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美少女魔法戦士マジカルラブ  作者: 宮本あい
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日常の中の非日常

お読みいただきありがとうございます。


第二話では、初めての戦いを終えたあいが、家族の待つ日常へ戻りながらも、魔法戦士としての新しい現実と向き合っていきます。

安心できる家、いつもの食卓、自分の部屋。

その中に少しずつ非日常が入り込んでいく回です。

あいらしい戸惑いや小さな決意を見守っていただければ嬉しいです。


◆ ただいまの声


マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗っているあいは、しばらく階数表示だけを見つめていた。

数字がひとつずつ上がっていく。

いつもなら、何も考えずに眺めているだけの小さな光。けれど今夜は、その一つ一つが、遠くなってしまった日常へ戻るための合図のように見えた。

妖魔は消えた。

変身も解けた。

アムルも、今はいない。

そう自分に言い聞かせても、手のひらにはまだ杖を握っていた感覚が残っていた。細くて、軽くて、それなのに確かな重みのある魔法の杖。先端のハートが光った時の感触まで、指先が覚えている。

胸の奥にも、まだ熱があった。

ラブ・バーストを撃った瞬間、胸元のリボンから杖へ流れていった光。妖魔のコアを撃ち抜いた時の、まぶしいほどの輝き。

あれが本当に、自分の中から出た力なのだろうか。

考えるほど、現実感が薄れていく。

けれど、制服のスカートの布地が膝に触れる感覚は、確かにいつものものだった。白い半袖ブラウス。薄手の紺色ブレザー。胸元のピンク色のリボンタイ。緑と紺のチェック柄のスカート。

今のあいは、いつもの私立さくら女子高等学校の生徒に戻っている。

そのはずだった。

エレベーターが止まり、扉が開く。

あいは小さく息を吸ってから、廊下へ出た。

自宅の玄関までは、ほんの少し歩くだけだ。毎日通っているはずの廊下なのに、今日はやけに長く感じる。足音が静かな壁に反響するたび、自分がまだ少し震えていることに気づいた。

妖魔と戦った時の震えなのか。

アムルが部屋に来ると言っていたことへの不安なのか。

それとも、家族に何も言えないまま玄関を開けることへの後ろめたさなのか。

あいには、うまく分けられなかった。

玄関の前に立つ。

鍵を出そうとして、指先が少しもたついた。いつもならすぐに取り出せるはずなのに、鞄の中で鍵がなかなか見つからない。

「……落ち着いて」

自分にだけ聞こえる声で、あいはつぶやいた。

深呼吸をひとつ。

ようやく鍵を取り出し、玄関の扉を開ける。

中から、柔らかな明かりがこぼれた。

その瞬間、あいの胸の奥で張りつめていたものが、少しだけほどけた。

家の匂いがした。

廊下の空気。キッチンの方からかすかに漂う、温かい料理の匂い。いつもの玄関マット。きちんと並べられた家族の靴。

どれも、変わっていなかった。

さっきまでの夜道も、黒い影も、魔法の光も、まるでここには入ってこられないみたいに、玄関の内側は穏やかだった。

帰ってきた。

その実感が、遅れて体に落ちてくる。

同時に、どっと疲れが押し寄せた。

足が重い。肩も重い。鞄がいつもよりずっと重く感じる。痛みがあるわけではないのに、体の奥の方がじんわりと疲れていた。

あいは靴を脱ぎながら、玄関の壁に片手を添えた。

午後九時近い。

いつもより遅い帰宅だった。

心配されるかもしれない。どう説明すればいいのだろう。妖魔に襲われて、黒猫に助けられて、魔法戦士に変身しました。そんなこと、言えるはずがない。

言ってはいけない。

アムルはまだ詳しく説明してくれていないけれど、少なくとも、これは誰にでも話していいことではないのだと、あいにもわかっていた。

リビングの方から、かすかな物音が聞こえる。

食器の触れ合う音。

人のいる気配。

あいは胸元のリボンタイをそっと直した。制服に戻っている。髪も乱れすぎてはいないはず。眼鏡もいつもの位置にある。

大丈夫。

たぶん、普通に見える。

そう思おうとした。

けれど、喉の奥が少しだけ詰まっている。

あいはもう一度、小さく息を吸った。

そして、いつもの言葉を口にした。

「ただいま……」

声は、自分で思っていたよりも弱かった。

廊下の奥から、母の気配が動く。

あいは鞄を持ち直し、玄関から一歩、家の中へ入った。

いつもの家。

いつもの明かり。

けれど、胸の奥には、まだ消えきらない非日常の光が残っていた。


◆ いつもの食卓


「おかえりなさい、あいちゃん」

リビングの方から、母の郁子の声がした。

その声を聞いた瞬間、あいの胸の奥が少しだけ緩む。

いつもの声だった。明るくて、柔らかくて、家の中の空気を温かくする声。

「ただいま、お母さん」

あいはできるだけ普段通りに返事をして、リビングへ向かった。

ダイニングテーブルの上には、夕食の支度が整えられていた。味噌汁の湯気がまだ残っていて、皿には温め直されたおかずが並んでいる。食器の位置も、箸置きも、いつもと同じだった。

それだけで、泣きそうになるくらい安心してしまう。

妖魔も、魔法も、変身も、ラブ・バーストも。

この食卓の前では、どこか遠い出来事のように思えた。

「今日は遅かったわね。塾、長引いたの?」

郁子が味噌汁をよそいながら、何気ない口調で尋ねる。

あいの肩が、ほんの少しだけ強張った。

「えっ……あ、うん。塾のあと、少し友だちと話してて」

用意していたわけではない言葉が、口からこぼれた。

嘘ではない。

完全な嘘ではない。

塾には行っていたし、友だちと話すことだって普段ならある。けれど、今日遅くなった本当の理由は、そんな穏やかなものではなかった。

黒い影に襲われて、しゃべる黒猫に出会って、魔法戦士に変身した。

そんなこと、言えるはずがない。

「そっか。受験生だもんね。友だちと話す時間も、気分転換になるなら大事よ」

郁子は疑う様子もなく、あいの前に味噌汁を置いた。

「でも、遅くなる時は一言連絡してね。夜道は心配だから」

「……うん。ごめんなさい」

その優しい注意が、かえって胸に刺さった。

本当は、心配されるようなことがあった。

でも、話せない。

あいは椅子に座りながら、制服のスカートを膝の上でそっと整えた。いつもの丈、いつもの布地。なのに、少し前まで短い戦闘服で夜道に立っていたことを思い出して、頬が熱くなりそうになる。

その時、玄関の方で鍵の開く音がした。

「あ、お父さんかな」

郁子が顔を上げる。

ほどなくして、玄関から聞き慣れた声がした。

「ただいま」

「おかえりなさい」

「おかえり、お父さん」

あいが声をかけると、父の憲司がリビングに顔を出した。

仕事帰りのスーツ姿で、少し疲れた表情をしている。けれど、あいを見ると、いつものように柔らかく目元を緩めた。

「お、あい。今帰ったところか」

「うん。ちょっと前に」

「そうか。遅くまでお疲れさま。受験生は大変だな」

憲司はそう言いながら、鞄を置いてネクタイを緩めた。

父はITエンジニアで、帰りが遅くなることが多い。難しい仕事をしているのだろうと、あいは昔から思っていた。詳しいことはわからないけれど、家で仕事の愚痴を強く言うことはほとんどない。

