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美少女魔法戦士マジカルラブ  作者: 宮本あい
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放課後の図書室

放課後の図書室。

本棚の並ぶ静かな空間で、あい、美咲、由香里の三人は、勉強会を開くことにした。

けれど、机の上に広げられたのは、教科書や問題集だけではない。

鶴岡先生から聞いた、《妖護隊》のこと。

魔法戦士の存在を表に出さないまま、日本政府の中で彼女たちを支える、非公開の組織。

どこか物語めいた名前とは裏腹に、内務省の所管、機密予算、学校や医療機関との連携など、あまりにも現実的な言葉が並んでいく。

三人は少しずつ気づき始める。

自分たちの戦いは、ただの偶然でも、夢物語でもないのだと。

ページをめくる音。

声を潜めた三人の会話。

そして、その静かな本棚の影では、黒霧がひそかに集まり始めていた。


◆ 放課後の勉強会


放課後の図書室には、授業中の教室とは違う静けさがあった。

ページをめくる音。

シャープペンシルがノートの上を走る音。

遠くの席で、椅子が小さく床を擦る音。

窓から差し込む午後の日差しは、昼休みの屋上で見た光よりもずっと傾いていた。

細長く伸びた光が机の端を照らし、その外側では、本棚の影が少しずつ濃くなっている。

宮本あいは、開いていた問題集から顔を上げた。

向かい側では、美咲が眉間にしわを寄せ、さっきから同じページを見つめ続けている。

隣に座る由香里は、参考書とノートをきれいに並べていた。

いつもの落ち着いた姿に戻っているように見えるが、ときどき目を閉じ、浅く息をついている。

朝から起きたことを考えれば、無理もなかった。

一時間目に体調を崩し、黒霧に包まれ、保健室で魔法戦士として目覚めた。

昼休みには屋上でミレニアム王国の話をし、その直後には非常階段で妖魔と戦った。

それなのに今、由香里は制服姿でノートを開き、普段と同じように放課後の勉強会へ参加している。

その光景に、あいは少しだけ不思議な安心を感じていた。

「あれ?」

あいが小さく声を出すと、美咲が問題集から顔を上げた。

「どうしたの、あいちゃん?」

「さっきから、ずっと同じところを見てるけど……」

「見てはいるんだよ?」

「でも、ペンが全然動いてないよ」

美咲は手元のシャープペンシルを見た。

「動かそうとはしてるんだけどね。この問題、たぶん私と仲よくする気がないんだと思う」

「問題に好き嫌いはないと思うけど……」

「そういうところを真面目に返すのが、あいちゃんなんだよね」

美咲が小声で笑う。

図書室なので、いつもの明るい声も少し抑えられていた。

それでも表情は普段どおりよく動いていて、あいもつられて口元を緩めた。

「どこがわからないの?」

あいが尋ねると、美咲は待っていましたとばかりに問題集を押し出した。

「最初から」

「全部ってこと?」

「うん。きれいなくらいに」

由香里が小さく笑った。

「美咲らしいね」

「由香里までひどくない?」

「でも、わからないまま進むよりいいと思う。あいに聞けば、順番に教えてくれるし」

「そうそう。あいちゃんの説明、細かくてわかりやすいんだよ」

「そうかな……」

まっすぐ褒められると、少し落ち着かない。

あいは美咲の問題集を自分の方へ寄せた。

「ここは、いきなり答えを出そうとしないで、まずわかっている条件を整理した方がいいと思う」

余白へ小さな図を書きながら、条件を一つずつ並べていく。

美咲は最初こそ難しそうな顔をしていたが、あいが途中で何度か確認すると、少しずつ表情を変えていった。

「あ、待って。ここを先に出せばいいの?」

「うん。そうしたら、次の式につながるよ」

「なんだ。問題の書き方が難しそうなだけじゃん」

「それだと、問題が悪いみたいに聞こえるけど……」

「仲よくする気がない書き方だったから」

「まだ言ってる」

由香里が声を立てないように肩を揺らした。

三人で机を囲んでいる。

あいと美咲の二人だけではない。

由香里も同じ机で、同じ時間を過ごしている。

今朝までは、魔法戦士の秘密を知らない友人だった。

けれど今は、その秘密を共有し、同じ姿へ変身し、同じ妖魔と戦った仲間でもある。

それでも、由香里がここにいることは、少しも不自然には感じなかった。

むしろ、ずっと前から三人でこうしていたような気さえする。

「あい」

由香里に呼ばれ、あいは顔を向けた。

「こっちも見てもらっていい?」

由香里のノートには、歴史上の出来事が年代順に整理されていた。

文字は丁寧で、矢印や囲み方にも無駄がない。

「私でいいの?」

「うん。内容じゃなくて、まとめ方を見てほしくて。少し書きすぎた気がするの」

「ああ……」

あいはノートをのぞき込んだ。

確かに、情報は正確に整理されている。

ただ、一つの出来事に対する補足が多く、少し視線が迷いやすい。

「ここは、原因と結果を分けた方が見やすいかも。あと、同じ時期の出来事は、横に並べるより縦にそろえた方がわかりやすいと思う」

「なるほど」

由香里はうなずき、あいの指した箇所へ薄く線を引いた。

「やっぱり、あいは整理するのが上手ね」

「数学と同じように、関係がわかるように並べてるだけだけど……」

「それが上手なんだと思う」

またまっすぐ言われ、あいは眼鏡の位置を直した。

「ねえ、私は?」

美咲が小さく手を挙げる。

「何が?」

「私の上手なところ」

「急にどうしたの?」

「二人だけ褒め合ってるから、ちょっと寂しい」

由香里は少し考えてから答えた。

「美咲は、わからないことを、わからないってすぐ言えるところかな」

「それ、褒めてる?」

「褒めてるよ。わからないのに、わかったふりをする人もいるでしょう?」

「なるほど。じゃあ私、勉強会にすごく向いてるんだ」

「あまり自信を持つところでもない気がするけど……」

あいが言うと、美咲は机に伏せるようにした。

「あいちゃんに先に言われた……」

三人は声を抑えながら笑った。

窓の外から、運動部の掛け声がかすかに聞こえる。

図書室の中では、それさえも遠く感じられた。

あいは、由香里の横顔をそっと見る。

さっきよりも表情はやわらかい。

けれど、ノートへ目を落とした瞬間、ほんの少しまぶたが重そうに見えた。

「由香里、少し疲れてる?」

あいが尋ねると、由香里は一瞬きょとんとしてから、小さく笑った。

「やっぱりわかる?」

「う、うん。少しだけ」

「大丈夫。ちょっと疲れてるだけだから」

「今日は朝から、いろいろありすぎたもんね」

美咲も、今度は冗談ではない声で言った。

図書室にはほかの生徒もいる。

そのため、何があったのかを直接口にすることはできない。

けれど、三人にはそれで十分だった。

「無理しないでね。勉強会は、またできるし」

「ありがとう。でも、今日はここにいたいの」

由香里はノートの端を指でなぞった。

「朝は、こんなふうに普通に放課後を過ごせるなんて思わなかったから。二人と勉強してると、少し安心するの」

あいは返事をする前に、胸の奥が温かくなるのを感じた。

由香里にとっても、この時間はただの勉強ではないのだ。

変身も、黒霧も、妖魔もない。

三人で問題集を開き、わからないところを教え合う。

それが今は、何よりも大切なことのように思えた。

「じゃあ、疲れたらすぐに言ってね」

「うん」

「そのときは、私も一緒に休憩する」

美咲が言った。

「美咲ちゃんは、まだほとんど進んでないよね」

「休憩は平等に必要だよ」

「今の美咲には、もう少し勉強が必要なんじゃない?」

「由香里、元気になった途端にあいちゃん側へ行ってない?」

また小さな笑いが生まれた。

由香里が加わったことで、あいと美咲の間にあったものが薄くなったわけではない。

二人の輪が、そのまま三人分に広がったのだ。

あいは、そんなふうに感じた。

しばらくして、美咲がようやく一問を解き終えた。

「できた!」

思わず声が少し大きくなり、近くの席の生徒が顔を上げる。

美咲は慌てて口元を押さえ、小さく頭を下げた。

「……できた」

今度は、ささやくような声だった。

「うん。合ってるよ」

あいが答えると、美咲は満足そうに背もたれへ身体を預けた。

「じゃあ、次は由香里の得意分野を教えてもらおうかな」

「急に科目を変えるの?」

「だって、数字ばっかり見てたら頭が固まりそう」

「じゃあ、歴史の確認問題にする?」

由香里は参考書へ手を伸ばしたが、途中でその動きを止めた。

そして、入口側のカウンターへ視線を向ける。

司書教諭は机に座り、書類へ目を通している。

近くにいる生徒たちも、それぞれ本やノートに集中していた。

由香里はさらに、本棚の間や周囲の席を静かに見回した。

その様子に気づき、あいはわずかに首をかしげる。

「由香里?」

「……鶴岡先生から聞いた話、もう少しだけあるの」

由香里の声が、先ほどよりも低くなった。

美咲も姿勢を戻す。

あいは自然と机へ身を寄せた。

由香里は開いていたノートを自分の前へ引き寄せると、余白へシャープペンシルを走らせた。

小さな文字が、二人にだけ見える向きで書かれる。

《妖護隊》

あいは、その見慣れない三文字を黙って見つめた。


◆ 鶴岡先生から聞いた話


ノートの余白に書かれた三文字を、あいは黙って見つめた。

妖護隊。

最後の一文字は見慣れた「隊」なのに、三文字が並ぶと、急に重たい名前に見える。

「ようごたい……?」

美咲が、声を抑えながら読み上げた。

由香里は小さくうなずくと、すぐに人差し指を唇の前へ立てた。

「名前のことは、あとで話すね。その前に、鶴岡先生から聞いたことを順番に説明した方がいいと思う」

「う、うん」

あいも周囲を見回した。

少し離れた席では、二人の生徒が参考書を見ながら小声で相談している。入口側のカウンターでは、司書教諭が書類をめくっていた。

誰もこちらを気にしてはいない。

それでも、魔法戦士という言葉を口にするだけで、普段よりも図書室の静けさが近く感じられた。

由香里はノートの上へ手を置き、文字を隠すように少しだけ位置をずらした。

「鶴岡先生が最初に言っていたのは、私たちのことは、普通の人には知られてはいけないってこと」

「魔法戦士のこと?」

美咲が尋ねる。

「うん。妖魔や黒霧のことも含めて、国の秘密として扱われているみたい」

あいは、思わず息を止めた。

魔法戦士が一般人に知られてはいけないことは、アムルからも聞いていた。

けれど、由香里の口から「国の秘密」と言われると、意味が急に変わったように感じる。

自分たちだけが隠している小さな秘密ではない。

もっと大きな何かが、その秘密を守っている。

「国って……政府も知ってるってこと?」

美咲の眉が寄る。

「そうみたい。でも、誰でも知っているわけじゃないって。知っているのは、ほんの一部の人だけだって聞いた」

「じゃあ、先生もその一部なのかな」

「それは、私にもわからないの」

由香里は、はっきりと言い切らずに首を横へ振った。

「鶴岡先生がどんな立場なのかまでは、教えてもらってないから。私が聞いたのは、魔法戦士を支える仕組みがある、というところまで」

あいは、今朝の保健室を思い出した。

黒霧を前にしても取り乱さず、あいと美咲が魔法戦士であることを見抜いた鶴岡先生。

保健室の扉へ鍵をかけ、三人が戦える状況を作ってくれた。

ミレニアム王国や、保健室に隠された門についても知っている。

けれど、先生がどこまで知っていて、何をしている人なのかは、まだ何もわかっていない。

「あいちゃん?」

美咲の声に、あいは顔を上げた。

「ご、ごめん。ちょっと考えてた」

「鶴岡先生のこと?」

「うん。でも、由香里が知らないなら、今は考えても答えは出ないよね」

「そうね」

由香里は、少し安心したように笑った。

「私も気になってる。でも、先生が話さなかったことを、勝手に決めつけるのはよくないと思う」

その言葉に、あいはうなずいた。

わからないものを、わかったことにしてはいけない。

数学なら、条件が足りなければ答えは一つに決まらない。

鶴岡先生についても、きっと同じなのだ。

「それでね」

由香里は声をさらに小さくした。

「魔法戦士として目覚めた人を、そのまま放っておくわけにはいかないんだって」

