次の駅に近づくにつれて、車内の空気が少しずつ変わっていった。

速度が落ちる。

車輪の音が、低く響く。

窓の外にホームの明かりが流れ込み、人の列が見えた。

あいは、吊り革を握る手に少しだけ力を込めた。

さっきまででも十分混んでいると思っていた。

けれど、ホームに並んでいる人の数を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮まる。

(……もっと、混むんだ)

扉が開いた。

降りる人は少ない。

その代わり、乗ってくる人は多かった。

通勤中の女性たち。

同じ制服を着たさくら女子の生徒たち。

鞄を胸の前に抱えた学生。

眠そうにスマートフォンを見ている人。

人の流れが、ゆっくりと車内へ押し寄せてくる。

「……あいちゃん、少し詰めるね」

「う、うん」

美咲が小さく言い、あいの隣へさらに寄った。

さっきまでは、肩や鞄が時々触れるくらいだった。

けれど今は、ほとんど並んで立つしかない。

美咲の肩が、あいの肩にそっと触れる。

鞄の角が、あいの鞄に当たる。

足元も近く、少し動くだけで互いの制服が触れそうだった。

普通の朝の混雑。

そう思おうとする。

けれど、あいの心は落ち着かなかった。

膝上十五センチのスカート。

今朝からずっと意識している短めの丈。

そして、さっきまで着ていた戦闘服の感覚。

制服に戻ったはずなのに、身体のどこかにまだ、あの軽さが残っている気がした。

胸元の大きなリボン。

ふわりと動く戦闘服の裾。

床に尻もちをついた時、セーフティ・ヴェールが衝撃を和らげた感覚。

思い出しただけで、顔が熱くなる。

(今は制服……今は制服だから……)

