駅前の黒影と、もうひとりの魔法戦士
お読みいただきありがとうございます。
今回は、あいの“ミニスカート通学”初日の続きです。
ただでさえ落ち着かない朝。
それなのに、瑞穂台駅の前で、突然“黒い影”が動き出します。
昨日の戦いの余韻もまだ残る中、あいは再び妖魔と向き合うことになります。
そして、その場にいた美咲にも、思いがけない出来事が訪れます。
日常の駅前に入り込む非日常。
二度目の変身に戸惑うあいと、突然巻き込まれていく美咲。
怖さや恥ずかしさを抱えながらも、二人は初めて同じ場所に立つことになります。
駅といういつもの風景の中で、あいと美咲の関係が少しだけ変わっていく。
そんなお話です。
◆ 瑞穂台駅・南口へ
瑞穂台駅の改札口は、もうすぐそこだった。
歩道橋の先から見える駅前は、朝の人の流れで少しずつ混み始めている。
スーツ姿の会社員、鞄を肩にかけた学生、急ぎ足で改札へ向かう人たち。誰もがそれぞれの朝を抱えて、瑞穂台駅へ吸い込まれていく。
あいは、その流れの中を、美咲と並んで歩いていた。
いつもの通学路。
いつもの朝。
いつもの瑞穂台駅。
けれど、あいにとっては、昨日までと同じではなかった。
歩くたびに、緑と紺のチェック柄のプリーツスカートの裾が小さく揺れる。
膝上十五センチ。
朝、姿見鏡の前で定規を当てて、何度も迷って、ようやく越えた一センチ。
その数字は、駅前の人混みが近づくほど、また胸の奥で大きくなっていく。
さっきよりは、少し落ち着いた。
エレベーターにも乗れた。
通学路も歩けた。
美咲に気づかれても、逃げずに話せた。
ハンカチを落として慌てたけれど、美咲が拾ってくれた。
それでも、まだ恥ずかしい。
あいは、つい足元を見そうになって、慌てて視線を前に戻した。
裾ばかり気にすると、余計に動きが固くなる。
背筋を伸ばして、呼吸を整える。
アムルの声が、胸の奥によみがえる。
今日は、それだけ意識して。
あいは、鞄の肩紐を持ち直した。
そして、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。
胸を張る、というほどではない。
美咲のように堂々と歩けているわけでもない。
けれど、さっきより少しだけ、顔を上げて歩けている気がした。
「ねえ、あいちゃん」
隣から、美咲の明るい声がした。
「な、なに?」
「まだちょっと固い」
「えっ」
あいは思わず立ち止まりかけた。
美咲は、にやりと笑っている。
その表情には悪意はない。いつものように、あいの様子を面白がりながらも、ちゃんと気にかけてくれている顔だった。
「歩き方。さっきよりはいいけど、まだちょっと緊張してる」
「み……見てわかる?」
「うん。あいちゃん、わかりやすいもん」
「そんなに……」
あいは頬が熱くなるのを感じた。
わかりやすい。
母にも言われた。美咲にも言われた。たぶん、顔に出ているのだろう。
スカートの裾を押さえたい。
でも、押さえない。
前を見る。
でも、やっぱり気になる。
そんな心の中の忙しさが、全部歩き方に出ているのかもしれない。
美咲は、あいの横で軽やかに歩きながら、自分のスカートを少しだけ見下ろした。
「でも、初日なら上出来じゃない?」
「初日……」
「そう。あいちゃんのミニスカート通学、記念すべき一日目」
「そ、そんなふうに言わないで……」
「えー、いいじゃん。似合ってるんだから」
美咲はあっけらかんと言う。
その言葉に、あいはまた頬を赤くした。
「似合ってるって言われるのも、まだ慣れないよ……」
「じゃあ、慣れるまで言ってあげる」
「それはそれで困る……」
「あはは」
美咲の笑い声が、朝の駅前のざわめきに混ざる。
その明るさに、あいの胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。
美咲は、いつもそうだ。
あいが考えすぎてしまうことを、軽く笑ってくれる。
でも、突き放すわけではない。
からかうようでいて、ちゃんと隣にいてくれる。
昨日の夜、妖魔と戦ったこと。
魔法戦士になってしまったこと。
アムルから、これからも妖魔と関わる可能性があると聞かされたこと。
それらは、あいの胸の奥にまだ重く残っている。
でも、美咲は何も知らない。
知らないまま、いつものように笑っている。
そのことに、あいは少し安心し、少しだけ後ろめたさも覚えた。
魔法戦士のことは、一般の人に知られてはいけない。
家族にも言えない。
美咲にも言えない。
そう思っていた。
けれど、さっき、美咲はアムルの黒猫の気配に反応した。
はっきり見えたわけではない。声を聞いたわけでもない。美咲自身も、気のせいかな、と流していた。
それでも、あいの中には小さな引っかかりが残っている。
美咲ちゃんは、本当に何も知らないのかな。
そんな考えが、ふと胸をよぎる。
「どうしたの、あいちゃん?」
美咲が顔をのぞき込んだ。
「あ……ううん。なんでもない」
「また考えごと?」
「ちょっとだけ」
「スカートのこと?」
「そ、それもあるけど……」
あいは言葉を濁した。
本当は、妖魔のことも、アムルのことも、美咲のことも考えていた。
でも、そんなことをここで言えるはずがない。
美咲は、あいの返事を聞いて、少しだけ目を細めた。
「まあ、あいちゃんは真面目だからね。考えすぎ注意」
「美咲ちゃんは、考えなさすぎじゃない?」
「えっ、ひどい」
「ご、ごめん。そういう意味じゃなくて……」
「わかってるって」
美咲はくすっと笑った。
「でも、考えすぎて固まるより、ちょっと動いてから考える方が楽な時もあるよ」
その言葉に、あいは瞬きをした。
昨日から、何度も似たようなことを言われている気がする。
アムルからは、背筋と呼吸。
美咲からは、体の使い方。
母からは、階段と風に気をつけること。
みんな言い方は違うけれど、結局は同じなのかもしれない。
怖がりすぎず、慌てすぎず、今できることをする。
それが、今のあいに必要なことなのだろう。
あいは、小さく息を吸った。
駅前の空気は、朝の熱気を少し含み始めている。
人の気配。改札機の音。遠くから聞こえる電車の走行音。コンコースに響くアナウンス。
いつもの通学の音。
でも、あいには、その全部が昨日までより少しだけ鮮明に聞こえた。
魔法戦士になったからなのか。
それとも、ただ緊張しているからなのか。
まだ、わからない。
「そういえばさ」
美咲が、ふと思い出したように言った。
「学校着いたら、ほんとに教えてあげるからね」
「え?」
「短めスカートの歩き方講座」
「あ……」
あいは、歩道橋でのことを思い出した。
ハンカチを落として、慌てて不自然な姿勢で拾おうとしたこと。
美咲に「あいちゃん、その取り方は危ないって!」と止められたこと。
美咲が、短めのスカートでも自然にしゃがんで、さっと拾ってくれたこと。
あの動きは、本当にきれいだった。
軽くて、無駄がなくて、迷いがない。
「うん……教えてほしい」
あいは素直に言った。
美咲は嬉しそうに笑う。
「任せて。最初は歩き方と階段かな。あと、風が強い日のコツ」
「風……」
「今日、ちょっとあるしね」
「うん。お母さんにも言われた」
「お母さん、ちゃんと見てるね」
「うん……」
あいは、少しだけ微笑んだ。
母も、美咲も、あいの変化に気づいてくれた。
そして、否定せずに受け止めてくれた。
それが、今朝のあいにはとても大きかった。
自分一人だったら、きっと膝上十四センチのまま止まっていた。
もしかしたら、部屋を出る前に元の丈へ戻していたかもしれない。
でも今、あいはここにいる。
瑞穂台駅の南口へ向かって、美咲と並んで歩いている。
まだ完璧ではない。
まだ堂々とはできない。
でも、少しだけ前を向けている。
それでいい。
今日は、それだけでいい。
あいは、もう一度だけ背筋を伸ばした。
「お、今のいい感じ」
美咲がすぐに言う。
「えっ?」
「背筋。さっきより自然」
「ほ、本当?」
「本当本当。やっぱりあいちゃん、姿勢いいんだから、普通にしてればいいんだよ」
「普通が難しいんだけど……」
「そこは練習」
「うん……」
あいは小さくうなずいた。
駅の改札口が、さらに近づいてくる。
改札機の電子音が、はっきり聞こえるようになった。
人の流れも、少しずつ密になっていく。
あいは、胸の奥にまだ残る緊張を抱えたまま、それでも足を止めなかった。
美咲の隣を歩く。
背筋を少しだけ伸ばす。
呼吸を整える。
それだけを意識して、瑞穂台駅・南口へ向かう。
その時だった。
改札口の方から、いつもの朝とは少し違うざわめきが聞こえた。
最初は、人の流れが乱れたような、小さな違和感だった。
誰かの足音が急に止まる。
ざわ、と空気が揺れる。
遠くで、駅員の声が一瞬だけ強く響く。
あいは、思わず顔を上げた。
「……今の、何?」
美咲も、同じ方を見ていた。
朝の瑞穂台駅。
いつもの改札口。
その奥で、何かが少しずつ、日常の形を崩し始めていた。
◆ 改札前の黒い揺らぎ
改札口の方から、ざわめきが広がってきた。
最初は、誰かが足を止めただけのように見えた。
朝の駅では、よくあることだ。定期券を出し忘れた人が立ち止まったり、鞄の中を探す人が流れを乱したりする。
けれど、すぐに違うとわかった。
人の流れが、改札へ向かうのではなく、改札から離れるように動き始めている。
「……なに?」
美咲が、あいの隣で足を止めた。
あいも顔を上げる。
瑞穂台駅の南口側。
二階の改札口へ続く広い通路には、通勤客や学生がいつものように行き交っているはずだった。
けれど今は、その流れが乱れていた。
「押さないでください! そのまま左側へ進んでください!」
駅員の声が響く。
少し先で、制服姿の女性駅員が人々を誘導していた。
片手を大きく横へ出し、もう片方の手で通路の奥を示している。
その声は、よく通った。
焦っている人たちの中で、その女性駅員だけが妙に落ち着いて見えた。
「え、何かあったのかな」
美咲が不安そうに言う。
「わからない……」
あいは答えながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。
ざわめきの向こう。
人の流れが開いた、その隙間。
そこに、黒いものがあった。
煙のようにも見える。
影のようにも見える。
けれど、ただの煙でも影でもない。
輪郭が定まらず、もやのように揺れている。
人の形に近いのに、人ではない。
空気そのものが黒く滲んでいるような、嫌な揺らぎ。
あいの喉が、ひゅっと細くなる。
昨日の夜、マンションの手前で見たもの。
あの黒い影と、同じ気配だった。
(妖魔……!)
