表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
美少女魔法戦士マジカルラブ  作者: 宮本あい
1/5

はじめての変身

ようこそ『美少女魔法戦士マジカルラブ』へ。


第1話では、控えめで真面目な高校生・宮本あいが、思いがけず“魔法戦士”に選ばれてしまう場面を描いています。

突然の出来事に戸惑いながらも、あいが初めて非日常へ踏み出すお話です。

気軽に読んでいただけると嬉しいです。


◆ 六月下旬の帰り道


六月下旬の夜は、まだ夏になりきっていないはずなのに、昼間の熱だけを街のあちこちに残していた。

午後八時を少し過ぎた駅前には、帰宅する会社員や塾帰りらしい学生の姿がまばらに流れている。改札を抜けた宮本あいは、肩にかけた通学鞄の位置を直しながら、小さく息をついた。

「……今日も、遅くなっちゃった」

誰に聞かせるでもなく、そうつぶやく。

白い半袖ブラウスの上には、薄手の紺色ブレザー。胸元には学校指定のピンク色のリボンタイ。緑と紺のチェック柄のスカートは、膝頭が見えるくらいの長さで、歩くたびに控えめに揺れていた。

私立さくら女子高等学校、三年生。

それが、宮本あいの今の肩書きだった。

名前を聞かれても、あいはいつも少しだけ迷う。別に、自分の名前が嫌いなわけではない。ただ、初対面の相手に自分のことを説明するのが、あまり得意ではなかった。

宮本あい。十八歳。高校三年生。

黒髪を左右で結んだツインテールに、細いフレームの眼鏡。成績は悪くない。特に数学は好きだった。答えがひとつに定まる問題は、落ち着いて考えれば道筋が見えてくるからだ。

けれど、人の気持ちはそうはいかない。

相手が何を考えているのか。自分の言葉で誰かを傷つけていないか。今、笑った方がいいのか、それとも黙っていた方がいいのか。

そういうことばかり考えてしまうせいで、あいは人前では少し口数が少なくなる。

友人がいないわけではない。学校生活が嫌いなわけでもない。むしろ、さくら女子の落ち着いた空気は好きだった。図書室の静けさも、教室の窓から差し込む午後の光も、休み時間に聞こえる友人たちの笑い声も、あいにとっては大切な日常だった。

ただ、自分からその中心に飛び込んでいくのは、少し苦手だった。

駅前の明るい通りを抜けると、周囲の音が少しずつ遠のいていく。店の看板の光は背中側へ流れ、代わりに住宅街の静かな街灯が、一定の間隔で歩道を照らしていた。

夜風が吹いた。

昼間の熱気をほんの少しだけ冷ました風が、ブレザーの裾とスカートをそっと揺らす。あいは片手でリボンのあたりを押さえ、もう片方の手で鞄の持ち手を握り直した。

家までは、もうそれほど遠くない。

マンションに帰れば、母が何か温かいものを用意してくれているかもしれない。父は今日も帰りが遅いだろうか。仕事が忙しい人だから、夕食の時間がずれることは珍しくない。

それでも、家に帰れば安心できる。

そう思うだけで、胸の奥に少しだけ残っていた疲れが、ゆっくりほどけていく気がした。

あいは歩く速度を少しだけ上げた。

早く帰って、着替えて、明日の予習をして、できれば寝る前に少しだけ本を読みたい。借りたままになっている本が、机の上に置いてある。続きを読むのを楽しみにしていた。

そんなことを考えていると、夜道もそれほど怖くはない。

いつもの道。いつもの街灯。いつもの曲がり角。

何も変わらない、普通の帰り道。

あいはそう思っていた。

マンションへ続く細い道が、前方に見えてくるまでは。


◆ マンション前の黒い影


マンションへ続く細い道は、いつも少し暗い。

大通りから一本入っただけなのに、店の明かりも、人の声も、急に遠くなる。街灯はある。けれど、その間隔は広く、足元を照らす光はところどころ薄く途切れていた。

あいは、その道を何度も通っている。

朝、学校へ行くとき。夕方、部活帰りの生徒たちと駅で別れたあと。今日のように、少し遅くなった夜にも。

だから本来なら、怖がるような場所ではなかった。

けれど。

「……?」

あいは、足を止めた。

マンションの手前。ちょうど街灯と街灯のあいだ、光が届きにくい場所に、何かが立っていた。

最初は、人だと思った。

帰宅途中の誰かが、スマートフォンでも見ながら立ち止まっているのかもしれない。そう考えれば、何もおかしくはない。夜の住宅街で、人とすれ違うことくらいある。

けれど、その影は動かなかった。

スマートフォンの光もない。鞄を持っている様子もない。顔も、服も、髪も、何も見えない。

ただ、黒い。

まるで、そこだけ夜が濃くなったみたいに。

あいは眼鏡の奥で、そっと目を細めた。

人の形に近い。肩のようなものがあり、頭のような丸みもある。けれど、輪郭は定まらない。見ようとすればするほど、黒いもやがゆっくりほどけて、また集まる。

風が吹いた。

ブレザーの裾が揺れる。スカートの布地が、膝のあたりをかすかに撫でた。

それなのに、影だけは風に揺れているのか、揺れていないのか、わからなかった。

胸の奥が、ひゅっと冷える。

あいは無意識に、通学鞄の持ち手を両手で握りしめた。

「……誰、ですか」

声に出してから、自分でも驚いた。

思ったよりも小さな声だった。夜道に吸い込まれてしまいそうな、頼りない声。

返事はない。

黒い影は、ただそこに立っている。

いや、立っているように見えるだけかもしれない。足元が地面についているのかどうかさえ、はっきりしなかった。

あいは一歩だけ、後ろへ下がった。

逃げた方がいい。

頭のどこかで、そう思った。

けれど、マンションは影の向こう側にある。家に帰るには、その細い道を通らなければならない。遠回りをすれば別の入口に回れるかもしれないが、夜の住宅街で知らない道を選ぶのも、それはそれで怖かった。

