はじめての変身
ようこそ『美少女魔法戦士マジカルラブ』へ。
第1話では、控えめで真面目な高校生・宮本あいが、思いがけず“魔法戦士”に選ばれてしまう場面を描いています。
突然の出来事に戸惑いながらも、あいが初めて非日常へ踏み出すお話です。
気軽に読んでいただけると嬉しいです。
◆ 六月下旬の帰り道
六月下旬の夜は、まだ夏になりきっていないはずなのに、昼間の熱だけを街のあちこちに残していた。
午後八時を少し過ぎた駅前には、帰宅する会社員や塾帰りらしい学生の姿がまばらに流れている。改札を抜けた宮本あいは、肩にかけた通学鞄の位置を直しながら、小さく息をついた。
「……今日も、遅くなっちゃった」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやく。
白い半袖ブラウスの上には、薄手の紺色ブレザー。胸元には学校指定のピンク色のリボンタイ。緑と紺のチェック柄のスカートは、膝頭が見えるくらいの長さで、歩くたびに控えめに揺れていた。
私立さくら女子高等学校、三年生。
それが、宮本あいの今の肩書きだった。
名前を聞かれても、あいはいつも少しだけ迷う。別に、自分の名前が嫌いなわけではない。ただ、初対面の相手に自分のことを説明するのが、あまり得意ではなかった。
宮本あい。十八歳。高校三年生。
黒髪を左右で結んだツインテールに、細いフレームの眼鏡。成績は悪くない。特に数学は好きだった。答えがひとつに定まる問題は、落ち着いて考えれば道筋が見えてくるからだ。
けれど、人の気持ちはそうはいかない。
相手が何を考えているのか。自分の言葉で誰かを傷つけていないか。今、笑った方がいいのか、それとも黙っていた方がいいのか。
そういうことばかり考えてしまうせいで、あいは人前では少し口数が少なくなる。
友人がいないわけではない。学校生活が嫌いなわけでもない。むしろ、さくら女子の落ち着いた空気は好きだった。図書室の静けさも、教室の窓から差し込む午後の光も、休み時間に聞こえる友人たちの笑い声も、あいにとっては大切な日常だった。
ただ、自分からその中心に飛び込んでいくのは、少し苦手だった。
駅前の明るい通りを抜けると、周囲の音が少しずつ遠のいていく。店の看板の光は背中側へ流れ、代わりに住宅街の静かな街灯が、一定の間隔で歩道を照らしていた。
夜風が吹いた。
昼間の熱気をほんの少しだけ冷ました風が、ブレザーの裾とスカートをそっと揺らす。あいは片手でリボンのあたりを押さえ、もう片方の手で鞄の持ち手を握り直した。
家までは、もうそれほど遠くない。
マンションに帰れば、母が何か温かいものを用意してくれているかもしれない。父は今日も帰りが遅いだろうか。仕事が忙しい人だから、夕食の時間がずれることは珍しくない。
それでも、家に帰れば安心できる。
そう思うだけで、胸の奥に少しだけ残っていた疲れが、ゆっくりほどけていく気がした。
あいは歩く速度を少しだけ上げた。
早く帰って、着替えて、明日の予習をして、できれば寝る前に少しだけ本を読みたい。借りたままになっている本が、机の上に置いてある。続きを読むのを楽しみにしていた。
そんなことを考えていると、夜道もそれほど怖くはない。
いつもの道。いつもの街灯。いつもの曲がり角。
何も変わらない、普通の帰り道。
あいはそう思っていた。
マンションへ続く細い道が、前方に見えてくるまでは。
◆ マンション前の黒い影
マンションへ続く細い道は、いつも少し暗い。
大通りから一本入っただけなのに、店の明かりも、人の声も、急に遠くなる。街灯はある。けれど、その間隔は広く、足元を照らす光はところどころ薄く途切れていた。
あいは、その道を何度も通っている。
朝、学校へ行くとき。夕方、部活帰りの生徒たちと駅で別れたあと。今日のように、少し遅くなった夜にも。
だから本来なら、怖がるような場所ではなかった。
けれど。
「……?」
あいは、足を止めた。
マンションの手前。ちょうど街灯と街灯のあいだ、光が届きにくい場所に、何かが立っていた。
最初は、人だと思った。
帰宅途中の誰かが、スマートフォンでも見ながら立ち止まっているのかもしれない。そう考えれば、何もおかしくはない。夜の住宅街で、人とすれ違うことくらいある。
けれど、その影は動かなかった。
スマートフォンの光もない。鞄を持っている様子もない。顔も、服も、髪も、何も見えない。
ただ、黒い。
まるで、そこだけ夜が濃くなったみたいに。
あいは眼鏡の奥で、そっと目を細めた。
人の形に近い。肩のようなものがあり、頭のような丸みもある。けれど、輪郭は定まらない。見ようとすればするほど、黒いもやがゆっくりほどけて、また集まる。
風が吹いた。
ブレザーの裾が揺れる。スカートの布地が、膝のあたりをかすかに撫でた。
それなのに、影だけは風に揺れているのか、揺れていないのか、わからなかった。
胸の奥が、ひゅっと冷える。
あいは無意識に、通学鞄の持ち手を両手で握りしめた。
「……誰、ですか」
声に出してから、自分でも驚いた。
思ったよりも小さな声だった。夜道に吸い込まれてしまいそうな、頼りない声。
返事はない。
黒い影は、ただそこに立っている。
いや、立っているように見えるだけかもしれない。足元が地面についているのかどうかさえ、はっきりしなかった。
あいは一歩だけ、後ろへ下がった。
逃げた方がいい。
頭のどこかで、そう思った。
けれど、マンションは影の向こう側にある。家に帰るには、その細い道を通らなければならない。遠回りをすれば別の入口に回れるかもしれないが、夜の住宅街で知らない道を選ぶのも、それはそれで怖かった。
どうしよう。
誰かに電話するべきだろうか。母に。あるいは、警察に。
でも、何と言えばいいのだろう。
マンションの前に、黒い影がいます。
そんな説明をして、まともに取り合ってもらえるのだろうか。
あいは鞄の中のスマートフォンを探そうとして、指先がうまく動かないことに気づいた。手が、少し震えていた。
黒い影が、わずかに揺れた。
「……っ」
あいは息を呑む。
影がこちらを向いた、ような気がした。
顔なんて見えない。目も、口も、表情もない。けれど、見られている。そう感じた瞬間、背中に冷たいものが走った。
足がすくむ。
逃げたいのに、動けない。
いつもの道。いつもの街灯。いつものマンションの前。
さっきまで、何も変わらない普通の帰り道だったはずなのに。
今はもう、そこだけが知らない場所のように見えた。
黒い影の輪郭が、またゆらりと揺れる。
その中心に、ほんの一瞬だけ、濃い闇が集まったように見えた。
あいは喉の奥で、小さく声を詰まらせた。
近づいてはいけない。
理由はわからない。けれど、そう思った。
心臓の音が、耳の奥で大きく響く。
あいがもう一歩後ろへ下がろうとした、その時だった。
足元の影が、すっと伸びた。
街灯の光とは関係のない、黒いものが、地面を這うようにこちらへ近づいてくる。
「いや……」
声にならない声が、唇からこぼれた。
その瞬間、あいのすぐ横で、白い光がぱっと弾けた。
◆ アムルとの出会い
白い光が、夜道の暗がりを一瞬だけ押し返した。
あいは思わず目を閉じた。強い光だったはずなのに、不思議と痛みはない。まぶしいというより、冷えた指先を包み込むような、やわらかい光だった。
光がほどける。
その中から、小さな影がすっと地面へ降り立った。
「下がって。あれには近づいちゃだめ」
落ち着いた声だった。
けれど、その声が聞こえた瞬間、あいの思考は一度止まった。
目の前にいたのは、人ではなかった。
黒い猫だった。
夜よりも深い毛並みを持つ、小さな黒猫。街灯の光を受けて、しなやかな背中がかすかに光っている。額には、淡い光を帯びたハートのような紋が浮かんでいた。
猫は、あいと黒い影のあいだに立っていた。
まるで、あいを守るように。
「……え」
あいは、震える声をこぼした。
「ね、猫……?」
「ええ。今はそう見えているはずよ」
「しゃ、しゃべ……」
最後まで言えなかった。
猫がしゃべった。
それだけでも、頭が追いつかない。なのに、黒い影はまだそこにいる。地面を這うように伸びた黒いものが、街灯の光を避けるように揺れている。
夢だろうか。
いや、夢にしては、夜風が肌に触れる感覚がはっきりしすぎている。鞄を握る手の痛みも、胸の奥で跳ねる心臓の音も、全部本物だった。
黒猫は、あいをちらりと見上げた。
「宮本あいさん。私の後ろにいて」
「ど、どうして……」
あいの喉が、からからに乾いていた。
「どうして、私の名前を……?」
「説明は後にするわ。今は、あの妖魔から離れることが先」
「よう、ま……?」
聞いたことのない言葉だった。
けれど、その響きだけで、あいの背筋に冷たいものが走る。
黒い影が、ゆらりと形を変えた。
人のように見えた輪郭が崩れ、煙のように横へ広がる。けれど、完全には消えない。暗がりの中で集まり、また人に似た姿へ戻っていく。
それは、普通ではなかった。
人でも、動物でも、夜道に落ちたただの影でもない。