心の中で、その言葉が浮かぶ。
瞬間、背中に冷たいものが走った。
まさか。
こんな朝に。
こんなに人が多い駅で。
「な、なにあれ……煙?」
「黒い影……?」
「誰か、駅員さん呼んで!」
周囲の人たちは、混乱した声を上げている。
けれど、誰もはっきりとは見えていないようだった。
妖魔の形を見ているというより、黒い揺らぎや煙のようなものに驚いているだけに見える。
あいには、もっとはっきり見えていた。
黒い霧の奥に、うっすらと人型に近い輪郭がある。
腕のようなものが伸び、足元に影の塊が集まっている。
そして、中心の奥深くに、何か不安定な気配が潜んでいる。
まだマジカル・ビジョンはない。
変身していないから、コアの位置までは見えない。
それでも、あれが普通の現象ではないことだけはわかった。
「……あいちゃん?」
美咲が、あいの顔をのぞき込む。
あいは返事をしようとした。
でも、声がすぐには出なかった。
妖魔。
人が多い場所。
魔法戦士。
変身。
頭の中で言葉がばらばらに浮かんでは、うまくつながらない。
その時、白い噴射音が響いた。
しゅうううっ、と鋭い音。
女性駅員が、消火器を構えていた。
白い粉が勢いよく吹き出し、黒い揺らぎの前を覆う。
粉は妖魔の身体を消すことはできなかった。黒い影は、白い煙の向こうでなおもゆらゆらと揺れている。
けれど、その一瞬で、人々の視界は遮られた。
「こちらへ! 足元に気をつけてください!」
女性駅員が声を張る。
別の駅員たちが、通路の端からカラーコーンを運んできた。
赤い三角形が、あっという間に通路の一角へ並べられていく。
その横に、折りたたみ式の案内板が立てられた。
――設備点検中
――こちら側は通行できません
いつの間に用意していたのだろう。
あいは、思わず目を見開いた。
動きが速い。
ただ慌てているのではない。
何をすれば人が離れるのか、どこをふさげば混乱が広がらないのか、わかっている動きだった。
女性駅員は、消火器を持ったまま、黒い揺らぎと人々の間に立っていた。
「危険です。こちらには入らないでください。駅員の指示に従って、南口ロータリー側へ移動してください」
声は落ち着いている。
けれど、その背中には、普通ならありえない緊張感があった。
あいは、その姿から目を離せなかった。
あの人は、怖くないのだろうか。
普通の人には、妖魔ははっきり見えないはずだ。
でも、あの女性駅員は、黒い揺らぎの位置を正確に把握しているように見える。
ただの煙ではないと、わかっているように。
「ねえ、あいちゃん……あれ、やばくない?」
美咲の声が、いつもより低かった。
あいは、はっとする。
美咲も、黒い揺らぎの方を見ている。
はっきり見えているのか、それとも周囲の混乱に気づいているだけなのかはわからない。
けれど、その表情には、さっきまでの明るさはなかった。
「う、うん……」
あいは小さく答えた。
本当は、言いたかった。
あれは妖魔だ、と。
昨日の夜に見たものと同じだ、と。
自分は、あれと戦ったのだ、と。
でも、言えない。
魔法戦士のことは、一般の人に知られてはいけない。
美咲にも、言えない。
そう思った瞬間、胸の奥が苦しくなった。
昨日までなら、あいはただ逃げていたかもしれない。
怖くて、何もできずに立ちすくんでいたかもしれない。
けれど今は違う。
あいは、知っている。
あれが妖魔だと。
コアを破壊しなければ消えないと。
そして、自分が魔法戦士だということを。
逃げたい。
でも、逃げたらどうなるのだろう。
ここには人が多すぎる。
朝の瑞穂台駅。
通勤客。学生。駅員。
妖魔がこのまま動き出したら、誰かが巻き込まれるかもしれない。
あいの手が、鞄の肩紐を強く握った。
その時、黒い揺らぎが、白い粉の向こうでゆっくりと形を変えた。
腕のようなものが伸びる。
近くにいた男性が、声を上げて後ずさった。
「うわっ……!」
「下がってください!」
女性駅員が一歩前へ出る。
消火器を再び構え、黒い揺らぎの前へ白い粉を噴射する。
効いていない。
妖魔そのものには、ほとんど効いていない。
それでも、女性駅員は止めない。
妖魔を倒すためではなく、人々を遠ざけるために、視界を遮り、時間を作っているのだ。
あいには、それがわかった。
わかってしまった。
(あの人……時間を稼いでる……)
その判断の速さに、胸が震えた。
怖いはずなのに。
危ないはずなのに。
女性駅員は逃げずに、人々と黒い揺らぎの間に立っている。
「設備点検中です! こちらには入らないでください!」
別の駅員が案内板の横で声を上げる。
カラーコーンの内側へ入ろうとした人が、慌てて足を止める。
人の流れが少しずつ、別の通路へ誘導されていく。
駅前の混乱は、完全には収まっていない。
けれど、少なくとも黒い揺らぎの周囲から人が離れ始めていた。
その中心に、女性駅員がいる。
あいは、どうしてもその人から目を離せなかった。
ただの駅員さんじゃない。
そんな考えが、頭をよぎる。
理由はわからない。
証拠もない。
でも、その背中は、普通の人が初めて妖魔に遭遇した時のものではなかった。
何かを知っている。
何かに慣れている。
そんなふうに見えた。
「……あいちゃん、どうする?」
美咲が小さく聞いた。
あいは、返事に詰まった。
どうする。
その言葉が、重くのしかかる。
昨日なら、アムルがいなければ何もできなかった。
でも今は、アムルの言葉を知っている。
変身の言葉も、解除の言葉も、杖の呼び方も知っている。
ただし、ここで変身するわけにはいかない。
人が多すぎる。
美咲も隣にいる。
どうすればいいのか、考えようとしたその時。
足元の空気が、ふっと揺れた。
あいは、息を呑む。
黒い毛並みの気配。
小さな足音。
そして、落ち着いた声が、すぐ近くから聞こえた。
「――あい」
その声に、あいの胸が跳ねた。
アムル。
姿はまだ見えない。
けれど、確かに近くにいる。
あいは、視線を下げた。
人々の足元をすり抜けるように、黒猫の気配が近づいてくる。
美咲が、隣で小さく息を飲んだような気がした。
あいは声を出せなかった。
改札前の黒い揺らぎ。
人払いを進める謎の女性駅員。
そして、近づいてくるアムルの気配。
日常の朝は、もう完全に崩れ始めていた。
◆ 二匹のパートナー猫
「――あい」
足元から聞こえた声に、あいの胸が跳ねた。
聞き間違えるはずがない。
アムルの声だった。
人々の足音が行き交う中、黒猫の小さな影が、通路の端からすっと現れる。
艶のある黒い毛並み。額に浮かぶ、かすかなハート型の紋。
騒がしい駅前の空気の中でも、アムルだけはいつも通り落ち着いて見えた。
「アムル……」
あいは思わず名前を呼びかけて、すぐに口を押さえた。
周りにはまだ人がいる。
駅員の声も、避難する人々の足音も近い。
でも、アムルの姿に気づいている人はいないようだった。
誰も足元の黒猫を見ない。誰も、しゃべる猫の声に反応しない。
やはり、普通の人には見えていない。
そう思った瞬間、あいの隣で美咲が小さく息を飲んだ。
「……え?」
美咲の視線は、アムルの方へ向いていた。
完全に見えているのか。
それとも、また気配だけなのか。
あいにはわからない。
けれど、美咲は何かに気づいている。
そのことだけは、はっきり伝わってきた。
アムルは一瞬だけ美咲を見上げ、それからあいへ視線を戻した。
「ラブ、変身の準備を」
落ち着いた声。
けれど、その奥には急ぎの色があった。
「こ、ここで……?」
「いいえ。人目を避ける必要があるわ。けれど、時間はあまりない」
アムルの視線が、改札前の黒い揺らぎへ向く。
白い粉の向こうで、妖魔はまだ揺れている。
女性駅員がカラーコーンの内側で人々を遠ざけているが、いつまでも持ちこたえられるとは思えなかった。
あいは喉を鳴らした。
変身しなければいけない。
けれど、美咲が隣にいる。
美咲に見られてしまう。
いや、それどころではない。もうアムルの声に反応している。
どうすればいいのか。
「あ、あいちゃん……」
美咲が、ぎこちなく声を出した。
「今の……猫?」
あいは答えられなかった。
嘘をつくには、状況が悪すぎる。
でも、本当のことを言うには、時間がなさすぎる。
その時だった。
ふわり、と淡い光が美咲の足元に落ちた。
白い羽のような、花びらのような、小さな光。
それが床の上で円を描くように広がり、次の瞬間、白い猫の姿が現れた。
あいは目を見開いた。
白猫。
黒猫のアムルとは対照的な、やわらかい光沢のある毛並み。
額には、淡いピンク色の五枚花弁の花紋が浮かんでいる。
その猫は、美咲の前にすっと立つと、明るく澄んだ声で言った。
「美咲、聞いて。今は驚いてる時間はないよ」
「えっ」
美咲が固まった。
「ね、猫が……しゃべっ……」
「うん、しゃべるよ。説明はあと。まずは落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ!? 黒猫の次は白猫!? しかも私に話しかけてる!?」
美咲の声が少し高くなる。
あいも、美咲ほどではないにしても、頭の中が真っ白になりかけていた。
白猫。
しゃべる猫。
美咲の前に現れた猫。
まさか。
「アムル……この子は……?」
あいが震える声でたずねると、アムルは短く答えた。
「フルルよ」
白猫――フルルは、しっぽをぴんと立てて、アムルの方を見た。
「アムル、来たよ」
「フルル、来たのね」
「ええ。美咲の反応が出たから」
二匹の会話は、驚くほど自然だった。
初めて会った者同士ではない。
まるで、以前から互いを知っていたような、短くて、無駄のないやり取り。
あいは、さらに混乱した。
アムルとフルルは知り合いなのだろうか。
パートナー猫は、他にもいるのだろうか。
美咲の反応とは、さっきの黒猫の気配に気づいたことなのか。
聞きたいことが、いくつも浮かぶ。
けれど、改札前のざわめきが、それを許してくれなかった。
「きゃっ!」
少し離れた場所で、誰かの悲鳴が上がる。
黒い揺らぎが、白い粉の向こうで大きく膨らんだ。
駅員たちがカラーコーンの列を少し後ろへ下げ、人の流れをさらに遠ざけている。
女性駅員が、黒い揺らぎを見据えたまま声を張った。
「こちらは設備点検中です! 立ち止まらず、左側へお進みください!」
その声は、混乱の中でも崩れない。
でも、あいにはわかる。
猶予は長くない。
フルルが美咲を見上げた。
「美咲、あなたも選ばれてる。今は信じて、私の言う通りにして」
「え、私も? 選ばれてるって何!? 何に!?」
「魔法戦士に」
「まほ……っ!?」
美咲が言葉を失う。
あいも息を呑んだ。
「美咲ちゃんも……魔法戦士なの……?」
声に出した瞬間、その言葉が現実味を帯びていく。
美咲が。
あの美咲が。
昨日まで一緒に笑っていた親友が。
魔法戦士。
美咲は、あいを見た。
「ちょ、ちょっと待って。あいちゃん、今の言い方……も、って何?」
「あ……」
しまった。
美咲の目が、まっすぐあいを見ている。
その目には、驚きと混乱と、ほんの少しの疑問が混ざっていた。
「あいちゃん、もしかして……」
「話は後」
アムルの声が、静かに割って入った。
でも、その一言には逆らえない強さがあった。
「今は妖魔を止めるのが先よ。ここでは変身できない。人目を避けるわ」
「妖魔……?」
美咲が黒い揺らぎの方を振り返る。
一般人にはただの黒い煙のようにしか見えていないもの。
けれど、美咲の表情を見る限り、何か普通ではないものだとは感じているようだった。
フルルが、軽く前足を上げる。
「美咲、こっち。コインロッカーの奥に人の少ない通路がある。そこで準備するよ」
「準備って、何の……?」
「変身」
「へ、変身!?」
美咲の声が裏返る。
いつも明るくて、何でも軽やかに受け止める美咲が、ここまで慌てているのを見るのは珍しかった。
でも、それも当然だ。
昨日の夜の自分も、きっと同じ顔をしていた。
黒猫がしゃべって、妖魔が現れて、変身しろと言われて。
あいは、美咲の混乱が痛いほどわかった。
「美咲ちゃん」