あいは心の中で、何度も自分に言い聞かせた。

けれど、制服だから安心できる、というほど単純ではなかった。

むしろ、戦闘服の感覚を知ってしまったせいで、いつもの制服まで特別なもののように感じてしまう。

隣の美咲も、どこか落ち着かない様子だった。

美咲は普段から短めのスカートを自然に着こなしている。

歩く時も、階段を上る時も、電車に乗る時も、いつも堂々としている。

それなのに今日は、時々スカートの裾を意識しているように見えた。

美咲が、吊り革を持ち替えようとした。

混雑で腕を動かしにくかったのだろう。

美咲の手が、ほんの少し横へ流れる。

その指先が、あいのスカートの裾にかすった。

「っ……!」

「ひゃっ……!」

二人の肩が同時に跳ねた。

美咲はすぐに手を引っ込める。

「ご、ごめん、あいちゃん……! 今、当たった……?」

「う、ううん、大丈夫……! ちょっと、びっくりしただけ……」

声が小さくなる。

周りに聞こえないように、二人とも自然と顔を寄せる。

けれど、その距離の近さがまた落ち着かなかった。

ほんの少し指がかすっただけ。

それだけなのに、あいの心臓は早くなる。

美咲も、同じように顔を赤くしていた。

「……なんか、今日、変だよね」

美咲が小さく言った。

「え?」

「私、いつもなら、こんなの全然気にしないのに」

美咲は視線を落としかけて、すぐに前を向いた。

「制服なのに、なんか……さっきのが残ってるっていうか」

あいは、息を呑んだ。

同じだった。

美咲も、同じことを感じていた。

「私も……そう」

あいは、声を潜めて答える。

「変身は解いたのに、まだ身体が覚えてるみたいで……。制服に戻ったのに、いつもの制服じゃないみたいに感じる」

「うん、それ」

美咲が、少し困ったように笑う。

「私、普段からこのくらいの丈なのにさ。今日だけ、なんか落ち着かない」

そう言った美咲の表情は、いつもの明るい笑顔とは少し違っていた。

恥ずかしさ。

戸惑い。

さっきまで戦っていた実感。

その全部が、まだ美咲の中にも残っている。

あいは、美咲の横顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。

自分だけではない。

怖かったのも。

恥ずかしかったのも。

制服に戻っても落ち着かないのも。

自分だけではない。

美咲が、そっとあいを見る。

二人の視線が合った。

「……っ」

「……っ」

言葉にならないまま、二人とも少し赤くなる。

けれど、次の瞬間、美咲が小さく笑った。

声を出すほどではない。

ほんの少し、口元だけを緩めるような笑い方だった。

それが美咲らしくて、あいの肩の力も少しだけ抜ける。

「……あとで、ちゃんと話そ」

美咲が、小さく言う。

「うん。あとで」

あいも、小さくうなずいた。

今は話せない。

電車の中には人がいる。

アムルにも、魔法戦士の話は公の場では控えるように言われている。

けれど、あとで話せる相手がいる。

それだけで、さっきより少しだけ心が軽くなった。

電車が再び動き出す。

揺れに合わせて、人の波がわずかに傾いた。

あいは吊り革を握り直し、美咲は鞄を胸の前に寄せる。

互いの肩が、また少し触れた。

今度は、さっきほど驚かなかった。

まだ恥ずかしい。

まだ落ち着かない。

まだ、戦闘服の余韻は消えていない。

でも、隣に美咲がいる。

同じ戸惑いを抱えて、同じように普通の顔をしようとしている美咲がいる。

あいは、窓に映る自分たちの姿をちらりと見た。

そこに映っているのは、ただの女子高生二人だった。

制服姿で、鞄を持って、朝の電車に揺られている。

けれど、胸の奥には、誰にも見えない秘密がある。

あいはそっと息を整えた。

普通に。

今は、普通の通学生として。

そう思いながら、あいは隣に立つ美咲の気配を、静かに感じていた。


◆ 桜坂駅に着いて


車内アナウンスが、桜坂駅への到着を告げた。

電車がゆっくりと速度を落としていく。

窓の外に、ホームの白い照明と、同じ制服を着た生徒たちの姿が流れて見えた。

あいは、吊り革を握る手を少しだけ緩める。

ようやく着いた。

そう思った瞬間、肩の力が少し抜けた。

瑞穂台駅から桜坂駅まで、およそ三十分。

いつもなら、特に長いとも短いとも思わない通学時間だった。

けれど今日は、妙に長く感じた。

混んだ車内。

美咲と近い距離で立っていた時間。

話したいことを話せないもどかしさ。

そして、制服に戻っているのに、まだ戦闘服の感覚が残っているような不思議な違和感。

それらが、ずっと身体のどこかに残っていた。

電車が止まり、扉が開く。

人の流れが、ゆっくりと外へ動き出した。

「降りよ、あいちゃん」

「うん」

美咲の声に促され、あいは鞄を胸元に寄せながら歩き出す。

車内の密度から解放された瞬間、空気が少し軽くなったように感じた。

隣にいた人との距離が少し空くだけで、こんなに息がしやすいのだと、あいは改めて思う。

ホームに降りると、朝の桜坂駅はいつも通りにぎやかだった。

通勤客の足音。

階段へ向かう生徒たちの声。

発車ベルの短い音。

駅員の案内放送。

その中に、さくら女子の制服がいくつも見えた。

白いブラウス。

薄手の紺色ブレザー。

ピンク色のリボンタイ。

緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。

同じ制服のはずなのに、着こなしは少しずつ違う。

あいは、ふと気づいた。

短い。

思っていたより、短めのスカートの生徒が多い。

膝が見える程度の生徒もいる。

膝上十センチくらいの生徒もいる。

中には、今朝のあいや美咲と同じくらい、膝上十五センチほどに見える生徒もいた。

今まで、気にしていなかった。

毎朝見ていたはずなのに。

同じホームを歩いて、同じ改札を抜けて、同じ学校へ向かっていたはずなのに。

自分が短くしてみるまで、周りのスカート丈なんて、ほとんど意識したことがなかった。

(こんなに……いたんだ)

