車いすの少女は、空を舞う
今回は、第十一話で少しだけ登場した藤崎紫織が、本格的に物語へ関わってきます。
あい、美咲、由香里とは同じ高校三年生。
けれど、彼女には三人がまだ知らない一面があります。
瑞穂台駅で起こる新たな妖魔との戦い。
そして、あい達がこれまで知らなかった魔法戦士の戦い方。
「地面を移動する」という当たり前から少し離れた時、あいの目にはどんな景色が見えるのでしょうか。
第十三話「車いすの少女は、空を舞う」
どうぞお楽しみください。
◆ 朝の瑞穂台駅
朝の瑞穂台駅は、いつもより少し騒がしかった。
改札の外、駅前ロータリーの方から、選挙運動の声が響いている。
「東京の未来を、若い世代とともに――」
「十八歳の皆さん、一票が未来を変えます――」
スピーカー越しの声が、朝の通勤通学のざわめきに重なっていた。
あいは改札前の邪魔にならない場所に立ち、人の流れをぼんやり眺めていた。
制服姿の高校生。スーツ姿の会社員。鞄を肩にかけて足早に改札へ向かう人たち。
その向こうでは、選挙運動ののぼりが朝の風に揺れている。
少し前までなら、あいにとって選挙というものは、ニュースや社会科の授業の中にあるものだった。
けれど、自分も十八歳になった。
東京府や東京市のことを調べ、さらにその土地に古い広域結界があると知ってからは、駅前から聞こえてくる言葉も、以前とはほんの少し違って聞こえる。
もちろん、だからといって答えがわかったわけではない。
むしろ、知らないことが増えた気がする。
「おーい、あいちゃーん!」
聞き慣れた声に顔を上げる。
人の流れの向こうから、美咲が片手を振りながらやって来た。
「おはよ、あいちゃん」
「おはよう、美咲ちゃん」
美咲はあいの前まで来ると、軽く息を整えた。
「間に合ったー。家出るの、ちょっと遅くなっちゃってさ」
「まだ全然大丈夫だよ」
「そう? ならよかった」
そう言いながら、美咲は駅前の方へちらりと目を向けた。
ちょうど別のスピーカーから、新しい声が聞こえてくる。
「朝からにぎやかだねえ」
「選挙期間だからね」
あいが答えると、美咲は小さく肩をすくめた。
「この前までは、あんまり気にしてなかったんだけどなあ。由香里からいろいろ聞いてから、なんか耳に入ってくるようになった」
「あ……それ、ちょっとわかるかも」
知らなかった時には、そのまま通り過ぎていた言葉。
一度気づいてしまうと、不思議なくらい目や耳に入ってくる。
東京府。
東京市。
東京都化。
そして――一般の人たちは知らない、東京府の広域結界。
あいは、そこで考えるのをやめた。
こんな人の多い場所で考え込んでいると、うっかり口に出してしまいそうで怖い。
「由香里、まだかな」
美咲が辺りを見回す。
「あ、来た」
あいも同じ方向を見る。
北口側から、由香里が落ち着いた足取りで歩いてきていた。
「おはよう、あい、美咲」
「おはよう、由香里」
「おっはよー」
三人がそろう。
それだけで、あいは少しほっとした。
少し前までなら、美咲と二人でここから学校へ向かうのがいつもの朝だった。
今では由香里も一緒にいることが増えた。
同じクラスの友達。
そして、自分たち三人だけが共有している秘密がある。
その事実にも、ようやく少しずつ慣れてきたように思う。
「行こっか」
美咲の声で、三人は改札へ向かった。
それぞれ乗車券を通し、朝の人波に混じって改札内へ入る。
構内には列車の到着を知らせる案内放送が流れ、ホームへ急ぐ人たちが足早に行き交っている。
いつもの瑞穂台駅。
あいは、そう思った。
――けれど。
数歩進んだところで、ふと視線が止まった。
「あれ……?」
「どうしたの、あいちゃん?」
美咲が振り返る。
あいは返事をせず、改札内コンコースの一角を見つめた。
通路の端。
その先が、いくつかのカラーコーンとバーで仕切られている。
傍らには簡易の案内板。
《設備点検中》
そう書かれていた。
普通なら、それだけだった。
駅では珍しくもない光景だ。
設備の故障かもしれないし、清掃や点検かもしれない。
けれど。
カラーコーンのそばに立っている女性駅員を見た瞬間、あいの胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
「あ……」
あいは思わず足を止めた。
あの人。
以前、この瑞穂台駅で黒い揺らぎが現れた時。
人を遠ざけ、カラーコーンを並べ、《設備点検中》という理由で周囲を封鎖していた女性駅員。
あの時も、不思議なくらい落ち着いていた。
一般の人たちには見えていないはずの何かを、知っているように見えた人。
美咲も気づいたらしい。
さっきまでの明るい表情が、わずかに変わる。
「……あいちゃん」
「うん」
由香里も二人の視線を追い、カラーコーンの向こうへ目を向けた。
朝の構内には、いつも通り大勢の人が行き交っている。
誰も特に気に留めていない。
《設備点検中》。
それだけを見て、自然に迂回していく。
けれど、あいにはもう、それだけには見えなかった。
胸の奥に、かすかなざわつきが広がる。
――また、あの駅員さんだ。
◆ 設備点検中
《設備点検中》。
白い案内板に書かれたその文字を見つめながら、あいは足を止めていた。
カラーコーンは通路の端から奥へ続き、改札内コンコースの一角をゆるく囲っている。その向こうには、バリアフリートイレの入口が見えた。
そして、そこにいる女性駅員。
間違いない。
以前、この瑞穂台駅で妖魔が現れた時にも、同じように人を遠ざけていた人だ。
「あの人……前にもいたよね」
美咲が声を落とした。
「うん」
あいも小さくうなずく。
あの時も、《設備点検中》だった。
偶然と言えば、それまでなのかもしれない。
駅員なのだから、駅の設備点検に立ち会っていても何も不思議ではない。
けれど、一度あの時の出来事を経験してしまったあいには、ただの偶然とは思いにくかった。
「……何かあるのかな」
由香里も周囲を気にしながら、小さな声で言った。
その時だった。
「あれ?」
美咲がカラーコーンの向こうを覗き込む。
「どうしたの?」
「あそこ。あの子」
あいも視線を向けた。
女性駅員から少し離れたところに、一人の女子生徒がいた。
車いすに座っている。
肩より少し下まで伸びたまっすぐな髪。
さくら女子の夏服。
見覚えがあった。
「あ……」
あいの頭の中に、瑞穂台駅で出会った時の姿が浮かぶ。
人の流れの中を、ごく自然に車いすで進んでいた少女。
狭いところでも迷いなく向きを変え、周囲との距離を当たり前のように把握していた。
そして学校の校門で、名前を知った。
「藤崎さん……?」
あいがつぶやく。
「だよね」
美咲もうなずいた。
「三年C組の藤崎紫織さん」
由香里も覚えていたらしい。
どうして藤崎さんが、設備点検中の場所にいるんだろう。
そう思った瞬間。
あいは、さらに妙なものに気づいた。
「……え?」
紫織の車いすの前側。
制服のスカートの上に、一匹の猫が座っていた。
灰色。
ただの灰色というより、光の加減によってほんの少し紫色を帯びて見える、淡い毛並み。
大きく動くでもなく、落ち着いた様子でそこに座っている。
あいは瞬きをした。
見間違いではない。
猫だ。
「美咲ちゃん」
「ん?」
「あの猫……見えてる?」
美咲は一度、紫織の方を見た。
そして、すぐに表情を引き締める。
「うん。見えてる」
「あたしも」
由香里も静かに答えた。
三人は顔を見合わせた。
猫がいること自体なら、そこまでおかしくはない。
――いや、駅の改札内、それも車いすの上に猫がいる時点で、普通なら十分気になる。
なのに。
あいは周囲へ目を向けた。
通勤途中らしい会社員が横を通り過ぎる。
学生が二人、話しながら歩いていく。
年配の女性が案内板を見て、カラーコーンを避けるように進路を変えた。
誰も猫を見ない。
ほんの一瞬でも視線を向ける人がいない。
まるで、最初からそこには何もいないみたいに。
あいの胸が、少しだけ早くなる。
この感覚を知っている。
初めてアムルと出会った時。
学校でフルルを見た時。
そして、由香里のそばにネロリが現れた時。
普通の猫とは違う存在。
「もしかして……」
美咲がそこまで言って、口を閉じた。
あいにも、その続きはわかった。
――パートナー猫?