あいは、そっと声をかけた。
美咲が振り向く。
「私も……まだ、ちゃんとわかってない。でも、今はアムルとフルルの言う通りにした方がいいと思う」
「あいちゃん……」
あいの声は、少し震えていた。
それでも、美咲に伝えたかった。
自分も怖い。
わからないことだらけだ。
でも、今は逃げるだけではいけない。
美咲は、あいの顔をじっと見た。
ほんの一瞬。
本当に短い時間。
それから、美咲は唇を結び、小さくうなずいた。
「……わかった。全然わかってないけど、今は信じる」
美咲らしい言い方だった。
怖がっている。
混乱している。
それでも、立ち止まらない。
その強さに、あいの胸が少しだけ熱くなった。
「いい判断よ」
アムルが言う。
「急ぎましょう。妖魔が人の流れから完全に離れる前に、こちらで引き受ける」
フルルも軽くしっぽを振った。
「美咲、走れる?」
「走れるけど……このスカートで?」
「あなたなら大丈夫。いつも通り、周りを見て」
「い、いつも通りって言われても……」
美咲は戸惑いながらも、すぐに足元を確認した。
人の流れ、カラーコーンの位置、駅員の誘導、コインロッカーの方向。
その目の動きは速い。
あいは思わず見てしまった。
やはり美咲は、こういう時に体が先に反応する。
「ラブ」
アムルがあいを見上げる。
その呼び方に、あいの胸が引き締まった。
まだ変身していない。
でも、アムルはもう戦闘時の名前で呼んでいる。
「行けるわね」
問いかけではなく、確認のような声。
あいは、小さく息を吸った。
怖い。
昨日の戦いのことを思い出す。
転んだこと。妖魔の気配。ラブ・ショット。赤いコア。ラブ・バースト。
でも、今は一人ではない。
アムルがいる。
美咲がいる。
そして、美咲の前にはフルルがいる。
「……はい」
あいはうなずいた。
「行きます」
アムルが先に動き出す。
フルルが美咲の足元を軽やかに駆ける。
あいと美咲は、人の流れの端を抜けるようにして、コインロッカーの方へ向かった。
背後では、まだ黒い揺らぎが駅前の空気を震わせている。
女性駅員の声が、混乱を押し戻すように響いていた。
日常の朝は、もう戻らない。
少なくとも、この瞬間だけは。
あいは胸の奥の震えを抱えたまま、美咲と並んで走った。
◆ コインロッカー奥の変身
コインロッカーの並ぶ通路は、改札前の喧騒から少し外れた場所にあった。
朝の瑞穂台駅は人が多い。
けれど、コインロッカーの奥まった一角は、駅の通路の中でも人の流れから外れている。壁際には使われていないロッカーが並び、薄暗い照明が床に淡い影を落としていた。
遠くからは、まだ駅員の声が聞こえている。
「こちらには入らないでください! 設備点検中です!」
改札前の騒ぎは収まっていない。
黒い揺らぎ――妖魔は、まだそこにいる。
あいは息を整えながら、通路の奥で立ち止まった。
隣には美咲。足元にはアムルとフルル。
あまりにも現実離れした組み合わせだった。
ついさっきまで、美咲とミニスカート通学の話をしていたのに。
今は、しゃべる黒猫と白猫に導かれ、人目を避けて駅の奥へ走ってきている。
日常が、あまりにも急に崩れていた。
「ここなら、今は人目が少ないわ」
アムルが周囲を確認するように言った。
フルルも、耳をぴんと立てて通路の入り口を見ている。
「でも長くは使えないよ。改札前の人払いが続いてるうちに動かないと」
「え、ちょっと待って」
美咲が、両手を軽く上げた。
「私、まだ全然ついていけてないんだけど。黒い何かが出て、猫がしゃべって、あいちゃんがラブって呼ばれて、今から変身って……情報量おかしくない?」
「美咲ちゃん……」
あいは困ったように名前を呼んだ。
美咲の反応は当然だった。
昨日の夜、あい自身も同じように混乱した。アムルが現れ、妖魔だと言われ、変身しろと言われて、頭が追いつかなかった。
でも今は、立ち止まっている時間がない。
「美咲、気持ちはわかるけど、説明はあと」
フルルが明るい声のまま、しかしきっぱりと言った。
「今は、あの妖魔を止める準備をするのが先」
「妖魔って、さっきの黒いやつ?」
「そう」
「……あれ、本当に危ないやつなんだ」
美咲の顔から、少しだけ血の気が引く。
あいは小さくうなずいた。
「昨日の夜、私が戦ったのも……たぶん、あれと同じ」
「昨日の夜……?」
美咲があいを見る。
しまった、と思った。
けれど、もう隠しきれる段階ではない。
アムルがあいの前へ出た。
「ラブ。先に変身して」
その呼び方に、あいの背筋が自然と伸びた。
ラブ。
まだ自分の名前としては、慣れない。
でも、昨日の夜に一度、その名で戦った。
あいは、胸の前で両手をそっと重ねた。
心臓が速い。
怖い。
人が多い駅で、また妖魔と戦うことになる。
しかも、今回は美咲が見ている。
美咲に見られる。
その事実が、妖魔とは別の緊張を胸に広げた。
「……あいちゃん?」
美咲が、不安そうに呼ぶ。
あいは美咲を見た。
美咲は、まだ混乱している。
けれど、逃げようとはしていない。いつもの明るさは少し薄れているけれど、ちゃんとこちらを見ている。
だから、あいも逃げられなかった。
「美咲ちゃん。驚くと思うけど……」
「もう十分驚いてるよ」
「うん……でも、たぶん、もっと驚く」
「え、まだあるの?」
美咲が目を丸くする。
あいは小さく息を吸った。
昨日の夜、アムルに教えられた言葉。
自分の中の力を呼び起こす言葉。
怖くても、唱えなければいけない。
あいは目を閉じ、そして開いた。
「ラブ・レボリューション!」
声が、薄暗い通路に響いた。
その瞬間、あいの足元から淡いピンク色の光が広がった。
制服が、ふわりと光に包まれる。
白いブラウスも、紺色のブレザーも、緑と紺のチェック柄のスカートも、光の粒子へほどけるように揺らいでいく。
「え……」
美咲の声がかすれた。
光はあいの胸元に集まり、大きなピンクのリボンを形づくる。
紺色のセーラー襟が肩に落ち、動きやすいトップスが身体に沿うように整っていく。
腹部が軽くなり、朝の空気とは違う、魔力の流れが肌をかすめた。
あいの頬に熱がのぼる。
やっぱり、慣れない。
これで変身するのは、まだ二回目なのだ。
昨日の夜、初めて変身した時だって、あまりの短さと軽さに頭が真っ白になった。
濃紺の短いスカートが、光の粒子の中でふわりと揺れる。
美咲が、完全に固まっていた。
最後に、あいの目元へ白い光が集まる。
普段の眼鏡の輪郭に沿って、薄い魔力膜が展開される。
マジカル・ビジョン。
視界が一瞬だけ澄み、空気の揺れが輪郭を持つ。
遠く、改札前の妖魔の気配が、黒いざわめきとして感じられた。
光が収まる。
そこに立っていたのは、制服姿の宮本あいではなかった。
マジカル・ラブ。
昨日の夜、妖魔と戦った姿。
美咲が、ぽかんと口を開けたまま、数秒動かなかった。
「……あ、あいちゃん!?」
そして、思わず一歩後ずさる。
「本当に……変身した……?」
美咲の声は震えていた。
あいは、両手で胸元のリボンを軽く押さえるようにして、視線をそらした。
「う、うん……」
「なに、その服……!!」
美咲の視線が、あいの戦闘服を上から下まで行ったり来たりする。
その瞬間、あいの顔が一気に熱くなった。
「へそ……! スカート……それ……絶対に短すぎるってば……!!」
「い、言わないで……!」
あいは反射的にスカートの裾へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
戦闘服。
魔法戦士の衣装。
動きやすさと魔力の流れを優先して形成されるもの。
昨日の夜、アムルから説明された。
魔法戦士の戦闘服は、動きやすさと魔力の流れを優先して形づくられる。だから、変身後に動揺しないためにも、日常の中で少しずつ慣れていく必要があるのだと。
その言葉を受けて、あいは今朝から短めのスカートに慣れようとしていた。
けれど、やっぱりこれは別だった。
制服の膝上十五センチとは違う。
変身後の戦闘服は、もっと軽くて、もっと動きやすくて、そして、あいにとってはまだどうしても落ち着かない。
「わ、私だって……!」
あいは、ほとんど涙目になりながら言った。
「これで変身するの、今日でまだ二回目なんだから……!!」
「に、二回目!?」
美咲がさらに驚いた。
「じゃあ、昨日の夜って……本当に……」
「うん……」
あいは小さくうなずいた。
「昨日の夜、初めて妖魔と戦ったの。アムルに教えてもらって、変身して……何とか倒したけど、全然慣れてなくて……」
言葉にすると、改めて昨日の夜のことが胸に戻ってくる。
黒い影。
初めての変身。
杖。
ラブ・ショット。
赤いコア。
ラブ・バースト。
そして、戦闘服への戸惑い。
美咲は、何か言いたそうに口を開きかけた。
けれど、その前にアムルが静かに言った。
「説明はあとよ」
その声に、二人の意識が引き戻される。
遠くで、またざわめきが大きくなった。
改札前の妖魔が動いている。
フルルが美咲の足元から、きりっと見上げた。
「次は美咲の番」
「えっ」
美咲が一瞬、固まる。
「私の番って……まさか」
「そのまさか」
フルルは明るく、けれど真剣な声で言った。
「美咲、あなたも変身するの」
「わ、私が……?」
美咲はラブの姿をもう一度見て、それから自分の制服姿を見下ろした。
短めに着こなした、さくら女子の制服。
美咲なら、いつも自然に着ている姿。
けれど、その表情には、初めて見る不安が浮かんでいた。
「あいちゃんみたいに……?」
「同じ系統の戦闘服になるわ」
アムルが補足する。
「ただし、あなたの属性に合わせて少し変化する」
「属性……?」
「美咲は花属性。詳しい説明は後」
フルルが言葉を引き取った。
「今は唱えて。フローラ・レボリューション」
「フローラ……」
美咲が、戸惑いながらその言葉を繰り返す。
あいは、美咲を見つめた。
美咲が変身する。
美咲が、自分と同じ魔法戦士になる。
まだ実感が追いつかない。
けれど、アムルもフルルも本気だ。
改札前では、妖魔が人々のすぐ近くにいる。
もう、迷っている時間はない。
「美咲ちゃん」
あいは、できるだけ落ち着いた声を出そうとした。
でも、少し震えていた。
「怖いと思う。でも……私も昨日、すごく怖かった。今も怖い。でも、アムルの言う通りにしたら、何とかできたから」
「……あいちゃん」
「だから……たぶん、フルルの言う通りにすれば大丈夫」
自分でも、頼りない励ましだと思った。
けれど、美咲はあいの目を見て、小さく息を吸った。
いつもの美咲なら、ここで冗談を言うかもしれない。
でも今は違った。
美咲は真剣に、目の前の現実を受け止めようとしていた。
「……わかった」
美咲はうなずいた。
「全然わかってないけど、あいちゃんがそう言うなら、やる」
その言葉に、あいの胸が少しだけ熱くなる。
フルルが満足そうにしっぽを揺らした。
「いい返事。じゃあ、いくよ、美咲」
美咲は緊張した面持ちで、両手を胸の前に寄せた。
あいは、息を呑んで見守る。
コインロッカー奥の薄暗い通路に、淡い花色の光が少しずつ集まり始めていた。
◆ フローラの戸惑い
コインロッカー奥の薄暗い通路に、淡い花色の光が集まり始めた。
美咲は両手を胸の前に寄せたまま、まだ戸惑っている。
いつも明るくて、何でも勢いで乗り越えてしまいそうな美咲が、今は見たことのないくらい真剣な顔をしていた。
その足元で、白猫のフルルがしっぽをぴんと立てる。
「美咲、落ち着いて。胸の奥にある光を感じて」
「胸の奥って言われても……!」
「大丈夫。あなたなら感じられる。さっき、黒猫の気配に反応したでしょう?」
「えっ、あれってやっぱり気のせいじゃなかったの!?」
美咲の声が跳ねる。
あいも、息を呑んだ。
さっきの歩道橋で、美咲は確かにアムルの気配に反応した。
あの時は、気のせいかもしれないと思おうとしていた。けれど、フルルの言葉で、それがただの偶然ではなかったのだと突きつけられる。
美咲にも、何かがあった。
あいと同じように、魔法戦士としての素質が。
フルルは、美咲をまっすぐ見上げた。