疲れていても、家では穏やかでいてくれる。

そのことを、あいはずっと当たり前のように受け取っていた。

けれど今夜は、その当たり前が少しだけ胸にしみた。

「あなたも食べるでしょう? 温め直すわね」

「ありがとう。今日はちょうどよかったな。三人そろった」

憲司がそう言うと、郁子は嬉しそうに笑った。

「そうね。じゃあ、あいちゃんも一緒に食べましょう」

「うん」

あいは小さくうなずいた。

三人で食卓を囲むのは、珍しいことではない。けれど、父の帰りが遅い日は、母と二人で先に食べることも多かった。今日は、偶然にも三人がそろった。

いつもの食卓。

味噌汁の湯気。箸の音。テレビの小さな音。母が買い物先で見かけた安売りの話。父が仕事で使う機械の調子が悪かったという、あいには半分くらいしかわからない話。

「最近、天気が不安定よね。明日も夕方から降るかもしれないって」

「そうなの?」

「折りたたみ傘、鞄に入れておきなさいね」

「うん。そうする」

「学校の方はどうだ? 受験の雰囲気、だいぶ出てきたか?」

憲司が味噌汁を飲みながら尋ねた。

「うん。みんな、少しずつ真剣になってきた感じ。先生も、進路の話をよくするし」

「そうか。焦りすぎなくていいからな。あいはこつこつやるタイプだから」

父の言葉に、あいは箸を止めた。

こつこつやるタイプ。

それは、たぶん合っている。

派手なことは苦手だ。急に何かを任されると、すぐに不安になる。けれど、少しずつなら、考えながら進める。

今日の戦いも、そうだったのだろうか。

怖くて、恥ずかしくて、逃げたくて。

それでも、アムルの声を聞いて、ひとつずつやった。変身して、杖を出して、ラブ・ショットを撃って、コアを見つけて、ラブ・バーストを放った。

思い出した瞬間、胸の奥に小さな熱が戻る。

「あいちゃん?」

郁子の声に、あいははっとした。

「大丈夫? 疲れてる?」

「あ……うん。ちょっとだけ。今日は塾もあったから」

また、ごまかした。

言った瞬間、胸が痛む。

母も父も、何も疑っていない。

ただ、あいを心配してくれている。

それなのに、あいは本当のことを言えない。

「無理しすぎないでね。受験も大事だけど、体を壊したら意味ないんだから」

郁子が心配そうに言う。

「そうだぞ。疲れた日は早く寝るのも勉強のうちだ」

憲司も穏やかに続けた。

「……うん。ありがとう」

あいは小さく笑った。

うまく笑えているか、自信はなかった。

けれど、二人の前で不安そうな顔をしたくなかった。

この家の空気を壊したくない。

あいにとって、宮本家は特別に裕福な家ではない。けれど、温かい味噌汁があり、父の穏やかな声があり、母の笑顔がある。そこにいるだけで、心が少しずつ落ち着いていく。

だからこそ、胸の奥の秘密が重く感じられた。

妖魔のこと。

アムルのこと。

魔法戦士になってしまったこと。

全部、この食卓の下にそっと隠しているような気がした。

「そういえば、今日スーパーで桃が安かったの。あとで少し切ろうか」

「桃?」

あいが顔を上げると、郁子は少し得意げに笑った。

「うん。まだ少し早いけど、甘そうだったから」

「いいな。食べたい」

憲司が柔らかく笑う。

「じゃあ、食後に少しだけね」

その何気ない会話に、あいは胸の奥がまた温かくなった。

帰ってきた。

ここが、自分の帰る場所だ。

そう思うほど、今日の出来事が現実だったことも、強く感じてしまう。

あいは箸を持つ手に、少しだけ力を込めた。

今はまだ、何も話せない。

でも、心配をかけたくない。

だからせめて、いつも通りに食べよう。

「いただきます」

あいは小さく言って、温かい味噌汁を口に運んだ。

やさしい味が、疲れた体にゆっくり染みていく。

日常は、確かにここにあった。

けれどその奥で、あいだけが知っている非日常が、静かに息をひそめていた。


◆ 湯気の中で思い出すこと


夕食のあと、あいは母と一緒に食器を運んだ。

「今日は疲れてるでしょう? あとはやっておくから、お風呂に入ってきなさい」

郁子にそう言われ、あいは一度だけ遠慮しかけた。

「でも……」

「いいの。受験生は休める時に休むこと。ね?」

母の声は、いつもと同じように優しかった。

その優しさに、あいは少しだけ胸が痛くなる。

本当は、塾で疲れたわけではない。友だちと話して遅くなっただけでもない。

けれど、母には言えない。

あいは小さくうなずいた。

「……うん。ありがとう」

脱衣所に入ると、家の中の音が少し遠くなった。

リビングから聞こえる父と母の話し声。食器の触れ合う音。テレビの音。全部が、曇りガラスの向こうにあるように柔らかく聞こえる。

あいは制服を脱ぎ、丁寧に畳んだ。

白い半袖ブラウス。薄手の紺色ブレザー。緑と紺のチェック柄のスカート。いつもの制服なのに、今夜は少しだけ違って見えた。

さっきまで、これとはまったく違う服を着ていた。

胸元に大きなピンクのリボン。紺色のセーラー襟。動きやすいけれど、短すぎる戦闘服。

思い出した瞬間、あいの頬がかすかに熱くなった。

「……もう」

誰もいない脱衣所で、小さくつぶやく。

思い出したくないのに、思い出してしまう。

あの夜道。黒い影。アムルの声。変身の光。

そして、転んだ時のこと。

あいは首を横に振り、急いで浴室へ入った。

シャワーの音が、浴室に広がる。

温かいお湯を浴びると、体にまとわりついていた緊張が少しずつ流れていくような気がした。髪を濡らし、肩にお湯をかける。皮膚に目立つ傷はない。強く打ったはずの場所も、思ったほど痛まなかった。

きっと、セーフティ・ヴェールのおかげなのだろう。

あの時、胸元のリボンが光って、見えない空気のクッションのようなものが体を受け止めてくれた。もしあれがなかったら、今ごろもっと痛かったかもしれない。

そう考えると、あいは改めて背筋が冷えた。

怖かった。

本当に、怖かった。

シャワーを止め、湯船に足を入れる。

肩までお湯に浸かった瞬間、全身から力が抜けた。

「……はぁ」

思わず、深いため息がこぼれる。

湯気が白く立ちのぼり、浴室の天井へゆっくり溶けていく。温かいはずなのに、体の奥にはまだ重さが残っていた。痛みではない。疲れとも少し違う。胸の奥に光を通したあと、その場所だけが静かに熱を持っているような感覚だった。

ラブ・バースト。

あいは、その言葉を心の中でなぞった。

杖の先に光が集まり、一直線に伸びて、妖魔のコアを撃ち抜いた。赤い点が砕け、黒い影が光の粒子になって消えていった。

あれを、自分がやった。

信じられない。

けれど、手のひらにはまだ杖の感触が残っている。マジカル・ビジョン越しに見た赤い点も、目を閉じると浮かんでくる。

黒い影。

人のようで、人ではないもの。

地面を這う闇。

右側面からの不意打ち。

倒れた時の、ふわりとした衝撃。

短いスカートが揺れて、慌てて押さえた自分。

「……恥ずかしかったな」

ぽつりと声に出すと、湯気の中に消えた。

思い出すだけで、顔が熱くなる。

あの格好で戦うなんて、今でも信じられない。あんな短いスカートで、夜道に立って、杖を構えて、呪文を唱えた。

普段のあいなら、絶対にできなかった。

人前で目立つことも、大きな声を出すことも苦手なのに。

それでも。

あいは湯船の中で、膝を抱えるようにして小さくなった。

怖かった。

恥ずかしかった。

逃げたかった。

でも、逃げなかった。

その事実が、湯気の向こうからゆっくり浮かび上がってくる。

もちろん、最初から勇敢だったわけではない。アムルに言われなければ、何もできなかった。マジカル・ビジョンがなければ、コアの場所も見つけられなかった。ラブ・ショットも、ラブ・バーストも、自信があって使ったわけではない。

それでも、あいは最後までそこにいた。

杖を離さなかった。

赤い点を見失わなかった。

帰りたい場所を思い浮かべて、光を撃った。

「……私、逃げなかったんだ」

自分で言ってから、あいは少しだけ驚いた。

それは、誇らしいというより、まだ信じられないという感覚に近かった。

でも、たしかにそうだった。

妖魔が消えたあと、膝から力が抜けそうになった。家に帰りたいと、正直に思った。けれど、その家に帰るために、あいは一度だけ前を向いた。

湯船のお湯が、胸のあたりで静かに揺れる。

あいは、ゆっくり息を吐いた。

明日になれば、今日のことが全部夢だったと思えるだろうか。

そう考えて、すぐに首を横に振る。

アムルは言っていた。

今夜、部屋で会いましょう、と。

つまり、まだ終わっていない。

むしろ、始まったばかりなのかもしれない。

そのことを思うと、また胸の奥が重くなる。けれど、さっきまでのようにただ怖いだけではなかった。

わからないことは多い。

怖いことも多い。

恥ずかしいことだって、たぶんこれからもある。

でも、何もできないわけではなかった。

あいは湯気の向こうに視線を向けた。

浴室の曇った鏡には、ぼんやりとした自分の輪郭だけが映っている。いつもの自分。魔法戦士には見えない、普通の高校三年生の自分。

けれど、その胸の奥には、さっきまで光っていた何かがある。

あいは静かに目を閉じた。

「……ちゃんと、聞かなきゃ」

アムルが来たら、話を聞く。

怖くても、わからなくても。

今日、自分に何が起きたのか。

これから、どうなるのか。

何も知らないままでは、きっとまた動けなくなる。

湯船の温かさに包まれながら、あいはもう一度深く息を吸った。

日常は、まだここにある。

けれど、非日常も、もう消えてはいない。

その二つの間で揺れながら、あいはしばらく、白い湯気を見つめていた。


◆ ベッドの上のアムル


風呂から上がったあいは、洗面所の前で髪を乾かしていた。

ドライヤーの温かい風が、黒髪のツインテールをほどいた髪を揺らす。鏡の中の自分は、いつもの宮本あいだった。眼鏡を外して、少し眠たそうな顔をしている、ただの高校三年生。