どうしよう。

誰かに電話するべきだろうか。母に。あるいは、警察に。

でも、何と言えばいいのだろう。

マンションの前に、黒い影がいます。

そんな説明をして、まともに取り合ってもらえるのだろうか。

あいは鞄の中のスマートフォンを探そうとして、指先がうまく動かないことに気づいた。手が、少し震えていた。

黒い影が、わずかに揺れた。

「……っ」

あいは息を呑む。

影がこちらを向いた、ような気がした。

顔なんて見えない。目も、口も、表情もない。けれど、見られている。そう感じた瞬間、背中に冷たいものが走った。

足がすくむ。

逃げたいのに、動けない。

いつもの道。いつもの街灯。いつものマンションの前。

さっきまで、何も変わらない普通の帰り道だったはずなのに。

今はもう、そこだけが知らない場所のように見えた。

黒い影の輪郭が、またゆらりと揺れる。

その中心に、ほんの一瞬だけ、濃い闇が集まったように見えた。

あいは喉の奥で、小さく声を詰まらせた。

近づいてはいけない。

理由はわからない。けれど、そう思った。

心臓の音が、耳の奥で大きく響く。

あいがもう一歩後ろへ下がろうとした、その時だった。

足元の影が、すっと伸びた。

街灯の光とは関係のない、黒いものが、地面を這うようにこちらへ近づいてくる。

「いや……」

声にならない声が、唇からこぼれた。

その瞬間、あいのすぐ横で、白い光がぱっと弾けた。


◆ アムルとの出会い


白い光が、夜道の暗がりを一瞬だけ押し返した。

あいは思わず目を閉じた。強い光だったはずなのに、不思議と痛みはない。まぶしいというより、冷えた指先を包み込むような、やわらかい光だった。

光がほどける。

その中から、小さな影がすっと地面へ降り立った。

「下がって。あれには近づいちゃだめ」

落ち着いた声だった。

けれど、その声が聞こえた瞬間、あいの思考は一度止まった。

目の前にいたのは、人ではなかった。

黒い猫だった。

夜よりも深い毛並みを持つ、小さな黒猫。街灯の光を受けて、しなやかな背中がかすかに光っている。額には、淡い光を帯びたハートのような紋が浮かんでいた。

猫は、あいと黒い影のあいだに立っていた。

まるで、あいを守るように。

「……え」

あいは、震える声をこぼした。

「ね、猫……?」

「ええ。今はそう見えているはずよ」

「しゃ、しゃべ……」

最後まで言えなかった。

猫がしゃべった。

それだけでも、頭が追いつかない。なのに、黒い影はまだそこにいる。地面を這うように伸びた黒いものが、街灯の光を避けるように揺れている。

夢だろうか。

いや、夢にしては、夜風が肌に触れる感覚がはっきりしすぎている。鞄を握る手の痛みも、胸の奥で跳ねる心臓の音も、全部本物だった。

黒猫は、あいをちらりと見上げた。

「宮本あいさん。私の後ろにいて」

「ど、どうして……」

あいの喉が、からからに乾いていた。

「どうして、私の名前を……?」

「説明は後にするわ。今は、あの妖魔から離れることが先」

「よう、ま……?」

聞いたことのない言葉だった。

けれど、その響きだけで、あいの背筋に冷たいものが走る。

黒い影が、ゆらりと形を変えた。

人のように見えた輪郭が崩れ、煙のように横へ広がる。けれど、完全には消えない。暗がりの中で集まり、また人に似た姿へ戻っていく。

それは、普通ではなかった。

人でも、動物でも、夜道に落ちたただの影でもない。

あいは一歩下がろうとした。けれど、膝がうまく動かない。

「な、何なんですか、あれ……」

「妖魔。人の負の感情に引き寄せられて、夜や暗がりに現れるものよ」

黒猫は短く答えた。

声は落ち着いている。けれど、軽く見ているわけではない。その小さな背中から、ぴんと張りつめた空気が伝わってくる。

「本来なら、あなたが一人で近づいていい相手ではないわ」

「だったら、逃げ……」

「逃げられるなら、それが一番。でも」

黒猫の尻尾が、すっと横へ伸びた。

その先を追って、あいは息を呑む。

いつの間にか、細い道の奥にも、黒いもやのようなものが広がっていた。マンションへ向かう道だけではない。駅へ戻る方の足元にも、薄い影がにじみ始めている。

完全に塞がれているわけではない。

それでも、あいにはわかった。

走って逃げようとした瞬間、あれは追ってくる。

理由も理屈もわからないのに、その確信だけが胸の奥に落ちた。

「そんな……」

あいの声が震えた。

「私、何もしてません。どうして、こんな……」

「あなたが悪いわけじゃない」

黒猫は静かに言った。

「でも、あなたには素質がある。だから、見えてしまった。そして、あれもあなたに気づいた」

「素質……?」

あいは聞き返した。

聞き返している場合ではないと、自分でもわかっていた。それでも、わからない言葉ばかりが続いて、頭が追いつかない。

黒猫は、ほんの少しだけ声をやわらげた。

「私はアムル。あなたのパートナーになる存在よ」

「パートナー……?」

「ええ。宮本あいさん。あなたは、魔法戦士になれる」

その言葉は、夜道の空気に不自然なくらいはっきり響いた。

魔法戦士。

あいは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。

魔法。戦士。

どちらも、本や物語の中で見る言葉だ。現実の住宅街で、学校帰りの制服姿の自分に向けられる言葉ではない。

「む、無理です……」

反射的に、あいは首を横に振った。

「私、運動も得意じゃないし、戦うなんてできません。そんなの、絶対……」

「怖いのは当然よ」

アムルは、あいの言葉を遮らなかった。

ただ、静かに受け止めるように、あいを見上げていた。

「でも、今は私の声だけ聞いて。詳しい説明は後。まずは生き残ることが先よ」

黒い影が、また揺れた。

今度は、はっきりとこちらへ近づいている。

足音はない。けれど、暗がりそのものが一歩ずつ迫ってくるようだった。

あいの喉が引きつる。

逃げたい。

家に帰りたい。

母の声が聞きたい。いつもの部屋に戻って、制服を脱いで、何もなかったことにしたい。

けれど、黒い影は目の前にいる。

アムルはその小さな体で、あいと影のあいだに立ち続けている。

「宮本あいさん」

アムルが言った。

「あなたの中にある力を起こすわ」

あいは、震える指先で鞄を握りしめたまま、ただアムルを見つめた。

「力……?」

「ええ。あなたなら、反応する」

アムルの額のハートの紋が、淡く光った。

白い光が、あいの足元に小さな円を描くように広がっていく。黒い影が、その光を嫌がるようにわずかに揺らいだ。

アムルは、はっきりと告げた。

「落ち着いて。私の言葉を聞いて」

夜風が、あいの頬をかすめる。

胸の鼓動はまだ速い。膝も震えている。けれど、アムルの声だけは、不思議とまっすぐ届いていた。

「今から、変身するの」

あいは目を見開いた。

「へ……変身、ですか?」

アムルは静かにうなずいた。

「そう。魔法戦士として」


◆ 変身への戸惑い


「変身……って」

あいは、アムルの言葉をそのまま繰り返すことしかできなかった。

魔法戦士として変身する。

そんな言葉を、すぐに信じられるはずがない。物語の中ならともかく、ここはいつもの帰り道で、あいは学校帰りの制服姿のままだ。通学鞄だって肩にかけているし、胸元のピンク色のリボンタイも、ブレザーの袖口も、いつもと何も変わらない。

変わっているのは、目の前の黒い影と、しゃべる黒猫がいることだけ。

――それだけでも、十分おかしい。

「む、無理です……」

あいは首を横に振った。

「私、そういうの、本当に無理です。運動も苦手ですし、戦うなんて……」

「今すぐ上手に戦えとは言っていないわ」

アムルの声は、驚くほど落ち着いていた。

「まずは、あなたの中の力を起こす。それができなければ、あの妖魔から身を守ることもできない」

黒い影が、じわりと近づいた。

足音はない。けれど、地面に落ちた闇が少しずつ伸びてくる。街灯の下にいるはずなのに、影の近くの光だけが薄くなっていくように見えた。

あいは反射的に一歩下がった。

背中に冷たい汗が伝う。

逃げたい。けれど、足が思うように動かない。大声を出そうとしても、喉の奥が固まって、うまく息が吸えない。

「落ち着いて、あいさん」

アムルが言った。

「私の言葉を聞いて。胸の奥に意識を向けるの」

「胸の、奥……?」

「ええ。怖くてもいい。震えていてもいい。ただ、言葉だけははっきり唱えて」

アムルの額のハートの紋が、淡く光った。

その光に呼応するように、あいの足元に白い円が浮かび上がる。まるで夜道のアスファルトの上に、光で描かれた模様が広がっていくようだった。

あいは息を呑んだ。

これは現実なのだろうか。

現実でなければよかった。明日の朝、目が覚めたら、ただの悪い夢だったと思えたらどれだけ楽だろう。

けれど、黒い影は目の前にいる。

アムルは、小さな体であいを守るように立っている。

そして、あいの胸の奥では、聞いたことのない鼓動のようなものが、かすかに震えていた。

「唱えて」

アムルの声が、夜気をまっすぐに切った。

「ラブ・レボリューション、と」

「ラブ……」

あいの唇が震える。

恥ずかしいとか、信じられないとか、そんなことを考えている余裕はなかった。けれど、言葉にしようとした瞬間、顔が熱くなる。

だって、そんな呪文を自分が言うなんて。

学校では、できるだけ目立たないように過ごしてきた。授業で指名されれば答えるけれど、自分から大きな声を出すことは少ない。誰かの前で特別なことをするなんて、考えただけで胸が苦しくなる。

それなのに、今は。

唱えなければならない。

あいはぎゅっと目を閉じた。

怖い。

怖いけれど。

「……ラブ・レボリューション!」

声は少し裏返った。

それでも、確かに夜道へ響いた。

次の瞬間、あいの足元の光が強くなった。

「えっ……?」

白い光が、足元からふわりと舞い上がる。

制服の裾が風に揺れたのかと思った。けれど、違った。ブレザーの袖口も、スカートの端も、淡い粒子にほどけるように光へ変わっていく。

あいは慌てて胸元を押さえた。

「ちょ、ちょっと待って……!」

止めようとしても、光は止まらない。

怖さとは別の意味で、心臓が跳ねた。

光は胸の前で集まり、ピンクの大きなリボンを形づくる。

ふわり、と柔らかな感触が胸元に重なった。リボンの中心には、小さな輝きが宿り、鼓動に合わせるように一度だけ光る。

続いて、紺色のセーラー襟が肩に落ちた。

ひんやりとした夜風の感触が、首元に触れる。制服のブラウスとは違う。軽くて、動きやすくて、けれど見慣れない衣装。

腹部の露出したアスリート風のトップスが現れる。

「え、ええっ……!?」

あいは思わず両腕を体の前に寄せた。

お腹が見えている。

ほんの少し夜風が肌をなぞっただけで、全身がびくりと反応した。寒いわけではない。むしろ、光に包まれているせいか、体は不思議と温かい。

でも、恥ずかしい。

あまりにも、恥ずかしい。

短いチアリーダー風の濃紺のスカートが、軽く揺れる。

制服のスカートよりも、明らかに短い。膝どころではない。脚がすうすうする感覚に、あいの思考は一瞬で真っ白になった。

恥ずかしさが一気に顔に昇る。

「こ、これ……! こんな格好で戦うんですか!?」

「動きやすさを優先した戦闘服よ」

アムルは落ち着いた声で答えた。

「安心して。あなたを守るための魔法も組み込まれているわ」

「安心できません……!」

あいは半泣きになりながら叫んだ。

黒い影が近づいていることはわかっている。今はそんなことを気にしている場合ではないことも、頭ではわかっている。

それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。

こんな姿を誰かに見られたら、明日から学校に行けない。いや、そもそも今ここはマンションの近くだ。誰かが通りかかったらどうするのか。防犯カメラは。街灯は。窓から見ている人はいないのか。