その言葉に、あいの胸が小さく揺れた。

放っておく。

もし昨日の夜、アムルが現れなかったら。

変身の方法も、杖の出し方も、妖魔のコアも知らないまま、あいは黒い影の前に立っていたかもしれない。

美咲も、フルルに導かれなければ、瑞穂台駅で何が起きているのかわからなかったはずだ。

由香里も、ネロリの声がなければ、黒霧の中で自分の呼吸を取り戻せなかったかもしれない。

「あいちゃん、急に怖い顔してる」

「えっ?」

「怖いっていうか、難しい問題を見てる時の顔」

「ごめん。もし、アムルたちが来なかったらって考えてたの」

美咲の表情から、冗談っぽさが消えた。

「……確かに。私なんて、いきなり猫に変身しろって言われても、あいちゃんが先に変身してなかったら信じられなかったかも」

「私も同じ」

由香里は、自分の胸元へそっと手を添えた。

制服の下には、今は何もない。

それでも、朝にマジカル・アロマとして目覚めた時の光や、胸元に形成されたリボンの感覚を思い出しているようだった。

「先生は、新しく目覚めた人には、ちゃんと説明する人が必要だって言ってた。魔法の使い方だけじゃなくて、使ってはいけない場面も教えないといけないって」

「使っちゃいけない場面……」

あいが繰り返す。

「人に向けて使わないこと。それから、魔法を使えば解決できそうに見えても、自分の都合のために使わないこと」

由香里の声は穏やかだったが、その内容は重かった。

「魔法は、妖魔や黒霧から人を守るためのもの。誰かを言うことに従わせたり、傷つけたりするために使ってはいけないって」

「それは、そうだよね」

美咲はすぐにうなずいた。

けれど、そのあとで少し考えるように視線を落とした。

「でもさ、実際に力を持っちゃったら、全部自分で判断するのって難しそう」

「うん……」

あいにも、その感覚はわかった。

妖魔が現れた時、戦うべきか。

逃げるべきか。

虚数空間をどこまで広げるのか。

一般人が近くにいたら、どの魔法を選ぶのか。

これまでの戦いでは、いつもアムルたちが助言してくれた。

それでも、最後に魔法を使うのは自分たちだ。

「だから、教えてくれる人や、相談できる人が必要なんだと思う」

由香里が言った。

「安全に魔法を使えるようにすることも、その仕組みの役割の一つなんだって」

美咲は頬杖をつきかけ、図書室であることを思い出したように、静かに腕を机へ戻した。

「魔法の練習とかもするのかな」

「そこまでは聞いてない。でも、訓練を支えることもあるみたい」

「訓練かあ……。剣の振り方とか?」

「美咲は、まず振る前に周りを見る練習が必要かも」

「由香里、昼の戦いでちょっと自信ついた?」

「少しだけ」

由香里の口元に、控えめな笑みが浮かぶ。

あいも小さく笑った。

そのやり取りに、胸の中の緊張が少しだけほどける。

けれど、由香里はすぐに表情を戻した。

「支える人が必要なのは、戦う時だけじゃないんだって」

「戦ったあとも?」

あいが尋ねる。

「うん。妖魔が出た場所には、壊れたものが残ることもあるし、体調を崩した人が出ることもあるでしょう?」

由香里の言葉を聞きながら、あいは瑞穂台駅を思い出した。

改札前を塞いでいたカラーコーン。

《設備点検中》と書かれた案内板。

人々を冷静に誘導していた女性駅員。

妖魔との戦いが終わったあとも、駅は何事もなかったように動き続けていた。

あの時は、戦うだけで精いっぱいだった。

けれど、誰かが人を遠ざけ、状況を説明し、駅を日常へ戻していたのだ。

「あの駅員さんも……」

思わず口にしかけて、あいは声を止めた。

由香里が首をかしげる。

「瑞穂台駅にいた人?」

「う、うん。妖魔が出た時に、すごく落ち着いて人を避難させてたの」

「普通の駅員さんじゃない感じだったよね」

美咲も小声で続けた。

「その人が、今話してる仕組みと関係してるかはわからないけど」

あいは慌てて付け加えた。

「そうね。関係している可能性はあるけど、今はまだわからないと思う」

由香里も、断定せずに答えた。

「鶴岡先生も、駅や学校、病院みたいに人が多い場所では、戦う人以外の協力も必要だって言ってた」

「人を逃がしたり、助けたりする人?」

「それだけじゃないみたい。事件が起きたことを記録したり、普通の事故として説明できるように整理したり、そのあと同じ場所でまた起きないか調べたり」

あいはノートの端へ視線を落とした。

人払い。

救護。

記録。

説明。

調査。

妖魔を倒せば、それですべて終わるわけではない。

戦いの外側には、あいたちが今まで見ていなかった役割が、いくつも存在している。

「なんだか……大変なんだね」

美咲が、いつになく真面目な声で言った。

「うん」

由香里は静かに答えた。

「先生は、魔法戦士には力があるけれど、何でも自由にしていいわけではないって言ってた」

あいは、自分の手を見つめた。

今は、ただシャープペンシルを握っている手。

けれど、変身すれば、この手で杖を持ち、虚数空間を作り、妖魔を消滅させることができる。

少し前までは、自分にそんな力があるとは思ってもいなかった。

「責任があるってことかな」

あいが言うと、由香里は小さくうなずいた。

「たぶん、そういうことだと思う」

美咲は問題集の上へ両手を置き、少し考えたあとで言った。

「でも、全部を私たちだけでやらなくていいんだよね?」

「うん。それを支える人たちがいるって、先生は言ってた」

その言葉に、あいは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

魔法戦士になってから、知らないことばかりだった。

妖魔。

黒霧。

虚数空間。

ミレニアム王国。

マジカルソウル。

自分たちだけが、大きな秘密の中へ取り残されたように感じることもあった。

けれど、本当は、見えていなかっただけなのかもしれない。

誰にも知られない場所で、魔法戦士を支え、一般人の日常を守っている人たちがいる。

「その人たちのことを……妖護隊って呼ぶの?」

あいが、ノートの文字を見ながら尋ねた。

由香里は、すぐには答えなかった。

もう一度、入口のカウンターと周囲の席へ視線を向ける。

それから二人へ顔を寄せ、かすかにうなずいた。

「うん。鶴岡先生は、そう呼んでいた」

ノートの余白に書かれた三文字が、先ほどよりもはっきりと意味を持って見えた。

妖護隊。

魔法戦士を支え、妖魔による事件を人知れず処理する人たち。

けれど、その名前を知っただけでは、まだ何もわからない。

あいはノートを見つめたまま、声を落として尋ねた。

「その妖護隊って……どんな組織なの?」


◆ 妖護隊という名前


「その妖護隊って……どんな組織なの?」

あいが尋ねると、由香里はノートの余白に書いた文字へ視線を落とした。

妖護隊。

まだ消しゴムで消せる、細いシャープペンシルの文字。

けれど、その向こうには、自分たちの知らない大きな仕組みがある。

そんな気がした。

「鶴岡先生から聞いた範囲だけだけど……」

由香里はそう前置きしてから、静かに話し始めた。

「妖護隊は、内務省の中に置かれている組織なんだって」

「内務省?」

美咲が目を丸くする。

「それって、本当に政府の組織ってこと?」

「うん。国内の危機管理や、警察、消防、自治体との調整に関わる省庁みたい」

由香里の説明を聞きながら、あいは頭の中で言葉を並べた。

内務省。

政府。

危機管理。

これまで自分たちが戦ってきた妖魔とは、あまり結びつかない言葉ばかりだった。

長い杖や、光の剣、話す猫たち。

そうしたものの裏側に、役所や予算や記録が存在する。

少し不思議で、けれど妙に現実的でもあった。

「じゃあ、政府は本当に魔法戦士のことを知ってるんだ」

美咲が、まだ信じきれないように言った。

「知っている人はいるみたい。でも、政府の中でもごく一部だけだって」

「総理大臣とかも?」

「そこまでは聞いてないの」

由香里はすぐに首を振った。

「誰が知っているのか、どこまで知っているのかは、私にもわからない。鶴岡先生も、具体的な名前は出さなかったから」

「そっか」

美咲は少し残念そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。

わからないことを、想像だけで決めつけない。

先ほど由香里が言ったとおりだった。

「妖護隊は、表向きには存在しない組織みたい」

「存在しない?」

「一般には公表されていない、という意味だと思う。普通の人が政府の資料を調べても、たぶん名前は出てこない」

あいは、ノートに書かれた三文字をもう一度見る。

秘密の組織。

そう聞くと、映画や小説の中の話のようにも思えた。

けれど、自分たちが魔法戦士であることも、一般の人から見れば、きっと同じくらい現実離れしている。

「でも、存在しないことになってる組織が、どうやって活動するの?」

美咲が尋ねた。

由香里は、少し考えるように間を置いた。

「詳しい仕組みは聞いてないけど、正式な機密予算で運営されているって」

「機密予算?」

「国家機密に関わるから、何に使ったのかを普通には公開しない予算みたい」

「それって、裏予算ってこと?」

美咲が声を潜めて言う。

由香里は苦笑した。

「言い方によっては、そう聞こえるかもしれないけど……違法なお金ではないって。内閣の承認を受けて、正式に管理されている予算だって聞いた」

「ちゃんとした秘密のお金?」

「その言い方も、ちょっと怪しく聞こえるね」

あいが言うと、美咲が口元を押さえて笑った。

「だって、秘密の組織に秘密のお金だよ?」

「大きな声で言わないで」

「わかってるって」

美咲は周囲を確認し、さらに声を落とした。

その様子に、あいも由香里も小さく笑う。

ほんの少しだけ、机の上の空気が軽くなった。

けれど、由香里はすぐにノートへ視線を戻した。

「妖護隊の一番大きな役割は、日本にいる魔法戦士を守ることみたい」

「守る?」

美咲の表情が変わる。

「命令するんじゃなくて?」

「うん。保護して、秘密の記録に登録するって」

「登録……」

あいは思わずつぶやいた。

自分の名前が、政府のどこかに記録されている。

そう考えると、胸の奥が落ち着かなくなった。

「私たちの名前も、もう登録されてるのかな」

「それも、まだわからない」

由香里は慎重に答えた。

「いつ登録されるのか、誰が手続きをするのかまでは聞いてないから。でも、新しく目覚めた魔法戦士が誰なのかを把握して、安全を守るための記録だって」

「監視するためじゃないの?」

美咲が率直に尋ねる。

「私も、少し気になった」

由香里は素直に認めた。

「でも鶴岡先生は、魔法戦士を政府の持ち物にするためのものではないって言ってた」

その言葉に、あいは由香里を見た。

「持ち物……」

「本人の意思を無視して、戦わせることはできない。妖護隊は、魔法戦士を無理に任務へ参加させる組織ではないって」

美咲は、目に見えてほっとした表情を浮かべた。

「よかった。政府から急に命令が来て、どこかへ行けとか言われたらどうしようかと思った」

「私も、少し考えた……」

あいも正直に言った。

魔法戦士になっただけでも、まだ気持ちは追いついていない。

これから毎日戦うよう命じられたり、家族や学校から引き離されたりするのだとしたら、とても受け止められそうになかった。

「魔法の軍事利用も禁止されているんだって」

由香里が続けた。

「妖護隊は軍隊ではないし、魔法戦士を兵士として育てる組織でもないって」

「じゃあ、訓練って何をするの?」

「魔法を安全に使うための練習や、秘密を守るための教育。一般の人を巻き込まないための判断とか、学校生活との両立も含まれるみたい」

「学校生活との両立……」

あいは、開いたままの問題集へ視線を落とした。

ほんの少し前まで、三人は数学や歴史の話をしていた。

魔法戦士になっても、授業はある。

宿題もある。

進路も考えなければならない。

妖魔が現れたからといって、高校三年生としての時間が止まるわけではない。

「勉強のことまで考えてくれるの?」

美咲が少し驚いたように言う。

「学生の魔法戦士もいるから、必要なんだと思う」

「じゃあ、テスト前は妖魔に出ないでほしいって頼める?」

「妖魔には通じないと思うけど……」

あいが答えると、美咲は小さくため息をついた。

「だよねえ」

