体育の時間と、東京の結界
体育の時間。
更衣室で体育着に着替え、ランニングや反復横跳びに取り組む、あい、美咲、由香里。
これまでなら、ただの授業だったはずの時間。
けれど魔法戦士として目覚めた今、身体を動かすことの意味も、少しずつ変わり始めています。
走ること。
息を整えること。
姿勢を保つこと。
素早く避けること。
そして、迷わず最初の一歩を踏み出すこと。
学校で何気なく行っていることも、魔法戦士として戦う時には、思いがけない形で力になるのかもしれません。
そして放課後。
三人は図書室で、選挙と東京の歴史について調べ始めます。
東京府。
東京市。
そして、かつて存在した東京都。
自分たちが暮らす場所の名前をたどっていくうちに、三人はこれまで知らなかった東京のもう一つの側面へ近づいていきます。
体育で自分の身体と向き合った一日は、やがて、自分たちが暮らす「東京」という場所そのものを見つめ直す時間へ。
今回は、日常の授業と選挙、歴史、そして魔法の秘密が少しずつつながっていくお話です。
◆ 体育のある日
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
宮本あいは、枕元に置いた眼鏡へ手を伸ばし、ゆっくり身体を起こした。
「……ん……」
眼鏡をかけると、ぼんやりしていた部屋の輪郭がいつもの形に戻る。
ベッドの上で一度、大きく伸びをする。
そのまま何気なく左腕を曲げ、伸ばした。
違和感はない。
少し前、花のような妖魔が放った黒緑色の液体を受けたあとには、左腕の奥に熱が残っているような感覚があった。
けれど今は、指を握っても、腕を回しても、何も感じない。
「……うん。大丈夫」
小さく呟いてから、あいはほっと息を吐いた。
鶴岡先生に診てもらった時のことを思い出す。
わからないものは、わからない。
だからこそ、異変があれば無理をしないこと。
そう言われた。
あの妖魔の液体が何だったのかは、今もわからないままだ。
けれど少なくとも、今朝の身体はいつもどおりだった。
それだけで、朝の空気が少し軽く感じられる。
あいはベッドから降り、制服へ着替えるためクローゼットを開いた。
白い半袖ブラウス。
薄手の紺色ブレザー。
ピンク色のリボンタイ。
そして、緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。
「…………」
最後の一着を見たところで、手がほんの少しだけ止まった。
前ほどではない。
最初に短い丈へ挑戦した朝のように、定規を持ち出したり、鏡の前で何度も確認したりすることは、もうない。
それでも。
完全に何も感じなくなったわけでもなかった。
制服へ着替え、姿見の前に立つ。
ブラウスの襟を整える。
リボンの位置を確認する。
ブレザーの裾を軽く直す。
そして最後に、短めに整えたチェック柄のスカートへ視線が落ちた。
「……まだ、ちょっと気になるな」
以前なら、そのまま両手で裾を押さえていたかもしれない。
今は、そこまではしなかった。
一度だけ前側を整えて、それで手を離す。
鏡の中の自分も、少しずつこの姿に馴染んできたように見える。
だからといって、美咲のように自然に着こなせているとは、とても思えない。
由香里だって、最近になって短めの丈に慣れようとしているところだ。
――少しずつでいい。
そう思えるようになっただけでも、以前とは違っていた。
あいは鏡から離れ、机の上に置いた時間割へ目をやった。
そこで、ふと目が止まる。
「……体育」
思わず声に出た。
妖魔でも黒霧でもない。
ただの学校の授業。
なのに、その二文字を見ただけで、少し肩が重くなる。
数学なら、まだいい。
問題が難しくても、式を追えばいい。
わからなければ、一つずつ条件を整理していけばいい。
けれど体育は違う。
走るのが速くなる公式なんてない。
ボールが得意になる方程式もない。
身体は、頭の中で考えたとおりに動いてくれるとは限らなかった。
「体育かぁ……」
小さく息を吐く。
体育が苦手なのは、魔法戦士になったからといって変わっていない。
むしろ、美咲と一緒に戦うようになってから、運動神経の差を以前よりはっきり感じることさえある。
美咲は考えるより先に身体が動く。
妖魔の攻撃が来れば、すぐにかわす。
剣を持っても迷いが少ない。
それに比べると、自分はどうしても一度考えてしまう。
――でも。
あいは、鏡の中の自分をもう一度見た。
妖魔との戦いでは、走った。
避けた。
転んだこともある。
杖を構えたまま姿勢を保ち、《ディストーション・フィールド》を維持しながら動いた。
息が上がったことも、一度や二度ではない。
魔法を使えるからといって、身体を使わなくていいわけではなかった。
「……そう考えると、体育も関係あるのかな」
もちろん、高校の体育は魔法戦士の訓練ではない。
高瀬先生だって、あいたちが妖魔と戦っていることなど知らない。
それでも。
走ること。
身体の向きを変えること。
転ばないように重心を取ること。
呼吸を整えること。
そういう普通のことが、戦っている時には意外なほど大切だった。
体育は苦手。
それは変わらない。
けれど。
ただ「嫌だな」と思うだけだった以前とは、ほんの少し見え方が変わっていた。
「……頑張ろう。少しだけ」
自分に言い聞かせるように呟いて、あいは通学鞄を手に取った。
部屋を出て、玄関へ向かう。
「おはよう」
「あ、おはよう。もう出るの?」
玄関近くにいた母・郁子が振り向いた。
「うん」
あいは靴を履き、鞄を肩へかける。
その時。
郁子の視線が、すっとあいへ向けられた。
顔。
制服。
スカート。
足元。
短い時間だったが、あいには妙に長く感じられた。
「……な、なに?」
思わず聞くと、郁子は少しだけ笑った。
「別に」
「別にって……」
「ちゃんとしてるかなって見ただけ」
「またチェックしてたの?」
「母親ですから」
当然のことのように言われ、あいは少し困った顔になる。
郁子はもう一度、あいの制服姿を眺めた。
以前なら、それだけであいは反射的にスカートへ手を伸ばしていたかもしれない。
今も少しだけ落ち着かない。
けれど、今日はそのまま立っていられた。
郁子がそれに気づいたのかどうかはわからない。
ただ、少し満足そうに頷いた。
「うん。前より自然になったわね」
「……そうかな」
「そうよ。でも、慣れてきた時の方が油断するんだから」
その言葉に、あいは思わず苦笑した。
どこかで聞いたような気がする。
「階段と風?」
「それも」
郁子は笑う。
「今日は体育もあるんでしょ。無理して転ばないようにね」
「……お母さん、私が体育苦手なの知ってるからって」
「知ってるから言ってるの」
「もう……」
けれど、不思議と嫌ではなかった。
以前なら「体育がある」というだけで憂鬱だった朝。
今はまだ気が重い。
それでも、その先に少しだけ別の意味を見つけられそうな気がしている。
あいは玄関のドアへ手をかけた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「うん」
ドアを開く。
朝の空気が、ふわりと制服の裾を揺らした。
あいは一瞬だけそこへ意識を向け、それから手で押さえることなく、いつものように一歩を踏み出した。
体育は、やっぱり得意ではない。
けれど今日は。
いつもとは少しだけ違う気持ちで、授業を受けられるかもしれない。
そう思いながら、あいは玄関のドアを静かに閉めた。
◆ 更衣室の三人
体育の授業を前に、三年A組の生徒たちは教室を出て、体育用の更衣室へと向かっていた。
あいも、美咲、由香里と一緒に廊下を歩く。
「やっぱり体育あるんだよね……」
あいが小さく呟くと、美咲がすぐ横から顔をのぞき込んだ。
「あるよ。当たり前じゃん」
「わかってるけど……」
「朝からそんな顔してたの?」
「そこまでじゃないよ……たぶん」
「たぶんなんだ」
美咲が笑う。
由香里も、その隣で小さく笑った。
「まあ、始まる前から疲れなくてもいいんじゃない?」
「う、うん」
頭ではわかっている。
けれど数学の授業へ向かうのと体育へ向かうのでは、どうしても気分が違う。
教室から少し離れた場所にある体育用更衣室へ入ると、途端に空気が変わった。
「わ……」
思わず、あいは小さく声を漏らした。
広い室内には、すでに何人もの生徒が集まっている。
鞄を置く音。
ロッカーを開け閉めする音。
あちこちから聞こえてくる話し声。
笑い声。
体育前の更衣室は、あいが思っていた以上に賑やかだった。
「今日さ、終わったら購買寄らない?」
「えー、また?」
「だって新しいの出たんだって」
少し離れたところでは、そんな会話が聞こえている。
さらに別の区画から、
「ちょっと、やめてって!」
「もう、ほんとに!」
という大きな声が上がった。
続いて、何人もの笑い声。
何をしているのかは見えないが、仲のいい生徒同士でじゃれ合っているらしい。
「元気だねえ」
美咲がそちらを見ながら笑う。
「体育の前なのに、もう体力使ってる」
「美咲も人のこと言えないと思うけど」
由香里が穏やかに返す。
「え、私?」
「うん」
「そんなことないって」
「あると思う……」
あいが思わず口を挟むと、
「ひどい、あいちゃんまで」
と、美咲が大げさに肩を落とした。
その様子に、あいも少し笑った。
さくら女子では、ずっと昔から今のような更衣室があったわけではないらしい。
以前は、体育の前になると教室でそのまま体育着へ着替えていた時代もあった、と聞いたことがある。
けれど今は違う。
プライバシーへの意識や、盗撮などへの対策もあり、体育用の更衣室そのものがきちんと整備されていた。
大きな共同スペースの中には、白いパーティションで区切られた更衣区画が並んでいる。
一人で使える区画もあれば、二、三人で使える少し広めの区画もある。
もちろん、そうした区画を使わず、大部屋側で普通に着替えている生徒も少なくない。
「こっち空いてるよ」
美咲が、三人でも入れそうな区画を見つけた。
「じゃあ、ここにしよっか」
由香里が言い、三人でその中へ入る。
最後に由香里がカーテンを引いた。
しゃっ、と軽い音がして、外からの視線が遮られる。
完全に静かになるわけではない。
外からは相変わらず笑い声や話し声が聞こえてくる。
それでも、白い仕切りに囲まれた内側は、さっきまでより少しだけ落ち着いて感じられた。
教室でもない。
廊下でもない。
ほんの数分だけ三人が使う、小さな空間。
「なんか、ここだとちょっと話しやすいね」
体育着を用意しながら、美咲が声を落として言った。
あいも頷く。
「うん。教室だと、周りに人がいるし……」
そこで、美咲がさらに声を小さくする。
「そういえば、あいちゃん。もう大丈夫なんだよね?」
「え?」
「あれだよ。この前の妖魔の」
あいは一瞬だけ左腕へ視線を落とした。
花のような妖魔。
つぼみから飛んできた、黒緑色の液体。
戦闘衣の魔力構成が乱れ、そのあとまで残った、内側が熱を持つような違和感。
けれど今朝も確認した。
もう何もない。
「うん。今日は全然違和感ないよ」
「ほんと?」
「うん」