考えれば考えるほど、顔が熱くなる。

「誰かに見られたら……」

「今はそれより、前を見て」

アムルの声が少しだけ鋭くなった。

あいははっとして顔を上げる。

黒い影が、すぐそこまで迫っていた。

さっきよりも大きく見える。人の形に近かった輪郭は崩れ、黒い霧の塊のようにうねっている。その中心だけが、妙に濃い。

あいは息を詰めた。

恥ずかしい。怖い。逃げたい。

けれど、足元に広がっていた光は、もう消えていなかった。体の奥に、先ほどまでとは違う熱がある。心臓の鼓動に重なるように、小さな光が胸元のリボンから伝わってくる。

アムルが、静かに告げた。

「大丈夫。変身は成功しているわ」

あいは、自分の手を見た。

指先に、淡い光が残っている。

信じられない。

けれど、信じるしかなかった。

宮本あいは、もうただの学校帰りの女子高生ではなかった。

少なくとも、この夜、この瞬間だけは。

「私が……」

あいは震える声でつぶやいた。

「本当に、変身しちゃったんだ……」


◆ はじめての変身


あいの足元に広がっていた光は、夜道の暗がりを静かに押し返していた。

黒い影は、光の外側でゆらゆらと揺れている。近づいてきているはずなのに、その輪郭はまるで水面に映った影のように定まらない。

けれど、あいの意識は、その影だけに向いていられなかった。

自分の体に起きている変化が、あまりにも現実離れしていたからだ。

制服は、もうほとんど光の粒子にほどけていた。

ブレザーの袖も、白いブラウスも、緑と紺のチェック柄のスカートも、夜風に散る花びらのように淡く輝きながら消えていく。

代わりに現れたのは、見慣れない戦闘服だった。

胸の前には、ピンク色の大きなリボン。中心に小さなブローチのような輝きがあり、そこから温かな光が脈打つように広がっている。

肩には紺色のセーラー襟。

上半身を包むのは、制服のブラウスとはまったく違う、軽くて動きやすいトップスだった。布地はしっかりしているのに、体の動きを邪魔しない。けれど、腹部が露出していて、夜風が肌に触れるたび、あいは肩をすくめたくなった。

腰のあたりでは、短い濃紺のスカートがふわりと揺れている。

制服のスカートよりもずっと軽い。足を少し動かしただけで、布がひらりと反応する。

あいは反射的に両手を体の前に寄せた。

「やっぱり……短すぎます……!」

声が情けないくらい震えていた。

戦わなければならない状況だということは、わかっている。黒い影はすぐそこにいる。アムルが真剣な声で何度も注意してくれている。

それでも、恥ずかしさはどうにもならなかった。

頬が熱い。耳まで熱い。

こんな格好を、自分がしている。

それだけで、頭の中がいっぱいになる。

さくら女子の制服は、きちんとしていて、落ち着いていて、あいにとって安心できるものだった。白いブラウスも、薄手の紺色ブレザーも、ピンクのリボンタイも、緑と紺のチェック柄のスカートも、毎日身につけているうちに、自分を守ってくれる殻のようになっていた。

けれど、今の衣装は違う。

隠してくれるというより、動くために作られている。

逃げるためでも、目立たないためでもなく、戦うための服。

そう思った瞬間、あいの胸がきゅっと縮んだ。

「アムルさん、本当に……これで合ってるんですか?」

「ええ。あなたの魔力に合わせて形成された、魔法戦士の戦闘服よ」

アムルは落ち着いた声で答えた。

「軽くて、動きやすくて、あなたを守る機能もある。見た目に驚くのはわかるけれど、今は信じて」

「信じるって言われても……」

あいは言いかけて、言葉を止めた。

胸元のリボンが、ふわりと光った。

その光が、全身に静かに広がっていく。足先から指先まで、温かな糸のようなものが通っていく感覚があった。

怖さは消えない。

恥ずかしさも消えない。

けれど、体が少しだけ軽くなっている。

通学鞄を肩にかけていた時とは違う。制服で歩いていた時とも違う。地面を踏む感覚が、いつもよりはっきりしていた。

あいは、自分の手を見つめた。

指先に淡い光が残っている。

本当に、変身してしまった。

そう認めるしかなかった。

「まだ終わりではないわ」

アムルが言った。

「え?」

「変身の最後に、あなたの目元へ展開されるものがある」

アムルの言葉が終わるか終わらないかのうちに、あいの視界の端が白く揺れた。

最初は、眼鏡が曇ったのかと思った。

けれど違う。

目元に、薄い光が集まっていく。

眼鏡のフレームをなぞるように、白く透き通った魔力の膜が広がった。まぶたの上でも、頬の近くでもない。普段かけている眼鏡の上に、もう一枚、淡い光の輪郭が重なるような感覚だった。

あいは思わず瞬きをした。

視界が変わる。

夜道の暗さはそのままなのに、影の濃淡が少しだけわかりやすくなった。街灯の光、アスファルトの凹凸、黒い影の周囲にまとわりつくもやの流れ。

さっきまで見ようとしても逃げていた輪郭が、完全ではないにせよ、少しだけ形を持ちはじめる。

「な、何ですか、これ……」

「マジカル・ビジョン」

アムルが答えた。

「妖魔の存在を視認し、危険を知らせ、戦闘中の情報をあなたに伝えるためのものよ」

「ま、マジカル……ビジョン……」

あいは小さく繰り返した。

名前を聞いても、すぐには理解できない。

けれど、見える。

黒い影が、ただの暗がりではないことが、さっきよりもはっきりわかる。中心に向かって、黒いもやがゆっくり流れ込んでいる。まるで、見えない何かに吸い寄せられているようだった。

視界の端に、淡い文字のようなものが一瞬だけ浮かんだ。

読もうとすると消えてしまう。けれど、そこに何かが表示されていた感覚だけは残った。

あいは息を呑んだ。

怖い。

でも、見えないものが見えることに、ほんの少しだけ心が追いついた。

わからないものは怖い。

けれど、情報があるなら、考えることはできる。

そう思った自分に、あいは少し驚いた。

こんな状況なのに、頭のどこかが、見えているものを整理しようとしている。

黒い影との距離。街灯の位置。自分とアムルの立ち位置。逃げ道になりそうな方向。

怖くて、足はまだ震えている。

それでも、何もわからないまま立ちすくんでいた時よりは、ほんの少しだけ呼吸ができた。

「変身は完了したわ」

アムルが言った。

あいは、ゆっくりと顔を上げた。

胸元の大きなピンクのリボン。

紺色のセーラー襟。

腹部の露出した動きやすいトップス。

短い濃紺のスカート。

眼鏡の上に重なる、白く透き通ったマジカル・ビジョン。

どれも、自分のものだとは思えなかった。

けれど、体は確かにその衣装に包まれている。

光はもう、足元から消えかけていた。代わりに、胸元のリボンと目元のマジカル・ビジョンだけが、淡く輝いている。

「あなたの魔法戦士としての名前は、マジカル・ラブ」

アムルの声が、静かな夜道に響いた。

「マジカル……ラブ……」

あいは、戸惑いながらその名を口にした。

自分には似合わない。

最初に浮かんだのは、そんな感想だった。

真面目で、控えめで、人前に立つのが苦手で、体育も得意ではない自分が、魔法戦士だなんて。

まして、マジカル・ラブなんて名前。

恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。

けれど。

黒い影は、待ってくれない。

ゆらり、と闇が動いた。

マジカル・ビジョン越しの視界に、黒いもやの流れが強く映る。

あいは、胸元のリボンを押さえた。

心臓が速い。

怖い。恥ずかしい。逃げたい。

それでも、アムルが隣にいる。

そして、今の自分には、さっきまで見えなかったものが見えている。

「私が……マジカル・ラブ……」

あいは震える声でつぶやいた。

その名を受け入れるには、まだ時間がかかりそうだった。

けれど、この夜だけは。

この黒い影から生き残るために。

宮本あいは、マジカル・ラブとして立つしかなかった。


◆ 杖の召喚


黒い影が、ゆっくりと近づいてくる。

マジカル・ビジョン越しに見るそれは、ただの暗がりではなかった。輪郭は不安定で、黒い霧が集まったりほどけたりを繰り返している。けれど、その中心へ向かって何かが流れ込んでいることだけは、あいにもわかった。

わかってしまうことが、かえって怖かった。

今までは、ただ得体の知れないものだった。けれど今は、見える。見えてしまう。

あれは、こちらへ来ている。

「アムルさん……」

あいは、すぐそばにいる黒猫へ視線を落とした。

声が震えている。

魔法戦士になったと言われても、実感なんてない。胸元には大きなピンク色のリボンがあり、目元にはマジカル・ビジョンが重なっている。短い濃紺のスカートは夜風に揺れて、あいの落ち着かなさをさらに大きくしていた。