あいは一歩下がろうとした。けれど、膝がうまく動かない。
「な、何なんですか、あれ……」
「妖魔。人の負の感情に引き寄せられて、夜や暗がりに現れるものよ」
黒猫は短く答えた。
声は落ち着いている。けれど、軽く見ているわけではない。その小さな背中から、ぴんと張りつめた空気が伝わってくる。
「本来なら、あなたが一人で近づいていい相手ではないわ」
「だったら、逃げ……」
「逃げられるなら、それが一番。でも」
黒猫の尻尾が、すっと横へ伸びた。
その先を追って、あいは息を呑む。
いつの間にか、細い道の奥にも、黒いもやのようなものが広がっていた。マンションへ向かう道だけではない。駅へ戻る方の足元にも、薄い影がにじみ始めている。
完全に塞がれているわけではない。
それでも、あいにはわかった。
走って逃げようとした瞬間、あれは追ってくる。
理由も理屈もわからないのに、その確信だけが胸の奥に落ちた。
「そんな……」
あいの声が震えた。
「私、何もしてません。どうして、こんな……」
「あなたが悪いわけじゃない」
黒猫は静かに言った。
「でも、あなたには素質がある。だから、見えてしまった。そして、あれもあなたに気づいた」
「素質……?」
あいは聞き返した。
聞き返している場合ではないと、自分でもわかっていた。それでも、わからない言葉ばかりが続いて、頭が追いつかない。
黒猫は、ほんの少しだけ声をやわらげた。
「私はアムル。あなたのパートナーになる存在よ」
「パートナー……?」
「ええ。宮本あいさん。あなたは、魔法戦士になれる」
その言葉は、夜道の空気に不自然なくらいはっきり響いた。
魔法戦士。
あいは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
魔法。戦士。
どちらも、本や物語の中で見る言葉だ。現実の住宅街で、学校帰りの制服姿の自分に向けられる言葉ではない。
「む、無理です……」
反射的に、あいは首を横に振った。
「私、運動も得意じゃないし、戦うなんてできません。そんなの、絶対……」
「怖いのは当然よ」
アムルは、あいの言葉を遮らなかった。
ただ、静かに受け止めるように、あいを見上げていた。
「でも、今は私の声だけ聞いて。詳しい説明は後。まずは生き残ることが先よ」
黒い影が、また揺れた。
今度は、はっきりとこちらへ近づいている。
足音はない。けれど、暗がりそのものが一歩ずつ迫ってくるようだった。
あいの喉が引きつる。
逃げたい。
家に帰りたい。
母の声が聞きたい。いつもの部屋に戻って、制服を脱いで、何もなかったことにしたい。
けれど、黒い影は目の前にいる。
アムルはその小さな体で、あいと影のあいだに立ち続けている。
「宮本あいさん」
アムルが言った。
「あなたの中にある力を起こすわ」
あいは、震える指先で鞄を握りしめたまま、ただアムルを見つめた。
「力……?」
「ええ。あなたなら、反応する」
アムルの額のハートの紋が、淡く光った。
白い光が、あいの足元に小さな円を描くように広がっていく。黒い影が、その光を嫌がるようにわずかに揺らいだ。
アムルは、はっきりと告げた。
「落ち着いて。私の言葉を聞いて」
夜風が、あいの頬をかすめる。
胸の鼓動はまだ速い。膝も震えている。けれど、アムルの声だけは、不思議とまっすぐ届いていた。
「今から、変身するの」
あいは目を見開いた。
「へ……変身、ですか?」
アムルは静かにうなずいた。
「そう。魔法戦士として」
◆ 変身への戸惑い
「変身……って」
あいは、アムルの言葉をそのまま繰り返すことしかできなかった。
魔法戦士として変身する。
そんな言葉を、すぐに信じられるはずがない。物語の中ならともかく、ここはいつもの帰り道で、あいは学校帰りの制服姿のままだ。通学鞄だって肩にかけているし、胸元のピンク色のリボンタイも、ブレザーの袖口も、いつもと何も変わらない。
変わっているのは、目の前の黒い影と、しゃべる黒猫がいることだけ。
――それだけでも、十分おかしい。
「む、無理です……」
あいは首を横に振った。
「私、そういうの、本当に無理です。運動も苦手ですし、戦うなんて……」
「今すぐ上手に戦えとは言っていないわ」
アムルの声は、驚くほど落ち着いていた。
「まずは、あなたの中の力を起こす。それができなければ、あの妖魔から身を守ることもできない」
黒い影が、じわりと近づいた。
足音はない。けれど、地面に落ちた闇が少しずつ伸びてくる。街灯の下にいるはずなのに、影の近くの光だけが薄くなっていくように見えた。
あいは反射的に一歩下がった。
背中に冷たい汗が伝う。
逃げたい。けれど、足が思うように動かない。大声を出そうとしても、喉の奥が固まって、うまく息が吸えない。
「落ち着いて、あいさん」
アムルが言った。
「私の言葉を聞いて。胸の奥に意識を向けるの」
「胸の、奥……?」
「ええ。怖くてもいい。震えていてもいい。ただ、言葉だけははっきり唱えて」
アムルの額のハートの紋が、淡く光った。
その光に呼応するように、あいの足元に白い円が浮かび上がる。まるで夜道のアスファルトの上に、光で描かれた模様が広がっていくようだった。
あいは息を呑んだ。
これは現実なのだろうか。
現実でなければよかった。明日の朝、目が覚めたら、ただの悪い夢だったと思えたらどれだけ楽だろう。
けれど、黒い影は目の前にいる。
アムルは、小さな体であいを守るように立っている。
そして、あいの胸の奥では、聞いたことのない鼓動のようなものが、かすかに震えていた。
「唱えて」
アムルの声が、夜気をまっすぐに切った。
「ラブ・レボリューション、と」
「ラブ……」
あいの唇が震える。
恥ずかしいとか、信じられないとか、そんなことを考えている余裕はなかった。けれど、言葉にしようとした瞬間、顔が熱くなる。
だって、そんな呪文を自分が言うなんて。
学校では、できるだけ目立たないように過ごしてきた。授業で指名されれば答えるけれど、自分から大きな声を出すことは少ない。誰かの前で特別なことをするなんて、考えただけで胸が苦しくなる。
それなのに、今は。
唱えなければならない。
あいはぎゅっと目を閉じた。
怖い。
怖いけれど。
「……ラブ・レボリューション!」
声は少し裏返った。
それでも、確かに夜道へ響いた。
次の瞬間、あいの足元の光が強くなった。
「えっ……?」
白い光が、足元からふわりと舞い上がる。
制服の裾が風に揺れたのかと思った。けれど、違った。ブレザーの袖口も、スカートの端も、淡い粒子にほどけるように光へ変わっていく。
あいは慌てて胸元を押さえた。
「ちょ、ちょっと待って……!」
止めようとしても、光は止まらない。
怖さとは別の意味で、心臓が跳ねた。
光は胸の前で集まり、ピンクの大きなリボンを形づくる。
ふわり、と柔らかな感触が胸元に重なった。リボンの中心には、小さな輝きが宿り、鼓動に合わせるように一度だけ光る。
続いて、紺色のセーラー襟が肩に落ちた。
ひんやりとした夜風の感触が、首元に触れる。制服のブラウスとは違う。軽くて、動きやすくて、けれど見慣れない衣装。
腹部の露出したアスリート風のトップスが現れる。
「え、ええっ……!?」
あいは思わず両腕を体の前に寄せた。
お腹が見えている。
ほんの少し夜風が肌をなぞっただけで、全身がびくりと反応した。寒いわけではない。むしろ、光に包まれているせいか、体は不思議と温かい。
でも、恥ずかしい。
あまりにも、恥ずかしい。
短いチアリーダー風の濃紺のスカートが、軽く揺れる。
制服のスカートよりも、明らかに短い。膝どころではない。脚がすうすうする感覚に、あいの思考は一瞬で真っ白になった。
恥ずかしさが一気に顔に昇る。
「こ、これ……! こんな格好で戦うんですか!?」
「動きやすさを優先した戦闘服よ」
アムルは落ち着いた声で答えた。
「安心して。あなたを守るための魔法も組み込まれているわ」
「安心できません……!」
あいは半泣きになりながら叫んだ。
黒い影が近づいていることはわかっている。今はそんなことを気にしている場合ではないことも、頭ではわかっている。
それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。
こんな姿を誰かに見られたら、明日から学校に行けない。いや、そもそも今ここはマンションの近くだ。誰かが通りかかったらどうするのか。防犯カメラは。街灯は。窓から見ている人はいないのか。
考えれば考えるほど、顔が熱くなる。
「誰かに見られたら……」
「今はそれより、前を見て」
アムルの声が少しだけ鋭くなった。
あいははっとして顔を上げる。
黒い影が、すぐそこまで迫っていた。
さっきよりも大きく見える。人の形に近かった輪郭は崩れ、黒い霧の塊のようにうねっている。その中心だけが、妙に濃い。
あいは息を詰めた。
恥ずかしい。怖い。逃げたい。
けれど、足元に広がっていた光は、もう消えていなかった。体の奥に、先ほどまでとは違う熱がある。心臓の鼓動に重なるように、小さな光が胸元のリボンから伝わってくる。