由香里も安心したように息をついた。
「よかった。でも、また少しでも変だったら、無理しないでね」
「ありがとう」
「鶴岡先生も、そう言ってたでしょう?」
「うん」
そこまで話したところで、美咲が声をひそめた。
「それにしても、あの攻撃、今までの妖魔と全然違ったよね。アロマ・ヴェールがなかったら――」
「あ」
由香里が突然、短く声を上げた。
「どうしたの?」
あいと美咲が同時に見る。
由香里は振り返って、カーテンの端を見ていた。
「……これ」
そこには、ほんの少しだけ隙間があった。
閉めたつもりだったカーテンが、端まで完全には届いていなかったらしい。
外の更衣室が細い線のように見えている。
「えっ」
美咲の顔から笑みが消える。
由香里は慌ててカーテンを引き直した。
今度は端まできちんと閉じる。
「危なかった……」
「誰か聞いてたかな」
美咲が小声で言う。
あいの胸が、少しだけどきりとした。
視線を遮るパーティション。
カーテン。
三人だけで入れる区画。
なんとなく安全そうに見えていた。
けれど、よく考えれば当然だった。
ここは秘密の部屋ではない。
外では大勢の生徒が着替えている。
声だって普通に聞こえる。
現に今も、
「ねえ、それ取ってー!」
「自分で取ってよ!」
と、隣の方からはっきり声が聞こえてくる。
美咲もそれに気づいたのか、少し困ったように笑った。
「……全然、防音じゃないね」
「最初からそうだと思う」
由香里が小声で答える。
「カーテンは、見えないようにするためのものだもの」
「ですよね……」
美咲が肩をすくめる。
由香里は少し考えてから、二人を見た。
「魔法戦士の話は、ここではやめておこう」
「うん」
あいはすぐに頷いた。
「私も、その方がいいと思う」
「賛成」
美咲も両手を軽く上げる。
魔法戦士の存在は、一般の人には知られてはいけない。
教室でも。
電車でも。
駅でも。
そして、更衣室でも。
三人になったことで話せることは増えたけれど、話す場所まで自由になったわけではない。
それもまた、少しずつ覚えていかなければならないことなのだろう。
「じゃあ、普通の話にしよ」
美咲が切り替えるように言った。
「普通の話って?」
由香里が聞く。
美咲は少し考えてから、にっと笑った。
「あいちゃんが今日の体育を無事に乗り越えられるか」
「それ、普通の話なの?」
「すっごく普通」
「美咲ちゃん……」
あいは思わずため息をついた。
けれど、不思議とさっきまでの緊張は少し薄れていた。
外から、また大きな笑い声が上がる。
誰かが何かで盛り上がっているらしく、
「だからやめてってば!」
という声のあと、さらに笑い声が重なった。
更衣室は、秘密の話をするには思ったより向いていない。
その代わり。
普通の学校生活の中にいることを思い出させてくれる場所なのかもしれない。
あいは用意していた体育着へ目を落とした。
白い半袖の体育シャツ。
そして、紺色の短いショートパンツ。
制服のスカートとは、ずいぶん違う。
「……これに着替えるんだよね」
ぽつりと言うと、美咲が首を傾げた。
「そうだけど?」
「ううん。なんでもない」
あいはショートパンツを手に取った。
風でスカートの裾を気にする必要はない。
そのはずなのに。
なぜだろう。
制服とはまた違う意味で、少しだけ落ち着かない気がした。
その理由をうまく言葉にできないまま、あいは体育の準備を始めた。
◆ スカートとは違う
着替えを終えると、あいは白い体育シャツの裾を軽く整えた。
そして、なんとなく視線を下へ向ける。
紺色のショートパンツ。
これまでにも、体育の授業では何度も穿いてきたものだ。
一年生の頃も。
二年生の頃も。
そして三年生になってからも。
特別な服ではない。
学校指定の、いつもの体育着。
それなのに。
「……なんか、前と違う気がする」
あいが小さく呟くと、隣にいた美咲が振り返った。
「何が?」
「これ」
あいは、自分のショートパンツを指した。
美咲も同じ体育着姿だ。
「体育着?」
「うん」
美咲は一度自分の格好を見下ろしてから、首を傾げた。
「いつものじゃん」
「そうなんだけど……」
まさに、その通りだった。
体育着は何も変わっていない。
変わったのは、自分の方だ。
あいは少し考えてから言った。
「前は、体育が嫌だなってことしか考えてなかったから」
「そこ?」
「だって苦手だもん……」
「それは知ってる」
即答されて、あいは少しだけ頬を膨らませた。
由香里が小さく笑う。
「でも、あいが言いたいこと、なんとなくわかるかも」
「由香里も?」
「うん」
由香里も体育着へ着替え終えていた。
白い半袖の体育シャツに、紺色のショートパンツ。
普段の落ち着いた制服姿とは印象が違うが、由香里らしくきちんと整えている。
「制服のスカートとは、気になるところが違う気がする」
「あ、それ」
あいは思わず頷いた。
最近のあいにとって、短めの制服のスカートは、もう完全に未知のものではなくなっていた。
最初の頃は、歩くだけでも気になった。
階段。
風。
しゃがむ時。
物を拾う時。
裾をどうすればいいのか。
どこまで気にすればいいのか。
そんなことばかり考えていた。
今でも、まったく気にならないわけではない。
けれど、少しずつ身体が覚えてきている。
階段では落ち着いて歩く。
風が吹けば慌てずに対応する。
しゃがむ時には膝を使う。
以前ほど、動作のたびに考え込むことはなくなった。
一方、ショートパンツなら――
「少なくとも、風はそんなに気にしなくていいよね」
あいが言うと、美咲が笑った。
「それはそうでしょ」
「階段も、スカートよりは気が楽」
「しゃがむのもね」
由香里が続ける。
「うん」
そこまでは、いい。
むしろ体育着の方が、気楽なはずなのだ。
なのに。
あいは、その場でほんの少し足を開いてみた。
すぐに戻す。
今度は片足を軽く後ろへ引く。
それだけの動作なのに、自分の脚がどの方向へ動いているのか、妙に意識へ入ってきた。
「……これだ」
「何?」
美咲が聞く。
「動くのが、すごくわかる」
「体育着なんだから、動くための服じゃん」
「そうなんだけど」
あいはうまく説明できず、少し考える。
制服のスカートでは、どちらかといえば服そのものを気にしていた。
裾。
風。
階段。
それに対してショートパンツでは、服を気にしなくていい分――
自分自身の動きが目に入る。
足を出す。
膝を曲げる。
身体の向きを変える。
そうした動きが、以前よりはっきり意識される。
「身体を動かすための服だからかな……。自分がどう動いてるのか、前より気になる」
あいが言うと、由香里は少し考えてから頷いた。
「私も、ちょっとわかる」
「由香里も?」
「前なら、体育着は体育着ってだけだったんだけどね」
由香里は自分の足元を見た。
「今は、戦う時にどう動いてたかなって、少し考えちゃう」
その言葉に、あいも思い当たった。
妖魔を避けた時。
杖を構えた時。
虚数空間の境界を保ちながら移動した時。
これまでは、必死だった。
自分の足がどこへ出たのか。
どんな姿勢だったのか。
そんなことまで考える余裕はなかった。
けれど、魔法戦士になって何度か戦った今では。
普通の体育着で立っているだけでも、
――戦う時、自分はちゃんと動けているんだろうか。
そんな疑問が浮かんでくる。
「……前は体育の時、自分の動きなんて考えたことなかったな」
「そうなの?」
美咲が意外そうに言った。
「うん。とにかく終わればいいって……」
「あいちゃん、それはさすがに体育嫌いすぎ」
「だって……」
「でもまあ、あいちゃんらしいか」
美咲はそう言うと、軽くその場で足首を回した。
右。
左。
続いて膝を軽く曲げ、肩を回す。
どの動きも自然だった。
あいには、どうしてそんなに何も考えず動けるのか不思議に見える。
「美咲ちゃんは、全然気にならないの?」
「何が?」
「体育着になって、身体の動きとか」
「んー……」
美咲は少し考えた。
「動きやすいな、とは思うけど。それだけかな」
「それだけ……」
「だって走る時に、右足出して、次は左足で、とか考えないでしょ?」
「……私は考えた方がいい気がする」
「そこから?」
美咲が吹き出した。
「もう、美咲ちゃん」
「ごめんごめん。でも、あいちゃんってほんと考えるよね」
「悪い?」
「悪くないって。むしろ、それで魔法はうまくなってるじゃん」
その言葉に、あいは少し黙った。
確かに。
美咲のように身体の感覚だけで動くことは、自分には難しい。
けれど、わからないものを整理することならできる。
点。
線。
位置。
距離。
そうやって考えることで、《ディストーション・フィールド》も少しずつ安定してきた。
なら、身体を動かすことだって――
そこまで考えて、あいは首を横に振った。
まだ体育は始まってもいない。
「何?」
美咲が聞く。
「ううん。ちょっと考えすぎてた」
「ほら、もう体育始まる前から考えてる」
由香里がくすっと笑う。
その由香里も、美咲ほど完全に自然というわけではなさそうだった。
カーテンの前へ移動する時、ほんの少しだけ自分の体育着を確認している。
あいはそれに気づいた。
「由香里も、やっぱりちょっと気になる?」
「少しだけね」
由香里は素直に答えた。
「制服の短いスカートにも、まだ完全には慣れてないし」
「私も」
「でも、こっちはスカートみたいに裾を気にしなくていいから、その点は楽かな」
「うん」
「ただ……」
由香里は少しだけ考える。
「その分、ちゃんと身体を動かさなきゃいけない感じがする」
「あ、それ、わかる」
二人が頷き合う。
美咲だけが、
「二人とも難しく考えすぎじゃない?」
と笑っていた。
けれど。
たぶん、それでいいのだ。
美咲には美咲のやり方がある。
由香里には由香里の。
そして自分には、自分の。
同じ魔法戦士でも、三人は同じではない。
普通の体育だって、きっと同じなのだろう。
「じゃ、そろそろ行こっか」
美咲が言った。
「高瀬先生、時間にはちゃんとしろって言うし」
「あ」
あいは時計を見る。
「ほんとだ」
三人は荷物をまとめ、パーティションのカーテンを開けた。
外へ出ると、更衣室のざわめきが一気に近くなる。
同じ白い体育シャツと紺色のショートパンツ姿の生徒たちが、次々と体育の授業へ向かっている。
誰も特別に自分の格好を気にしているようには見えない。
いつもの体育。
いつもの体育着。
いつもの学校生活。
それは何も変わっていない。
けれど、あいの中では少しだけ意味が変わっていた。
以前なら、体育はただ苦手な授業だった。
今は。
自分の身体が、どう動くのか。
どうすれば、思った場所へ動けるのか。
そんなことを少しだけ考えてみようと思う。
「あいちゃん、置いてくよー」
「あ、待って」
先に歩き出した美咲を追い、あいも一歩を踏み出す。
その一歩がどんなふうに出たのか。
以前なら気にも留めなかったことを、今のあいはほんの少しだけ意識していた。
◆ 準備運動とランニング
「はい、そこ。もう少し間を空けて」
高瀬真帆のよく通る声が響いた。
体育着へ着替えた三年A組の生徒たちが、周囲との間隔を取りながら並んでいく。