「でも、訓練の予定を調整するとか、学校側と相談するとか、そういう支援はあるのかもしれないね」

由香里が言った。

ただし、それも先生から詳しく聞いたことではないらしく、最後には「たぶんだけど」と付け加えた。

「ほかには、妖魔が出た時の人払いとか、避難誘導もするみたい」

その言葉で、あいの頭に瑞穂台駅の光景が浮かんだ。

改札前に並べられたカラーコーン。

《設備点検中》と書かれた案内板。

消火器の白い粉が広がる中、乗客たちを落ち着いて誘導していた女性駅員。

「瑞穂台駅にいた駅員さん……」

あいが口にすると、美咲もすぐにうなずいた。

「あの人、やっぱり妖護隊なのかな」

「普通の駅員さんとは思えないくらい、落ち着いてたよね」

「虚数空間の中も見えてたみたいだったし」

あいは、戦闘後に女性駅員が見せた唇の動きを思い出す。

――ありがとう。

声は聞こえなかったのに、マジカル・ビジョンには、その言葉が表示されていた。

「関係者なのかもしれないけど……」

由香里は少し迷ってから言った。

「妖護隊の隊員なのか、協力している駅員さんなのかは、まだわからないと思う」

「そうだよね」

あいも、すぐにうなずいた。

あの駅員が何者なのかは、本人から聞いていない。

今の段階で決めつけることはできなかった。

「駅だけじゃなくて、学校や病院、警察、消防とも連携するんだって」

「そんなにたくさん?」

「妖魔が出る場所は、決まっていないからだと思う」

由香里は指を折るようにしながら説明した。

「人を逃がす人。怪我をした人を助ける人。周りに危険がないか確認する人。事件の記録を残す人。一般の人に本当のことを知られないよう、表向きの説明を整える人」

「妖魔を倒す以外にも、やることがいっぱいあるんだね」

美咲が言った。

あいも同じことを考えていた。

これまで自分たちは、目の前の妖魔と戦うことだけで精いっぱいだった。

けれど、その外側では、誰かが一般人を避難させ、現場を片づけ、事件を日常の中へ戻している。

朝の瑞穂台駅が、何事もなかったように動き続けていたのも、そのためなのかもしれない。

「救護も、妖護隊の大事な役割みたい」

由香里の声が、少しだけやわらかくなった。

「妖魔や黒霧の影響を受けた人を助けたり、魔法戦士が怪我をした時に対応したりするんだって」

「鶴岡先生みたいに?」

美咲が尋ねた。

由香里はすぐには答えず、少しだけ保健室の方角を意識するように目を伏せた。

「鶴岡先生が妖護隊に所属しているのかは、聞いてないの」

「でも、何か関係はありそうだよね」

「そうかもしれない。でも、それ以上はまだわからない」

由香里の答えは、どこまでも慎重だった。

あいは、今朝の北山先生のことも思い出す。

由香里が体調を崩した時、慌てずに自分と美咲へ付き添いを任せたこと。

高瀬先生も、あいと美咲の普段とは違う動きに気づいていた。

「北山先生や、高瀬先生も……何か知ってるのかな」

あいが小声で言うと、美咲が机の端へ身を乗り出した。

「図書室の先生も?」

三人の視線が、ほとんど同時に入口側のカウンターへ向いた。

司書教諭は先ほどと変わらず、書類へ目を通していた。

こちらを見ている様子はない。

「わからないね」

由香里が静かに言った。

「この学校に協力している人がいてもおかしくないけど、誰なのかは鶴岡先生から聞いてないから」

「先生全員を疑うのも変だよね……」

あいは少し恥ずかしくなり、視線をノートへ戻した。

魔法戦士になってから、何気ない人の行動にまで特別な意味があるように感じてしまう。

けれど、すべてが秘密につながっているわけではないはずだ。

「妖護隊が秘密を守るのは、魔法戦士を守るためでもあるんだって」

由香里が続ける。

「正体が知られたら、本人だけじゃなくて、家族や友達まで巻き込まれるかもしれないから」

あいの胸が、きゅっと縮んだ。

父と母の顔が浮かぶ。

二人は、あいが魔法戦士になったことを知らない。

秘密にしていることへの罪悪感は、今も消えていない。

けれど、その秘密が家族を守るためでもあるのなら。

何も話さないことにも、意味があるのかもしれない。

「守られてるのは、一般の人だけじゃないんだね」

あいが言うと、由香里はうなずいた。

「うん。魔法戦士も、その家族も、普段の生活も守る。そのための組織だって」

美咲は少し考えてから、ゆっくり息を吐いた。

「政府の組織って聞いた時は、もっと怖いところかと思った」

「私も」

あいも正直に答えた。

「登録されたり、命令されたりするのかと思ったけど……」

「何も決まりがないわけじゃないと思う」

由香里が言った。

「魔法の使い方や秘密を守ることについて、守らないといけない決まりはある。でも、魔法戦士を道具みたいに扱う組織ではないって、先生は言ってた」

力を持つ自由と、その力を使う責任。

そして、力を持ってしまった少女を、一人にしないための仕組み。

あいの中で、妖護隊という言葉の形が、少しずつ変わっていった。

最初に見た時は、冷たく重たい秘密組織の名前に感じた。

けれど今は、誰にも知られない場所から、魔法戦士と一般人の間を支える人たちの名前に見える。

「まだ、わからないことばかりだけどね」

由香里はそう言って、ノートの上の三文字を指先で隠した。

「本部がどこにあるのかも、どんな人たちがいるのかも聞いてない。私たちがこれからどう関わるのかも」

「そっか」

美咲は少し残念そうだったが、すぐに笑った。

「でも、とりあえず、いきなり政府の兵士にされるわけじゃないってわかっただけでもよかった」

「美咲ちゃん、政府の兵士になるつもりだったの?」

「なるつもりはないよ。ならないために確認したの」

「それなら、よかったけど……」

あいが答えると、由香里が小さく笑った。

張りつめていた空気が、また少しやわらぐ。

窓の外から差し込む光は、いつの間にか先ほどより傾いていた。

机の上に置かれたノートの端を、淡い夕方の光が照らしている。

そのすぐ先では、背の高い本棚が長い影を落としていた。

あいは何気なく、その影へ目を向けた。

けれど、そこには本棚と、静かに本を探す生徒の姿があるだけだった。

あいは視線を戻し、由香里がノートの余白へ書いた三文字を、もう一度だけ見つめた。

妖護隊。

その名前は知った。

けれど、その組織が自分たちの日常とどれほど近い場所にあるのかを、あいはまだ知らなかった。


◆ 本棚の影


その組織が、自分たちの日常とどれほど近い場所にあるのかを、あいはまだ知らなかった。

――その時だった。

図書室の空気が、ほんの少しだけ変わった。

冷房の風が強くなったわけではない。

窓が開いたわけでもない。

それなのに、首筋を冷たいものが通り過ぎたような感覚がした。

あいは無意識に肩をすくめた。

「あれ……?」

「どうしたの、あいちゃん?」

美咲が小声で尋ねる。

「今、少し寒くなかった?」

「寒い?」

美咲は周囲を見回した。

由香里も腕へ軽く手を添え、静かに息を吸う。

「冷房の風ではなさそうね」

「由香里も感じた?」

「うん。空気が少し重くなったような……」

その言葉を聞いた瞬間、あいの胸の奥に嫌な感覚が広がった。

空気が重い。

それは、今朝の教室でも感じたものだった。

由香里の周囲に黒霧が現れる、少し前。

あいは椅子に座ったまま、図書室の中へ視線を巡らせた。

入口側のカウンターでは、司書教諭が変わらず書類を読んでいる。

窓際では、数人の生徒が参考書を開いていた。

ほかの生徒たちに、変わった様子はない。

誰かが騒いでいるわけでもなく、何かが倒れた音も聞こえない。

ページをめくる音。

ペン先が紙を擦る音。

遠くから聞こえる運動部の掛け声。

図書室は、さっきまでと変わらないように見えた。

けれど――。

「……あいちゃん」

美咲の声から、いつもの明るさが消えていた。

「うん」

あいも小さくうなずく。

美咲にも、何かが見え始めている。

窓から差し込む放課後の日差しは、先ほどよりもさらに低くなっていた。

本棚の横を通り抜けた光が、床の上へ細長く伸びている。

その光の間を埋めるように、本棚の影が濃く、長く広がっていた。

あいは目を凝らした。

最初は、ただの影にしか見えなかった。

本棚の下。

床と棚の隙間。

日の当たらない角。

そこに、黒いもやのようなものが、少しずつ集まっている。

煙のように揺れているのに、上へ昇ってはいかない。

床へ張りつくようにして、音もなく広がっていた。

「黒霧……」

あいは、声にならないほど小さくつぶやいた。

由香里の指先が、ノートの上で止まる。

「どこ?」

あいは視線だけで、本棚の奥を示した。

「奥の棚。下の方……」

三人は同時にそちらを見る。

背の高い本棚が何列も並ぶ、その向こう側。

低い棚の前に、一人の女子生徒がしゃがんでいた。

制服の着こなしや、まだ少し幼さの残る雰囲気から、一年生らしく見える。

あいたちに面識はない。

少女は棚の下段へ手を伸ばし、本の背表紙を一冊ずつ確かめていた。

黒霧に気づいている様子はない。

ただ静かに、探している本を選んでいるだけだった。

「一年生、かな」

美咲がささやく。

「たぶん……」

あいは答えながら、少女の周囲を見た。

黒霧は、本棚の影から少しずつ這い出していた。

細い帯のように床を進み、少女の足元へ近づいている。

「どうして、あの子のところに……」

由香里の声がかすかに揺れた。

あいにもわからなかった。

少女が悲しそうにしているようには見えない。

泣いているわけでも、怯えているわけでもない。

表情は本棚に隠れてよく見えないが、少なくとも、強い感情を表に出している様子はなかった。

何か悩みを抱えているのかもしれない。

けれど、それは今のあいにはわからない。

偶然、黒霧の近くにいただけなのかもしれなかった。

「理由は、まだ決めつけない方がいいと思う」

由香里が、自分に言い聞かせるように言った。

「うん」

あいはうなずいた。

原因を考えるのはあとだ。

今は、目の前の生徒を守らなければならない。

その時、足元から静かな声がした。

「あい」

聞き慣れた、落ち着いた女性の声。

あいが机の下へ視線を向けると、椅子の陰に黒猫の姿があった。

アムルだった。

いつ現れたのか、あいにもわからなかった。

額のハート型の紋が、図書室の薄暗い光の中でかすかに見える。

アムルの視線は、まっすぐ本棚の奥へ向けられていた。

その隣へ、白い猫が音もなく姿を現す。

フルルは普段の快活さを抑え、耳を前へ向けて黒霧を見つめていた。

さらに反対側には、やわらかな色合いの毛並みを持つネロリがいた。

額の花びら模様が淡く浮かび、静かに由香里を見上げる。

「三匹とも……」

由香里が息をのむ。

周囲の生徒は、誰も猫たちへ反応していなかった。

机の下に三匹の猫が並んでいるというのに、こちらを見る者はいない。

「あの黒霧、さっきからあったの?」

美咲が声を潜める。

「いいえ」

アムルは本棚から目を離さずに答えた。

「今、急速に集まり始めたわ」

「妖魔なの?」

あいが尋ねる。

「まだ断定はできません。黒霧だけの可能性もあります」

アムルの返答は冷静だった。

けれど、その声には明らかな警戒が含まれていた。

「ただし、あの生徒へ向かっています」

黒霧の先端が、少女の上履きへ触れた。

少女は気づかない。

本棚から一冊の本を抜き、表紙を確認している。

黒霧は上履きの周囲へまとわりつくと、足首へ絡みつくように揺れ始めた。

「あの子に声をかけた方がいいんじゃない?」

美咲が、すぐに立ち上がろうとする。

「待って」

アムルが短く止めた。

美咲の動きが止まる。

「急に近づけば、黒霧がどう反応するかわかりません」

「でも、このままじゃ……」

「落ち着いて。周りには一般の生徒もいます」

その言葉に、あいは図書室全体を見回した。

司書教諭。

窓際で勉強している生徒。

本棚の間を歩く生徒。

ここで変身すれば、確実に見られてしまう。

《ディストーション・フィールド》を展開するにしても、少女のすぐ近くには一般人がいる。

黒霧だけを切り離して虚数空間へ移すには、状況が近すぎた。

「ここでは変身できない……」

あいがつぶやく。

「ええ」

アムルが答える。

「まずは、あの生徒を黒霧から離す必要があります」

「普通に声をかける?」

由香里が尋ねた。