アムルが、静かに告げた。
「大丈夫。変身は成功しているわ」
あいは、自分の手を見た。
指先に、淡い光が残っている。
信じられない。
けれど、信じるしかなかった。
宮本あいは、もうただの学校帰りの女子高生ではなかった。
少なくとも、この夜、この瞬間だけは。
「私が……」
あいは震える声でつぶやいた。
「本当に、変身しちゃったんだ……」
◆ はじめての変身
あいの足元に広がっていた光は、夜道の暗がりを静かに押し返していた。
黒い影は、光の外側でゆらゆらと揺れている。近づいてきているはずなのに、その輪郭はまるで水面に映った影のように定まらない。
けれど、あいの意識は、その影だけに向いていられなかった。
自分の体に起きている変化が、あまりにも現実離れしていたからだ。
制服は、もうほとんど光の粒子にほどけていた。
ブレザーの袖も、白いブラウスも、緑と紺のチェック柄のスカートも、夜風に散る花びらのように淡く輝きながら消えていく。
代わりに現れたのは、見慣れない戦闘服だった。
胸の前には、ピンク色の大きなリボン。中心に小さなブローチのような輝きがあり、そこから温かな光が脈打つように広がっている。
肩には紺色のセーラー襟。
上半身を包むのは、制服のブラウスとはまったく違う、軽くて動きやすいトップスだった。布地はしっかりしているのに、体の動きを邪魔しない。けれど、腹部が露出していて、夜風が肌に触れるたび、あいは肩をすくめたくなった。
腰のあたりでは、短い濃紺のスカートがふわりと揺れている。
制服のスカートよりもずっと軽い。足を少し動かしただけで、布がひらりと反応する。
あいは反射的に両手を体の前に寄せた。
「やっぱり……短すぎます……!」
声が情けないくらい震えていた。
戦わなければならない状況だということは、わかっている。黒い影はすぐそこにいる。アムルが真剣な声で何度も注意してくれている。
それでも、恥ずかしさはどうにもならなかった。
頬が熱い。耳まで熱い。
こんな格好を、自分がしている。
それだけで、頭の中がいっぱいになる。
さくら女子の制服は、きちんとしていて、落ち着いていて、あいにとって安心できるものだった。白いブラウスも、薄手の紺色ブレザーも、ピンクのリボンタイも、緑と紺のチェック柄のスカートも、毎日身につけているうちに、自分を守ってくれる殻のようになっていた。
けれど、今の衣装は違う。
隠してくれるというより、動くために作られている。
逃げるためでも、目立たないためでもなく、戦うための服。
そう思った瞬間、あいの胸がきゅっと縮んだ。
「アムルさん、本当に……これで合ってるんですか?」
「ええ。あなたの魔力に合わせて形成された、魔法戦士の戦闘服よ」
アムルは落ち着いた声で答えた。
「軽くて、動きやすくて、あなたを守る機能もある。見た目に驚くのはわかるけれど、今は信じて」
「信じるって言われても……」
あいは言いかけて、言葉を止めた。
胸元のリボンが、ふわりと光った。
その光が、全身に静かに広がっていく。足先から指先まで、温かな糸のようなものが通っていく感覚があった。
怖さは消えない。
恥ずかしさも消えない。
けれど、体が少しだけ軽くなっている。
通学鞄を肩にかけていた時とは違う。制服で歩いていた時とも違う。地面を踏む感覚が、いつもよりはっきりしていた。
あいは、自分の手を見つめた。
指先に淡い光が残っている。
本当に、変身してしまった。
そう認めるしかなかった。
「まだ終わりではないわ」
アムルが言った。
「え?」
「変身の最後に、あなたの目元へ展開されるものがある」
アムルの言葉が終わるか終わらないかのうちに、あいの視界の端が白く揺れた。
最初は、眼鏡が曇ったのかと思った。
けれど違う。
目元に、薄い光が集まっていく。
眼鏡のフレームをなぞるように、白く透き通った魔力の膜が広がった。まぶたの上でも、頬の近くでもない。普段かけている眼鏡の上に、もう一枚、淡い光の輪郭が重なるような感覚だった。
あいは思わず瞬きをした。
視界が変わる。
夜道の暗さはそのままなのに、影の濃淡が少しだけわかりやすくなった。街灯の光、アスファルトの凹凸、黒い影の周囲にまとわりつくもやの流れ。
さっきまで見ようとしても逃げていた輪郭が、完全ではないにせよ、少しだけ形を持ちはじめる。
「な、何ですか、これ……」
「マジカル・ビジョン」
アムルが答えた。
「妖魔の存在を視認し、危険を知らせ、戦闘中の情報をあなたに伝えるためのものよ」
「ま、マジカル……ビジョン……」
あいは小さく繰り返した。
名前を聞いても、すぐには理解できない。
けれど、見える。
黒い影が、ただの暗がりではないことが、さっきよりもはっきりわかる。中心に向かって、黒いもやがゆっくり流れ込んでいる。まるで、見えない何かに吸い寄せられているようだった。
視界の端に、淡い文字のようなものが一瞬だけ浮かんだ。
読もうとすると消えてしまう。けれど、そこに何かが表示されていた感覚だけは残った。
あいは息を呑んだ。
怖い。
でも、見えないものが見えることに、ほんの少しだけ心が追いついた。
わからないものは怖い。
けれど、情報があるなら、考えることはできる。
そう思った自分に、あいは少し驚いた。
こんな状況なのに、頭のどこかが、見えているものを整理しようとしている。
黒い影との距離。街灯の位置。自分とアムルの立ち位置。逃げ道になりそうな方向。
怖くて、足はまだ震えている。
それでも、何もわからないまま立ちすくんでいた時よりは、ほんの少しだけ呼吸ができた。
「変身は完了したわ」
アムルが言った。
あいは、ゆっくりと顔を上げた。
胸元の大きなピンクのリボン。
紺色のセーラー襟。
腹部の露出した動きやすいトップス。
短い濃紺のスカート。
眼鏡の上に重なる、白く透き通ったマジカル・ビジョン。
どれも、自分のものだとは思えなかった。
けれど、体は確かにその衣装に包まれている。
光はもう、足元から消えかけていた。代わりに、胸元のリボンと目元のマジカル・ビジョンだけが、淡く輝いている。
「あなたの魔法戦士としての名前は、マジカル・ラブ」
アムルの声が、静かな夜道に響いた。
「マジカル……ラブ……」
あいは、戸惑いながらその名を口にした。
自分には似合わない。
最初に浮かんだのは、そんな感想だった。
真面目で、控えめで、人前に立つのが苦手で、体育も得意ではない自分が、魔法戦士だなんて。
まして、マジカル・ラブなんて名前。
恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
けれど。
黒い影は、待ってくれない。
ゆらり、と闇が動いた。
マジカル・ビジョン越しの視界に、黒いもやの流れが強く映る。
あいは、胸元のリボンを押さえた。
心臓が速い。
怖い。恥ずかしい。逃げたい。
それでも、アムルが隣にいる。
そして、今の自分には、さっきまで見えなかったものが見えている。
「私が……マジカル・ラブ……」
あいは震える声でつぶやいた。
その名を受け入れるには、まだ時間がかかりそうだった。
けれど、この夜だけは。
この黒い影から生き残るために。
宮本あいは、マジカル・ラブとして立つしかなかった。
◆ 杖の召喚
黒い影が、ゆっくりと近づいてくる。
マジカル・ビジョン越しに見るそれは、ただの暗がりではなかった。輪郭は不安定で、黒い霧が集まったりほどけたりを繰り返している。けれど、その中心へ向かって何かが流れ込んでいることだけは、あいにもわかった。
わかってしまうことが、かえって怖かった。
今までは、ただ得体の知れないものだった。けれど今は、見える。見えてしまう。
あれは、こちらへ来ている。
「アムルさん……」
あいは、すぐそばにいる黒猫へ視線を落とした。
声が震えている。
魔法戦士になったと言われても、実感なんてない。胸元には大きなピンク色のリボンがあり、目元にはマジカル・ビジョンが重なっている。短い濃紺のスカートは夜風に揺れて、あいの落ち着かなさをさらに大きくしていた。
それでも、両手は空っぽだった。
こんな格好をして、どうすればいいのだろう。
逃げるのか。叫ぶのか。それとも、本当に戦うのか。
「落ち着いて、ラブ」
「ら、ラブって……私のことですか」
「今はそう呼ぶわ。あなたは、マジカル・ラブだから」
アムルは黒い影から目を離さずに言った。
あいは思わず口をつぐむ。
まだその名前には慣れない。慣れるどころか、呼ばれるたびに顔が熱くなる。けれど、今は名前に戸惑っている場合ではないことくらい、あいにもわかっていた。
「魔法戦士として戦うには、あなたの武器が必要よ」
「武器……?」
「ええ。あなたの場合は、杖」
杖。
その言葉を聞いた瞬間、あいの頭に浮かんだのは、物語に出てくる魔法使いの持ち物だった。長くて、細くて、先端に飾りがついているようなもの。
けれど、それをどうやって手に入れるのか、まったくわからない。
「でも、そんなもの、持ってません」
「今は持っていなくていいの」