あいも、美咲と由香里の近くで立ち位置を整えた。
白い半袖の体育シャツに、紺色のショートパンツ。
さっき更衣室で感じた、制服とは少し違う落ち着かなさは、まだ完全には消えていない。
けれど、こうしてクラスのみんなが同じ体育着で並んでしまえば、少しだけ気持ちは楽だった。
「今日はまず準備運動。そのあと軽く走るわよ」
高瀬先生が全体を見渡す。
明るく、はきはきとした声。
けれど、ただ元気よく号令をかけているだけではない。
誰がどこに立っているのか。
間隔は狭すぎないか。
姿勢がおかしくなっている生徒はいないか。
視線が細かく動いている。
あいは、以前校門で声をかけられた時のことを思い出した。
あの時も、裾ばかり気にしていた自分の姿勢をすぐに見抜かれてしまった。
――体育の先生って、やっぱり見てるんだな。
「じゃあ、首から。ゆっくりね」
号令に合わせ、準備運動が始まる。
首。
肩。
腕。
身体の横。
足首。
膝。
一つ一つは、今まで何度もやってきた動きだ。
あいも先生の動きを見ながら身体を動かす。
右腕を回す。
左腕を回す。
肩甲骨のあたりが少し伸びる。
次に身体を横へ倒す。
「反動つけすぎない。伸びてるところをちゃんと意識して」
高瀬先生の声が飛んだ。
あいは慌てて勢いを弱めた。
なんとなく真似するのではなく、どこが動いているのかを意識する。
そうしてみると、不思議だった。
さっき更衣室で感じた、
――自分の身体がどう動いているのか、前より気になる。
という感覚が、準備運動でも続いている。
膝を曲げれば、重心が少し下がる。
足首を回せば、身体を支えている場所が変わる。
肩を動かせば、腕の振りやすさが変わる。
今までは、ただ号令に合わせて終わるのを待っていただけだった。
今日は、一つ一つの動きが少しだけ違って見える。
「はい、次。軽く屈伸」
生徒たちが一斉に腰を落とす。
あいもそれに続いた。
その時、
「宮本さん」
「はいっ」
突然名前を呼ばれ、あいはぴんと背筋を伸ばした。
高瀬先生がこちらを見ている。
「そんなに力入れなくていいわよ」
「え?」
「肩」
言われてみれば、確かに肩に力が入っていた。
「姿勢を良くしようとして固くなると、逆に動きにくいから」
「あ……はい」
「背筋は伸ばす。でも力みすぎない。そこは別ね」
「はい」
あいは少し恥ずかしくなりながら、肩の力を抜いた。
ふっと息を吐く。
すると、それだけでさっきより身体が軽くなる。
隣から、美咲が小声で言った。
「また見抜かれてる」
「美咲ちゃん……」
「しゃべらない」
高瀬先生の声が飛んできた。
「はい」
「すみません」
二人そろって返事をすると、近くにいた由香里が声を出さずに笑っていた。
準備運動が終わる。
高瀬先生は手を軽く叩いた。
「じゃあ次、ランニング」
あいの気持ちが、ほんの少し沈んだ。
――来た。
走るのは苦手だ。
短距離でも長距離でも、得意と言えるものはない。
それに対して美咲は、いかにも待っていましたという顔をしている。
「美咲ちゃん、なんでちょっと嬉しそうなの……」
「え? 走るだけじゃん」
「その『だけ』が違うんだよ……」
由香里が間に入るように言った。
「最初から飛ばさなければ大丈夫だよ」
「由香里はそう言えるから……」
「あいも、自分のペースで走ればいいの」
その言葉とほとんど同時に、高瀬先生の声が聞こえた。
「はい、最初に言っておくけど、これは競争じゃないからね」
あいは思わず顔を上げた。
「速い子についていこうとしなくていい。自分のペースを保つこと」
美咲がちらりとあいを見る。
あいも、美咲を見る。
「特に最初から飛ばして、途中でばてるのは禁止」
今度は由香里が美咲を見た。
「なんで二人とも私を見るの?」
「なんとなく」
「なんとなく」
あいと由香里の声が重なる。
「ひどくない?」
美咲が小さく抗議した。
高瀬先生はそんな生徒たちを見ながら、少し笑って続けた。
「それから、走ってる途中で息を止めないこと」
――息。
あいの意識が、そこで少し止まった。
「苦しくなると肩が上がって、身体が固くなる子がいるから。呼吸はちゃんと続ける」
その言葉が、妙に耳に残った。
呼吸。
身体を固くしない。
姿勢を崩さない。
魔法戦士になってから、何度も似たことを意識している。
変身した時。
妖魔を前にした時。
《ディストーション・フィールド》を維持した時。
緊張して呼吸が浅くなれば、考えもまとまりにくくなる。
アムルにも、落ち着いて呼吸するよう言われたことがあった。
もちろん、高瀬先生はそんなことを知っているはずがない。
ただの体育の授業。
ただのランニングの説明だ。
それなのに。
――同じなんだ。
あいは少しだけ不思議な気持ちになった。
「じゃあ、始めるわよ」
生徒たちが走り始める。
美咲は、すぐに軽やかなリズムへ乗った。
足取りに無駄がない。
腕の振りも自然で、身体全体が前へ進むために動いているように見える。
「やっぱり速いなあ……」
あいが小さく呟く。
けれど、追いかけない。
さっき高瀬先生も言っていた。
これは競争ではない。
由香里は、あいより少し前を走っていた。
美咲ほど速くはない。
けれど、一定のテンポを崩さない。
速くなりすぎず。
遅くなりすぎず。
呼吸も乱れていないように見える。
――由香里らしい。
そう思った。
あいも走る。
一歩。
もう一歩。
最初のうちは、それほど苦しくない。
けれど、少し続くと、すぐに呼吸が大きくなってきた。
「はっ……はっ……」
美咲との差が開いていく。
由香里とも少しずつ離れる。
以前のあいなら、
――やっぱり私、遅い。
と、それだけで余計に焦っていたかもしれない。
けれど今日は。
『無理して周りに合わせない』
高瀬先生の言葉を思い出す。
あいは少しだけ速度を落とした。
その代わり、姿勢を崩さないようにする。
腕を振る。
息を吐く。
吸う。
また吐く。
「……ふっ、はっ……」
楽になるわけではない。
体育が突然得意になるわけでもない。
やっぱり苦しい。
足だって、だんだん重くなってくる。
美咲はもうずっと前にいる。
由香里も安定したペースで走っている。
――でも。
あいは少しだけ気づいた。
無理に美咲へ追いつこうとしなければ、さっきより呼吸が乱れない。
身体を前へ倒しすぎなければ、足も出しやすい。
「宮本さん、肩上げない!」
高瀬先生の声が飛んでくる。
「あ、はい!」
返事をした瞬間、息がさらに乱れた。
「返事はいいから呼吸!」
「……はい」
今度は少し小さく答える。
近くを走っていた生徒がくすっと笑った。
あいも、苦しいながら少しだけ笑った。
肩の力を抜く。
前を見る。
足元ばかり見ない。
息を止めない。
一つずつ。
数学の問題ほどきれいには整理できないけれど。
身体にも、身体なりのやり方があるのかもしれない。
少し先で、美咲が振り返りそうになる。
けれどすぐに前を向いた。
たぶん、あいが自分のペースで走っているのを見たのだろう。
由香里も、自分の速度を崩さず走っている。
三人とも、同じようには走らない。
美咲には美咲の速さ。
由香里には由香里の安定。
そしてあいには――
「……まだ、遅いけど」
小さく呟く。
遅い。
苦しい。
体育はやっぱり得意ではない。
それでも。
ただ嫌々走っていた以前とは、少しだけ違う。
走りながら、あいは自分の呼吸を意識した。
自分の足を意識した。
姿勢を意識した。
妖魔との戦いで必要だったものは、魔法だけではなかった。
走ること。
避けること。
立ち続けること。
息を整えること。
そういうもの全部が、自分の身体の上に成り立っている。
「……魔法だけじゃ、だめなんだな」
誰にも聞こえないくらいの声で呟く。
そしてあいは、少し遅れながらも、自分のペースで走り続けた。
◆ 右、左、右
ランニングが終わっても、あいの呼吸はすぐには元へ戻らなかった。
「はぁ……はぁ……」
両手を腰に当てながら、できるだけ深く息をする。
少し離れたところでは、美咲がもう普通の顔をしていた。
「美咲ちゃん……なんで、もう平気なの……」
「え? そんなに走ってないじゃん」
「走ったよ……」
あいにとっては、十分すぎるくらい走った。
一方、由香里は美咲ほど余裕ではないものの、呼吸を一定に整えながら落ち着いている。
「無理に美咲と比べなくていいよ」
「うん……わかってるけど……」
わかっていても、同じ授業を受けているとは思えないくらい違う。
高瀬先生が手を叩いた。
「はい、水分取った人から次。今度は反復横跳びやるわよ」
「え」
あいの口から、思わず声が漏れた。
美咲が笑う。
「まだ終わりじゃないよ、あいちゃん」
「わかってる……」
体育の時間は長い。
妖魔との戦いなら、早く終わってほしいと思う。
体育も、できれば早く終わってほしい。
そこだけ考えると、少し似ている気がした。
――いや、全然違うけど。
あいは心の中で自分に突っ込んだ。
床には、反復横跳び用の三本の線が引かれていた。
高瀬先生がその前に立つ。
「基本は今までと同じ。中央から始めて、左右の線を越える。速さだけじゃなくて、ちゃんと線を越えること」
先生が軽く実演する。
右。
中央。
左。
中央。
また右。
動きが速い。
それなのに、身体の軸は大きく崩れない。
「足元ばっかり見ないこと。身体が前に倒れすぎると次の動きが遅れるからね」
あいは三本の線を見つめた。
反復横跳びは、これまでにもやったことがある。
そして、これまでずっと苦手だった。
右へ行こうとして身体が流れる。
左へ戻ろうとして足が遅れる。
焦ると線を踏み損ねる。
美咲のように、
ぱっ、ぱっ、ぱっ、と身体を切り返すことができない。
「じゃ、二人一組で数えて」
生徒たちが動き始めた。
あい、美咲、由香里も近くで組になる。
先に美咲が線の中央へ立った。
「じゃ、いくよ」
開始の合図。
美咲の身体が弾むように動いた。
右。
左。
右。
左。
実際には中央の線を何度も通っているのに、あいの目にはそう見えるほど速い。
「……すごい」
「美咲、速いね」
由香里も感心している。
美咲は、次にどこへ足を置くのかなど考えているようには見えない。
右へ行った瞬間には、もう左へ戻る準備ができている。
終了の合図が鳴った。
「ふう」
美咲が軽く息を吐く。
「どう?」
「どうって言われても……」
あいは記録を見て、小さくため息をついた。
「私、絶対そんなにできない」
「やる前から決めないの」
「でも……」
「ほら、次あいちゃん」
背中を押されるようにして、あいは三本の線の前へ立った。
最初の一回。
合図と同時に、右へ飛ぶ。
戻る。
左へ。
戻る。
――あ。
次は右。
そう思った時には、身体の向きが少し遅れていた。
足がもつれるほどではない。
でも、リズムが崩れる。
そこから取り戻そうとして焦り、今度は中央へ戻る動きが小さくなった。
「宮本さん、焦らない!」
高瀬先生の声。
「はいっ」
さらに動きが乱れた。
終わる頃には、あいの呼吸はまた大きくなっていた。
「……やっぱり苦手」
記録を確認して、肩を落とす。
美咲とはかなり差がある。
由香里が、
「最初なんだから、もう一回やってみよう」