「今は細かい説明をしている時間はないよ。唱えて」
「……ほんとに、私が?」
「うん。美咲、あなたが」
フルルの声は明るい。
けれど、その言葉には迷いがなかった。
美咲は、あいを見る。
「あいちゃん……」
その声には、不安が混じっていた。
あいは、まだ変身した姿のままだった。
胸元の大きなピンクのリボン。紺色のセーラー襟。動きやすいトップス。短い濃紺のスカート。目元には、眼鏡の上に重なるように展開されたマジカル・ビジョン。
美咲に見られていると思うと、今でも顔が熱くなる。
でも今は、美咲の不安の方が大きい。
あいは、できるだけ優しくうなずいた。
「大丈夫……だと思う」
「だと思う、なんだ」
「ご、ごめん。でも、私もまだ二回目だから……」
あいが小さく言うと、美咲は一瞬だけ目を丸くし、それから少しだけ笑った。
「そっか。あいちゃんも、まだ慣れてないんだよね」
「うん……全然」
その言葉で、美咲の肩の力が少し抜けたように見えた。
完璧な誰かに言われるより、同じように戸惑っているあいに言われた方が、美咲には届いたのかもしれない。
フルルが軽く前足を上げる。
「美咲。唱えて。フローラ・レボリューション」
美咲は深く息を吸った。
遠くでは、まだ改札前のざわめきが聞こえている。
妖魔は待ってくれない。
女性駅員たちが人払いをしてくれている間に、こちらも動かなければならない。
美咲は唇を結び、そして、はっきりと声にした。
「フローラ・レボリューション!」
その瞬間、通路に花びらのような光が舞い上がった。
淡いピンク。
若葉のような緑。
白い光。
それらが美咲の周囲をくるくると回り、制服を包み込んでいく。
「わ……っ」
美咲の声が、光の中で揺れた。
白いブラウスも、薄手の紺色ブレザーも、緑と紺のチェック柄のスカートも、光の粒子にほどけていく。
その代わりに、マジカル・ラブと同じ系統のセーラー型の戦闘服が形づくられていった。
紺色のセーラー襟。
動きやすいトップス。
軽やかな濃紺のスカート。
けれど、胸元のリボンだけは、あいのものとは少し違っていた。
花びらを思わせるやわらかな色合い。淡いピンクと若葉色が混ざったような、明るくて美咲らしい色。
光が最後に目元へ集まり、薄いマジカル・ビジョンが展開される。
花色の光がふっと収まった。
そこに立っていたのは、さくら女子の制服姿の橘美咲ではなかった。
マジカル・フローラ。
あいの親友が、魔法戦士の姿でそこに立っていた。
美咲は、数秒、自分の姿を理解できないように固まっていた。
そして、自分の胸元、腕、腹部、スカートへと視線を落としていく。
「……」
次の瞬間、顔が一気に赤くなった。
「ちょ、ちょっとこれ!?」
美咲が裏返った声を上げる。
あいはびくっと肩を揺らした。
「私の方が短くない!? ほんとに短くない!?」
美咲は両手でスカートの前を必死に押さえながら、一歩、二歩と後ずさった。
顔は熟した林檎のように真っ赤になっている。
いつもの美咲なら、短めの制服スカートでも堂々としている。
歩道橋でも、風が吹いても、自然に歩いていた。
ハンカチを拾う時だって、無駄のない動きで軽やかにしゃがんでいた。
その美咲が、今は完全に動揺している。
魔法戦士の戦闘服は、制服とは違う。
短さも、軽さも、肌に触れる空気の感覚も、全部が別物なのだ。
「み、美咲……」
あいは、どう声をかければいいかわからず、胸元のリボンを押さえるようにして言った。
「気持ち……すごくわかるよ……」
「わかる!?」
「うん……私も、二回目だけど……まだ全然慣れてない……!」
あいの声も震えていた。
美咲は両手でスカートを押さえたまま、あいを見た。
「そ、そうなんだ……」
「うん……」
「あいちゃん、よくこんなの耐えてたね……!」
「耐えてたっていうか……耐えるしかなくて……」
「ああ……わかる……今ならわかる……!」
美咲が真剣な顔でうなずく。
その様子があまりにも必死で、あいは一瞬だけ、こんな状況なのに笑いそうになってしまった。
でも、笑えなかった。
美咲の戸惑いは、昨日の夜の自分そのものだったからだ。
初めて変身した時。
制服が光に包まれて、見たことのない戦闘服になって。
短いスカートと軽い衣装に、どう立てばいいのかわからなくなった。
今、美咲はそれを体験している。
あいは一歩、美咲に近づいた。
「美咲ちゃん、無理に堂々としなくて大丈夫だよ」
「でも、これで戦うんでしょ?」
「うん……たぶん」
「たぶんって!」
「だ、だって私もまだ詳しくないから……!」
二人は見つめ合った。
そして、同時に少しだけ困ったような顔になる。
不思議だった。
ついさっきまで、あいは自分の秘密を美咲に知られることが怖かった。
変身後の姿を見られることも、恥ずかしくてたまらなかった。
でも今、美咲も同じように戸惑っている。
同じように顔を赤くして、同じように戦闘服の短さに動揺している。
そのことが、あいの胸の中にあった孤独を少しだけ溶かしていった。
ひとりではない。
そう思えた。
美咲も、あいと同じ場所に立っている。
同じ恥ずかしさを抱えて、同じわからなさの中にいる。
それだけで、二人の距離が一気に近くなった気がした。
「……あいちゃん」
「な、なに?」
「これ、学校の制服よりずっと動きやすいのはわかる」
「うん……」
「でも、軽すぎて落ち着かない」
「すごくわかる……」
「あと、これで走るの、かなり勇気いる」
「それも、すごくわかる……!」
二人はまた顔を赤くした。
フルルが、そんな二人を見上げて、少しだけ呆れたように耳を動かした。
「気持ちはわかるけど、二人とも、今は戦闘中だよ」
「わ、わかってる!」
美咲が慌てて背筋を伸ばす。
その瞬間、スカートの裾が軽く揺れて、美咲はまた両手で押さえかけた。
けれど、途中で止まる。
あいはその動きに気づいた。
美咲も、ちゃんと自分で止めた。
いつもの美咲ほど自然ではない。
でも、完全に慌てているわけでもない。
フルルが明るく言う。
「そう。押さえすぎると動けなくなる。軽く意識するくらいでいいよ」
「それ、あいちゃんも言われた?」
美咲があいを見る。
「うん。私はアムルに、裾ばかり気にすると動きが固くなるって言われた」
「そっか……猫たち、言うこと似てるね」
「知り合いみたいだし……」
二人の視線が、アムルとフルルへ向く。
アムルは落ち着いた表情で、フルルは少し得意げにしっぽを揺らしていた。
「その話も後よ」
アムルが静かに言った。
「今は、妖魔を止める」
その言葉で、空気が引き締まる。
遠くで、黒い揺らぎが膨らむような気配がした。
マジカル・ビジョン越しに、あいの視界の端がかすかに反応する。
妖魔が動いている。
あいは息を呑んだ。
美咲も、表情を変えた。
まだ顔は赤い。まだ戦闘服には慣れていない。けれど、その目に、さっきまでとは違う光が宿る。
「フルル」
美咲が、白猫を見下ろした。
「次は、何をすればいい?」
フルルは、ぱっと明るく笑うように目を細めた。
「いいね、美咲。その切り替え、大事」
そして、通路の奥から改札前の方へ視線を向ける。
「まずは、あの妖魔を人のいる場所から切り離す。そこはラブの役目」
「私……?」
あいが反応すると、アムルがうなずいた。
「ええ。ラブ、あなたの力を使うわ」
あいの胸が、再び強く鳴った。
自分の力。
数学。
座標。
虚数。
昨日の夜は、ただ必死に戦っただけだった。
でも今度は、もっとはっきりした役割がある。
人々を巻き込まないために、妖魔を隔離する。
美咲が隣に立つ。
マジカル・フローラとして。
あいは、その姿を見て、小さく息を吸った。
恥ずかしさは、まだある。
怖さも、まだある。
でも、隣に同じように戸惑いながら立っている親友がいる。
それだけで、昨日より少しだけ、前を向ける気がした。
「……わかりました」
あいはアムルに向かってうなずいた。
フローラ――美咲も、ぎこちなくスカートの裾を気にしながら、それでも片足を前に出した。
「私も……やる」
その声は震えていた。
けれど、逃げる声ではなかった。
◆ 虚数空間
遠くで、黒い揺らぎが膨らむ気配がした。
改札前のざわめきは、コインロッカー奥の通路まで届いている。
駅員の声。人々の足音。カラーコーンが置かれる音。消火器の噴射音。
どれも、日常の駅では聞こえないはずの音だった。
ラブは、胸元のリボンに手を添えた。
隣には、変身したばかりのフローラがいる。
まだ頬は赤い。戦闘服の短さと軽さに戸惑っているのが、見ているだけでわかる。
けれど、その足は逃げ出していなかった。
美咲ちゃんも、立っている。
そう思うと、ラブの中にも少しだけ力が戻った。
アムルが静かに言う。
「ラブ、人のいる場所で直接戦うのは危険よ。妖魔を隔離する必要があるわ」
「隔離……?」
「ええ。現実の空間から、妖魔のいる場所だけを少しずらすの」
「どうやって……?」
ラブの声は、思ったよりも小さくなった。
昨日の夜は、目の前の妖魔に向かって魔法を撃つだけで精いっぱいだった。
けれど今は違う。
駅には人がいる。
改札前には、まだ避難している人たちがいる。
謎の女性駅員がカラーコーンを置いて人払いをしてくれているとはいえ、長くはもたない。
直接戦うには、人が近すぎる。
「虚数空間にするの」
アムルは短く言った。
「虚数……空間……?」
「あなたは数学が得意でしょう。虚数を思い浮かべて。現実の座標に、もうひとつ見えない軸を重ねるイメージよ」
虚数。
その言葉に、ラブの頭の中で、複素平面が浮かんだ。
横へ伸びる実数の軸。
そこに直交する、目には見えない虚数の軸。
現実と同じ場所にあるのに、同じではない場所。
外からは見えず、けれど中からは外が見える場所。
「現実の表面を、一段だけずらすの。外にいる人からは、虚数空間の中で何が起きているか見えない。でも中からは、外の様子も音もそのままわかる」
「外からは見えないけど、中からは見える……」
「ええ。今は細かい理屈より、範囲を決めて」
アムルの声が少し鋭くなる。
「今いるコインロッカー奥の通路。改札前にいる妖魔。カラーコーンで区切られた範囲。それをまとめて、ひとつの隔離領域としてイメージして」
ラブは息を吸った。
今いる場所。
コインロッカー奥の薄暗い通路。
妖魔のいる場所。
改札前の黒い揺らぎ。
人払いの境界。
カラーコーンで区切られた範囲。
その三つを、一本の見えない線で結ぶ。
でも、その前に。
ラブは自分の手を見た。
杖がない。
変身はした。
マジカル・ビジョンも展開されている。
けれど、まだ武器を呼び出していない。
昨日の夜、アムルに教えられたことを思い出す。
心の中で、杖を思い浮かべる。
長くて細身の魔法の杖。
先端には、小さなハートの装飾。
「杖……」
ラブが小さく呟くと、手元に淡いピンク色の光が集まり始めた。
光は細く伸び、指先の中で形を作っていく。
やがて、長い魔法の杖がすっと現れた。
先端のハート飾りが、小さく光を返す。
「わ……!」
フローラが目を丸くした。
「杖まで出た!? あいちゃん、ほんとに魔法戦士なんだ……!」
「私も、まだ慣れてないけど……」
ラブは少し恥ずかしそうに杖を握り直した。
けれど、杖が手にあるだけで、胸の奥が少し落ち着く。
昨日の夜も、この杖で戦った。
ラブ・ショットを放ち、コアを狙い、ラブ・バーストを撃った。
今度は、攻撃ではない。
空間そのものを扱う魔法。
ラブは杖を両手で持ち、胸の前へ寄せた。
「ラブ」
アムルの声が、すぐ足元から届く。
「完璧でなくていいわ。今は、妖魔と人の流れを分けるだけでいい」
「……はい」
「座標を決めて。境界を閉じて。杖を通して魔力を流すの」
ラブはうなずいた。
完璧でなくていい。
その言葉に、少しだけ呼吸が戻る。
フローラが、ぎこちなくも隣に並んだ。
「よくわかんないけど……私、そばにいるから」
「美咲ちゃん……」
「まだ何もできないかもだけど、ひとりでやるよりはマシでしょ?」
フローラの声は震えていた。
でも、笑おうとしている。