アムルは落ち着いた声で続けた。
「心の中で思い浮かべて。あなたが使うための杖を。形を完璧に決めようとしなくていい。必要だと思って、手を伸ばすの」
「思い浮かべる……」
あいは自分の両手を見た。
指先には、まだ淡い光が残っている。変身した時の光と同じ、温かくて柔らかい光。
杖。
自分の杖。
そんなものを、急に想像しろと言われても困る。
数学の問題なら、条件を整理すればいい。何が与えられていて、何を求めればいいのかを考えれば、少しずつ道筋が見えてくる。
けれど、魔法の杖には公式がない。
長さはどれくらいなのか。重さは。材質は。そもそも、魔法の杖とは何なのか。
考えれば考えるほど、頭の中がぐるぐるする。
「ラブ」
アムルの声が、少しだけ柔らかくなった。
「難しく考えすぎないで。あなたを守るためのもの。あなたが前を向くためのもの。まずは、それだけでいい」
「私を……守るためのもの」
あいは小さく繰り返した。
黒い影が、また一歩分近づいたように見えた。
地面を這う闇が、あいの足元の光に触れそうになる。胸元のリボンが、警戒するように淡く光った。
怖い。
でも、怖いからこそ、何かが必要だった。
逃げるだけではなく、ただ震えるだけでもなく、自分とアムルを守るための何かが。
あいは両手を胸の前に寄せ、ゆっくりと息を吸った。
細くて、長い杖。
重すぎず、けれど頼りなくもないもの。
先端には、胸元のリボンと同じような、温かいピンク色の光。できれば、見ているだけで少し安心できる形がいい。
そう思った瞬間、右手の中に、ふわりと熱が集まった。
「え……?」
あいは目を見開いた。
指先の光が、手のひらへ吸い寄せられていく。小さな粒子がいくつも集まり、細い線を描き、そこから一本の輪郭が生まれた。
最初は、光の糸のようだった。
それが少しずつ太さを持ち、長さを伸ばし、あいの手の中で形を整えていく。
細身で長い、魔法の杖。
白を基調とした本体には、淡い金色のラインが細く走っている。先端には小さなハート型の装飾があり、その中心でピンク色の光が静かに揺れていた。
軽い。
けれど、確かに重みがある。
あいは、思わず杖を両手で持ち直した。
「出た……」
自分の声なのに、どこか遠く聞こえた。
「本当に、出ちゃった……」
アムルが小さくうなずく。
「いいわ。その杖は、あなたの魔力に応えて形になったものよ」
「私の、魔力……」
あいは杖を見つめた。
魔力。
そんな言葉を、自分に関係のあるものとして聞く日が来るなんて、思ってもみなかった。
けれど、手の中の杖は消えない。
夢でも、幻でもない。握れば、指に感触が返ってくる。先端のハート型の装飾は、あいの鼓動に合わせるように、淡く光っていた。
マジカル・ビジョン越しに、杖の周囲に小さな光の線が浮かぶ。
それはすぐに消えてしまったが、あいには何となくわかった。杖が、自分の手に馴染もうとしている。自分の呼吸や心臓の速さに、合わせようとしている。
怖さは、まだある。
恥ずかしさも、消えていない。
けれど、空っぽだった両手に杖があるだけで、ほんの少しだけ心細さが薄れた。
「アムルさん」
「何?」
「私……これで、本当に戦うんですか」
聞いたあとで、あいは自分の声が小さく震えていることに気づいた。
アムルは、あいを見上げた。
その瞳は、夜道の暗がりの中でも落ち着いていた。
「ええ。でも、一人で戦うわけじゃない。私が指示を出す。マジカル・ビジョンもあなたを助ける。だから、まずは杖を前に向けられればいい」
「前に……」
あいは、杖を握る手に力を込めた。
黒い影が、またゆらりと揺れる。
マジカル・ビジョンの奥で、影の周囲に薄い警戒色の光がにじんだように見えた。
逃げたい気持ちは、まだある。
こんな格好で立っていることも、信じられない。
それでも、手の中には杖がある。
胸元には光るリボンがある。
隣にはアムルがいる。
あいは震える足で、半歩だけ前に出た。
杖の先端のハートが、淡く輝く。
その光を見た瞬間、あいはようやく実感した。
自分は、本当に魔法戦士になってしまったのだ。
「……わかりました」
声はまだ頼りなかった。
それでも、あいは杖を両手で構えた。
「やってみます」
◆ 妖魔の不意打ち
杖の先端にあるハート型の装飾が、淡く光っていた。
あいはそれを両手で握りしめたまま、黒い影を見つめる。指先に力が入りすぎているのが、自分でもわかった。肩も上がっている。呼吸も浅い。
けれど、杖を手にしたことで、ほんの少しだけ立っていられる気がした。
ほんの少しだけ。
「そのまま、前を見て」
アムルの声が聞こえた。
「妖魔は不定形よ。見えている輪郭だけを信じないで」
「見えている輪郭だけを……」
あいは小さく繰り返した。
マジカル・ビジョン越しに見る黒い影は、さっきよりも濃く、重たく見えた。人の形に近いようで、そうではない。肩のように見えた部分が崩れ、足元の黒いもやが地面を這う。
何を見ればいいのか、わからない。
でも、何かを見なければならない。
あいは震える息を押し込め、視界に映る情報を必死に追おうとした。
その瞬間だった。
視界の右端が、赤く点滅した。
《警告:敵性反応、右側面》
「え……?」
文字が浮かんだ。
そう認識した時には、もうアムルが叫んでいた。
「右から来るわ、ラブ! 避けて!」
右。
右側面。
わかっている。
言葉の意味はわかる。右から何かが来る。避けなければならない。
けれど、体がついてこなかった。
体育の授業でも、あいはいつも一拍遅れる。ボールが来るとわかっていても、手を出す頃にはもう通り過ぎている。走り出すタイミングも、跳ぶタイミングも、頭で考えているうちに遅れてしまう。
今も同じだった。
いや、今はそれ以上に悪い。
短いスカートが気になる。お腹に当たる夜風が気になる。手の中の杖の握り方すらわからない。
右へ跳ばなければ。
そう思った時には、黒い影の一部が鞭のようにしなっていた。
「きゃっ……!」
あいは反射的に横へ動いた。
けれど、遅い。
黒いもやの塊が、右側から肩のあたりをかすめるようにぶつかった。
強い衝撃ではなかった。
それでも、慣れない体勢で杖を構えていたあいには十分だった。足元がもつれ、視界がぐらりと傾く。
「あっ……!」
転ぶ。
そう思った瞬間、胸元の大きなリボンが一瞬だけ光った。
地面が近づく。
けれど、叩きつけられるはずの衝撃は来なかった。
ふわり、と見えない空気の層が背中と腕を受け止める。まるで柔らかなクッションの上に倒れたように、衝撃が丸くほどけていった。
それでも、転んだことに変わりはない。
あいはアスファルトの上に座り込むような形になり、杖を抱えたまま息を詰めた。
「い、痛く……ない?」
「セーフティ・ヴェールが働いたの。胸のリボンに組み込まれた保護機能よ」
アムルの声がすぐ近くで聞こえる。
「でも、安心している場合じゃないわ。立って!」
「は、はい……!」
返事をしながら、あいは慌てて起き上がろうとした。
その拍子に、短い濃紺のスカートがふわりと揺れた。
「ひゃっ……!」
あいは反射的に片手でスカートを押さえた。
顔に熱が集まる。
怖い。怖いのに、それとは別の恥ずかしさが一気にこみ上げてくる。
転んだだけでも十分恥ずかしい。なのに、この格好で、こんな短いスカートで、もし誰かに見られていたらどうするのか。
防犯カメラ。マンションの窓。たまたま通りかかる人。
そんな言葉が頭の中に次々浮かび、あいは半泣きになった。
「む、無理です……! やっぱり無理です、こんなの……!」
「ラブ、前を見て!」
アムルの声が、今度は強かった。
あいはびくりとして顔を上げる。
黒い影が、また揺れていた。
今の一撃で終わりではない。むしろ、あいが倒れたことで、相手はさらに近づいてきている。
マジカル・ビジョンの視界に、再び赤い光がにじむ。
警告。
危険。
逃げたい。
立たなければ。
でも、足が震える。
あいは杖を抱えたまま、呼吸を乱した。
胸元のリボンが、まだ淡く光っている。その光は、先ほどの衝撃から自分を守ってくれたものだった。もしあれがなければ、地面に強く打ちつけられて、立ち上がることもできなかったかもしれない。
守られた。
けれど、守られているだけでは終わらない。
その事実が、あいの胸をさらに苦しくした。
「アムルさん……私、どうすれば……」
「まず立って。杖を離さないで」
アムルは落ち着いた声に戻っていた。
それが不思議と、あいの耳に届いた。
「大丈夫。今のは避けきれなかっただけ。あなたはまだ何も知らない。最初から完璧に動ける人なんていないわ」
「でも……」
「でも、立てるでしょう?」
あいは唇を噛んだ。
怖い。
恥ずかしい。
逃げたい。
それでも、痛みはない。杖も手の中にある。アムルもそばにいる。
あいはスカートを押さえていた手を、ゆっくり杖に戻した。
両手で杖を握る。
震えは止まらない。
けれど、立たなければならない。
あいは膝に力を入れ、ぎこちなく立ち上がった。短いスカートがまた軽く揺れ、頬が熱くなる。それでも、今度は視線を逸らさなかった。
黒い影は、目の前にいる。
