歌声は黒霧をほどく
夜の瑞穂台駅。
空にはまだ少しだけ青さが残り、駅前には選挙運動の声や、電車、バス、人々の足音が重なっていました。
学校で遅くまで過ごしたあい、美咲、由香里の三人は、いつもより遅い時間に瑞穂台駅へ戻ってきます。
そこで、たくさんの音に混じって聞こえてきたのは――北口の方から流れてくる、静かな歌声。
大きな声ではないのに、不思議と耳に残る。
帰りを急ぐ人が、ほんの少しだけ足をゆるめてしまうような歌。
三人は、その歌声に誘われるように北口へ向かいます。
歌っていたのは、同じさくら女子の制服を着た、一人の少女。
そして、その足元には見知らぬ猫の姿がありました。
駅前のざわめき。
夜になりきる前の空。
静かな歌声。
そして、公園の暗がりに漂い始める黒い霧。
その夜、あい達はまた、自分たちとは違う戦い方をする魔法戦士と出会うことになります。
◆ 夜の瑞穂台駅
電車が速度を落とし始めると、窓の外を流れていた街の明かりが、ひとつひとつ形を取り戻していった。
『まもなく、瑞穂台、瑞穂台です』
車内放送に続いて、レールを擦る低い音が足元から響く。
「やっと着いたぁ……」
向かいの席で、美咲が小さく伸びをした。
「今日は遅くなっちゃったね」
由香里も苦笑しながら、膝の上に置いていた鞄を持ち上げる。
「うん。もう七時半くらいかな」
あいは窓の外へ目を向けた。
駅の時計までは見えないけれど、空はもう夜の色に変わりつつある。ホームを照らす白い照明が、ガラスに三人の姿をぼんやりと映していた。
学校で少し用事が長引き、いつもより遅い電車になってしまった。
疲れていないと言えば嘘になる。
けれど三人で話しながら帰ってきたせいか、ひとりで帰る夜道ほど心細くはなかった。
電車が停まる。
ぷしゅ、と空気の抜ける音。
続いてドアが開き、人の流れが一斉にホームへ動き出した。
「降りよ、あいちゃん」
「あ、うん」
三人もその流れに混ざる。
ホームには、到着したばかりの電車の音がまだ残っていた。
反対側の線路を快速電車が通過する。
ごおっ――という風と走行音がホームを揺らし、少し遅れてアナウンスが聞こえてきた。
階段を上がり、二階の改札へ向かう。
夕方の混雑はもう過ぎているはずなのに、瑞穂台駅にはまだ多くの人がいた。
仕事帰りらしい人。
買い物袋を提げた人。
制服姿の学生。
スマートフォンを見ながら歩く人。
その間を縫うように、三人は改札へ進んでいく。
ピッ。
ピピッ。
ピッ。
ICカードを読み取る電子音が、絶え間なく続いている。
あいもカードをかざした。
短い電子音。
ゲートが開く。
「ふう……」
改札を抜けた瞬間、駅の中とは少し違う音が耳へ入ってきた。
外から聞こえるバスのエンジン音。
車がロータリーへ入ってくる音。
遠くで鳴った自転車のベル。
誰かを待っている人たちの話し声。
そして、それらに混じって――スピーカーを通した声。
『――皆さま、こんばんは。本日は――』
言葉の後半は、人の声と車の音にかき消されてよく聞こえなかった。
「あ、まだやってるんだ」
美咲が北口と南口を示す案内板を見上げながら言った。
「選挙近いからね」
由香里が答える。
駅前ではここ数日、候補者や運動員の姿をよく見かけるようになっていた。
何かを訴えるスピーカーの声。
それに応えるような別の声。
行き交う人々の話し声。
バスの発車案内。
電車がホームへ滑り込む音。
瑞穂台駅は、たくさんの《音》に包まれていた。
ひとつひとつなら、いつもの音だ。
けれど全部が重なると、巨大なざわめきになる。
あいはなんとなく、耳を澄ませた。
こんなにたくさんの音があるのに、普段はほとんど意識していなかった。
「じゃ、ここでね」
由香里が足を止める。
「あ」
いつもの場所だった。
改札を出て少し進んだところ。
ここから由香里は北口。
あいと美咲は南口。
三人で帰ってきても、いつもここで道が分かれる。
「また明日ね、由香里ちゃん」
「うん。また明日」
「じゃーね、由香里」
「美咲も、ちゃんと早く寝なさいよ」
「それ、由香里に言われたくないんだけど」
「どういう意味?」
二人がいつものように言い合う。
あいは思わず笑った。
そのまま南口へ向かおうとして――。
足が止まった。
「……?」
何かが聞こえた気がした。
あいは振り返る。
「どうしたの、あいちゃん?」
「今……」
美咲も立ち止まった。
由香里も、北口へ向けていた身体をこちらへ戻す。
「何か聞こえた?」
「うん……歌?」
自分で言ってから、あいはもう一度耳を澄ませた。
駅前は相変わらず騒がしい。
スピーカーの声。
バスのエンジン。
タイヤが道路を走る音。
改札の電子音。
人々の会話。
その全部に埋もれてしまってもおかしくないほど、小さな音だった。
けれど――。
「あ……」
また聞こえた。
歌声。
北口の方からだった。
大きな声ではない。
スピーカーで駅前いっぱいに響かせているわけでもない。
むしろ、周囲の音に比べれば驚くほど控えめだった。
それなのに。
なぜだろう。
その声だけが、すっとあいの耳へ入ってくる。
騒音の隙間を縫ってきた、という感じではない。
たくさんの音の中から、その歌声だけが一本の細い糸になって、こちらまで伸びてきている。
そんな気がした。
「……きれい」
気づけば、あいはそう呟いていた。
「あいちゃんも聞こえるんだ」
美咲の表情が変わる。
「うん」
「私も」
由香里が北口の方を見る。
三人とも、しばらく黙った。
歌詞までは聞き取れない。
けれど、声は聞こえる。
強く押しつけてくる歌い方ではなかった。
静かで、やわらかい。
それでも、なぜかもう少し聞いていたくなる。
美咲が、にっと笑った。
「ちょっと見に行ってみない?」
「え?」
「だって気になるじゃん。誰が歌ってるのか」
「でも、もう遅いよ?」
由香里が言う。
そう言いながらも、その視線は北口へ向いたままだ。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ」
「美咲の『ちょっとだけ』って信用できないんだけど」
「ひどっ」
二人のやり取りを聞きながら、あいはもう一度、北口から届く歌声へ耳を傾けた。
帰ったほうがいい。
お母さんも待っているだろう。
そう思うのに。
どうしても、そのまま南口へ向かう気にはなれなかった。
「……私も、少し聞いてみたいかも」
あいが言うと、美咲の顔がぱっと明るくなる。
「ほら、あいちゃんもこう言ってる!」
「もう……」
由香里は困ったように笑った。
「本当に少しだけだからね」
「決まり!」
三人は、いつもの帰り道とは違う方向へ歩き始めた。
本来なら、ここで別れるはずだった。
由香里は北口へ。
あいと美咲は南口へ。
けれど今夜だけは、三人とも北口へ向かう。
階段の先から、また歌声が届いた。
駅を満たす無数の音。
人の声。
機械の音。
街の音。
そのすべての中で、その歌だけは不思議なくらい、はっきりと聞こえていた。
あいは知らず、歩く速度を少し上げる。
――誰が歌っているんだろう。
そんな小さな疑問を胸に抱きながら。
三人は、歌声の主を探して北口へ向かった。
◆ 北口から聞こえる歌
北口へ続く階段を下りていくにつれて、歌声は少しずつはっきりしていった。
「やっぱり、こっちだ」
美咲が先を歩きながら振り返る。
「うん」
あいも頷いた。
駅の外へ出る。
夜の瑞穂台駅北口は、南口とは少し雰囲気が違っていた。
仕事帰りの人たちが駅から次々と吐き出され、家路を急いでいく。買い物袋を提げた人が横切り、自転車を押す人が人波の隙間を抜けていく。
少し離れた場所からは、まだ選挙運動の声が聞こえていた。
スピーカーを通した声。
車のエンジン音。
駅へ入ってくる電車の走行音。
人々の話し声。
そのどれもが、さっきまでと変わらず夜の駅前を満たしている。
けれど、その中に。
確かに、歌があった。
「あっ」
由香里が小さく声を上げた。
「いた」
三人の視線が同じ場所へ向く。
駅前の一角に、一人の少女がいた。
肩からギターを掛け、その場に立って歌っている。
大げさな照明もなければ、派手な舞台もない。
目の前に大勢の観客が集まっているわけでもなかった。
ただ、一人。
夜の駅前でギターを弾きながら、歌っている。
「……あれ?」
あいは少女の姿を見て、目を凝らした。
見覚えのある服だった。
白を基調とした夏の制服。
毎日、自分たちも着ている。
「ねえ」
美咲も気づいたらしい。
「あの制服……」
「うちの学校よね」
由香里が続けた。
「やっぱりそうだよね」
あいはもう一度、少女を見る。
私立さくら女子高等学校。
同じ制服。
ということは、少なくとも自分たちと同じ学校の生徒なのだろう。
けれど――。
「知ってる?」
美咲が小声で聞いてきた。
あいは首を横に振った。
「ううん。見たことある……ような気もするけど」
全校生徒の顔を覚えているわけではない。
まして、同じ学年なのかどうかもわからない。
「私は知らないわね」
由香里も首をかしげる。
「私も。クラス違ったら、全然知らない子いるしなあ」
美咲が言いながら、少女へ視線を戻した。
三人は少し離れた場所で足を止めた。
少女は、こちらには気づいていないようだった。
ギターの音が一定のリズムを刻む。
そこへ歌声が重なる。
あいは黙って耳を傾けた。
派手な歌ではなかった。
大声で周囲を圧倒するわけでもない。
高い声をこれ見よがしに響かせるわけでもなければ、通行人へ手を振って呼びかけるわけでもない。
静かだった。
柔らかくて。
夜の駅前に、そのまま溶け込んでいくような歌声。
それなのに、不思議と聞き逃さない。
電車が走る。
車が通る。
誰かが笑う。
遠くからスピーカーの声が届く。
そんな音に囲まれているのに、少女の歌は消えなかった。
ほかの音を押しのけているわけではない。
むしろ、そのすべての間に自然に入り込んでいる。
あいには、そんなふうに感じられた。
「……上手だね」
思わず呟く。
「うん」
美咲も珍しく静かな声で答えた。
「なんか、ずっと聞いてられる感じ」
「分かる」
由香里も少女を見つめている。
足早に駅へ向かっていた会社員らしい人が、少女の前を通り過ぎるときだけ少し顔を向けた。
買い物袋を持った女性も、歩く速さをわずかに緩める。
立ち止まるほどではない。
拍手が起こるわけでもない。
けれど何人かは、通り過ぎるほんの短い間だけ、その歌を聞いていた。
それが、あいにはなんとなく心地よく見えた。
無理に誰かを振り向かせようとしているわけではない。
それでも、聞こえた人が少しだけ耳を傾ける。
そんな歌だった。
少女の指が弦の上を動く。
ギターの音が小さく跳ねた。
歌声がそれを追いかける。
あいは音楽に詳しいわけではない。
歌の技術について何か説明できるほどの知識もなかった。
ただ――。
きれいだと思った。
それで十分だった。
「こういうの、路上ライブっていうんだよね」
あいが小声で言う。
「たぶんね」
美咲が答える。
「でも学校の子がやってるなんて知らなかったなあ」
「学校じゃ、こういう姿を見る機会はないものね」
由香里が言った。
確かにそうだった。
教室ですれ違っていたとしても、制服を着た一人の生徒としてしか見ていなかったかもしれない。
けれど今は、一人でギターを抱えて歌っている。
同じ制服なのに。
学校で見る生徒たちとは、どこか違って見えた。
「軽音楽部とかかな?」
美咲が言った。
「どうだろう」