でも、まだ決めつけることはできない。
あい達自身も、相手が魔法戦士なのかどうかを、見ただけで判別できるわけではない。
この前、紫織がアムルたちを見ていたように感じた時も、結局それ以上のことはわからなかった。
今回だって同じだ。
ただ、気になる材料が一つ増えただけ。
そう考えようとした。
けれど。
設備点検中のカラーコーン。
以前の妖魔事件でも見た女性駅員。
藤崎紫織。
そして、周囲の誰も気づいていない、不思議な猫。
それらがひとつの場所に集まっている。
あいには、それをただの偶然だと思う方が難しかった。
「……少しだけ、様子見ようか」
あいが言うと、美咲と由香里が静かにうなずいた。
三人は人の流れを邪魔しない場所へ寄り、カラーコーンの向こうをそっと見守った。
◆ 猫たちの警戒
「……少しだけ、様子見ようか」
あい達は人の流れから少し外れ、カラーコーンの向こうを見守っていた。
藤崎紫織の車いすに座っている、淡い紫灰色の猫。
やっぱり気になる。
けれど、それ以上に気になったのは――。
「あい」
足元近くから、アムルの低い声がした。
いつもの落ち着いた声だったが、わずかに緊張が混じっている。
あいは反射的に周囲を見た。
通勤客はそれぞれの目的地へ急いでいる。こちらを気にしている人はいない。
「アムル……?」
声を抑えて呼び返す。
「いるわ」
短い言葉だった。
あいの背筋がわずかに強張る。
「妖魔?」
「まだ、はっきりとは言えない。でも、嫌な魔力がある」
その直後、フルルも美咲の近くから顔を覗かせた。
「私も感じる。あっち」
フルルが向いたのは、紫織ではなかった。
バリアフリートイレの入口でもない。
その少し手前――壁際に置かれたゴミ箱だった。
ネロリも由香里のそばから静かに視線を向ける。
「黒霧に近い気配があります。ただ、まだ形にはなっていないようですね」
由香里の表情が引き締まった。
「じゃあ、設備点検って……」
美咲が小声で言う。
あいもカラーコーンを見る。
《設備点検中》。
やっぱり、本当の理由は別にあるのかもしれない。
けれど、今の段階ではまだ何も断定できない。
「あの猫じゃないんだね」
あいが確認すると、アムルは小さく首を振った。
「ええ。少なくとも、私が感じている違和感はあの子からじゃない。ゴミ箱の辺りよ」
あいは眼鏡の奥から目を凝らした。
ゴミ箱そのものは、ごく普通の駅設備に見える。
投入口の奥には、捨てられた袋や包装材らしいものが見えた。
細長いひも。
紙袋か何かの持ち手。
丸められた梱包材のようなもの。
どれも、それだけなら何でもないゴミだ。
黒い霧が噴き出しているわけでもない。
動いているわけでもない。
それなのに。
そこだけ、空気の奥がほんの少し濁っているような気がした。
――気のせい、かな。
今のあいには、変身していない状態で魔力を正確に分析することはできない。
マジカル・ビジョンも展開されていない。
だから、猫たちが何を感じ取っているのかまではわからない。
それでも、三匹がそろって警戒している。
無視していいものではなさそうだった。
「まだ妖魔になってないってこと?」
美咲が囁く。
「そこまではわからないわ」
アムルが答える。
「何かが潜んでいるのかもしれないし、そこへ魔力が集まっているだけかもしれない。今は決めつけない方がいい」
「うん……」
あいもその方がいいと思った。
図書室で見つかった黒い栞のことだって、結局、栞そのものと妖魔がどういう関係だったのかはわからなかった。
目の前のゴミも同じかもしれない。
物が妖魔になったのか。
何かが物に潜んでいるのか。
ただそこに黒霧が集まっているだけなのか。
今の段階では、何もわからない。
その時、カラーコーンの向こうで女性駅員が紫織へ歩み寄った。
三人は自然と口を閉じた。
女性駅員は一度、ゴミ箱の方へ視線を向けた。
ほんの一瞬だった。
けれど、それまで利用客へ向けていた穏やかな表情が消えたように、あいには見えた。
「藤崎さん」
低い声。
紫織も表情を引き締める。
「はい」
「さっきより少し強くなってる」
何が――とは言わなかった。
けれど、紫織にはそれだけで通じたらしい。
淡い紫灰色の猫も、ゴミ箱から目を離さない。
女性駅員は周囲を確認した。
人の流れは絶えない。
カラーコーンのすぐ外を、何も知らない会社員や学生たちが通り過ぎていく。
その様子を見てから、駅員はもう一度紫織へ目を戻した。
「無理はしないで」
今度の声には、はっきりとした緊張があった。
注意というより、確認に近い。
何かあれば、すぐに引くこと。
そう念を押しているように聞こえた。
紫織はすぐには答えなかった。
ゴミ箱の方をじっと見る。
それから、手元の車いすのリムに指を添えたまま、小さく息を吐いた。
「……大丈夫です、相原さん」
――相原さん。
あいは、その名前を頭の中で繰り返した。
あの女性駅員は、相原というらしい。
紫織の声は落ち着いていた。
でも、さっきまで駅で見かけた時の明るい雰囲気とは少し違う。
軽く考えているわけではない。
何かを確かめるように、もう一度ゴミ箱へ目を向ける。
「小規模なら、いつも通りです」
「いつも通りでも、油断はしないで」
相原がすぐに返した。
「はい」
短い返事。
それだけだった。
なのに、あいの胸の奥がざわついた。
「……いつも通り?」
美咲が、ほとんど息だけの声でつぶやく。
あいも同じ言葉に引っかかった。
普通の高校生が、駅の設備点検でそんな言い方をするだろうか。
しかも相原という駅員も、紫織を止めるのではない。
何が起こるかを知っているように、
《無理をするな》
《油断をするな》
と確認している。
まるで――。
こういう状況を、二人とも何度も経験しているみたいに。
紫織の車いすの上では、淡い紫灰色の猫が静かにゴミ箱を見つめている。
さっきまで穏やかだったその目も、今は鋭く細められていた。
あいは無意識に息を詰めた。
藤崎紫織。
見知らぬ猫。
妖魔の気配。
そして、「いつも通り」という言葉。
ばらばらだった違和感が、少しずつ一本の線になり始めている。
けれど――まだ、その先に何があるのかまでは見えなかった。
◆ 紫色の魔法戦士
「小規模なら、いつも通りです」
紫織の言葉が、まだあいの耳に残っていた。
いつも通り。
その意味を考えているうちに、紫織が車いすの向きを変えた。
淡い紫灰色の猫も、すぐに姿勢を変える。
「藤崎さん……?」
美咲が小さくつぶやく。
紫織は相原と呼ばれた駅員に軽くうなずくと、カラーコーンのさらに奥へ進んでいった。
バリアフリートイレの近く。
通路からは壁や設備に隠れて、奥まで見通すことができない場所だった。
淡い紫灰色の猫も一緒だ。
やがて、紫織の姿が完全に見えなくなる。
「行っちゃった……」
美咲が言った。
あいは何も答えられなかった。
視線は、紫織が消えた場所から離れない。
相原はカラーコーンのそばに残り、何事もないような顔で通行人を誘導している。
「こちら、設備点検中です。恐れ入りますが、反対側をお通りください」
声も態度も普通の駅員そのものだった。
けれど、あいにはもう普通には見えなかった。
――藤崎さん、何をするつもりなんだろう。
アムルも黙って奥を見つめている。
フルルもネロリも同じだった。
誰も説明しない。
ほんの数秒。
そのはずなのに、妙に長く感じた。
そして。
「あ……」
あいは思わず声を漏らした。
奥の空気が、一瞬だけ揺れたように見えた。
熱気とは違う。
もっと薄く、透明な何かが広がっていく。
その向こうから、一人の少女が姿を現した。
さくら女子の制服ではない。
紺と白を基調にした、あい達のものとよく似たセーラー服型の戦闘衣装。
胸元には、大きな紫色のリボン。
目元には、半透明のマジカル・ビジョン。
「え……?」
美咲が息を呑んだ。
由香里も何も言わない。
少女は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
なのに。
足音がしなかった。
あいは最初、それをただ歩き方が静かなのだと思った。
けれど、一歩、二歩と見ようとして――気づく。
一歩も踏み出していない。
――歩いてない。
床と少女の身体の間に、わずかな隙間がある。
ほんの少し。
けれど、確かに浮いている。
「あれ……」
あいは思わず眼鏡の位置を直した。
見間違いかと思った。
けれど違う。
少女の身体は床へ触れていない。
それなのに、少しも不安定に見えなかった。
普通なら身体を前へ動かすには、足を踏み出す。
重心が前へ移り、身体がわずかに上下する。
走ればもっと大きく揺れる。
あい自身、体育の時間にそれを嫌というほど意識したばかりだった。
けれど、目の前の少女には、その動きがまったくない。
身体の高さが変わらない。
頭も肩も上下しない。
胸元の紫色のリボンが、移動による風を受けてわずかに揺れているだけ。
身体そのものは、まるで床と平行に引かれた見えない線の上を、そのまま横へ移動しているようだった。
「……うそ」
美咲の声が漏れた。
少女は柱の手前まで来ると、身体をひねることもなく、すっと横へずれた。
半歩。
そんな言い方では足りない。
足を動かしていないのだから。
身体全体が、そのまま横方向へ移動した。
「あんな動き……」
由香里も目を見開いている。
少女は柱をかわす。
その直後、今度はわずかに高度を上げた。
数センチなのか、それ以上なのか。
あいには正確にはわからない。
でも、確かに高さが変わった。
そして次の瞬間には、また静かに元の高さへ戻っている。
何かを蹴った様子はない。
腕を振ってバランスを取ることもない。
身体を傾ける必要すらないように見えた。
――どうやって……?
あいの頭の中で、勝手に座標が浮かぶ。
前後。
左右。
そして高さ。
少女はそれを、一つずつ切り替えているようには見えない。
全部を同時に扱っている。
右へ行きながら少し上へ。
止まりながら向きを変え。
そこから後ろへ滑る。
まるで、床の上を移動しているのではなく。
空間の中で、自分の位置そのものを選び直しているようだった。
「浮いてる……よね?」
美咲が確認するように言う。
「うん……」
あいは、それしか答えられなかった。
奥を見る。
さっきまで紫織が乗っていた車いすは、壁際の安全な場所に残されていた。
誰も座っていない。
そして今、紫色のリボンをつけた魔法戦士が、そのすぐ前を浮かんでいる。
――藤崎さん……?