しかも、みんな自然だった。

友人と笑いながら歩く生徒。

片手でスマートフォンを見ながら階段へ向かう生徒。

鞄を肩にかけ、背筋を伸ばして歩いている生徒。

誰も、自分のスカート丈を気にしているようには見えない。

堂々としている。

あいには、そう見えた。

それに比べて、自分はどうだろう。

ホームを歩くだけで裾が気になる。

人とすれ違うたびに、視線を意識してしまう。

風が吹いてもいないのに、手がそっと動きそうになる。

あいは、思わず指先を握った。

「……あいちゃん?」

美咲が横から覗き込む。

「どうしたの?」

「ううん……その……」

あいは、周りの生徒たちをちらりと見る。

「短めのスカートの子、けっこう多いんだなって……今さら、思って」

「ああ」

美咲は少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。

「いるよ。けっこう。あいちゃんが今まで気にしてなかっただけじゃない?」

「たぶん……そう」

あいは、少し恥ずかしくなって視線を落とす。

自分のことになるまで気づかないなんて、少し情けない気がした。

けれど、美咲はからかわなかった。

「でも、わかるかも」

「え?」

「自分が意識し始めると、急に周りも見えるようになるっていうか」

美咲はそう言って、自分のスカートを一瞬だけ見た。

いつもなら何でもない仕草。

けれど今日は、その一瞬に少しだけ迷いが混じっているように見えた。

美咲も、まだ落ち着いていない。

あいは、それに気づいて少し胸が締めつけられた。

「美咲ちゃんも……?」

「ん?」

「まだ、気になる?」

聞いてから、あいは少し後悔した。

こんな場所で、そんなことを聞くのは変だったかもしれない。

でも、美咲は怒らなかった。

むしろ、困ったように笑った。

「……ちょっとね。いつもなら全然なんだけど」

「やっぱり……」

「さっきのが強烈すぎたんだと思う」

美咲の声は小さかった。

何のことかは、言わなくてもわかる。

変身。

戦闘服。

妖魔。

片手剣。

フローラという名前。

その全部が、まだ美咲の中に残っている。

あいも同じだった。

言葉にしなくても、二人だけには通じるものがあった。

改札へ向かう人の流れに乗り、二人はホームから階段へ向かった。

桜坂駅の改札を出ると、朝の光が少し強くなった。

駅前には、学校へ向かう生徒たちの列が自然にできている。

私立さくら女子高等学校は、ここから歩いていける距離にある。

だから、この時間の桜坂駅には、同じ制服の生徒が多い。

あいと美咲も、その流れに加わった。

駅前の通路を抜けたところで、ふわりと風が吹いた。

「っ……」

あいは思わず肩をすくめる。

スカートの裾が、小さく揺れた。

強い風ではない。

普通の朝の風だ。

それでも、今のあいには十分すぎるほど気になった。

手で押さえたい。

でも、押さえすぎるとまた不自然になる。

あいはぎゅっと鞄の持ち手を握り、なんとか背筋を伸ばした。

隣の美咲も、ほんの少しだけ動きが止まった。

いつもの美咲なら、風なんて気にせずに歩いていく。

それどころか、「朝から風強いね」くらいの調子で笑っていたはずだ。

でも今日は、美咲も一瞬だけ自分のスカートへ意識を向けていた。

それから、あいと目が合う。

「……今の、ちょっと気になった?」

美咲が小声で聞く。

「うん……すごく」

「私も」

短いやり取りだった。

それだけなのに、あいは少しだけ安心した。

同じだった。

また、同じだった。

あいはミニスカート初心者で、美咲はいつも短めのスカートを自然に着こなしている。

本当なら、感じ方は全然違うはずだった。

それでも今日は、二人とも落ち着かない。

理由はわかっている。

自分たちは、昨日まで知らなかった世界を知ってしまったから。

魔法戦士。

妖魔。

パートナー猫。

変身。

戦闘服。

そして、誰にも言えない秘密。

学校へ向かう生徒たちの流れの中にいるのに、あいには、自分たちだけが少し違う場所を歩いているように感じられた。

みんなは、今日も普通に学校へ行く。

授業を受けて、友だちと話して、昼休みにお弁当を食べて、放課後を迎える。

あいも、美咲も、たぶん同じように過ごすことになる。

けれど、もう完全には同じではない。

あいは、隣を歩く美咲を見た。

美咲も、少しだけ真剣な顔で前を見ている。

いつもの明るい親友。

でも今は、同じ秘密を知っている親友。

同じ制服を着て、同じ通学路を歩いているのに、昨日までとは少し違って見える。

「美咲ちゃん」

「ん?」

「……あとで、ちゃんと話そうね」

あいが小さく言うと、美咲はすぐにうなずいた。

「うん。絶対」

その声は、明るかった。

けれど、軽くはなかった。

二人は、学校へ向かって歩き続けた。

風がまた少し吹く。

スカートの裾が、わずかに揺れる。

あいはまだ気になった。

美咲も、きっとまだ少し気にしている。

それでも二人は、立ち止まらなかった。

桜坂駅から私立さくら女子高等学校へ向かう、いつもの朝の道。

その中を、昨日までとは少し違う世界を知ってしまった二人が、並んで歩いていった。


◆ 校門前の生活指導


私立さくら女子高等学校の校門が見えてきた。

朝の光を受けた校舎は、いつもと変わらず静かに立っている。

門の前では、制服姿の生徒たちが次々と中へ入っていく。

友人同士で笑いながら歩く生徒。

参考書を片手に、少し早足で門をくぐる生徒。

眠そうにあくびをかみ殺している生徒。

いつもの朝。

そのはずだった。

けれど、あいにはまだ、すべてが少しだけ違って見えていた。

瑞穂台駅で妖魔と戦ったこと。

美咲がマジカル・フローラになったこと。

電車の中で、魔法戦士のことを話せなかったこと。

その全部を胸の奥にしまったまま、あいは校門へ近づいていく。

隣には美咲がいる。

美咲も、いつものように明るく歩いているように見える。

けれど、ほんの少しだけ背筋が硬い。

あいには、それがわかってしまった。

校門前には、生活指導の先生が立っていた。

高瀬真帆先生。

保健体育を担当している、二十代後半の女性教師だ。

明るくさっぱりした雰囲気で、生徒に対して必要以上に厳しくはない。

けれど、体育教師らしく姿勢や歩き方、身だしなみにはよく目が届く先生だった。

「おはよう」

「おはようございます」

「おはようございます、高瀬先生」

生徒たちが次々と挨拶していく。

高瀬先生は、ひとりひとりに軽く声を返しながら、制服の着崩しやスカート丈、リボンの位置をさりげなく確認していた。

叱るために見ている、という感じではない。

乱れていれば直す。

危なそうなら注意する。

それくらいの、落ち着いた生活指導だった。

さくら女子は進学校だけれど、身だしなみに関してはそこまで厳しすぎない。

清楚に整えている生徒が多い一方で、短めのスカートを選ぶ生徒もいる。

先生たちも、大きく問題にするというより、必要に応じて軽く声をかける程度だった。

それは、あいも知っている。

知っているはずだった。

でも、今日だけは別だった。

なぜなら、見られるのは自分だから。

あいは、思わず足が遅くなった。

膝上十五センチ。

今朝、鏡の前で何度も測ったスカート丈。

学校の中に短めのスカートの生徒がいることはわかっている。

桜坂駅でも、同じくらいの丈の生徒を何人も見た。

それでも、高瀬先生に見られると思うと、胸がどきどきする。

昨日までのあいは、標準丈のスカートで登校していた。

目立つこともなく、先生から服装について声をかけられることもほとんどなかった。

だから、高瀬先生がこのスカート丈を見るのは、たぶん初めてだ。

(ど、どうしよう……)