魔法戦士には見えない。

そう思って、少しだけ安心する。

けれど、胸の奥にはまだ、あの光の感覚が残っていた。

ラブ・バーストを撃った時の熱。マジカル・ビジョン越しに見た赤いコア。アムルの声。

すべてが、湯気と一緒に消えてくれたわけではなかった。

髪を乾かし終えると、あいはパジャマに着替えた。淡い色の、着慣れた部屋着。制服よりも柔らかく、戦闘服とは比べものにならないくらい安心できる。

あいは脱いだ制服を整え、明日の準備を少しだけ確認した。

鞄。教科書。ノート。筆箱。

いつも通りのものが、そこにある。

けれど、明日も本当にいつも通りなのだろうか。

そんな疑問が浮かんで、あいは小さく首を振った。

「……考えすぎても、仕方ないよね」

まずは、勉強机に向かおう。

受験生なのだから、少しでも予習を進めなければ。今日の出来事がどれだけ信じられないものでも、明日の授業は普通に来る。宿題も消えてはくれない。

そう思いながら、自室の扉を開けた。

部屋の明かりは、消したままだった。

廊下から差し込む光が、机と本棚、ベッドの輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。あいは壁のスイッチに手を伸ばし、ぱちんと明かりをつけた。

そして、固まった。

ベッドの上に、黒猫が座っていた。

夜よりも深い黒い毛並み。

額に浮かぶ、淡いハート型の紋。

静かにこちらを見る、落ち着いた瞳。

あいの心臓が、跳ねた。

「ア、アムル……!?」

「こんばんは、あい」

アムルは、まるで約束の時間に訪ねてきた客人のように、落ち着いた声で言った。

あいは反射的に後ろを振り返った。

廊下には誰もいない。父と母はリビングにいるはずだ。今の声が聞こえなかったか、不安になって耳を澄ませる。

けれど、家の中は静かだった。

リビングからは、テレビの音と食器を片付ける小さな物音が聞こえるだけ。誰かがこちらへ来る気配はない。

あいは慌てて部屋に入り、扉をそっと閉めた。

「ど、どうしてここに……!?」

「言ったでしょう。今夜、あなたの部屋で会いましょう、と」

「言いましたけど……本当に来るとは思ってませんでした」

「来る必要があったの」

アムルはベッドの上で尻尾をゆっくり揺らした。

その様子があまりに落ち着いていて、あいの方が間違っているような気分になる。けれど、どう考えてもおかしいのはこの状況だった。

自分の部屋。

勉強机。参考書。読みかけの本。お気に入りのクッション。

そこに、しゃべる黒猫が当然のように座っている。

日常の中心に、非日常が入り込んでいた。

「あの、アムルさん」

「何?」

「どうやって入ったんですか。鍵も閉まってましたし、ここ、私の部屋ですし……」

「細かい仕組みを説明すると長くなるわ」

アムルは少しだけ目を細めた。

「今は、そういうことができると思っておいて」

「そういうことができる……」

あいは小さく繰り返した。

全然説明になっていない。

けれど、白い光の中から現れたり、マンションの一階でふっと姿を消したりしたアムルを見ている以上、否定することもできなかった。

「亜空間とか、異空間とか……そういう感じですか?」

「近いところはあるわ。でも、今夜はそこまで覚えなくていい」

「そうなんですか……」

「ええ。あなたは今日、覚えることが多すぎたもの」

その言い方は、少しだけ優しかった。

あいは肩の力を抜きかけて、すぐにまた慌てた。

「あっ、でも……お父さんやお母さんに見つかったら」

「心配いらないわ。普通の人間には、基本的に私の姿は見えない」

「見えない……?」

「今のところ、あなた以外にはね」

あいはアムルを見つめた。

ベッドの上の黒猫は、確かにそこにいる。声も聞こえるし、尻尾も揺れている。ベッドの布が、アムルの体重を受けてほんの少し沈んでいるようにも見える。

それなのに、家族には見えない。

その事実が、少し不思議で、少し寂しくもあった。

「じゃあ、私にだけ……?」

「少なくとも、今のこの家ではそう考えていいわ」

アムルはそう言って、ベッドから軽やかに降りた。

床に着地しても、ほとんど音はしない。黒い毛並みが部屋の明かりを受けて、やわらかく光った。

あいは勉強机の椅子を引き、ゆっくり座った。

向かい合うように、アムルが机の横に腰を下ろす。

不思議な光景だった。

さっきまで、あいはここで数学の問題を解くつもりだった。参考書を開いて、明日の予習をして、眠くなったら寝る。そんな普通の夜になるはずだった。

けれど今、机の横にはアムルがいる。

黒い影と戦った夜の続きが、この部屋まで来てしまった。

「……夢じゃ、ないんですね」

あいはぽつりと言った。

アムルは静かにうなずく。

「夢ではないわ」

「ですよね……」

わかっていた。

わかっていたけれど、もう一度だけ否定してほしかった気もする。

あいは膝の上で両手を重ねた。パジャマの布地を指先で軽く握る。

「私、今日のこと……まだ全然、整理できてません」

「当然よ」

アムルの声は落ち着いていた。

「初めて妖魔に遭遇して、初めて変身して、初めて魔法を使った。すぐに受け入れられる方が不自然だわ」

「でも……これからも、ああいうことがあるんですよね」

あいの声は少し小さくなった。

妖魔。

黒い影。

ラブ・ショット。

ラブ・バースト。

思い出すと、胸の奥が重くなる。

アムルはすぐには答えなかった。あいの不安が落ち着くのを待つように、静かに見上げている。

「今日は、その話をするために来たの」

やがて、アムルが言った。

「妖魔のこと。魔法戦士のこと。そして、あなた自身のこと」

あいは息を呑んだ。

第一話の夜道では、説明は後だと言われた。

そして今、その「後」が来てしまった。

逃げたい気持ちは、まだある。

聞かなければ、知らないままでいられるのではないか。そんな弱い考えも、ほんの一瞬だけ胸をよぎった。

けれど、湯船の中で思ったことを、あいは思い出した。

何も知らないままでは、また動けなくなる。

今日、逃げなかった自分を、無駄にしたくない。

あいは小さく深呼吸をした。

「……わかりました」

声はまだ少し頼りない。

それでも、あいはアムルから目をそらさなかった。

「聞きます。ちゃんと」

アムルは静かにうなずいた。

「いい返事ね、あい」

その声は、夜道で聞いた戦闘中の声とは少し違っていた。

厳しさよりも、安心させるような柔らかさがあった。

あいの部屋に、静かな時間が流れる。

机の上には参考書。ベッドの上には少し乱れた布団。壁には学校の予定表。

どれも、いつものもの。

けれど、その真ん中に、黒猫のアムルがいる。

日常の中に、非日常が座っている。

あいはそれを見つめながら、ゆっくり背筋を伸ばした。


◆ 魔法戦士としてのこれから


あいは、勉強机の椅子に座ったまま、膝の上で両手を重ねていた。

机の上には、いつも通り参考書とノートが置かれている。明日の予習をするつもりで開いたままの数学の問題集。シャープペンシル。付箋の貼られた単語帳。

どれも、つい数時間前までのあいにとっては当たり前のものだった。

けれど今、そのすぐ横にアムルがいる。

黒い毛並みの猫が、静かにあいを見上げている。

それだけで、この部屋の空気は、もういつものものではなくなっていた。

「まず、今日のことを整理しましょう」

アムルが言った。

その声は、夜道で妖魔と向き合っていた時よりも穏やかだった。けれど、ふざけている感じはない。大切なことを、あいが怖がらないように順番に伝えようとしている声だった。

あいは小さくうなずく。

「はい……」

「あなたが今日見た黒い影。あれは妖魔よ」