あいは首をかしげた。
分からないことは、分からない。
それでも、ギターの扱いには慣れているように見えた。
弾くことに必死になっている感じがしない。
歌と演奏が、最初からひとつのものみたいに自然につながっている。
もう少しだけ聞いていたい。
気がつけば、あいはそう思っていた。
さっきまでは、早く帰ったほうがいいと思っていたのに。
美咲も由香里も同じなのか、帰ろうとは言わなかった。
三人で並んで、しばらく歌を聞く。
ほんの数分。
それだけのはずなのに、駅前の騒がしさが少し遠くなったような気がした。
もちろん、音が消えたわけではない。
バスも走っている。
電車も動いている。
選挙運動の声だって聞こえている。
ただ、その中で何を聞くのかが変わっただけなのかもしれない。
少女が歌っている。
あいは、その声を聞いている。
それだけだった。
やがて曲がひと区切りついたらしく、ギターの最後の音が静かに伸びた。
近くで聞いていた数人から、小さな拍手が起こる。
少女は少し頭を下げた。
美咲もぱちぱちと手を叩く。
由香里も続いた。
あいも二人に少し遅れて拍手をした。
「よかったね」
美咲が言う。
「うん」
あいは素直に頷いた。
「もう一曲くらい聞きたいかも」
「美咲。さっき『ちょっとだけ』って言ってなかった?」
「まだちょっとだよ」
「その理屈はおかしいと思う」
由香里が呆れた声を出す。
あいはくすっと笑った。
そのときだった。
「……あれ?」
何気なく、歌っていた少女の足元へ視線を落とす。
何かがいた。
最初は、ギターのケースか荷物の影だと思った。
けれど違う。
動いた。
あいは目を細める。
「……猫?」
少女の足元に、一匹の猫がいた。
あいの笑顔が、わずかに止まった。
知らない猫だった。
◆ 歌う少女と見知らぬ猫
「……猫?」
あいは、少女の足元へ目を凝らした。
やはり見間違いではない。
そこには一匹の猫がいた。
少女のすぐそば。
ギターの音が響く中、その猫は逃げる様子もなく、そこにいる。
野良猫なのだろうか。
それとも、あの少女が連れてきた猫なのだろうか。
あいには分からなかった。
「どうしたの、あいちゃん?」
美咲が小声で尋ねる。
「あそこ。あの子の足元」
「足元?」
美咲が視線を落とす。
すぐに、その表情が変わった。
「……ほんとだ。猫いるね」
「猫?」
由香里もそちらを見る。
「あら……」
三人の視線が、少女から足元の猫へ移った。
けれど周囲の人たちは、特に気に留めていないようだった。
少女の前を通り過ぎる人。
歌を聞きながら歩調を緩める人。
スマートフォンを見たまま駅へ向かう人。
猫のすぐ近くを通る人もいる。
それでも、わざわざ猫へ目を向ける人はほとんどいない。
「こんなところに猫がいたら、もっと誰か気にしそうだけど」
美咲が呟く。
「駅前だものね」
由香里も少し不思議そうだった。
「でも、みんな歌のほうを見てるだけなのかな」
あいはそう言ってみた。
あり得ない話ではない。
駅前で歌っている女子高生。
その歌声に気を取られて、足元の猫まで気づかない。
それだけかもしれない。
けれど――。
何かが引っかかった。
あいが考えていると。
「……」
すぐ近くにいたアムルが、それまでとは違う様子を見せた。
少女を眺めていた視線が、足元の猫へまっすぐ向く。
フルルも同じだった。
そしてネロリも。
三匹とも、歌ではなく――猫を見ている。
「アムル?」
あいが小さく呼ぶ。
アムルは答えず、じっと相手を見ていた。
警戒している、という感じではない。
けれど、ただ駅前で見かけた猫を眺めているだけにも見えなかった。
フルルも身を乗り出すようにしている。
ネロリは静かに、けれど明らかに意識を向けていた。
美咲がそれに気づく。
「……ねえ、あいちゃん」
「うん」
「アムルたち、あの猫のこと見てない?」
あいは頷いた。
「私も、そう思った」
「ネロリもね」
由香里が少し声を落とす。
三人の間に、ほんの短い沈黙が落ちた。
ギターの音だけが、その隙間を埋めるように聞こえてくる。
少女は変わらず歌っていた。
何も知らないように。
あるいは、何も気にしていないように。
静かな歌声が夜の駅前を流れていく。
あいはもう一度、猫を見る。
そして、ふと思い出した。
「そういえば……」
「なに?」
「由香里ちゃんも、前にアムルたちのこと見えてたよね」
由香里が瞬きをする。
「ああ……」
それは、まだ由香里が魔法戦士になる前のことだった。
学校で、アムルとフルルを当たり前のように見つけていた。
そのときは、それが何を意味するのか、あいにも分からなかった。
由香里自身も、不思議そうにはしていなかったはずだ。
でもその後――由香里はマジカル・アロマになった。
「そうだったね」
美咲も思い出したらしい。
「じゃあ……」
そこで、美咲の言葉が止まる。
視線が再び、歌っている少女と、その足元の猫を往復した。
「もしかして、あの猫も……」
あいにも、美咲が何を言おうとしているのか分かった。
パートナー猫。
その言葉が頭に浮かぶ。
けれど。
「……まだ分からないよ」
あいは小さく言った。
「だよね」
美咲もすぐに頷く。
猫がいる。
アムルたちが反応している。
だからといって、それだけで歌っている少女を魔法戦士だと決めることはできない。
自分たちが知らないことは、まだたくさんある。
そもそも、パートナー猫がどういう人に見えて、どういう人には見えないのか。
あい自身、きちんと説明できるほど理解してはいなかった。
「普通に、あの子が飼ってる猫かもしれないものね」
由香里が言う。
「うん」
「それに、猫がいたからって、あの子まで魔法戦士って決まったわけじゃないし」
美咲も言った。
「……そうだね」
そう答えながらも、あいの中から小さな疑問は消えなかった。
少女。
歌。
見知らぬ猫。
そして、その猫をじっと見つめるアムルたち。
たまたま。
全部、ただの偶然。
そう考えることもできる。
けれど最近のあいは、以前ほど簡単に「ただの偶然」で片づけられなくなっていた。
妖魔。
黒霧。
魔法戦士。
普通の高校生活のすぐ隣に、今まで知らなかった世界があることを知ってしまったから。
それでも今は。
少女はただ歌っていた。
ギターを弾いて。
時々、少しだけ顔を上げて。
駅前を行き交う人たちへ、静かな歌を届けている。
あいは、猫のことを気にしながらも、いつの間にかまた歌へ耳を傾けていた。
やっぱり、きれいな声だ。
魔法戦士かもしれない。
そんな疑いより先に、あいの中にあるのは、その感想だった。
もし明日、学校ですれ違ったとしても。
きっと今夜のことを思い出す。
瑞穂台駅の北口で。
たくさんの音に囲まれながら。
一人でギターを弾いていた、名前も知らない少女。
曲が終わった。
最後のギターの音が、ゆっくりと夜のざわめきへ溶けていく。
少し遅れて拍手が起こった。
あいも拍手をする。
美咲と由香里も続いた。
少女は小さく頭を下げる。
そして、もう一曲始めるのかと思ったけれど。
「あ……終わりみたい」
美咲が言った。
少女がギターを肩から外した。
歌声の消えた場所へ、駅前の音が一気に戻ってくる。
車の音。
人の話し声。
遠くのスピーカー。
電車の走行音。
あいには、それまでより少しだけ騒がしく感じられた。
少女はその場にしゃがみ込み、ギターを片づけ始める。
そのすぐそばには。
あの見知らぬ猫が、まだいた。
◆ 歌のあとを追って
少女はギターをケースへ収めると、留め具を一つずつ確かめるように閉じていった。
ついさっきまで響いていた歌声は、もうない。
代わりに、駅前の音が戻ってきていた。
車の走る音。
人々の話し声。
駅から漏れてくるアナウンス。
少し離れた場所から聞こえる、選挙運動のスピーカー。
あいは、なんとなく不思議な気分になった。
ほんの少し前まで、これだけたくさんの音の中から、あの少女の歌だけがまっすぐ耳へ届いていたのだ。
「終わっちゃったね」
美咲が少し残念そうに言う。
「うん」
「あの子、明日もいるのかな」
「どうだろうね」
あいが答えた、そのときだった。
足元にいたアムルが、すっと顔を上げた。
「……あい」
声の調子が変わっていた。
「え?」
フルルも同じ方向を見る。
ネロリも、静かに身体を起こした。
三匹の視線が向いているのは、駅ではない。
北口から少し離れた――住宅街側。
そこには、大きな公園がある。
「どうしたの?」
あいが小声で尋ねる。
アムルはしばらく公園の方角を見つめていた。
「……嫌な気配がする」
あいの胸が、わずかに緊張する。
「黒霧?」
「まだ、はっきりとは分からない。でも、それに近いものを感じる」
美咲と由香里も表情を引き締めた。
「フルルも?」
「うん。あっち」
フルルも公園の方向を気にしている。
ネロリも小さく頷いた。
「私も感じます。少し離れていますが……確かに、何かあります」
「妖魔かもしれないってこと?」
由香里が聞く。
「可能性はあります」
ネロリの答えを聞き、三人は顔を見合わせた。
さっきまで、ただ歌を聞いていただけだった。
学校から帰ってきて。
たまたま歌声が聞こえて。
少しだけ寄り道をした。
そんな、ごく普通の夜だったはずなのに。
あいは公園の方向を見る。
まただ。
日常のすぐ隣に、黒霧や妖魔がいる。
最近は、その境目が前よりずっと近くなったように感じる。
「確認したほうがいいよね」
美咲が言った。
「うん」
あいも頷く。
黒霧だけなら、それで済むかもしれない。
けれど妖魔がいるなら、放っておくわけにはいかない。
「じゃあ、公園まで行ってみましょう」
由香里も静かに言った。
そのとき。
「あ……」
あいは、少し離れたところへ視線を戻した。
歌っていた少女の足元。
そこにいた見知らぬ猫も、公園の方を見ていた。
さっきまで少女のそばで静かにしていたのに、今は明らかに様子が違う。
耳を澄ませるように顔を上げ、じっと同じ方向を見ている。
「ねえ……」
美咲も気づいた。
「あの猫も」
「うん」
三人が見ている前で、少女も公園の方向へ顔を向けた。
ほんの短い間。
何かを確かめるように。
そして、ギターケースを持ち上げた。
「あの子……帰るのかな?」
美咲が言う。
けれど少女が歩き出した先は、駅へ戻る方向ではなかった。
公園の方だった。
「……同じ方向だ」
あいが呟く。
少女の少し後ろを、見知らぬ猫がついていく。
あいの中に、さっきの疑問が再び浮かんだ。
あの猫は何者なのだろう。
そして。
少女は、どうして公園へ向かったのだろう。
「追いかける?」
美咲が小声で聞いた。
あいは一瞬考えた。
けれど、すぐに首を横に振る。
「ううん」
「え?」
「私たちも、公園に用があるから」
アムルたちが感じ取った気配。
今、確かめなければならないのはそちらだ。
少女がどこへ行くのか気になるのは事実だけれど。
それを理由についていくのとは違う。
「そうね」
由香里も頷く。
「妖魔だったら大変だもの」
「了解」
美咲も表情を切り替えた。
「じゃ、公園行こ」
三人は歩き出した。
前方には、ギターケースを持った少女の姿がある。
少し距離を置いて、その後ろを見知らぬ猫が歩いている。
結果として、同じ道を進むことになった。
駅から離れるにつれて、周囲の音が少しずつ変わっていく。
選挙運動の声が遠くなる。
駅のアナウンスも聞こえなくなっていく。
車の音も減った。
代わりに、夜の住宅街の静けさが広がっていく。
そして、その先。