怒られるわけではない。

たぶん、そこまでではない。

でも、いつもの自分と違うことを見られる。

それだけで、あいには十分すぎるほど緊張する理由になった。

「……あいちゃん?」

美咲が小声で呼ぶ。

「大丈夫?」

「う、うん……大丈夫」

あいはそう答えたが、声は少し上ずっていた。

美咲は一瞬だけ心配そうに見たあと、前を向く。

美咲は普段から短めのスカートだ。

校門前で先生に軽く注意されることにも慣れているはずだった。

けれど、今日は美咲まで少し背筋を伸ばしている。

いつもなら、笑顔で「おはようございます!」と元気よく通り過ぎるところだ。

でも今日は、どこか肩に力が入っていた。

さっきまでの戦闘服の感覚が、まだ残っているのかもしれない。

あいは、そんな美咲の横顔を見て、少しだけ安心した。

そして同時に、余計に緊張した。

二人が校門へ近づく。

高瀬先生が、こちらへ視線を向けた。

「おはよう、橘さん。宮本さん」

「お、おはようございます!」

「おはようございます……」

美咲はいつもより少しだけ大きな声で挨拶した。

あいは、少し遅れて頭を下げる。

高瀬先生の視線が、自然にあいの制服へ向いた。

胸元のリボン。

ブレザーの着方。

鞄の持ち方。

そして、スカート丈。

あいは、背筋がぴんと固まるのを感じた。

高瀬先生は、ほんの少しだけ目を細めた。

「宮本さん」

「は、はいっ」

呼ばれただけで、あいの声が跳ねた。

美咲まで、隣でぴくっと反応する。

高瀬先生は怒った様子ではなかった。

むしろ、少し意外そうな顔をしている。

「今日は、ずいぶん短めね」

「えっ、あっ、その……」

あいは言葉に詰まった。

みんなもこういう感じだから。

少しだけ、気分を変えてみたくて。

そういう言い訳なら、いくらでも考えていたはずなのに、いざ先生に言われると頭の中が真っ白になる。

魔法戦士の訓練です。

もちろん、そんなことは言えない。

「べ、別に、その……」

あいがしどろもどろになっていると、高瀬先生はふっと表情をやわらげた。

「怒っているわけじゃないわ」

「え……?」

高瀬先生は、落ち着いた声で言った。

「膝上十五センチくらいかしら。短めではあるけれど、服装はきちんと整っているわね」

あいは、ますます顔が熱くなる。

膝上十五センチ。

測ったように言われて、心臓が跳ねた。

いや、実際に測ったのは自分なのだけれど。

「ただ、清潔感と品のよさは大事にしなさい。階段や風にも気をつけて」

「は、はい……!」

「それから、歩く時に裾ばかり気にしないこと。かえって姿勢が崩れるわ」

「えっ……」

あいは思わず顔を上げた。

高瀬先生は、特別なことを言ったつもりはないのだろう。

体育教師らしく、姿勢や歩き方を見ていただけなのかもしれない。

けれど、その言葉は、今朝アムルに言われたことと少し似ていた。

裾ばかり気にすると、余計に動きが固くなる。

あいは、胸の奥が小さく揺れるのを感じた。

「背筋を伸ばして、普通に歩けば大丈夫」

高瀬先生はそう言って、軽くうなずいた。

「似合っていないわけじゃないんだから」

「……っ」

あいの顔が一気に熱くなる。

「あ、ありがとうございます……」

声が小さくなる。

叱られたわけではない。

むしろ、やさしく注意されただけだ。

それなのに、見られたという事実だけで、あいの心臓はまだ落ち着かない。

隣で、美咲が少しだけほっとしたように息を吐いた。

「橘さんも」

「えっ、私もですか!?」

美咲が思わず背筋を伸ばす。

高瀬先生は、そんな美咲を見て少し笑った。

「あなたはいつも短めだけど、今日は少し動きが硬いわね」

「えっ……」

美咲の笑顔が、ぴたりと固まる。

あいも驚いて美咲を見た。

高瀬先生は続ける。

「朝から慌てていたのかしら。足元に気をつけて。橘さんは動ける分、油断すると大きく崩れるから」

「は、はい……」

美咲が珍しく素直にうなずいた。

あいは、少しだけ目を丸くする。

美咲は、普段なら先生の軽い注意くらい明るく受け流す。

けれど今日は、妙に真面目に聞いている。

戦闘服の余韻。

その言葉を、あいは心の中だけで思った。

美咲は何も言わない。

あいも何も言えない。

でも、二人ともわかっていた。

いつもと違うのは、スカート丈だけではない。

「二人とも、遅刻にはならない時間だけど、あまりゆっくりしすぎないようにね」

高瀬先生が軽く手を振る。

「はい」

「はいっ」

あいと美咲は、そろって頭を下げた。

校門をくぐる。

その瞬間、あいは思わず息を吐いた。

怒られなかった。

強く注意もされなかった。

ただ、階段や風に気をつけなさいと言われただけ。

それでも、緊張で背中にじんわり汗をかいている気がした。

「……すごいね、高瀬先生」

美咲が小声で言う。

「何が……?」

「今日の私まで動き硬いって、すぐ見抜いた」

「うん……」

あいは振り返らずに答える。

高瀬先生は、また別の生徒に「おはよう」と声をかけていた。

その姿は、いつもの体育教師そのものだった。

でも、あいには少しだけ不思議に見えた。

ただの先生なのに。

何も知らないはずなのに。

それでも、今のあいたちのぎこちなさを、自然に見抜いてしまった。

「体育の先生って、すごいんだね……」

「たぶん、あの先生がすごいんだと思う」

美咲が苦笑する。

その言い方が少しだけいつもの美咲らしくて、あいは小さく笑った。

校門を抜けると、校舎へ向かう道には生徒たちの流れが続いていた。

さくら女子の朝は、何も変わっていない。

短めのスカートの生徒もいる。

標準丈の生徒もいる。

先生は必要なところだけを注意して、あとは普通に送り出してくれる。

学校の中では、あいのミニスカート通学は、大きな問題ではなかった。

それがわかって、少しだけ安心する。

けれど、胸の奥の落ち着かなさまでは消えなかった。

あいは、もう一度背筋を伸ばした。

裾ばかり気にしない。

普通に歩く。

そう心の中で繰り返しながら、美咲と並んで校舎へ向かった。


◆ 昇降口の由香里


校舎へ入ると、昇降口にはすでに多くの生徒が集まっていた。

朝のざわめきが、白い壁と高い天井にやわらかく反響している。

壁一面に並んだ靴箱の前では、生徒たちが外靴を脱ぎ、上履きに履き替えていた。

靴箱の扉が開く小さな音。

上履きを床に置く音。

友人同士の「おはよう」という声。

いつもの学校の朝だった。

あいは、美咲と並んで自分の靴箱の前に立つ。

校門前で高瀬先生に声をかけられた時の緊張が、まだ少し残っていた。

叱られたわけではない。強く注意されたわけでもない。

それでも、スカート丈を見られたことは、あいにとって十分すぎるほど大きな出来事だった。

あいは外靴を脱ぎ、上履きを取り出す。

膝を曲げる。

しゃがみすぎない。

鞄の位置を気にする。

スカートの裾を気にしすぎない。

ただ靴を履き替えるだけなのに、頭の中で確認することが多すぎる。

(落ち着いて……普通に、普通に……)