マジカル・ビジョンの奥で、赤い警告が薄く点滅している。
あいは震える息を吐いた。
「……立ちました」
「いいわ」
アムルがうなずく。
「次は、反撃するの」
◆ はじめての魔法
「次は、反撃するの」
アムルの言葉に、あいは一瞬、息を止めた。
反撃。
その言葉は、今のあいにはあまりにも遠いものに聞こえた。さっきまで、ただの学校帰りだった。駅から家へ帰って、着替えて、明日の予習をして、眠るつもりだった。
それなのに今は、短い濃紺のスカートを揺らし、胸元に大きなピンクのリボンをつけ、手には魔法の杖を握っている。
そして、目の前には黒い影がいる。
マジカル・ビジョン越しに見る妖魔は、ゆらゆらと輪郭を崩しながらも、こちらを捉えているようだった。目などないはずなのに、見られている。あいにはそう感じられた。
「反撃って……どうやって……」
「杖を前に向けて」
アムルは短く言った。
「あなたの魔力を、光の弾にして撃つの」
「光の弾……?」
「初級魔法よ。今のあなたでも使える」
今の自分でも。
その言葉に、あいは胸の奥が少しだけ痛くなった。
できると言われても、できる気がしない。そもそも、魔力が何なのかもわからない。杖を出せたことだって、まだ夢の中の出来事のようだった。
あいは両手で杖を握り直した。
手のひらが汗ばんでいる。杖が滑りそうで、指に余計な力が入る。
「ラブ、肩の力を抜いて」
「む、無理です……」
「無理でも、少しだけ」
アムルの声は、落ち着いていた。
「杖の先を妖魔へ向ける。大きな攻撃をしようとしなくていい。まずは、光を届けるつもりで」
「光を、届ける……」
あいは小さく繰り返した。
攻撃する。倒す。戦う。
そう考えると、怖くて体が固まる。
けれど、光を届ける。
その言い方なら、ほんの少しだけ想像できた。
夜道に立つ黒い影。街灯の光が届かない暗がり。そこへ、小さな光を向ける。
それだけ。
まずは、それだけでいい。
あいは震える腕を上げた。
杖の先端にあるハート型の装飾が、黒い影の方を向く。マジカル・ビジョンの視界の中で、杖の先から妖魔までの距離が、淡い線のように感じられた。
数字が見えたわけではない。
けれど、距離がある。方向がある。自分の手元から、あの黒いもやまで、一本の道筋がある。
そう意識した瞬間、あいの呼吸がわずかに整った。
「そう。いいわ」
アムルが言った。
「そのまま唱えて。ラブ・ショット」
「ラブ……ショット……」
あいは呪文を口の中で確かめた。
また、恥ずかしい名前だと思った。
けれど、さっきの「ラブ・レボリューション」よりは、少しだけ短い。声に出すのはやっぱり恥ずかしいけれど、今は言わなければならない。
黒い影が、また地面を這うように揺れた。
先ほどのような攻撃が来るかもしれない。そう思った瞬間、あいの胸元のリボンが淡く光る。
怖い。
でも、何もしなければ、また倒される。
あいは杖を握る手に力を込めた。
「……ラブ・ショット!」
声は震えていた。
それでも、杖は反応した。
先端のハート型の装飾に、ピンク色の光が集まる。小さな光だった。けれど、夜道の暗がりの中では、驚くほどはっきりと見えた。
次の瞬間、その光が丸い弾となって放たれる。
速い。
けれど、目で追えないほどではない。ピンク色の光弾は、あいが向けた杖の先からまっすぐ伸び、黒い影の表面へぶつかった。
ぱん、と小さな音がした。
黒い影が、ぐにゃりと揺らぐ。
「当たった……?」
あいは思わずつぶやいた。
妖魔は消えていない。
倒れてもいない。
けれど、確かに揺らいだ。黒いもやの表面が、光の当たった場所から波紋のように乱れている。
「当たった……!」
今度は、自分でも少し驚くくらい、声に力が入った。
アムルがうなずく。
「ええ。今のでいいの」
「でも、倒れてません……」
「初級魔法だけで消滅させるのは難しいわ。けれど、妖魔の動きを乱すことはできる。今の一撃で、相手の形が崩れた」
あいは、マジカル・ビジョン越しに妖魔を見た。
黒い影の輪郭が、先ほどよりも不安定になっている。人の形に近かったものが、煙のように広がり、また集まろうとしている。
完全には倒せていない。
でも、何もできなかったわけではない。
その事実が、あいの胸に小さく灯った。
「私でも……魔法、使えたんですね」
「使えたわ。あなた自身の力よ」
アムルの言葉に、あいは杖を見つめた。
手の中の杖は、まだ淡く温かい。先端のハートには、さっきの光の余韻が残っているように見えた。
怖さは消えない。
むしろ、今の一撃で妖魔がこちらに反応したように見えて、怖さは増しているかもしれない。
けれど、あいの中にあった「何もできない」という思いは、少しだけ形を変えていた。
できるかもしれない。
ほんの少しだけなら。
アムルの指示を聞いて、マジカル・ビジョンを見て、杖を前に向ければ。
あいにも、何かができるのかもしれない。
その時、妖魔の中心部で黒いもやが強く渦を巻いた。
マジカル・ビジョンの視界が、わずかに赤く揺れる。
あいは反射的に杖を構え直した。
「アムルさん、今の……」
「ええ。形が崩れたことで、内側が見えやすくなった」
アムルの声が、少しだけ鋭くなる。
「次は、妖魔の中心を探すの」
「中心……?」
「コアよ。妖魔を消滅させるには、コアを破壊する必要がある」
コア。
その言葉を聞いた瞬間、あいはマジカル・ビジョンの奥で揺れる黒い影を見つめた。
黒いもやの流れ。
光弾が当たった場所から広がる乱れ。
集まってはほどける輪郭。
その中に、何か中心になる点がある。
そう考えた途端、恐怖でいっぱいだった頭の中に、別の感覚が生まれた。
探さなければ。
見つけなければ。
あいは杖を握りしめた。
初めて撃った小さな魔法は、妖魔を倒せなかった。
けれど、次に見るべきものを、あいに教えてくれた。
◆ コアの発見
ラブ・ショットが当たった場所から、黒いもやが波紋のように乱れていた。
けれど、妖魔は倒れない。
むしろ、崩れた輪郭を無理やり集め直すように、黒い影はゆっくりと形を戻していく。人のようにも見える。煙の塊のようにも見える。マジカル・ビジョン越しに見ても、その姿はまだ不安定だった。
「あ、当たったのに……」
あいは杖を握ったまま、かすれた声でつぶやいた。
「どうして、消えないんですか……?」
「妖魔は、表面を攻撃しただけでは消えないわ」
アムルが答える。
その声は落ち着いていたが、油断していいという響きではなかった。
「中心にあるコアを破壊する必要があるの」
「コア……」
あいは、前の章で聞いたばかりの言葉を繰り返した。
中心。
核。
そこを壊さなければ、妖魔は消えない。
意味はわかる。けれど、目の前の黒い影には、はっきりした形がない。どこが中心なのか、どこを狙えばいいのか、すぐにはわからなかった。
黒いもやが地面を這い、ふわりと上へ持ち上がる。
マジカル・ビジョンの視界の端に、淡い赤色がにじんだ。
また攻撃が来る。
そう思った瞬間、あいの肩に力が入った。
「ラブ、動きを止めるの。もう一度、ラブ・ショット」
「は、はい……!」
あいは杖を前に向けた。
さっきよりは、ほんの少しだけ動作が早かった。まだ怖い。手も震えている。けれど、何をすればいいのかが一つだけわかっていると、体はかろうじて動いた。
杖の先端にピンク色の光が集まる。
「ラブ・ショット!」
小さな光弾が放たれ、妖魔の左側へぶつかった。
黒い影が揺らぐ。
「もう一発。今度は少し右」
「右……」
あいはマジカル・ビジョン越しに妖魔を見た。
右側。
けれど、ただ右に撃てばいいわけではない。妖魔の輪郭はゆらゆらと揺れていて、見えている端と本当の厚みがずれているように感じる。
あいは息を止めた。
黒いもやの流れを見る。
光弾が当たった場所から、波が広がっている。波は輪郭全体に広がるのではなく、内側のどこかへ吸い込まれるように流れていた。
そこに、中心があるのかもしれない。
「……少し、内側」
「え?」
アムルがあいを見上げる。
あい自身も、自分が何を言ったのか一瞬わからなかった。
けれど、マジカル・ビジョンの中で見えている揺らぎを追うと、そう思えた。
見えている輪郭の右端ではない。
そこから少し内側。黒いもやが一度沈み込むように曲がる場所。
あいは杖の角度をほんの少しだけ変えた。
「ラブ・ショット!」
二発目の光弾が飛ぶ。
今度は、妖魔の右寄りの部分に当たった。
ぱん、と小さな光が弾ける。
黒い影が大きく歪んだ。先ほどよりも、はっきりと形が崩れる。
「いいわ、ラブ。その調子」
アムルの声に、あいはほんの少しだけ息を吸えた。
偶然ではなかった。
少なくとも、今の一撃は、ただ撃ったわけではない。
見て、考えて、角度を変えた。
それが当たった。
怖さでいっぱいだった胸の中に、小さな隙間ができる。
「次は、上から来るわ」
マジカル・ビジョンの表示が赤く揺れた。
黒い影の上部が膨らみ、鞭のようなもやが持ち上がる。
「避けて!」
アムルの声に、あいは反射的に横へ動こうとした。