街灯の向こうに、公園の木々が見えてきた。
昼間なら、子どもたちの声が響いている場所なのだろう。
けれど夜になると、印象がまるで違う。
入口付近は街灯で照らされている。
その奥には、木々が作る濃い影が広がっていた。
あいは無意識に歩調を緩める。
「……近くなってる?」
小声でアムルへ尋ねる。
「ええ」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
胸の奥に、緊張が少しずつ広がっていく。
前を歩いていた少女も、公園へ入った。
迷っている様子はない。
見知らぬ猫もついていく。
「やっぱり、公園に来たね」
美咲が呟く。
「偶然……なのかな」
あいにも分からなかった。
ただ。
少女は公園の中へ入ると、人通りのある道から少し外れるように進んでいった。
ギターケースを持ったまま。
見知らぬ猫と一緒に。
三人は少し距離を取ったまま、公園へ入る。
駅前の明るさは、もう背後にしかなかった。
木々の影が濃い。
風が枝を揺らし、葉がかすかに擦れる。
その音さえ、今は妙に大きく聞こえた。
「あいちゃん」
「うん」
美咲に呼ばれ、あいは前を見る。
少女が、公園内にある公衆トイレのそばまで来ていた。
そして。
そのまま建物の横へ回り込んでいく。
「あ……」
見知らぬ猫も後に続く。
少女の姿が壁の向こうへ隠れた。
次の瞬間には。
あい達の視界から、完全に消えていた。
◆ 夜の公園
少女の姿が、公衆トイレの建物の向こうへ消えた。
「あれ……?」
美咲が首を伸ばすようにして、その先を見ようとする。
けれど、ここからでは建物の裏側までは見えない。
あいも目を凝らしたが、少女の姿も、あの見知らぬ猫の姿も確認できなかった。
「向こうに行っちゃったね」
「うん……」
どうして、わざわざあんな場所へ。
気にはなる。
けれど、あい達が公園へ来た本当の理由は少女ではない。
「それより……」
由香里が周囲を見回した。
「さっきの気配、近いんでしょう?」
ネロリが静かに頷く。
「ええ。かなり」
あいは少女の消えた方向から視線を外し、公園の奥を見る。
駅前とは違って、人影はまばらだった。
遠くの園路を歩いている人がいる程度で、広場にはほとんど人がいない。
街灯はある。
けれど、その光が届かない場所も多かった。
大きな木の幹の向こう。
植え込みの奥。
枝と枝が重なった場所。
そこだけ、夜の色が一段濃く見える。
「……あれ」
あいは思わず声を落とした。
植え込みの下。
影だと思っていたものが、ゆっくり動いた。
黒い。
ただ暗いのではない。
薄い煙のようなものが、地面すれすれに溜まっている。
「黒霧……」
美咲の声も、さっきまでとは違っていた。
「やっぱりあったんだ」
「一か所だけじゃないわ」
由香里が別の方向を見る。
木の根元。
遊歩道から少し外れた草むら。
そこにも、黒いものがうっすらと漂っている。
まだ大きくはない。
けれど、見慣れてしまったからこそ分かる。
あれは、普通の霧ではない。
あいの胸の奥に、嫌な緊張が広がった。
「アムル。妖魔は?」
「まだ分からない」
アムルは周囲を警戒しながら答える。
「黒霧だけなのか、その中に何かがいるのか……」
そのときだった。
美咲が、あいの腕を軽くつついた。
「あいちゃん」
「なに?」
「あそこ」
美咲が示したのは、公衆トイレの方だった。
あいはそちらを見る。
「……!」
誰かが出てきた。
さっき歌っていた少女ではない。
少なくとも、ひと目見た印象は違った。
制服姿ではない。
魔法戦士の戦闘服を身につけている。
胸元には、桃色を基調としたリボン。
「あの人……」
由香里も息を呑んだ。
魔法戦士だ。
それだけは、すぐに分かった。
けれど。
「あそこって……」
美咲が、公衆トイレと魔法戦士を交互に見る。
「さっきの子が入っていったところだよね?」
「……うん」
あいも同じことを考えていた。
同じ学校の制服を着て、駅前で歌っていた少女。
見知らぬ猫。
その二人が建物の裏へ消えた。
そして少しして。
同じ場所から、知らない魔法戦士が現れた。
考えれば。
答えはひとつしかないようにも思える。
「もしかして……」
美咲が小声で言う。
「あの子?」
あいはすぐには答えられなかった。
「……分からない」
「でも」
「うん。私も、そうなのかなって思う」
それでも、断定できなかった。
魔法戦士になった姿は、普段とは印象が大きく変わる。
正体を守るための魔法も働いている。
似ている。
そう思うのに。
見れば見るほど、「間違いなくあの少女だ」と言い切る感覚だけが掴めない。
「やっぱり、魔法戦士の正体って……変な感じするね」
美咲が呟く。
あいは小さく頷いた。
目の前に答えがあるように見えるのに。
最後の一本だけ、線がつながらない。
そんな感覚だった。
見知らぬ魔法戦士は、こちらには気づいていないようだった。
いや。
今は、あい達よりも公園の黒霧へ意識を向けている。
少女――ではなく。
魔法戦士が周囲を見渡す。
次の瞬間。
淡い魔力の気配が、その身体の周囲へ広がった。
「あれ……」
あいには見覚えがあった。
完全に姿を消す魔法ではない。
けれど、そこにいるのに、人の意識から少し外れていくような不思議な感覚。
「ヴェール粒子……?」
あいが呟く。
アムルが頷いた。
「ええ」
「知ってるんだ、あれ」
美咲が感心したように言った。
「ってことは……」
由香里が途中で言葉を止める。
三人とも、同じことを考えていた。
少なくとも。
今、目の前にいる魔法戦士は、戦い方をある程度知っている。
あい達のように、最近初めて変身したばかりの者とは違う。
そんな印象があった。
魔法戦士は黒霧の濃い方へ進む。
そして。
「えっ?」
美咲が声を漏らした。
身体が、ふわりと浮いた。
ジャンプではない。
地面を蹴った様子もない。
足元と地面の間に、わずかな空間ができている。
あいは目を見開いた。
「浮いてる……?」
「空中浮揚ね」
アムルが言った。
「空中浮揚……」
その言葉には覚えがあった。
けれど実際に目の前で見ると、やはり不思議だった。
藤崎紫織――あの謎の魔法戦士を見たときにも感じた、地面という制約から解放されたような動き。
ただ。
今目の前にいる魔法戦士は、あのときのように細かく空中を動き回るわけではなかった。
ほんの少し地面から離れる。
そして、自分が立ちたい場所へ静かに位置を取る。
まるで――。
「ステージに立つ場所を決めてるみたい」
美咲がぽつりと言った。
あいは、その言葉に妙に納得した。
駅前で歌っていた少女。
ギターを持って立つ場所を決め。
周囲を見て。
歌い始める。
今の動きは、それにどこか似ていた。
魔法戦士は、黒霧を正面に見据えた。
風が吹く。
木々の葉がざわめく。
黒霧がその下でゆっくりと揺れた。
その瞬間。
魔法戦士の手元に、何かが現れた。
「……楽器?」
あいは目を凝らす。
ギターに似ている。
けれど、駅前で少女が使っていたものとは違う。
あれは普通のギターだった。
今、魔法戦士が手にしているのは――。
「ベース……だよね?」
美咲が言った。
あいには詳しい違いまでは分からない。
けれど、少なくとも同じ楽器ではないことは分かった。
魔法戦士は、その《魔法のベース》を構える。
指が弦へ触れた。
あいは息を止めた。
次の瞬間。
――ズン。
低い音が。
夜の公園を、深く震わせた。
◆ 歌声は黒霧をほどく
――ズン。
低い音が、夜の公園を震わせた。
大きな音ではない。
それなのに、胸の奥へ直接触れてくるような深い響きだった。
「……すごい」
あいは思わず呟いた。
駅前で聞いたギターとは、まるで違う。
あのときは、夜の雑踏に自然になじむような柔らかな音だった。
今は違う。
目の前の魔法戦士が構えているのは、魔法のベース。
弦が震えるたび、低い音の中に目には見えない何かが重なっている。
魔力だ。
そう気づいた瞬間。
魔法戦士が歌い始めた。
「あ……」
あいの胸が小さく跳ねる。
声。
聞き覚えがある。
さっき、瑞穂台駅の北口で聞いた歌声。
静かで。
柔らかくて。
人混みの中でも、不思議と耳へまっすぐ届いた声。
――やっぱり、あの子?
そう思う。
けれど、やはり断定できない。
目の前にいるのは魔法戦士だ。
駅前で歌っていた、さくら女子の制服姿の少女とは印象が違う。
それでも。
歌声だけは、あいの記憶の中にあるものとよく似ていた。
ベースの低音が、もう一度響く。
その上に、歌声が重なる。
すると。
「見て!」
美咲が小さく声を上げた。
木の根元に溜まっていた黒霧が揺れた。
最初は、音に押されて動いただけのように見えた。
けれど違う。
黒い霧の輪郭が、少しずつ崩れていく。
「……消えてる?」
あいは目を凝らした。
魔法戦士は攻撃していない。
光弾を放ったわけでもない。
炎で焼いたわけでもない。
ただ。
ベースを奏でながら、歌っている。
低い音が公園へ広がる。
歌声がその音へ重なる。
そのたびに、木々の影に沈んでいた黒霧がゆっくりと形を失っていった。
「吹き飛ばしてるんじゃない……」
あいは呟いた。
黒霧は激しく散っているわけではない。
何か強い力に押し流されているのでもない。
もっと静かだった。
霧を形作っていたものが、少しずつ離れていく。
絡み合っていた糸が一本ずつ解けていくように。
濁った黒が薄くなり。
夜の空気へ溶け込むように。
消えていく。
「……ほどけてる」
あいの口から、その言葉が自然に出た。
美咲が振り返る。
「ほどけてる?」
「うん。なんていうか……壊してるんじゃなくて」
あいは、うまく言葉を探す。
「黒霧を作ってる魔力そのものが、ばらばらになってるみたい」
説明しながら、自分でもその表現が一番近いように思えた。
魔法戦士が弦を鳴らす。
――ズン。
低音が木々の間を抜ける。
歌声が続く。
すると、植え込みの奥に溜まっていた黒霧にも変化が起きた。
表面が細かく揺れ。
輪郭がぼやけ。
少しずつ透明になっていく。
「えっ……」
美咲が目を丸くする。
「戦わなくても消せるんだ」
その言葉には、純粋な驚きがこもっていた。
あいも同じ気持ちだった。
これまで妖魔と遭遇したときは。
黒霧の奥にいる敵を探し。
攻撃を避け。
コアを見つけ。
最後には、そのコアを破壊する。
それが戦いだった。
けれど今、目の前の魔法戦士は剣も振るっていない。
光弾も撃っていない。
歌っているだけだ。
もちろん。
ただの歌ではない。
ベースの低音と歌声。
そこに魔力が重なっている。
それでも。
戦っているようには見えなかった。
まるで、公園そのものへ歌を聞かせているようだった。
「……少し似てる」
隣で由香里が呟いた。
「え?」
あいが見ると、由香里は消えていく黒霧をじっと見つめていた。
「《アロマ・ピュリファイ》」
「あ……」
あいにも分かった。
由香里の浄化魔法。
香気を帯びた魔力を黒霧へ染み込ませ、濁った魔力を薄める。
直接攻撃する魔法ではない。
「確かに似てるね」
「うん。でも……やり方が全然違う」
由香里は興味深そうに魔法戦士を見る。
「私の場合は、香りと浄化の魔力を広げて黒霧を薄めるでしょう?」
「うん」
「あの人は、音なんだと思う」
「音……」
「ベースと歌声。それを黒霧に響かせてる」
由香里は少し考えてから続ける。
「同じように黒霧を弱めてるけど……作用させる方法が違うんじゃないかな」
あいは改めて、桃色の魔法戦士を見る。