そう思う。
でも、断定するにはまだ何かが足りない。
顔を見れば、どこか紫織に似ているようにも感じる。
けれど、魔法戦士の姿には正体を守る仕組みがある。
あい自身がそうなのだから、見た目だけで決めつけることはできない。
それでも。
あいは、その少女から目を離せなかった。
移動の仕方。
それが、あまりにも自分の知っている《移動》と違っていたからだ。
人は床を使う。
歩く。
走る。
跳ぶ。
車いすなら、車輪で床を押して進む。
どれも地面から力を受けて動く。
けれど。
目の前の少女は違った。
床を必要としていない。
少女が進んでも、足音はしない。
車輪の音もない。
止まる時ですら、慣性で身体が前へ揺れることもなかった。
進む。
止まる。
横へずれる。
少し上がる。
少し下がる。
そのすべてが、同じくらい自然だった。
――こんなふうに、動けるんだ。
驚きの中に、少しだけ怖ささえ混じる。
自分が知っている身体の動かし方が、急に狭いものに思えてしまった。
歩くよりも静かに。
車いすよりもさらに滑らかに。
何か見えない軌道の上をなぞるように、少女は移動する。
あいの頭に、以前見た紫織の姿が浮かんだ。
瑞穂台駅の人混み。
車いすを操作しながら、誰にもぶつからず進んでいた。
狭い場所でも迷わず曲がっていた。
――似てる。
移動方法はまったく違う。
なのに、周囲との距離を捉える感覚だけは、同じように見えた。
柱の位置。
壁までの距離。
案内板の高さ。
カラーコーンの幅。
すべてを測ってから動いているようには見えない。
最初から全部わかっている。
そんな動きだった。
「飛んでる……って感じじゃないね」
由香里が、静かに言った。
あいはうなずいた。
「うん……」
飛んでいる。
確かにそうなのだと思う。
でも、それだけでは何か違う。
空へ向かって飛び上がっているのではない。
地面を蹴っているわけでもない。
何かに吊られているようにも見えない。
少女はただ、その場所に浮いていた。
そして、そのまま前へ進んでいる。
まるで――。
空間そのものに、身体を預けているみたいに。
その時、あいは妙なことに気づいた。
すぐ横を通った会社員が、紫色の魔法戦士を見なかった。
視界には入っているはずなのに、視線が滑るように別の場所へ移っていく。
別の通行人も同じだった。
「あの人たち……気づいてない?」
美咲も気づいたらしい。
「完全に見えてないわけじゃないと思う」
アムルが小声で言った。
「あれはヴェール粒子よ」
「ヴェール……粒子?」
あいは初めて聞く言葉を繰り返した。
「今は説明している場合じゃないわ。あとで話す」
アムルの声は短い。
あいはそれ以上聞かなかった。
ただ、一般人の視線だけが不自然に少女を避けている。
少女の周囲には紫色の淡い魔力光が見える。
けれど、空気を満たしている認識阻害そのものが紫色なのかどうか、今のあいにはわからない。
だから、ただ目の前の現象として見つめるしかなかった。
紫色の魔法戦士は、ゴミ箱の方へ顔を向けた。
その少し後ろを、淡い紫灰色の猫がついていく。
さっきまで車いすの上にいた猫だ。
少女が止まる。
空中で。
何の支えもなく。
そして、止まった瞬間ですら、身体はほとんど揺れなかった。
それを見て、あいはもう一度驚いた。
――止まることまで、普通なんだ。
無理をして浮いているようには見えない。
集中して必死に姿勢を維持しているようにも見えない。
立っている人が、その場に立っている。
それと同じくらい自然に。
少女は空中にいた。
あいの胸が大きく鳴った。
目の前にいるのは、自分たちとは明らかに違う。
それは魔力の強さではない。
技の派手さでもない。
――慣れてる。
そう感じた。
浮くことにも。
空中で止まることにも。
戦う場所に立つことにも。
自分の身体を魔法で動かすことにも。
何の迷いもない。
あい達がまだ知らない《魔法戦士としての日常》を、この少女はずっと前から知っている。
そんな気がした。
紫色の魔法戦士は、床から少し浮いたまま、静かにゴミ箱へ近づいていった。
◆ 床を這うひも
紫色の魔法戦士が、ゴミ箱へ近づいていく。
床から少し浮いたまま。
その動きを目で追いながら、あいは無意識に息を浅くしていた。
さっきまでなら、あの不思議な浮かび方ばかりを見ていたと思う。
けれど今は違う。
ゴミ箱の周囲。
そこに漂う、かすかな黒い濁り。
「あい」
アムルの声が低くなる。
「来るわ」
その直後だった。
ゴミ箱の奥で、何かがかすかに動いた。
「……え?」
あいが目を凝らす。
最初は、捨てられたビニール袋が空調の風で揺れただけかと思った。
けれど違う。
細長い包装用のひも。
紙袋の持ち手。
帯のような梱包材。
それらの隙間から、黒いものが滲み出していた。
霧。
黒霧。
少しずつ濃くなっていく。
「黒霧……!」
由香里が声を抑える。
黒い霧はゴミ箱の縁からこぼれ、床へ落ちる。
だが、床へ広がるだけではなかった。
中に捨てられていた細長いものへまとわりつき、引きずり出すように持ち上げていく。
一本。
二本。
さらに、その奥からも。
黒霧をまとった細い線が、ゆっくりと宙へ浮かんだ。
「なに、あれ……」
美咲の声から、いつもの軽さが消える。
あいにも、うまく言葉にできなかった。
花ではない。
茎でもない。
前に歩道橋の下で戦った妖魔のような、植物を思わせる形ではまったくなかった。
黒い帯。
細いひも。
ねじれた線。
太さも長さもばらばらなそれらが、互いに絡まりながら一つの塊を作っていく。
縛って。
ほどけて。
また絡み合う。
中心には黒霧が渦を巻いていた。
「……妖魔?」
あいが呟く。
「その可能性は高いわ」
アムルが答える。
「でも、まだ余計なことは決めつけないで」
「うん」
あいも、すぐにうなずいた。
目の前でゴミと黒霧が絡み合っている。
だからといって、ゴミそのものが妖魔になったとは限らない。
黒霧が中に潜んでいたのかもしれない。
何かが、それらを利用しているだけなのかもしれない。
そこは、今のあいにはわからない。
わかるのは。
――危ない。
それだけだった。
黒い塊が、びくりと震えた。
次の瞬間。
しゅっ。
細い何かが床へ落ちた。
ひもだった。
いや、ひものように見える黒い魔力の筋。
一本ではない。
二本。
三本。
次々と妖魔の塊から伸び、床の上へ広がっていく。
「床……?」
あいの視線が自然と下がる。
黒いひもは、宙を飛ばなかった。
床へぴたりと張りつくように落ち、そのまま蛇行しながら進んでいく。
速い。
「来る!」
フルルの声。
一本のひもが、紫色の魔法戦士へ向かった。
正確には――。
あいは気づく。
身体そのものではない。
床の上。
少女がいる場所の、足元に向かっている。
「危ない!」
美咲が声を上げた。
黒いひもが跳ねた。
床からわずかに持ち上がり、そこにあるものへ巻きつこうとする。
けれど。
空を切った。
「え……?」
あいは瞬きをした。
紫色の魔法戦士は、もうそこにはいなかった。
ほんの少し横。
それだけ。
大きく飛び退いたわけではない。
跳んでもいない。
身体をひねって避けたようにも見えなかった。
すうっ、と。
床から浮いた高さを保ったまま、横へ滑っただけだった。
黒いひもは少女の下を通り過ぎ、空しく床を叩く。
「避けた……」
あいが呟く。
さらに二本。
左右から黒い線が迫る。
少女は慌てない。
一つ目が近づけば、わずかに後ろへ。
二つ目が重なれば、今度は少しだけ上へ。
ほんの少し高さが変わる。
それだけで、床を這っていた黒いひもは届かなくなった。
「すご……」
美咲が息を呑む。
でも、あいが驚いたのは速さではなかった。
美咲なら、あのくらいの攻撃を素早く跳んで避けられるかもしれない。
問題は、その避け方だ。
地面を蹴らない。
着地もしない。
だから、次の一歩を作る必要もない。
床を這う黒い線に対して、最初から同じ面の上にいない。
あいの頭の中に、また座標が浮かんだ。
床を平面とするなら。
黒いひもが動いているのは、その平面の上。
けれど、紫色の少女は――。
その平面から、少しだけ外れている。
「……高さ」
あいが小さく呟いた。
「え?」
由香里が見る。
「あのひも、床を這ってる。だから……」
そこまで言ったところで、あいは口を閉じた。
まだ全部はわからない。
妖魔がどんな条件で攻撃しているのかも。
紫色の魔法戦士がどこまで自在に動けるのかも。
ただ。
今の攻撃だけを見るなら。
床から離れていることが、明らかに有利に働いていた。
紫色の魔法戦士は、黒いひもをかわしながら妖魔を見つめている。
その表情には驚きも慌てもない。
だが、油断しているようにも見えなかった。
一度かわしたあとも、すぐに距離を取る。
ひもが床から跳ね上がれば、その分だけ位置を変える。
猫も少し離れた場所から、妖魔と周囲を交互に見ている。
「……なるほど」
紫色の魔法戦士が、小さく呟いた。
あいには、その先までは聞こえなかった。
妖魔がまた震える。
今度は先ほどより多くの黒いひもが、ばらばらと床へ落ちた。
それらは扇状に広がっていく。
一本の線ではない。
床そのものを覆おうとするように。
「まずいわね」
アムルの声が鋭くなる。
あいにもわかった。
あの少女には避けられている。
だからといって、攻撃そのものが弱いわけではない。
むしろ床の上を移動する人間にとっては――。
かなり厄介だ。
あいは自分の足元を見た。
自分も。
美咲も。
由香里も。
今は、二本の脚で床に立っている。
黒いひもが、床を這う。
絡みつくものを探すように。
その光景を見て、あいの胸の奥に別の緊張が生まれた。
紫色の魔法戦士が避けられるのは、妖魔の攻撃が効かないからではない。
ただ今は。
床を使わずに移動する彼女と。
床を這って相手を捕らえようとする妖魔。
その二つの相性が、はっきり分かれているだけなのだ。
そして。
妖魔から伸びた新たなひもが、今度はカラーコーンのある方向へ、ゆっくりと進み始めた。
◆ 三人も戦場へ
妖魔から伸びた黒いひもが、カラーコーンの方へ這ってくる。
一本。
二本。
床に張りつくように蛇行しながら、少しずつこちらへ近づいていた。
「あれ、このままだと……」
あいが言い終わるより先に、相原が動いた。
「申し訳ありません、こちらは通れません!」
駅構内に通る、はっきりした声。
カラーコーンへ近づいてきた会社員の前へ自然に出る。
「設備点検中です。恐れ入りますが、反対側をお通りください」
「あ、はい」
会社員は素直に進路を変えた。
何も知らない。
その人のすぐ向こう。
ほんの数メートルしか離れていない床を、黒いひもが這っている。
紫色の魔法戦士が、その上を静かに滑っている。
それなのに、日常側の人たちは誰も気づかない。
駅の案内放送。
改札を通る電子音。
ホームへ急ぐ靴音。
その全部が、今まで通り続いている。
――近い。
あいは改めて思った。
近すぎる。
妖魔と一般の人たちの間にあるのは、カラーコーンと、相原が作っている《設備点検中》という理由だけ。
もしあの黒いひもが、あと少しこちらへ伸びたら。
もし誰かがカラーコーンを越えたら。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
相原がもう一人の利用客を誘導する。
その間にも、黒いひもは床を進んでくる。
相原がふっと振り返った。
あい達三人を見る。
さっきまで一般客へ向けていた駅員の顔ではない。
短く。
鋭く。
確認するような目だった。
「あなたたち」
三人の身体が同時に強張る。
相原は周囲を一度見回した。
人の流れ。
カラーコーン。
黒いひも。
そして、奥で一人妖魔と向き合っている紫色の魔法戦士。
声を落とす。
「行ける?」
たった一言。
けれど。
あいには、その言葉が思っていたより重く聞こえた。
戦える?