けれど、やはり体は遅い。完全には避けられない。黒いもやが杖の先をかすめ、あいの腕に重たい空気のような衝撃が伝わった。
「っ……!」
よろめきながらも、あいは倒れなかった。
杖を離さなかった。
胸元のリボンが、かすかに光っている。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫……だと思います」
声は震えていた。
けれど、あいは妖魔から目を逸らさなかった。
今、攻撃のために妖魔の形が伸びた。その瞬間、黒いもやの流れが乱れた。上に伸びた部分から戻るように、影の内側へ黒い線が集まっていく。
線。
いや、線のように見える流れ。
その流れの先が、さっきの光弾の波紋と重なっている。
あいの頭の中で、点と点がゆっくりつながった。
数学の図形問題を解く時に似ていた。
ばらばらに見える条件を、一つずつ拾っていく。角度。長さ。交わる線。隠れている補助線。
すぐに答えが見えるわけではない。
けれど、どこを見ればいいのかは、少しずつわかってくる。
「……中心は、見えている場所と少しずれてる」
あいは小さく言った。
「妖魔の真ん中じゃなくて、もやが集まる場所……」
マジカル・ビジョンの視界が、淡く反応した。
黒い影の奥に、ほんの一瞬、赤い点が浮かぶ。
すぐに消えた。
あいは目を見開いた。
「今……!」
「見えた?」
「赤い点が、一瞬だけ……!」
「それがコアよ。まだ捕捉が不安定なの。もう少し形を崩して、位置を確定させるわ」
アムルの声が鋭くなる。
「ラブ・ショットを連続で撃って。無理に強くしなくていい。ずらして当てるの」
「ずらして……」
あいは杖を構え直した。
怖い。
でも、見えかけている。
答えに近づいている。
そう思った瞬間、震えとは別の緊張が指先に集まった。
一発目は左下。
「ラブ・ショット!」
ピンク色の光弾が妖魔の足元に近いもやへ当たる。
黒い影が下から揺らぐ。
二発目は右上。
「ラブ・ショット!」
今度は、持ち上がりかけていた黒いもやを横から叩く。
影の輪郭が大きく歪む。
三発目は、少し奥。
見えている表面ではなく、もやの流れが沈む場所。
あいは息を止め、杖の角度を細かく変えた。
「ラブ・ショット!」
三つ目の光弾が当たった瞬間、妖魔の中心部が大きく波打った。
マジカル・ビジョンが反応する。
視界の中央に、赤い光点が浮かび上がった。
今度は消えない。
黒いもやの奥、見えている輪郭から少し右にずれた位置。胸の高さに近い場所で、赤い点が鼓動のように明滅している。
《コア反応、捕捉》
淡い表示が視界に浮かんだ。
あいは息を呑む。
見つけた。
妖魔の中心。
倒すために狙うべき場所。
「アムルさん……見えます」
あいは震える声で言った。
「あそこに、赤い点が……」
「ええ。あれがコアよ」
アムルがうなずく。
「次は、そこを撃ち抜く」
あいの手に、じわりと汗がにじんだ。
ラブ・ショットでは、妖魔を崩すことはできた。けれど、あのコアを壊すには、もっと強い力が必要なのだと直感した。
胸元のリボンが、淡く光る。
杖の先端のハートも、それに応えるように小さく輝いた。
赤い点は、黒いもやの中で明滅している。
逃げたい気持ちはまだあった。
けれど、今はそれ以上に、見失ってはいけないと思った。
ここまで見つけたのだから。
次にやることは、もう決まっている。
アムルが静かに告げた。
「ラブ。必殺技の準備をして」
◆ ラブ・バースト
「必殺技……」
あいは、アムルの言葉をかすれた声で繰り返した。
マジカル・ビジョンの中央には、赤い光点が浮かんでいる。
黒いもやの奥で、鼓動のように明滅する小さな点。さっきまで見えなかった妖魔の中心。コアと呼ばれるもの。
そこを破壊しなければ、妖魔は消えない。
理屈はわかった。
けれど、わかったからといって、すぐにできるわけではなかった。
あいの手は震えている。杖を握る指には、力が入りすぎていた。さっきから何度もラブ・ショットを撃ったせいか、腕も少し重い。
目の前の妖魔は、まだ揺れている。
ラブ・ショットで崩された輪郭を無理やり集め直しながら、黒い影はじわじわと近づいてくる。赤いコアを隠すように、黒いもやが何重にも重なっていた。
「アムルさん……私に、できるんでしょうか」
あいは、赤い点から目を離せないまま言った。
「ラブ・ショットでも、倒せなかったのに……」
「ラブ・ショットは、コアを見つけるための道を開いたの」
アムルの声は、静かだった。
「次は、その道をまっすぐ通す。あなたが見つけた位置へ、あなたの力を届けるの」
「私が、見つけた……」
あいは、小さく息を吸った。
たしかに、赤い点は見えている。
ただ見えているだけではない。黒いもやの流れ。ラブ・ショットが当たった時の揺らぎ。輪郭と中心のずれ。そういうものを一つずつ追って、ようやく見つけた場所だった。
見失ってはいけない。
あいは杖を胸元へ寄せた。
胸元のピンクのリボン。その中心にある小さなブローチが、淡く光っている。
「ブローチに触れて」
アムルが言った。
「あなたの中の力を、杖へ集めるの」
あいは、左手でそっとブローチに触れた。
温かい。
指先から、胸の奥へ光が染み込んでくるような感覚があった。
怖さは、まだ消えない。
妖魔は目の前にいる。黒いもやは、今にもまた襲いかかってきそうだった。短いスカートの裾が夜風に揺れるたび、自分がどれほど非日常の中に立っているのかを思い知らされる。
逃げたい。
今すぐ家に帰りたい。
そう思った瞬間、あいの脳裏に、家の光景が浮かんだ。
マンションの玄関。
いつもの靴箱。
母が台所で立てる、食器の小さな音。
遅く帰ってきた父が、少し疲れた顔で、それでも柔らかく笑うところ。
自分の部屋の机。読みかけの本。明日の予習ノート。制服をハンガーにかけて、眼鏡を外して、ようやく息をつける夜の時間。
特別なものではない。
けれど、あいにとっては、ちゃんと帰りたい場所だった。
その日常が、今は黒い影の向こう側にある。
あいは唇を噛んだ。
怖いから逃げたい。
でも、帰りたいからこそ、ここで立っていなければならない。
胸元のブローチが、強く光った。
その光が杖へ流れていく。あいの手の中で、細身の杖が温かく震えた。先端のハート型の装飾に、ピンク色の光が集まり始める。
最初は、小さな灯りだった。
それが少しずつ大きくなり、夜道の空気を照らす。街灯の薄い光とは違う。もっと柔らかくて、けれどまっすぐな光。
妖魔が、うねるように動いた。
黒いもやがコアの前へ集まっていく。あいの視界の中で、赤い点が見えたり隠れたりを繰り返した。
「ラブ、焦らないで」
アムルが言った。
「見えている点だけを追うの。あなたなら、角度を合わせられる」
「角度……」
あいは、杖を構えた。
赤い点は、妖魔の見た目の中心から少し右にずれている。真正面から撃てば、黒いもやに逸らされるかもしれない。
ほんの少し、杖を傾ける。
右へ。少し上へ。
ラブ・ショットを撃った時に見えた、もやの流れの奥。
そこへ、光を通す。
手は震えている。
でも、狙う場所は見えている。
あいは息を吸った。
胸の奥が熱くなる。ブローチの光が杖へ、杖の先端へ、一直線に流れていく。
「愛の光よ――」
声が、夜道に響いた。
恥ずかしさはあった。
けれど、それ以上に、帰りたい場所を守りたい気持ちがあった。
あいは赤いコアを見つめ、杖をまっすぐ向けた。
「ラブ・バースト!」
杖の先端に集まった光が、一気に収束した。
次の瞬間、ピンク色の光が一直線に放たれる。
それはラブ・ショットよりも太く、速く、まっすぐだった。夜道の空気を切り裂くように伸びた光は、黒いもやの層を貫き、妖魔の中心へ向かって進む。
黒い影が抵抗するようにうねった。
けれど、光は曲がらなかった。
マジカル・ビジョンの中で、赤い点が大きく映る。
あいは歯を食いしばった。
「届いて……!」
光が、コアを撃ち抜いた。
赤い点が、一瞬だけ強く輝く。
そして、砕けた。
ガラスが割れるような、澄んだ音が夜道に響いた。
妖魔の黒い体が大きく膨らみ、次の瞬間、無数の破片のように崩れていく。黒い破片は地面に落ちる前に光を帯び、細かな粒子となって空へほどけた。
さっきまで夜道を覆っていた重苦しい気配が、すっと薄れていく。
黒いもやは、もう形を保てなかった。
光の粒子が、静かな夜風に流されるように消えていく。
マジカル・ビジョンの赤い表示も、ゆっくりと薄くなった。
あいは杖を構えたまま、しばらく動けなかった。
息が荒い。
腕が重い。
胸元のリボンの光も、少し弱くなっている。
それでも、妖魔はもういなかった。
「……消えた……?」
あいの声は、自分でも驚くほど小さかった。
アムルが、そっと隣へ歩み寄る。
「ええ。コアの破壊を確認したわ」
その言葉を聞いた瞬間、あいの膝から力が抜けそうになった。
杖を支えにして、なんとか立っている。
怖かった。
本当に怖かった。
今になって、全身が震え出す。
「私……倒したんですか」
「あなたが倒したのよ、ラブ」
アムルの声は、少しだけ誇らしげだった。
あいは、妖魔がいた場所を見つめた。