と励ましてくれる。
「うん……」
あいは三本の線を見た。
右。
中央。
左。
ただそれだけ。
数学の問題なら、とても単純だ。
なのに、自分の身体が入ると急に難しくなる。
「ねえ、あいちゃん」
美咲が隣に来た。
「何?」
「さっき、次どっち行くか考えてから動いてたでしょ」
「……わかった?」
「見てればわかるよ」
さすが美咲だった。
あいは少し困ったように眼鏡を押し上げる。
「だって、考えないとわからなくなるから」
「うーん」
美咲は床の線を見た。
それから、ふと思い出したような顔をする。
「そういえばさ。この前の花の妖魔の時も、ちょっと似てなかった?」
「花妖魔?」
その言葉で、あいの頭に黒緑色の姿が浮かぶ。
歩道橋の下。
地面を這う蔓。
その先にあった、つぼみ。
そして――
ぱっと弾けるように飛んできた、黒緑色の液体。
反射的に身体を動かした。
避けようとはした。
けれど、完全には避けきれなかった。
戦闘衣へ液体が触れた時の、魔力がざわつくような感覚。
あいは無意識に左腕へ触れかけて、途中で手を止めた。
今はもう、違和感はない。
「最初の方さ」
美咲が続ける。
「あいちゃん、攻撃が来るのは見えてたじゃん」
「うん。マジカル・ビジョンにも出てた」
「でも、見えてから動くまでがちょっと遅れてた」
「あ……」
否定できなかった。
「私だったら、来たって思ったらとりあえず横に動いちゃうんだけど」
「それができないんだよ……」
「うん。だからさ」
美咲は笑った。
「無理に私と同じにしなくてもいいんじゃない?」
あいは美咲を見る。
「どういうこと?」
「次にどこへ行くか、あいちゃんがわかる形にすればいいじゃん」
「私が、わかる形……」
美咲は床の三本線を指した。
「これ、あいちゃん得意そうじゃない?」
「反復横跳びが?」
「じゃなくて、線」
「あ」
あいはもう一度、床を見る。
三本の平行線。
それだけを見ていると、突然、とても単純なものに思えた。
中央。
右。
左。
いや――
中央を原点とすれば。
「……ゼロ」
「え?」
美咲が聞き返す。
あいは真ん中の線を見た。
「ここを、ゼロ」
右を見る。
「こっちが、プラス一」
左を見る。
「こっちが、マイナス一」
美咲が瞬きをした。
「反復横跳びに座標つける人、初めて見た」
由香里が少し笑った。
「でも、あいらしいかも」
「……変かな」
「変っていうか」
美咲は楽しそうに笑う。
「すごく、あいちゃん」
それが褒め言葉なのかどうか、少し怪しい。
けれど。
あいの頭の中では、三本の線が急に整理され始めていた。
中央。
ゼロ。
右。
プラス一。
中央へ戻る。
ゼロ。
左。
マイナス一。
またゼロ。
そこからプラス一。
線をただ飛び越えるのではない。
次に自分が入る位置を決める。
――点から、点へ。
あいは小さく息を吐いた。
「もう一回、やってみる」
「お、やる気出た?」
「少しだけ」
「じゃあ私、数える」
美咲が横へ移動する。
あいは中央へ立った。
足元を見すぎないよう、視線を少し前へ上げる。
でも頭の中には、三つの位置がある。
マイナス一。
ゼロ。
プラス一。
開始の合図。
右。
――プラス一。
中央。
――ゼロ。
左。
――マイナス一。
中央。
ゼロ。
右。
プラス一。
最初よりも、少しだけ迷いがない。
身体そのものが速くなったわけではない。
美咲のように軽やかでもない。
切り返すたびに足は重いし、少しずつ呼吸も乱れる。
それでも、
――次はどこ?
と考えて止まりそうになる瞬間が減った。
プラス一。
ゼロ。
マイナス一。
ゼロ。
プラス一。
一定のリズム。
その時。
一瞬だけ、花妖魔のつぼみが脳裏に浮かんだ。
黒緑色の液体が飛んでくる。
もし右から来たなら。
左へ。
ただ「避ける」と考えるのではなく。
――自分を、攻撃の線から外れた位置へ移す。
あいの足が、さっきより少し素直に横へ出た。
終了の合図が鳴る。
「はい、そこまで」
あいはその場で止まり、大きく息を吐いた。
「はぁ……はぁ……」
やっぱり疲れる。
やっぱり体育は苦手だ。
でも。
「さっきより増えてる」
美咲が記録を見て言った。
「え?」
あいも確認する。
ほんの少しだった。
美咲の記録には、まだ遠い。
とても追いつける数字ではない。
けれど。
確かに、自分の最初の記録よりよくなっている。
「……ほんとだ」
思わず口元が緩んだ。
「ほらね」
美咲が得意そうに言う。
「美咲ちゃんが得意そうにするところなの?」
「アドバイスしたの私だし」
「最後はあいが考えた方法でしょう」
由香里が笑う。
「じゃあ共同研究ってことで」
「体育で研究って……」
あいは苦笑した。
でも、嫌な感じはしなかった。
数学が身体を速くしてくれるわけではない。
数式を覚えれば妖魔の攻撃を全部避けられるわけでもない。
魔法だって、数学だけで説明できるものではない。
ただ。
わからないものを、自分がわかる形に置き換える。
それなら、できる。
世界の見方を少し整理することで、身体が次に何をすればいいのか、ほんの少しわかりやすくなる。
それだけだった。
でも今のあいには、それで十分だった。
床に引かれた三本の線を見る。
左。
中央。
右。
マイナス一。
ゼロ。
プラス一。
そしてまた、ゼロへ。
「……右、左、右」
あいは小さく呟いた。
「ん?」
美咲が聞く。
「ううん。次はもう少し、ちゃんと動けるかなって」
「おお、前向き」
「少しだけね」
あいはそう答えて笑った。
体育は、やっぱり苦手だ。
けれど。
苦手だからといって、何もできないわけではない。
そのことを、三本の線がほんの少しだけ教えてくれた気がした。
◆ 休憩時間
「はい、いったん休憩!」
高瀬先生の声が響いた瞬間、あいは心の中で小さく安堵した。
「……た、助かった……」
「大げさだなあ」
美咲が笑う。
「美咲ちゃんは元気すぎるんだよ……」
反復横跳びを終えたあとも、あいの脚にはまだじんわりと疲れが残っていた。
ランニング。
準備運動。
反復横跳び。
どれも体育の授業では珍しくない。
これまでにも何度もやったことがある。
なのに今日は、以前より一つ一つの動きを意識していたせいか、いつも以上に身体を使ったような気がする。
三人はほかの生徒たちから少し離れた端へ移動し、並んで腰を下ろした。
あいは水分を取り、ゆっくり息を吐く。
「はぁ……」
まだ少し速い呼吸。
でも、さっきのランニング直後ほどではない。
高瀬先生に言われたとおり、息を止めずに整えていく。
隣では、美咲が水分を取ったあと、軽く脚を伸ばしていた。
やっぱり元気そうだ。
由香里は膝を立てて座りながら、静かに呼吸を整えている。
三人とも同じ授業を受けたはずなのに、疲れ方まで性格が出ているように思えて、あいは少しおかしくなった。
「何?」
由香里が気づいた。
「ううん。なんでもない」
「今、笑ってたでしょ」
「ちょっとだけ」
「あいちゃん、余裕出てきたじゃん」
「それとこれとは別だよ」
美咲が笑った。
しばらく、三人は黙って休んだ。
周囲からは、同じように休憩しているクラスメイトたちの話し声が聞こえてくる。
誰かが記録の話をしている。
別の誰かは、次の種目を気にしている。
普通の体育の時間。
いつもの学校生活。
少し前まで妖魔と戦っていたことなど、ここにいる誰にもわからない。
美咲が、ふと声を落とした。
「ねえ」
「なに?」
「これさ」
美咲は、自分の脚を軽く叩いた。
「魔法戦士の訓練にもなってたりして」
あいは瞬きをした。
由香里も美咲を見る。
「体育が?」
「そう」
美咲は少し楽しそうに続ける。
「だって、走るじゃん。避けるじゃん。素早く動くじゃん」
「反復横跳びは、避ける練習じゃないと思うけど……」
あいが言う。
「でも似てない?」
「まあ……ちょっとは」
さっき、自分でも花妖魔の攻撃を思い出したばかりだ。
黒緑色の液体。
右から飛んでくる攻撃。
その射線から、自分の身体を外す。
反復横跳びそのものが妖魔との戦闘訓練というわけではない。
けれど。
横へ素早く身体を移す。
姿勢を崩さない。
次に動く位置を意識する。
そういう部分だけを見れば、確かにまったく無関係とも言えない。
由香里が少し考えてから言った。
「訓練かどうかはともかく、少なくとも体力は必要だと思う」
「でしょ?」
美咲がすぐに反応した。
「美咲は前衛だから、特にそうね」
由香里は続ける。
「剣を使って動き続けるし、《チェリー・ブラッサム》も同時に使うでしょう?」
「そうなんだよね。戦ってる時って、あんまり考えてないけど」
美咲は腕を組んだ。
「終わったあと、けっこう疲れる」
「美咲ちゃんでも?」
「あいちゃん、私を何だと思ってるの?」
「運動しても疲れない人……」
「人間だから疲れるって」
美咲が苦笑する。
由香里も笑った。
「私も、激しく動くことは二人より少ないけど……」
由香里は少しだけ声を落とした。
「《アロマ・ヴェール》を維持しながら動く時は、結構集中するし、疲れるよ」
あいは、花妖魔の戦闘を思い出した。
花妖魔の液体を防ぐため、アロマが広げた淡いラベンダー色の魔力膜。
由香里はあれを維持しながら、ラブがコアを探す時間を作ってくれた。
見た目には静かな魔法だった。
でも、何もしていないわけではない。
むしろ、ずっと魔力を保ちながら周囲を見ていたのだ。
「そうだよね……」
あいは自分の手を見た。
自分の場合は。
《ディストーション・フィールド》。
現実空間と虚数空間の境界を維持する。
周囲の位置を把握する。
妖魔を見失わない。
仲間を巻き込まない。
その状態で、自分自身も動かなければならない。
駅前。
保健室。
非常階段。
図書室。
歩道橋の下。
戦う場所が複雑になるほど、頭だけではなく身体も疲れた。
特に。
虚数空間を維持したまま走ったり、妖魔の攻撃を避けたりした時。
「……私も、すごく疲れる」
あいが呟いた。
美咲が見る。
「虚数空間?」
「うん」
あいは頷いた。
「《ディストーション・フィールド》を出してるだけなら、まだいいんだけど……」
少し考える。
「境界を維持しながら、妖魔を見て、動いて、避けて……ってやると、すぐ息が上がる」
「やっぱり?」
「うん」
「それってさ」
美咲が言った。
「頭と身体、両方使ってるってことじゃない?」
「あ……」
その言葉に、あいは少し納得した。
数学の問題なら、机に座って考えられる。
魔法は違う。
考えながら動く。
動きながら判断する。
判断しながら魔法を維持する。
それを同時にしなければならない。
由香里が穏やかに言った。
「だから、魔法戦士だからって、魔法だけ練習すればいいわけじゃないんだと思う」
「うん」
あいは自然に頷いた。
「走れることも」
美咲が指を一本立てる。
「呼吸を整えることも」
由香里が続ける。
あいも考えながら言った。
「姿勢を保つことも……かな」
三人の視線が合う。
少しだけ間があって。
美咲が笑った。
「高瀬先生、知らないうちに魔法戦士育ててたりして」
「それは違うよ」
由香里がすぐに返した。
「普通の体育の授業だから」
「わかってるって」
「高瀬先生が知ったらびっくりするだろうね……」