その名前を聞いた瞬間、あいの指先が少し強張った。

黒い影。

街灯の届かない細い道。人の形に近いのに、輪郭が定まらない黒いもや。右側から襲ってきた不意打ち。マジカル・ビジョンに映った赤い点。

思い出しただけで、胸の奥が冷える。

「妖魔は、一度きりのものではないわ」

アムルは静かに続けた。

「夜や暗がり、人の気持ちが沈みやすい場所に現れることがある。今日の妖魔は消滅したけれど、これから先、別の妖魔と遭遇する可能性はある」

「また……出るんですか」

あいの声は、自分でもわかるくらい小さかった。

「ええ」

アムルはごまかさなかった。

けれど、その言い方は冷たくなかった。

「でも、今すぐ何もかも背負いなさい、という意味ではないわ」

「……そうなんですか?」

「そうよ。あなたは今日、初めて妖魔と遭遇したばかり。初めて変身して、初めて杖を呼び出して、初めて魔法を使った。すぐに全部を理解できるはずがない」

あいは、膝の上の手を見つめた。

手のひらには、もう杖はない。

それなのに、まだ感触が残っている。握り方がわからなくて、指に力が入りすぎていたこと。杖の先のハート型の装飾が光ったこと。ラブ・ショットを撃った時の震え。

「でも、私……本当に戦えるんでしょうか」

言葉が自然にこぼれた。

「今日だって、アムルさんがいなかったら何もできませんでした。マジカル・ビジョンが出て、コアが見えたから何とかできただけで……私一人だったら、きっと」

「一人でできなかったのは当然よ」

アムルが言った。

あいは思わず顔を上げる。

「当然……?」

「ええ。魔法戦士は、最初から何でもできる存在ではないわ。変身も、杖の扱いも、マジカル・ビジョンの見方も、魔法の撃ち方も、少しずつ覚えていくものよ」

「少しずつ……」

「そう。今日できたことだけでも、十分すぎるくらい」

アムルは、あいの椅子の近くまで歩いてきた。

床に足音はほとんどしない。けれど、不思議と存在感はあった。

「あなたは怖がりながらも、逃げなかった。ラブ・ショットを撃って、妖魔の動きを見て、コアの位置を見つけた。そして、ラブ・バーストで撃ち抜いた」

「あれは……アムルさんが言ってくれたから」

「私が言っただけではできないわ」

アムルの声は、やわらかかった。

「見て、考えて、狙ったのはあなたよ。あい」

あいは返事ができなかった。

褒められているのだとわかる。

でも、素直に受け取るには、今日の出来事はまだ大きすぎた。

怖かったことばかりが先に浮かぶ。転んだこと。恥ずかしくて動揺したこと。足が震えていたこと。今でも、思い出すと胸が詰まる。

それでも、アムルの言葉を否定しきれない自分もいた。

たしかに、あいはコアを見つけた。

黒いもやの揺らぎを見て、位置のずれを考えた。真正面ではなく、少し右にずれていると気づいた。あの時だけは、怖さの中でも頭が動いていた。

「……私、まだ全然わかりません」

あいは正直に言った。

「魔法戦士って何なのかも、妖魔がどうして出るのかも、アムルさんがどうして私のところに来たのかも。変身とか、魔法とか、全部……わからないことばかりです」

「それでいいわ」

「いいんですか?」

「今夜、すべてを理解する必要はないもの」

アムルは、あいの足元に静かに座った。

「今日は、これだけ覚えておいて。妖魔はまた現れるかもしれない。あなたには、それに対抗する力がある。そして私は、あなたを一人にはしない」

その最後の言葉に、あいの胸が少しだけ揺れた。

一人にはしない。

夜道で聞いた時よりも、今の部屋で聞くその言葉の方が、ずっと深く届いた。

あいは小さく息を吸った。

「アムルさんは……私のパートナーなんですよね」

「ええ」

「先生みたいなもの、ですか?」

「そうね。先生でもあり、案内役でもあり、あなたを支える存在でもあるわ」

アムルは少しだけ尻尾を揺らした。

「ただし、全部を私に任せればいいというわけではない。私は教える。支える。でも、選んで動くのはあなた自身よ」

あいは、その言葉をゆっくり飲み込んだ。

少し怖い言葉だった。

でも、突き放された感じはしなかった。

アムルは、あいに無理やり戦わせようとしているわけではない。けれど、あい自身が何も考えなくていいとも言っていない。

それは、数学の問題に少し似ていた。

先生は解き方を教えてくれる。途中で助けてくれる。けれど、最後に式を書いて答えを出すのは自分だ。

魔法戦士も、きっとそれに近いのかもしれない。

「これから、何をすればいいんですか」

あいは尋ねた。

アムルは少し考えるように目を細めた。

「まずは、変身に慣れること。杖を呼び出す感覚を覚えること。マジカル・ビジョンの表示を落ち着いて見ること。そして、魔法を撃つ時に焦らないこと」

「たくさんありますね……」

「一度に全部はしないわ」

アムルはすぐに言った。

「明日から少しずつ。日常生活の中でもできる準備はある。学校に通いながら、普通の生活を守りながら、魔法戦士としての自分にも慣れていくの」

「普通の生活を守りながら……」

あいは、机の上の問題集を見た。

明日の授業。受験勉強。家族との食卓。図書室で読む本。友人との会話。

それらを全部捨てて、魔法戦士になるのではない。

むしろ、それを守るために、魔法戦士として学ぶ。

そう思うと、ほんの少しだけ息がしやすくなった。

「私、学校には普通に行っていいんですよね?」

「もちろん」

アムルはうなずいた。

「あなたは宮本あいとして、これまで通りに生活する必要がある。学校へ行き、勉強し、家族と過ごす。その日常を大切にしなさい」

「でも、妖魔が出たら……」

「その時は、その時に考えるわ。私もいる。マジカル・ビジョンも、杖も、あなたの力もある」

あいは胸元に手を当てた。

今はブローチもリボンもない。パジャマの柔らかい布の下に、ただ自分の鼓動があるだけだ。

けれど、あの光は確かにここから生まれた。

不思議だった。

怖いのに、少しだけ知りたいとも思っている。

自分の中にあるという力のこと。

マジカル・ビジョンに映ったものの意味。

妖魔のコアを見つけられた理由。

そして、アムルが自分を選んだ理由。

あいはまだ、それを受け止めきれていない。

でも、知らないままではいられないことも、もうわかっていた。

「……少しずつなら」

あいは、小さな声で言った。

「少しずつなら、頑張れるかもしれません」

アムルの目が、やわらかく細められた。

「それで十分よ」

「本当に?」

「ええ。今日のあなたには、それ以上を求めないわ」

その言葉に、あいはようやく肩の力を少し抜いた。

今夜、すべてを決めなくていい。

全部を理解しなくていい。

でも、何もなかったことにはできない。

だから、少しずつ知っていく。

少しずつ、慣れていく。

それなら、今のあいにもできるかもしれない。

部屋の外では、父と母の話し声がかすかに聞こえていた。日常の音。いつもの家の音。

その中で、あいは黒猫のアムルと向き合っている。

日常と非日常が、同じ部屋の中に並んでいた。

アムルは静かに言った。

「これから少しずつ学んでいけばいいわ、あい」

あいはゆっくりとうなずいた。

「……はい」

返事はまだ小さかった。

けれど、夜道で震えていた時よりは、少しだけ前を向けている気がした。


◆ 短いスカートの理由


「それから、もうひとつ」

アムルが静かに言った。

あいは、膝の上で重ねていた手に少しだけ力を入れた。

妖魔のこと。魔法戦士のこと。これから少しずつ学んでいけばいいこと。

そこまでは、何とか受け止められそうな気がしていた。

けれど、アムルの声には、まだ何か大事な話が残っているような響きがあった。