「それが最も自然です。ただし、黒霧を刺激しないように」

あいは少女の様子を見つめた。

ただ本を探している一年生へ、何と声をかければよいのだろう。

体調は大丈夫、と突然聞けば、不審に思われるかもしれない。

その棚に用があるふりをする。

本を探すのを手伝うと言う。

司書教諭に呼ばれていると伝える。

いくつかの考えが、頭の中に浮かんでは消える。

「私が行く」

美咲が小さく言った。

「自然に話しかけるなら、たぶん私が一番やりやすいと思う」

「でも……」

「大丈夫。いきなり触ったりしないから」

美咲は椅子から少し腰を浮かせた。

由香里も立ち上がろうとする。

「私も一緒に――」

その時だった。

一年生らしい少女の肩が、わずかに揺れた。

手にしていた本が傾く。

少女は胸元へ手を当て、息を確かめるように小さく口を開いた。

黒霧が、足元から背中へ伸びている。

本棚が作る長い影の中で、それは少女の身体を包むように、静かに濃くなっていった。

「待って、様子がおかしい」

あいは立ち上がった。

少女の呼吸が、目に見えて浅くなっていた。


◆ 眠るように倒れた生徒


少女の呼吸が、目に見えて浅くなっていた。

胸元へ添えられた手が、小さく震えている。

「待って、様子がおかしい」

あいが立ち上がるのと、黒霧が少女の背中を覆ったのは、ほとんど同時だった。

本棚の影から伸びた黒いもやが、制服の肩や腕へまとわりつく。

けれど、少女はそれに気づかない。

ただ息苦しそうに唇を開き、胸元を押さえているだけだった。

「美咲ちゃん……!」

「うん!」

美咲はすぐに机の間を抜け、本棚の方へ駆け出した。

あいと由香里も、そのあとを追う。

図書室では走ってはいけない。

普段なら、あいもそう思ったはずだった。

けれど今は、床を蹴る自分たちの上履きの音が、ひどく遅く感じられた。

黒霧が、少女の首元まで昇っていく。

細い霧が、呼吸に引かれるように揺れた。

少女が息を吸う。

その瞬間、黒霧は胸元へ集まり、制服の内側へ吸い込まれるように沈んでいった。

「だめ……!」

由香里の声が、かすかに震える。

あいが本棚の角を曲がった時には、少女の周囲から黒霧が消えかけていた。

消滅したのではない。

身体の中へ入ってしまった。

なぜか、あいにはそう感じられた。

少女の手から、本が滑り落ちる。

厚い表紙が床へ当たり、図書室の中に鈍い音が響いた。

少女はその音にも反応しなかった。

膝から力が抜け、眠りへ落ちるように身体が傾いていく。

「危ない!」

美咲が大きく一歩を踏み込んだ。

倒れかけた少女の肩と背中へ腕を回し、床へぶつかる直前で抱き止める。

勢いを殺すように自分も膝を曲げ、ゆっくりと少女の身体を床へ下ろした。

「大丈夫? 聞こえる?」

美咲が呼びかける。

返事はない。

少女は目を閉じたまま、美咲の腕へ身体を預けていた。

その顔は苦痛に歪んでいるわけではない。

ただ、急に深い眠りへ落ちたように見えた。

「あいちゃん」

「う、うん」

あいは少女のそばへ膝をついた。

心臓が速く打っている。

何をすればいい。

まず、呼びかける。

呼吸を確認する。

授業で習ったことを思い出そうとするが、頭の中で言葉だけが空回りした。

それでも、何もしないわけにはいかない。

「聞こえますか?」

あいは少女の肩へそっと手を添えた。

強く揺さぶらないよう気をつけながら、少しだけ声を大きくする。

「大丈夫ですか? 聞こえますか?」

反応はなかった。

まぶたも動かない。

あいは少女の胸元を見る。

制服の布が、わずかに上下していた。

顔を近づけると、かすかな息が感じられる。

「呼吸はある」

その言葉を口にした途端、少しだけ足元が戻ってきたような気がした。

「本当?」

「うん。浅いけど、息はしてる」

美咲がほっと息を吐く。

しかし、少女の意識は戻らない。

由香里は少女の反対側へ膝をつき、その顔をじっと見つめていた。

「由香里?」

あいが呼ぶと、由香里は小さく肩を震わせた。

「……朝の私と、同じ」

声がかすれていた。

「黒霧に包まれた時、身体が急に重くなって……二人の声が、すごく遠くに聞こえたの」

由香里は、自分の胸元へ手を置いた。

今朝の教室で、由香里は顔色を失い、呼吸を浅くしていた。

あいと美咲が左右から支え、三階の教室から一階の保健室まで連れていった。

あの時、由香里の周囲にも、同じ黒霧がまとわりついていた。

「この子も、黒霧の中にいるのかもしれない」

「でも、もう見えないよ」

美咲が少女の周囲を見回す。

床にも、制服の上にも、黒霧は残っていない。

由香里は少女の胸元を見つめたまま、ゆっくり首を振った。

「消えたんじゃなくて……中に入ったように見えた」

「私も、そう見えた」

あいが答えると、胸の奥が冷たくなった。

外にある黒霧なら、離れることができるかもしれない。

虚数空間へ隔離することも、魔法で薄めることもできる。

けれど、人の身体の中へ沈んでしまった黒霧に、どう対応すればいいのか。

今のあいにはわからなかった。

「アムル」

あいは、ごく小さな声で呼んだ。

少し離れた本棚の下に、三匹のパートナー猫がいた。

アムルは少女を鋭く見つめている。

フルルもいつもの明るい表情を消し、ネロリは静かに目を細めていた。

「黒霧は、この子の中にいるの?」

「その可能性が高いわ」

アムルの声は落ち着いていたが、即座に変身するようには言わなかった。

周囲には、一般の生徒がいる。

すぐ近くの本棚からも、何事かと様子を見に来る生徒の顔がのぞいていた。

「今は、普通の救護を優先して」

アムルが続ける。

「ここでは変身できません。まず、安全な場所へ運ぶ必要があります」

「うん」

あいは小さくうなずいた。

その時、後ろから足音が近づいてきた。

「どうしました?」

司書教諭だった。

床に横たわる少女と、周囲に集まり始めた生徒たちを見て、すぐに表情を引き締める。

「急に倒れたんです」

美咲が答えた。

「転んだの?」

「いえ。倒れる前に支えたので、頭は打ってないと思います」

美咲は少女の身体を支えたまま、はっきりと説明した。

司書教諭は少女のそばへしゃがみ、顔色を確認する。

「呼びかけには?」

「反応がありません。でも、呼吸はあります」

あいが答えた。

自分の声が震えているのがわかった。

それでも、伝えなければならないことは言えた。

「貧血、でしょうか……」

由香里が、周囲にも聞こえる声で言った。

本当の原因は黒霧だ。

けれど、それをここで口にすることはできない。

司書教諭は少女の顔をのぞき込み、落ち着いた声で名前を呼ぼうとした。

しかし、あいたちはこの少女の名前を知らない。

少女の鞄や持ち物にも、この場ですぐわかるものは見当たらなかった。

「一年生みたいですけど、私たちとは面識がなくて……」

あいが言うと、司書教諭はうなずいた。

周りに集まりかけていた生徒たちへ、静かに声をかける。

「大丈夫です。皆さんは少し離れてください。通路を空けて」

生徒たちが不安そうにしながらも、少しずつ下がっていく。

その間も、少女は目を覚まさなかった。

苦しそうに暴れることもない。

眠っているように静かで、その静けさが、かえってあいを不安にさせた。

あいはもう一度、少女の胸元を見る。

制服はゆっくりと上下している。

呼吸はある。

けれど、その内側に何かが潜んでいるような感覚は消えていなかった。

由香里も同じものを感じているのか、少女から目を離さない。

「保健室へ連れていった方がいいと思います」

美咲が司書教諭へ言った。

「私たち、三人で運びます」

司書教諭は少女の状態を確かめてから、短くうなずいた。

「わかりました。無理に立たせないで、身体をしっかり支えてください」

「はい」

あいは答えながら、少女のそばへ手を伸ばした。

黒霧は、もう見えない。

それでも、終わってはいなかった。

むしろ、本当の異変は、少女の身体の中で始まっているのかもしれない。

「鶴岡先生のところへ急ごう」

美咲の言葉に、あいと由香里は同時にうなずいた。


◆ 保健室へ急いで


「鶴岡先生のところへ急ごう」

美咲の言葉に、あいと由香里は同時にうなずいた。

少女は目を閉じたまま、床へ横たわっている。

呼吸はある。

けれど、何度呼びかけても反応はなかった。

司書教諭は少女の顔色をもう一度確かめると、すぐに立ち上がった。

「保健室へ連絡します。あなたたちは、そのままそばにいてください」

「はい」

あいが答える。

司書教諭はカウンターへ戻り、内線電話の受話器を取った。

図書室にいた生徒たちは、遠巻きにこちらを見ている。

心配そうな視線。

小さく交わされる声。

誰の目にも、少女は突然貧血を起こして倒れただけに見えているはずだった。

本当は、黒霧が身体の中へ沈んでいるかもしれない。

そう考えると、あいには少女の静かな寝顔が、ますます不安に見えた。

「呼吸、変わってない?」

美咲が尋ねる。

由香里は少女の胸元を見ながら答えた。

「うん。まだ浅いけど、さっきと同じくらい」

由香里の声は落ち着いていた。

けれど、膝の上で握られた手には力が入っている。

今朝、自分も黒霧に襲われたばかりなのだ。

平気なはずがなかった。

「由香里、大丈夫?」

あいが小声で聞くと、由香里は一度だけ深く息を吸った。

「大丈夫。今は、この子をちゃんと見ていたいから」

その答えに、あいはうなずいた。

自分たちまで慌ててはいけない。

少しして、司書教諭が図書室の奥から車椅子を押して戻ってきた。

一般的な車椅子よりも背もたれが高く、身体を預けられるように作られている。背もたれを後ろへ倒すこともでき、座面の横には身体がずれないよう支える部分がついていた。

「校内搬送用の車椅子です。今、保健室にも連絡しました」

司書教諭は手早く背もたれを倒し、少女を乗せられる状態へ整えた。

さくら女子の校舎は、車椅子を利用する生徒も移動できるよう、主要な場所の段差が少なく作られている。

図書室棟と教室棟を結ぶ渡り廊下も、エレベーターまでの通路も、車椅子のまま進むことができる。

普段、あいはそのことを特別に意識していなかった。

けれど今は、その設備があることが、とても心強く感じられた。

「身体を起こします。頭を支えてもらえますか?」

司書教諭の言葉に、由香里が少女の頭側へ移動する。

「はい」

美咲は少女の背中と肩へ腕を入れた。

あいも手伝おうとしたが、美咲が小さく首を振る。

「あいちゃんは、車椅子が動かないように押さえてて」

「う、うん」

あいは車椅子の持ち手をしっかりと握った。

司書教諭と美咲が呼吸を合わせ、少女の身体をゆっくりと持ち上げる。

由香里は頭が傾かないよう、両手でそっと支えた。

「せーの……」

三人の動きに合わせ、少女の身体がリクライニングした背もたれへ預けられる。

乱暴に揺らさないよう、司書教諭が肩と腰の位置を整える。

美咲も、少女の上半身が横へ崩れないことを確認してから、ようやく腕を離した。

「これで大丈夫です」

司書教諭はそう言ったが、少女の目は閉じたままだった。

「呼吸は?」

あいが尋ねる。

由香里が胸元の動きを確認する。

「あるよ。さっきと変わってない」

その言葉に、あいは少しだけ息を吐いた。

床には、少女が落とした本が残っていた。

あいはそれを拾い上げ、表紙についた小さな埃を手で払う。

近くの棚の脇には、学生鞄が置かれていた。

「あの子の鞄、これかな」

「本を探す前に置いたみたいね」

由香里が答える。

鞄に名前が書かれているかもしれないが、今それを調べている時間はない。

あいは落とした本を鞄の上へ重ね、自分の鞄と一緒に持った。

「私が持つね」

「重くない?」

美咲が聞く。

「うん。これくらいなら大丈夫」

自分には、美咲のように少女の身体を軽々と支えることはできない。

それでも、できることはある。

あいは両方の鞄を持ち直した。

「周りを空けてください。保健室へ運びます」

司書教諭が声をかけると、生徒たちは通路の左右へ下がった。

美咲が車椅子の後ろへ回る。

由香里は横につき、少女の顔色を見守る。

あいは少し先へ出て、通路に人や障害物がないかを確かめた。

「ゆっくり行こう」

美咲が言う。

「でも、できるだけ急ごう」

「うん」

三人は、司書教諭とともに図書室を出た。