あいが言う。
魔法戦士のことなど知らない高瀬先生。
先生はただ、生徒たちに普通の体育を教えている。
姿勢を崩さない。
息を止めない。
無理に周囲へ合わせない。
疲れたら休む。
どれも、魔法とは関係のない言葉だ。
それなのに。
妖魔と戦うようになった今のあいには、それらが以前とは違う意味を持って聞こえる。
魔法戦士になる前なら、体育はただの苦手科目だった。
できれば避けたい授業。
早く終わってほしい時間。
でも。
普通の学校で学ぶことが、全部魔法と無関係とは限らない。
数学で覚えた座標の考え方。
体育で覚える身体の動かし方。
呼吸。
姿勢。
体力。
どれも、本来は魔法戦士になるために学んだものではない。
それでも、今の自分を支えてくれている。
「……学校って、意外と役に立つんだね」
あいがぽつりと言った。
「何その感想」
美咲が笑う。
「だって……」
「受験生が言う言葉じゃないね」
由香里も少し笑った。
「そういう意味じゃないよ」
あいは慌てて言い直す。
三人の笑い声が、小さく重なった。
少し前まで重かった脚も、いつの間にか少し楽になっている。
高瀬先生の声が響いた。
「はい、そろそろ休憩終わり! 立って!」
「はーい」
美咲がすぐに立ち上がる。
由香里も続く。
あいは最後に一度だけ息を整えてから、床へ手をつかず、自分の脚で立ち上がった。
「よし……」
まだ体育は終わっていない。
そして体育が得意になったわけでもない。
それでも。
今日は、ただ苦手な時間ではなかった。
普通の学校生活の中にも、魔法戦士としての自分につながっていくものがある。
そのことを、あいは少しだけわかり始めていた。
◆ 放課後の図書室
放課後の図書室は、体育の時間とはまるで別の場所のようだった。
ページをめくる音。
シャープペンが紙の上を走る細い音。
ときどき、本棚の間を歩く生徒の足音。
昼間に走ったり、反復横跳びをしたりしていたことが、ずいぶん前の出来事のように感じられる。
「ああ……落ち着く……」
席に着いたあいが小さく息を吐くと、向かい側の美咲が笑った。
「あいちゃん、体育の時と顔が全然違う」
「だって、図書室だもん」
「そんなに?」
「そんなに」
あいは即答した。
美咲が肩をすくめる。
「私は体育の方が楽なんだけどなあ」
「それは美咲ちゃんだからだよ……」
「はいはい。そこはもう十分わかったから」
二人のやり取りを聞きながら、由香里が鞄から一冊のノートを取り出した。
「じゃあ、今日はこっちね」
机の上へ置かれたのは、社会科のノートだった。
あいは眼鏡の位置を直しながら、そのページをのぞき込む。
整った文字。
見出し。
矢印。
要点ごとに区切られた説明。
「……やっぱり由香里のノート、きれい」
「そう?」
「うん。すごく読みやすい」
数学のノートなら、あいもそれなりに自信がある。
けれど社会や歴史になると、由香里の方がずっと整理の仕方がうまい。
由香里は少しだけ照れたように笑った。
「社会と歴史は好きだから」
美咲も横からノートをのぞく。
「で、これがこの前の授業のやつ?」
「うん」
由香里はページを開いたまま、あいと美咲を見た。
「この前の社会科の続きなんだけど」
その言葉に、あいは少し姿勢を正した。
あの社会科の授業。
黒板に書かれていた言葉。
――東京府か、東京都か。
けれど、あいは授業の途中で身体に違和感を覚え、美咲と一緒に保健室へ向かった。
そのあとも教室へ残り、最後まで授業を受けたのは由香里だけだった。
「私たち、途中から聞けなかったもんね」
美咲が言う。
「そう。だから、そのあとのところもまとめておいたの」
「ありがとう、由香里」
「どういたしまして」
由香里は、まずページの上の方を指した。
「最初は国政選挙からね」
そこには、いくつかの項目が並んでいた。
衆議院総選挙。
参議院選挙。
最高裁判所裁判官国民審査。
あいは文字を追ってから、少し眉を寄せる。
「今回は……衆議院と参議院、両方なんだよね?」
「うん。今年はもともと夏に参議院選挙がある予定だったでしょう?」
「うん」
「そこへ衆議院の解散が重なったから、衆参同日選挙になったの」
美咲が頬杖をついた。
「つまり、一気に来たってことね」
「かなり大ざっぱに言えば」
由香里が苦笑する。
「それに最高裁判所裁判官の国民審査もあるから」
「……待って」
美咲が指を折り始めた。
「それだけでも結構あるよね?」
「まだ東京の選挙もあるよ」
「まだあるの?」
あいも思わず笑ってしまった。
由香里のノートには、その下にさらに、
東京府知事選挙。
東京府議会選挙。
東京市長選挙。
東京市議会選挙。
と書かれている。
美咲はしばらく無言で見つめたあと、
「投票用紙、結局何枚書くの?」
と真顔で言った。
「美咲ちゃん……」
「だって実際そこ大事じゃない?」
「まあ、それはそうだけど」
由香里も少し笑う。
あいはノートを見ながら、不思議な気持ちになった。
十八歳になった。
だから自分にも選挙権がある。
知識としては、もちろん知っていた。
けれど。
こうして自分が実際に投票する選挙が目の前に並ぶと、急に現実味が増してくる。
「私たち、本当に投票するんだよね……」
あいが言うと、美咲がこちらを見た。
「するでしょ」
「そうなんだけど……」
「なんか緊張する?」
「ちょっと」
数学の試験なら、正しい答えを出せばいい。
でも選挙は違う。
誰かが最後に答え合わせをしてくれるわけではない。
自分で調べて。
自分で考えて。
自分で決める。
それが少し怖かった。
由香里が次の見出しを指した。
「それで、今回の国政選挙なんだけど。ニュースでは《古市政権選択選挙》って言われることがあるの」
「あ、それ聞いたことある」
美咲がすぐ反応した。
あいも頷く。
テレビやネットの記事で、何度か目にした言葉だ。
「正式な選挙の名前じゃないよ」
由香里はすぐに付け加えた。
「今の古市里美総理の政権を、この先も支持するのかどうかが大きな争点になっているから、報道でそう呼ばれているだけ」
「古市さん、人気あるよね」
美咲が言った。
「ニュースでも毎日見るし」
「現職の総理大臣だから、それもあるけどね」
由香里が答える。
「あとは、古市総理と高山瑞希大蔵大臣、小田美紀内務大臣の三人」
「あ、《さくら三姉妹》」
美咲が言う。
「そう」
由香里が頷いた。
三人とも、さくら義塾女子大学の卒業生。
あいたちが通うさくら女子と同じ学校法人につながる大学だ。
そのためか、さくら女子の生徒にとっても、まったく縁のない政治家という感じはしない。
「でも、《さくら三姉妹》って本当の姉妹じゃないんだよね」
あいが確認する。
「もちろん。報道で付けられた呼び方。正式なグループ名でもないよ」
「三人とも考え方が同じ、ってわけでもないんだよね?」
「うん。それぞれ立場も担当も違うし」
由香里の答えは、いつもそうだった。
わかっていることと、そうではないことを混ぜない。
その話し方が、あいには安心できた。
美咲が、ふと思い出したように言う。
「そういえばさ。《サト活》ってあるじゃん」
「サト活?」
由香里が少し笑う。
「古市総理の?」
「そうそう。総理が使ってる手帳とかペンとか、似たの使うやつ」
「あ、それニュースで見たことある」
あいも思い出した。
総理大臣が使っているものと似た手帳。
筆記具。
バッグ。
服装や仕事の進め方まで参考にする人もいるらしい。
「政治家でそういうのって、ちょっと珍しいよね」
美咲が言う。
「でも、なんとなくわかるかも。仕事できそうだし、落ち着いてるし」
由香里は少し考えてから言った。
「ただ、《サト活》をしてるからって、その人が古市政権の政策を全部支持してるとは限らないと思うよ」
「どういうこと?」
「あの人みたいに働きたい、とか。持ち物が好き、とか。そういう憧れと、政策への支持は別でしょう?」
「ああ……」
美咲が頷く。
あいも、その違いはわかる気がした。
人として格好いいと思うこと。
その人の政策を支持すること。
似ているようで、同じではない。
「社会って、そういうのも分けて考えないといけないんだね」
あいが言うと、由香里が頷いた。
「私は、そう思う」
美咲は少し難しそうな顔をして、
「選挙って、どんどん面倒になってない?」
と言った。
「美咲ちゃん」
「いや、ちゃんと考えるけどさ」
三人で小さく笑う。
図書室なので、声は自然と控えめになる。
その空気が落ち着いたところで、由香里がノートを一枚めくった。
「それで、ここからが東京の話」
あいの視線が、そのページへ落ちる。
大きく書かれた三つの言葉。
《東京府》
《東京市》
《東京都》
「この前、三条先生が黒板に書いてたやつだね」
あいが言う。
「そう」
由香里は、まず最初の二つを指した。
「今の東京は、東京府の中に東京市がある形になってる」
「私たちの学校も、東京府東京市桜区だよね」
「うん」
あいにとっては、ずっと当たり前だった住所だ。
東京府。
東京市。
桜区。
だから今まで、その仕組みを不思議に思ったことはほとんどなかった。
「でも、昔からずっと今の形だったわけじゃないの」
由香里が続ける。
「大戦中には、東京府と東京市が統合されて、《東京都》になっていた時期がある」
「府も市もなくしたの?」
美咲が聞く。
「そう。二つをまとめて東京都にしたの」
あいはノートの文字を見た。
東京府。
東京市。
それを一つにまとめて、東京都。
「なんで統合したの?」
「当時も、東京府と東京市の役割が重なっていることが問題になっていたみたい」
由香里は説明する。
「東京市に人口や機能が集中していたし、府と市で似た行政をしている部分もあった。だから、一つにまとめた方が効率がいいという考えがあったの」
「二重行政ってやつ?」
「うん。そういう問題」
あいは頭の中で少しだけ図にしてみた。
大きな円が東京府。
その中に東京市。
同じ場所に、それぞれ違う行政の仕組みが重なっている。
「……同じ範囲に、別々の座標系が重なってるみたい」
ぽつりと言うと、美咲がこちらを見る。
「また座標?」
「だって、その方がわかりやすいんだもん」
「今日、体育でもやってたよね」
「それは関係ないよ……」
由香里がくすっと笑った。
「でも、イメージとしては悪くないかも」
「ほんと?」
「完全に同じではないけどね」
そこはやはり、由香里らしかった。
「それで、戦争が終わったあと、行政制度の見直しが行われて、東京都はなくなった」
由香里が説明を続ける。
「東京府と東京市が復活して、今の形に戻ったの」
「どうして?」
あいが聞く。
「理由は一つじゃないみたい」
由香里は少し間を置いた。
「まず、東京都という制度自体が戦時中に作られたものだったこと。戦後は、戦時体制の中で強くなった行政権限を見直す流れがあった」
「権限を分けるため?」
「それもあると思う。府と市に分ければ、一つの自治体へ権限が集中しすぎるのを避けられるから」
由香里はさらに続ける。
「それから、東京は日本の首都ではないでしょう?」
「首都は京都府」
あいが答える。