「今日の戦いで、あなたが一番動揺していたことについて話しておきたいの」

「一番……?」

あいは首をかしげかけて、すぐに思い当たった。

黒い影。

ラブ・ショット。

コア。

ラブ・バースト。

怖いことは、たくさんあった。

けれど、アムルが言っているのは、たぶんそれではない。

あいの頬が、じわりと熱くなる。

「も、もしかして……戦闘服のこと、ですか」

「ええ」

アムルはあっさりうなずいた。

「あなた、変身した直後から、ずっとスカートの短さを気にしていたでしょう」

「そ、それは……気にします……!」

あいは思わず声を上げかけ、慌てて口を押さえた。

父と母に聞こえたら困る。

部屋の外に意識を向ける。リビングの方からは、まだテレビの音が小さく聞こえていた。誰かがこちらへ来る気配はない。

あいは声を落として続けた。

「だって、あれは短すぎます。制服と全然違うし、戦うどころじゃなくて……」

「ええ。だから、そこを放っておくと危ないの」

「危ない……?」

「恥ずかしさで動きが止まると、妖魔の攻撃を避けられない。今日も、警告は見えていたのに反応が遅れたでしょう」

アムルの言葉に、あいは返せなかった。

マジカル・ビジョンに表示された《警告:敵性反応、右側面》。

アムルの「避けて」という声。

それでも、体がすぐには動かなかった。

理由はひとつではない。

怖かった。

杖の扱いもわからなかった。

そして、戦闘服の短さが気になって、意識が散っていた。

あいは小さくうつむいた。

「……はい」

「責めているわけではないわ」

アムルの声が、少し柔らかくなる。

「初めてなら当然よ。あなたは普段、きちんと制服を着る子だもの。急に変身後の衣装になれば、戸惑って当たり前」

その言葉に、あいは少しだけ救われた気がした。

アムルは、からかっているわけではない。

あいが恥ずかしがったことを、悪いことだと言っているわけでもない。

「でも、戦闘中にその戸惑いが大きすぎると、判断が遅れる。だから、少しずつ慣れていく必要があるの」

「慣れる……」

あいは不安そうに繰り返した。

慣れる、という言葉が、妙に重く聞こえた。

アムルは続ける。

「魔法戦士の戦闘服は、動きやすさと魔力の流れを優先して形成されるわ。腕や脚を動かしやすくして、跳んだり、避けたり、杖を構えたりしやすいようにね」

「動きやすさ……」

「ええ。それに、魔力の循環も関係している」

あいは顔を上げた。

「魔力の循環、ですか?」

「あなたの体の中だけで魔力が完結しているわけではないの。空気中には、魔力の素になる小さな流れのようなものが存在しているわ」

アムルは、言葉を選ぶように少し間を置いた。

「今は、そういうものがあるとだけ思っておいて。詳しい仕組みは、また別の機会に説明するわ」

「魔力の素……」

あいは小さくつぶやいた。

知らない言葉だった。

けれど、ラブ・バーストを撃った時、胸の奥から杖へ光が流れていく感覚があった。あの光が、自分の中だけではなく、周囲の何かとも関係しているのだとしたら。

少しだけ、理解できる気もした。

「戦闘服は、その魔力の流れを取り込みやすく、巡らせやすくする形になる。だから、布で全身を重く覆うより、軽く、動きやすい形になりやすいの」

「それで、短めのスカートに……」

「そう。絶対にこの長さでなければならない、という話ではないわ。ただ、マジカル・ラブの戦闘服は、あなたの魔力の性質と戦い方に合わせて、あの形で現れた」

あいは、今日の変身を思い出した。

胸の前に集まった光。

ピンクの大きなリボン。

紺色のセーラー襟。

腹部の露出した動きやすいトップス。

そして、チアリーダーのように軽く揺れた短い濃紺のスカート。

思い出しただけで、また顔が熱くなる。

「でも……あの長さに慣れるなんて、私には……」

「いきなり完璧に慣れなくていいわ」

アムルはすぐに言った。

「ただ、普段から少し短めの丈で歩いたり、階段を上り下りしたり、風に慌てないようにしたり。そういう小さな経験を重ねておくと、変身後に動揺しにくくなる」

「普段から……」

あいの声が、少し裏返った。

嫌な予感がした。

アムルは、落ち着いたまま告げる。

「目安としては、膝上十五センチくらい」

「ひ、膝上十五センチ……!?」

あいは椅子の上で固まった。

声を抑えたつもりだったのに、思ったより大きくなってしまい、慌てて口を押さえる。

膝上十五センチ。

頭の中で、自分の制服姿を想像してみる。

いつものスカート丈より、かなり短い。学校には短めのスカートの子もいる。美咲などは、いつもそれくらいの丈で軽やかに歩いている。

けれど、それを自分がするとなると、話は別だった。

「む、無理です……! そんなの、絶対みんなに見られます」

「見られる、というより、気づかれるでしょうね」

「気づかれるのも困ります……!」

「あいは目立つのが苦手だものね」

アムルの声は、やはりからかうものではなかった。

けれど、あいは机の上に視線を落とし、両手をぎゅっと握った。

「学校でそんな丈にしたら、美咲ちゃんに絶対何か言われます……」

「美咲さんは、いつも短めのスカートなのでしょう?」

「うん……。美咲ちゃんは明るいし、運動神経もいいから、普通に似合ってるんです。歩き方も自然だし、階段でも慌てたりしないし……」

言いながら、あいは美咲の姿を思い浮かべた。

美咲は、いつも軽やかだった。

短めのスカートでも、変に気にした様子はない。廊下を歩く時も、階段を上る時も、友人に声をかける時も、自然体で、明るくて、堂々としている。

あいとは、まるで違う。

「つまり、学校でそのくらいの丈が特別に珍しいわけではないのね」

「それは……そうですけど」

「なら、大丈夫。少なくとも、不自然ではないわ」

「でも、私がやると不自然です……」

「最初はそう感じるかもしれない。でも、周りが思うほど、本人以外は気にしていないものよ」

「そうでしょうか……」

「美咲さんのように普段から慣れている人が近くにいるなら、参考にもなるわ。歩き方や、動き方、気にしすぎない姿勢。そういうものを見て学べる」

「見て学ぶ……」

あいは小さく繰り返した。

美咲を参考にする。

そう言われると、少しだけ想像しやすかった。

美咲のように明るく振る舞えるとは思えない。

同じように堂々と歩けるとも思えない。

けれど、どう動けば自然に見えるのか。どうすれば必要以上に慌てずに済むのか。そういうことなら、少しは観察できるかもしれない。

「魔法戦士として大切なのは、派手になることではないわ。自分の動揺を少しずつ減らして、必要な時に動けるようにすること。膝上十五センチは、あくまで推奨の目安よ」

「義務では……ないんですよね?」

「義務ではないわ」

あいは少しだけほっとした。

しかし、アムルはそのまま続ける。

「ただ、今日の戦いを見る限り、あなたにはかなり必要な訓練だと思う」

「……ですよね」

否定できなかった。

恥ずかしさに意識を持っていかれて、警告への反応が遅れた。転んだあとも、スカートばかり気にしていた。もしセーフティ・ヴェールがなければ、もっと危なかったかもしれない。

戦うのは怖い。

でも、怖いからこそ、動けなくなるのはもっと危ない。

あいは膝の上に置いた手を見つめた。

「短い方が、魔力も回復しやすいんですか?」

「少しね」

アムルはうなずいた。

「戦闘服ほど強い効果はないけれど、普段から魔力の流れを妨げにくい状態に慣れておくと、回復や循環の感覚をつかみやすくなる。特にあなたのように、感覚より理屈で理解するタイプには、日常の中で意識する訓練が向いているわ」