ではない。
勝てる?
でもない。
――この中に入れる?
そう聞かれているように感じた。
カラーコーンの向こう。
そこはついさっきまで、ただの駅の一角だった。
けれど今は違う。
一歩入れば。
自分たちも戦う側になる。
戻れないわけではない。
逃げてはいけないと命令されているわけでもない。
それでも。
あいは、足元を見た。
床。
さっき黒いひもが這っていた、その床。
自分は今、その上に立っている。
前の章で見た、紫色の魔法戦士とは違う。
自分たちはまだ地面を使って動く。
――怖い。
そう思った。
正直に。
でも。
美咲が先に答えた。
「行けます」
声に迷いがない。
いつもの明るさではない。
短く、強い返事。
由香里も静かにうなずく。
「私も」
二人の視線が、あいへ向く。
一瞬だけ、喉が詰まる。
黒いひも。
黒霧。
妖魔。
紫色の魔法戦士。
相原さん。
一般利用客。
全部が一度に目に入る。
――私も行かないと。
義務だからではない。
美咲と由香里だけを行かせたくない。
一人で戦っている、あの紫色の魔法戦士も放っておけない。
あいは小さく息を吸った。
「……はい」
声が少し震えた。
それでも、続ける。
「行けます」
相原はあいの顔を一度だけ見た。
そして、短くうなずいた。
「わかった」
その返事に、なぜか胸がさらに締まる。
もう、見ているだけではない。
相原がカラーコーンの外側へ向き直る。
「外は私が止める」
低い声。
「中は任せたわ」
――任せた。
その言葉が、あいの胸に残った。
なぜこの人が、自分たちのことを知っているのか。
なぜ、こんな状況で迷わず役割を分けられるのか。
聞きたいことはいくらでもある。
けれど。
黒いひもがまた動いた。
今度は一本が、カラーコーンのすぐ手前まで迫る。
「行くわよ」
アムルの声。
あいはうなずいた。
フルルとネロリも動く。
三人はカラーコーンの隙間へ近づいた。
ほんの一歩。
ただそれだけなのに。
あいの足が一瞬止まった。
カラーコーンのこちら側には、朝の瑞穂台駅がある。
通勤客。
学生。
案内放送。
選挙の声。
いつもの日常。
その向こうには。
黒霧。
妖魔。
床を這うひも。
そして、浮かぶ魔法戦士。
あいは唾を飲み込んだ。
――ここから先は、戦場だ。
美咲が横を見る。
「行こ、あいちゃん」
「……うん」
由香里も小さくうなずいた。
三人は同時に、一歩を踏み出した。
カラーコーンを越える。
その瞬間。
ただ駅の一角だった場所が、急に近く感じた。
黒霧の匂いがあるわけではない。
音が消えたわけでもない。
なのに。
空気が違う。
身体が先にそれを感じている。
あいの肩に力が入る。
外では相原の声がすぐに聞こえた。
「こちら設備点検中です。恐れ入りますが、迂回をお願いします」
変わらない。
落ち着いた駅員の声。
あいはその声を聞いて、少しだけ息を戻した。
――外は任せていい。
そう思う。
今は、自分たちのことに集中する。
三人は一般利用客の視線が届きにくい奥へ移動した。
紫色の魔法戦士はまだ妖魔との距離を保っている。
黒いひもが何本も床を走る。
近くで見ると、思っていたより速い。
「……結構、怖いね」
美咲が小さく言った。
強がった声ではなかった。
その一言に、あいは少しだけ安心した。
自分だけが怖いわけじゃない。
「うん」
由香里も答える。
「でも、行こう」
「うん」
あいも返した。
三人は互いに目を合わせる。
短い確認。
それだけでよかった。
「変身しよう」
あいが言う。
胸元へ手を添える。
心臓が速い。
何度変身しても。
妖魔を前にすると、やっぱり緊張する。
でも。
最初の頃のように、その場で固まってしまうほどではない。
怖い。
それでも動ける。
それだけは、少し変わった。
あいは一度、息を整えた。
「ラブ・レボリューション」
光が身体を包む。
制服の感触が消え、魔力が全身を走る。
黒かった髪が金色へ変わる。
紺色のセーラー襟。
胸元の大きなピンクのリボン。
短い戦闘用スカート。
最後に、眼鏡の上へ白い半透明のマジカル・ビジョンが重なる。
視界が切り替わった。
黒霧。
妖魔。
床を這うひも。
さっきまで肉眼では曖昧だったものが、一気に輪郭を持つ。
――いる。
本当に。
すぐそこに。
隣から、美咲の声。
「フローラ・レボリューション!」
光の中から、マジカル・フローラが現れる。
そして。
「アロマ・レボリューション」
由香里も、柔らかな光と香気に包まれる。
マジカル・アロマ。
三人の変身が終わる。
ラブは一瞬だけ、自分の戦闘衣を意識した。
短いスカート。
露出した腹部。
まだ、完全に気にならなくなったわけではない。
でも。
目の前で黒いひもが跳ねた。
その瞬間、意識は完全に戦場へ戻る。
「来るよ!」
フローラが叫ぶ。
「うん!」
ラブは杖を呼び出す。
手に重みが戻る。
その感触で、少しだけ頭が冷えた。
マジカル・ビジョン越しに周囲を見る。
妖魔。
ゴミ箱。
壁。
設備。
カラーコーン。
一般利用客の通行経路。
紫色の魔法戦士。
全部を一度に見る。
――広げすぎない。
――でも、狭すぎてもだめ。
黒いひもが動く。
一般人側へ届かせない。
相原が作っている人払いの内側。
妖魔と自分たちが動ける範囲。
点。
線。
境界。
頭の中で位置を組み立てる。
それでも、指先が少し冷たかった。
――失敗したら。
そんな考えが一瞬よぎる。
境界がずれたら。
一般人を巻き込んだら。
戦場を狭くしすぎたら。
でも。
今まで何度もやってきた。
落ち着いて。
一つずつ。
ラブは杖を握り直した。
「ディストーション・フィールド」
魔力を展開する。
空間が静かに揺れる。
現実の瑞穂台駅が、ほんのわずかに遠ざかる。
壁。
床。
駅設備。
外を歩く人々。
すべて見えている。
音も聞こえている。
けれど。
戦闘区域だけが、現実空間から虚数方向へずれていく。
境界。
一本。
また一本。
頭の中で線がつながる。
最後の一点。
閉じる。
透明な境界が完成した。
「……っ」
ラブは息を吐いた。
成功。
外からは、もうこちらの戦闘を認識できない。
「できた……」
小さく呟く。
「うん。大丈夫!」
フローラが剣を構えながら答える。
「境界、安定しています」
アロマも確認する。
ラブは一度だけ目を閉じた。
ほんの少し。
それから前を見る。
もう戻らない。
今は。
黒いひもをまとった妖魔。
その前に浮かぶ紫色の魔法戦士。
ラブ。
フローラ。
アロマ。
三人が戦場へ入ったことに気づいたのか、紫色の少女が振り返る。
目元にはマジカル・ビジョン。
胸元には紫色のリボン。
身体は今も床から少し離れている。
その視線が、
ラブ。
フローラ。
アロマ。
順番に動いた。
驚いてはいない。
むしろ。
来ることを待っていたような目だった。
ラブは杖を構える。
フローラが片手剣を構える。
アロマも二人を支えられる位置へ入る。
紫色の魔法戦士は、妖魔を挟むように反対側へ滑った。
黒いひもが、四人の間でうごめく。
四人。
まだ名前も知らない。
戦い方も知らない。
それでも。
今は同じ妖魔を前にしている。
カラーコーンの向こうに日常を残して。
マジカル・ラブ。
マジカル・フローラ。
マジカル・アロマ。
そして、紫色の魔法戦士。
四人は初めて、同じ戦場に立った。
◆ 動けない三人
黒いひもが、床の上でうごめいている。
一本一本は細い。
けれど、ラブにはもう、それがただの細い線には見えなかった。
妖魔の足元から伸びたひもは、床を這いながら枝分かれしている。
右へ。
左へ。
柱の影へ。
壁際へ。
少しずつ。
けれど確実に。
戦場の床そのものを、黒く塗りつぶすように。
マジカル・ビジョンの中で、何本もの警告線が同時に浮かぶ。
一つを見れば、その外側から別の一本が動く。
そちらを見れば、今度は背後。
「これ……増えてる?」
ラブが呟いた。
「増えてるというより、広がってる!」
フローラが片手剣を構える。
妖魔の本体は、それほど大きく動いていない。
なのに。
足元だけが、どんどん危険になっていく。
「まずは本体に近づく!」
フローラが踏み出した。
「美咲ちゃん、待って。床に――」
言い終わる前に、フローラが駆けた。
速い。
普段の美咲らしい、迷いのない動き。
一本目の黒いひもが正面から迫る。
フローラは軽く身体をひねってかわす。
二本目。
床を蹴り、一歩横へ。
それも避けた。
「よしっ!」
さらに前へ。
三本目。
フローラは跳び越える。
着地。
その瞬間。
「下!」
紫色の魔法戦士の声が飛んだ。
「えっ?」
フローラの右足首に、何かが触れた。
避けたはずの一本目だった。
床を大きく回り込み、背後から戻ってきていた。
「なっ――!」
黒いひもが足首を一周する。
そして。
ぎゅっ。
一気に締まった。
「痛っ……!」
フローラの身体が止まる。
すぐに足を引こうとする。
だが。
ひもは床へ根を張るように伸び、逆方向から引っ張った。
「くっ……!」
右足がほとんど動かない。
フローラは左足で踏ん張る。
その瞬間。
床を這っていた別のひもが、左足へ飛びついた。
「美咲ちゃん!」
二本。
両足首。
左右から逆方向に引かれる。
フローラの身体がぐらりと揺れた。
「っ!」
剣を持った腕を広げ、必死に姿勢を保つ。
もし片方だけなら、力で引きずって動けたかもしれない。
けれど。
二方向。
さらに三方向。
右足首に巻きついたひもから、細い枝のような線が伸びていく。
ふくらはぎ側へ。
左も同じ。
「ちょ、これ……!」
ひもはただ巻きついているだけではなかった。
動けば、その動きに合わせて締まる。
前へ行こうとすれば後ろへ引く。
後ろへ下がろうとすれば前が締まる。
「美咲ちゃん、無理に引っ張らないで!」
ラブが叫ぶ。
「わかってるけど……っ!」
フローラが剣を振る。
足元のひもを切ろうとする。
しかし、ひもは床すれすれ。
刃を下げれば自分の足にも近くなる。
しかも、少し姿勢を崩した瞬間。
床から新しい一本が跳ねた。
「っ!」
フローラが剣を引く。
黒いひもは、その刃のすぐ下を走り抜けた。
「剣まで振りにくい……!」
ラブの胸が冷たくなる。
――美咲ちゃんが。
運動なら、自分よりずっと得意。
反応も速い。
転びそうになっても、すぐ立て直せる。
そんな美咲が。
動けない。
速さが通用していない。
正確には。
速く動くほど、次のひもの範囲へ踏み込んでしまう。
「待ってて!」
ラブはフローラへ向かって踏み出した。
マジカル・ビジョンに警告。
左。
一本。
「っ!」
ラブは足を引く。
避けた。
そのはずだった。
右。
第二の警告。