そう考えると、不思議だった。
同じ黒霧を相手にしても。
自分と由香里では戦い方が違う。
美咲とも違う。
そして今目の前にいる魔法戦士は、さらに違う。
魔法戦士。
ひとつの名前で呼んでいても。
使う力も。
得意なことも。
戦い方も。
こんなにも違う。
――こんな戦い方もあるんだ。
あいは素直にそう思った。
魔法戦士は歌いながら、少し位置を変えた。
けれど地面へ降りることはない。
高く舞い上がるわけでもない。
地面からわずかに浮いたまま、黒霧へ音が届きやすそうな位置へ静かに移動する。
「空中浮揚って、ああいう使い方もできるんだね」
あいが言う。
「紫織さんのときと、全然違うね」
美咲も頷いた。
以前見た空中浮揚は、地面に縛られず自由に動くためのものに見えた。
けれど、この魔法戦士は違う。
飛ぶためではない。
戦場を縦横無尽に移動するためでもない。
歌うため。
演奏するため。
自分の音を一番届けやすい場所に立つため。
空中そのものを、小さなステージのように使っている。
魔法戦士の指がベースの弦を滑る。
低い音が連なった。
歌声が重なる。
黒霧がまたひとつ、ほどける。
木の根元。
植え込み。
ベンチの下。
街灯の光が届かなかった場所から、黒い濁りが少しずつ消えていく。
公園の空気が変わっていった。
暗さそのものが消えたわけではない。
夜は夜のままだ。
木々の影も残っている。
けれど、そこにまとわりついていた嫌な重さだけが薄れていく。
「きれい……」
あいは呟いた。
戦いを見ているのに。
そう感じた。
歌が流れる。
ベースが響く。
音へ触れた黒霧が、ほどけて消える。
その繰り返し。
やがて。
公園に散らばっていた黒霧は、ほとんど見えなくなっていた。
「これなら……」
美咲が少し安心したように息をつく。
「妖魔になる前に全部消せるのかな」
あいも、そう思いかけた。
そのとき。
「……待って」
由香里の声が低くなる。
あいは由香里の視線を追った。
公園の奥。
木々が重なり、街灯の光がほとんど届かない場所。
そこだけ。
黒いものが残っていた。
ほかの黒霧とは違う。
歌声が届いているはずなのに。
ベースの低音が響いているはずなのに。
消えない。
むしろ。
周囲の黒霧がなくなったことで。
そこにある黒さだけが、はっきりと浮かび上がっていた。
「……あれ」
美咲の声から、さっきまでの軽さが消える。
あいも息を呑んだ。
一か所だけ。
どうしてもほどけない黒い塊が。
木々の影の中に残っていた。
◆ 溶けない黒霧
歌声は、まだ続いていた。
魔法のベースから響く低音が、夜の公園をゆっくりと満たしていく。
その音に触れた黒霧は、これまでと同じように輪郭を失っていった。
細くほどけ。
薄くなり。
夜の空気へ溶けていく。
――ただ、一か所だけを除いて。
「……消えない」
あいは目を凝らした。
木々の影。
ほとんどの黒霧がなくなったことで、そこに残った黒い塊だけが不自然なほど目立っている。
桃色の魔法戦士も気づいているようだった。
歌を止めないまま、魔法のベースを鳴らす。
――ズン。
低音が届く。
黒い塊の表面が震えた。
けれど。
「ダメだ……」
美咲が呟く。
消えない。
それどころか。
「待って」
由香里の声が硬くなる。
「あれ……大きくなってない?」
あいにも見えた。
周囲にわずかに残っていた黒霧が、地面を這うように動いている。
霧が風に流されているのではない。
一か所へ。
黒い塊へ。
吸い寄せられている。
「集まってる……?」
あいの背中に冷たいものが走った。
細い黒霧が一本。
また一本。
木の根元や植え込みの影から伸び、中央の塊へ取り込まれていく。
そのたびに黒さが増す。
濃くなる。
大きくなる。
「これ……」
美咲が息を呑んだ。
「妖魔になるんじゃ……」
その言葉が終わるより早く。
黒い塊が、大きく脈打った。
どくん。
音がしたわけではない。
それでも、あいにはそう感じられた。
黒霧が内側から膨らむ。
霧だったものが、一つの形へまとまり始める。
「……来る!」
アムルの声。
次の瞬間。
黒霧が弾けた。
その中心から、ひとつの異形が姿を現す。
妖魔。
あいにも、もう迷う余地はなかった。
桃色の魔法戦士が、すぐにベースを構え直す。
歌声が少し強くなる。
低音が重なる。
妖魔を包む黒霧が揺れた。
けれど。
――ギィィン。
「っ……!」
あいは思わず耳を押さえた。
嫌な音だった。
ただうるさいのではない。
高いとも低いとも言い切れない。
いくつものずれた音を無理やり重ねたような、不安定な響き。
「なに、これ……」
美咲が顔をしかめる。
あいも同じだった。
音量だけなら、駅を通過する電車の方が大きいかもしれない。
なのに。
胸の奥がざわつく。
音の形そのものが歪んでいるような感覚。
妖魔から放たれたそれが、公園の空気を走った。
目には見えない。
けれど、確かに何かが通り抜けた。
その瞬間。
桃色の魔法戦士の歌が乱れた。
「……!」
ほんの一瞬。
声が途切れる。
同時に、ベースの響きも揺らいだ。
「あれ……」
あいは気づく。
さっきまで。
歌声とベースは、ぴたりと重なっていた。
低音の上へ歌が乗り。
一つの大きな響きとなって、黒霧へ届いていた。
それが今。
ずれている。
妖魔の音が、その間へ割り込んでいた。
「邪魔してる……?」
由香里が呟く。
「歌とベースの音を」
もう一度。
妖魔が不規則な音を放った。
桃色の魔法戦士は歌いながら身体を浮かせ、横へ移動する。
音波が、さっきまで彼女がいた場所を抜けていった。
すぐにベースを鳴らし直す。
低音。
歌声。
共鳴。
黒霧の一部が、わずかにほどける。
けれど。
――ギィン。
妖魔の音が重なる。
また歌が乱れる。
「相性が悪いんだ……」
あいは思わず呟いた。
さっきまで、あれほど鮮やかに黒霧を消していたのに。
今は違う。
音で黒霧をほどく魔法戦士。
その音を乱す妖魔。
まるで。
あの魔法戦士の得意な戦い方を知っているかのように。
けれど、桃色の魔法戦士は慌ててはいなかった。
歌う。
かわす。
位置を変える。
ベースを鳴らす。
もう一度、歌う。
空中浮揚を使って妖魔との距離を調整しながら、共鳴を作り直そうとしている。
「すごい……」
美咲が小さく言った。
「ちゃんと立て直してる」
あいもそう思った。
経験がある。
それは見ているだけでも分かった。
攻撃を受けて歌が崩れても、すぐに呼吸を整える。
演奏が乱れても、次の音で戻す。
空中で無駄に動き回ることもない。
歌うために必要な場所だけを選んでいる。
それでも。
妖魔の攻撃は止まらなかった。
不規則な魔力の音が、次々と公園へ放たれる。
桃色の魔法戦士が高度を少し変える。
一つを避ける。
横へ移動する。
もう一つもかわす。
そのまま歌を続けようとした――そのとき。
「危ない!」
あいの声と。
音波が届くのは、ほとんど同時だった。
桃色の魔法戦士が身体をひねる。
直撃は避けた。
はずだった。
けれど。
音波の端が、身体をかすめる。
一瞬遅れて。
紺色のプリーツスカートの裾に。
細い切れ目が走った。
「……!」
あいの息が止まる。
大きく破れたわけではない。
魔法戦士自身にも、傷は見えない。
けれど。
「衣装が……!」
声が漏れた。
胸が急に冷たくなる。
衣装が傷ついた。
それ自体が問題なのではない。
妖魔の攻撃が。
魔法戦士の防御を越えて、そこまで届いた。
今は衣装だけ。
でも。
次も同じとは限らない。
「攻撃、通ってる……」
美咲も表情を変えていた。
由香里が静かに頷く。
「このまま受け続けたら危ない」
桃色の魔法戦士は、傷ついた衣装へ視線を落とすことさえしなかった。
すぐに妖魔へ向き直る。
ベースを構える。
低音を鳴らす。
歌声を重ねる。
――ズン。
黒霧が揺れる。
少しほどける。
しかし。
――ギィィン。
妖魔の音が、それを乱す。
共鳴が崩れる。
桃色の魔法戦士が位置を変える。
また歌う。
また妨害される。
何度試しても。
歌声とベースの響きが一つになる前に、妖魔の不規則な音が入り込んでくる。
少しずつ。
少しずつ。
魔法戦士の動きに余裕がなくなっていく。
「……まずいよ」
美咲が言った。
あいも、そう思っていた。
あの人は強い。
たぶん、自分たちよりずっと経験がある。
ヴェール粒子も使える。
空中浮揚も使える。
黒霧を歌だけで消すこともできる。
それでも。
一人で何でもできるわけではない。
相手との相性。
戦い方。
状況。
それだけで、経験のある魔法戦士でも追い込まれる。
あいは杖のない自分の手を、無意識に握った。
「……あいちゃん」
美咲がこちらを見る。
言葉にしなくても分かった。
由香里も同じ表情をしている。
もう。
見ているだけではいられない。
アムルがあいを見上げる。
「あい」
あいは頷いた。
「うん」
怖くないわけではない。
むしろ。
さっき衣装に走った細い傷を見たからこそ、怖さは増していた。
けれど。
だからこそ。
このまま一人で戦わせるわけにはいかない。
あいは、美咲と由香里を見た。
「行こう」
「うん」
美咲が即座に答える。
由香里も静かに頷いた。
「三人で」
あいはもう一度、妖魔と桃色の魔法戦士を見た。
そして。
三人は、戦いへ加わることを決めた。
◆ 三人の変身と共闘
「行こう」
あいがそう言うと、美咲と由香里は同時に頷いた。
三人は妖魔から視線を外さないまま、園路から少し離れた木々の陰へ駆け込む。
ここなら、外からは見えにくい。
あいは一度だけ周囲を確認した。
人はいない。
少なくとも、三人の姿を間近で見ている一般の人はいなかった。
遠くでは、桃色の魔法戦士が妖魔の音波をかわしている。
また、不規則な音が響いた。
――ギィィン。
歌声が乱れる。
「急ごう!」
美咲が言った。
「うん!」
あいは胸元へ手を添えた。
もう迷っている時間はない。
三人の声が、夜の木立の中で続けて響く。
「ラブ・レボリューション!」
「フローラ・レボリューション!」
「アロマ・レボリューション!」
光が広がった。
あいの制服が光の粒子へほどけていく。
身体を包む魔力が形を取り、見慣れ始めた戦闘服へ変わる。
胸元には大きなリボン。
手には、細身の長い杖。
視界の前にはマジカル・ビジョンが展開した。
隣では、美咲がマジカル・フローラへ。
由香里がマジカル・アロマへ。
変身を終えた三人は、ほとんど間を置かずに顔を見合わせた。
「行くよ!」
「うん!」
「大丈夫。行こう」
三人は木々の陰から飛び出した。
妖魔の黒霧が視界へ入る。
桃色の魔法戦士は、突然現れた三人へ気づいた。
「……えっ?」
驚いた表情が一瞬だけ浮かぶ。
当然だった。
ついさっきまで誰もいなかった場所から、三人の魔法戦士が走ってきたのだから。
けれど、説明している余裕はない。
「手伝います!」
ラブが叫んだ。
桃色の魔法戦士が一瞬だけこちらを見る。
「あなたたち……」
そこで妖魔が動いた。
黒霧が大きく波打つ。
「話はあと!」
フローラが片手剣を構えながら前へ出る。
桃色の魔法戦士は少し驚いたようだったが、すぐに妖魔へ視線を戻した。
「……分かった!」
それだけだった。
名前も。
学校も。
どうしてここにいるのかも。
何も聞かない。
今は、それでよかった。
ラブは周囲を見る。
駅前より人は少ないとはいえ、ここは普通の公園だ。
このまま戦えば、誰かが近づいてくるかもしれない。
桃色の魔法戦士が展開しているヴェール粒子のおかげで注意は向けられにくくなっている。