「そう。国会や内閣、中央省庁の多くは東京府にある。でも、国家としての首都は京都府」
美咲が首を傾げた。
「改めて考えると、ややこしいよね」
「うん。だから、首都でもない東京が《都》を名乗ることに違和感がある、という意見も昔からあるみたい」
東京都。
東京府。
東京市。
あいは三つの言葉を順番に見た。
「でも今、その東京都に戻そうって話が出てるんだよね?」
「そう」
由香里が頷く。
「現在の東京都化を支持する人たちは、東京府と東京市の二重行政を整理できるって言ってる」
ノートには、簡潔に項目がまとめられていた。
行政の効率化。
国際都市としてのわかりやすさ。
政府や経済の機能が集中している実態との整合。
「海外から見たら、東京が政府の中心なのに《都》じゃないのはわかりにくい、っていう意見もあるみたい」
「なるほどね」
美咲が頷く。
「じゃあ、東京都に反対してる人は?」
「権限が集中しすぎる心配。それから、戦時中にできた制度を復活させることへの抵抗感」
由香里が指を動かす。
「あと、東京は首都じゃないんだから《都》にする必要はない、という考え方。府と市を分けて地方自治を維持した方がいい、という意見もある」
「どっちが正しいの?」
美咲が聞いた。
由香里はすぐには答えなかった。
そして、ゆっくり首を横に振った。
「そこを簡単に決めない方がいいと思う」
「え?」
「行政効率を大事にする人もいる。権限の分散を大事にする人もいる。歴史を重く見る人もいる。東京の国際的な立場を考える人もいる」
由香里はノートを見ながら言う。
「どれも、何を重視するかで答えが変わるから」
あいは、その言葉を聞きながら黙っていた。
数学とは違う。
一つの問題に、一つの正解があるとは限らない。
むしろ。
同じ事実を見ても、何を大事にするかで選ぶ答えが変わる。
「……難しいね」
あいが言う。
「うん」
由香里も素直に頷いた。
「だから、私ももっと調べたいと思ってる」
「由香里でも?」
美咲が意外そうに言う。
「もちろん。歴史が好きでも、何でも知ってるわけじゃないよ」
そう言ってから、由香里はノートの最後に書いた項目を指した。
《戦時中の東京都》
《戦後の東京府・東京市復活》
《現在の東京都化議論》
「この辺、図書室なら資料がありそうでしょう?」
美咲が本棚の方を見る。
「つまり、ここから本当に調べるわけね」
「うん」
「あいは?」
「私も調べる」
あいはすぐに答えた。
選挙。
十八歳。
自分の一票。
東京府。
東京市。
東京都。
少し前までは、どれもニュースの中にある言葉だった。
けれど、自分が実際に投票するとなれば、そうも言っていられない。
それに――
あいは《東京府》という文字をもう一度見た。
ずっと住所の一部だと思っていた名前。
当たり前すぎて、考えたこともなかった名前。
それにも歴史がある。
「じゃあ、古い東京の資料を探してみようか」
由香里がノートを閉じる。
「うん」
美咲も立ち上がった。
「どうせなら、東京都だった頃の地図とか見てみたい」
「あ、それ私も見たい」
あいも席を立つ。
三人は、静かな図書室の奥に並ぶ歴史・郷土資料の本棚へ向かった。
まだこの時のあいには知らなかった。
《東京府》という名前の奥に、行政や選挙とは別の、もう一つの意味が隠れていることを。
今はただ。
自分たちが住んでいる東京について、もう少し知ってみたい。
それだけだった。
◆ 東京の古い地図
図書室の奥には、郷土史や地理に関する本がまとめられた一角があった。
三人はそこで、東京の歴史を扱った本や古い地図帳を何冊か見つけ、さっきまで使っていた机へ運んできた。
「……重い」
あいが分厚い資料集を机に置くと、どすん、と控えめな音がした。
「図書室では静かにね」
由香里が小声で言う。
「わ、わかってるよ」
「由香里、そういうところ図書委員みたい」
美咲が笑う。
「図書委員じゃないけど」
三人とも自然に声を落として笑った。
机の上には、現在の東京府を示した地図。
戦前の行政区域を示した地図。
そして、戦時中の東京都について説明した資料が並んでいる。
あいは、その中でも地図に目を引かれた。
文章を読むより、線で区切られた形の方が理解しやすい。
「これが、戦前の東京府?」
「うん」
由香里が地図を指した。
大きく描かれた東京府。
その中に、さらに太い境界線で囲まれた東京市がある。
「戦前も基本的には、東京府の中に東京市があったの」
「今と同じじゃん」
美咲が言う。
「形だけ見ればね。でも、当時は今よりずっと東京市への集中が大きかったみたい」
由香里は別の資料を開いた。
「東京府の人口の九割以上を、東京市が占めていた時期もあったんだって」
「九割以上?」
美咲が思わず声を上げ、すぐに周囲を見回した。
「……それ、ほとんど東京市じゃん」
「私も最初そう思った」
由香里が苦笑する。
あいも数字を見つめた。
九割以上。
数字にすると、確かに極端だった。
東京府という大きな枠がありながら、その中にいる人のほとんどが東京市へ集中している。
「人口だけじゃなくて、経済とか行政機能もかなり東京市に集まってたみたい」
由香里が続ける。
「それで、東京府と東京市で似たような仕事をしていたり、権限をめぐって対立したりすることもあった」
「二重行政?」
「そう」
由香里は資料の一行を指でなぞった。
「そういう府と市の対立を、当時は皮肉って《府市あわせ》って呼ぶこともあったみたい」
「府市あわせ……」
あいは小さく繰り返した。
府と市が合わない。
言葉の響きだけなら少し軽い。
けれど実際には、同じ地域に二つの行政組織が重なっているという問題だったのだろう。
あいは地図を見る。
大きな東京府の輪郭。
その内側に東京市。
――やっぱり、少し似てる。
「どうしたの、あいちゃん」
美咲が気づく。
「ううん……」
あいは地図の線を指した。
「東京府が大きな範囲で、その中に東京市があるでしょう?」
「うん」
「同じ場所に、違う座標系が重なってるみたいだなって」
美咲が一瞬黙る。
「また座標?」
「……またって言わないでよ」
「今日ずっと座標じゃん。反復横跳びまで座標にしてたし」
「それはそれ、これはこれ」
由香里が小さく笑った。
「でも、あいの考え方としてはわかりやすいかも」
「ほんと?」
「東京府という範囲と、東京市という範囲が重なって、それぞれ別の行政をしている。完全に座標と同じではないけど、構造を考えるには悪くないと思う」
あいは少し安心した。
数学で政治の答えを出したいわけではない。
ただ、自分がわかる形へ置き換えると、複雑だったものが少しだけ見えやすくなる。
それだけだった。
由香里は次の資料を開いた。
「それで、その府と市をまとめたのが、戦時中」
そこには《東京都制》という見出しがあった。
「一九四三年七月一日。東京府と東京市が廃止されて、《東京都》になった」
「今話題になってる東京都と同じ名前だね」
あいが言う。
「そう。東條英機内閣の時」
美咲の表情が少し変わった。
「あの東條英機?」
「うん」
由香里は頷く。
「戦争中の行政を一元化する流れの中で行われた制度改革だったみたい」
ページには、戦時体制。
行政の一元化。
権限の集中。
そんな言葉が並んでいた。
「東條英機って、戦後にA級戦犯として裁かれた人だよね」
美咲が声を落として言った。
「うん」
「じゃあ……戦後の人からすると、《A級戦犯の東條英機内閣が作った東京都》っていうイメージもあったってこと?」
由香里はすぐには頷かなかった。
少し考えてから答える。
「そういう受け止め方をした人はいたと思う。でも、東條英機一人が東京都を考えて作った、っていう意味ではないから、そこは分けた方がいいと思う」
「ああ、そっか」
「東京都という制度が、戦時体制の中で成立した。その時の内閣が東條英機内閣だった、というのが事実」
由香里らしい説明だった。
誰が悪い。
何が正しい。
そう簡単にまとめず、まず確認できることを分ける。
あいは、もう一度《東京都》という文字を見た。
今ニュースで聞く東京都化。
それと同じ名前なのに。
その言葉には、思っていたより長い歴史が重なっている。
「でも、戦争が終わったあとに戻したんだよね?」
あいが聞く。
「うん。戦後の行政制度の見直しで、東京都は廃止されて、東京府と東京市が復活した」
「わざわざ元に戻したんだ」
美咲が言う。
「戦時中に権限を一つへ集めた制度だったことへの反省とか、地方自治を重視する考え方とか、いくつか理由があったみたい」
由香里はページをめくった。
「それに、東京は首都じゃないでしょう?」
「首都は京都府」
あいが答える。
「そう。政府や中央省庁の多くは東京府にあるけど、国家としての首都は京都府。だから、首都でもない東京が《都》を名乗ることへの違和感もあったみたい」
美咲が腕を組んだ。
「……やっぱり複雑」
「うん」
由香里も素直に頷いた。
しばらく三人で資料を読んでいると、美咲がふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ」
「なに?」
「今も《府市あわせ》ってあるの?」
由香里が目を向ける。
「戦前は東京市に人口が集中しすぎてたから問題になったんでしょ?」
「そこが微妙なんだよね」
由香里は、自分のノートを開いた。
授業のあとで調べたらしい数字が、小さく書き足されている。
「今の東京府の中で、東京市の人口は七割くらいって言われてるの」
「七割」
あいが繰り返す。
「もちろん今でもかなり多いよ。でも、戦前みたいに九割以上というわけじゃない」
九割以上。
七割。
あいの中で、二つの数字が並んだ。
同じ東京府。
同じ東京市。
けれど、条件は変わっている。
「じゃあ、今の府市体制を解消する必要があるのかどうかは、意見が分かれそう」
あいが言うと、由香里は少し嬉しそうに頷いた。
「そう。行政効率を考えれば東京都にした方がいい、っていう人もいる」
由香里は指を一本立てる。
「東京市には今でも人口も経済も行政機能も集中してるし、府と市で重なってる仕事を整理できるかもしれない」
もう一本。
「国際都市として《東京都》の方がわかりやすい、って意見もある」
「でも反対もあるんだよね?」
「うん。府と市を一つにすると、権限が集中しすぎるんじゃないかって心配する人もいる。それに、戦時中の東京都制度を復活させるみたいで嫌だ、という人もいる」
「東京は首都じゃないのに《都》なのも変、っていう話もあったよね」
あいが言う。
「そう」
由香里は頷いた。
「それと、東京市の外にも今は府民の三割くらいが住んでる。東京市だけを見て東京府全部を決めていいのか、という考え方もあると思う」
美咲はしばらく黙っていた。
そして。
「……初めての選挙で、いきなり難しすぎない?」
机へ少しだけ突っ伏すようにして言った。
あいも苦笑する。
「私もそう思う……」
「東京都になったらさ」
美咲が顔だけ上げる。
「結局、私たちの生活って何が変わるの?」
その問いに、由香里は少し考えた。
「そこは、制度がどう変わるかによると思う」
「例えば?」
「府と市の仕事をどう分け直すのか。税金や行政サービスがどうなるのか。桜区の扱いがどうなるのか。全部、再編の内容次第」