「日常の中で……」

「ええ。魔法戦士の訓練は、変身して戦う時だけではないの。歩き方、姿勢、呼吸、心の落ち着け方。そういうものも、少しずつ魔力に関係してくる」

あいは黙り込んだ。

話が、思っていたより真面目だった。

短いスカートの話なんて、恥ずかしくて逃げ出したくなるだけだと思っていた。けれど、アムルはそれを戦闘中の集中や、魔力の流れや、日常の訓練として説明している。

笑い話ではない。

ただ恥ずかしいだけの話でもない。

必要なことなのだと、少しずつわかってしまう。

それが、余計に困った。

「明日から、いきなり……ですか」

「無理にとは言わないわ。でも、試すなら早い方がいい。今日の感覚を忘れないうちに」

「忘れたいです……」

「その気持ちもわかるわ」

アムルは優しく言った。

「でも、忘れるだけでは次に備えられない。怖かったことも、恥ずかしかったことも、少しずつ扱えるようにしていきましょう」

あいは、深く息を吐いた。

膝上十五センチ。

頭の中でその言葉がぐるぐる回る。

明日、制服のスカートをそんなに短くして学校へ行く自分。

廊下を歩く自分。

階段で慌てる自分。

美咲に何か言われて、顔を真っ赤にする自分。

想像するだけで、逃げ出したくなる。

けれど同時に、今日の夜道も思い出した。

動けなかった自分。

転んだ自分。

それでも立ち上がった自分。

あいはゆっくり顔を上げた。

「……考えてみます」

それが、今のあいに言える精一杯だった。

アムルは満足そうにうなずいた。

「それでいいわ」

「でも、本当に明日できるかは、まだわかりません」

「ええ。決めるのはあなたよ、あい」

その言葉に、あいは少しだけ驚いた。

強制されると思っていた。

魔法戦士なのだから、やりなさいと言われるのかと思っていた。

けれど、アムルはそう言わなかった。

推奨はする。必要性も説明する。

でも、最後に決めるのはあいだと言う。

それが、少しだけ安心できた。

あいは椅子の背にもたれ、小さく息を吐いた。

明日のことを考えると、やっぱり不安でいっぱいになる。

けれど、今日より少しだけ、自分の中で何が必要なのかは見えた気がした。

戦闘服が短い理由。

恥ずかしさに慣れる意味。

魔力の流れ。

そして、日常の中でできる訓練。

あいは机の上の制服リボンを見つめた。

日常は、これまでと同じようで、少しずつ変わり始めている。

その変化の最初の一歩が、まさかスカート丈になるなんて。

あいはもう一度、頬が熱くなるのを感じながら、小さくつぶやいた。

「……膝上十五センチ、かぁ」


◆ 日常にまぎれる準備


「でも……」

あいは、机の上に視線を落としたまま言った。

「学校でそんなに短くしたら、やっぱり目立つと思います」

膝上十五センチ。

その数字は、さっきから頭の中をぐるぐる回っていた。

美咲のように、普段から短めのスカートで自然に歩ける子ならいい。明るくて、運動神経がよくて、何をしても軽やかに見える美咲なら、きっと周りもそれを当たり前のように受け止めている。

でも、あいは違う。

いつも制服をきちんと着て、できるだけ目立たないように過ごしてきた。スカートも標準丈に近い。廊下で友人に呼ばれても、大きく手を振るより、少し笑ってうなずく方が落ち着く。

そんな自分が、急に短めのスカートで登校する。

想像するだけで、顔が熱くなった。

「さくら女子は、進学校なのでしょう?」

アムルが言った。

「うん……。大学進学を目指す子が多いし、みんな真面目だと思います」

「でも、スカート丈にはある程度の自由がある」

「それは……あります」

あいは小さくうなずいた。

私立さくら女子高等学校は、落ち着いた校風の女子校だ。授業も進路指導もきちんとしているし、校内の雰囲気も穏やかで、騒がしすぎる生徒はあまりいない。

けれど、身だしなみが極端に厳しいわけではなかった。

制服を上品に着こなしている生徒が多い一方で、スカート丈には個人差がある。標準丈の子もいれば、少し短めの子もいる。中には、美咲のように膝上十五センチくらいの丈で、明るく堂々と歩いている子もいた。

先生たちも、必要なら軽く声をかける程度だ。

乱れている、というより、それぞれの雰囲気に合わせて着こなしている。

さくら女子には、そんな空気があった。

「つまり、あなたが短めにしても、学校全体の中では特別に浮くわけではない」

「でも、私としては浮きます……」

「あなた自身がそう感じるだけかもしれないわ」

アムルは静かに言った。

「周りの人は、案外、あなたが思うほど細かく見ていないものよ」

「そうでしょうか……」

「もちろん、美咲さんのような親しい友人なら気づくかもしれない。でも、それは悪いことではないわ。日常の中で、少しずつ慣れていくためには、近くに自然に振る舞っている人がいる方がいい」

あいは、美咲の姿を思い浮かべた。

廊下を軽やかに歩く美咲。

短めのスカートでも、変に気にしたりしない。階段でも、風が吹いた時でも、慌てすぎずに自然に振る舞っている。

あいには到底できそうにない。

けれど、アムルの言う通り、見て学ぶことはできるかもしれなかった。

「魔法戦士として大切なのは、変身した時だけ別人のように振る舞うことではないわ」

アムルは続けた。

「普段のあなたと、変身後のあなた。その差があまりにも大きいと、いざという時に心が追いつかない。今日のように、衣装の変化だけで意識が乱れてしまう」

あいは、何も言えなかった。

その通りだった。

変身した瞬間、あいは戦闘どころではなくなった。胸元のリボン。短いスカート。夜風の感触。恥ずかしさで、頭がいっぱいになった。

妖魔が目の前にいるのに、衣装のことが気になってしまった。

それが、怖かった。

「だから、日常の中で少しずつ近づけておくの」

「近づける……?」

「ええ。姿そのものを完全に同じにする必要はないわ。ただ、短めの丈で歩くこと、座ること、階段を使うこと、風に慌てないこと。そういう小さな経験を積んでおくと、変身後にも落ち着きやすくなる」

あいは、自分の膝の上に置いた手を見つめた。

それは、ただの制服の話ではなかった。

日常の中で、魔法戦士としての自分に少しずつ慣れていく。

普通の学校生活を送りながら、いざという時に動けるよう準備しておく。

考えれば考えるほど、真面目な話だった。

だからこそ、逃げにくい。

「さくら女子に短めのスカートの子が多いのも、偶然だけではないのかもしれないわね」

アムルが、少しだけ意味ありげに言った。

あいは顔を上げた。

「え……?」

「今は、そういう空気の学校だと思っておけばいいわ。進学校としての落ち着きがありながら、身だしなみにはある程度の自由がある。あなたが少し変わっても、受け止めてくれる余地がある場所よ」