廊下へ出ると、図書室の静けさが背後へ遠ざかる。

図書室は教室棟とは別の建物の二階にある。

保健室へ向かうには、まずガラス張りの渡り廊下を通り、教室棟へ戻らなければならない。

渡り廊下の入口には段差がない。

美咲が押す車椅子は、床の継ぎ目を小さく震わせただけで、滑らかに進んだ。

司書教諭が先に扉を開ける。

「気をつけて。急がなくていいから、揺らさないように」

「はい」

美咲は返事をし、押す速度を少し調整した。

渡り廊下は、両側だけでなく上部まで大きなガラスで囲まれていた。

夕方の光が、その中へ斜めに差し込んでいる。

昼間の白い日差しとは違う、赤みを帯びたやわらかな光だった。

西へ傾いた太陽が、床へ細長い影を落としている。

光の中を、少女を乗せた車椅子が進んでいく。

渡り廊下の下には、中庭に近い通路が見えた。

体育館から戻る生徒や、運動場へ向かう生徒が歩いている。

そのうちの何人かが、車椅子に気づいて顔を上げた。

「あの子、どうしたんだろう」

「保健室に行くみたい」

かすかな声が、ガラス越しに聞こえた気がした。

あいは無意識に少女の鞄を胸元へ引き寄せる。

ここは外からよく見える。

誰かが見ている前で、魔法戦士や黒霧の話はできない。

アムルたち三匹も姿を見せず、どこかから一行を見守っているようだった。

今、誰かに尋ねられても、貧血で倒れたと答えるしかない。

それは嘘ではないのかもしれない。

けれど、本当の危険は、誰の目にも見えていなかった。

夕日が少女の顔を照らす。

閉じたまぶた。

血の気の薄い頬。

ゆっくりと上下する胸元。

その光が胸のあたりへ差した瞬間、あいは小さな違和感を覚えた。

少女の内側に残っていた重い気配が、ほんの少しだけ薄くなったような――。

「あいちゃん、前!」

美咲の声に、あいははっとする。

渡り廊下の先から、二人の生徒が歩いてきていた。

「ご、ごめん」

あいは急いで横へ寄り、通路を空けてもらえるよう声をかけた。

「すみません。通してください」

生徒たちは車椅子を見ると、驚いた顔ですぐ壁際へ避けた。

「大丈夫ですか?」

「図書室で倒れたの。保健室へ運ぶところだから」

美咲が短く答える。

二人は心配そうに少女を見送り、そのまま図書室棟の方へ歩いていった。

あいはもう一度、少女へ視線を戻した。

先ほど感じた変化は、もうわからない。

夕日で黒霧が弱まったのか。

それとも、自分がそう思っただけなのか。

確かめる余裕はなかった。

「由香里、呼吸は?」

美咲が前を向いたまま尋ねる。

「変わってない。まだ浅いけど、乱れてはいないよ」

由香里は少女の顔から目を離さなかった。

「もう少しだから」

それが少女へ向けた言葉なのか、自分たちへ向けた言葉なのか、あいにはわからなかった。

渡り廊下を渡りきると、教室棟の二階へ入った。

こちらの廊下にも段差はなく、車椅子はそのままエレベーターへ向かうことができる。

あいは先に進み、壁のボタンを押した。

ランプが点灯する。

けれど、待っている数秒がひどく長く感じられた。

「まだかな……」

美咲が小さくつぶやく。

「もう来ると思う」

表示が二階へ近づく。

あいは数字を見つめながら、何度も少女の方を振り返った。

やがて音が鳴り、エレベーターの扉が開く。

中に人はいなかった。

「あい、開けておいて」

「うん」

あいは扉の横に立ち、開くボタンを押し続ける。

美咲が慎重に車椅子を押し込み、由香里と司書教諭が続いた。

あいも最後に乗り込み、一階のボタンを押す。

扉が閉じる。

狭い箱の中に、機械の動く低い音と、少女の浅い呼吸だけが聞こえた。

「もうすぐ保健室だからね」

由香里が、少女へ静かに声をかける。

返事はない。

けれど、その声を聞いているうちに、あいの呼吸も少し落ち着いた。

一階へ着くと、扉の向こうには鶴岡先生が待っていた。

白衣姿の先生は、車椅子に乗せられた少女を見ると、すぐに近づいてくる。

「図書室で急に倒れました」

司書教諭が説明する。

「呼吸はあります。でも、呼びかけには反応しません」

あいも続けた。

鶴岡先生は少女の顔と胸元を見たあと、あい、美咲、由香里へ順番に視線を向けた。

その目が、ほんの少しだけ鋭くなる。

三人の様子から、ただの貧血ではないと気づいたのかもしれない。

けれど、鶴岡先生は何も尋ねなかった。

「わかりました。中へ運びましょう」

保健室の扉が大きく開かれる。

美咲が車椅子を押し、少女を中へ運び入れる。

あいも、少女の鞄と落とした本を抱えたまま、そのあとに続いた。

明るい夕日を通り抜けても、少女はまだ目を覚まさなかった。


◆ 眠る生徒と残る黒霧


明るい夕日を通り抜けても、少女はまだ目を覚まさなかった。

「こちらへ」

鶴岡先生は保健室の奥にあるベッドのカーテンを開けた。

美咲がリクライニング式の車椅子を押し、ベッドの横へ慎重に寄せる。由香里は少女の頭が傾かないよう、横からそっと支えていた。

「ベッドへ移します。橘さんは肩を、田村さんは頭を支えて」

「はい」

「わかりました」

鶴岡先生は少女の腰を支え、美咲と由香里に動きを合わせるよう合図した。

「ゆっくり。せーの」

三人で身体を持ち上げ、少女をベッドの上へ横たえる。

白い枕へ頭が沈んだ。

あいは少女の鞄と落とした本を、ベッド脇の棚へ静かに置いた。

本は無事だった。鞄も、図書室に置かれていた時と変わらない。

けれど、その持ち主だけが、深い眠りの中に取り残されている。

「呼びかけても反応がありませんでした」

司書教諭が説明した。

「倒れる前に、何か訴えていましたか?」

鶴岡先生が尋ねる。

「胸の辺りを押さえていました」

あいが答えた。

「少し息苦しそうにして、そのあと急に……」

黒霧のことは口にできない。

あいが言葉に詰まると、美咲が続けた。

「手に持ってた本を落として、そのまま倒れました。私が支えたので、床にはぶつかってないです」

「頭も打っていません」

由香里が補足する。

鶴岡先生は短くうなずくと、少女の肩へ手を添えた。

「聞こえますか?」

普段、生徒へ話しかける時と変わらない、穏やかな声だった。

「ここは保健室です。目を開けられますか?」

返事はない。

肩へ触れられても、まぶたは動かなかった。

鶴岡先生は少女の胸元を見つめ、呼吸の間隔を確かめる。

それから手首へ指を当て、脈を取った。

あいは邪魔にならないよう少し離れながら、その様子を見守った。

保健室の中は静かだった。

壁の時計が秒を刻む音と、少女のかすかな呼吸だけが聞こえる。

渡り廊下で夕日に照らされた時、ほんの少しだけ薄くなったように感じた重い気配。

けれど、保健室へ入ってからは、また少女の胸の奥へ集まっているように思えた。

目には見えない。

それなのに、そこに何かがいる。

そんな感覚が消えない。

「呼吸は浅いですが、今のところ一定です。脈もあります」

鶴岡先生は落ち着いた声で言った。

少女の頬や唇の色を確認し、額へ手を当てる。

続いて体温計を脇へ挟み、測定を待つ間に、少女の腕や脚へ外傷がないかを確かめた。

「倒れる前に支えてくれたのね」

「はい」

美咲が答える。

「身体を強く打った様子はありません。目立った外傷もなさそうです」

体温計の小さな電子音が鳴った。

鶴岡先生は表示を確認する。

「熱もありません」

普通の診察だけを見れば、大きな怪我も発熱もなく、呼吸と脈も保たれている。

眠っているようにしか見えない。

それでも、鶴岡先生の表情は緩まなかった。

少女の胸元へ、もう一度視線を落とす。

白衣の袖から伸びた手が、制服に直接触れない位置で止まった。

何かを感じ取ろうとしているようだった。

「先生」

司書教諭が声をかける。

「保護者への連絡や、この生徒のクラスの確認をした方がいいでしょうか」

「ええ。こちらで状態を見ながら確認します。図書室の方はお願いできますか?」

「わかりました」

司書教諭は、あい、美咲、由香里へ視線を向けた。

「あなたたちも、すぐに知らせてくれてありがとう」

「いえ……」

あいが答えると、司書教諭は少女を心配そうに見てから、保健室を出ていった。

扉が閉まる。

廊下を離れていく足音が聞こえなくなるまで、鶴岡先生は何も言わなかった。

やがて、静かにあいたちへ顔を向ける。

「図書室で、何が見えたの?」

声の調子は穏やかなままだった。

けれど、その問いが普通の体調不良についてではないことは、三人にもわかった。

「黒霧です」

あいは声を落として答えた。

「本棚の影から集まってきて、あの子の足元から身体を包んで……」

「最後は、胸の辺りへ吸い込まれるみたいに消えました」

美咲が続けた。

由香里はベッドの上の少女を見つめている。

その顔は少し青ざめていた。

「朝の私と似ていました」

「田村さんと?」

「はい。でも、私の時よりも急でした」

由香里は自分の胸元へ手を添えた。

「私は少しずつ身体が重くなって、呼吸がしづらくなりました。でも、この子は黒霧が入ったあと、すぐに意識を失って……」

鶴岡先生は由香里の話を遮らず、最後まで聞いた。

「黒霧が集まった理由はわかる?」

「いいえ」

由香里は首を振った。

「何か悩んでいたのかもしれません。でも、ただ近くにいたから巻き込まれた可能性もあります。私たちには、何も……」

「それでいいわ」

鶴岡先生が静かに言った。

「原因がわからない時に、本人の気持ちや性格のせいだと決めつけてはいけません」

その言葉に、あいは小さくうなずいた。

少女とは、まだ一度も話したことがない。

何を考えていたのかも、どんな毎日を送っているのかも知らない。

今わかっているのは、黒霧の被害を受けたということだけだった。

鶴岡先生は再びベッドへ向き直り、少女の胸元へ目を凝らした。

「黒霧は消えていません」

あいの背中を冷たいものが走った。

「やっぱり、中に……?」

「ええ。身体の内側に残っています」

鶴岡先生の答えには迷いがなかった。

美咲が一歩、ベッドへ近づく。

「すぐに取り出せないんですか?」

「慌ててはいけないわ」

鶴岡先生は少女の手首へもう一度触れ、脈を確認した。

「今、この子の呼吸と脈は保たれています。意識はありませんが、身体は安静な状態に近い。ただし、黒霧と身体の反応が完全に分かれていません」

「無理に起こしたら、どうなるんですか?」

あいが尋ねる。

「黒霧が刺激される可能性があります」

鶴岡先生は慎重に言葉を選んだ。

「急に呼び起こそうとすれば、呼吸が乱れたり、身体の中に沈んでいる黒霧が再び広がったりするかもしれない。今は、目を覚まさせることより、安定させることを優先します」

眠っているなら、起こした方がいい。

あいは、どこかでそう思っていた。

けれど、この少女の眠りは普通の眠りではない。

黒霧とつながったまま、意識だけが沈んでいる。

そんな状態なのかもしれなかった。

「どうすればいいんですか?」

美咲の声には焦りがにじんでいた。

「順番が大切です」

鶴岡先生は、三人の顔を一人ずつ見た。

「まず、この子を安全な安静状態に保つこと。呼吸と脈を安定させ、外からの刺激で黒霧が動かないようにします」

一つ目。

あいは頭の中で、その言葉を整理する。

「次に、身体の中へ沈んだ黒霧だけを、ゆっくり引き離す」

二つ目。

「引き離した黒霧が妖魔として形を取れば、コアが現れるはずです。そのコアを破壊します」

三つ目。

生徒を守る。

黒霧を離す。

コアを壊す。

ただ妖魔へ攻撃すればいい戦いではない。

一つでも順番を間違えれば、ベッドで眠る少女を危険にさらしてしまう。

あいは自分の手を握った。

「でも、身体の中の黒霧をどうやって……」

その時、保健室の隅から、やわらかな声がした。

「由香里の力が必要です」

白いカーテンの陰から、ネロリが姿を現した。

その隣にはアムルとフルルもいる。

三匹は、一般の人がいなくなるまで姿を隠していたのだろう。

ネロリは静かな足取りでベッドへ近づき、眠る少女を見上げた。

「アロマの魔法なら、呼吸と魔力の乱れを整え、黒霧を身体から離す準備ができます」

「私の……?」

由香里は戸惑ったように自分の胸元へ手を置いた。

「でも、この子は普通の生徒です。魔法を使ってもいいんですか?」

由香里の問いに、あいも鶴岡先生を見た。

魔法を人に向けて使ってはいけない。

それは、魔法戦士として守らなければならない大切な原則だった。