その笑顔に、ラブは胸の奥を支えられた気がした。
「うん……ありがとう」
ラブは、改札前へ意識を向ける。
今いるコインロッカー奥の通路。
改札前にいる妖魔。
カラーコーンで区切られた範囲。
点と点を結び、面を作る。
その面を、現実から少しだけずらす。
虚数方向へ。
杖の先端に、淡いピンク色の光が集まっていく。
まだ、空気は変わらない。
駅員の声も、人々の足音も、改札機の電子音も、いつものように聞こえている。
ラブは、頭の中で何度も確認した。
外からは見えない。
中からは外が見える。
外の音も聞こえる。
人々には何も起きていないように見える。
けれど、その内側で、妖魔だけを切り分ける。
すべてが、ひとつのイメージに重なる。
そして、ラブは言葉にした。
「ディストーション・フィールド!」
声と同時に、杖の先端から光が広がった。
空気が、ゆらりと歪む。
コインロッカー奥の通路から、改札前のカラーコーンで囲まれた範囲まで、淡い光の線が床を走った。
その線は一瞬だけ駅の床に幾何学模様のような軌跡を描き、すぐに透明な境界へ変わる。
フローラが息を呑んだ。
「なに、これ……空気が変わった……?」
駅員の声も、人々の足音も、改札機の電子音も、変わらず聞こえている。
けれど、空間の手触りだけが違った。
同じ場所にいるのに、ほんの少しだけ現実から浮いたような感覚。
足元の床も、ロッカーの銀色の扉も、遠くに見えるカラーコーンも、何も変わっていない。
それなのに、外側の人々はこちらを認識していない。
通路の入口を通りかかった通勤客が、こちらに目を向けることなく歩いていく。
駅員の誘導で移動する人々も、虚数空間の内側にいるラブたちには気づいていない。
ラブには、外が普通に見えている。
音も普通に聞こえている。
でも、外からは中が見えていない。
虚数空間が、現実に重なって成立していた。
改札前の黒い揺らぎの周囲だけが、見えない境界に包まれる。
妖魔は、こちら側へ引き込まれたように輪郭を濃くした。
外にいる人々からは、おそらく黒い煙が急に薄れたようにしか見えていない。
戦いも、ラブたちの姿も、妖魔の形も、見えていないはずだった。
フローラが、目を見開いたまま呟く。
「外、普通に見える……でも、向こうからは見えてないの?」
「うん……たぶん」
ラブは杖を握りしめた。
「虚数空間の中からは、外が見える。外の音も聞こえる。でも、外からは中が見えない……そういう空間にしたの」
「そんなこと、できるんだ……」
「私も……今できたばかりだから、まだよくわからない」
ラブの膝が少し震えている。
魔力を使った感覚が、胸の奥に重く残っていた。
ラブ・ショットを撃った時とは違う。もっと広く、もっと細かいところまで意識を伸ばしたような疲れ方だった。
アムルが、ラブを見上げる。
「成功よ。初めてにしては上出来」
「初めてにしては……」
「境界は少し揺れている。長くは保てないわ」
その言葉に、ラブはすぐに背筋を伸ばした。
成功した。
でも、終わったわけではない。
むしろ、ここからが本番だ。
虚数空間の中で、妖魔がゆっくりとこちらを向いた。
黒い霧のような身体が、不気味に揺れる。
外の人々の声は普通に聞こえているのに、妖魔の気配だけが、異様にはっきりと感じられた。
フローラが、ごくりと息を呑む音がした。
「これ……本当に戦うんだよね」
「うん……」
ラブは杖を握る手に力を込めた。
怖い。
でも、人々は外にいる。
こちらの戦いは、外からは見えていない。
そして、こちらからは外の様子が見えている。
駅員が誘導を続けていることもわかる。
人々が少しずつ離れていくのも見える。
カラーコーンの向こうで、朝の駅の流れが戻ろうとしているのもわかる。
自分が展開した虚数空間が、今、人々を巻き込まないための壁になっている。
その事実が、少しだけラブを支えた。
「フローラ」
フルルが明るく、けれど真剣な声で言った。
「ここからは本当に戦闘だよ。剣を呼び出して」
「け、剣……?」
フローラが自分の手を見る。
アムルも、ラブへ視線を向ける。
「ラブ、境界を意識しながら戦うの。完全に集中を切らさないで」
「はい……!」
ラブはうなずいた。
虚数空間の境界が、かすかに震えている。
不安定で、でも確かにそこにある。
初めて自分で作った、現実と重なりながら外からは見えない戦場。
その中心で、妖魔が低くうねった。
戦いが、始まろうとしていた。
◆ 初めての共闘
虚数空間の中で、妖魔がゆっくりと動き出した。
黒い霧のような身体が、改札前の床を這うように揺れる。
人の形に近い輪郭はある。けれど、腕も足も、はっきりとは定まっていない。
外の音は普通に聞こえていた。
駅員の誘導する声。
通勤客たちの足音。
改札機の電子音。
けれど、そのすべてが、この空間の外にある。
ラブたちの姿も、妖魔の姿も、戦闘の様子も、外の人々には見えていない。
それがわかっていても、ラブの胸は強く鳴っていた。
自分が作った虚数空間。
その境界が、かすかに震えているのを感じる。
集中を切らしてはいけない。
アムルはそう言った。
でも、目の前には妖魔がいる。
しかも、隣には変身したばかりのフローラがいる。
ラブは杖を握る手に力を込めた。
「フローラ、下がって……!」
「う、うんっ!」
フローラは慌てて一歩下がった。
何をすればいいのかも、きっとわかっていない。
当然だ。
フローラにとっては、これが本当に初めての戦いなのだから。
昨日の夜の自分と同じ。
そう思うと、ラブはフローラを守らなければいけない気がした。
けれど、その瞬間、妖魔の輪郭がぐにゃりと崩れた。
黒い霧の一部が、鞭のように伸びる。
マジカル・ビジョンの端が赤く点滅した。
《警告:敵性反応、正面》
「っ……!」
ラブは反射的に杖を構えた。
避ける。
横へ跳ぶ。
昨日よりは、少しだけ早く反応できた。
そう思った。
けれど、足がうまく動かなかった。
虚数空間の境界を意識しているせいか、体の中心が少しだけ遅れる。
ここを保たなきゃ。
外の人を巻き込んじゃだめ。
その考えが、ほんの一瞬、動きを鈍らせた。
黒い霧の衝撃が、ラブの足元をすくうように走った。
「きゃっ……!」
体が後ろへ傾く。
ラブは慌てて杖を握りしめたが、踏ん張りきれなかった。
そのまま、床へ尻もちをつく。
けれど、硬い床にぶつかる直前、胸元の大きなリボンが淡く光った。
ふわり、と空気が膨らむ。
見えないクッションに受け止められたように、衝撃がやわらかく逃げていく。
腰に痛みはほとんどなかった。
セーフティ・ヴェール。
昨日の夜にも助けられた、安全機能。
けれど、助かったと安心するより先に、ラブの顔が一気に熱くなった。
戦闘服のまま、床に座り込んでいる。
それだけで、どうしようもなく落ち着かなかった。
「やっ……フローラ……みないでぇ……!」
思わず、声が出た。
ラブは慌てて姿勢を整えようとする。
けれど、焦れば焦るほど、手足がうまく動かない。
(し、しっかりしなきゃ……でも……こんなの……恥ずかしすぎて……!!)
顔が熱い。
妖魔が目の前にいる。
虚数空間の境界も維持しなければならない。
フローラだって、まだ何もわからないまま立っている。
それなのに、恥ずかしさが先に来てしまう。
そんな自分が情けなかった。
「ラブ!」
アムルの声が飛ぶ。
「立って。衝撃はセーフティ・ヴェールが受け流したわ。大丈夫、動けるはずよ」
「は、はい……!」
ラブは杖を支えにして、どうにか膝を立てた。
昨日の夜なら、もっと混乱していたかもしれない。
転んだことだけで頭がいっぱいになって、次の動きに移れなかったかもしれない。
でも今は違う。
恥ずかしい。
怖い。
まだ全然慣れていない。
それでも、立たなければいけない。
ラブは息を吸った。
背筋を伸ばす。
呼吸を整える。
裾ばかり気にしない。
今朝、アムルに言われたことを思い出す。
ここは通学路ではない。
駅の改札前でもない。
虚数空間の中の戦場だ。
でも、やることは同じだった。
慌てない。
呼吸を整える。
前を見る。
ラブは、ゆっくり立ち上がった。
「ラブ……大丈夫!?」
フローラの声が、すぐ近くから聞こえる。
ラブは振り向きかけて、少しだけ迷った。
まだ顔は熱い。できれば見ないでほしい。
でも、フローラの声には本気の心配があった。
ラブは小さくうなずいた。
「うん……大丈夫。セーフティ・ヴェールが守ってくれたから」
「セーフティ……?」
「落ちたり、ぶつかったりした時に、衝撃をやわらげてくれる機能……みたいなもの」
「そんなのあるんだ……!」
フローラは驚いたように目を丸くした。
その反応に、ラブは少しだけ気持ちを取り戻す。
そうだ。
自分はまだ未熟だけれど、何もできないわけではない。
アムルに教わったことがある。
昨日の夜に経験したことがある。
マジカル・ビジョンも、杖も、セーフティ・ヴェールもある。
そして、今はフローラが隣にいる。
妖魔が、再び黒い霧を揺らした。
ラブは杖を前に向ける。
マジカル・ビジョンの視界に、妖魔の輪郭が浮かぶ。
けれど、コアはまだはっきり見えない。
虚数空間の境界を保ちながら、妖魔の動きを見る。
それだけで、頭の中がいっぱいになる。
「アムル……境界が、少し揺れてます……!」
「わかっているわ。今は維持を優先して。無理に攻撃しないで」
「でも……!」
「ひとりで全部しようとしないこと」
アムルの声は静かだった。
ラブは、その言葉に息を止める。
ひとりで全部。
たしかに、そうしようとしていたのかもしれない。
虚数空間を作ったのは自分。
境界を維持しなければならないのも自分。
妖魔を止めなければならないのも自分。
そして、フローラを守らなければならないのも自分だと思っていた。
でも、フローラはそこにいる。
まだ戸惑っている。
まだ剣も出していない。
でも、逃げずに立っている。
「ラブ」
今度は、フローラが声をかけた。
さっきまでの慌てた声とは少し違っていた。
「私、何をすればいい?」
ラブはフローラを見た。
フローラの顔は、まだ赤い。
戦闘服にも、状況にも、きっと全然慣れていない。
それでも、その目は妖魔を見ていた。
怖がっている。
でも、ちゃんと前を見ている。
ラブは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「私も……まだよくわからない。でも、妖魔をここから出さないようにする。だから……フローラは、自分を守って」
「守る……?」
フローラが戸惑う。
その時、フルルが一歩前に出た。
「美咲、次はあなたの番だよ」
フローラが白猫を見下ろす。
「私の……?」
「うん。まずは防御から。攻撃より先に、自分の身を守る力を出すの」
フルルの声は明るい。
けれど、いつものような軽さだけではなかった。
戦闘のための、はっきりした指示。
ラブは、杖を構え直した。
妖魔はまだ動いている。
虚数空間の境界も、かすかに震えている。
でも、さっきよりは呼吸が整っていた。
尻もちをついた。
恥ずかしかった。
まだうまく動けない。
それでも、立ち上がれた。
昨日の夜より、ほんの少しだけ早く。
ラブは小さく息を吐いた。
初めての共闘は、まだ始まったばかりだった。
◆ フローラ・シールド
虚数空間の境界が、かすかに震えていた。
外の音は普通に聞こえる。
駅員の誘導する声も、改札機の電子音も、人々の足音も、すぐそこにある。
けれど、こちらの戦いは外からは見えていない。
ラブは杖を握り直しながら、黒い揺らぎを見据えた。
妖魔は、ゆっくりと輪郭を変えている。
霧のような身体が伸びたり縮んだりしながら、こちらの隙を探っているように見えた。
ラブの胸が強く鳴る。
虚数空間を保たなければならない。
妖魔の動きも見なければならない。
フローラを守らなければならない。
そう思った瞬間、アムルの声が飛んだ。
「ラブ。ひとりで抱え込まないで」
「……はい」
ラブは小さくうなずいた。
わかっている。
でも、体はまだ思うように動かない。