それでも、両手は空っぽだった。

こんな格好をして、どうすればいいのだろう。

逃げるのか。叫ぶのか。それとも、本当に戦うのか。

「落ち着いて、ラブ」

「ら、ラブって……私のことですか」

「今はそう呼ぶわ。あなたは、マジカル・ラブだから」

アムルは黒い影から目を離さずに言った。

あいは思わず口をつぐむ。

まだその名前には慣れない。慣れるどころか、呼ばれるたびに顔が熱くなる。けれど、今は名前に戸惑っている場合ではないことくらい、あいにもわかっていた。

「魔法戦士として戦うには、あなたの武器が必要よ」

「武器……?」

「ええ。あなたの場合は、杖」

杖。

その言葉を聞いた瞬間、あいの頭に浮かんだのは、物語に出てくる魔法使いの持ち物だった。長くて、細くて、先端に飾りがついているようなもの。

けれど、それをどうやって手に入れるのか、まったくわからない。

「でも、そんなもの、持ってません」

「今は持っていなくていいの」

アムルは落ち着いた声で続けた。

「心の中で思い浮かべて。あなたが使うための杖を。形を完璧に決めようとしなくていい。必要だと思って、手を伸ばすの」

「思い浮かべる……」

あいは自分の両手を見た。

指先には、まだ淡い光が残っている。変身した時の光と同じ、温かくて柔らかい光。

杖。

自分の杖。

そんなものを、急に想像しろと言われても困る。

数学の問題なら、条件を整理すればいい。何が与えられていて、何を求めればいいのかを考えれば、少しずつ道筋が見えてくる。

けれど、魔法の杖には公式がない。

長さはどれくらいなのか。重さは。材質は。そもそも、魔法の杖とは何なのか。

考えれば考えるほど、頭の中がぐるぐるする。

「ラブ」

アムルの声が、少しだけ柔らかくなった。

「難しく考えすぎないで。あなたを守るためのもの。あなたが前を向くためのもの。まずは、それだけでいい」

「私を……守るためのもの」

あいは小さく繰り返した。

黒い影が、また一歩分近づいたように見えた。

地面を這う闇が、あいの足元の光に触れそうになる。胸元のリボンが、警戒するように淡く光った。

怖い。

でも、怖いからこそ、何かが必要だった。

逃げるだけではなく、ただ震えるだけでもなく、自分とアムルを守るための何かが。

あいは両手を胸の前に寄せ、ゆっくりと息を吸った。

細くて、長い杖。

重すぎず、けれど頼りなくもないもの。

先端には、胸元のリボンと同じような、温かいピンク色の光。できれば、見ているだけで少し安心できる形がいい。

そう思った瞬間、右手の中に、ふわりと熱が集まった。

「え……?」

あいは目を見開いた。

指先の光が、手のひらへ吸い寄せられていく。小さな粒子がいくつも集まり、細い線を描き、そこから一本の輪郭が生まれた。

最初は、光の糸のようだった。

それが少しずつ太さを持ち、長さを伸ばし、あいの手の中で形を整えていく。

細身で長い、魔法の杖。

白を基調とした本体には、淡い金色のラインが細く走っている。先端には小さなハート型の装飾があり、その中心でピンク色の光が静かに揺れていた。

軽い。

けれど、確かに重みがある。

あいは、思わず杖を両手で持ち直した。

「出た……」

自分の声なのに、どこか遠く聞こえた。

「本当に、出ちゃった……」

アムルが小さくうなずく。

「いいわ。その杖は、あなたの魔力に応えて形になったものよ」

「私の、魔力……」

あいは杖を見つめた。

魔力。

そんな言葉を、自分に関係のあるものとして聞く日が来るなんて、思ってもみなかった。

けれど、手の中の杖は消えない。

夢でも、幻でもない。握れば、指に感触が返ってくる。先端のハート型の装飾は、あいの鼓動に合わせるように、淡く光っていた。

マジカル・ビジョン越しに、杖の周囲に小さな光の線が浮かぶ。

それはすぐに消えてしまったが、あいには何となくわかった。杖が、自分の手に馴染もうとしている。自分の呼吸や心臓の速さに、合わせようとしている。

怖さは、まだある。

恥ずかしさも、消えていない。

けれど、空っぽだった両手に杖があるだけで、ほんの少しだけ心細さが薄れた。

「アムルさん」

「何?」

「私……これで、本当に戦うんですか」

聞いたあとで、あいは自分の声が小さく震えていることに気づいた。

アムルは、あいを見上げた。

その瞳は、夜道の暗がりの中でも落ち着いていた。

「ええ。でも、一人で戦うわけじゃない。私が指示を出す。マジカル・ビジョンもあなたを助ける。だから、まずは杖を前に向けられればいい」

「前に……」

あいは、杖を握る手に力を込めた。

黒い影が、またゆらりと揺れる。

マジカル・ビジョンの奥で、影の周囲に薄い警戒色の光がにじんだように見えた。

逃げたい気持ちは、まだある。

こんな格好で立っていることも、信じられない。

それでも、手の中には杖がある。

胸元には光るリボンがある。

隣にはアムルがいる。

あいは震える足で、半歩だけ前に出た。

杖の先端のハートが、淡く輝く。

その光を見た瞬間、あいはようやく実感した。

自分は、本当に魔法戦士になってしまったのだ。

「……わかりました」

声はまだ頼りなかった。

それでも、あいは杖を両手で構えた。

「やってみます」


◆ 妖魔の不意打ち


杖の先端にあるハート型の装飾が、淡く光っていた。

あいはそれを両手で握りしめたまま、黒い影を見つめる。指先に力が入りすぎているのが、自分でもわかった。肩も上がっている。呼吸も浅い。

けれど、杖を手にしたことで、ほんの少しだけ立っていられる気がした。

ほんの少しだけ。

「そのまま、前を見て」

アムルの声が聞こえた。

「妖魔は不定形よ。見えている輪郭だけを信じないで」

「見えている輪郭だけを……」

あいは小さく繰り返した。

マジカル・ビジョン越しに見る黒い影は、さっきよりも濃く、重たく見えた。人の形に近いようで、そうではない。肩のように見えた部分が崩れ、足元の黒いもやが地面を這う。

何を見ればいいのか、わからない。

でも、何かを見なければならない。

あいは震える息を押し込め、視界に映る情報を必死に追おうとした。

その瞬間だった。

視界の右端が、赤く点滅した。

《警告:敵性反応、右側面》

「え……?」

文字が浮かんだ。

そう認識した時には、もうアムルが叫んでいた。

「右から来るわ、ラブ! 避けて!」

右。

右側面。

わかっている。

言葉の意味はわかる。右から何かが来る。避けなければならない。

けれど、体がついてこなかった。

体育の授業でも、あいはいつも一拍遅れる。ボールが来るとわかっていても、手を出す頃にはもう通り過ぎている。走り出すタイミングも、跳ぶタイミングも、頭で考えているうちに遅れてしまう。

今も同じだった。

いや、今はそれ以上に悪い。

短いスカートが気になる。お腹に当たる夜風が気になる。手の中の杖の握り方すらわからない。

右へ跳ばなければ。

そう思った時には、黒い影の一部が鞭のようにしなっていた。

「きゃっ……!」

あいは反射的に横へ動いた。

けれど、遅い。

黒いもやの塊が、右側から肩のあたりをかすめるようにぶつかった。

強い衝撃ではなかった。

それでも、慣れない体勢で杖を構えていたあいには十分だった。足元がもつれ、視界がぐらりと傾く。

「あっ……!」

転ぶ。

そう思った瞬間、胸元の大きなリボンが一瞬だけ光った。

地面が近づく。

けれど、叩きつけられるはずの衝撃は来なかった。

ふわり、と見えない空気の層が背中と腕を受け止める。まるで柔らかなクッションの上に倒れたように、衝撃が丸くほどけていった。

それでも、転んだことに変わりはない。

あいはアスファルトの上に座り込むような形になり、杖を抱えたまま息を詰めた。

「い、痛く……ない?」

「セーフティ・ヴェールが働いたの。胸のリボンに組み込まれた保護機能よ」

アムルの声がすぐ近くで聞こえる。

「でも、安心している場合じゃないわ。立って!」

「は、はい……!」

返事をしながら、あいは慌てて起き上がろうとした。

その拍子に、短い濃紺のスカートがふわりと揺れた。

「ひゃっ……!」

あいは反射的に片手でスカートを押さえた。

顔に熱が集まる。

怖い。怖いのに、それとは別の恥ずかしさが一気にこみ上げてくる。

転んだだけでも十分恥ずかしい。なのに、この格好で、こんな短いスカートで、もし誰かに見られていたらどうするのか。

防犯カメラ。マンションの窓。たまたま通りかかる人。

そんな言葉が頭の中に次々浮かび、あいは半泣きになった。

「む、無理です……! やっぱり無理です、こんなの……!」

「ラブ、前を見て!」

アムルの声が、今度は強かった。

あいはびくりとして顔を上げる。

黒い影が、また揺れていた。

今の一撃で終わりではない。むしろ、あいが倒れたことで、相手はさらに近づいてきている。

マジカル・ビジョンの視界に、再び赤い光がにじむ。

警告。

危険。

逃げたい。

立たなければ。

でも、足が震える。

あいは杖を抱えたまま、呼吸を乱した。

胸元のリボンが、まだ淡く光っている。その光は、先ほどの衝撃から自分を守ってくれたものだった。もしあれがなければ、地面に強く打ちつけられて、立ち上がることもできなかったかもしれない。