「人を傷つけたり、意思を奪ったりするために魔法を使うことは禁止されています」

鶴岡先生ははっきりと答えた。

「けれど、黒霧の影響を受けた人を守り、呼吸や身体の状態を安定させるための救護は別です。必要最小限で、本人の意思や記憶に触れない魔法に限ります」

「眠らせるんじゃないんですか?」

美咲が尋ねる。

「この子は、すでに意識を失っています」

鶴岡先生は少女へ目を向けた。

「必要なのは、さらに深く眠らせることではありません。黒霧を引き離すまで、危険な覚醒や呼吸の乱れを起こさないよう、安全な状態を保つことです」

由香里は唇を引き結んだ。

朝には、自分が黒霧に苦しめられた。

今度は、自分の魔法で別の誰かを守らなければならない。

その重さを受け止めようとしているように見えた。

「私に、できるかな……」

「一人で行うのではありません」

ネロリが穏やかに答える。

「私が導きます。ラブとフローラも、あなたのそばにいます」

「あいちゃん、由香里」

美咲が二人を見る。

「やろう。この子を、このままにはできないよ」

「うん」

あいもうなずいた。

怖くないわけではない。

人の身体のすぐそばで魔法を使う。

自分の判断を間違えれば、妖魔ではなく少女を傷つけるかもしれない。

けれど、その危険があるからこそ、慎重に力を合わせなければならない。

由香里は眠る少女を見つめ、ゆっくり息を吸った。

「わかった。私、やってみる」

その返事を聞くと、鶴岡先生は保健室の入口へ向かった。

廊下に人の気配がないことを確認し、扉を閉める。

鍵がかかる音が、静かな保健室に響いた。

続いて窓のカーテンを閉め、外から中が見えないようにする。

夕日の光が遮られ、保健室の中が少しだけ薄暗くなった。

少女の胸元に残る重い気配が、再び濃くなったようにあいには感じられた。

鶴岡先生が三人へ振り返る。

「まずは、この部屋を外から切り離します」

その言葉に、あいは自分の胸元へ手を添えた。

次に必要なのは、魔法戦士としての姿だった。


◆ 三人の変身


「まずは、この部屋を外から切り離します」

鶴岡先生の言葉に、あいは自分の胸元へ手を添えた。

保健室の扉には鍵がかかっている。窓のカーテンも閉じられ、外から中の様子は見えない。

それでも、いつ誰かが訪ねてくるかわからなかった。

保健室へ来るのは、体調を崩した生徒だけではない。怪我をした生徒や、用事のある教師が扉を開けようとする可能性もある。

ここで魔法を使うなら、現実の保健室から戦いを切り離さなければならない。

「あいちゃん」

美咲が隣へ並ぶ。

由香里も、ベッドで眠る少女を一度見つめてから、あいたちのそばへ来た。

その顔には疲れが残っている。

朝に覚醒し、昼休みにも戦い、今度は一般の生徒を救うために、三度目の変身をしようとしている。

「由香里、大丈夫?」

あいが尋ねると、由香里は小さく息を吸った。

「うん。少し疲れてるけど……この子を放っておけないから」

穏やかな声だった。

無理をしていないとは言えない。

けれど、誰かに言われたからではなく、自分の意思でここに立っていることは伝わってきた。

ネロリが由香里の足元へ歩み寄る。

「焦らなくて大丈夫です。まずは自分の呼吸を整えて」

「うん」

由香里は目を閉じ、ゆっくり息を吸った。

美咲も一度肩を回し、真剣な表情へ変わる。

「じゃあ、行こう」

「うん」

あいはベッドの少女を見た。

この生徒は、あいたちの名前も知らない。

魔法戦士のことも、妖魔のことも知らない。

それでも、守らなければならなかった。

三人は互いにうなずき、同時に胸元へ手を添えた。

「ラブ・レボリューション!」

「フローラ・レボリューション!」

「アロマ・レボリューション!」

三人の声が、閉ざされた保健室に重なる。

あいの制服がピンク色の光へほどけた。

紺色のセーラーカラーと、胸元の大きなリボン。動きやすい戦闘用のトップスと、短いプリーツスカートが光の中から形成されていく。

隣では、美咲が花を思わせる淡い光に包まれていた。

由香里の周囲には、やわらかな香気を帯びた紫と水色の光が広がる。

今までなら、変身した直後の衣装に少なからず戸惑っていた。

けれど今は、三人とも眠る少女から目を離さなかった。

恥ずかしさが消えたわけではない。

ただ、それより先に考えなければならないことがあった。

最後に、三人の目元へ白いマジカル・ビジョンが展開される。

普段の眼鏡の上へ重なった視界の中に、保健室の輪郭と魔力の反応が浮かび上がった。

ベッドの上にある人型の反応。

呼吸と脈を示す、穏やかな光。

そして、その胸元の奥に沈む、黒く濁った揺らぎ。

「やっぱり、残ってる……」

ラブがつぶやく。

肉眼では見えない。

けれど、マジカル・ビジョンを通すと、少女の胸の内側に黒い影が絡みついているのがわかった。

一定の形を持たず、呼吸に合わせて小さく膨らんでは縮んでいる。

「先に虚数空間を」

アムルが告げる。

「ええ」

ラブは右手を前へ伸ばし、細身の長い杖を召喚した。

光の粒子が集まり、先端にハート型の意匠を持つ杖が形を取る。

ラブは保健室の中を見回した。

この部屋で《ディストーション・フィールド》を展開するのは、初めてではない。

午前、保健室の四隅を座標として捉え、部屋全体を現実から虚数方向へずらした。

形も広さも覚えている。

窓。

扉。

薬品棚。

机。

白いカーテン。

並んだベッド。

前回と同じ座標を使えば、空間を作ること自体は難しくない。

けれど、今回は条件が違った。

ベッドの上には、黒霧の影響を受けた一般の生徒がいる。

「ラブ、部屋を移すことだけを考えて」

アムルが静かに言う。

「生徒一人を動かすのではありません。ベッドも空気も、この部屋にあるものすべてを、同じ層へ移すのです」

「一部分だけに力をかけないようにするんだね」

「そのとおりです」

ラブは杖を握り直した。

少女の身体だけを虚数方向へ引っ張ってはいけない。

保健室全体を、形を崩さずに静かにずらす。

ラブは床の四隅を頭の中へ置いた。

そこから壁を立ち上げ、天井を結ぶ。

外周に沿って、閉じた一つの領域を作る。

ベッドは境界から離れている。

少女の周囲には、境界の揺らぎが近づかないよう、できるだけ均一で穏やかな空間を残す。

前回よりも慎重に。

強く押すのではなく、薄い紙を一枚ずらすように。

ラブは杖の先で、保健室の輪郭をなぞった。

「ディストーション・フィールド」

杖の先から、淡い光の線が広がる。

床。

壁。

天井。

保健室全体を包んだ光が、一度だけ静かに明滅した。

空気がわずかに揺れる。

窓も、扉も、白いカーテンも、見た目には何も変わっていない。

廊下から聞こえる足音も、遠くの運動部の声も、そのまま届いている。

けれど、マジカル・ビジョンには、部屋の外周に淡い境界線が表示されていた。

保健室は現実空間から少しだけずれ、虚数空間へ隔離されている。

「境界、安定しています」

アムルが確認する。

ラブはすぐにベッドへ目を向けた。

少女の呼吸は変わっていない。

脈を示す光にも、大きな乱れはなかった。

「生徒への負荷は?」

鶴岡先生が尋ねる。

「たぶん、大丈夫。ベッドの周りには揺れを出してない」

「ええ。呼吸も脈も変化していないわ」

鶴岡先生は少女の手首へ指を当てながら答えた。

その言葉に、ラブは小さく息を吐いた。

虚数空間を作れた。

けれど、まだ始まったばかりだ。

「次は由香里です」

ネロリがベッドのそばへ進む。

アロマは少女の横へ立った。

「まず、《アロマ・スリープヴェール》を使います」

「眠らせる魔法じゃないんだよね?」

フローラが確認する。

「はい。この生徒はすでに意識を失っています」

ネロリは落ち着いて答えた。

「必要なのは、さらに眠らせることではありません。黒霧を引き離す間、呼吸と魔力を安定させ、危険な覚醒反応を防ぐことです」

鶴岡先生も、少女の脈を確認したままアロマを見る。

「意思や記憶には触れないで。呼吸と身体の状態だけを整えるの」

「はい」

アロマは答えたものの、すぐには手を伸ばさなかった。

自分の魔法を、一般の人へ使う。

救うために必要だと理解していても、迷いがないはずはなかった。

「怖い?」

フローラが尋ねる。

アロマは少しだけ困ったように笑った。

「うん。間違えたくないから」

「大丈夫」

ラブは由香里を見る。

「鶴岡先生も、ネロリもいる。私たちもそばにいるよ」

アロマは二人の顔を見てから、ゆっくりうなずいた。

「そうね。一人じゃないものね」

ネロリがベッドへ視線を向ける。

「少女の呼吸に合わせてください。魔力を押しつけるのではなく、その呼吸を邪魔しないよう、そっと包むのです」

アロマは少女の胸元から少し離れた位置へ両手をかざした。

目を閉じ、自分自身の呼吸を整える。

吸う。

吐く。

少女の浅い呼吸へ、自分の呼吸を合わせていく。

胸元のリボンが淡い紫色に光った。

香りを含んだ、やわらかな魔力が両手へ集まる。

「アロマ・スリープヴェール」

小さく唱えると、薄い光の膜が少女の身体へ広がった。

光は布をかけるように上から覆うのではなく、呼吸に合わせて胸元から全身へゆっくり巡っていく。

かすかに漂う香りは、強いものではなかった。

静かな花と、澄んだ水を思わせる、穏やかな香り。

少女の指先から、少しずつ力が抜けていく。

苦しそうに寄っていた眉間のしわも、わずかにやわらいだ。

「脈が整ってきました」

鶴岡先生が言う。

アロマは目を開けず、魔法を維持している。

「呼吸は?」

「さっきより深くなっているわ。急な変化もありません」

ラブのマジカル・ビジョンにも、少女の呼吸を示す表示が、少しずつ安定していくのが見えた。

黒霧はまだ胸の内側にある。

けれど、先ほどまで呼吸へ絡みついていた揺らぎが、少しだけ緩んでいる。

「できてるよ、由香里」

フローラが声をかける。

「うん……」

アロマは短く答えた。

声には緊張が残っていたが、魔法の光は乱れていない。

ネロリが穏やかにうなずく。

「その状態を保ってください。次に、黒霧だけを身体から離します」

「《アロマ・ピュリファイ》だね」

「はい。ただし、いつものように周囲へ広げるのではなく、少女の内側にある濁りだけを探してください」

アロマは一度、ゆっくり息を吐いた。

《アロマ・スリープヴェール》の光を保ったまま、片方の手を少女の胸元へ向ける。

「アロマ・ピュリファイ」

淡い紫と水色の光が、細い流れとなって少女の胸元へ重なった。

浄化の光が、黒霧を無理に引きずり出そうとするのではなく、絡みついた糸を一本ずつほどくように染み込んでいく。

黒い揺らぎが、かすかに動いた。

少女の胸が、少し大きく上下する。

「呼吸は安定しています。そのままで大丈夫」

鶴岡先生が告げる。

アロマはうなずき、魔力をゆっくり巡らせた。

その間に、フローラは片手を前へ伸ばす。

淡い花の光が集まり、片手剣が姿を現した。

フローラは剣を両手で振り上げることはせず、切っ先を床へ向けたまま、ベッドと部屋の中央との間へ立つ。

「黒霧が出てきたら、私がベッドへ戻さないようにする」

「大きく切り払わないでください」

フルルが注意する。

「生徒の近くでは、黒霧がどう動くかわかりません。進路を塞ぐことを優先して」

「わかった」

フローラは足の位置を整え、いつでも動ける姿勢を取った。

ラブも杖を構え直す。

虚数空間の境界。

眠る少女。

魔法を維持するアロマ。

ベッドの前を守るフローラ。

そのすべてをマジカル・ビジョンで確認する。

三人の役割は違う。

ラブは空間を守る。

アロマは少女を守り、黒霧を引き離す。

フローラは、引き離された黒霧を少女へ戻さない。

誰か一人だけではできない。

三人でなければ、この生徒を安全に助けることはできなかった。

「少しずつ浮かんできています」

ネロリの声がする。

ラブは少女の胸元へ目を凝らした。

制服の上に、黒いものは見えない。

けれど、マジカル・ビジョンの中では、胸の奥にあった黒い揺らぎが、呼吸に合わせて上へ動き始めていた。

アロマの浄化の光に導かれ、身体の内側から外へ。

ほんの少しずつ。

黒霧は、少女の胸元にその輪郭を浮かび上がらせ始めた。


◆ 細く絞ったラブ・バースト


少女の胸元から、黒い霧が細い糸のように浮かび上がっていた。