でも。
それだけでは足りない。
「戦闘範囲を隔離します!」
ラブは杖を握り直した。
公園全体を巻き込む必要はない。
妖魔。
四人の魔法戦士。
周囲の木々。
戦闘に必要なだけの空間。
そこまででいい。
あい――ラブの頭の中に、公園の形が線として浮かんでいく。
妖魔の位置。
自分たちの位置。
木々。
園路。
街灯。
一般の人が歩く可能性のある場所。
必要な部分と。
巻き込まなくていい部分。
境界を決める。
「ここから……ここまで」
杖の先を動かす。
広すぎないように。
狭すぎないように。
妖魔の動きを封じるのではなく。
戦場そのものを、現実から切り離す。
ラブは息を整えた。
「ディストーション・フィールド!」
杖の先から魔力が広がる。
空間が、ほんの一瞬だけ揺れた。
木々。
地面。
街灯。
見た目は何も変わらない。
けれど。
感覚だけが切り替わる。
戦闘に必要な範囲だけが、現実空間から虚数方向へわずかにずれた。
「できた……!」
ラブは周囲を確認する。
公園の外側は見える。
遠くの街灯も。
木々の向こうの夜景も。
けれど、こちら側の戦闘は外から切り離されている。
桃色の魔法戦士が目を見開いた。
「これ……空間隔離?」
「はい!」
ラブは短く答える。
詳しく説明している時間はない。
相手もそれ以上は聞かなかった。
ヴェール粒子と。
ディストーション・フィールド。
どちらも一般の人を戦闘から遠ざけるために役立つ。
でも、同じ魔法ではない。
桃色の魔法戦士のヴェール粒子は、人の意識をこちらへ向きにくくする。
ラブのディストーション・フィールドは、戦っている空間そのものを現実から隔離する。
これで。
少なくとも一般の人を巻き込む心配は減った。
「よし!」
フローラが剣を構える。
「これなら思いっきり動けるね!」
「油断しないで」
アロマが落ち着いた声で言う。
「あの音、普通の攻撃じゃない」
「分かってる!」
フローラが妖魔へ向き直る。
桃色の魔法戦士も、再び魔法のベースへ手をかけた。
「三人とも、あの音には気をつけて!」
初めて、彼女の方から声が飛んできた。
「共鳴を崩してくる!」
「共鳴……」
ラブは頷いた。
「さっき見ました!」
「なら話が早い!」
魔法戦士がベースを鳴らす。
――ズン。
低音が広がった。
続いて歌声。
黒霧がわずかに揺らぐ。
しかし妖魔がまた不規則な音を放とうとする。
「来るよ!」
フローラが前へ出た。
妖魔の注意を引くように、左右へ動く。
桃色の魔法戦士はその間に位置を変え、歌とベースの響きを立て直す。
アロマは周囲の魔力の流れを見ながら、一歩後方へ下がった。
「ラブ」
「うん」
「私はあの子を支える。美咲――フローラが前を引きつけて」
「了解!」
三人で戦うときの感覚。
最近になって、少しずつ分かるようになってきた。
誰か一人が全部をするのではない。
フローラが前へ出る。
アロマが支える。
ラブが見る。
そして判断する。
今度はそこへ、もう一人が加わった。
名前すら知らない魔法戦士。
それでも。
敵は同じだ。
「右から来る!」
ラブが叫ぶ。
妖魔の黒霧が膨らんだ。
桃色の魔法戦士が空中で少し高度を変える。
フローラも地面を蹴る。
音波が二人の間を抜けた。
「助かった!」
桃色の魔法戦士が言う。
「いえ!」
ラブは杖を構えながら答えた。
不思議だった。
ついさっきまで。
自分たちは、あの魔法戦士の戦いを見ているだけだった。
経験も。
技術も。
使える魔法も。
自分たちよりずっと上に見えた。
実際、そうなのだと思う。
それでも今は。
助けることができた。
ほんの少しだけでも。
ラブの声が役に立った。
胸の奥に、小さな感覚が生まれる。
自分たちは。
もう、助けられているだけではない。
「もう一回来ます!」
ラブがマジカル・ビジョン越しに妖魔を見る。
黒霧の動きが変わった。
「……え?」
今までとは違う。
一方向へ集めているのではない。
妖魔を中心に、黒い魔力が大きく広がっていく。
「みんな、離れて!」
桃色の魔法戦士が叫ぶ。
フローラが足を止める。
アロマも顔を上げた。
ラブのマジカル・ビジョンの中で。
妖魔の周囲に、不規則な魔力反応が一気に増えていく。
一つではない。
右。
左。
正面。
複数の方向へ。
「これ……」
ラブの背筋が冷たくなる。
さっきまでのような、一人を狙う攻撃ではない。
妖魔が黒霧を大きく震わせた。
空気が歪む。
「広がる――!」
次の瞬間。
不規則な魔力をまとった音波が。
四人すべてを巻き込むように、戦場全体へ放たれた。
◆ 逃げ場のない音波
空気が、歪んだ。
ラブがそう感じた次の瞬間。
――ギィィィン!
耳障りな音が、四方へ弾けた。
「っ……!」
ラブは反射的に身を低くする。
頭上を何かが通り過ぎた。
目には見えない。
けれど、木の葉が不自然に揺れ、少し離れた地面の砂が細く跳ねた。
さっきまでの音波とは違う。
一方向ではない。
妖魔を中心として、いくつもの歪んだ魔力反応が広がっていた。
「みんな、気をつけて!」
ラブは叫びながらマジカル・ビジョンへ意識を集中する。
妖魔の周囲。
黒霧。
魔力反応。
攻撃の起点。
情報が次々に重なる。
右。
左。
斜め上。
そこまでは見える。
けれど。
「……読めない」
ラブの声が震えた。
攻撃が途中で乱れる。
まっすぐ進まない。
空間へ広がった魔力の波が、一度膨らんだかと思えば急に細くなる。
方向まで微妙にずれていく。
マジカル・ビジョンが示す情報を追っても。
次の瞬間には、その予測から外れてしまう。
「ラブ!」
フローラの声。
「右!」
「えっ――」
ラブは杖を抱えるようにして横へ跳んだ。
直後。
さっきまで立っていた場所を、不規則な音波が走り抜ける。
避けた。
そう思った瞬間。
別の魔力反応が視界の端に浮かんだ。
「もう一つ……!」
間に合わない。
ラブは杖を前へ出す。
魔力を込めて、少しでも勢いを受け流そうとする。
――ビリッ。
身体に衝撃が伝わった。
「くっ……!」
後ろへ半歩押される。
痛みはない。
立っていられる。
けれど。
杖を握る腕の袖口に、細かな切れ目が入っていた。
「また……」
ラブは一瞬だけそこを見る。
すぐに視線を妖魔へ戻した。
気にしている場合じゃない。
傷ついたのは衣装だけだ。
今は。
けれど、次の攻撃がもっと深く入ったら。
そう考えるだけで背中が冷たくなる。
「はあっ!」
フローラが妖魔へ踏み込んだ。
片手剣が黒霧を切り裂く。
妖魔の注意を引こうとしている。
「こっち!」
フローラは前線を退かない。
妖魔がそちらへ向いた瞬間、剣を振るって牽制する。
続いて。
「チェリー・ブラッサム!」
桜の花びらを思わせる魔法片が展開する。
妖魔の周囲へ広がり、攻撃の出始めを邪魔するように飛び込んでいく。
黒霧が揺れた。
「今!」
フローラが叫ぶ。
空中にいた桃色の魔法戦士が、魔法のベースを鳴らす。
――ズン。
深い低音。
そこへ歌声が重なる。
一瞬だけ。
さっきまでのきれいな響きが戻った。
「いける……?」
ラブが期待した、その直後。
妖魔が震えた。
――ギィン!
不規則な音が、歌声へぶつかる。
ベースの低音が揺らいだ。
歌が途切れる。
「っ……!」
桃色の魔法戦士はすぐに位置を変える。
高く飛ぶのではない。
少しだけ横へ。
歌い直せる場所を探すように。
けれど妖魔は、その動きを待ってくれない。
さらに音波を放つ。
「危ない!」
ラブが叫ぶ。
魔法戦士は身体を傾けて避ける。
一つ。
二つ。
そのままベースへ指を戻す。
しかし三つ目。
横から回り込むような魔力反応が広がった。
音波が彼女の脇をかすめる。
桃色のリボンの端が、わずかにほつれた。
それでも彼女は歌おうとする。
息を整え。
ベースを鳴らす。
何度乱されても、立て直そうとしている。
「すごいけど……」
ラブは歯を食いしばった。
このままでは。
歌い直す。
妨害される。
避ける。
また歌い直す。
それを繰り返しているだけだ。
攻撃を受けるたびに、余裕だけが削られていく。
「ラブ!」
「うん!」
フローラが妖魔の正面へ入る。
ラブは杖を構え、マジカル・ビジョンで攻撃反応を追う。
「左から二つ!」
「了解!」
フローラが一歩下がる。
一つ目を避ける。
二つ目へ剣を向け、直撃しないよう身体をひねる。
――ビリッ。
「っ!」
フローラのスカートの裾に、細い切れ目が増えた。
「美咲――!」
「平気!」
返事は早い。
フローラはそのまま前へ戻る。
「こんなの気にしてたら戦えないって!」
強気な声。
けれど、呼吸は少し荒くなっている。
無傷ではない。
身体には大きな怪我はない。
それでも。
戦闘服には確実にダメージが重なっていた。
ラブ自身も同じだ。
袖口。
スカートの裾。
外側の布地。
小さな切れ目や擦れた跡が少しずつ増えている。
アロマも例外ではなかった。
「……っ」
音波を避けた際、アロマの胸元のリボンの端がわずかに裂ける。
「由香里!」
「大丈夫」
アロマは落ち着いた声を保っていた。
けれど、すぐには次の言葉が続かない。
一度息を整える。
「まだ動けるよ」
そう言って、再び魔力を展開した。
妖魔の周囲には黒霧がまとわりついている。
アロマはそれを少しでも薄くしようとする。
「アロマ・ピュリファイ!」
淡い浄化の魔力が広がった。
黒霧の一部が薄くなる。
妖魔の輪郭が、ほんの少しだけ見えやすくなった。
「ありがとう!」
ラブはマジカル・ビジョンへ集中する。
黒霧の奥。
何かがある。
それは分かる。
しかし。
「まだ……見えない」
コアの位置までは捕まえられない。
黒霧だけの問題ではなかった。
妖魔自身の魔力が、不規則に揺れている。
音波を放つたび。
内部の反応まで乱れる。
赤い反応らしきものが一瞬見えても、すぐに黒霧へ埋もれてしまう。
マジカル・ビジョンは情報を見せてくれる。
でも。
答えを出してくれるわけではない。
ラブ自身が見つけなければならない。
「もう少し……」
杖を強く握る。
そのとき。
「来る!」
桃色の魔法戦士の声が響いた。
妖魔の周囲が大きく震える。
フローラが剣を構える。
ラブも身構えた。
アロマが両手を前へ出す。
不規則な音波が一気に広がった。
右だけではない。
左だけでもない。
正面。
斜め。
重なるように。
「こんなの……!」
フローラが一つを避ける。
続く攻撃を剣で受け流そうとする。
けれど。
「美咲、後ろ!」
ラブの警告。
フローラが振り返る。
間に合わない。
――ビリッ。
外側の布地に新しい傷が走る。
「くっ……!」
それでも倒れない。
すぐに足を踏ん張る。
ラブにも音波が迫った。
マジカル・ビジョンに反応は出ている。
見えている。
なのに。
どちらへ避ければ安全なのか分からない。
「右……違う、左……!」
判断が遅れた。
ラブは咄嗟に身体を横へ投げる。
強い魔力がすぐ横を通り過ぎる。
頬には触れていない。
身体にも傷はない。
しかし。
胸元のリボンの端に、小さなほつれが残った。
「っ……」
呼吸が浅くなる。
少しずつ。
本当に少しずつ。
追い込まれている。
四人とも。
桃色の魔法戦士の戦闘服にも、先ほどから小さな損傷が増えている。
それでも歌う。
フローラも前にいる。
アロマも支援を止めない。
自分も。
見るのをやめるわけにはいかない。
でも。
このままでは駄目だ。
あと何回。
この音波を受けられる?
あと何回。
偶然、身体への直撃を避けられる?