守られた。

けれど、守られているだけでは終わらない。

その事実が、あいの胸をさらに苦しくした。

「アムルさん……私、どうすれば……」

「まず立って。杖を離さないで」

アムルは落ち着いた声に戻っていた。

それが不思議と、あいの耳に届いた。

「大丈夫。今のは避けきれなかっただけ。あなたはまだ何も知らない。最初から完璧に動ける人なんていないわ」

「でも……」

「でも、立てるでしょう?」

あいは唇を噛んだ。

怖い。

恥ずかしい。

逃げたい。

それでも、痛みはない。杖も手の中にある。アムルもそばにいる。

あいはスカートを押さえていた手を、ゆっくり杖に戻した。

両手で杖を握る。

震えは止まらない。

けれど、立たなければならない。

あいは膝に力を入れ、ぎこちなく立ち上がった。短いスカートがまた軽く揺れ、頬が熱くなる。それでも、今度は視線を逸らさなかった。

黒い影は、目の前にいる。

マジカル・ビジョンの奥で、赤い警告が薄く点滅している。

あいは震える息を吐いた。

「……立ちました」

「いいわ」

アムルがうなずく。

「次は、反撃するの」


◆ はじめての魔法


「次は、反撃するの」

アムルの言葉に、あいは一瞬、息を止めた。

反撃。

その言葉は、今のあいにはあまりにも遠いものに聞こえた。さっきまで、ただの学校帰りだった。駅から家へ帰って、着替えて、明日の予習をして、眠るつもりだった。

それなのに今は、短い濃紺のスカートを揺らし、胸元に大きなピンクのリボンをつけ、手には魔法の杖を握っている。

そして、目の前には黒い影がいる。

マジカル・ビジョン越しに見る妖魔は、ゆらゆらと輪郭を崩しながらも、こちらを捉えているようだった。目などないはずなのに、見られている。あいにはそう感じられた。

「反撃って……どうやって……」

「杖を前に向けて」

アムルは短く言った。

「あなたの魔力を、光の弾にして撃つの」

「光の弾……?」

「初級魔法よ。今のあなたでも使える」

今の自分でも。

その言葉に、あいは胸の奥が少しだけ痛くなった。

できると言われても、できる気がしない。そもそも、魔力が何なのかもわからない。杖を出せたことだって、まだ夢の中の出来事のようだった。

あいは両手で杖を握り直した。

手のひらが汗ばんでいる。杖が滑りそうで、指に余計な力が入る。

「ラブ、肩の力を抜いて」

「む、無理です……」

「無理でも、少しだけ」

アムルの声は、落ち着いていた。

「杖の先を妖魔へ向ける。大きな攻撃をしようとしなくていい。まずは、光を届けるつもりで」

「光を、届ける……」

あいは小さく繰り返した。

攻撃する。倒す。戦う。

そう考えると、怖くて体が固まる。

けれど、光を届ける。

その言い方なら、ほんの少しだけ想像できた。

夜道に立つ黒い影。街灯の光が届かない暗がり。そこへ、小さな光を向ける。

それだけ。

まずは、それだけでいい。

あいは震える腕を上げた。

杖の先端にあるハート型の装飾が、黒い影の方を向く。マジカル・ビジョンの視界の中で、杖の先から妖魔までの距離が、淡い線のように感じられた。

数字が見えたわけではない。

けれど、距離がある。方向がある。自分の手元から、あの黒いもやまで、一本の道筋がある。

そう意識した瞬間、あいの呼吸がわずかに整った。

「そう。いいわ」

アムルが言った。

「そのまま唱えて。ラブ・ショット」

「ラブ……ショット……」

あいは呪文を口の中で確かめた。

また、恥ずかしい名前だと思った。

けれど、さっきの「ラブ・レボリューション」よりは、少しだけ短い。声に出すのはやっぱり恥ずかしいけれど、今は言わなければならない。

黒い影が、また地面を這うように揺れた。

先ほどのような攻撃が来るかもしれない。そう思った瞬間、あいの胸元のリボンが淡く光る。

怖い。

でも、何もしなければ、また倒される。

あいは杖を握る手に力を込めた。

「……ラブ・ショット!」

声は震えていた。

それでも、杖は反応した。

先端のハート型の装飾に、ピンク色の光が集まる。小さな光だった。けれど、夜道の暗がりの中では、驚くほどはっきりと見えた。

次の瞬間、その光が丸い弾となって放たれる。

速い。

けれど、目で追えないほどではない。ピンク色の光弾は、あいが向けた杖の先からまっすぐ伸び、黒い影の表面へぶつかった。

ぱん、と小さな音がした。

黒い影が、ぐにゃりと揺らぐ。

「当たった……?」

あいは思わずつぶやいた。

妖魔は消えていない。

倒れてもいない。

けれど、確かに揺らいだ。黒いもやの表面が、光の当たった場所から波紋のように乱れている。

「当たった……!」

今度は、自分でも少し驚くくらい、声に力が入った。

アムルがうなずく。

「ええ。今のでいいの」

「でも、倒れてません……」

「初級魔法だけで消滅させるのは難しいわ。けれど、妖魔の動きを乱すことはできる。今の一撃で、相手の形が崩れた」

あいは、マジカル・ビジョン越しに妖魔を見た。

黒い影の輪郭が、先ほどよりも不安定になっている。人の形に近かったものが、煙のように広がり、また集まろうとしている。

完全には倒せていない。

でも、何もできなかったわけではない。

その事実が、あいの胸に小さく灯った。

「私でも……魔法、使えたんですね」

「使えたわ。あなた自身の力よ」

アムルの言葉に、あいは杖を見つめた。

手の中の杖は、まだ淡く温かい。先端のハートには、さっきの光の余韻が残っているように見えた。

怖さは消えない。

むしろ、今の一撃で妖魔がこちらに反応したように見えて、怖さは増しているかもしれない。

けれど、あいの中にあった「何もできない」という思いは、少しだけ形を変えていた。

できるかもしれない。

ほんの少しだけなら。

アムルの指示を聞いて、マジカル・ビジョンを見て、杖を前に向ければ。

あいにも、何かができるのかもしれない。

その時、妖魔の中心部で黒いもやが強く渦を巻いた。

マジカル・ビジョンの視界が、わずかに赤く揺れる。

あいは反射的に杖を構え直した。

「アムルさん、今の……」

「ええ。形が崩れたことで、内側が見えやすくなった」

アムルの声が、少しだけ鋭くなる。

「次は、妖魔の中心を探すの」

「中心……?」

「コアよ。妖魔を消滅させるには、コアを破壊する必要がある」

コア。

その言葉を聞いた瞬間、あいはマジカル・ビジョンの奥で揺れる黒い影を見つめた。

黒いもやの流れ。

光弾が当たった場所から広がる乱れ。

集まってはほどける輪郭。

その中に、何か中心になる点がある。

そう考えた途端、恐怖でいっぱいだった頭の中に、別の感覚が生まれた。

探さなければ。

見つけなければ。

あいは杖を握りしめた。

初めて撃った小さな魔法は、妖魔を倒せなかった。

けれど、次に見るべきものを、あいに教えてくれた。


◆ コアの発見


ラブ・ショットが当たった場所から、黒いもやが波紋のように乱れていた。

けれど、妖魔は倒れない。

むしろ、崩れた輪郭を無理やり集め直すように、黒い影はゆっくりと形を戻していく。人のようにも見える。煙の塊のようにも見える。マジカル・ビジョン越しに見ても、その姿はまだ不安定だった。