アロマの両手から広がる淡い紫と水色の光が、その黒霧をゆっくりと身体の外へ導いていく。

「呼吸は安定しています」

鶴岡先生の声が、ベッドの横から聞こえた。

少女は目を閉じたままだった。

胸元には《アロマ・スリープヴェール》のやわらかな光が残り、呼吸に合わせて静かに明滅している。

アロマは少女のそばから離れず、《アロマ・ピュリファイ》を維持していた。

「あと少し……」

声は落ち着いていたが、額には薄く汗が浮かんでいる。

朝に魔法戦士として目覚め、昼休みにも戦い、さらに今も一般の生徒を守るために魔法を使っている。

それでも、アロマの手は止まらなかった。

黒霧が少女の制服から完全に離れた。

引き抜かれた霧は逃げ場を探すように揺れ、ベッドの脇へ流れていく。

「離れました」

ネロリが告げる。

次の瞬間、黒霧が大きく膨らんだ。

「来るよ!」

フローラが片手剣を構える。

霧は床の上に広がり、立ち上がるように形を変えた。

腕とも触手ともつかない黒い揺らぎが伸び、輪郭の定まらない妖魔の姿を作っていく。

完全な形ではない。

それでも、黒霧の中心には、はっきりとした力の集中があった。

ラブのマジカル・ビジョンに、赤い反応が点灯する。

《コア反応を検出》

「コアが見えた……!」

妖魔の中心より少し低い位置。

黒霧の奥に、小さな赤い点が脈打っている。

しかし、そのすぐ後ろにはベッドがあった。

ベッドの上には、眠ったままの少女。

その横では、アロマが浄化魔法を維持している。

今までのように、コアへ向かってそのまま《ラブ・バースト》を放つことはできなかった。

「ラブ、撃てる?」

フローラが妖魔から目を離さずに尋ねる。

ラブは杖を構えた。

「今のままじゃ、危ない」

いつもの《ラブ・バースト》は、コアを確実に撃ち抜くための強い光だ。

少しくらい妖魔が動いても、その中心を貫けるだけの太さと威力を持っている。

けれど今は、その余裕が危険になる。

光がわずかでも外れれば、少女やアロマへ届くかもしれない。

「この距離では、通常の収束幅は使えません」

アムルが言った。

「コアだけを狙う必要があります」

「そんなこと、できるの?」

フローラの声に不安が混じる。

ラブ自身にも、確信はなかった。

今まで《ラブ・バースト》を放つ時は、コアの位置を見つけ、そこへ強い光を向けることだけを考えていた。

これほど細かく、威力の通り道まで考えたことはない。

妖魔が、ベッドへ向かって黒い腕を伸ばした。

「行かせない!」

フローラが一歩踏み込む。

片手剣を大きく振り抜くことはしなかった。

剣先を黒霧の進路へ差し入れ、ベッドへ向かっていた揺らぎを横へ逸らす。

妖魔が反対側へ逃れようとすると、すぐに身体を入れ替え、剣の腹を向けて進路を塞いだ。

「こっちはだめ!」

フローラは黒霧を切り払わない。

剣先と足の動きだけで、妖魔が進める範囲を少しずつ狭めていく。

黒霧が右へ動けば右を塞ぎ、ベッドへ戻ろうとすれば、その間へ入り込む。

妖魔を倒そうとしているのではない。

少女へ近づけず、コアの位置を大きく動かさないための牽制だった。

「美咲ちゃん、そのまま少しだけ左へ誘導できる?」

ラブが声をかける。

「少しだけって、どのくらい?」

「ベッドから、あと半歩分離してほしい」

「わかった。やってみる!」

フローラは床を蹴った。

妖魔の正面へ飛び込むのではなく、斜めから剣先を差し込む。

黒霧がそれを避けるように揺れ、わずかに左へ動いた。

マジカル・ビジョンの赤い点も、それに合わせて移動する。

「そこ!」

ラブは杖を向けた。

杖の先端。

妖魔のコア。

その向こうにある壁。

眠る少女の位置。

ベッドの高さ。

フローラの肩と剣先。

アロマの両手と、少女を包む魔力。

そして、光が通り抜ける空間。

一つずつ、頭の中へ置いていく。

非常階段では、折れ曲がった空間を座標として捉えた。

あの時は、ばらばらになった魔力の流れを一本につなげた。

今度は違う。

すでにある空間の中から、何にも触れない一本だけを探す。

杖の先端からコアまで。

まっすぐな線を引く。

けれど、その線がフローラの腕へ近すぎる。

「美咲ちゃん、もう少しだけ身体を低くして」

「こう?」

フローラが膝を曲げ、剣の位置を保ったまま上半身を沈める。

線が空いた。

しかし、妖魔のコアがわずかに上へ揺れる。

このままでは、光の端がアロマの肩へ近づきすぎる。

「由香里、少しだけ右へ寄れる?」

「生徒から離れすぎない範囲なら」

アロマは《アロマ・ピュリファイ》を途切れさせないよう、半歩だけ位置を変えた。

少女を包む《アロマ・スリープヴェール》の光は、安定したままだった。

「大丈夫。こちらは守れてるよ」

由香里の声だった。

普段の由香里と変わらない、穏やかな声。

それが、ラブの焦りを少しだけ鎮めた。

もう一度、位置を確認する。

杖。

コア。

ベッド。

少女。

フローラ。

アロマ。

光の通り道。

マジカル・ビジョンの表示が重なり、一本の細い補助線が視界に浮かんだ。

《射線確保》

見つけた。

けれど、妖魔は止まってはいない。

黒霧の腕がフローラの剣へ絡みつき、押し返そうとする。

「長くは抑えられないよ!」

フローラが声を上げる。

「あと少し!」

ラブは杖を握り直した。

《ラブ・バースト》の光を、いつものように広げてはいけない。

強くするのではなく、細くする。

ばらけようとする魔力を、杖の先へ集める。

もっと狭く。

もっと正確に。

コアより太くしてはいけない。

けれど、コアを貫けないほど弱くしてもいけない。

杖の先端に、ピンク色の光が集まり始めた。

いつもの《ラブ・バースト》より小さい。

けれど、その光は密度を増しながら、鋭く輝いていた。

「ラブ」

アムルの落ち着いた声が届く。

「威力ではなく、位置を信じて」

位置。

座標。

一本の線。

ラブは息を整えた。

妖魔がもう一度、ベッドへ向かおうとする。

フローラが剣先を滑らせ、その動きを正面から遮った。

「今、止めてる!」

アロマの浄化の光が強くなる。

「黒霧を薄くする。コアを見失わないで」

黒霧の輪郭が淡くなる。

その中心で、赤いコアだけが鮮明に浮かび上がった。

ラブの視界から、ほかのものが遠ざかる。

見えているのは、杖の先端と赤い点。

そして、その間を結ぶ、誰にも触れない一本の射線だけだった。

「……ここなら、撃てる」

杖の先を、ほんのわずかに動かす。

補助線と赤い点が重なる。

《照準固定》

ラブは杖を両手で支え、静かに魔法名を唱えた。

「ラブ・バースト!」

杖の先端から、ピンク色の光が放たれた。

これまでのような太い光ではない。

針のように細く、まっすぐに収束した光。

それはフローラの剣先の横を抜け、アロマの魔力へ触れることなく、ベッドからも少女からも離れた空間を通り抜けた。

そして、妖魔の中心にある赤いコアだけを、正確に撃ち抜いた。

硬いものが砕けるような音が響く。

赤い光が割れ、細かな粒へ変わった。

妖魔の動きが止まる。

黒い腕も、揺らいでいた輪郭も、その形を保てなくなった。

黒霧は中心からほどけ、淡い光子状の粒となって保健室の空気へ散っていく。

フローラは剣を構えたまま、最後までベッドの前を離れなかった。

アロマも少女を包む光を保ちながら、黒霧の反応が完全に消えるのを見届ける。

やがて、最後の黒い粒が消滅した。

保健室に、静けさが戻る。

ラブは杖を下ろした。

腕がわずかに震えている。

力を使い切ったからではない。

最後まで光を逸らさず、細い射線へ閉じ込め続けていた緊張が、一気にほどけたのだ。

「当たった……」

思わず、声が漏れた。

「うん。ど真ん中」

フローラが振り返り、安心したように笑った。

アロマは眠る少女の呼吸を確認してから、ラブへ顔を向けた。

「この子も大丈夫。光は少しも触れてないよ」

その言葉を聞いて、ラブはようやく息を吐いた。

妖魔を倒せたことよりも、少女と二人の仲間を傷つけなかったことの方が、ずっと大きく感じられた。

強い魔法を放つだけでは、人を守ることはできない。

必要な場所へ、必要な分だけ力を届ける。

そのために考え、仲間の動きを信じ、最後まで制御する。

ラブは、光の消えた杖の先を見つめた。

今放ったものも、確かに《ラブ・バースト》だった。

けれどそれは、最初の夜に放った時とは、まったく違う力に思えた。


◆ いつもの放課後へ


今放ったものも、確かに《ラブ・バースト》だった。

けれどそれは、最初の夜に放った時とは、まったく違う力に思えた。

保健室には、妖魔が消滅したあとの淡い光だけが残っていた。

細かな粒子がゆっくりと薄れ、白いカーテンや床へ触れる前に消えていく。

ラブは杖を下ろしながら、ベッドへ目を向けた。

少女は、まだ眠っている。

胸元を包む《アロマ・スリープヴェール》の光が、呼吸に合わせて静かに明滅していた。

「黒霧の反応は?」

鶴岡先生が尋ねる。

ラブはマジカル・ビジョンの表示を確かめた。

少女の胸元。

ベッドの周囲。

床。

カーテンの影。

先ほどまで黒く濁っていた反応は、どこにも見当たらない。

「ありません。コアの反応も、黒霧も消えています」

「私の方でも感じないよ」

アロマが答えた。

《アロマ・ピュリファイ》の光は、まだ少女の周囲へ薄く残っている。

アロマは最後まで気を抜かず、少女の呼吸に合わせて魔力を整えていた。

フローラも片手剣を構えたまま、ベッドの周囲を見回している。

「もう戻ってこない?」

「今のところ、反応はありません」

ネロリが穏やかに答えた。

「浄化も完了しています」

その言葉を聞いて、フローラはようやく剣先を下げた。

召喚されていた片手剣が、花びらのような淡い光へ変わり、空気の中へ消えていく。

「よかった……」

美咲の声に戻りかけたその言葉には、隠しきれない安堵がにじんでいた。

ラブも息を吐いた。

妖魔を倒した。

けれど、少女が無事だと確認できるまでは、戦いが終わったとは思えなかった。

鶴岡先生は少女の手首へ指を当て、脈を確かめる。

次に、胸元の動きを注意深く見る。

「呼吸は安定しているわ。脈も落ち着いています」

アロマの肩から、少しだけ力が抜けた。

「《アロマ・スリープヴェール》は、どうすればいいですか?」

「急に消さず、少しずつ弱めて」

鶴岡先生が答える。

「身体が自分の呼吸だけで安定していることを確認しながら解除しましょう」

「はい」

アロマは少女へ向けていた両手を、ゆっくりと胸元へ引き寄せた。

呼吸を一つ。

また一つ。

そのたびに、少女を包んでいた淡い光が少しずつ薄くなっていく。

光が弱まっても、少女の呼吸は乱れなかった。

胸元は規則正しく上下し、顔色にも少しずつ血の気が戻っている。

「大丈夫。そのまま」

鶴岡先生の言葉に導かれ、アロマは最後の光を静かに消した。

香りの余韻だけが、保健室の空気へかすかに残る。

《アロマ・スリープヴェール》がなくなっても、少女は穏やかに眠り続けていた。

「由香里」

ラブが声をかける。

アロマは少女から目を離さず、小さくうなずいた。

「うん。もう、魔法で眠っている状態じゃないと思う」

もともと、《アロマ・スリープヴェール》が少女を眠らせたわけではない。

黒霧によって失われた意識が戻るまで、安全な状態を保っていただけだ。

少女がいつ目を覚ますのかは、魔法で決めることではなかった。

「虚数空間も解除して大丈夫です」

アムルが告げる。

ラブは保健室の四隅を見た。

マジカル・ビジョンには、部屋の外周を囲む淡い境界線が表示されている。

その内側に残る黒霧反応はない。

ベッドの少女も安定している。

フローラとアロマ、鶴岡先生、三匹のパートナー猫も、すべて確認できた。

「解除するね」

ラブは杖を正面へ向けた。

「リターン・フィールド」

杖の先から、やわらかな光が広がる。

床と壁を囲っていた境界線が、ほどけるように消えていく。

保健室全体が、虚数方向へずれていた層から現実空間へ重なり直した。

見た目には、何も変わらない。

白いベッド。

閉じられたカーテン。

薬品棚。

机の上の書類。

けれど、ラブには、部屋が本来の位置へ静かに戻ったことがわかった。

「虚数空間の解除を確認しました」

アムルが言う。

ラブは杖を消し、二人を見る。