「じゃあ、《東京都になります》だけじゃ決められないじゃん」
「私はそう思う」
美咲は天井を見上げた。
「ニュースだと《東京都か東京府か》って二択みたいに言ってるのに」
「見出しは、その方がわかりやすいからね」
由香里が言う。
「でも、本当に考えるなら、その中身を見ないと」
あいは黙って地図を見つめた。
線だけなら簡単だった。
外側に東京府。
内側に東京市。
二つを一つにする。
図形として考えれば、それだけだ。
けれど。
その線の内側には人が住んでいる。
学校がある。
駅がある。
会社がある。
暮らしがある。
数学なら、境界線を引き直せば条件は変わる。
けれど社会では、その線を動かすことで何が変わるのかまで考えなければならない。
――数字だけじゃ、決められないんだ。
あいは眼鏡を軽く押し上げた。
その時、隣に置かれた別の地理資料が目に入った。
東京府だけではなく、日本全体の行政区分が載っている。
「……そういえば」
あいはページをめくった。
「府と県って、どうして分かれてるんだろう」
美咲も横から覗き込む。
「東京府とか京都府とかあるけど、県もいっぱいあるよね」
「歴史的な経緯はいろいろあるよ」
由香里が答えた。
「地域ごとに成立の仕方も違うし、昔の行政区分がそのまま今まで続いてるわけでもないから」
「府の方が上、とかじゃないんだよね?」
「少なくとも、単純に上下関係で分かれてるわけじゃないよ」
「へえ……」
あいは日本地図を眺めた。
府。
県。
それまで住所の一部としてしか見ていなかった文字が、少し違って見える。
なぜここは府なのか。
なぜ別の場所は県なのか。
地名と行政区域は、いつから今の形になったのか。
知らないことが、いくつもある。
けれど今は、東京だけでも十分だった。
「今日は東京だけにしようよ」
美咲が言った。
「これ以上増えたら私の頭が無理」
「う、うん」
あいも笑った。
由香里も、
「府県制度まで始めると、本当に帰れなくなるかも」
と苦笑した。
三人はもう一度、古い東京の地図へ視線を戻した。
東京府。
東京市。
そして、戦時中だけ現れた東京都。
同じ土地なのに、時代によって境界も制度も名前も変わっている。
あいは、地図の線を指先で追わず、目だけでゆっくりたどった。
外側の境界。
内側の境界。
重なった二つの行政単位。
同じ場所に、違う座標系が重なっているような東京。
けれど、そのどちらか一つを消せば簡単になる――というほど、現実は単純ではないらしい。
戦前は九割以上。
今は七割ほど。
条件が違えば、考えるべきことも変わる。
「……選挙って、答え合わせないんだよね」
あいがぽつりと言った。
美咲が見る。
「急にどうしたの?」
「数学なら、最後に正解があるでしょう?」
「ああ」
「でも、これは……」
あいは地図を見た。
「同じ数字とか歴史を見ても、何を大事にするかで答えが変わるんだなって」
由香里が静かに頷いた。
「だから、自分で考えるしかないんだと思う」
「それが難しいんだけどね」
美咲が言う。
「うん……」
それでも。
さっきまでより、少しだけ東京のことがわかった気がした。
ニュースの中にあった《東京都化》。
黒板に書かれていた《東京府か、東京都か》。
その向こうには、古い地図と、人口の変化と、戦争の時代と、戦後の選択がある。
あいは開いた資料を見つめた。
《東京府》。
今までなら、住所を書く時に何気なく書いていた言葉。
けれど、その名前にも、自分の知らない歴史が重なっている。
そう思うと。
ただの二文字には、もう見えなかった。
◆ 本棚の黒霧
「戦前は九割以上で、今は七割くらい……」
あいは、開いた資料の数字をもう一度見比べた。
東京府。
東京市。
東京都。
机の上には、三人で集めた地図や郷土史の本が何冊も広がっている。
ついさっきまで、住所を書く時には何気なく使っていた《東京府》という二文字。
けれど、その後ろには人口の変化があって、制度の変化があって、戦争の時代があって、今の選挙へ続く議論がある。
「……やっぱり、簡単じゃないね」
あいが呟く。
「でしょ?」
由香里が頷いた。
美咲は椅子の背にもたれながら、
「私はもう、七割と九割で頭いっぱい」
と小さく息を吐いた。
「美咲ちゃん、まだそれしか数字出てないよ」
「あいちゃん基準で言わないで」
「そんな基準ないよ……」
三人が小さく笑う。
放課後の図書室には、変わらない静けさが流れていた。
ページをめくる音。
シャープペンが紙を走る音。
遠くで本棚から本を抜く、かすかな音。
窓から差し込む午後の光は少し傾き始め、本棚の奥には長い影が伸びている。
あいは地図を閉じようとして、ふと顔を上げた。
少し離れた棚の前に、一人の女子生徒が立っている。
特に見覚えのある顔ではなかった。
その生徒は棚から一冊の本を抜き、その場でぱらぱらとページをめくっていた。
別に珍しい光景ではない。
あいも気にせず、再び資料へ視線を戻そうとした。
その時。
ぱさり。
何かが床へ落ちた。
女子生徒も気づいたらしく、足元を見る。
「あ……」
小さな声。
彼女が拾い上げたのは、細長い栞だった。
――黒い。
あいは、なぜかそこから目を離せなかった。
黒い栞自体なら、別に珍しいものではないはずだ。
けれど。
妙に黒かった。
模様もない。
文字もない。
つやもほとんどない。
午後の光が当たっているはずなのに、その部分だけ光を吸い込んでいるように見える。
女子生徒は栞を表裏ひっくり返して眺めた。
「忘れ物かな……」
そう呟いたようだった。
それから本の間へ戻すのではなく、あとで図書室の先生へ届けるつもりなのだろう。
制服の胸ポケットへ、栞をすっと差し込んだ。
その瞬間。
あいの背筋に、冷たいものが走った。
「……え?」
女子生徒の足元。
本棚の影。
そこから、ごく薄い黒いもやが浮かび上がった。
最初は、影が揺れただけかと思った。
けれど違う。
黒霧。
何度も見てきたものだった。
「あいちゃん?」
美咲が、あいの視線を追う。
すぐに表情が変わった。
「……あれ」
「うん」
由香里も気づいた。
三人の声が、自然と低くなる。
黒霧は、床から立ち上るように女子生徒の周囲へ集まり始めていた。
けれど本人は気づかない。
周囲にいるほかの生徒も、誰一人として反応していない。
女子生徒は、何事もなかったように本のページへ視線を戻している。
――一般の人には見えてない。
あいは眼鏡の奥で目を凝らした。
今は変身していない。
マジカル・ビジョンもない。
それでも、魔法戦士になってから何度も見てきた黒霧は、はっきりとわかった。
黒いもやが。
ゆっくりと。
女子生徒の胸元へ寄っていく。
「胸……」
あいが呟く。
「ポケット?」
由香里も気づいた。
黒霧が集中している位置。
そこには、さっき入れたばかりの真っ黒な栞がある。
しかし。
――まだ決めつけちゃだめ。
あいは自分へ言い聞かせた。
栞を入れた直後に黒霧が出た。
だからといって、栞が原因だとは限らない。
偶然かもしれない。
別の何かかもしれない。
以前、図書室で倒れた生徒だって、なぜ黒霧の影響を受けたのか、結局はわかっていない。
「……少し見てよう」
由香里が静かに言った。
「うん」
美咲も頷いた。
三人は席を立たずに女子生徒を見る。
その時。
机の下。
本棚の陰から、黒い影が一つ現れた。
アムルだった。
続いて白いフルル。
少し遅れてネロリ。
三匹とも鳴き声を上げない。
ただ、じっと同じ方向を見ている。
女子生徒――
ではない。
「……胸ポケット見てる」
あいは小さく呟いた。
アムルの視線は、明らかに女子生徒の胸元へ向いていた。
フルルも耳を立てている。
いつも穏やかなネロリまで、身体を低くして警戒している。
三匹が揃って、同じ場所を見ている。
あいの中で、嫌な予感が一段強くなった。
アムルが、三人にだけ聞こえる程度の声で言った。
「……注意して」
それだけだった。
詳しい説明はしない。
周囲には一般の生徒がいる。
ここで魔法戦士や妖魔の話をするわけにはいかない。
「やっぱり、何かあるね」
美咲が囁く。
「うん。でも……」
あいは言葉を切った。
女子生徒の様子が変わったからだ。
さっきまで普通に本を読んでいたのに、ページをめくる手が止まっている。
「……あれ?」
彼女は小さく呟いた。
眉間に皺を寄せる。
そして、本棚へ片手をついた。
「大丈夫かな」
由香里が椅子から立つ。
女子生徒は目を閉じ、軽く首を振った。
立ち直ろうとしているようにも見える。
けれど。
身体がふらりと傾いた。
「あっ」
美咲が真っ先に動いた。
三人とも席を離れる。
「大丈夫?」
美咲が女子生徒の横へ回り込む。
「あ……はい……」
返事はある。
意識もしっかりしている。
けれど顔色が悪い。
「ちょっと……気持ち悪くて」
女子生徒は本棚に手をついたまま答えた。
「座った方がいいよ」
由香里が近くの椅子を引く。
「あ、すみません……」
女子生徒はゆっくり腰を下ろした。
あいも近づく。
近くで見ると、黒霧がさらに濃くなっているのがわかった。
胸元。
肩。
背中。
薄い黒いもやが身体を覆っている。
それなのに。
本人には見えていない。
少し離れた机にいる生徒たちも、こちらを一度見ただけで、また自分の本へ戻っていく。
ただの体調不良。
そう見えている。
――この前と似てる。
以前、図書室で黒霧の影響を受けた生徒。
あの時は、突然意識を失った。
今回は違う。
まだ話せる。
自分で座ることもできる。
だからこそ、今のうちに。
「保健室、行った方がいいと思う」
あいが言った。
女子生徒は少しためらった。
「でも、少し休めば……」
「めまいもあるでしょう?」
由香里が穏やかに聞く。
「……はい」
「だったら、無理しない方がいいよ」
「私たち一緒に行くから」
美咲が明るめの声で言った。
「一人で歩いて、またふらっとしたら危ないし」
「でも……先輩たちですよね?」
「気にしなくていいって」
美咲はすぐに笑った。
女子生徒は申し訳なさそうな顔をしたが、やがて小さく頷いた。
「……お願いします」
「うん」
あいはほっとした。
その間も。
アムルたちは女子生徒の胸ポケットから目を離していない。
あいは由香里と視線を合わせた。
由香里も気づいている。
美咲も、一瞬だけ胸ポケットを見る。
けれど誰も栞には触れなかった。
ここで突然、
「その栞を出して」
などと言えば不自然だ。
それに、本当に栞が原因だとも限らない。
まずは保健室へ。
鶴岡先生なら、普通の体調確認をしながら、魔法側の異変も見てくれる。
「立てそう?」
由香里が尋ねる。
「はい……たぶん」
女子生徒が椅子から立つ。
その瞬間、また身体が揺れた。
「危ない」
美咲がすぐに腕を支えた。
あいも反対側へ回る。
「ゆっくりで大丈夫だから」
「すみません……」
「謝らなくていいよ」
あいはできるだけ普通の声で答えた。
胸の奥では、緊張が強くなっていた。
黒霧は消えていない。
むしろ、女子生徒が動くたびに一緒についてくる。
まるで何かから離れないように。
――人についてる?