「ラブ、右!」
アロマの声。
「え――」
冷たい感触が右足首へ走る。
黒いひも。
細い。
でも。
触れた瞬間、蛇のように巻きついた。
一周。
二周。
そして。
強く引かれる。
「きゃっ!」
身体が横へ持っていかれた。
ラブは反射的に杖を床へつく。
甲高い音。
辛うじて転倒を防ぐ。
だが。
杖を支えにした瞬間。
別のひもが杖の下を走った。
「えっ?」
黒い線が杖へ絡む。
「うそ……!」
ラブは慌てて杖を持ち上げた。
一本は外れた。
だが、その間に。
左足。
「ラブ!」
また一本。
左足首へ巻きつく。
ぎゅっ。
両足。
「……っ!」
身体を動かそうとする。
右足が引かれる。
左へ重心を移す。
今度は左が締まる。
一歩。
ただ一歩。
それが出ない。
「これ……」
ラブは杖を握り直した。
魔法は使える。
でも。
位置が変えられない。
射線を作れない。
妖魔が少し動けば、フローラが射線に入る。
アロマが動けば、そちらも重なる。
《ラブ・ショット》を撃てても。
当てられない。
攻撃できることと。
戦えることは、同じではない。
「ラブ、足元!」
アロマが叫ぶ。
ラブが見る。
さらに一本の黒いひもが近づいている。
今度は足首ではない。
床を這ったまま、両足の間を通り。
反対側へ抜ける。
そこから曲がる。
ラブを囲う。
「え……」
円。
まるで逃げ道を測るように。
黒いひもが周囲へ広がっていく。
「囲われてる……?」
ぞくりとした。
拘束されているだけではない。
次に動ける場所まで消されている。
妖魔は、足を捕まえるだけではなかった。
床そのものを支配している。
「由香里!」
ラブが叫ぶ。
アロマは二人より後ろにいた。
距離を取りながら、戦場全体を見ている。
「アロマ・ピュリファイを――」
アロマが手を前へ伸ばす。
淡い香気を帯びた光が生まれる。
その瞬間。
妖魔から伸びたひもが一斉に方向を変えた。
「……!」
三本。
アロマへ。
真正面。
アロマは一歩下がる。
そこへ一本。
左へ動く。
二本目。
右。
三本目。
「どっちに……!」
動ける場所がない。
黒いひもが、逃げようとする先へ先へと回り込む。
「由香里、止まって!」
フローラが叫ぶ。
「でも――!」
その瞬間。
一本がアロマの足首へ巻きついた。
「あっ!」
アロマがバランスを崩す。
反対側へ体重を移す。
そこへ二本目。
「っ……!」
もう片方も捕まる。
アロマは両手を広げて転倒を防いだ。
それでも終わらない。
黒いひもが足元で交差する。
一本が前。
一本が後ろ。
一歩でも動けば、どちらかが締まる。
「動けない……」
アロマの声が震えた。
三人。
フローラ。
ラブ。
アロマ。
誰も倒されてはいない。
傷も大きくない。
なのに。
戦えない。
黒いひもは三人を締め上げながら、さらに床を這い続ける。
一本がフローラの背後へ。
一本がラブの杖の近くへ。
一本がアロマの進路を塞ぐ。
完全に止まっていても、安全ではない。
次にどこから来るかわからない。
ラブのマジカル・ビジョンに警告線が重なりすぎる。
左。
右。
前。
背後。
「こんなに……」
見えている。
攻撃方向は見えている。
なのに。
避けられない。
逃げるための床が残っていない。
――マジカル・ビジョンがあっても。
――わかってても。
身体を動かす場所そのものがなければ意味がない。
「これ、かなりまずいよ……!」
フローラの声にも焦りが混じる。
その時。
妖魔の塊が大きく震えた。
黒いひもが一斉に引かれる。
「っ!」
三人の身体が同時に揺れた。
フローラは膝を折りかける。
ラブは杖にしがみつく。
アロマも踏ん張る。
「きゃっ……!」
足元を引かれる。
転ばせようとしている。
そう理解した瞬間、恐怖が増した。
もし倒れれば。
床へ身体が近づく。
黒いひもの中へ。
「倒れないで!」
アムルの声。
ラブは杖を両手で握った。
「う、うん……!」
力を込める。
腕が震える。
足は使えない。
杖だけが支え。
その杖にも、さっきひもが伸びてきた。
長くは持たない。
――どうするの。
頭を動かそうとする。
考えないと。
でも、焦る。
また引かれる。
「っ……!」
ダメ。
床。
黒いひも。
全部、床。
フローラは速いのに捕まった。
アロマは慎重だったのに囲まれた。
自分は攻撃予測が見えているのに避けられなかった。
――なんで?
答えはもう見えている。
三人とも。
同じ場所を使っている。
床。
歩く。
走る。
踏み込む。
避ける。
全部、床の上。
妖魔も。
床を使って攻撃している。
同じ平面。
だから。
どれだけ速くても。
どれだけ慎重でも。
どれだけ先が見えても。
逃げる先が、全部敵の攻撃範囲になる。
「……地面」
ラブが呟いた。
その瞬間。
視界の上を。
紫色の影が横切った。
「あ……」
ラブは顔を上げた。
紫色の魔法戦士。
彼女だけは。
まだ動いている。
床一面。
黒いひも。
何本も。
何十本も。
三人を縛り。
逃げ道を消し。
次の獲物を探すようにうごめいている。
その少し上。
紫色の魔法戦士が滑っていた。
音もなく。
床へ触れず。
一本目が真下を通る。
届かない。
二本目。
交差する。
届かない。
三本目。
進路を塞ぐように広がる。
少女は。
ほんの少し。
上へ。
それだけ。
黒いひもが空を切る。
次の瞬間。
横。
前。
斜め。
まるで。
床一面を埋め尽くした黒いひもなど、そこにないかのように。
「……まだ、動ける」
ラブの声が漏れた。
フローラも。
アロマも。
見る。
黒い床。
その上。
紫色の魔法戦士。
ラブはようやく理解した。
彼女が強いから。
というだけじゃない。
身体の条件が特別だから。
でもない。
今、この妖魔が。
床を攻撃するから。
そして彼女が。
床を使わずに移動しているから。
だから。
今だけは。
戦場の条件そのものが違う。
ラブは自分の足元を見る。
黒いひも。
締めつけ。
動けない脚。
そして。
視線を上げる。
床から離れた場所を進む少女。
ほんの少しの高さ。
それだけなのに。
世界が違って見えた。
自分たちは。
地面に捕まっている。
彼女は――。
地面に縛られていない。
その時。
ラブの中で。
この前に見た、車いすで人混みを滑るように進んでいた少女の姿と。
今。
黒いひもの上を空中で滑る紫色の魔法戦士の姿が。
はっきりと重なった。
◆ 地面に縛られない戦い方
自分たちは、地面に捕まっている。
彼女は――地面に縛られていない。
その違いが、今のラブにははっきり見えた。
床一面を黒いひもが這っている。
フローラの両足を縛り。
アロマの動きを封じ。
ラブ自身の足首にも食い込んでいる。
一歩動こうとするたび、ひもは締まる。
けれど。
紫色の魔法戦士だけは、その上にいた。
ほんの少し。
床から離れた空間に。
「……すごい」
ラブは、思わず呟いた。
妖魔が震える。
床を覆っていた黒いひもの何本かが、紫色の魔法戦士へ向きを変えた。
一本。
正面から。
少女は横へ滑る。
足を動かしたわけではない。
身体を大きく傾けてもいない。
その姿勢のまま。
すうっ、と右へ。
黒いひもが、さっきまで少女がいた場所を通り抜ける。
二本目。
今度は進行方向へ回り込む。
少女は止まった。
空中で。
身体は揺れない。
ひもが近づく。
あと少し。
その瞬間。
少女の身体が、ふわりと上がった。
高くはない。
ほんの少しだけ。
黒いひもが、その真下を走り抜ける。
「また……」
ラブは目を見開いた。
避け方が違う。
右へ。
上へ。
止まる。
また前へ。
どの動きにも、助走がない。
予備動作もほとんどない。
床を蹴る必要がないからだ。
「なんなの、あの動き……」
フローラも、自分の足を拘束されたまま見入っていた。
「飛んでるっていうより……」
アロマが言葉を探す。
ラブにも、その感覚はわかる。
飛び回っている、という表現では足りない。
少女は空へ逃げているわけではない。
高く舞い上がって、安全な場所から戦っているわけでもない。
むしろ低い。
床からほんの少し上。
三人とほとんど同じ高さの戦場にいる。
それなのに。
使っている場所が違う。
妖魔から、さらに何本もの黒いひもが伸びた。
今度は床だけではない。
一本が途中で跳ね上がる。
「危ない!」
ラブが叫ぶ。
黒いひもが、少女の胴体を狙って空中へ伸びる。
――届く。
今度は床から離れていても関係ない。
けれど。
少女は慌てなかった。
身体がすっと後ろへ下がる。
ひもが目の前を通り過ぎる。
さらに横から二本目。
少女はその場で静かに向きを変えた。
旋回。
と言うほど大きな動きでもない。
床の上で人が振り返る時のように、身体の中心を保ったまま方向だけが変わる。
そのまま斜め前へ滑る。
二本目も外れた。
「……効かないわけじゃないんだ」
ラブは小さく言った。
床を這う攻撃は届きにくい。
でも。
ひもが空中まで伸びれば、あの少女だって捕まる。
無敵ではない。
ただ。
避けるために使える方向が、自分たちより多い。
前。
後ろ。
右。
左。
そして。
上。
――高さ。
その言葉が、ラブの頭の中に残った。
少女は、駅構内の柱へ向かって滑る。
「そっちは……」
ラブは一瞬、行き止まりに見えた。
柱。
壁。
床には黒いひも。
逃げ道が狭い。
妖魔もそう判断したように、何本ものひもをそちらへ伸ばす。
左右から。
正面から。
足元から。
紫色の魔法戦士を囲む。
「囲まれる!」
フローラが叫ぶ。
しかし。
少女は柱の直前で身体をわずかに浮かせた。
同時に横へ。
柱と伸びてきたひもの間。
ほんのわずかな空間を、すり抜ける。
「えっ……!」
柱の反対側へ出る。
そして、空中で静止。
すぐに向きを変えた。
何事もなかったように。
黒いひもだけが柱へ絡みつき、互いにぶつかった。
妖魔の動きが一瞬乱れる。
「わざと……?」
ラブは息を呑んだ。
逃げただけではない。
妖魔に追わせた。
自分を狙わせて。
攻撃の方向を変えた。
その結果。
ラブ達を締めつけていたひもの何本かが、わずかに緩んでいる。
「……注意を引いてるんだ」
アロマも気づいたらしい。
紫色の魔法戦士は、三人の方を一度だけ見た。
ほんの一瞬。
――今のうちに。
そう言われたような気がした。
もちろん。
本当にそう思っているのか、ラブにはわからない。
でも。
彼女が妖魔の攻撃を自分へ集めていることだけはわかる。
少女が再び動く。
左へ滑る。
ひもが追う。
少し上へ。
また追う。
今度は低く。
床すれすれ。
黒いひもの上を、すうっと通り抜ける。
それを見ながら。
ラブは、妙な違和感を覚えた。
――私なら、どう考える?