そこにはもう、黒い影はない。
あるのは、いつもの細い道と、頼りない街灯の光だけだった。
けれど、あいにはわかっていた。
何もなかったことには、ならない。
自分は変身した。
杖を呼び出した。
魔法を撃った。
そして、妖魔を倒した。
胸元のリボンが、最後にもう一度だけ淡く光る。
あいは震える指で杖を握りしめ、小さく息を吐いた。
「帰りたい……」
ぽつりとこぼれた言葉は、あまりにも正直だった。
アムルは責めなかった。
ただ、静かにあいを見上げる。
「ええ。まずは、帰りましょう」
その言葉を聞いて、あいはようやく、自分がまだ家のすぐ近くにいることを思い出した。
マンションは、黒い影が消えた向こう側にある。
帰る場所は、まだそこにあった。
◆ 変身解除
妖魔が消えた夜道には、急に静けさが戻っていた。
さっきまで黒いもやがうねっていた場所には、もう何もない。割れたガラスのように砕けた黒い破片も、空へほどけていった光の粒子も、目を凝らしても見つからなかった。
街灯の薄い光。
マンションへ続く細い道。
遠くから聞こえる車の走る音。
それだけなら、いつもの帰り道と何も変わらない。
けれど、あいの手の中にはまだ杖があった。
胸元には大きなピンクのリボン。肩には紺色のセーラー襟。腹部の露出したトップスと、短い濃紺のスカート。目元には、眼鏡の上から重なるマジカル・ビジョン。
全部、現実だった。
「……終わったんですよね?」
あいは、震える声で尋ねた。
自分でも驚くほど、足に力が入っていなかった。ラブ・バーストを撃った直後から、全身がふわふわしている。怖さが遅れて押し寄せてきたようで、杖を支えにしていないと、その場に座り込んでしまいそうだった。
アムルは妖魔がいた場所を見つめてから、静かにうなずいた。
「ええ。コアは破壊されたわ。もう、あの妖魔は消滅している」
「よかった……」
あいは小さく息を吐いた。
胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどける。
けれど、安心した次の瞬間、自分の格好が目に入った。
短いスカートが、夜風にふわりと揺れる。
「……っ」
あいは反射的にスカートの裾を押さえた。
戦っている間は、それどころではなかった。転んだ時にも十分恥ずかしかったけれど、妖魔が目の前にいたから、まだ意識の全部を持っていかれずに済んでいた。
でも、戦いが終わった今は違う。
静かな住宅街。
マンションの手前。
誰かが通りかかってもおかしくない場所。
そんなところに、自分はこの姿で立っている。
「ア、アムルさん……!」
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃないです……! この格好、戻せますよね? 戻せるんですよね?」
自分でも必死すぎる声だと思った。
けれど、仕方がない。あいにとっては、妖魔が消えたあとの今こそ、別の意味で危機だった。
アムルは少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。猫の表情なので、はっきりとはわからない。
「もちろん。変身解除の呪文があるわ」
「解除の呪文……」
「ピースフル・モーメント。そう唱えて」
「ピースフル・モーメント……」
あいは口の中でそっと繰り返した。
ラブ・レボリューション。
ラブ・ショット。
ラブ・バースト。
そして、ピースフル・モーメント。
今日だけで、ありえないくらい多くの言葉を唱えた気がする。どれも今朝の自分なら、絶対に声に出せなかったような言葉ばかりだった。
それでも、この呪文だけは、早く唱えたかった。
あいは杖を胸元へ寄せた。
ピンクのリボンの中心にあるブローチが、まだ淡く光っている。さっきラブ・バーストを撃った時の熱が、ほんの少しだけ残っているようだった。
「落ち着いて。戦いを終える言葉よ」
アムルが言った。
「あなた自身に、もう大丈夫だと伝えるつもりで唱えて」
もう大丈夫。
その言葉に、あいはゆっくり息を吸った。
本当に大丈夫なのかは、まだわからない。何が起きたのかも、どうして自分が選ばれたのかも、アムルが何者なのかも、何もわかっていない。
それでも、妖魔は消えた。
今は、家に帰れる。
そう思いたかった。
あいは目を閉じ、震える唇で呪文を唱えた。
「……ピースフル・モーメント」
胸元のブローチが、ふわりと白く光った。
その光は、ラブ・バーストの時のような強い輝きではなかった。もっと静かで、柔らかい。疲れた体を包み込むように、胸元から肩へ、腕へ、腰へ、足元へと広がっていく。
まず、手の中の杖が軽くなった。
「あ……」
細身の杖が、淡い光の粒子へほどけていく。先端のハート型の装飾が最後に小さく瞬き、夜気に溶けるように消えた。
続いて、目元のマジカル・ビジョンが薄れていく。
眼鏡の上に重なっていた白い光膜が、輪郭からゆっくりほどけた。視界から、妖魔の残滓や淡い表示の気配が消えていく。
夜道は、ただの夜道に戻った。
少し暗くて、街灯の光が頼りない、いつもの道。
そして、魔法戦士の衣装も光に包まれた。
紺色のセーラー襟がほどける。胸元の大きなピンクのリボンが、細かな光の粒子になって散っていく。腹部を撫でていた夜風の感触が、ふっと遠のいた。
短い濃紺のスカートが光に変わり、代わりに見慣れた布の重みが腰に戻ってくる。
白い半袖ブラウス。
薄手の紺色ブレザー。
胸元のピンク色のリボンタイ。
緑と紺のチェック柄のスカート。
制服だった。
あいは、思わず両手でスカートを押さえた。
膝頭が見えるくらいの、いつもの丈。
さっきまでの戦闘服に比べれば、ずっと落ち着いていて、ずっと安心できる長さだった。
「戻った……」
心の底から、声が漏れた。
たった数分前まで当たり前だった制服姿が、今は信じられないほどありがたかった。ブレザーの袖の感触も、ブラウスの襟元も、リボンタイの結び目も、全部が自分を日常へ引き戻してくれる。
あいは胸元を押さえ、深く息を吐いた。
「よかった……本当に戻った……」
「変身解除も問題ないわね」
アムルが言った。
あいはその言葉に、少しだけ眉を下げた。
「問題ない、って……アムルさん、落ち着きすぎです」
「私は指導役だから」
「私は、全然落ち着いてません……」
「それで普通よ」
アムルは静かに答えた。
「初めて妖魔と遭遇して、初めて変身して、初めて魔法を使った。震えている方が自然だわ」
その言葉を聞いた途端、あいの目の奥が少し熱くなった。
怖かった。
恥ずかしかった。
何もわからないまま、ただ必死だった。
それを「自然だ」と言われただけで、張りつめていたものが少し緩んだ。
あいは眼鏡の位置を直し、妖魔がいた場所をもう一度見た。
黒い影はない。
けれど、そこに何かがいたことを、あいは知っている。
自分が変身したことも、魔法を使ったことも、もう知らなかったことにはできない。
「……これ、夢じゃないんですよね」
「夢ではないわ」
アムルは即答した。
あいは小さくうなだれた。
「ですよね……」
できれば、夢だったと言ってほしかった。
けれど、そうではないこともわかっていた。制服に戻っても、手のひらにはまだ杖を握っていた感覚が残っている。胸の奥には、ブローチの光の温かさが残っている。
夜風が吹いた。
今度は、いつもの制服のスカートが控えめに揺れた。
あいはそれだけで、少しだけ安心した。
「帰りましょう」
アムルが言った。
「あなたには、説明しなければならないことがある」
あいはマンションの方を見た。
家は、すぐそこにある。
けれど、帰ったあとも、きっと今まで通りにはならない。
それでも今は、玄関の明かりが恋しかった。
「……はい」
あいは小さくうなずいた。
まだ震えの残る足で、マンションへ向かって歩き出す。
制服に戻ったはずなのに、胸の奥には、さっきまでの光がまだ消えずに残っていた。
◆ しかしそれもつかの間
制服に戻ったことで、あいはようやく少しだけ息ができるようになった。
白い半袖ブラウス。薄手の紺色ブレザー。胸元のピンク色のリボンタイ。緑と紺のチェック柄のスカート。
いつもの自分に戻っている。
そのことを確かめるように、あいはもう一度、スカートの裾をそっと押さえた。膝頭が見えるくらいの、見慣れた長さ。さっきまでの戦闘服に比べれば、信じられないほど落ち着く。
「……本当に、戻ってる」
小さくつぶやくと、胸の奥にあった緊張が少しだけほどけた。
けれど、すべてが元通りになったわけではない。
手のひらには、まだ杖を握っていた感覚が残っている。胸の奥にも、ラブ・バーストを撃った時の熱がかすかに残っていた。
夜道は静かだった。
妖魔がいた場所には、もう何もない。街灯の光が頼りなくアスファルトを照らし、遠くで車の音が小さく流れているだけだ。
あいはマンションの方を見た。
エントランスの明かりが見える。
いつもの帰り道なら、その光を見ただけでほっとした。もう家だ。もう大丈夫だ。そう思える場所だった。
今日も、そのはずだった。
「帰りましょう」