そう思うほど、余計にぎこちなくなる気がした。

隣では、美咲も靴を履き替えている。

いつもの美咲なら、こういう動きはとても自然だ。

短めのスカートでも、何も気にしていないように見える。

けれど今日は、ほんの少しだけ動きが慎重だった。

さっきまでの戦闘服の感覚が、まだ残っているのだろう。

あいには、それがわかってしまう。

そして、わかってしまうことが、少しだけ心強かった。

「おはよう、あいちゃん、美咲」

落ち着いた声がして、あいは顔を上げた。

そこに立っていたのは、田村由香里だった。

すっと伸びた姿勢。

きちんと結ばれたポニーテール。

穏やかで、どこか品のある表情。

由香里は、あいと美咲と同じクラスの友人だ。

成績がよく、特に社会や歴史が得意で、いつも落ち着いている。

制服の着こなしも、由香里らしかった。

白いブラウスも、薄手の紺色ブレザーも、リボンタイもきちんと整っている。

緑と紺のチェック柄のスカートは、膝上五センチくらい。

短すぎず、かといって野暮ったくもない。

清楚で、上品。

あいには、そう見えた。

「お、おはよう、由香里ちゃん」

「おはよ、由香里!」

美咲がいつものように明るく返す。

けれど、その声は少しだけ高かった。

無理に普段どおりにしようとしているようにも聞こえた。

由香里は、そんな二人を交互に見る。

そして、あいのスカートに視線を落とした。

「あれ……?」

あいの心臓が、どきんと跳ねる。

由香里の視線は、失礼なものではなかった。

ただ、いつもと違うことに気づいた、という自然な反応だった。

それでも、あいは思わず背筋を伸ばしてしまう。

「どうしたの?」

由香里が、不思議そうに首をかしげる。

「えっ……な、何が……?」

「スカート。いつもより短いよね」

「……っ」

あいは言葉に詰まった。

やっぱり気づかれた。

由香里なら気づく気がしていた。

いや、これだけ短くしたら、誰でも気づくのかもしれない。

でも、由香里に言われると、なぜか余計に恥ずかしい。

落ち着いた由香里の視線の前では、ごまかしが効かないような気がした。

「そ、その……」

あいは視線を泳がせる。

魔法戦士の訓練。

変身後に動揺しないため。

戦闘服に慣れるため。

もちろん、そんなことは言えない。

すると、美咲が横からすっと入ってきた。

「ふふーん、由香里。今日はね、あいちゃんのミニスカデビューなの!」

「美咲ちゃん……!」

あいは慌てて美咲を見る。

声が少し大きい。

いや、内容が大きすぎる。

由香里は目を瞬いた。

「ミニスカデビュー?」

「そうそう。ついに、あいちゃんも短めに挑戦ってわけ」

美咲は明るく言った。

いつもの美咲なら、この調子で場を軽くしてくれる。

実際、言葉だけならいつもの美咲だった。

けれど、あいにはわかった。

美咲の笑顔が、ほんの少しだけぎこちない。

由香里をごまかそうとしている。

でも、美咲自身もまだ、さっきまでのことを完全には受け止めきれていない。

だから、いつもの明るさの中に、少しだけ不自然な力が入っている。

「そうなんだ」

由香里は、あいを見てやわらかく微笑んだ。

「似合ってるよ。少し雰囲気変わるね」

「……あ、ありがとう」

あいは小さく答える。

顔が熱い。

由香里の言い方にはからかいがなかった。

ただ自然に、そう思ったから言ってくれたのだとわかる。

だからこそ、余計に照れてしまう。

「でも、急にどうしたの?」

由香里がもう一度尋ねる。

その声は穏やかだった。

責めるような響きはない。

でも、あいはまた言葉に詰まった。

「あの……えっと……少し、気分を変えてみようかなって……」

「そうそう!」

美咲がすぐに続ける。

「たまにはいいじゃん? あいちゃん、いつもきっちりしてるし。ちょっとイメチェン!」

「イ、イメチェンってほどじゃ……」

「いやいや、かなりイメチェンだよ。朝から高瀬先生にも見られてたし」

「美咲ちゃん……!」

あいは小さく抗議する。

由香里はくすっと笑った。

「高瀬先生、何か言ってた?」

「あ……うん。階段や風には気をつけなさいって」

「それ、高瀬先生らしいね」

由香里は納得したようにうなずく。

「姿勢とか歩き方、よく見てる先生だから」

「うん……本当に、すぐ見られちゃった」

あいはそう言って、少しだけ肩を落とした。

美咲も横で苦笑する。

「私まで、今日は動きが硬いって言われたし」

「美咲が?」

由香里が少し驚いたように目を丸くする。

「珍しいね。美咲はいつも自然なのに」

「そ、そう? まあ、今日はちょっと……」

美咲の言葉が、そこで止まる。

言えない。