柱。
壁。
妖魔。
フローラ。
アロマ。
自分。
床に広がるひも。
いつもなら。
ラブは頭の中に位置を置く。
右。
左。
前。
後ろ。
座標。
距離。
射線。
境界。
それで戦場を整理してきた。
でも。
その座標は、ほとんど全部。
床の上だった。
体育の授業で考えた、
《-1・0・+1》
もそうだ。
左。
中央。
右。
横方向の位置を整理すれば、身体が動かしやすくなった。
妖魔との戦いでも。
自分はずっと、床を一枚の平面のように見ていたのかもしれない。
けれど。
紫色の少女の位置を、その平面へ置こうとすると。
合わない。
「……違う」
ラブは呟いた。
「あいちゃん?」
フローラが見る。
ラブは少女を目で追う。
今。
少女は床の上ではない。
柱の横。
少し上。
そこから斜めに下がり。
次の瞬間には、妖魔の側面へ移っている。
――右と左だけじゃない。
――前と後ろだけでもない。
高さ。
そこにも位置がある。
当たり前のことだった。
空間は三次元なのだから。
数学なら知っている。
縦。
横。
高さ。
座標軸を一つ増やすだけ。
言葉にすれば簡単だ。
なのに。
実際の戦場で。
身体を動かしながら。
その三つを同時に使うということを。
ラブは今まで、本当の意味では考えていなかった。
紫色の少女は、それを考えてから動いているようにすら見えない。
自然に。
まるで。
最初から戦場が立体であることを知っているかのように。
「空間を……全部使ってる」
ラブが呟いた。
妖魔から黒いひもが跳ね上がる。
少女は少しだけ身体を沈める。
その上をひもが通る。
すぐに横へ滑る。
次の一本をかわす。
空中で止まる。
向きを変える。
また進む。
高く飛ばない。
派手でもない。
なのに。
追いつけない。
ひもが少女を追えば追うほど。
三人を拘束している力が分散していく。
フローラの足元。
少し緩む。
アロマの周囲。
黒い線の密度が下がる。
ラブ自身の足首も。
さっきまでより、わずかに動かせる。
「……今なら」
ラブは杖を握り直した。
まだ動けない。
拘束は残っている。
それでも。
戦況が変わり始めている。
少女が作ってくれている。
空間を。
「私にも……できる?」
そんな考えが、一瞬だけ浮かぶ。
自分も。
あんなふうに。
床から離れて。
高さまで使って。
でも。
すぐに打ち消す。
今の自分にはできない。
やり方すら知らない。
見ただけで真似できるような動きでもない。
それでいい。
今は。
ただ一つ。
わかったことがある。
――空間には、こんな使い方もある。
床だけが戦場じゃない。
自分が見ていた座標の外にも。
戦うための場所がある。
紫色の魔法戦士が、妖魔の正面を横切った。
黒いひもが一斉に彼女を追う。
少女は静かに高度を変え、その束の上を滑り抜ける。
そして。
ひもの流れが大きく妖魔側へ偏った。
ラブの足元の拘束が、さらにわずかに緩む。
その瞬間。
紫色の魔法戦士がこちらを見た。
ラブも、その視線を受け止める。
まだ名前も知らない。
何が得意なのかも。
どうしてこんなに戦い慣れているのかも知らない。
でも。
今は一つだけわかる。
彼女は一人で妖魔を倒そうとしているのではない。
三人がもう一度動けるように。
戦場そのものを動かしている。
ラブは杖を握る手に力を込めた。
――次は、私たちの番だ。
◆ 四人の連携
――次は、私たちの番だ。
ラブは杖を握り直した。
足首には、まだ黒いひもが絡みついている。
動こうとすれば締まる。
無理に引けば、身体ごと床へ引き倒されかねない。
それでも。
さっきまでとは違う。
紫色の魔法戦士が妖魔の注意を引きつけたことで、三人を拘束しているひもの力が、わずかに弱まっていた。
「由香里!」
ラブが呼ぶ。
アロマが顔を上げた。
「うん」
それだけで通じたらしい。
アロマは足を動かそうとはしなかった。
拘束されたまま、両手を胸元へ添える。
一度。
静かに息を吸う。
「アロマ・ピュリファイ」
淡い光が広がった。
柔らかな香気を含んだ魔力が、床へ流れていく。
黒いひもを直接吹き飛ばすような力ではない。
けれど。
ラブのマジカル・ビジョンには、その変化がはっきり見えた。
ひもの内部を流れていた黒い魔力が、ところどころで薄くなる。
濁っていた黒霧がほどける。
「……弱くなってる」
ラブが呟く。
自分の足首へ絡みついていたひもも、さっきまでのような強い締めつけではなくなった。
「美咲ちゃん、今!」
「待ってました!」
フローラが剣を握り直す。
自分の右足へ絡みついていたひもを見下ろし――。
大きく振りかぶらない。
剣先を低く構え。
足から少し離れた場所を狙う。
「やっ!」
鋭い一閃。
黒いひもが切れた。
「よし!」
続けて左。
こちらも、アロマの浄化によって黒い色が薄くなっている。
剣が走る。
二本目が断ち切られた。
フローラの足が自由になる。
「動ける!」
その声と同時に、妖魔が大きく震えた。
切られたひもの代わりを求めるように、床から新しい黒い線が伸びる。
「美咲ちゃん、右!」
ラブが叫ぶ。
「見えてる!」
フローラが跳ぶ。
今度は闇雲に前へ出ない。
床を確認しながら、一歩。
また一歩。
そして。
「チェリー・ブラッサム!」
フローラの周囲に、桜の花びらを思わせる複数の魔法片が現れた。
淡い光をまとった花びらが、黒い床の上を走る。
一本のひもの進路へぶつかる。
軌道が逸れる。
別の花びらが、ラブへ伸びようとしていた細いひもを横から押し返す。
「今度は、あいちゃん!」
「う、うん!」
フローラがラブの足元へ滑り込む。
「じっとしてて!」
「お願い!」
まず右。
剣先が光る。
切断。
左。
もう一度。
黒いひもが切れる。
急に足元が軽くなった。
「……動ける」
ラブは一歩下がった。
たった一歩。
でも。
さっきまで出せなかった一歩だ。
足が動く。
自分の意思で位置を変えられる。
それだけで、視界まで広がったような気がした。
「次、由香里!」
フローラが方向を変える。
けれど。
妖魔も黙ってはいない。
黒いひもが何本もアロマへ向かう。
「させない!」
フローラが《チェリー・ブラッサム》を動かす。
花びら型の魔法片が、アロマへ向かうひもの進路をずらす。
完全には止められない。
だが。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
フローラが距離を詰める。
剣。
一閃。
二閃。
アロマの拘束も切れた。
「ありがとう、美咲」
「これで三人とも動ける!」
三人がもう一度、それぞれの位置へ散る。
その間も。
紫色の魔法戦士は止まっていなかった。
妖魔の正面。
左。
右。
わずかに上。
床一面の黒いひもの上を滑りながら、攻撃を引きつけている。
黒いひもが彼女を追う。
一本。
二本。
さらに数本。
床を走り。
途中から跳ね上がる。
少女は横へ滑る。
次の一本に合わせて、少しだけ高さを上げる。
柱が迫る。
その直前で方向を変える。
黒いひもが柱へぶつかる。
さらに後方へ。
妖魔の攻撃が、その動きを追って大きく偏った。
「……すごい」
フローラが呟く。
「見とれてないで!」
アロマが珍しく少し強い声を出した。
「あ、はいっ!」
ラブは思わず小さく笑いそうになった。
けれど、すぐに妖魔を見る。
今なら。
さっきとは違う。
三人とも動ける。
そして、紫色の魔法戦士が妖魔の攻撃を引き受けている。
「アロマ、もう一度お願い!」
「わかった」
アロマが両手を前へ。
「アロマ・ピュリファイ」
淡い浄化の魔力が、妖魔本体へ届く。
黒霧が揺らぐ。
ひもと本体を結んでいた黒い流れが、マジカル・ビジョンの中で薄くなる。
「フローラ!」
「任せて!」
フローラが前へ出た。
片手剣を振る。
黒いひもを一本、切断。
さらに《チェリー・ブラッサム》。
光の花びらが左右へ散る。
妖魔の前を覆っていたひもが押し退けられる。
黒い帯。
細い線。
絡み合っていたものが、一瞬だけほどけた。
その奥。
マジカル・ビジョンに。
小さな反応。
「……あった」
ラブの声が変わった。
妖魔の中心。
黒いひもの束。
そのさらに奥。
微かに明滅する一点。
コア。
「コア、見つけた!」
フローラが振り返る。
「どこ!?」
「中央。でも、まだひもが重なってる!」
見えている。
でも。
撃てない。
黒いひもが何重にも重なり、コアを覆っている。
しかも。
紫色の魔法戦士が妖魔の向こう側を動いている。
このまま撃てば危ない。
ラブは杖を向けながら、呼吸を止めた。
――射線。
必要なのは。
一本。
妖魔のコアだけを通る、安全な線。
マジカル・ビジョンの中で。
自分。
妖魔。
コア。
フローラ。
アロマ。
紫色の魔法戦士。
全部の位置を確認する。
でも。
紫色の少女だけが、絶えず高さを変えている。
これまでのように、床の上だけを見ていてはだめ。
前後。
左右。
そして。
高さ。
「……空間全部を見る」
ラブは呟いた。
すぐにできるわけではない。
あの少女のようには動けない。
でも。
見ることなら。
今の自分にもできる。
黒いひもが紫色の魔法戦士を追う。
少女が妖魔の左へ。
ひもも左へ流れる。
コアの前が、一瞬空く。
――まだ。
別の一本が残っている。
少女が方向を変えた。
右ではない。
少し上。
そこから妖魔の正面を横切る。
黒いひもが一斉に持ち上がる。
コアを隠していたひもまで。
彼女の方へ。
「あ……!」