「……そう、なのかな」

「少なくとも、あなたが思っているほど、危険な一歩ではないわ」

アムルの言葉に、あいは少しだけ黙った。

危険な一歩。

たしかに、今のあいにとっては大ごとだった。

けれど、学校全体で見れば、短めのスカートの生徒は珍しくない。先生からも、たぶん強く叱られることはない。気をつけなさい、と軽く言われるくらいかもしれない。

それでも、自分がするとなると、やっぱり怖い。

怖いけれど、妖魔の前で動けなくなる怖さも、あいは知ってしまった。

「もし、先生に注意されたら……」

「素直に返事をすればいいわ。あなたらしくね」

「あなたらしく……」

「無理に堂々とする必要はない。背筋を伸ばして、落ち着いて歩く。それだけでも十分よ」

あいは小さく息を吐いた。

堂々としなくていい。

その言葉は、少しだけありがたかった。

美咲のようにならなければいけないのだと思うと、絶対に無理だと感じる。けれど、あいはあいのままで、少しだけ慣れればいい。

それなら、ほんの少しだけ考えられる。

「……でも、明日、急に短くしたら、やっぱり美咲ちゃんには気づかれますよね」

「気づくでしょうね」

「ですよね……」

「でも、悪く受け取る子ではないのでしょう?」

あいは、美咲の笑顔を思い浮かべた。

明るくて、距離が近くて、時々少し勢いが強いけれど、悪意はない。あいが困っていると、すぐに気づいて声をかけてくれる。

「うん。美咲ちゃんは、優しいです」

「なら、その反応も含めて練習になるわ」

「練習……」

「日常の中で慌てない練習。見られた時、声をかけられた時、恥ずかしくても固まらずに返事をする練習よ」

あいは、思わず肩を落とした。

「それ、すごく難しいです……」

「だから、練習なの」

アムルは穏やかに言った。

あいは何も言い返せなかった。

難しい。

恥ずかしい。

できれば避けたい。

でも、必要なことなのかもしれない。

魔法戦士としての訓練が、必ずしも変身して魔法を撃つことだけではない。アムルはそう言っていた。歩き方、姿勢、呼吸、心の落ち着け方。日常の中でできる準備がある。

あいはようやく、その意味を少しだけ理解し始めていた。

「膝上十五センチは、あくまで目安よ」

アムルが念を押すように言った。

「でも、変身後の戦闘服に近い感覚をつかむには、そのくらい短い方がわかりやすい。無理に明るく振る舞う必要はない。ただ、慌てずに過ごすことを意識して」

「慌てずに……」

「ええ。あなたなら、少しずつできるわ」

あいは、机の端に置いてある明日の時間割を見た。

明日も学校がある。授業があって、休み時間があって、美咲と話して、先生に指名されるかもしれない。いつもの一日が来る。

でも、そのいつもの一日の中に、魔法戦士としての準備が混じる。

日常が、少しだけ違う意味を持ち始めている。

あいは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。

「……明日の朝、考えてみます」

「ええ。それでいいわ」

「今はまだ、決められません」

「決めるのは、あなた。私は必要な理由を伝えるだけ」

アムルの声は静かだった。

その静けさに、あいは少しだけ安心する。

強制ではない。

でも、必要性はある。

だから、自分で考えなければならない。

それは怖いけれど、完全に命令されるよりは、ずっとあいに合っている気がした。

あいは膝の上の手をそっと開いた。

今日の夜道で握りしめていた杖は、もうない。

けれど、何かを選ばなければならない感覚だけは、手のひらに残っていた。

「……日常の中で、準備する」

あいは小さくつぶやいた。

その言葉は、不思議と今の自分に近かった。

まだ魔法戦士として胸を張れるわけではない。

でも、明日の制服のスカート丈をどうするかでさえ、あいにとっては小さな戦いだった。

アムルは何も急かさなかった。

ただ、そばに座って、あいが自分で考える時間をくれた。

部屋の外では、いつもの家の音がしている。

その中で、あいは少しだけ、明日の自分を想像した。


◆ あいの小さな決意


「が、学校で……膝上十五センチ……?」

あいは、もう一度その言葉を口にした。

声に出した途端、現実味が増してしまう。

膝上十五センチ。

それは、あいにとってはかなり短い丈だった。学校には短めのスカートの生徒もいる。美咲のように、いつも自然に着こなしている子もいる。

けれど、それはその子たちだからできることだ。

あいは、いつも標準丈に近いスカートを選んでいた。制服はきちんと着たい。目立ちたくない。先生に声をかけられるのも、友人に何か言われるのも、できれば避けたい。

そんな自分が、明日いきなり膝上十五センチのスカートで学校へ行く。

想像しただけで、顔が熱くなった。

「む、無理です……やっぱり無理です。そんなの、廊下を歩くだけで緊張します」

「緊張するでしょうね」

アムルは静かに言った。

「でも、無理に堂々としなくていいわ」

「堂々としなくて……いいんですか?」

「ええ。最初から美咲さんのように自然に振る舞おうとしなくていい。あなたはあなたのままでいいの」

その言葉に、あいは少しだけ顔を上げた。

アムルは机の横に座ったまま、落ち着いた瞳であいを見ている。

「まずは、慌てずに歩けるようになること。階段で必要以上に固まらないこと。風が吹いても、すぐに頭が真っ白にならないこと。そのくらいからでいいわ」

「そのくらい……」

あいは小さく繰り返した。

それでも十分難しいと思った。

けれど、アムルの言い方は、あいにすぐ完璧を求めるものではなかった。美咲のように明るく振る舞えと言っているわけでもない。急に別人になれと言っているわけでもない。

ただ、慌てないこと。

それだけなら、ほんの少しだけ考えられる気がした。

あいは膝の上で手を握った。

すると、ふいに夜道の記憶が戻ってきた。

マジカル・ビジョンに浮かんだ警告。

右側面から迫る黒いもや。

アムルの「避けて」という声。

それなのに、体がすぐに動かなかった。

怖かったから。

杖の扱いがわからなかったから。

そして、短い戦闘服が気になって、意識が散っていたから。

次も同じことが起きたら。

次も、恥ずかしさで一瞬でも動きが止まったら。

その時、セーフティ・ヴェールが必ず守ってくれるとは限らない。アムルがすぐそばで指示を出してくれるとも限らない。

あいは、無意識に胸元へ手を当てた。

今はパジャマだから、そこに大きなリボンもブローチもない。けれど、さっきの戦いで胸元のリボンが光った感覚は、まだ覚えている。

「……さっきみたいに」

あいは小さく言った。

「動けなくなるのは、危ないんですよね」

「そうね」

アムルはうなずいた。

「恥ずかしさは悪いものではないわ。でも、妖魔の前で体が止まってしまうと危険になる」

「……はい」

あいは目を伏せた。

恥ずかしい。

本当に恥ずかしい。

考えただけで、明日の朝になってほしくないと思うくらいには、恥ずかしい。

それでも、今日の夜道の方がもっと怖かった。

何もできずに立ちすくむこと。

警告が見えているのに、体が動かないこと。

アムルの声が聞こえているのに、間に合わないこと。

それは、もう嫌だった。

「私……目立つのは苦手です」

あいは、少しずつ言葉を探しながら話した。

「美咲ちゃんみたいに、自然にできる自信もありません。きっと顔も赤くなるし、歩き方も変になると思います」

「ええ」

「でも……必要なら」

あいはそこで一度、唇を結んだ。

必要なら。

その言葉を口にするだけで、胸がきゅっと縮む。

けれど、言わなければ前へ進めない気がした。

「必要なら、少しだけ……頑張ってみます」

言い終えた瞬間、あいは自分で驚いた。

本当に言ってしまった。

膝上十五センチのミニスカートを、頑張ると。

明日の自分が聞いたら、逃げ出すかもしれない。いや、今の自分も十分逃げたい。けれど、言葉にしたことで、胸の奥に小さな芯のようなものが生まれた。

アムルは、満足そうに目を細めた。

「いい決意ね」

「決意っていうほど、立派なものじゃないです……」

「それでいいの。大きな覚悟より、小さな一歩の方が、今のあなたには大切よ」

「小さな一歩……」

あいは、自分の膝を見下ろした。

明日、その膝よりずっと上でスカートの裾が揺れるのだろうか。

廊下を歩いて、階段を上って、教室に入って、美咲に会って。

想像すると、やっぱり恥ずかしい。

けれど、さっきより少しだけ、ただ怖いだけではなくなっていた。

これは、魔法戦士としての準備。

変身後に動揺しないための練習。

日常の中で、ほんの少しだけ非日常に慣れていくための一歩。

そう考えれば、完全に無意味な恥ずかしさではないと思えた。

「でも、本当に明日の朝になったら、やっぱり無理ってなるかもしれません」

「それでも構わないわ」

アムルはすぐに答えた。

「一度考えて、自分で決めようとした。それだけでも前進よ」

「そうなんですか?」

「そうよ。あなたは今、逃げずに考えている」

逃げずに。

その言葉に、あいは湯船の中で思ったことを思い出した。

怖かった。

恥ずかしかった。

でも、逃げなかった。

今も同じなのかもしれない。

妖魔はいない。杖もない。マジカル・ビジョンも展開していない。けれど、明日の自分を想像して逃げたくなっている。

それでも、今、あいは考えている。

どうすれば少しだけ前へ進めるのかを。

「……アムルさん」

「何?」

「もし、明日……本当に短くして学校へ行けたら」

あいは言いながら、また頬が熱くなるのを感じた。

「その時は、少しだけ褒めてください」

言ってから、恥ずかしくなって視線を落とす。

けれど、アムルはからかわなかった。

「もちろん。たくさん褒めるわ」

「たくさんは恥ずかしいです……」

「では、少しだけにしておくわ」

アムルの声が、ほんの少しだけ笑っているように聞こえた。

あいも、つられて小さく笑った。