今日ちょっと何があったのか。

なぜ落ち着かないのか。

なぜ普段なら気にしないはずのスカートまで気になるのか。

ここでは言えない。

あいは、美咲の横顔を見て胸がきゅっとした。

由香里は、そんな二人を静かに見ていた。

何かを感じ取ったようにも見える。

けれど、深く踏み込むことはしなかった。

「そっか。二人とも、今日はちょっと雰囲気違うね」

「えっ」

「あ、そうかな?」

あいと美咲の声が、ほとんど同時に重なった。

由香里は穏やかにうなずく。

「うん。何となくだけど」

何となく。

その言葉が、妙に胸に残った。

由香里は、昔からそういうところがある。

強く聞いてくるわけではないのに、空気の変化に気づく。

誰かが困っている時も、慌てずにそっと近くにいてくれる。

今日も、そうだった。

あいと美咲が何かを隠していることに、気づいているのかもしれない。

でも、それを無理に暴こうとはしない。

由香里らしい、とあいは思った。

その時だった。

靴箱の上で、小さな気配が動いた。

あいは反射的に視線を上げる。

そこには、アムルとフルルが並んでいた。

黒猫のアムルは、いつものように落ち着いた姿勢で座っている。

白猫のフルルは、少し前足をそろえ、興味深そうに由香里の方を見ていた。

靴箱の上に猫が二匹。

普通なら、昇降口が騒ぎになる。

けれど、周囲の生徒たちは誰も反応していない。

靴を履き替える生徒も、友人と話す生徒も、靴箱の上など見ていない。

見えていないのだ。

アムルとフルルは、普通の人には見えない。

あいは、そう理解していた。

だからこそ、次の一言で息が止まりそうになった。

「……猫?」

由香里が、自然にそう言った。

あいの動きが止まる。

美咲も、隣でぴたりと固まった。

「え……?」

あいは、思わず由香里を見る。

由香里は、何も変わったことを言ったつもりはないようだった。

ただ、靴箱の上に猫がいるから、そう言った。

それだけの自然な顔をしている。

「どうして、靴箱の上に猫がいるの?」

由香里は、少し不思議そうに首をかしげた。

あいは、声が出なかった。

美咲も、さっきまでの明るさを完全に忘れたように固まっている。

アムルとフルルも、ほんの一瞬だけ動きを止めた。

それから、二匹は意味ありげに互いを見る。

黒猫と白猫の視線が交わる。

何かを確認するように。

何かを察したように。

あいの胸の奥が、どくんと鳴った。

由香里ちゃんに、見えてる。

アムルとフルルが。

普通の人には見えないはずの、パートナー猫が。

あいは、靴箱の上の二匹と、目の前の由香里を交互に見た。

由香里はまだ、何も気づいていない。

自分が特別なものを見ているなんて、少しも思っていない。

ただ、そこに猫がいる。

だから見えた。

それだけのように、静かに立っている。

「ねえ、あいちゃん、美咲」

由香里が、穏やかな声で尋ねる。

「この子たち、学校で飼ってる猫?」

「えっ……あ、えっと……」

あいは言葉を探す。

学校で飼っている猫。

そんな話は聞いたことがない。

でも、ここで詳しく説明できることでもない。

美咲が、横でぎこちなく笑った。

「ど、どうなんだろうね……? 私たちも、今ちょっと……びっくりしてるっていうか……」

それは、ほとんど本音だった。

由香里は、ますます不思議そうな顔をする。

「そうなの?」

あいは、何とかうなずく。

「う、うん……その……ちょっと、あとで確認するね」

「あとで?」

「うん。あとで……」

言いながら、あいは自分でも曖昧すぎると思った。

でも、それ以上は言えなかった。

昇降口には、まだ生徒が多い。

朝のざわめきの中で、靴箱の扉があちこちで開閉している。

アムルが、靴箱の上で静かに目を細める。

フルルも、珍しく口を閉じていた。

由香里は、そんな二匹をもう一度見上げる。

「かわいいね」

何の気負いもなく、そう言った。

あいは、胸の奥がざわつくのを感じた。

かわいい。

由香里にとっては、今のところ、それだけなのだ。

でも、あいにはわかる。

これは、ただの偶然ではないのかもしれない。

美咲が、ほんの少しだけあいの袖をつまんだ。

その手が震えているわけではない。

けれど、いつもの美咲ならしないような、控えめな合図だった。

あいも、そっと美咲を見る。

二人の視線が合う。

言葉はなくても、同じことを考えているのがわかった。

由香里ちゃんにも、何かあるのかもしれない。

けれど、今はまだ言えない。

由香里本人も、何も知らない。

朝の昇降口のざわめきの中で、あいはひとつだけ確かに感じていた。

非日常は、駅前だけで終わらなかった。