フローラとアロマもうなずいた。

三人は胸元へ手を添える。

「ピースフル・モーメント」

三人の声が重なった。

魔法戦士の衣装が、淡い光の粒子へほどけていく。

紺色のセーラーカラー。

胸元の大きなリボン。

短い戦闘用のスカート。

それらが光へ変わり、代わりにさくら女子の制服が形を取り戻す。

最後に、目元のマジカル・ビジョンが静かに消えた。

あいの視界には、いつもの眼鏡のフレームだけが残る。

変身を解除すると、それまで張りつめていた疲れが一気に身体へ戻ってきた。

腕が重い。

足元も少し頼りない。

それでも、ベッドの少女が穏やかに息をしているのを見ていると、座り込むほどではないと思えた。

「三人とも、少し休みなさい」

鶴岡先生が椅子を示した。

「特に田村さん。今日は魔法を使い続けているでしょう」

「はい……」

由香里は反論せず、ベッドの近くにある椅子へ腰を下ろした。

美咲もその隣へ座る。

あいも椅子へ腰を下ろしたが、少女から目を離せなかった。

アムルたち三匹は、白いカーテンの陰へ静かに下がっている。

廊下から足音が聞こえた。

部活動へ向かう生徒たちの声もする。

虚数空間を解除した保健室は、もう完全に、いつもの放課後の中へ戻っていた。

けれど、ベッドの周囲には、つい先ほどまで妖魔がいた。

その事実を知っているのは、ここにいる者だけだった。

しばらくして、少女の指先がわずかに動いた。

「あ……」

あいが立ち上がりかける。

鶴岡先生がすぐにベッドへ近づいた。

「聞こえますか?」

少女のまぶたが、小さく震える。

もう一度、ゆっくりと動く。

やがて、ほんの少しだけ目が開いた。

焦点の合わない視線が天井を見つめ、それから鶴岡先生の顔へ移る。

「……ここ……」

弱い声だった。

「保健室よ。ゆっくりで大丈夫だから、急に起き上がらないで」

鶴岡先生は少女の肩へ手を添えた。

「気分はどう? 息苦しくない?」

少女は自分の呼吸を確かめるように、ゆっくり息を吸った。

「少し……ぼんやりします。でも、苦しくはないです」

「胸の痛みや、頭痛は?」

「ありません……」

鶴岡先生は顔色と目の動きを確認し、もう一度脈を取った。

少女はまだ状況がわからないらしく、部屋の中へ視線を巡らせる。

その目が、あい、美咲、由香里のところで止まった。

「あの……」

少女は戸惑ったように眉を寄せた。

「私、どうしてここに……?」

鶴岡先生は落ち着いた声で尋ねた。

「最後に覚えていることは?」

少女はしばらく考えた。

「図書室にいました。本棚の下の方を見ていて……」

言葉がそこで止まる。

その先を探すように目を伏せるが、何も見つからないらしい。

「それからは……覚えていません」

あいは美咲と由香里を見た。

少女が覚えていないのは、黒霧に意識を奪われたあとのことだ。

《アロマ・スリープヴェール》が記憶を消したわけではない。

妖魔との戦いも、三人の変身も、少女が意識を失っている間に起きた。

だから、何も知らないのは当然だった。

「図書室で貧血を起こしたのよ」

鶴岡先生が説明した。

「この三人が保健室まで運んでくれたの」

少女は驚いた顔で、三人を見た。

「先輩たちが……?」

美咲がいつもの明るさを少し抑え、やさしく笑った。

「急に倒れたから、びっくりしたよ。でも、頭は打ってないから安心して」

「あの、呼吸もちゃんとありました」

あいも続けた。

敬語が少し固くなってしまったが、初対面の相手なのだから不自然ではない。

「今は顔色も戻ってきています」

由香里が穏やかに言う。

少女は三人の顔を順番に見たあと、枕の上で小さく頭を下げた。

「ありがとうございます。迷惑をかけてしまって……」

「迷惑じゃないよ」

美咲がすぐに答える。

「そうです。無事でよかったです」

あいも言った。

本当は、ただ保健室まで運んだだけではない。

身体の中に入り込んだ黒霧を引き離し、妖魔のコアを壊した。

けれど、そのことを話すわけにはいかなかった。

何も知らないまま、いつもの生活へ戻ってもらう。

それが、この少女を守ることでもある。

「少し水を飲めそう?」

鶴岡先生が尋ねる。

少女がうなずくと、先生は上半身をゆっくり起こし、水を少しずつ飲ませた。

その後も呼吸や顔色に変化がないことを確認し、ベッドの背もたれを上げる。

「あまり無理をしないで。今日は部活動や寄り道はせず、まっすぐ帰りなさい」

「はい」

「一人で帰れそう?」

少女は少し考えてから、ゆっくりうなずいた。

「大丈夫です」

鶴岡先生はすぐに立たせず、足元へ力が入るかを確認した。

ベッドの横に立ってもふらつかないことを見届けてから、帰宅の許可を出す。

あいはベッド脇の棚へ置いていた鞄を持ち上げた。

「これ、図書室に置いてあった鞄です」

「あ……ありがとうございます」

「落とした本もあります」

床へ落ちた本は、鞄の上に重ねて置いていた。

少女は本を受け取ると、表紙を確かめる。

「探していた本です……」

少しだけ安心したような表情を見せ、鞄の中へ大切そうにしまった。

本の題名は、あいには見えなかった。

少女が何を調べようとしていたのかも、黒霧がなぜ彼女のところへ集まったのかも、結局わからないままだった。

けれど今は、問いただすべきではない。

「本当に、ありがとうございました」

少女は鞄を持ち、もう一度三人へ頭を下げた。

「気をつけてね」

美咲が手を振る。

「途中で気分が悪くなったら、無理をしないで休んでください」

あいが言う。

「明日も調子が悪かったら、すぐ先生に相談してね」

由香里も声をかけた。

少女は三人へ微笑み、鶴岡先生にも礼を言って保健室を出ていった。

扉が閉まる。

廊下を歩く足音が、少しずつ遠ざかっていく。

部活動へ向かう生徒たちの声と重なり、やがて聞き分けられなくなった。

少女は、何も知らないまま帰っていった。

黒霧のことも。

妖魔のことも。

三人が魔法戦士であることも。

それでも、あいはそれでよいのだと思った。

少し前まで、妖護隊という言葉は、由香里のノートの余白に書かれた三文字にすぎなかった。

人払い。

救護。

記録管理。

秘密保持。

一般人を巻き込まず、何事もなかった日常へ戻すこと。

あいたちは妖護隊ではない。

けれど今日、自分たちがしたことも、その役割とどこか似ていた。

倒れた生徒を図書室から運び、身体の中に残った黒霧を取り除き、本当のことを隠したまま日常へ返した。

「私たちも、少しはできたのかな」

あいがつぶやく。

「何が?」

美咲が尋ねる。

「妖護隊の話。人を助けて、秘密を守って、いつもの生活へ戻すこと」

由香里は、閉じた保健室の扉を見つめた。

「そうね。私たちは妖護隊じゃないけど……守ろうとしているものは、同じなのかもしれない」

「でもさ」

美咲が少し笑う。

「勉強会は途中で終わっちゃったね」

机に広げたままの問題集やノートは、まだ図書室に残っている。

そのことを思い出し、あいも小さく笑った。

「数学の問題、まだ一問しか解けてなかったよね」

「そこは覚えてなくてもよくない?」

「美咲、それは覚えておかないと」

由香里の穏やかな指摘に、美咲は肩を落とした。

「やっぱり戻って勉強する?」

三人は顔を見合わせた。

疲れている。

特に由香里は、今日一日で何度も魔法を使っている。

あいも、精密な《ラブ・バースト》を放った緊張がまだ腕に残っていた。

「今日は、荷物だけ取りに戻ろう」

あいが言う。

「うん、それがいいと思う」

由香里が答える。

「賛成。数学は明日の私に任せる」

「明日の美咲ちゃんが困るだけだと思うけど……」

あいが言うと、美咲は楽しそうに笑った。

保健室の外には、いつもの放課後が続いている。

部活動の掛け声。

下校する生徒たちの足音。

遠くで閉まる教室の扉。

誰も、ここで妖魔との戦いがあったことを知らない。

誰にも知られないまま、一人の生徒の日常は守られた。

あいは美咲と由香里の隣に並び、保健室の扉へ手を伸ばした。

三人もまた、何事もなかったように、いつもの放課後へ戻っていった。



◆設定資料:政府機関

【内務省 (ないむしょう)】

国内行政、危機管理、災害対策、関係機関との連絡調整を担当する中央省庁。

警察、消防、自治体、交通機関などと連携し、通常の行政組織だけでは対応できない国内の特殊事案について、情報収集と対応調整を行う。

妖魔による被害は、通常の事件や事故として処理することが難しい。そのため、妖魔・黒霧事件の初動対応、現場封鎖、避難誘導、警察や消防との連絡、情報の秘匿などは、内務省を中心に進められる。

妖魔や魔法戦士に関する非公開組織《妖護隊》は、内務省の所管下に置かれている。

ただし、妖護隊の存在は一般には公表されておらず、政府内部でも、その全容を知る者はごく一部に限られる。


【大蔵省 (おおくらしょう)】

国家予算や財政、金融行政を担当する中央省庁。

妖護隊の活動には、人員、施設、装備、救護体制、妖魔・黒霧に関する調査研究など、さまざまな費用が必要となる。

妖護隊の運営費は、内閣の承認を受けた正式な機密予算から支出され、大蔵省がその査定、確保、管理を担当する。

国家機密に関わるため予算の詳しい用途は一般には公開されないが、違法な資金ではなく、政府の正式な手続きによって管理されている。

大蔵省は妖護隊の現場活動や魔法戦士へ直接命令する立場ではなく、財政面と限定的な監査によって組織を支えている。


【文部省 (もんぶしょう)】

学校教育や教育行政を担当する中央省庁。

魔法戦士として覚醒する者には学生も多いため、学業、安全教育、学校生活と訓練の両立には、学校側の協力が欠かせない。

文部省は、学生である魔法戦士が在籍する学校や、魔法戦士側の事情を知る教師・養護教諭などとの連絡調整を行う。

妖魔や黒霧が学校内で発生した場合には、生徒の避難、校内への立ち入り制限、授業や学校行事の変更などについて、内務省や妖護隊と連携することがある。

ただし、魔法戦士に関する情報を知る学校関係者はごく一部に限られ、一般の教師や生徒には、通常の体調不良、設備点検、安全確認などとして説明される。


【厚生省 (こうせいしょう)】

医療、衛生、公衆衛生を担当する中央省庁。

妖魔や黒霧は、外傷を残さなくても、人間に倦怠感、意識の混濁、呼吸の乱れ、精神的不安、体調不良などの影響を与えることがある。

厚生省は、妖魔や黒霧の影響を受けた者の診察、回復観察、精神的ケア、医療機関や学校の保健室との連携を担当する。

また、魔法戦士の負傷や魔力疲労、魔法使用による身体的・精神的負担についても、調査と支援を行っている。

妖魔や黒霧は、生物学的なウイルスであるとは確認されていない。

しかし、その影響が感染症や神経症状、精神的な不調に似て見えることがあるため、厚生省では、未知の病原体、環境性疾患、神経作用、量子的な魔力干渉など、複数の可能性から調査を続けている。

魔法戦士側の事情を知る医療・保健関係者との連携も、厚生省の重要な役割の一つである。


読んでいただき、ありがとうございます。

今回は、放課後の図書室で開かれた勉強会を通して、《妖護隊》という組織の存在が少しだけ明らかになる回でした。

魔法戦士という幻想的な存在の裏側には、政府の管轄、予算、学校や医療機関との連携など、彼女たちを現実的な仕組みで支える人々がいます。

あい、美咲、由香里にとっても、自分たちが決して三人だけで戦っているのではないと知る一方で、魔法戦士として背負う責任をあらためて考える時間になりました。

そして後半では、本棚の影に集まった黒霧によって、一人の生徒が倒れてしまいます。

三人が求められたのは、ただ妖魔を倒すことではありません。

生徒の身体を安定させ、黒霧だけを引き離し、誰も傷つけないよう慎重に力を使うこと。

今回の戦いでは、それぞれの魔法の強さだけでなく、三人の連携と制御力も描きました。

静かな図書室と、保健室で行われた救護と戦闘。

日常のすぐ隣に非日常が存在し、誰にも知られないまま一人の生徒の日常が守られたことを感じていただけたら嬉しいです。


感想や気になった場面、「この三人でこんな場面が見たい!」などがありましたら、お気軽にお寄せください。

次回も読んでいただけたら嬉しいです。


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