さっき尻もちをついたばかりで、頬の熱もまだ引いていない。
恥ずかしさも、怖さも、胸の中に残っている。
それでも、立っている。
昨日の夜より、少しだけ早く立ち上がれた。
そのことだけを、今は信じるしかなかった。
隣で、フローラが自分の両手を見下ろしていた。
「私……何かできるのかな」
その声は、いつもの美咲より少し弱かった。
ラブはフローラを見る。
フローラの顔はまだ赤い。
戦闘服にも慣れていない。魔法戦士になったばかりで、何が起きているのかも十分には理解できていない。
けれど、逃げてはいなかった。
フローラは妖魔の方を見ている。
怖がりながらも、ちゃんと前を向いている。
フルルが、フローラの足元へ軽やかに進み出た。
「美咲。まずは武器を呼び出して」
「武器……?」
「あなたの力は、剣の形になりやすい。心の中で、片手で扱える剣を思い浮かべて」
「剣って……本当に出るの?」
「出るよ。あなたの魔力なら」
フルルは明るく言った。
その明るさは、いつもの美咲に少し似ている。
ラブはそんなことを思った。
フローラは戸惑いながらも、右手を少し前へ出した。
「片手で扱える剣……」
小さくつぶやく。
その手元に、淡い花色の光が集まり始めた。
ピンク。
白。
若葉のような緑。
光は細く伸び、花びらが重なるように形を作っていく。
やがて、それは一本の片手剣になった。
長すぎず、重すぎない。
フローラの手に自然に収まる、軽やかな剣。
柄の部分には、花びらを思わせる小さな装飾が浮かんでいる。
「……出た」
フローラが、目を丸くする。
「ほんとに出た……!」
「いい感じ」
フルルが満足そうにしっぽを揺らした。
「でも、振り回さないで。まずは構えて」
「構えるって……こう?」
フローラは片手剣を持ち上げた。
最初の構えは、少しぎこちなかった。
肩に力が入り、剣先もわずかに揺れている。
それでも、足の置き方は悪くなかった。
ラブは思わず見てしまう。
美咲は、やっぱり体の使い方がうまい。
さっきまで戦闘服に戸惑っていたのに、剣を持った瞬間、自然と重心が安定している。
膝が固まりすぎていない。足元も、すぐに動ける位置に置かれている。
本人は気づいていないかもしれない。
でも、あいにはわかった。
美咲ちゃんは、きっと動ける。
そう思った瞬間、妖魔が動いた。
黒い霧が大きくうねる。
腕のようなものが伸び、今度はフローラの方へ向かってきた。
「フローラ、来る!」
ラブが叫ぶ。
「えっ……!」
フローラは剣を構えたまま、体をこわばらせた。
攻撃を受ける。
避ける。
斬る。
そのどれを選べばいいのか、迷っているのがわかった。
フルルの声が響く。
「美咲、まだ斬らなくていい! 守って!」
「守るって、どうやって!?」
「剣を前に。左手を添えるイメージで。花びらの壁を作るの!」
「花びらの……壁……?」
「唱えて!」
フルルが、はっきりと言った。
「フローラ・シールド!」
フローラは息を呑む。
黒い霧の攻撃が、目の前まで迫る。
迷っている時間はなかった。
フローラは片手剣を前に出し、もう片方の手を胸元のリボンに添えるようにした。
「フ、フローラ・シールド!」
声が、虚数空間の中に響いた。
その瞬間、フローラの胸元のリボンが淡く光った。
剣先から、花びらのような光が広がる。
一枚。二枚。三枚。
薄い花びらの光が重なり合い、フローラの前に半透明の盾を作った。
妖魔の黒い霧が、その盾へぶつかる。
重い音はしなかった。
代わりに、ざあっと花びらが舞うような音が広がった。
黒い霧の勢いが、花びらの盾に沿って横へ流される。
真正面から受け止めるのではなく、角度を変えて受け流すように。
妖魔の攻撃は、フローラの横をかすめるように逸れていった。
「……っ!」
フローラは一歩後ずさる。
けれど、倒れなかった。
盾も完全には消えていない。
淡い花びらの光が、まだフローラの前で揺れている。
「止めた……?」
フローラが呆然とつぶやいた。
「止めたというより、受け流したのよ」
フルルが明るく言う。
「美咲、今のすごくいい。力で押し返そうとしなくていいの。あなたは流れを読んで、ずらす方が向いてる」
「流れを……ずらす……」
フローラは、自分の前に浮かぶ花びらの盾を見つめた。
まだ信じられない、という顔だった。
ラブも、思わず息を呑んでいた。
初めての魔法。
初めての防御。
それなのに、フローラは妖魔の攻撃を受け流した。
もちろん、完璧ではない。
盾は小さく揺れているし、フローラの足も少し震えている。
でも、成功した。
「美咲ちゃん……すごい」
ラブが小さく言うと、フローラははっと振り向いた。
「すごいっていうか……今の、ほとんどフルルに言われた通りにしただけだよ」
「それでも、ちゃんとできてた」
「ラブだって、さっき空間作ったじゃん。そっちの方がすごいって」
「私は……まだ境界が揺れてるから」
「私の盾も揺れてるよ!」
二人は、こんな状況なのに、少しだけ顔を見合わせた。
どちらも完璧ではない。
ラブの虚数空間は不安定。
フローラの盾も小さく揺れている。
でも、二人とも、確かに魔法を使っている。
ひとりではできなかったことを、少しずつ分け合っている。
その感覚が、ラブの胸に静かに広がった。
アムルが言う。
「ラブ、境界維持を続けて。フローラが前に出すぎないよう、妖魔の動きを見て」
「はい」
フルルも続ける。
「フローラ、盾を消さないで。剣は構えたまま。攻撃に転じるのは、コアの位置がわかってから」
「コア……?」
フローラが聞き返す。
ラブは、妖魔へ視線を戻した。
マジカル・ビジョン越しに見る黒い霧は、先ほどよりも輪郭が乱れている。
フローラ・シールドで攻撃の流れをずらされたことで、妖魔の形が少し崩れたように見えた。
けれど、まだコアははっきり見えない。
「妖魔は、中心にコアがあるの。それを壊さないと消えない」
「中心……」
「まだ見えない。でも、探す」
ラブは杖を構え直した。
虚数空間の境界を保ちつつ、妖魔の輪郭を追う。
フローラの盾が、横で淡く光っている。
怖さは消えない。
恥ずかしさも、まだ残っている。
でも、さっきより少しだけ、呼吸は整っていた。
フローラが隣で守ってくれている。
それだけで、ラブは妖魔を見る余裕を少し取り戻せた。
妖魔が再びうねる。
フローラは片手剣を構え、花びらの盾を前に保った。
ラブは杖を握り、マジカル・ビジョンに映る揺らぎを追う。
初めての共闘は、少しずつ形になり始めていた。
◆ コアを貫く剣
妖魔の黒い霧が、虚数空間の中でうねった。
外の音は変わらず聞こえている。
駅員の誘導する声も、改札機の電子音も、人々の足音も、すぐそこにある。
けれど、こちらの戦いは外から見えない。
ラブは、そのことを何度も自分に言い聞かせながら、杖を構えた。
虚数空間の境界は、まだ保てている。
けれど、ほんのわずかに震えているのがわかる。
長くは持たない。
アムルの言葉が、頭の奥に残っていた。
早く、妖魔のコアを見つけなければならない。
フローラは、花びらのような淡い盾を前に保ったまま、片手剣を握っていた。
その姿はまだ少しぎこちない。
けれど、足元は崩れていない。
さっき、妖魔の攻撃を《フローラ・シールド》で受け流した時から、フローラの立ち方が少し変わっていた。
怖がっている。
戸惑っている。
でも、逃げてはいない。
ラブは小さく息を吸った。
「コアを探します」
アムルに向かって言うと、黒猫は静かにうなずいた。
「ええ。妖魔の輪郭を崩せば、コア反応が見えやすくなるわ」
「輪郭を崩す……」
昨日の夜の戦いを思い出す。
ラブ・ショットを当てた時、妖魔の身体が揺らぎ、中心に赤い反応が見えた。
今も同じはずだ。
ラブは杖の先端を妖魔へ向けた。
虚数空間を維持しながらの攻撃。
簡単ではない。
境界に意識を残しつつ、杖へ魔力を集める。
胸元のリボンが、かすかに温かくなる。
杖の先端に、淡いピンク色の光が灯った。
「ラブ・ショット!」
小さな光弾が、まっすぐに放たれた。
妖魔が身体をくねらせる。
光弾は黒い霧の端をかすめ、霧を少しだけ散らした。
「浅い……!」
ラブは息を詰める。
でも、完全に外れたわけではない。
黒い霧の輪郭が、一瞬だけ揺らいだ。
マジカル・ビジョンの視界に、細い赤い線が走る。
まだ点ではない。
反応が弱い。
「もう一発!」
ラブは杖を握り直した。
境界が少し震える。
視界の端で、虚数空間の線がかすかに波打った。
集中が散れば、空間が不安定になる。
でも、今は撃たなければならない。
「ラブ・ショット!」
二発目の光弾が飛ぶ。
今度は、妖魔の中心に近い部分へ当たった。
黒い霧が、ぐらりと大きく揺らぐ。
その奥で、赤い光が一瞬だけ瞬いた。
マジカル・ビジョンが反応する。
ラブの視界の中央に、小さな赤い点が浮かび上がった。
「見えた……!」
ラブは思わず声を上げた。
同時に、隣のフローラがびくっと肩を揺らす。
「えっ、なにこれ……?」
「フローラ?」
「赤い点が見える……妖魔の真ん中に、何か、赤い印みたいなのが……!」
フローラは片手剣を構えたまま、目を見開いている。
フローラのマジカル・ビジョンにも、コアの位置が表示されているのだ。
あいは一瞬だけ驚いた。
けれど、すぐに理解した。
同じ魔法戦士。
同じマジカル・ビジョン。
フローラにも、見える。
なら、今だ。
「美咲ちゃん、中心の赤い点! そこがコア!」
ラブは叫んだ。
フローラが、はっとラブを見る。
「コア……あれを壊せばいいの?」
「うん! あれを壊さないと、妖魔は消えない!」
ラブは、杖を妖魔へ向けたまま言った。
「私がもう一度、動きを止める。フローラは、その赤い点を狙って!」
「狙ってって……!」
フローラの声が震える。
初めての戦い。
初めての剣。
初めて見るコア。
怖くないはずがない。
けれど、フローラの足は下がらなかった。
フルルが明るく、けれど真剣に言う。
「美咲、考えすぎないで。見えているなら、体は動く。あなたは流れを読める子よ」
「流れ……」
「ラブが崩した瞬間に踏み込むの」
フローラは、ごくりと息を呑んだ。
ラブは、妖魔へ視線を戻す。
コアは見えた。
でも、黒い霧の中で揺れている。
そのままでは、刺しにくい。
もう一度、ラブ・ショットを当てる。
今度は倒すためではない。
フローラが踏み込むための隙を作る。
ラブは杖に魔力を集めた。
胸の奥が重い。
虚数空間の維持と攻撃で、魔力を使っているのがわかる。
でも、ここで止まるわけにはいかない。
「フローラ、準備して」
「う、うん……!」
フローラは片手剣を持ち直した。
その瞬間、ラブは気づいた。
剣を握ったフローラの姿勢が、さっきより安定している。
膝が固まっていない。肩にも余計な力が入りすぎていない。
本人は不安そうなのに、体だけは自然に動ける位置を選んでいる。
美咲ちゃんらしい。
ラブは、ほんの少しだけ頼もしさを覚えた。
「ラブ・ショット!」
三発目の光弾が放たれる。
ピンク色の光が妖魔の輪郭を撃ち、黒い霧を大きく揺らした。
コアを覆っていた霧が、ほんの一瞬だけ開く。
赤い点が、はっきりと浮かび上がった。
「今!」
ラブが叫ぶ。
フローラが動いた。
迷いが完全に消えたわけではない。
けれど、最初の一歩は速かった。
花びらの盾をかすかに前へ残したまま、片手剣を低く構える。
足元の重心がすっと落ちる。
歩道橋でハンカチを拾った時のような、無駄のない動き。
次の瞬間、フローラは一気に踏み込んだ。
「はぁっ!」
片手剣が、淡い花色の軌跡を描く。
妖魔の黒い霧が、フローラへ向かって反応する。
しかし、フローラは真正面から押し切ろうとはしなかった。
身体をわずかに斜めへずらし、霧の流れを避ける。
まるで、風の通り道を読んだように。
感覚で動いている。
ラブには、それがわかった。
理屈で考える前に、美咲の体が一番通りやすい場所を選んでいる。
剣先が、赤い点へ伸びる。
妖魔の中心。
コア。
フローラの片手剣が、そこを貫いた。
高い、澄んだ音が響いた。
ガラスが割れるような。
花びらが散るような。