学校の中にも、静かに入り込んできている。

しかも今度は、自分たちのすぐそばにいる友人の形をして。

由香里は、靴箱の上の二匹に小さく手を振った。

「じゃあ、そろそろ教室行こう。一時間目に遅れちゃうよ」

「あ……うん」

「そ、そうだね!」

あいと美咲は、慌てて上履きのかかとを整えた。

靴箱の上では、アムルとフルルがまだ静かに並んでいる。

二匹の視線は、由香里の背中を追っていた。

由香里は何も知らないまま、いつものように教室へ向かって歩き出す。

そのポニーテールが、朝の光の中で小さく揺れた。

あいは、その後ろ姿を見つめる。

落ち着いていて、やさしくて、周りをよく見ている由香里。

昨日までと同じ友人のはずなのに、今は少しだけ違って見えた。

自分にも、何かがあるかもしれないことに。

由香里本人は、まだ気づいていない。

あいは、美咲と顔を見合わせる。

説明は、またあとになりそうだった。

そう思いながら、あいは由香里の後を追って、教室へ向かった。


◆ 教室へ


「じゃあ、そろそろ教室行こう。一時間目に遅れちゃうよ」

由香里はそう言って、何事もなかったように歩き出した。

靴箱の上にいた二匹の猫についても、あいと美咲の反応についても、少し不思議そうにはしていた。

けれど、由香里はそれ以上深く聞いてこなかった。

それが、由香里らしかった。

気づいていないわけではない。

でも、相手が言いにくそうにしていることを、無理にこじ開けたりはしない。

あいは上履きのかかとを整えながら、小さく息を吐いた。

助かった。

そう思ってしまう自分が、少し申し訳ない。

隣では、美咲も同じように上履きを履き終え、鞄を肩にかけ直していた。

さっきまで明るくごまかそうとしていたのに、今は少しだけ表情が硬い。

靴箱の上をちらりと見上げると、アムルとフルルがまだ並んでいた。

黒猫のアムルは、いつものように静かに座っている。

白猫のフルルは、どこか考え込むようにしっぽを揺らしていた。

二匹とも、何も言わない。

説明してくれそうな気配もない。

ただ、今は何も言わない方がいい。

そんな空気だけが、あいには伝わってきた。

「……行こ、あいちゃん」

美咲が小さく言う。

「うん」

あいはうなずき、由香里の後を追った。

昇降口から三年生の教室へ向かう階段までは、すぐだった。

朝の校舎には、生徒たちの足音が重なっている。

上履きが床を踏む軽い音。

階段を上る時の小さなざわめき。

友人同士の何気ない会話。

いつもの学校。

いつもの朝。

その中を、あいは美咲と由香里と一緒に歩いている。

けれど、胸の奥はまだ落ち着かない。

由香里が靴箱の上を見上げて、「猫?」と言った瞬間のことが、何度も頭の中で繰り返される。

どうして見えたのだろう。

どうして由香里だけ、あんなに自然に気づいたのだろう。

聞きたい。

でも、聞けない。

由香里本人は、もうそのことを特別に気にしている様子もない。

いつも通り、落ち着いた足取りで前を歩いている。

ポニーテールが、歩くたびに小さく揺れる。

背筋は自然に伸びていて、膝上五センチほどのスカート丈も、由香里らしく上品にまとまっている。

あいは、その後ろ姿を見ながら、少しだけ胸がざわついた。

昨日までと同じ由香里のはずなのに。

同じクラスの、落ち着いていて優しい友人のはずなのに。

今日は、ほんの少しだけ違って見える。

「由香里ってさ」

隣で、美咲が小声で言った。

「あんなに普通に言うんだね。猫って」

「う、うん……」

あいも小さく答える。

「あの反応、すごく自然だったよね」

「自然すぎて、逆にびっくりした……」

美咲は苦笑しかけて、すぐに口を閉じた。

前を歩く由香里に聞こえないようにしたのだろう。

あいも、それ以上は言わなかった。

階段の前には、三年生の生徒たちが何人も集まっていた。

三年A組の教室は三階にある。

階段を上がってすぐのところだ。

あいにとっては、毎日通っている場所。

慣れているはずの階段。

けれど、今日はまた別の緊張があった。

生徒たちの流れに混じって、あいも階段を上り始める。

一段目。

二段目。

膝上十五センチのスカートが、足の動きに合わせて揺れる。

下から誰かに見られているわけではない。

周りの生徒たちも、それぞれ友人と話したり、鞄を持ち直したりしているだけだ。

それでも、あいは気にしてしまう。

前にも生徒がいる。

後ろにも生徒がいる。

隣には美咲がいて、少し前には由香里がいる。

普通に上ればいい。

みんな、普通に上っている。

そうわかっているのに、足の運びが少しだけぎこちなくなる。

(階段……やっぱり、気になる……)