「……これ以上は」
ラブが呟いた。
「受け続けられない……」
その言葉を聞いたのか。
アロマが一瞬、こちらを見る。
そして。
桃色の魔法戦士へ視線を移した。
彼女はまた歌おうとしていた。
けれど、妖魔の不規則な魔力が周囲へ満ちている。
声を出しても。
ベースを鳴らしても。
共鳴が整う前に乱される。
アロマが、じっとその様子を見る。
「……違う」
「え?」
ラブが聞き返す。
アロマは妖魔ではなく、桃色の魔法戦士の周囲を見ていた。
「歌そのものを、どうにかしようとするんじゃない」
「由香里?」
「この人は、ちゃんと歌える」
アロマは静かに言った。
「さっき、私たちが来る前にも歌えてた」
確かに。
あの歌声には力があった。
弱い黒霧を次々とほどいていた。
問題は歌ではない。
歌うたびに。
妖魔の魔力が割り込んでくること。
共鳴が作れないこと。
「だったら……」
アロマの表情が変わる。
何かを決めた目だった。
「歌を強くする必要はない」
両手へ魔力を集める。
「邪魔を、少しでも減らせばいい」
ラブは息を呑んだ。
アロマは桃色の魔法戦士を見る。
「この人が――本来の歌を歌える環境を作る」
淡い魔力が。
アロマの周囲へ、静かに広がり始めた。
◆ 四人の音と連携
淡い魔力が、アロマの周囲へ広がっていく。
「アロマ・ヴェール!」
柔らかな膜のような魔力が展開した。
妖魔の音そのものを消すわけではない。
不規則な音波に混じっている、濁った魔力の干渉。
その力だけを少しでも弱めるように、アロマはヴェールを桃色の魔法戦士の周囲へ広げていく。
――ギィィン!
妖魔が再び音波を放った。
「っ……!」
桃色の魔法戦士が身構える。
けれど。
さっきまでとは違った。
音波がアロマのヴェールへ触れた瞬間、まとわりついていた黒い魔力がわずかに揺らいだ。
攻撃そのものが消えたわけではない。
それでも。
「今!」
アロマが叫ぶ。
桃色の魔法戦士が魔法のベースを鳴らした。
――ズン。
低音。
続いて歌声。
今度は、すぐには崩れない。
「あ……!」
ラブは思わず声を漏らした。
アロマが歌を強くしたわけではない。
あの歌声は、最初からあの少女自身のものだ。
変わったのは。
歌を邪魔するものが、少しだけ減ったこと。
「そういうことなんだ……」
ラブにも分かった。
力を足すんじゃない。
本来の力を出せるようにする。
それがアロマの支援だった。
だが妖魔も黙ってはいない。
黒霧が膨らむ。
「来るよ!」
フローラが前へ出た。
片手剣を構え、桃色の魔法戦士と妖魔の間へ入る。
音波が放たれる。
フローラは身体をずらして直撃を避けると、そのまま剣を振るった。
黒霧の表面が揺らぐ。
「まだ!」
別方向から魔力反応。
「フローラ、右!」
「了解!」
ラブの声に反応し、フローラが向きを変える。
「チェリー・ブラッサム!」
桜の花びらを思わせる魔法片が広がった。
一斉に妖魔へ突っ込むのではない。
いくつかが異なる方向から接近し、妖魔の動きを乱していく。
音波を放とうとした黒霧が揺れた。
攻撃の向きがずれる。
「よし!」
フローラが声を上げる。
彼女が前で妖魔を引きつける。
攻撃させない。
あるいは、狙いをずらす。
倒すためだけではない。
後ろで歌う魔法戦士へ、時間を渡すために。
桃色の魔法戦士がベースを鳴らす。
低い音が重なる。
歌声が続く。
黒霧の表面が、また少しほどけた。
「アロマ!」
「うん!」
アロマはヴェールを維持しながら、妖魔を見る。
まだ黒霧が厚い。
ラブのマジカル・ビジョンにも、内部ははっきり見えない。
アロマが呼吸を整えた。
「アロマ・ピュリファイ!」
浄化の魔力が広がる。
淡い魔力が妖魔を包む黒霧へ染み込んでいった。
押し返すのではない。
濁りを、薄くする。
黒霧が少しずつ透明度を失って――いや、黒さを失っていく。
「もう少し……」
ラブはマジカル・ビジョンへ集中した。
妖魔の輪郭。
黒霧。
内部の魔力反応。
その奥。
何かがある。
赤い反応が、一瞬だけ浮かぶ。
「あっ」
すぐに消える。
まだ弱い。
ラブは焦りそうになる自分を抑えた。
――私がやることは、何?
歌の仕組みを全部理解することじゃない。
ベースの音がどうやって魔力と共鳴しているのか。
どんな周波数なら妖魔に効くのか。
そんなことを、今ここで解き明かす必要はない。
それは、あの魔法戦士の領域だ。
自分が得意なこと。
これまで何度もやってきたこと。
黒霧の奥を見る。
妖魔の中心を探す。
そして。
コアを見つける。
「……よし」
ラブは杖を握り直した。
視界の情報を、一つずつ整理する。
黒霧の薄い場所。
濃い場所。
妖魔が音波を放つ瞬間の魔力変化。
アロマ・ピュリファイによって、一瞬だけ内部が見えやすくなる場所。
「フローラ、もう少しだけ引きつけて!」
「任せて!」
フローラが前へ走る。
妖魔が反応する。
黒霧がフローラの方へ向いた。
「こっちだよ!」
片手剣。
チェリー・ブラッサム。
攻撃の方向をずらしながら、前線を維持する。
桃色の魔法戦士は、その隙に歌い続ける。
アロマのヴェールが、魔力干渉を和らげる。
アロマ・ピュリファイが黒霧を薄める。
そして。
ラブは見る。
四人が、同じことをしているわけではない。
それぞれが違う。
だからこそ。
一人では作れなかった隙間ができる。
「……見えてきた」
ラブの視界に。
赤い反応。
今度は消えない。
黒霧の奥で、小さく明滅している。
けれど、まだ位置が曖昧だ。
「もう少し……!」
妖魔が大きく震える。
音波。
「来る!」
フローラが横へ跳ぶ。
アロマのヴェールが揺れる。
桃色の魔法戦士の歌声が一瞬震えた。
それでも止まらない。
ベースの低音が続く。
アロマがヴェールを保つ。
「大丈夫……!」
由香里――アロマの声にも余裕はなかった。
それでも、魔法を解かない。
続けて浄化の魔力を送り込む。
黒霧が薄れる。
そして。
赤い点が。
はっきりと形を持った。
ラブのマジカル・ビジョンに反応が浮かぶ。
《コア反応》
「……見えた!」
胸が大きく鳴った。
今まで乱れていた妖魔内部の反応。
その中にある。
一つだけ。
中心となっている魔力。
ラブは位置を確認する。
妖魔の正面から見て。
黒霧の中心。
そこから、わずかに奥。
「コア……捕まえた!」
ラブは顔を上げた。
桃色の魔法戦士が、歌いながらこちらを見る。
まだ名前も知らない。
どんな魔法戦士なのかも、すべては知らない。
それでも。
今、伝えるべきことは一つだけだった。
「コア、見えました!」
ラブは杖で位置を示す。
「黒霧の中心、その少し奥です!」
桃色の魔法戦士の目が、まっすぐラブを捉えた。
◆ コード・レゾナンス
「コア、見えました! 黒霧の中心、その少し奥です!」
ラブは杖の先で、妖魔の中心を示した。
マジカル・ビジョンに浮かぶ赤い反応。
今度は消えない。
アロマが黒霧を薄めてくれたことで、ようやく輪郭を捉えることができた。
桃色の魔法戦士が、ラブの示した場所を見る。
一瞬だけ。
二人の視線が重なった。
そして彼女は、小さく頷く。
それだけで伝わった。
「フローラ!」
「任せて!」
フローラが地面を蹴った。
片手剣を構え、妖魔の正面へ飛び込む。
妖魔の黒霧が大きく波打った。
また音波が来る。
「させない!」
フローラが剣を振るう。
「チェリー・ブラッサム!」
桜の花びらを思わせる魔法片が、一斉に広がった。
妖魔の周囲へ回り込み。
黒霧を揺らし。
音波を放とうとする動きを次々と牽制していく。
――ギィン!
一つ。
不規則な音波が放たれた。
「っ!」
フローラは身をひねってかわす。
続く二つ目。
剣を構え、身体への直撃だけは避ける。
戦闘服の裾がまた小さく揺れた。
それでも。
フローラは下がらない。
「こっち見てなさいよ!」
妖魔の意識を、自分へ引きつける。
歌う魔法戦士へ向かわせないために。
「アロマ!」
「うん!」
アロマも両手を前へ向ける。
「アロマ・ヴェール!」
淡い魔力の膜が広がった。
妖魔から漏れ出す、不規則で濁った魔力。
歌声へ割り込み。
ベースの響きを乱していたもの。
その干渉を、少しでも弱めていく。
続けて。
「アロマ・ピュリファイ!」
浄化の魔力が黒霧へ染み込んだ。
妖魔を包んでいた黒が、わずかに薄くなる。
ラブのマジカル・ビジョンの中で、赤い反応がさらに鮮明になった。
「そこ……!」
間違いない。
コアは動いていない。
黒霧の中心。
その少し奥。
ラブは杖を向けたまま叫ぶ。
「位置、変わってません! そのままです!」
桃色の魔法戦士が、魔法のベースを構え直した。
それまで何度も乱されていた歌声が。
もう一度。
夜の公園へ広がる。
最初は静かに。
呼吸を確かめるように。
そして。
――ズン。
ベースの低音が加わった。
ラブは息を呑む。
さっきまでとは違う。
妖魔のノイズが消えたわけではない。
まだ聞こえる。
まだ邪魔をしようとしている。
けれど。
フローラが攻撃を引きつけている。
アロマが魔力の干渉を弱めている。
その中で。
歌声とベースの音が、少しずつ一つへ重なっていく。
――これなら。
ラブは杖を握る手に力を込めた。
自分がやることも、もう決まっている。
コアを見失わない。
最後まで。
正確な位置を示す。
それだけ。
妖魔が激しく震えた。
黒霧が膨らむ。
「来るよ!」
ラブが叫ぶ。
最後の抵抗のように。
妖魔の周囲へ大量の魔力反応が浮かんだ。
「また広範囲……!」
フローラが歯を食いしばる。
それでも前へ出る。
「歌、止めさせないから!」
チェリー・ブラッサムが妖魔へ殺到する。
黒霧の動きが乱れる。
音波の発生が、一瞬だけ遅れた。
「今!」
アロマもヴェールへ力を込める。
妖魔と桃色の魔法戦士の間。
そこへ入り込もうとする濁った魔力を、少しずつ弱めていく。
歌声が伸びる。
ベースの低音が、その下を支える。
そして。
桃色の魔法戦士が大きく息を吸った。
「コード・レゾナンス!」
その言葉が、はっきりとラブの耳へ届いた。
彼女の指が、魔法のベースの弦へかかる。
次の瞬間。
強く。
弦が引かれた。
――――ズン。
今までとは比べものにならないほど深い低音が。
戦場を震わせた。
「……っ!」
ラブの胸の奥まで響く。
けれど、不快ではない。
妖魔の音とはまるで違う。
乱れた振動ではなく。
一本の太い線が、戦場を貫くような音。
その低音へ。
歌声が重なった。
一つだった音が。
二つになり。
そして。
一つの大きな響きへ変わる。
ラブのマジカル・ビジョンが反応した。
「コアが……!」
赤い点が震えている。
歌声とベース。
二つが生み出した共鳴が。
黒霧の表面ではなく。
妖魔の内部へ届いている。
まっすぐ。
ラブが示したコアへ。
――ズン。
もう一度、低音が響いた。
コアが激しく揺れる。
ラブは反射的に、いつものような光景を想像した。
ひびが入る。
砕ける。
壊れる。
けれど。
「……違う」
コアは割れなかった。
ひびも入らない。
それなのに。
赤い輪郭が揺らいでいる。
今まで一つの塊として見えていたコアの縁が。
少しずつ。
ぼやけ始めていた。
「ほどけてる……」
弱い黒霧が歌声に触れたときと同じだった。
ただし。
今度は黒霧ではない。
妖魔の中心。
その存在を支えているコアそのもの。
ひとつに結びついていた魔力が。
共鳴に合わせて。
一つ。
また一つ。
離れていく。
――ズン。
低音。
その上を流れる歌声。
コアの輪郭がさらに崩れる。
破片は飛ばない。
砕ける音もしない。
赤い光だったものが。