黒い霧の奥で、赤い光が砕ける。
「……刺さった」
フローラが呆然とつぶやく。
次の瞬間、妖魔の身体が大きく震えた。
黒い霧が、内側からほどけていく。
霧の粒が光を帯び、細かな光子のように分かれていく。
腕のような形も、足元の影も、もう保てない。
妖魔は音もなく崩れた。
黒い影だったものが、細かな光の粒となって、虚数空間の中に散っていく。
それらは空気に溶けるように薄れ、やがて完全に消えた。
コアの赤い点も、もう見えない。
マジカル・ビジョンの表示が静かに消える。
ラブは、息を吐いた。
「……倒した……?」
フローラが、片手剣を持ったまま呟く。
その声は震えていた。
ラブは妖魔の消えた場所を見つめ、それから小さくうなずいた。
「うん……倒したんだと思う」
「私が……?」
「うん。フローラが、コアを貫いた」
その言葉に、フローラの顔がまた少し赤くなった。
けれど、今度の赤さは恥ずかしさだけではないように見えた。
驚き。
実感のなさ。
そして、ほんの少しの震えるような達成感。
フルルが、嬉しそうにしっぽを揺らした。
「やったね、美咲。初戦にしては上出来!」
「初戦にしては、って……」
フローラは力が抜けたように肩を落とした。
「私、ほとんど何が起きたのかわかってないんだけど……」
「それでも、ちゃんと動けた」
ラブは言った。
フローラが、ラブを見る。
「ラブが教えてくれたからだよ。赤い点、って」
「でも、踏み込んだのはフローラだよ」
二人は、しばらく見つめ合った。
ラブはコアを見つけた。
フローラはそのコアを貫いた。
理屈と感覚。
分析と動き。
どちらか一つだけでは、きっと間に合わなかった。
それが、初めて少しだけ噛み合ったのだと、ラブは感じた。
アムルが静かに言う。
「よくやったわ、二人とも」
その声に、ラブの胸がじんわりと温かくなる。
けれど、同時に、足元の感覚が揺れた。
虚数空間の境界が、細かく震えている。
「ラブ」
アムルが顔を上げる。
「妖魔は消えたわ。次は空間を戻すの」
「はい……」
ラブは杖を握り直した。
妖魔は倒した。
でも、まだ終わってはいない。
虚数空間を解除しなければ、現実には戻れない。
外の駅員の声は、今も普通に聞こえている。
朝の瑞穂台駅は、少しずつ元の流れを取り戻そうとしている。
ラブは、胸の奥に残る疲労を押さえながら、次の魔法に意識を向けた。
◆ リターン・フィールド
妖魔が消えたあと、虚数空間の中に静けさが戻った。
ほんの少し前まで黒い霧がうねっていた場所には、もう何も残っていない。
砕けたコアの赤い光も、霧のような影も、すべて光の粒子となって消えてしまった。
フローラは片手剣を握ったまま、呆然と立っていた。
「……本当に、倒したんだ……」
その声は、小さく震えていた。
ラブも、すぐには返事ができなかった。
妖魔は消えた。
フローラがコアを貫いた。
自分たちは、確かに戦った。
でも、安心するにはまだ早かった。
足元の感覚が、かすかに揺れている。
虚数空間の境界が、不安定になっていた。
ラブは胸元のリボンに手を添え、杖を握り直す。
自分で作った空間が、薄い輪郭を保ったまま震えているのがわかる。
長くは保てない。
そう思った瞬間、アムルが足元から声をかけた。
「ラブ、妖魔は消えたわ。けれど、まだ虚数空間は維持されたままよ」
「はい……境界が、少し揺れています」
「ええ。無理に保ち続ける必要はないわ。でも、解除する場所には気をつけて」
ラブは、外側へ視線を向けた。
虚数空間の中からは、外の様子が普通に見える。
駅員の誘導する声も、人々の足音も、改札機の電子音も、そのまま聞こえている。
外側では、駅前の混乱が少しずつ収まり始めていた。
通勤客や学生たちは、駅員の指示に従って別の通路へ流れている。
カラーコーンの列が、改札前の一角をきれいに区切っていた。
折りたたみ式の案内板には、まだ「設備点検中」の文字が出ている。
一般の人たちは、もう黒い揺らぎのことをほとんど気にしていないようだった。
さっきまでそこに妖魔がいたことも、虚数空間の中で戦いがあったことも、誰も知らない。
外からは、こちらが見えていない。
そのはずだった。
けれど。
ラブは、ふと息を止めた。
カラーコーンのそばに立つ女性駅員が、こちらを見ていた。
他の人たちは気づいていない。
通勤客も、学生も、別の駅員も、虚数空間の中にいるラブたちの姿を見ていない。
なのに、その女性駅員だけは、まっすぐこちらを見ているように思えた。
消火器を片手に持ったまま、落ち着いた表情で立っている。
その姿は、普通の駅員に見える。
けれど、今のラブには、どうしても普通には見えなかった。
女性駅員の唇が、静かに動いた。
声は聞こえない。
駅のざわめきに紛れたのではない。
そもそも声を出していないように見えた。
それなのに、胸の奥へ、ふっと温かいものが届いた気がした。
感謝の念。
そう呼ぶしかないものが、ラブの中に流れ込んでくる。
次の瞬間、マジカル・ビジョンの端に、小さな文字が浮かんだ。
《ありがとう》
「……え?」
ラブは思わず息を呑んだ。
フローラも、気づいたように目を見開く。
「今の……見えた?」
「うん……」
ラブは女性駅員の方を見つめたまま、かすかにうなずいた。
どうして。
外からは虚数空間の中は見えないはずだ。
普通の人には、妖魔の姿も、魔法戦士の姿も、戦闘も見えないはずだ。
それなのに、あの女性駅員は、こちらを見ていた。
そして、感謝の念まで伝わってきた。
あの人は、何者なのだろう。
疑問が胸の奥で膨らんでいく。
「アムル、あの人……」
「今は考えないで」
アムルが静かに言った。
その声には、説明を拒むというより、今は優先順位が違うのだと告げる響きがあった。
「虚数空間の境界が揺れているわ。それに、あなたたちは学校へ向かう途中でしょう」
「学校……」
その言葉で、ラブは現実に引き戻された。
そうだった。
妖魔が出て、変身して、虚数空間を作って、戦って。
あまりにも非日常が続いたせいで、通学中だったことを忘れかけていた。
フルルが、しっぽをぴんと立てる。
「二人とも、急がないと本当に遅刻しちゃうよ」
「ち、遅刻……!」
フローラの顔が一気に引きつった。
「そうだよ! 学校! え、今って何分!? 私たち、変身してる場合じゃなくない!?」
「変身しなかったら、もっと大変だったと思うけど……」
ラブが困ったように言うと、フローラは言葉に詰まった。
「そ、それはそうだけど!」
いつもの美咲らしい慌て方に、ラブは少しだけ胸がゆるむ。
けれど、アムルの視線はまだ鋭かった。
「ラブ。解除するなら、ここではだめよ」
「え?」
「この場で虚数空間を解除したら、あなたたちは変身姿のまま改札前に戻ることになるわ」
「あ……」
ラブは、自分の姿を見下ろした。
マジカル・ラブの戦闘服。
大きなリボン。
短いスカート。
手には杖。
隣には、マジカル・フローラの姿になった美咲。
ここで虚数空間を解除したら、外側から見えるようになってしまう。
カラーコーンで人払いされているとはいえ、駅員や通行人が完全にいないわけではない。
魔法戦士の存在は、知られてはいけない。
アムルの言う通りだった。
「変身した場所へ戻るわ」
アムルが言う。
「コインロッカー奥の通路なら、人目は少ない。そこで虚数空間を解除して、そのあと変身も解くの」
「わ、わかりました」
ラブはうなずいた。
フローラも、まだ片手剣を握ったまま慌てて周囲を見る。
「えっと、じゃあ戻るんだよね? でも、外から見えないんだよね?」
「今はね」
フルルが答える。
「だからこそ、解除する前に戻るの。急いで」
ラブたちは、虚数空間の内側を移動し始めた。
外側の人々には見えていない。
けれど、ラブたちからは外の様子が普通に見えている。
駅員たちが人の流れを整えている。
通勤客が改札へ向かい始めている。
学生たちが少し不思議そうにカラーコーンの方を見ながら通り過ぎていく。
そのすぐ横を、ラブとフローラは誰にも気づかれずに歩いていた。
不思議な感覚だった。
現実の中にいるのに、現実からは見えない。
すぐ隣に人がいるのに、その人たちはこちらに気づかない。
虚数空間。
自分が作ったその領域の中を歩きながら、ラブは改めて、その不思議さと危うさを感じた。
境界はまだ揺れている。
杖を握る手に、少し汗がにじんでいた。
でも、コインロッカー奥の通路はすぐそこだった。
四人と二匹は、変身した場所へ戻る。
コインロッカーの銀色の扉が並ぶ、薄暗い通路。
人の流れから外れた、わずかな死角。
そこで、ラブは足を止めた。
「ここなら大丈夫ね」
アムルが周囲を確認する。
フルルも耳を立て、外の音に注意を向けた。
「急いで。境界、かなり揺れてる」
「はい」
ラブは杖を両手で持ち、胸の前へ寄せた。
作った空間を、戻す。
ずらした現実の表面を、元の位置へ重ね直す。
発動した時とは逆のイメージ。
複素平面の虚数軸へずらした点を、実数軸の上へ戻すように。
ラブは静かに息を吸った。
「リターン・フィールド」
杖の先端から、淡い光が広がった。
先ほどのような強い歪みではない。
今度は、ほどけるような光だった。
コインロッカー奥の通路から、改札前のカラーコーンで区切られた範囲まで伸びていた透明な境界が、静かにほどけていく。
空間のずれが、元の位置へ戻る。
足元の感覚が、少しだけ重くなった。
空気の密度が変わる。
駅のざわめきが、現実のものとして肌に触れる。
虚数空間が、消えた。
ラブは小さく息を吐いた。
「……戻った……」
変化は、外から見ればほとんどわからなかったはずだ。
光も、音も、大きな揺れもない。
ただ、現実の中に重なっていた見えない隔離領域が、静かに解けただけ。
それでも、ラブにははっきりわかった。
もう虚数空間の中ではない。
自分たちは、現実の瑞穂台駅のコインロッカー奥に立っている。
遠くの改札前では、駅前の混乱はほとんど収まっていた。
カラーコーンはまだ置かれている。
「設備点検中」の案内板もそのままだ。
謎の女性駅員は、何事もなかったかのように淡々と人払いを続けている。
通勤客たちは、少し遠回りしながら改札へ向かっていく。
学生たちも、駅員の案内に従って流れている。
まるで、少し変わった設備トラブルがあっただけの朝。
そこに妖魔がいたことも。
魔法戦士が戦ったことも。
虚数空間が展開されていたことも。
誰も知らない。
ただ一人。
カラーコーンのそばの女性駅員だけが、ほんの一瞬、こちらへ視線を向けたように見えた。
けれど、すぐに何事もなかったように通行人へ向き直る。
「こちらは設備点検中です。案内に従ってお進みください」
その声は、落ち着いていた。
ラブは、胸の奥に残った《ありがとう》の文字を思い出す。
あの人は、何者なのだろう。
でも、今は考えている時間がない。
「ラブ、フローラ」
アムルが促す。
「次は変身解除よ。ここで長く立ち止まってはいられないわ」
フルルも頷く。
「本当に遅刻しちゃうからね」
フローラが、はっとしたように片手剣を見下ろした。
「そ、そうだった……! 私、これ持ったまま改札行けないよね!?」
「もちろんよ」
フルルが当然のように言う。
ラブは、疲れた体をなんとか支えながら、小さくうなずいた。
戦いは終わった。
虚数空間も戻した。
けれど、まだ日常には戻りきっていない。
次は、変身を解かなければならなかった。
◆ 説明はあとで
コインロッカー奥の通路に、現実の空気が戻っていた。
虚数空間を解除したあとも、ラブの胸の奥にはまだ重い疲れが残っている。
杖を握る手にも、ほんの少し力が入りすぎていた。
隣では、フローラが片手剣を持ったまま、自分の姿を見下ろしている。
「……私、ほんとにこの姿なんだ……」
その声は、まだどこか信じられないようだった。
無理もない、とラブは思った。
ついさっきまで、美咲は普通に制服を着て、あいと一緒に瑞穂台駅へ向かっていた。
それが今は、マジカル・フローラとしてここに立っている。
戦闘服。
片手剣。
マジカル・ビジョン。