高瀬先生に言われたばかりだった。

階段や風には気をつけなさい。

その言葉が頭の中でよみがえる。

同時に、裾ばかり気にすると姿勢が崩れる、とも言われたことを思い出す。

あいは、無意識に下がりそうになる視線を、そっと前へ戻した。

背筋を伸ばす。

鞄を身体の横で安定させる。

足元は確認しすぎない。

普通に。

普通に、階段を上る。

けれど、普通にすることが、今日はとても難しかった。

「……大丈夫?」

美咲が、隣で小さく聞いた。

あいは少しだけ驚いた。

自分では平気なふりをしていたつもりだったからだ。

「う、うん。大丈夫……」

「階段、気になるよね」

「……うん」

正直にうなずくと、美咲は少しだけ笑った。

「私も、今日はちょっと気になる」

「美咲ちゃんも?」

「うん。いつもなら全然なんだけどね」

その声に、あいは少しだけ安心した。

美咲はいつも短めのスカートを自然に着こなしている。

階段だって、電車だって、風だって、あいよりずっと慣れているはずだ。

それでも今日は、同じように少し落ち着かない。

同じ感覚を共有している。

それだけで、あいの足元は少しだけ軽くなった。

階段の途中で、由香里が振り返る。

「二人とも、遅れてるよ?」

「あっ、ごめん!」

「すぐ行くね」

美咲が慌てて返す。

あいも小さくうなずき、少しだけ足を速めた。

由香里は、やわらかく微笑んでから、また前を向いた。

その表情はいつも通りだった。

穏やかで、落ち着いていて、何かを急かす時でさえ柔らかい。

あいは、その後ろ姿を見つめながら思う。

由香里ちゃんにも、何かあるのかもしれない。

でも、それを今ここで考えても答えは出ない。

今は、教室へ行く時間だ。

朝の学校は、待ってくれない。

一時間目は、もうすぐ始まる。

三階に着くと、階段を上がってすぐの廊下に三年A組の教室が見えた。

教室の中からは、すでにクラスメイトたちの声が聞こえている。

椅子を引く音。

ノートを机に置く音。

朝の予定を確認する声。

いつもの三年A組。

あいと美咲、そして由香里の教室。

あいは教室の扉の前で、少しだけ足を止めた。

この扉の向こうには、いつもの日常がある。

後ろの方の席。

机の上に置く鞄。

一時間目の準備。

友人たちの声。

昨日までと同じ朝のはずだった。

けれど、今のあいの胸の奥には、言葉にできないものがいくつも残っている。

さっきまでの戦い。

美咲と共有した秘密。

靴箱の上の二匹の猫。

そして、由香里への小さな疑問。

全部を抱えたまま、それでも教室へ入らなければならない。

「開けるよ?」

由香里が振り返って言った。

「あ、うん」

「うんっ」

あいと美咲が答える。

由香里は、いつものように落ち着いた手つきで教室の扉に手をかけた。

がらり、と音を立てて、扉が開く。

朝の教室の光とざわめきが、三人を迎え入れた。



◆人物紹介


【アムル】

宮本あい、コードネーム《ラブ》の専属パートナー猫。

黒毛の小型の猫で、額にはハート型の紋がある。

瞳は深い赤に近いルビー色を帯びている。

見た目は普通の黒猫に近いが、人の言葉を理解し、知性ある声で会話する特別な存在。

魔法戦士を導くパートナー猫として、あいの戦闘や魔法の扱いをサポートする。

一般人には基本的に視認できず、魔法戦士や魔法戦士としての素質を持つ者だけが認識できる。

そのため、周囲の人には見えていない場所でも、あいにははっきりと姿や声が届く。

主な役割は、ラブへの戦闘指示、魔法制御の補助、妖魔出現時の警戒、変身や杖の召喚に関する助言など。

ラブに虚数空間ディストーション・フィールドの展開を促し、人々を巻き込まずに妖魔と戦うための判断を支えた。

口調は落ち着いており、猫語尾は使わない。

お姉さんのような立場で、戸惑いやすいあいを静かに導く存在である。


【フルル】

橘美咲、コードネーム《フローラ》のパートナー猫。

白い毛並みを持つ雌猫で、額には淡いピンク色の五枚花弁の花紋がある。

花と光の属性を持ち、美咲の魔法戦士としての力を支える。

アムルと同じく、人の言葉を理解し、会話することができる特別なパートナー猫。

一般人には基本的に視認できないが、魔法戦士や魔法戦士としての素質を持つ者、または元魔法戦士などには見えることがある。

主な役割は、フローラへの変身誘導、片手剣や防御魔法の指導、妖魔の気配の察知、戦況判断の補助など。

美咲に《フローラ・レボリューション》を促し、初めての戦闘で《フローラ・シールド》を使うよう導いた。

性格は明るく快活で、アムルよりも元気で行動的。

ただし、戦闘時には冷静に状況を見て、美咲に必要な指示を出す。

美咲の勢いを支えながら、時にはツッコミ役として場を引き締める存在でもある。

アムルとは旧知の仲であり、二匹で連携しながら、ラブとフローラをサポートしていく。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、戦いを終えた直後のあいと美咲が、少しずつ日常へ戻っていく回でした。

電車の混雑、校門前の生活指導、昇降口での会話。

どれもいつもの学校生活の一部なのに、二人にとっては少しだけ違って見える朝になっています。

あいは、短めスカートへの緊張と、戦闘の余韻を抱えたまま。

美咲もまた、魔法戦士になったばかりの戸惑いを抱えたまま。

そんな二人の前に、由香里が自然な形で関わってくる回でもありました。

何気ない日常の中に、少しずつ非日常の気配が混じっていく。

この先、あい・美咲・由香里の関係がどう変わっていくのか、見守っていただければ嬉しいです。


ご意見・ご感想、気になる場面や読んでみたいシチュエーションなどがあれば、お気軽にお寄せください。

次回もよろしくお願いします。


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