細い糸をほどくように。
形を保てなくなっていく。
ラブは目を見開いたまま、その光景を見ていた。
自分の《ラブ・バースト》とは違う。
フローラの剣とも違う。
撃ち抜かない。
斬らない。
砕かない。
それでも。
確かにコアを壊している。
――こんな壊し方があるんだ。
桃色の魔法戦士が、もう一度弦へ指をかけた。
フローラが前線を守る。
アロマが干渉を抑える。
ラブがコアを見続ける。
そして。
最後の一音。
――――ズン。
深い低音へ。
歌声が重なった。
共鳴が。
コアの中心へ届く。
赤い輪郭が大きく揺らいだ。
そして。
ふっと。
消えた。
「……!」
砕けたのではない。
消し飛んだのでもない。
形を保つための魔力の結びつきそのものがほどけ。
もう。
コアとして存在できなくなった。
マジカル・ビジョンから赤い反応が消える。
「コア反応……消失」
ラブが呟いた。
直後。
妖魔全体が大きく揺れた。
――ギ、ィ……。
今まで戦場を満たしていた不規則な音。
その勢いが急に弱くなる。
黒霧が膨らもうとして。
止まった。
中心を失ったからだ。
妖魔を形作っていた黒霧が。
端からほどけ始める。
細く。
薄く。
夜の空気へ溶け込むように。
次々と消えていく。
フローラが剣を構えたまま見上げる。
アロマもヴェールを維持しながら、その様子を見守っている。
ラブも動かなかった。
もう攻撃する必要はない。
妖魔は。
自分の姿を維持できなくなっていた。
最後に残っていた黒い揺らぎが。
歌声へ溶けるように消える。
そして。
ノイズが途切れた。
急に。
戦場が静かになる。
木々の葉が揺れる音。
遠くの街の気配。
それまで妖魔の音に隠れていた夜が。
少しずつ戻ってくる。
歌声も止まった。
ただ。
魔法のベースが残した低い響きだけが。
――ン……。
夜の公園に。
長い余韻となって残っていた。
◆ 諸星桃歌とヴィオラ
低い余韻が、ゆっくりと夜へ溶けていく。
ラブはしばらく動けなかった。
さっきまで公園を満たしていた、不規則で耳障りな音。
黒霧。
妖魔の気配。
そのすべてが消えている。
マジカル・ビジョンにも、赤いコア反応はもう表示されていなかった。
「……消えた」
ラブが呟く。
「完全に?」
フローラが剣を構えたまま周囲を見る。
「うん。コア反応はないよ」
アロマも静かに辺りを見回した。
桃色の魔法戦士も、魔法のベースを構えたまま少しの間警戒している。
誰もすぐには気を抜かなかった。
木々の間。
植え込み。
ベンチの周辺。
妖魔がいた場所。
再び黒霧が現れる気配はない。
「大丈夫そうだね」
アロマの言葉に、フローラがようやく肩の力を抜いた。
「はあー……終わったぁ」
その声を聞いて、ラブもようやく息を吐く。
戦闘服の袖口やスカートの裾には、小さな損傷がいくつも残っている。
けれど。
今はまず、空間を戻さなければならない。
「じゃあ、戻すね」
ラブは杖を構えた。
戦闘のために虚数方向へずらしていた公園の一角。
妖魔はもういない。
隔離を続ける必要もない。
「リターン・フィールド」
杖の先から魔力が広がる。
わずかにずれていた空間が、元の位置へ重なっていく。
一瞬。
景色が揺れたように見えた。
そして。
公園は、元の夜へ戻った。
街灯。
木々。
遠くから聞こえる車の音。
駅の方角からかすかに流れてくる街のざわめき。
「戻った……」
ラブは周囲を確認する。
異常はない。
一般の人が突然すぐそばへ現れることもなかった。
桃色の魔法戦士も辺りを見回してから、ラブたちへ視線を向けた。
「空間まで戻せるんだ」
「あ、はい」
改めて言われると、少し照れる。
「戦うときだけ隔離してて……終わったら戻します」
「へえ……」
少女は感心したようにラブを見る。
けれど、そこでフローラが自分の戦闘服を見下ろした。
「……その前に、これ戻したいな」
「あ」
ラブも自分の袖を見る。
確かに。
戦闘は終わったのだから、もう変身を続ける必要はない。
四人はもう一度周囲の安全を確かめる。
そして。
「ピースフル・モーメント」
光が四人を包んだ。
魔法戦士の戦闘服が光の粒子へほどけていく。
ラブの杖も消える。
マジカル・ビジョンも視界からなくなった。
そして。
あいは、いつもの夏制服姿へ戻っていた。
「……ふう」
思わず胸元へ手を当てる。
制服に傷はない。
戦闘中についていた細かな切れ目も、ほつれも残っていない。
隣では美咲と由香里も元の制服へ戻っている。
そして。
あいは、少し離れたところに立つ少女を見た。
「……あ」
思わず声が出た。
さっきまで桃色の魔法戦士だった少女。
今は。
瑞穂台駅北口でギターを抱えて歌っていた、あの少女の姿になっている。
同じ、さくら女子の制服。
駅前で見た顔。
そして。
あの歌声。
「やっぱり……」
美咲も目を丸くした。
「あのとき歌ってた子だったんだ」
少女が少し笑った。
「やっぱり見てたんだ」
「うん。途中からだけど」
「私たち、歌を聞いてて」
由香里が穏やかに続ける。
あいも頷いた。
これで。
ようやく確定した。
駅前で歌っていた少女。
公園へ向かった少女。
そして。
妖魔と戦っていた桃色の魔法戦士。
全部、同じ人だった。
「そっか」
少女は少しだけ照れたように笑う。
それから。
「ちゃんと名乗ってなかったよね」
三人へ向き直った。
「私、諸星桃歌」
「もろぼし……ももか」
あいは小さく名前を繰り返す。
「私立さくら女子高等学校、三年C組」
「えっ、C組?」
美咲がすぐに反応した。
あいも気づく。
三年C組。
そのクラスには。
「紫織さんと同じ……」
由香里が口にする。
「そうだね」
桃歌はそう答えた。
それ以上は言わなかった。
あいも聞かなかった。
二人がどんな関係なのか。
普段どれくらい話しているのか。
魔法戦士として一緒に活動することがあるのか。
そこまでは、まだ分からない。
桃歌は続ける。
「それで――魔法戦士としては、マジカル・コード」
「マジカル・コード……」
あいはもう一度、その名前を口にした。
コード。
音。
歌。
共鳴。
さっきの戦いを思い返すと、不思議なくらいしっくりくる名前だった。
「だから、さっきのが……《コード・レゾナンス》なんだ」
美咲が言う。
「うん」
桃歌が頷く。
「一人じゃ、今回は無理だったけどね」
「そんなことないよ」
美咲が即座に返した。
「最後に倒したのはそっちじゃん」
「でも、コアの位置を教えてもらえなかったら当てられなかったし、歌を邪魔され続けてたら使えなかった」
桃歌は、あい、由香里、美咲の順に見る。
「助かった。ありがとう」
「あ……」
あいは少し戸惑った。
自分たちは。
経験のある魔法戦士を助けた。
それを、本人から改めて言われると。
なんだか不思議な感じがした。
「こちらこそ……」
あいは小さく頭を下げる。
「最初、黒霧を歌だけで消してるの見て、すごいって思ってました」
「私も!」
美咲が言う。
「戦わなくても黒霧って消せるんだって」
「弱いやつならね」
桃歌は答える。
「今日みたいなのになると、そう簡単じゃないけど」
その言葉に、あいはさっきまでの戦いを思い返した。
経験があっても。
相性が悪ければ苦戦する。
でも。
仲間がいれば。
それぞれのできることを重ねれば、勝つことができる。
「あ、それと」
桃歌が足元へ目を向けた。
そこには。
駅前で見た、あの猫がいた。
「あ……!」
あいは目を見開く。
アムル。
フルル。
ネロリも、そちらを見ている。
最初に北口で見かけたとき。
もしかしたら。
そう思った猫。
桃歌が言った。
「この子がヴィオラ」
「ヴィオラ……」
「私のパートナー猫」
「やっぱり!」
美咲が声を上げた。
「あのとき、もしかしてって思ってたんだよね」
「うん」
あいも頷いた。
「でも、普通の猫かもしれないって……」
由香里が少し笑う。
「これで答え合わせね」
ヴィオラ。
その名前を知って。
ようやく。
駅前で感じた小さな疑問も、一つにつながった。
「私は宮本あい」
あいも改めて名乗る。
「三年A組です」
「橘美咲。同じくA組」
「田村由香里。私もA組」
「三人ともA組なんだ」
桃歌が言う。
「うん。最近は三人で一緒に戦うことが多くて」
美咲が答える。
桃歌が少し首を傾けた。
「最近?」
「あ……」
そこで美咲があいを見る。
あいも気づいた。
桃歌は。
いつから魔法戦士なのだろう。
「諸星さんは……」
あいは少し迷いながら尋ねた。
「いつ頃から、魔法戦士を?」
「私?」
桃歌は少し考えてから答える。
「高校一年くらいからかな」
「一年……?」
あいは思わず聞き返した。
美咲も由香里も驚いた顔になる。
「じゃあ、もう二年以上……?」
「まあ、そのくらい」
桃歌の答えはさらりとしていた。
けれど。
あいの中では、その言葉が大きく残った。
高校一年生。
自分たちがまだ。
魔法戦士の存在すら知らなかった頃。
桃歌はすでに戦っていた。
妖魔と。
黒霧と。
誰にも知られない場所で。
――紫織さんだけじゃなかったんだ。
あいはそう気づいた。
藤崎紫織。
自分たちよりずっと経験のある魔法戦士。
空中浮揚を自在に使う姿を見たとき。
あいはどこかで。
紫織が特別なのだと思っていた。
けれど。
違った。
同じ三年生。
同じ学校。
そして。
同じように高校一年生の頃から戦ってきた少女が、もう一人いる。
「あいちゃん」
美咲が小さく声をかける。
「うん」
たぶん。
美咲も同じことを考えている。
由香里も、少し考え込むような顔をしていた。
「……もしかして」
美咲が呟く。
「まだいるのかな」
「え?」
「うちの学校に」
美咲は桃歌を見るのではなく、あいと由香里を見る。
「私たちが知らない魔法戦士」
あいは答えられなかった。
いる。
とも。
いない。
とも。
今は分からない。
桃歌からも、それ以上の話は出なかった。
何人いるのか。
誰なのか。
なぜ同じ学校にいるのか。
何も分からない。
ただ。
可能性だけは。
さっきまでより、ずっと現実味を持って感じられた。
さくら女子。
毎日通っている学校。
教室。
廊下。
昼休み。
部活動。
そのどこかで。
自分たちがまだ知らない誰かが。
当たり前のような顔をして過ごしているのかもしれない。
そして。
放課後になれば。
誰にも知られず、妖魔と戦っているのかもしれない。
「……なんか」
美咲が言う。
「学校の見え方、また変わりそう」
「そうだね」
由香里が頷く。
あいも。
同じ気持ちだった。
「とりあえず」
桃歌が公園の出口へ目を向ける。
「ここにずっといる必要もないし、駅の方へ戻ろうか」
「あ、うん」
あいは頷いた。
桃歌。
美咲。
由香里。
そして、あい。
四人は公園の出口へ歩き始める。
アムル。
フルル。
ネロリ。
そして。
名前を知ったばかりのヴィオラも一緒だった。
木々の間を抜ける。
静かな住宅街を進む。
戦いの音は、もう聞こえない。
代わりに。
少しずつ。
瑞穂台駅北口の明かりと、街のざわめきが近づいてきた。
◆ 夜の歌の余韻
瑞穂台駅北口の明かりが、少しずつ近づいてきた。
公園から住宅街を抜け。
あい達が駅前へ戻った頃には、もう午後八時を過ぎていた。
「あれ……」
駅前へ出たところで、あいは足を少し緩めた。
静かだ。
もちろん、音がないわけではない。
駅から出てくる人たちの足音。
改札の方からかすかに聞こえる案内放送。
ロータリーへ入ってくるバスのエンジン音。
車が道路を通り過ぎる音。
誰かの話し声。
信号の音。
いろいろな音が、今も駅前にはある。
それなのに。
「さっきと全然違うね」