ラブの目が見開かれる。
少女がこちらを見た。
ほんの一瞬。
マジカル・ビジョン越しに。
視線が重なった。
次の瞬間。
紫色の魔法戦士は、さらに横へ滑った。
妖魔から離れる方向。
黒いひもの束が、その後を追う。
そして。
開いた。
妖魔の中心から。
ラブまで。
何もない。
一本の線。
「射線……!」
ラブは杖を構えた。
コア。
固定。
フローラは射線の外。
アロマも外。
紫色の魔法戦士も――外。
全部見える。
「今だよ、あいちゃん!」
フローラの声。
「ラブ!」
アロマ。
紫色の魔法戦士は何も言わない。
ただ。
こちらを見ていた。
――わかった。
ラブは杖を強く握る。
胸元のピンクのリボンが光った。
杖の先。
ハート型の意匠へ魔力が集まる。
ピンク色の光。
大きく広げない。
周囲へ散らさない。
一本へ。
まっすぐ。
コアだけを撃ち抜く線へ。
収束させる。
「ラブ・バースト!」
光が走った。
眩しいほどのピンク。
それでも、無闇に広がらない。
細く。
鋭く。
一直線に。
フローラが切り開いたひもの隙間を通り。
アロマが薄めた黒霧を貫き。
紫色の魔法戦士が作った射線を走る。
そして。
妖魔の中心。
コアへ。
――当たった。
ピンクの光が、黒い一点を撃ち抜いた。
一瞬。
時間が止まったように見えた。
次の瞬間。
黒いコアに亀裂が走る。
細い光が内部から漏れた。
ぱきっ。
小さな音。
コアが砕けた。
妖魔全体が、大きく震える。
床を埋め尽くしていた黒いひもが、一斉に力を失った。
一本。
また一本。
形を保てなくなり、黒い霧へほどけていく。
絡み合っていた帯も崩れる。
黒霧が薄く広がり。
やがて、虚数空間の中へ消えていった。
あとに残ったのは。
床へ落ちた、ただの包装用のひもや梱包材。
そして。
静けさ。
「……終わった?」
フローラが剣を下ろす。
アロマはまだ警戒したまま周囲を見ている。
ラブも杖を下ろさない。
マジカル・ビジョンで確認する。
黒霧。
なし。
コア反応。
なし。
妖魔反応。
――消失。
「……うん」
ラブはようやく息を吐いた。
「終わった……」
肩から力が抜ける。
その時。
視界の向こうで。
紫色の魔法戦士が、ふわりとこちらへ近づいてきた。
床には降りない。
最後まで。
ほんの少し空中に浮いたまま。
ラブはその姿を見る。
自分がコアを見つけた。
アロマが黒霧を弱めた。
フローラが拘束を切り、道を作った。
そして。
あの少女が、最後の射線を作った。
誰か一人だけでは。
たぶん、あの一撃には届かなかった。
四人で。
初めて一緒に戦って。
妖魔を倒した。
ラブは杖を胸元へ寄せながら、紫色の魔法戦士を見つめた。
まだ名前すら知らない。
それなのに。
さっきの一瞬だけは。
彼女が何をしようとしているのか、わかった気がした。
そして向こうも。
ラブが何を必要としているのか、わかっていたような気がした。
◆ 同級生で、先輩
妖魔の反応は、もうない。
ラブはマジカル・ビジョンに表示されていた最後の反応が消えたことを確認してから、ようやく杖を下ろした。
「……終わった」
口に出した途端、全身から力が抜けそうになる。
足元に絡みついていた黒いひもも、もうただの包装材や細いひもに戻っていた。
さっきまで三人を動けなくしていたものと同じとは思えない。
フローラが剣を下ろす。
「はぁー……今回は本当に動けなかった……」
「美咲があそこまで止められるの、珍しいよね」
アロマが言う。
「そうなんだよ。走れないって、あんなにきついんだね」
フローラは自分の足元を見て、少し悔しそうに眉を寄せた。
ラブにも、その感覚はよくわかった。
一歩動けない。
ただそれだけで、できることが一気に減る。
その一方で。
少し離れた場所には、紫色の魔法戦士がまだ浮かんでいた。
ほんの少しだけ床から離れて。
戦闘中と変わらない安定した姿勢で。
ラブは思わず、その姿をじっと見てしまう。
――やっぱり、すごい。
最後の射線。
あの少女が妖魔を引きつけてくれなければ、《ラブ・バースト》を撃つことはできなかった。
けれど。
彼女一人でも、あの妖魔を倒せたわけではない。
アロマが黒霧を弱め。
フローラがひもを切り。
自分がコアを見つけ。
そして、紫色の魔法戦士が射線を作った。
四人だからできた。
そのことが、ラブには少し嬉しかった。
「もう大丈夫そうね」
アムルの声で、ラブは我に返る。
「うん」
最後にもう一度周囲を確認してから、ラブは《ディストーション・フィールド》を解除した。
ずれていた空間が、静かに現実へ重なる。
駅の音が近くなる。
案内放送。
改札の電子音。
通勤客の足音。
ずっと向こう側にあった日常が戻ってきた。
もちろん、カラーコーンの内側にはまだ人は入ってこない。
外では相原が変わらず利用客を誘導していた。
四人は一般利用客から見えない奥へ戻り、変身を解除した。
そして。
少ししてから。
あい達の前にいたのは、もう紫色の魔法戦士ではなかった。
車いすに座った、さくら女子の制服姿の少女。
藤崎紫織。
その車いすのそばには、淡い紫灰色の猫が静かに座っている。
やっぱり。
そうだったんだ。
わかっていたはずなのに。
実際に目の前で結びつくと、あいは不思議な気持ちになった。
以前、見かけた車いすの少女。
さっきまで空中を滑るように戦っていた、紫色の魔法戦士。
その二人が、同じ人。
紫織が三人を見る。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「……まあ、ここまで見られちゃったら、隠しててもしょうがないよね」
「あ、やっぱり藤崎さんだったんだ!」
美咲が真っ先に声を上げる。
「やっぱりって言うわりには、すごく驚いてたけど」
紫織が笑う。
「いや、だって! 浮いてたし!」
「そこ?」
「そこだよ!」
思わず、あいも少し笑ってしまった。
戦闘が終わったばかりなのに。
さっきまであれほど緊張していたのが嘘みたいだった。
紫織は咳払いを一つして。
少しだけ姿勢を正した。
「じゃあ――」
三人を見る。
「改めまして」
その言葉に、あい達も自然と姿勢を正した。
「3年C組、藤崎紫織」
紫織は自分を指して。
続いて、隣の猫へ視線を向けた。
「魔法戦士としては、マジカル・シオン」
淡い紫灰色の猫が、静かに三人を見上げる。
「それから、この子が私のパートナー」
紫織が微笑む。
「リラ」
猫は落ち着いた声で言った。
「改めまして。リラです」
「しゃべった!」
美咲がまた声を上げる。
「そこも驚くところ?」
紫織が笑う。
「だって知らなかったし!」
フルルが少し不満そうに美咲を見上げる。
「私だってしゃべるけど」
「フルルはもう慣れたから」
「慣れたって何よ」
そのやり取りを横に聞きながら、あいは紫織を見ていた。
聞きたいことがたくさんある。
でも。
一番最初に口から出たのは。
「あの……藤崎さん」
「紫織でいいよ。同級生でしょ?」
「あ……うん」
少し戸惑う。
「じゃあ……紫織さん」
まだ呼び捨てにする勇気はなかった。
紫織は特に気にした様子もなく笑った。
「なに?」
「あの、いつから……魔法戦士を?」
紫織は少し考える。
「高校一年の頃かな」
「一年……?」
あいは瞬きをした。
美咲と由香里も同じ反応をする。
「え、じゃあ二年以上?」
美咲が言う。
「まあ、そのくらい」
紫織はあっさり答えた。
あいは思わず、美咲と由香里を見る。
自分たちは。
まだ覚醒してから、それほど経っていない。
妖魔と戦うたび、知らないことが出てくる。
魔法も。
敵も。
自分の身体の動かし方さえ。
毎回、必死だ。
けれど紫織は。
高校一年生の頃から。
ずっと。
「ああ……」
美咲が妙に納得した顔になる。
「だからあんなに慣れてたんだ」
「そう見えた?」
「見えた見えた。すっごく見えた」
由香里も小さくうなずく。
「あたし達とは、かなり経験が違うんだね」
「まあ、少しはね」
少し。
あいには、とても少しとは思えない。
同じ高校三年生。
同じ学校。
同じ学年。
なのに。
魔法戦士としては。
――先輩なんだ。
その感覚が、妙に新鮮だった。
先生でも。
大人でもない。
同じ制服を着て。
同じ学校へ通っている少女。
でも。
自分たちよりずっと先に、この世界を知っている。
「あの!」
美咲が勢いよく手を上げた。
「はい、美咲さん」
「さっきの!」
「さっきの?」
「浮いてたやつ!」
紫織が「ああ」とうなずく。
あいも気になっていた。
むしろ。
ずっと聞きたかった。
「どうやってるの?」
美咲が聞く。
「どうやって、って言われても……」
紫織は少し困った顔をする。
「あれは《空中浮揚》だよ」
「空中浮揚……」
あいがその言葉を繰り返す。
アムルが言っていた《ヴェール粒子》。
そして今度は《空中浮揚》。
知らない基礎が、まだたくさんある。
「あれって、紫織さんの魔法じゃないの?」
あいが聞いた。
「私だけの?」
紫織は目を丸くした。
それから。
「ああ、そっか」
何か納得したらしい。
「違うよ」
「え?」
三人の声が重なった。
「《空中浮揚》は、魔法戦士なら訓練で覚えられる基礎魔法」
「……基礎?」
美咲が固まる。
あいも同じだった。
基礎。
さっきの動きが。
黒いひもの上を滑り。
柱を避け。
高さを細かく変え。
空中で静止し。
向きを変え。
妖魔の攻撃を引きつけていた。
あれが。
「基礎魔法……」