「あ、当たったのに……」

あいは杖を握ったまま、かすれた声でつぶやいた。

「どうして、消えないんですか……?」

「妖魔は、表面を攻撃しただけでは消えないわ」

アムルが答える。

その声は落ち着いていたが、油断していいという響きではなかった。

「中心にあるコアを破壊する必要があるの」

「コア……」

あいは、前の章で聞いたばかりの言葉を繰り返した。

中心。

核。

そこを壊さなければ、妖魔は消えない。

意味はわかる。けれど、目の前の黒い影には、はっきりした形がない。どこが中心なのか、どこを狙えばいいのか、すぐにはわからなかった。

黒いもやが地面を這い、ふわりと上へ持ち上がる。

マジカル・ビジョンの視界の端に、淡い赤色がにじんだ。

また攻撃が来る。

そう思った瞬間、あいの肩に力が入った。

「ラブ、動きを止めるの。もう一度、ラブ・ショット」

「は、はい……!」

あいは杖を前に向けた。

さっきよりは、ほんの少しだけ動作が早かった。まだ怖い。手も震えている。けれど、何をすればいいのかが一つだけわかっていると、体はかろうじて動いた。

杖の先端にピンク色の光が集まる。

「ラブ・ショット!」

小さな光弾が放たれ、妖魔の左側へぶつかった。

黒い影が揺らぐ。

「もう一発。今度は少し右」

「右……」

あいはマジカル・ビジョン越しに妖魔を見た。

右側。

けれど、ただ右に撃てばいいわけではない。妖魔の輪郭はゆらゆらと揺れていて、見えている端と本当の厚みがずれているように感じる。

あいは息を止めた。

黒いもやの流れを見る。

光弾が当たった場所から、波が広がっている。波は輪郭全体に広がるのではなく、内側のどこかへ吸い込まれるように流れていた。

そこに、中心があるのかもしれない。

「……少し、内側」

「え?」

アムルがあいを見上げる。

あい自身も、自分が何を言ったのか一瞬わからなかった。

けれど、マジカル・ビジョンの中で見えている揺らぎを追うと、そう思えた。

見えている輪郭の右端ではない。

そこから少し内側。黒いもやが一度沈み込むように曲がる場所。

あいは杖の角度をほんの少しだけ変えた。

「ラブ・ショット!」

二発目の光弾が飛ぶ。

今度は、妖魔の右寄りの部分に当たった。

ぱん、と小さな光が弾ける。

黒い影が大きく歪んだ。先ほどよりも、はっきりと形が崩れる。

「いいわ、ラブ。その調子」

アムルの声に、あいはほんの少しだけ息を吸えた。

偶然ではなかった。

少なくとも、今の一撃は、ただ撃ったわけではない。

見て、考えて、角度を変えた。

それが当たった。

怖さでいっぱいだった胸の中に、小さな隙間ができる。

「次は、上から来るわ」

マジカル・ビジョンの表示が赤く揺れた。

黒い影の上部が膨らみ、鞭のようなもやが持ち上がる。

「避けて!」

アムルの声に、あいは反射的に横へ動こうとした。

けれど、やはり体は遅い。完全には避けられない。黒いもやが杖の先をかすめ、あいの腕に重たい空気のような衝撃が伝わった。

「っ……!」

よろめきながらも、あいは倒れなかった。

杖を離さなかった。

胸元のリボンが、かすかに光っている。

「大丈夫?」

「だ、大丈夫……だと思います」

声は震えていた。

けれど、あいは妖魔から目を逸らさなかった。

今、攻撃のために妖魔の形が伸びた。その瞬間、黒いもやの流れが乱れた。上に伸びた部分から戻るように、影の内側へ黒い線が集まっていく。

線。

いや、線のように見える流れ。

その流れの先が、さっきの光弾の波紋と重なっている。

あいの頭の中で、点と点がゆっくりつながった。

数学の図形問題を解く時に似ていた。

ばらばらに見える条件を、一つずつ拾っていく。角度。長さ。交わる線。隠れている補助線。

すぐに答えが見えるわけではない。

けれど、どこを見ればいいのかは、少しずつわかってくる。

「……中心は、見えている場所と少しずれてる」

あいは小さく言った。

「妖魔の真ん中じゃなくて、もやが集まる場所……」

マジカル・ビジョンの視界が、淡く反応した。

黒い影の奥に、ほんの一瞬、赤い点が浮かぶ。

すぐに消えた。

あいは目を見開いた。

「今……!」

「見えた?」

「赤い点が、一瞬だけ……!」

「それがコアよ。まだ捕捉が不安定なの。もう少し形を崩して、位置を確定させるわ」

アムルの声が鋭くなる。

「ラブ・ショットを連続で撃って。無理に強くしなくていい。ずらして当てるの」

「ずらして……」

あいは杖を構え直した。

怖い。

でも、見えかけている。

答えに近づいている。

そう思った瞬間、震えとは別の緊張が指先に集まった。

一発目は左下。

「ラブ・ショット!」

ピンク色の光弾が妖魔の足元に近いもやへ当たる。

黒い影が下から揺らぐ。

二発目は右上。

「ラブ・ショット!」

今度は、持ち上がりかけていた黒いもやを横から叩く。

影の輪郭が大きく歪む。

三発目は、少し奥。

見えている表面ではなく、もやの流れが沈む場所。

あいは息を止め、杖の角度を細かく変えた。

「ラブ・ショット!」

三つ目の光弾が当たった瞬間、妖魔の中心部が大きく波打った。

マジカル・ビジョンが反応する。

視界の中央に、赤い光点が浮かび上がった。

今度は消えない。

黒いもやの奥、見えている輪郭から少し右にずれた位置。胸の高さに近い場所で、赤い点が鼓動のように明滅している。

《コア反応、捕捉》

淡い表示が視界に浮かんだ。

あいは息を呑む。

見つけた。

妖魔の中心。

倒すために狙うべき場所。

「アムルさん……見えます」

あいは震える声で言った。

「あそこに、赤い点が……」

「ええ。あれがコアよ」

アムルがうなずく。

「次は、そこを撃ち抜く」

あいの手に、じわりと汗がにじんだ。

ラブ・ショットでは、妖魔を崩すことはできた。けれど、あのコアを壊すには、もっと強い力が必要なのだと直感した。

胸元のリボンが、淡く光る。

杖の先端のハートも、それに応えるように小さく輝いた。

赤い点は、黒いもやの中で明滅している。

逃げたい気持ちはまだあった。

けれど、今はそれ以上に、見失ってはいけないと思った。

ここまで見つけたのだから。

次にやることは、もう決まっている。

アムルが静かに告げた。

「ラブ。必殺技の準備をして」


◆ ラブ・バースト


「必殺技……」

あいは、アムルの言葉をかすれた声で繰り返した。

マジカル・ビジョンの中央には、赤い光点が浮かんでいる。

黒いもやの奥で、鼓動のように明滅する小さな点。さっきまで見えなかった妖魔の中心。コアと呼ばれるもの。

そこを破壊しなければ、妖魔は消えない。

理屈はわかった。

けれど、わかったからといって、すぐにできるわけではなかった。

あいの手は震えている。杖を握る指には、力が入りすぎていた。さっきから何度もラブ・ショットを撃ったせいか、腕も少し重い。

目の前の妖魔は、まだ揺れている。

ラブ・ショットで崩された輪郭を無理やり集め直しながら、黒い影はじわじわと近づいてくる。赤いコアを隠すように、黒いもやが何重にも重なっていた。

「アムルさん……私に、できるんでしょうか」

あいは、赤い点から目を離せないまま言った。

「ラブ・ショットでも、倒せなかったのに……」

「ラブ・ショットは、コアを見つけるための道を開いたの」

アムルの声は、静かだった。

「次は、その道をまっすぐ通す。あなたが見つけた位置へ、あなたの力を届けるの」

「私が、見つけた……」

あいは、小さく息を吸った。

たしかに、赤い点は見えている。

ただ見えているだけではない。黒いもやの流れ。ラブ・ショットが当たった時の揺らぎ。輪郭と中心のずれ。そういうものを一つずつ追って、ようやく見つけた場所だった。

見失ってはいけない。

あいは杖を胸元へ寄せた。

胸元のピンクのリボン。その中心にある小さなブローチが、淡く光っている。

「ブローチに触れて」

アムルが言った。

「あなたの中の力を、杖へ集めるの」

あいは、左手でそっとブローチに触れた。

温かい。

指先から、胸の奥へ光が染み込んでくるような感覚があった。

怖さは、まだ消えない。

妖魔は目の前にいる。黒いもやは、今にもまた襲いかかってきそうだった。短いスカートの裾が夜風に揺れるたび、自分がどれほど非日常の中に立っているのかを思い知らされる。