まだ不安は消えない。

明日の朝、制服のスカートを手にした時、きっとまた迷う。鏡の前で何度も確認して、やっぱり無理だと思うかもしれない。

でも、今夜のあいは、少なくとも決めた。

必要なら、少しだけ頑張ってみる。

膝上十五センチのミニスカート。

それは、あいにとっては小さくない挑戦だった。

けれど、魔法戦士としての最初の訓練が、派手な魔法でも、厳しい戦闘でもなく、日常の制服から始まるのだと思うと、不思議と少しだけ現実味があった。

あいは深く息を吸って、ゆっくり吐いた。

「……明日の朝、もう一度考えます」

「ええ」

「でも、今は……がんばる方向で」

「それで十分よ、あい」

アムルの声は、穏やかだった。

あいは小さくうなずいた。

胸の奥の不安は、まだそこにある。

けれど、その隣に、ほんの小さな決意も生まれていた。


◆ 眠りにつく前に


あいが小さく決意を口にしたあと、部屋にはしばらく静かな時間が流れた。

机の上には、開きかけの問題集がある。

明日の予習をするつもりだったページには、まだ一問も手がつけられていない。

普段のあいなら、それだけで少し落ち着かなくなるところだった。

けれど今夜は、問題集を開いても、きっと文字が頭に入らない。

妖魔。

変身。

アムル。

マジカル・ビジョン。

ラブ・ショット。

ラブ・バースト。

そして、膝上十五センチのスカート。

考えることが多すぎて、いつもの勉強机が、少しだけ知らない場所のように見えた。

「今日はもう休みましょう」

アムルが言った。

あいは顔を上げる。

「でも、明日の予習が……」

「今の状態で無理に机に向かっても、身につかないわ」

「それは……そうかもしれません」

あいは小さく認めた。

問題集の文字を見ても、たぶん何度も同じ行を読み返すだけになる。

それくらい、頭の中はまだ落ち着いていなかった。

アムルは、ベッドの方へ視線を向ける。

「今日はもう休みましょう。明日から、少しずつ学んでいけばいいわ」

その声は、夜道で聞いた戦闘中の声とは違っていた。

急がせるのではなく、背中にそっと手を添えるような声だった。

あいはゆっくりとうなずいた。

「……はい」

机の上の問題集を閉じる。

ぱたん、という小さな音が部屋に響いた。

それだけで、今日が本当に終わりに近づいているような気がした。

あいは椅子から立ち上がり、ベッドへ向かった。

布団を少しめくると、いつもの柔らかな感触が手に触れる。

この布団の中に入れば、少しは眠れるかもしれない。そう思った瞬間、体の奥にたまっていた疲れが、また重くのしかかってきた。

今日は、長い一日だった。

学校へ行って、塾に行って、家へ帰るだけのはずだった。

それなのに、夜道で黒い影に遭遇し、アムルと出会い、魔法戦士になった。

杖を呼び出した。

魔法を撃った。

妖魔のコアを見つけた。

ラブ・バーストで、黒い影を消した。

家に帰ってからも、家族には本当のことを言えなかった。

父と母の優しさに安心しながら、その優しさの前で嘘をついていることに胸が痛んだ。

そして今、自分の部屋にはアムルがいる。

日常の真ん中に、非日常が当たり前のように座っている。

あいは布団に入り、胸元までそっと引き上げた。

パジャマの柔らかい布地。

枕の高さ。

部屋の天井。

机の上の参考書。

全部、いつものものだった。

けれど、もう完全にいつも通りではない。

「アムルさんは……このあと、どうするんですか?」

あいは布団の中から尋ねた。

「少しだけ、ここにいるわ」

「ここに?」

「ええ。あなたが眠るまで」

あいは目を瞬いた。

「でも……普通の人には見えないんですよね」

「そうよ」

「それでも、何だか不思議です。自分の部屋に、アムルさんがいるなんて」

「慣れるわ」

「慣れるんでしょうか……」

あいが不安そうに言うと、アムルは静かにしっぽを揺らした。

「少しずつね」

その言葉は、今日何度も聞いた気がした。

少しずつ。

一度に全部ではなく、少しずつ。

変身も。

魔法も。

マジカル・ビジョンも。

戦闘服への戸惑いも。

明日の学校のことも。

全部、少しずつ。

あいは布団の中で、膝を少し引き寄せた。

「明日……どうしよう」

思わず、声が漏れた。

アムルは急かさずに待っている。

あいは続けた。

「本当に、膝上十五センチなんてできるのかな。朝になったら、やっぱり無理って思うかもしれません」

「それでもいいわ」

「いいんですか?」

「ええ。明日の朝、もう一度考えればいい。今夜決めた気持ちが消えていないか、自分で確かめればいいの」

あいは、天井を見上げた。

明日の朝の自分。

制服を手に取り、スカート丈を確認して、鏡の前で何度も迷う自分。

学校へ行く道。

教室。

美咲の顔。

先生の声。

階段や廊下。

想像するだけで、胸が落ち着かなくなる。

それでも、今夜のあいは、完全には逃げなかった。

考えた。

怖いと認めた。

恥ずかしいと認めた。

そのうえで、必要なら少しだけ頑張ってみようと思った。

それは、ほんの小さなことかもしれない。

けれど、あいにとっては大きな一歩だった。

「……もしできたら」

あいは小さく言った。

「少しだけ、自分を褒めてもいいんでしょうか」

「もちろん」

アムルの返事はすぐだった。

「あなたは、もっと自分を褒めてもいいくらいよ。今日も、十分がんばったのだから」

その言葉に、あいの目の奥が少し熱くなった。

今日、頑張った。

そう言われても、まだ実感はない。

失敗したことや、怖かったことばかり思い出す。

でも、アムルがそう言ってくれるなら、少しだけ信じてもいいのかもしれない。

あいは布団を口元まで引き上げた。

「……ありがとうございます、アムルさん」

「どういたしまして」

部屋の明かりが、少し眩しく感じる。;

あいが枕元のリモコンに手を伸ばすと、アムルが先に言った。

「消していいわ」

「はい」

あいは明かりを落とした。

部屋が暗くなる。

カーテンの隙間から、街の明かりがかすかに差し込んでいる。机や本棚の輪郭が、夜の中にぼんやり浮かぶ。アムルの黒い姿は暗がりに溶けそうだったが、額のハート型の紋だけが、ほんのわずかに淡く見えた。

あいは、布団の中でゆっくり息をした。

家の中は静かだった。

リビングの音も、いつの間にか遠くなっている。父と母は、もう寝る準備をしているのかもしれない。いつもの夜の音が、部屋の外にある。

そのいつもの夜の中に、アムルがいる。

魔法戦士としての説明があり、明日への不安があり、まだ知らないことがたくさんある。

日常は壊れていない。

けれど、日常の中に、もう非日常が混じり始めている。

それは怖いことだった。

でも、ほんの少しだけ、知りたいと思う気持ちもあった。

自分の中にあるという力。

今日、赤いコアを見つけた理由。

アムルが自分を導いてくれる意味。

わからないことは、まだ多い。

でも、明日から少しずつ学んでいけばいい。

あいは、アムルの言葉を胸の中で繰り返した。

少しずつ。

まぶたが重くなっていく。

疲れが、ようやく眠気へ変わり始めていた。

「おやすみなさい、あい」

アムルの声が、暗がりの中で静かに響いた。

「……おやすみなさい、アムルさん」

あいは小さく返した。

明日の不安は、まだ消えていない。

本当に膝上十五センチなんてできるのかな。

学校で、ちゃんと歩けるのかな。

美咲に気づかれたら、ちゃんと返事ができるのかな。

そんな思いが、眠りの手前でゆっくり揺れる。

けれど、その奥には、家の布団の温かさがあった。

そして、そばにアムルがいるという安心もあった。

あいは、深く息を吐いた。

日常の中に混じり始めた非日常を抱えたまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。



◆用語説明


【私立さくら女子高等学校】

宮本あいが通う、東京にある私立の女子校。

生徒は全員女子で、大学進学を目指す生徒が多い進学校である。落ち着いた校風で、学力レベルは安定して高く、学校全体には家庭的で穏やかな空気がある。

教員のほとんどは女性で、男性教諭は全体のごくわずか。そのため、生徒たちが安心して過ごしやすい雰囲気が作られている。

校則は厳しすぎず、身だしなみも比較的自由。基本的には清楚な装いの生徒が多いが、スカート丈にはある程度の個人差がある。中には、膝上十五センチほどの短めのスカートを選ぶ生徒もいる。

教師も、必要に応じて「気をつけなさい」と軽く声をかける程度で、極端に乱れた着こなしでなければ大きく問題視されることは少ない。


【私立さくら女子高等学校の制服(夏服)】

私立さくら女子高等学校の夏服は、清楚で落ち着いた印象を与えるデザインである。

上衣は、白を基調とした半袖ブラウス。その上に、薄手の紺色ブレザーを着用する。胸元には、学校指定のピンク色のリボンタイをつける。

スカートは、緑と紺のチェック柄。標準丈は膝頭が見える程度だが、生徒の自主性が尊重されており、丈の長さにはある程度の自由がある。

そのため、標準丈に近い落ち着いた着こなしの生徒もいれば、膝上十五センチほどの短めのスカートを選ぶ生徒もいる。

全体として、進学校らしい上品さを保ちながら、生徒がのびのびと学校生活を送れるよう配慮された制服である。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


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「こんなシチュエーションが見たい」「こういう展開はどうですか?」など、お気軽にコメントをいただければ嬉しいです。


今後の物語づくりの参考にさせていただきますので、ぜひ一言でもお寄せください。


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