アムルが言った。
あいはうなずきかけて、そこで動きを止めた。
「……え?」
足元にいる黒猫を見る。
アムルは当然のように、あいの隣を歩き出そうとしていた。
「あの、アムルさん」
「何?」
「帰るって……もしかして、ついてくるんですか?」
「ええ」
あまりにも自然な返事だった。
あいは思わず瞬きをした。
「ええ、って……」
「今夜、説明しなければならないことがあるわ」
アムルは落ち着いた声で言った。
「妖魔のこと。魔法戦士のこと。そして、あなた自身のこと」
「それは……聞かなきゃいけないんだと思いますけど」
あいは言いながら、マンションのエントランスへ視線を向けた。
黒猫。
しゃべる黒猫。
しかも、さっき白い光の中から現れて、妖魔と呼ばれる黒い影について説明し、あいを魔法戦士に変身させた黒猫。
その存在を、家に連れて帰る。
考えただけで、頭が痛くなりそうだった。
「でも、家には母がいますし……父も、たぶん遅くには帰ってきます。猫を連れて帰ったら、びっくりされます」
「心配しなくていいわ」
「心配します」
あいは即答した。
自分でも少し強い言い方になった気がして、すぐに声を小さくする。
「その……うちは、急に猫を飼えるかどうかもわからないですし。そもそもアムルさん、普通の猫じゃないですよね?」
「普通の猫ではないわね」
「ですよね……」
否定してほしかったような、してほしくなかったような返事だった。
あいはため息をつきかけて、慌てて飲み込んだ。さっき助けてもらったばかりなのに、ため息をつくのは失礼な気がした。
アムルは、あいの心配を読んだように、静かに続ける。
「今すぐ、あなたの家族の前に姿を見せるつもりはないわ」
「え?」
「今日は、あなたが無事に帰れるところまで見届けるだけ」
その言葉に、あいは少しだけ力が抜けた。
「そう、なんですか……」
「ええ。ただし、説明は必要よ。今夜、あなたが一人になれる時間に、改めて会いに行くわ」
「改めて……?」
あいが聞き返すと、アムルはそれ以上答えなかった。
黒猫は、細い尻尾をゆっくりと揺らしながら、マンションへ向かって歩き出す。
あいは慌ててその後を追った。
おかしな光景だった。
学校帰りの女子高生が一人、夜のマンション前で黒猫と話しながら歩いている。自分でそう考えると、あいは急に不安になって周囲を見回した。
誰もいない。
それだけで、少しほっとする。
エントランスの自動ドアの前まで来ると、あいは足を止めた。
ガラス越しに、一階の明るい空間が見える。集合ポスト、エレベーターへ続く通路、静かな照明。いつもなら何も考えずに通り過ぎる場所が、今日は妙に現実的に見えた。
ここを抜ければ、家だ。
母がいる日常へ戻れる。
けれど、今日の出来事を抱えたまま、今まで通りの顔で玄関を開けられるだろうか。
あいは通学鞄の持ち手を握りしめた。
「アムルさん」
「何?」
「私……普通にしていられるでしょうか」
言ってから、あいは自分の声がひどく心細いことに気づいた。
「母に、変に思われないでしょうか。顔に出るかもしれません。私、嘘とか、あまり得意じゃないので……」
アムルはあいを見上げた。
夜の中でも、その瞳は静かだった。
「無理に嘘をつく必要はないわ。疲れた、と言えばいい」
「疲れた……」
「それは本当でしょう?」
あいは少しだけ目を伏せた。
たしかに、疲れている。
体も、心も。
妖魔と戦ったことを言えなくても、疲れていることは嘘ではない。
「……はい。すごく、疲れました」
「なら、まずは帰って、休みなさい」
アムルの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「今夜の説明は、そのあとでいいわ」
その言い方に、あいは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
怖い存在ではない。
少なくとも、アムルはあいを追い詰めようとしているわけではない。さっきもそうだった。怖がるあいを急かしはしたけれど、見捨てはしなかった。
あいは小さくうなずいた。
「わかりました」
自動ドアが、静かに開いた。
あいはエントランスへ一歩入る。
そのすぐ後ろを、アムルも当然のようについてきた。
「え、アムルさん、本当にここまで……」
「ここまでよ」
アムルは一階の床に静かに降り立つと、エレベーターへ続く通路の手前で足を止めた。
あいも立ち止まる。
明るいエントランスの中で見るアムルは、さっきの夜道よりも少し小さく見えた。けれど、額のハート型の紋だけは、淡い光を帯びている。
「ここから先は、あなた一人で帰りなさい」
「……アムルさんは?」
「今は消えるわ」
「消える?」
あいが聞き返すより早く、アムルの足元に白い光が滲んだ。
それは、最初にアムルが現れた時と同じ、やわらかな光だった。
「あいさん」
アムルが言った。
その呼び方に、あいは少しだけ背筋を伸ばす。
「今夜、あなたの部屋で会いましょう」
「えっ、私の部屋で……?」
「ええ。説明はその時に」
「ま、待ってください。どうやって部屋に……」
言い終える前に、白い光がふわりと広がった。
アムルの姿が、その光の中で輪郭を薄くしていく。
黒い毛並みも、額のハートの紋も、静かな瞳も、淡い粒子にほどけるように見えなくなっていった。
「アムルさん……!」
あいが思わず声を上げる。
けれど、次の瞬間にはもう、そこには何もいなかった。
一階のエントランスには、いつもの照明と、静かな床と、あい一人だけが残されていた。
あいはしばらく、その場に立ち尽くした。
消えた。
本当に消えた。
さっきまでは、しゃべる黒猫がいることに驚いていたのに、今度はその黒猫が目の前で消えたことに驚いている。
今日一日で、驚くことが多すぎる。
「……私の部屋で会いましょう、って」
あいは小さくつぶやいた。
どういう意味なのか。
どうやって来るのか。
部屋に突然現れるつもりなのか。
考えれば考えるほど、不安しかない。
けれど、それでも今は、帰るしかなかった。
あいはエレベーターの方へ歩き出す。
足取りは重い。体は疲れている。けれど、家の明かりが近づいていると思うと、少しだけ安心できた。
鞄の持ち手を握り直し、あいは小さく息を吐く。
妖魔は消えた。
変身も解けた。
アムルも、今はいない。
それなのに、胸の奥ではまだ、何かが始まってしまった感覚が消えなかった。
エレベーターの扉が開く。
あいはその中へ入り、振り返って一階のエントランスを見た。
アムルが消えた場所には、もう光の欠片も残っていない。
けれど、あの声だけが、耳の奥に残っていた。
今夜、あなたの部屋で会いましょう。
あいはエレベーターのボタンを押した。
扉が閉まっていく。
日常へ戻るための、いつもの小さな箱。
けれど、今夜だけは、その先に待っているものが、いつもとは少し違っている気がした。
◆用語説明
【マジカル・ビジョン (Magical Vision)】
魔法戦士が変身完了時の最後に自動展開する、拡張視覚デバイス。
目の周囲に薄い魔力膜として形成され、透過性のある白系フレームを持つ。外見は全員ほぼ同じ大きさで、魔法戦士である証としても機能する。
宮本あいの場合は、普段の眼鏡の上に重なる形で装着される。これは、変身時に魔力が眼鏡の輪郭を読み取り、その形状に合わせてフィットする仕様によるもの。
主な機能は以下のとおり。
・妖魔の存在を視認しやすくする
・妖魔のコア位置を解析する
・敵の攻撃予測を警告する
・変身者の顔や声の特徴を魔力で保護し、正体を悟られにくくする
この正体保護機能は「アイデンティティ・シールド」と呼ばれる。変身後の魔法戦士の顔や声の特徴が認識されにくくなるのは、この機能によるものである。
【妖魔 (ようま)】
夜や日光の届かない場所に現れる、黒い霧のような存在。
身体は常に揺らめいており、一定の形を保たない。その中心部には、「コア」と呼ばれる核が潜んでいる。
妖魔は人間の負の感情に引き寄せられ、人目につきにくい暗がりや隙間、感情が滞留しやすい場所に現れることがある。
妖魔を消滅させるには、コアを破壊する必要がある。コアが砕かれると、身体を構成する黒い霧は光子状にほどけ、量子的に分解されて消滅する。
また、妖魔は太陽光に極端に弱い。直接光を浴びると不安定な力の流れが乱れ、コアを中心に全身が分解されてしまう。そのため、午前中の明るい場所では弱まりやすく、午後や夜、影の濃い場所では輪郭がはっきりしやすい。
妖魔は感情由来の量子的存在であり、基本的に意思や言語能力を持たない。
一般人には黒い影の揺らぎ程度にしか見えず、その正体をはっきり認識できるのは魔法戦士だけである。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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今後の物語づくりの参考にさせていただきますので、ぜひ一言でもお寄せください。