美咲も気づいたらしい。
「うん」
あいは頷く。
駅へ着いた頃。
ここには、もっとたくさんの声が重なっていた。
人の話し声。
駅の音。
車の音。
そして、選挙運動のスピーカーから流れる声。
いくつもの音が重なり合い、駅前全体が少し騒がしく感じられた。
けれど今は。
その声が聞こえない。
スピーカーも静まり。
駅前はすっかり夜の空気へ変わっていた。
「同じ場所なのにね」
由香里が言う。
「時間が少し違うだけで、こんなに感じが変わるんだね」
「……うん」
あいは駅前を見渡した。
不思議だった。
ほんの少し前まで。
ここから歌声を追いかけ。
黒霧を見つけ。
あんな戦いをすることになるなんて思ってもいなかった。
「あ」
美咲が桃歌を見る。
「そういえばさ」
「なに?」
「ここで歌うのって、いつもやってるの?」
桃歌は少し考えるようにしてから答えた。
「毎日じゃないよ」
「そうなんだ」
「うん。練習も兼ねて、ときどき」
そう言って、桃歌は駅前へ目を向ける。
今はもう、ギターはケースの中だ。
あいが最初に見たとき。
桃歌はこの場所で一人、ギターを弾いていた。
「学校でも練習するけど、こういう場所で歌うのも違うから」
「違う?」
あいが尋ねると、桃歌は頷いた。
「音がいっぱいあるでしょ」
あいは耳を澄ませる。
足音。
バス。
自転車。
自動ドア。
誰かの笑い声。
キャリーケースの車輪が舗装を転がる音。
「たとえば……」
桃歌は駅から出てくる人たちを見る。
「疲れて帰ってくる人の音とか」
少し早足で歩いていく人へ視線を移す。
「急いでる人の音とか」
ロータリーのそばで立ち止まり、スマートフォンを見ている人。
「誰かを待ってる人とか」
そして。
駅から住宅街へ向かっていく人たち。
「これから家に帰る人とか」
「音……なんだ」
美咲が首を傾げる。
「足音ってこと?」
「それもあるし」
桃歌は少し笑う。
「歩く速さとか、話し声とか、周りの音とか。そういうの全部」
「へえ……」
美咲が感心したように駅前を見る。
「私、全然そんなふうに聞いたことなかった」
「あいは?」
「えっ」
急に聞かれて、あいは戸惑う。
「私は……」
考える。
普段。
駅は、駅だった。
学校へ行くために電車に乗る場所。
家へ帰るために降りる場所。
人が多い。
音が多い。
それくらいにしか思っていなかった。
「……たぶん、音を一つ一つ聞こうとはしてなかったかも」
「普通はそうじゃない?」
桃歌は笑う。
「私は歌うから、気になるだけ」
その言い方は自然だった。
音楽をやっているからなのかもしれない。
長く魔法戦士を続けているから、何か違った感じ方を身につけているのかもしれない。
もしかすると、その両方なのかもしれない。
あいには、まだ分からなかった。
ただ。
分からないままでいいような気もした。
「でもさ」
美咲が桃歌を見る。
「今日の歌、普通のライブと全然違ったよね」
「ああ……戦ってたとき?」
「うん」
美咲は大きく頷く。
「最初、黒霧がどんどん消えてったじゃん。あれ、びっくりした」
「私も」
あいも言う。
「戦わなくても……黒霧って消せることがあるんですね」
「弱いやつならね」
桃歌が答える。
「全部が全部、あんなふうにいくわけじゃないよ」
「今日は、それを嫌ってほど見たけどね」
美咲が苦笑する。
「ほんと、一時はどうなるかと思った」
「私も」
桃歌も少しだけ困ったように笑った。
あいは、その表情を見た。
さっきまで。
桃歌は自分たちとは違う、ずっと上の存在のように見えていた。
空中浮揚。
ヴェール粒子。
魔法のベース。
歌声による浄化。
そして《コード・レゾナンス》。
自分たちがまだできないことを、いくつも知っている。
高校一年生の頃から戦ってきた経験者。
でも。
そんな桃歌でも、苦手な相手には追い込まれた。
そして。
四人で戦った。
美咲が前で攻撃を引きつけ。
由香里が歌える環境を作り。
自分がコアを見つけ。
桃歌が仕留めた。
誰か一人だけでは。
たぶん、あの戦いには勝てなかった。
「……今日」
あいは小さく言った。
「すごく勉強になりました」
「勉強?」
「はい」
言ってから、少し堅かったかなと思う。
けれど桃歌は笑わなかった。
「魔法戦士って……」
あいは言葉を探す。
「戦い方が、本当にいろいろあるんだなって」
自分は杖を使う。
美咲は剣。
由香里は香りと浄化。
紫織は空中を自在に動く。
そして桃歌は。
歌う。
「そうだね」
桃歌は短く答えた。
あいは、その言葉を聞きながら学校のことを考えた。
私立さくら女子高等学校。
毎朝通う校舎。
教室。
廊下。
階段。
図書室。
体育館。
部室。
これまでなら。
そこにいるのは、先生と生徒だけだと思っていた。
けれど。
今は違う。
藤崎紫織。
そして、諸星桃歌。
二人とも自分たちと同じ高校三年生。
しかも同じ三年C組。
自分たちが覚醒するより、ずっと前から戦っていた。
紫織だけが特別だったわけではない。
だったら。
――まだ、いるのかな。
あいは駅の明かりの向こうを見る。
毎日すれ違っている誰か。
名前だけ知っている誰か。
顔すら覚えていない誰か。
その中に。
自分たちの知らない魔法戦士がいるのかもしれない。
何人いるのか。
誰なのか。
どうして同じ学校にいるのか。
今は何も分からない。
でも。
今日、桃歌と出会ったことで。
その可能性は、もう単なる想像ではなくなっていた。
「なんかさ」
美咲が言う。
「明日、学校行ったら、みんなちょっと怪しく見えそう」
「美咲」
由香里が苦笑する。
「全員を疑うのは違うでしょう」
「分かってるって」
「ふふっ」
桃歌が笑った。
あいも、つられて小さく笑う。
その瞬間。
ようやく。
今日の戦いが本当に終わったのだと感じた。
そばでは、アムルたちも一緒にいる。
フルル。
ネロリ。
そして。
今日、名前を知ったヴィオラ。
駅前を行き交う人たちは。
そんなあい達の一日を知らない。
公園で妖魔が現れたことも。
歌声が黒霧をほどいたことも。
四人の魔法戦士が戦ったことも。
何も知らないまま。
それぞれの場所へ帰っていく。
バスがロータリーへ入ってくる。
ドアが開く。
何人かが乗り込む。
駅からまた人が出てくる。
靴音が重なる。
誰かが誰かを見つけて手を振る。
自転車のベルが遠くで一度鳴る。
瑞穂台駅の夜は。
何事もなかったように続いていた。
あいはふと、さっき桃歌が歌っていた場所を見る。
今は誰も歌っていない。
ギターの音も。
歌声もない。
それでも。
耳の奥には。
あの歌が、まだ残っているような気がした。
駅前のたくさんの音の中から。
不思議と、あいの耳へ届いた歌声。
黒霧をほどいた歌。
仲間と力を合わせ、妖魔のコアさえほどいた歌。
そして今は。
戦いのためではない。
ただ。
夜の駅前に似合う、静かな歌として。
その余韻だけが。
あいの中に、いつまでも残っていた。
◆人物紹介
【諸星桃歌 (もろぼし ももか)】
私立さくら女子高等学校3年C組。軽音楽部に所属し、バンドではベースを担当している。練習を兼ねて、夕方から夜の駅前で、ときどきギターを手にひとりで歌っている少女。
魔法戦士としての名は《マジカル・コード》。パートナー猫は《ヴィオラ》。高校1年生頃から魔法戦士として活動している経験者で、《ヴェール粒子》や《空中浮揚》といった共通基礎魔法も身につけている。
戦闘では魔法のベースと歌声を使い、《音》《低音》《共鳴》によって黒霧や妖魔の濁った魔力を「ほどく」ように浄化する。弱い黒霧なら、本格的な戦闘になる前に歌と演奏だけで消散させることもできる。
必殺技は《コード・レゾナンス》。ベースの低音と歌声による強い共鳴を妖魔のコアへ重ね、コアを構成する魔力そのものをほどいて消滅させる。
宮本あいたちと同じ高校・同じ学年でありながら、彼女たちよりずっと以前から妖魔と戦ってきた、歌う魔法戦士。
読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、夜の瑞穂台駅から始まるお話でした。
選挙運動の声が響く駅前、北口から聞こえてくる歌声、そして人の少ない夜の公園。
同じ瑞穂台駅でも、これまでとは少し違う「音のある夜」を意識して書いています。
今回、本格的に登場したのは諸星桃歌。
私立さくら女子高等学校3年C組、軽音楽部でベースを担当する生徒です。
普段は練習を兼ねて、ときどき駅前でギターを弾きながら歌っています。
日常での桃歌の歌に、人の心を魔法で操ったり、疲れを治したりする力があるわけではありません。
それでも、雑踏の中でふと足を止めてしまうような魅力がある。
そんな「普通の歌」と、魔法戦士としての「魔法の歌」の両方を描きたいと思いました。
桃歌が変身する魔法戦士は《マジカル・コード》。
ラブのように光で撃ち抜くわけでもなく、フローラのように剣で斬るわけでもありません。
歌声と魔法のベースが生み出す《音》と《共鳴》によって、黒霧を構成している濁った魔力を、糸をほどくように崩していく魔法戦士です。
弱い黒霧なら、本格的な戦闘になる前に歌と演奏だけで消散させることもできます。
そして必殺技 《コード・レゾナンス》では、妖魔のコアを外側から砕くのではなく、コアを形作っている魔力の結びつきそのものを共鳴でほどき、「コアとして存在できない状態」へ変えて破壊します。
今回は、そのコードでも一人では苦戦する相手を登場させました。
経験が長い魔法戦士だからといって、どんな妖魔にも一人で勝てるわけではありません。
得意な相手もいれば、相性の悪い相手もいる。
そこで大切になったのが、四人の連携でした。
フローラが前へ出て攻撃を引きつける。
アロマが《アロマ・ヴェール》で魔力的なノイズの干渉を弱め、《アロマ・ピュリファイ》で黒霧を薄くする。
ラブがマジカル・ビジョンで、その奥に隠れたコアを見つける。
そして最後に、コードが《コード・レゾナンス》を届ける。
アロマが桃歌の歌そのものを強くしたのではなく、
「桃歌が本来の力を発揮できる環境を作った」
というところも、今回の連携で大切にした部分です。
一人の強い魔法戦士がすべてを解決するのではなく、それぞれの得意なことを重ねることで、一人では届かなかったところへ届く。
そんな戦いになりました。
そして、もう一つ。
紫織だけが、あい達より長く戦ってきた特別な存在ではありませんでした。
桃歌もまた、同じさくら女子の同じ高校三年生でありながら、高校一年生頃から魔法戦士として活動してきた経験者です。
自分たちが魔法戦士の存在すら知らなかった頃から、同じ学校のどこかで戦っていた少女がいる。
もしかすると――
まだ、あい達が知らない魔法戦士が学校にいるのかもしれません。
紫織は空を舞い。
桃歌は歌い、音で黒霧をほどく。
魔法戦士には、本当にいろいろな形がある。
今回の出会いは、あい、美咲、由香里にとって、魔法戦士の世界がさらに広がった出来事になりました。
そして物語の最後。
選挙運動の声が止み、すっかり夜になった瑞穂台駅へ戻ってきた四人。
冒頭ではたくさんの声に満ちていた駅前が、最後には静かな夜の音へ変わっています。
そこにもう歌声は聞こえていません。
それでも、あいの中には。
桃歌の歌の余韻が、まだ残っている。
そんな終わり方にしてみました。
感想や気になったシーン、
「マジカル・コードの戦い方が好き!」
「桃歌やヴィオラをもっと見たい!」
などありましたら、お気軽にお寄せください。
次回も、読んでいただけたら嬉しいです。