逃げたい。

今すぐ家に帰りたい。

そう思った瞬間、あいの脳裏に、家の光景が浮かんだ。

マンションの玄関。

いつもの靴箱。

母が台所で立てる、食器の小さな音。

遅く帰ってきた父が、少し疲れた顔で、それでも柔らかく笑うところ。

自分の部屋の机。読みかけの本。明日の予習ノート。制服をハンガーにかけて、眼鏡を外して、ようやく息をつける夜の時間。

特別なものではない。

けれど、あいにとっては、ちゃんと帰りたい場所だった。

その日常が、今は黒い影の向こう側にある。

あいは唇を噛んだ。

怖いから逃げたい。

でも、帰りたいからこそ、ここで立っていなければならない。

胸元のブローチが、強く光った。

その光が杖へ流れていく。あいの手の中で、細身の杖が温かく震えた。先端のハート型の装飾に、ピンク色の光が集まり始める。

最初は、小さな灯りだった。

それが少しずつ大きくなり、夜道の空気を照らす。街灯の薄い光とは違う。もっと柔らかくて、けれどまっすぐな光。

妖魔が、うねるように動いた。

黒いもやがコアの前へ集まっていく。あいの視界の中で、赤い点が見えたり隠れたりを繰り返した。

「ラブ、焦らないで」

アムルが言った。

「見えている点だけを追うの。あなたなら、角度を合わせられる」

「角度……」

あいは、杖を構えた。

赤い点は、妖魔の見た目の中心から少し右にずれている。真正面から撃てば、黒いもやに逸らされるかもしれない。

ほんの少し、杖を傾ける。

右へ。少し上へ。

ラブ・ショットを撃った時に見えた、もやの流れの奥。

そこへ、光を通す。

手は震えている。

でも、狙う場所は見えている。

あいは息を吸った。

胸の奥が熱くなる。ブローチの光が杖へ、杖の先端へ、一直線に流れていく。

「愛の光よ――」

声が、夜道に響いた。

恥ずかしさはあった。

けれど、それ以上に、帰りたい場所を守りたい気持ちがあった。

あいは赤いコアを見つめ、杖をまっすぐ向けた。

「ラブ・バースト!」

杖の先端に集まった光が、一気に収束した。

次の瞬間、ピンク色の光が一直線に放たれる。

それはラブ・ショットよりも太く、速く、まっすぐだった。夜道の空気を切り裂くように伸びた光は、黒いもやの層を貫き、妖魔の中心へ向かって進む。

黒い影が抵抗するようにうねった。

けれど、光は曲がらなかった。

マジカル・ビジョンの中で、赤い点が大きく映る。

あいは歯を食いしばった。

「届いて……!」

光が、コアを撃ち抜いた。

赤い点が、一瞬だけ強く輝く。

そして、砕けた。

ガラスが割れるような、澄んだ音が夜道に響いた。

妖魔の黒い体が大きく膨らみ、次の瞬間、無数の破片のように崩れていく。黒い破片は地面に落ちる前に光を帯び、細かな粒子となって空へほどけた。

さっきまで夜道を覆っていた重苦しい気配が、すっと薄れていく。

黒いもやは、もう形を保てなかった。

光の粒子が、静かな夜風に流されるように消えていく。

マジカル・ビジョンの赤い表示も、ゆっくりと薄くなった。

あいは杖を構えたまま、しばらく動けなかった。

息が荒い。

腕が重い。

胸元のリボンの光も、少し弱くなっている。

それでも、妖魔はもういなかった。

「……消えた……?」

あいの声は、自分でも驚くほど小さかった。

アムルが、そっと隣へ歩み寄る。

「ええ。コアの破壊を確認したわ」

その言葉を聞いた瞬間、あいの膝から力が抜けそうになった。

杖を支えにして、なんとか立っている。

怖かった。

本当に怖かった。

今になって、全身が震え出す。

「私……倒したんですか」

「あなたが倒したのよ、ラブ」

アムルの声は、少しだけ誇らしげだった。

あいは、妖魔がいた場所を見つめた。

そこにはもう、黒い影はない。

あるのは、いつもの細い道と、頼りない街灯の光だけだった。

けれど、あいにはわかっていた。

何もなかったことには、ならない。

自分は変身した。

杖を呼び出した。

魔法を撃った。

そして、妖魔を倒した。

胸元のリボンが、最後にもう一度だけ淡く光る。

あいは震える指で杖を握りしめ、小さく息を吐いた。

「帰りたい……」

ぽつりとこぼれた言葉は、あまりにも正直だった。

アムルは責めなかった。

ただ、静かにあいを見上げる。

「ええ。まずは、帰りましょう」

その言葉を聞いて、あいはようやく、自分がまだ家のすぐ近くにいることを思い出した。

マンションは、黒い影が消えた向こう側にある。

帰る場所は、まだそこにあった。


◆ 変身解除


妖魔が消えた夜道には、急に静けさが戻っていた。

さっきまで黒いもやがうねっていた場所には、もう何もない。割れたガラスのように砕けた黒い破片も、空へほどけていった光の粒子も、目を凝らしても見つからなかった。

街灯の薄い光。

マンションへ続く細い道。

遠くから聞こえる車の走る音。

それだけなら、いつもの帰り道と何も変わらない。

けれど、あいの手の中にはまだ杖があった。

胸元には大きなピンクのリボン。肩には紺色のセーラー襟。腹部の露出したトップスと、短い濃紺のスカート。目元には、眼鏡の上から重なるマジカル・ビジョン。

全部、現実だった。

「……終わったんですよね?」

あいは、震える声で尋ねた。

自分でも驚くほど、足に力が入っていなかった。ラブ・バーストを撃った直後から、全身がふわふわしている。怖さが遅れて押し寄せてきたようで、杖を支えにしていないと、その場に座り込んでしまいそうだった。

アムルは妖魔がいた場所を見つめてから、静かにうなずいた。

「ええ。コアは破壊されたわ。もう、あの妖魔は消滅している」

「よかった……」

あいは小さく息を吐いた。

胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどける。

けれど、安心した次の瞬間、自分の格好が目に入った。

短いスカートが、夜風にふわりと揺れる。

「……っ」

あいは反射的にスカートの裾を押さえた。

戦っている間は、それどころではなかった。転んだ時にも十分恥ずかしかったけれど、妖魔が目の前にいたから、まだ意識の全部を持っていかれずに済んでいた。

でも、戦いが終わった今は違う。

静かな住宅街。

マンションの手前。

誰かが通りかかってもおかしくない場所。

そんなところに、自分はこの姿で立っている。

「ア、アムルさん……!」

「どうしたの?」

「どうしたの、じゃないです……! この格好、戻せますよね? 戻せるんですよね?」

自分でも必死すぎる声だと思った。

けれど、仕方がない。あいにとっては、妖魔が消えたあとの今こそ、別の意味で危機だった。

アムルは少しだけ目を細めた。

笑ったのかもしれない。猫の表情なので、はっきりとはわからない。

「もちろん。変身解除の呪文があるわ」

「解除の呪文……」

「ピースフル・モーメント。そう唱えて」

「ピースフル・モーメント……」

あいは口の中でそっと繰り返した。

ラブ・レボリューション。

ラブ・ショット。

ラブ・バースト。

そして、ピースフル・モーメント。

今日だけで、ありえないくらい多くの言葉を唱えた気がする。どれも今朝の自分なら、絶対に声に出せなかったような言葉ばかりだった。

それでも、この呪文だけは、早く唱えたかった。

あいは杖を胸元へ寄せた。

ピンクのリボンの中心にあるブローチが、まだ淡く光っている。さっきラブ・バーストを撃った時の熱が、ほんの少しだけ残っているようだった。

「落ち着いて。戦いを終える言葉よ」

アムルが言った。

「あなた自身に、もう大丈夫だと伝えるつもりで唱えて」

もう大丈夫。

その言葉に、あいはゆっくり息を吸った。

本当に大丈夫なのかは、まだわからない。何が起きたのかも、どうして自分が選ばれたのかも、アムルが何者なのかも、何もわかっていない。

それでも、妖魔は消えた。

今は、家に帰れる。

そう思いたかった。

あいは目を閉じ、震える唇で呪文を唱えた。

「……ピースフル・モーメント」

胸元のブローチが、ふわりと白く光った。

その光は、ラブ・バーストの時のような強い輝きではなかった。もっと静かで、柔らかい。疲れた体を包み込むように、胸元から肩へ、腕へ、腰へ、足元へと広がっていく。

まず、手の中の杖が軽くなった。

「あ……」

細身の杖が、淡い光の粒子へほどけていく。先端のハート型の装飾が最後に小さく瞬き、夜気に溶けるように消えた。

続いて、目元のマジカル・ビジョンが薄れていく。

眼鏡の上に重なっていた白い光膜が、輪郭からゆっくりほどけた。視界から、妖魔の残滓や淡い表示の気配が消えていく。

夜道は、ただの夜道に戻った。

少し暗くて、街灯の光が頼りない、いつもの道。

そして、魔法戦士の衣装も光に包まれた。

紺色のセーラー襟がほどける。胸元の大きなピンクのリボンが、細かな光の粒子になって散っていく。腹部を撫でていた夜風の感触が、ふっと遠のいた。

短い濃紺のスカートが光に変わり、代わりに見慣れた布の重みが腰に戻ってくる。

白い半袖ブラウス。

薄手の紺色ブレザー。

胸元のピンク色のリボンタイ。

緑と紺のチェック柄のスカート。

制服だった。

あいは、思わず両手でスカートを押さえた。

膝頭が見えるくらいの、いつもの丈。

さっきまでの戦闘服に比べれば、ずっと落ち着いていて、ずっと安心できる長さだった。

「戻った……」

心の底から、声が漏れた。

たった数分前まで当たり前だった制服姿が、今は信じられないほどありがたかった。ブレザーの袖の感触も、ブラウスの襟元も、リボンタイの結び目も、全部が自分を日常へ引き戻してくれる。

あいは胸元を押さえ、深く息を吐いた。

「よかった……本当に戻った……」

「変身解除も問題ないわね」

アムルが言った。

あいはその言葉に、少しだけ眉を下げた。

「問題ない、って……アムルさん、落ち着きすぎです」

「私は指導役だから」

「私は、全然落ち着いてません……」

「それで普通よ」

アムルは静かに答えた。

「初めて妖魔と遭遇して、初めて変身して、初めて魔法を使った。震えている方が自然だわ」

その言葉を聞いた途端、あいの目の奥が少し熱くなった。

怖かった。

恥ずかしかった。

何もわからないまま、ただ必死だった。

それを「自然だ」と言われただけで、張りつめていたものが少し緩んだ。

あいは眼鏡の位置を直し、妖魔がいた場所をもう一度見た。

黒い影はない。

けれど、そこに何かがいたことを、あいは知っている。

自分が変身したことも、魔法を使ったことも、もう知らなかったことにはできない。

「……これ、夢じゃないんですよね」

「夢ではないわ」

アムルは即答した。

あいは小さくうなだれた。

「ですよね……」

できれば、夢だったと言ってほしかった。

けれど、そうではないこともわかっていた。制服に戻っても、手のひらにはまだ杖を握っていた感覚が残っている。胸の奥には、ブローチの光の温かさが残っている。

夜風が吹いた。

今度は、いつもの制服のスカートが控えめに揺れた。

あいはそれだけで、少しだけ安心した。

「帰りましょう」

アムルが言った。

「あなたには、説明しなければならないことがある」

あいはマンションの方を見た。

家は、すぐそこにある。

けれど、帰ったあとも、きっと今まで通りにはならない。

それでも今は、玄関の明かりが恋しかった。

「……はい」

あいは小さくうなずいた。

まだ震えの残る足で、マンションへ向かって歩き出す。

制服に戻ったはずなのに、胸の奥には、さっきまでの光がまだ消えずに残っていた。


◆ しかしそれもつかの間


制服に戻ったことで、あいはようやく少しだけ息ができるようになった。

白い半袖ブラウス。薄手の紺色ブレザー。胸元のピンク色のリボンタイ。緑と紺のチェック柄のスカート。

いつもの自分に戻っている。

そのことを確かめるように、あいはもう一度、スカートの裾をそっと押さえた。膝頭が見えるくらいの、見慣れた長さ。さっきまでの戦闘服に比べれば、信じられないほど落ち着く。