そして、妖魔を倒したという事実。
どれも、昨日までの美咲にはなかったものだ。
ラブは、フローラに声をかけようとして、少し迷った。
自分だって、まだ何も整理できていない。
昨日の夜、初めて変身したばかりで、今日が二回目。虚数空間だって、今さっき初めて使った。
それでも、今の美咲には何か言わなければいけない気がした。
その前に、アムルが静かに言う。
「ラブ、フローラ。ここで変身を解いて」
「あ……はい」
ラブは小さくうなずいた。
たしかに、このままではいけない。
コインロッカー奥とはいえ、ここは駅の中だ。
人通りが少ないだけで、いつ誰かが入ってくるかわからない。
この姿を見られるわけにはいかない。
フローラが、はっと顔を上げる。
「えっ、戻れるの!?」
「もちろん」
フルルがしっぽを立てて答えた。
「変身を解く時は、ピースフル・モーメント。そう唱えれば大丈夫」
「ピースフル……モーメント……?」
「うん。落ち着いて。怖がらなくていいよ」
「怖がるっていうか、今日、怖がること多すぎるんだけど……!」
フローラの声が少しだけ上ずる。
それでも、フルルの指示を聞こうとしている。
美咲らしい明るさはまだ完全には戻っていないけれど、言葉に少しだけいつもの調子が混じり始めていた。
ラブは杖を胸の前へ寄せた。
解除の呪文は、昨日の夜にも唱えた。
あの時は、妖魔を倒したあと、震える声で口にした。
今も、少し震えている。
けれど、隣にはフローラがいる。
ラブはフローラへ視線を向けた。
「一緒に唱えよう」
「う、うん」
フローラが片手剣を握りしめたままうなずく。
アムルが短く補足する。
「剣も杖も、変身解除と同時に戻るわ。力を抜いて」
「わかった……」
フローラは深呼吸した。
ラブも、静かに息を吸う。
そして、二人はほとんど同時に唱えた。
「ピースフル・モーメント」
光が、ふわりとほどけた。
ラブの杖が淡い粒子になって消える。
胸元の大きなリボンがやわらかく光り、セーラー型の戦闘服が光の流れに包まれていく。
隣では、フローラの片手剣も花びらのような光へ変わっていた。
花色のリボンも、軽い戦闘服も、静かにほどけていく。
次の瞬間、あいは制服姿に戻っていた。
白いブラウス。
薄手の紺色ブレザー。
ピンク色のリボンタイ。
緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。
膝上十五センチ。
今朝、鏡の前で何度も迷った制服姿。
そのはずなのに、あいはなぜか落ち着かなかった。
戦闘服よりは、ずっと見慣れている。
少なくとも、今朝からずっとこの姿で歩いてきた。
それなのに、変身を解いたあとだと、制服のスカートまで妙に意識してしまう。
美咲も同じだった。
制服姿に戻った美咲は、自分のスカートを見下ろして、ぽかんとしていた。
いつもなら何でもないように着こなしている短めのスカート。
けれど今は、いつもの美咲らしくないほどぎこちない。
「戻った……」
美咲が、小さくつぶやく。
「戻った、けど……なんか……」
「うん……」
あいも、言葉に困った。
戦闘服ではない。
制服に戻った。
なのに、まだ身体のどこかに、さっきの魔法戦士の姿の感覚が残っている。
軽すぎる戦闘服。動きやすいのに落ち着かないスカート。胸元のリボン。マジカル・ビジョン越しに見えた赤いコア。
その全部が、まだ消えていない。
美咲は、ぎゅっと鞄の肩紐を握った。
「私、本当に魔法戦士になっちゃったんだ……」
ぽつりと漏れた声は、いつもの明るい美咲のものとは少し違っていた。
驚き。
戸惑い。
不安。
そして、自分でもまだ受け止めきれていない現実。
あいは、その声を聞いて胸がきゅっとなった。
昨日の夜、自分も同じような気持ちだった。
魔法戦士になってしまった。
妖魔と戦ってしまった。
もう、昨日までと同じではいられない。
でも、今はひとりではない。
あいは、美咲の方を見た。
「美咲ちゃん」
「……なに?」
「あの……」
言いたいことは、たくさんあった。
ごめんね。
巻き込んじゃったのかな。
怖かったよね。
私も、まだ全然わかってない。
でも、そのどれも、今の美咲にかける言葉としては少し違う気がした。
あいは、ゆっくり言った。
「一緒に、がんばろうね」
美咲が、目を瞬いた。
それから、少しだけ口元を緩める。
「……うん」
その返事は小さかった。
けれど、ちゃんと届いた。
フルルが、二人の足元で大きく息をつく。
「本当はね、説明したいことが山ほどあるの。魔法戦士のこと、妖魔のこと、私のこと、美咲の力のこと」
「山ほど……」
美咲が引きつった顔をする。
「でも」
フルルは、ぴんとしっぽを立てた。
「今は学校が先!」
「学校……!」
美咲がはっとする。
アムルも落ち着いた声で続ける。
「説明はあと。急がないと、本当に遅刻するわ」
「あ、あああ……!」
美咲が慌てて鞄を持ち直した。
「そうだった! 私たち、登校中だった! えっ、今何分!? 電車、間に合う!?」
「たぶん……急げば」
あいも慌てて時計を確認しようとして、手元を見た。
さっきまで杖を握っていた感覚が残っている。
けれど、今の手には何もない。
そのことに、また少しだけ不思議な気持ちになる。
魔法戦士になって、妖魔を倒して、虚数空間を作って、解除して。
それでも、自分たちはこれから学校へ行かなければならない。
現実が、急に普通の顔をして戻ってくる。
「あとで、ちゃんと説明してよね」
美咲がフルルに言う。
「もちろん。放課後か、落ち着ける場所でね」
「放課後……」
美咲は小さくうなずいたあと、あいを見る。
「あいちゃんも、あとでちゃんと話して」
「うん……私も、ちゃんと聞きたいことがいっぱいある」
「そっか。あいちゃんも、まだ全部知ってるわけじゃないんだ」
「うん。全然」
あいが正直に言うと、美咲は少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、一緒に聞くしかないね」
「うん」
その一言で、あいの胸が少し軽くなった。
一緒に聞く。
一緒に知る。
一緒にがんばる。
昨日までは、自分ひとりの秘密だった。
でも今は、美咲も同じ場所に立っている。
それは怖いことでもあったけれど、少しだけ心強いことでもあった。
その時、あいは無意識にスカートの裾をそっとつまんだ。
ミニスカート初心者の自分。
今朝からずっと、膝上十五センチにどきどきしていた自分。
けれど、隣でも同じ動きがあった。
美咲も、自分のスカートの裾をそっとつまんでいた。
普段なら、短めのスカートでも自然に歩ける美咲。
ミニスカートに慣れているはずの美咲。
それなのに、今日に限っては、どこか落ち着かないように見える。
二人の視線が、同時に互いの手元へ落ちた。
そして、顔を上げる。
「「……っ……!!」」
声が重なった。
次の瞬間、二人とも真っ赤になる。
「あ、あの、これは……!」
「ち、違うの! いつもはこんなに気にしないんだけど、今日はその、いろいろあったから……!」
「わ、私も……戦闘服のあとだから、余計に……」
「わかる! すごくわかる!」
二人は慌てて手を離した。
けれど、完全に落ち着いたわけではない。
制服姿のはずなのに、どこか戦闘服の時よりも落ち着かない。
それが妙におかしくて、でも恥ずかしくて、あいはうまく顔を上げられなかった。
フルルが、少し呆れたように言う。
「二人とも、初日から大変そうね」
「誰のせいだと思ってるの……!」
美咲が小さく抗議する。
フルルは悪びれずに、しっぽを揺らした。
「運命のせい、かな」
「軽い!」
美咲の反応に、あいは思わず小さく笑ってしまった。
笑えた。
ほんの少しだけ。
それだけで、胸の奥に残っていた緊張が少しやわらいだ。
アムルが通路の入口へ視線を向ける。
「本当に急ぎましょう」
「そ、そうだった……!」
美咲が改札の方を見た。
「と、とにかく……ホーム行こ……!」
「う、うんっ……!」
あいも鞄を持ち直した。
コインロッカー奥の通路から、改札前へ戻る。
カラーコーンと設備点検中の案内板はまだ残っているけれど、人の流れはほとんど元通りになっていた。
さっきまで妖魔がいた場所。
虚数空間を展開した場所。
フローラが初めて剣でコアを貫いた場所。
そのすべてが、今は何事もなかったかのように朝の駅へ溶け込んでいる。
あいと美咲は、並んで改札へ向かった。
制服姿に戻ったはずなのに、どこか落ち着かない。
けれど、隣には同じように落ち着かない美咲がいる。
まったく違うはずだった二人が、同じ秘密を抱えて、同じ朝の中を歩いている。
改札機の前で、美咲がちらっとあいを見る。
「あいちゃん」
「なに?」
「あとで、ほんとにいっぱい聞くからね」
「うん。私も、一緒に聞く」
「約束」
「うん」
二人は小さくうなずき合った。
そして、改札を通る。
ピッ、という電子音が、いつもの朝の音として響いた。
それは、日常へ戻る音のようでもあり、
もう昨日までの日常には戻れないことを告げる音のようでもあった。
こうして、あいと美咲は、説明を後回しにしたまま、桜坂駅へ向かうホームへと足を進めた。
◆用語説明
【虚数空間 (きょすうくうかん)】
魔法戦士だけが扱える、特殊な隔離領域。
数学における「虚数」や「複素平面」の概念を応用し、現実空間に重なる別の座標面を一時的に作り出す魔法である。
完全に別世界へ移動するわけではなく、現実空間の表面を一段ずらしたような層を作る。
その層の内側に妖魔や戦闘領域を隔離することで、一般人への被害を防ぐ。
虚数空間の外にいる一般人からは、内部で起きている出来事は認識できない。
魔法戦士の姿、妖魔の姿、戦闘中の魔法や攻撃も見えなくなる。
外側からは、黒い煙や揺らぎが急に消えたように見えたり、何も起きていないように感じられたりする。
一方で、虚数空間の内部にいる魔法戦士からは、外の様子を普通に見ることができる。
外の音も通常どおり聞こえるため、駅員の誘導、人々の流れ、周囲の状況を確認しながら戦うことができる。
発動呪文は《ディストーション・フィールド》。
空間にゆがみを生み出し、現実を虚数方向へずらすことで、隔離領域を形成する。
解除呪文は《リターン・フィールド》。
空間の位相のゆがみを解消し、虚数空間を現実空間へ戻す。
虚数空間の大きさや安定度は、使用者の魔力と集中力に左右される。
未熟なうちは、妖魔一体とその周辺を覆える程度の小規模な領域が限界だが、成長すれば駅の一角や街の一区画を覆うような広い領域を作ることも可能になる。
ここでマジカル・ラブが作った虚数空間は、妖魔を隔離して戦うための最小限の規模である。
コインロッカー奥の通路と、カラーコーンで区切られた妖魔周辺の範囲をつなぎ、一般人に戦闘を認識されない状態を作った。
初めての使用だったため境界は不安定で、長時間の維持は難しかった。
それでも、一般人を巻き込まずに妖魔と戦うには十分な効果を発揮した。
宮本あいは数学を得意としているため、虚数、複素数、座標、ベクトルなどの数学的概念をもとに、今後さらに独自の魔法を発展させていく可能性がある。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、美咲が魔法戦士として覚醒し、あいが初めて“ひとりではない戦い”を経験する回でした。
あいはまだ二度目の変身で、戦いにも慣れていません。
美咲も、明るく振る舞いながら、突然の出来事に大きく戸惑っています。
それでも、ラブの分析力とフローラの感覚的な動きが少しだけ噛み合い、二人は妖魔を退けることができました。
また、今回は虚数空間や、駅前で冷静に動く女性駅員の存在も登場しました。
日常のすぐそばにある非日常、そして魔法戦士を支える誰かの気配も、今後少しずつ描いていければと思います。
ご意見・ご感想、読んでみたいシチュエーションなどがあれば、お気軽にお寄せいただけると嬉しいです。
次回も、あいと美咲の成長を見守っていただければ幸いです。