あいは呆然と呟いた。
紫織がすぐに首を振る。
「あ、でも勘違いしないでね。覚えたら最初からあんなふうに動けるって意味じゃないから」
「そうなの?」
「そりゃそうだよ」
紫織が笑う。
「最初は浮くだけでも結構大変だし。高さを保ったり、前へ進んだり、止まったりするのも練習がいるから」
あいは、少し安心した。
あれが《初心者向けの普通の動き》だと言われたら。
さすがに自信をなくすところだった。
「紫織は空中浮揚が得意なの」
リラが静かに補足する。
「経験もありますが、空間の距離や位置を捉えることにも慣れていますから」
「やっぱり……」
あいは思わず言った。
紫織がこちらを見る。
「やっぱり?」
「あ……その」
あいは言葉を探す。
「前に駅で見かけた時も、紫織さんって、人とか柱とか……周りとの距離を全部わかってるみたいに車いすを動かしてたから」
一瞬。
紫織が驚いた顔をした。
それから、ふっと笑う。
「よく見てるね」
「あ……ご、ごめん」
「なんで謝るの?」
くすっと笑われた。
「でも、まあ。それはあるかも」
紫織は自分の車いすのリムへ軽く手を置いた。
「普段から、周りとの距離はかなり見るから」
それ以上は言わなかった。
あいも、それ以上聞かなかった。
ただ。
あの空中での動きが。
突然、魔法だけで生まれたものではないのだろう。
それくらいは感じた。
「あれ?」
由香里が何かに気づいた。
「じゃあ……」
紫織を見る。
「さっき一般の人が紫織に気づかなかったのも?」
「ヴェール粒子?」
アムルが先に答えた。
「あ、それ!」
美咲が指を差す。
「それも聞きたかった!」
紫織がうなずく。
「うん。《ヴェール粒子》も基礎魔法」
「それも!?」
美咲がまた驚く。
「美咲、声」
由香里がたしなめる。
「あ、ごめん」
美咲が周囲を見る。
カラーコーンの向こうでは、相原が今も一般客の流れを整理している。
こちらまで聞こえてはいないようだった。
紫織は少し声を落とす。
「周りから認識されにくくするための魔法。あれも練習して使えるようになるものだよ」
あいは、さっきの光景を思い出す。
目の前に紫色の魔法戦士がいるのに。
一般の人たちは、誰も注意を向けなかった。
見えているはずなのに。
視線が滑っていく。
「あの……」
あいは恐る恐る聞く。
「じゃあ」
美咲も由香里も。
同じことを考えたようだった。
三人で顔を見合わせる。
そして。
「私たちも……?」
紫織は笑った。
「うん」
迷いのない答え。
「ちゃんと訓練すれば使えるようになるよ」
三人が黙った。
ほんの数秒。
そして。
「飛べるの!?」
美咲が一番に反応した。
「空中浮揚ね」
紫織が訂正する。
「でも浮けるんでしょ?」
「浮ける」
「横にも?」
「動ける」
「上にも?」
「上がれる」
「すごい!」
美咲の目が完全に輝いている。
由香里も、表情こそ落ち着いているものの興味を隠せていない。
「ヴェール粒子も使えれば、人目への対応もずいぶん変わりそうね」
「うん」
あいも思う。
今までは。
人のいない場所を探す。
隠れて変身する。
《ディストーション・フィールド》を展開する。
いつも、人目を避けることを強く意識してきた。
ヴェール粒子を使えるようになれば。
できることが増えるかもしれない。
そして。
空中浮揚。
あいは無意識に、駅の床を見る。
さっきまで。
あそこを黒いひもが埋め尽くしていた。
自分たちは、一歩も動けなかった。
でも。
紫織だけは。
その少し上を進んでいた。
――私も、いつか。
そこまで考えて。
あいはすぐ首を振った。
今すぐできるわけじゃない。
今日見たばかり。
訓練もしていない。
紫織と同じように動けるようになるかどうかも、わからない。
それでも。
《できる可能性がある》。
それだけで、見える世界が少し広がった気がした。
「ねえ、紫織さん」
美咲が言う。
「学校で練習できたりする?」
「いきなり?」
「だって気になるじゃん!」
「美咲」
由香里が苦笑する。
「今、駅だから」
「あ」
美咲が周囲を見る。
紫織も笑った。
「まあ、ちゃんと安全な場所でね。空中浮揚もヴェール粒子も、魔力の制御が必要だから」
「誰かに教えてもらうの?」
あいが聞く。
「うん。パートナー猫とか、使える人に教わりながら」
リラも静かにうなずく。
アムルがあいを見る。
「そのうち、あなた達も練習しないとね」
「アムル、知ってたの?」
「もちろん」
「……教えてくれてもよかったのに」
思わず口にすると。
アムルは涼しい顔で答えた。
「まだ必要な段階じゃなかったもの」
「う……」
反論できない。
変身。
杖。
ディストーション・フィールド。
攻撃魔法。
マジカル・ビジョン。
覚醒してから覚えることばかりだった。
全部を一度に教えられても。
たぶん、あいの頭でも整理できなかった。
「まあまあ」
紫織が笑う。
「これから覚えればいいじゃない」
「あいちゃん、空中浮揚やろうよ!」
「う、うん……」
「由香里も!」
「あたしも興味はあるけど……まず基礎からでしょ」
「えー」
「えー、じゃない」
三人の会話を聞きながら。
紫織が楽しそうに笑っていた。
それを見て。
あいは、少し不思議な気持ちになる。
さっきまで。
空中を滑り。
黒いひもをかわし。
妖魔の攻撃を引きつけていた人。
自分たちよりずっと経験のある魔法戦士。
でも今は。
同じ制服を着た。
同じ高校三年生の女の子。
同級生。
なのに。
魔法戦士としては先輩。
その距離感が。
あいには少しだけ嬉しかった。
知らないことを教えてくれる人が。
すぐ近くにいる。
同じ学校に。
同じ学年に。
そして。
もしかすると。
これから一緒に戦うこともあるのかもしれない。
カラーコーンの向こうから、相原の声が聞こえる。
「点検終了まで、もう少々お待ちください」
日常へ戻る時間が近づいている。
紫織もそちらを見て。
「そろそろ行かないと、学校に遅れちゃうね」
「ほんとだ!」
美咲が慌てて時間を確認する。
「戦って遅刻って、先生になんて説明するの」
由香里がため息をつく。
「妖魔と戦ってました!」
「言えるわけないでしょ」
「だよね」
いつもの会話。
いつもの朝。
なのに。
あいにとっては。
少しだけ世界が広くなった朝だった。
知らなかった魔法。
知らなかった戦い方。
そして。
新しく知った。
同級生の先輩。
あいはもう一度、紫織を見る。
「紫織さん」
「ん?」
「さっきの戦い……すごかった」
紫織は一瞬だけ目を丸くした。
それから。
照れたように。
でも、どこか自信のある笑顔を見せる。
「地面に縛られない戦い方なら、私、けっこう得意だよ」
◆人物紹介
【藤崎紫織 (ふじさき しおり)】
私立さくら女子高等学校3年C組。
明るく親しみやすい性格の、あいたちと同学年の少女。
幼少期の交通事故で両脚に大きな障害が残り、車いすを使用している。車いすの操作に非常に慣れており、周囲との距離や位置を把握する能力にも優れている。
その正体は、紫色のリボンを持つ魔法戦士 《マジカル・シオン》。高校1年生ごろから魔法戦士として活動しており、あいたちにとっては同級生でありながら、魔法戦士としては先輩にあたる。
パートナー猫は、淡い紫灰色の毛並みを持つ 《リラ》。
魔法戦士が訓練によって習得できる共通基礎魔法 《空中浮揚》を特に得意としており、床から少し浮いた状態で、前後左右や高さを自在に調整しながら滑らかに移動する。
「地面に縛られない戦い方なら、私、けっこう得意だよ」
第十三話「車いすの少女は、空を舞う」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、藤崎紫織――《マジカル・シオン》が本格的に登場するお話でした。
紫織は車いすを使用していますが、本作では「魔法によって歩けるようになる」という方向ではなく、車いすも、空中浮揚も、それぞれ紫織にとっての移動方法として描いています。
今回の妖魔は、床を這うひもで相手の動きを封じるタイプでした。
地面を使って戦うラブ、フローラ、アロマにとっては非常に相性の悪い相手。
一方で、床から少し浮いた状態で移動するシオンは、その攻撃をかわしながら戦うことができました。
ただし、シオンが特別に無敵なのではありません。
今回は偶然、妖魔の攻撃方法とシオンの移動方法の相性がよかった、という形です。
そして今回、あいが初めて気づいたのが「高さ」という戦場の使い方でした。
これまであいは、位置や距離、射線を考えながら戦ってきましたが、その多くは床の上を基準にしたものでした。
シオンの戦い方を見たことで、
「空間には、こんな使い方もある」
という新しい視点を知ることになります。
また、《空中浮揚》と《ヴェール粒子》がシオンだけの特殊能力ではなく、訓練によって習得できる魔法戦士の共通基礎魔法であることも明らかになりました。
あい達はまだ使うことができません。
これからどのように学び、どんなふうに自分たちの戦い方へ取り入れていくのか。
そのあたりも、今後少しずつ描いていきたいと思います。
そして紫織は、あい達と同じ高校三年生でありながら、高校一年生ごろから活動している魔法戦士としての先輩でもあります。
同級生で、先輩。
これまでの三人とは少し違う距離感の仲間として、今後どのように関わっていくのかも楽しんでいただければと思います。
次のお話も、よろしくお願いいたします。