「……本当に、戻ってる」

小さくつぶやくと、胸の奥にあった緊張が少しだけほどけた。

けれど、すべてが元通りになったわけではない。

手のひらには、まだ杖を握っていた感覚が残っている。胸の奥にも、ラブ・バーストを撃った時の熱がかすかに残っていた。

夜道は静かだった。

妖魔がいた場所には、もう何もない。街灯の光が頼りなくアスファルトを照らし、遠くで車の音が小さく流れているだけだ。

あいはマンションの方を見た。

エントランスの明かりが見える。

いつもの帰り道なら、その光を見ただけでほっとした。もう家だ。もう大丈夫だ。そう思える場所だった。

今日も、そのはずだった。

「帰りましょう」

アムルが言った。

あいはうなずきかけて、そこで動きを止めた。

「……え?」

足元にいる黒猫を見る。

アムルは当然のように、あいの隣を歩き出そうとしていた。

「あの、アムルさん」

「何?」

「帰るって……もしかして、ついてくるんですか?」

「ええ」

あまりにも自然な返事だった。

あいは思わず瞬きをした。

「ええ、って……」

「今夜、説明しなければならないことがあるわ」

アムルは落ち着いた声で言った。

「妖魔のこと。魔法戦士のこと。そして、あなた自身のこと」

「それは……聞かなきゃいけないんだと思いますけど」

あいは言いながら、マンションのエントランスへ視線を向けた。

黒猫。

しゃべる黒猫。

しかも、さっき白い光の中から現れて、妖魔と呼ばれる黒い影について説明し、あいを魔法戦士に変身させた黒猫。

その存在を、家に連れて帰る。

考えただけで、頭が痛くなりそうだった。

「でも、家には母がいますし……父も、たぶん遅くには帰ってきます。猫を連れて帰ったら、びっくりされます」

「心配しなくていいわ」

「心配します」

あいは即答した。

自分でも少し強い言い方になった気がして、すぐに声を小さくする。

「その……うちは、急に猫を飼えるかどうかもわからないですし。そもそもアムルさん、普通の猫じゃないですよね?」

「普通の猫ではないわね」

「ですよね……」

否定してほしかったような、してほしくなかったような返事だった。

あいはため息をつきかけて、慌てて飲み込んだ。さっき助けてもらったばかりなのに、ため息をつくのは失礼な気がした。

アムルは、あいの心配を読んだように、静かに続ける。

「今すぐ、あなたの家族の前に姿を見せるつもりはないわ」

「え?」

「今日は、あなたが無事に帰れるところまで見届けるだけ」

その言葉に、あいは少しだけ力が抜けた。

「そう、なんですか……」

「ええ。ただし、説明は必要よ。今夜、あなたが一人になれる時間に、改めて会いに行くわ」

「改めて……?」

あいが聞き返すと、アムルはそれ以上答えなかった。

黒猫は、細い尻尾をゆっくりと揺らしながら、マンションへ向かって歩き出す。

あいは慌ててその後を追った。

おかしな光景だった。

学校帰りの女子高生が一人、夜のマンション前で黒猫と話しながら歩いている。自分でそう考えると、あいは急に不安になって周囲を見回した。

誰もいない。

それだけで、少しほっとする。

エントランスの自動ドアの前まで来ると、あいは足を止めた。

ガラス越しに、一階の明るい空間が見える。集合ポスト、エレベーターへ続く通路、静かな照明。いつもなら何も考えずに通り過ぎる場所が、今日は妙に現実的に見えた。

ここを抜ければ、家だ。

母がいる日常へ戻れる。

けれど、今日の出来事を抱えたまま、今まで通りの顔で玄関を開けられるだろうか。

あいは通学鞄の持ち手を握りしめた。

「アムルさん」

「何?」

「私……普通にしていられるでしょうか」

言ってから、あいは自分の声がひどく心細いことに気づいた。

「母に、変に思われないでしょうか。顔に出るかもしれません。私、嘘とか、あまり得意じゃないので……」

アムルはあいを見上げた。

夜の中でも、その瞳は静かだった。

「無理に嘘をつく必要はないわ。疲れた、と言えばいい」

「疲れた……」

「それは本当でしょう?」

あいは少しだけ目を伏せた。

たしかに、疲れている。

体も、心も。

妖魔と戦ったことを言えなくても、疲れていることは嘘ではない。

「……はい。すごく、疲れました」

「なら、まずは帰って、休みなさい」

アムルの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

「今夜の説明は、そのあとでいいわ」

その言い方に、あいは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

怖い存在ではない。

少なくとも、アムルはあいを追い詰めようとしているわけではない。さっきもそうだった。怖がるあいを急かしはしたけれど、見捨てはしなかった。

あいは小さくうなずいた。

「わかりました」

自動ドアが、静かに開いた。

あいはエントランスへ一歩入る。

そのすぐ後ろを、アムルも当然のようについてきた。

「え、アムルさん、本当にここまで……」

「ここまでよ」

アムルは一階の床に静かに降り立つと、エレベーターへ続く通路の手前で足を止めた。

あいも立ち止まる。

明るいエントランスの中で見るアムルは、さっきの夜道よりも少し小さく見えた。けれど、額のハート型の紋だけは、淡い光を帯びている。

「ここから先は、あなた一人で帰りなさい」

「……アムルさんは?」

「今は消えるわ」

「消える?」

あいが聞き返すより早く、アムルの足元に白い光が滲んだ。

それは、最初にアムルが現れた時と同じ、やわらかな光だった。

「あいさん」

アムルが言った。

その呼び方に、あいは少しだけ背筋を伸ばす。

「今夜、あなたの部屋で会いましょう」

「えっ、私の部屋で……?」

「ええ。説明はその時に」

「ま、待ってください。どうやって部屋に……」

言い終える前に、白い光がふわりと広がった。

アムルの姿が、その光の中で輪郭を薄くしていく。

黒い毛並みも、額のハートの紋も、静かな瞳も、淡い粒子にほどけるように見えなくなっていった。

「アムルさん……!」

あいが思わず声を上げる。

けれど、次の瞬間にはもう、そこには何もいなかった。

一階のエントランスには、いつもの照明と、静かな床と、あい一人だけが残されていた。

あいはしばらく、その場に立ち尽くした。

消えた。

本当に消えた。

さっきまでは、しゃべる黒猫がいることに驚いていたのに、今度はその黒猫が目の前で消えたことに驚いている。

今日一日で、驚くことが多すぎる。

「……私の部屋で会いましょう、って」

あいは小さくつぶやいた。

どういう意味なのか。

どうやって来るのか。

部屋に突然現れるつもりなのか。

考えれば考えるほど、不安しかない。

けれど、それでも今は、帰るしかなかった。

あいはエレベーターの方へ歩き出す。

足取りは重い。体は疲れている。けれど、家の明かりが近づいていると思うと、少しだけ安心できた。

鞄の持ち手を握り直し、あいは小さく息を吐く。

妖魔は消えた。

変身も解けた。

アムルも、今はいない。

それなのに、胸の奥ではまだ、何かが始まってしまった感覚が消えなかった。

エレベーターの扉が開く。

あいはその中へ入り、振り返って一階のエントランスを見た。

アムルが消えた場所には、もう光の欠片も残っていない。

けれど、あの声だけが、耳の奥に残っていた。

今夜、あなたの部屋で会いましょう。

あいはエレベーターのボタンを押した。

扉が閉まっていく。

日常へ戻るための、いつもの小さな箱。

けれど、今夜だけは、その先に待っているものが、いつもとは少し違っている気がした。



◆用語説明


【マジカル・ビジョン (Magical Vision)】

魔法戦士が変身完了時の最後に自動展開する、拡張視覚デバイス。

目の周囲に薄い魔力膜として形成され、透過性のある白系フレームを持つ。外見は全員ほぼ同じ大きさで、魔法戦士である証としても機能する。

宮本あいの場合は、普段の眼鏡の上に重なる形で装着される。これは、変身時に魔力が眼鏡の輪郭を読み取り、その形状に合わせてフィットする仕様によるもの。

主な機能は以下のとおり。

・妖魔の存在を視認しやすくする

・妖魔のコア位置を解析する

・敵の攻撃予測を警告する

・変身者の顔や声の特徴を魔力で保護し、正体を悟られにくくする

この正体保護機能は「アイデンティティ・シールド」と呼ばれる。変身後の魔法戦士の顔や声の特徴が認識されにくくなるのは、この機能によるものである。


【妖魔 (ようま)】

夜や日光の届かない場所に現れる、黒い霧のような存在。

身体は常に揺らめいており、一定の形を保たない。その中心部には、「コア」と呼ばれる核が潜んでいる。

妖魔は人間の負の感情に引き寄せられ、人目につきにくい暗がりや隙間、感情が滞留しやすい場所に現れることがある。

妖魔を消滅させるには、コアを破壊する必要がある。コアが砕かれると、身体を構成する黒い霧は光子状にほどけ、量子的に分解されて消滅する。

また、妖魔は太陽光に極端に弱い。直接光を浴びると不安定な力の流れが乱れ、コアを中心に全身が分解されてしまう。そのため、午前中の明るい場所では弱まりやすく、午後や夜、影の濃い場所では輪郭がはっきりしやすい。

妖魔は感情由来の量子的存在であり、基本的に意思や言語能力を持たない。

一般人には黒い影の揺らぎ程度にしか見えず、その正体をはっきり認識できるのは魔法戦士だけである。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


ご意見・ご感想をいただけると、とても励みになります。

「こんなシチュエーションが見たい」「こういう展開はどうですか?」など、お気軽にコメントをいただければ嬉しいです。

今後の物語づくりの参考にさせていただきますので、ぜひ一言でもお寄せください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