違う。
あいは歩き始めながら、もう一度胸元を見る。
黒霧は全身にも広がっている。
けれど、一番濃いのは胸ポケットの周囲だった。
あの栞。
偶然なのか。
それとも。
答えは出ない。
三人は図書室の先生へ、女子生徒が気分を悪くしたので保健室へ付き添うことを伝えた。
「お願いね。途中で歩けなくなりそうなら、無理しないで」
「はい」
由香里が代表して答える。
机の上には、東京の古い地図と郷土史の本を広げたままだった。
調べ物は途中。
東京都化の話も。
府県制度の話も。
まだ何も結論は出ていない。
けれど今は、それどころではない。
三人は女子生徒を支えながら図書室を出た。
アムル、フルル、ネロリも、少し距離を取ってついてくる。
ガラス張りの渡り廊下を進む。
夕方の光が床へ長く伸びていた。
外から見れば。
先輩三人が、具合の悪くなった生徒を保健室まで連れていくだけ。
それだけの光景だ。
でも、あいには見えている。
女子生徒の身体にまとわりつく、薄い黒霧。
そして。
その中でも特に濃く揺らいでいる、胸ポケットのあたり。
「もう少しだからね」
あいが声をかける。
「はい……」
女子生徒は力なく頷いた。
保健室へ着くと、鶴岡先生はすぐに立ち上がった。
「どうしたの?」
「図書室で急に気分が悪くなったみたいで」
由香里が答える。
「めまいもあるそうです」
「わかったわ。こっちへ」
鶴岡先生は慌てる様子もなく、女子生徒を椅子へ座らせた。
「少し診るからね」
「はい……」
先生はまず顔色を見る。
脈を確認する。
呼吸の様子を見る。
あい、美咲、由香里は少し後ろへ下がった。
三匹の猫も、保健室へ入っている。
そして。
やはり全員が。
女子生徒の胸ポケットを見ていた。
鶴岡先生の視線も、一瞬そこへ止まった。
「……胸ポケットに、何か入ってる?」
女子生徒が目を瞬く。
「あ……」
胸元へ手を入れる。
「あの、図書室の本に挟まってて……誰かの忘れ物だと思って」
取り出されたのは。
あの、真っ黒な栞だった。
保健室の明るい照明の下で見ても。
やはり、妙に黒い。
鶴岡先生の表情が、ごくわずかに変わった。
「それ、ちょっと見せてもらっていい?」
「はい」
先生は直接手で受け取らず、近くにあったトレーを差し出した。
女子生徒が、その上へ栞を置く。
ことり。
紙一枚のはずなのに。
あいには、その音が妙に大きく感じられた。
胸ポケットから栞が離れた途端。
女子生徒の周囲にまとわりついていた黒霧が、わずかに揺れた。
「……!」
美咲も気づいたらしい。
由香里も目を細める。
鶴岡先生は何も言わない。
ただ、栞と女子生徒を交互に見た。
「少し横になって休みましょう」
「はい……」
女子生徒はもうかなり眠そうだった。
「眠くて……」
「無理に起きてなくていいわよ」
鶴岡先生がベッドへ案内する。
女生徒が横になると、白いカーテンが静かに閉じられた。
「少し休めば楽になると思うから」
「はい……ありがとうございます……」
返事はすぐに小さくなった。
黒霧の影響なのか。
単なる疲れなのか。
それすら、まだ決めつけられない。
けれど、呼吸は続いている。
鶴岡先生はそれを確認してから、保健室の入口へ歩いた。
扉を閉める。
鍵をかける音が、小さく響いた。
あいの心臓が、少し速くなる。
先生が戻ってくる。
視線の先には、トレーの上の真っ黒な栞。
アムル。
フルル。
ネロリ。
三匹とも、完全に警戒していた。
「先生……」
あいが小さな声で呼ぶ。
鶴岡先生は栞から目を離さずに言った。
「まだ、これが何なのかはわからないわ」
それから、三人を見る。
「でも――念のため、準備して」
あいは息を呑んだ。
美咲が小さく頷く。
由香里も、カーテンの向こうにいる女子生徒の呼吸を確認するように視線を向けた。
あいは眼鏡を押し上げる。
保健室。
閉じられた扉。
白いカーテン。
その向こうで休む、何も知らない生徒。
そして。
トレーの上に置かれた、一枚の真っ黒な栞。
ほんの少し前まで。
それは、本の中に挟まっていただけのものだった。
◆ 紙と墨のような妖魔
「《ディストーション・フィールド》」
ラブが静かに唱えるのと、ほとんど同時だった。
「《アロマ・スリープヴェール》」
アロマの柔らかな声が、保健室の中に重なる。
ラブの足元から淡い光の線が広がった。
壁。
床。
天井。
ベッド。
白いカーテン。
保健室という空間の輪郭をなぞるように魔力が走り、現実の座標がわずかにずれていく。
マジカル・ビジョンの端に、境界を示す細い線が浮かんだ。
《境界形成》
《領域安定》
表示を確認しながら、ラブは息を止めないようにする。
――落ち着いて。
午前中、高瀬先生に言われたことを思い出す。
姿勢を崩さない。
息を止めない。
無理に急がない。
けれど今は、急ぐ必要があった。
白いカーテンの向こうには、さっき図書室で気分を悪くした女生徒が眠っている。
完全に意識を失っているわけではなかった。
黒霧の影響と疲労で、強い眠気に包まれている。
アロマが広げた淡い香気が、カーテンの向こうへ静かに流れていく。
女生徒を無理に眠らせるのではない。
乱れかけた呼吸と魔力を落ち着かせ、安全に休める状態を保つ。
そのための《アロマ・スリープヴェール》だった。
「呼吸、安定してる」
アロマが小さく言う。
「こっちも……大丈夫」
ラブはマジカル・ビジョンを確認した。
《ディストーション・フィールド》も安定している。
「よし」
フローラが片手剣を握り直した。
三人は、ほとんど声を張っていない。
カーテンの向こうにいる女生徒へ、余計な刺激を与えたくなかった。
そして。
保健室の一角に置かれた、あの栞。
ただ黒いだけに見える、細長い紙片。
三匹の猫――アムル、フルル、ネロリは、さっきからそこを見たまま動かなかった。
「やっぱり……あれなのかな」
ラブが呟く。
アムルの耳がわずかに動いた。
「断定はまだ早いわ。でも、警戒して」
「うん」
ラブが杖を構える。
その瞬間。
栞の表面に、黒い染みが浮かんだ。
「……え?」
最初は、一滴だった。
墨汁を落としたような、小さな黒い円。
けれど栞そのものが黒いのに、その染みだけはなぜかはっきりと見えた。
黒の中に、さらに深い黒。
染みが広がる。
じわり。
じわり。
紙の外へ。
何もない空間へ。
「来るよ」
フローラが前へ出た。
栞が、ふわりと浮いた。
風はない。
それなのに、細長い紙片が空中へ持ち上がる。
端が震えた。
次の瞬間。
びりっ。
音もなく、その端が何本にも裂けた。
「紙……?」
裂けた部分が、黒い紙片となって舞う。
けれど、普通の紙ではなかった。
紙片同士の間から、墨のような黒い帯が伸びていく。
細い線。
太い線。
曲がる線。
折れ曲がったページのような影。
それらが絡み合い、一つの不定形な輪郭を作り始める。
マジカル・ビジョンが反応した。
《敵性反応》
「妖魔……!」
ラブは杖を握る手に力を込めた。
人の形でもない。
獣の形でもない。
紙を何枚も重ねて、そこへ墨を流し込んだような姿。
細長い黒線が身体の周囲を這い、何枚もの紙片が羽のように浮かんでいる。
けれど中心には、妖魔特有の濁った揺らぎがあった。
「栞が妖魔だったの?」
フローラが聞く。
「わからない」
ラブはすぐに答えた。
「栞そのものなのか、栞から出てきたのか……まだ」
「今はそれでいいわ」
アムルの声が飛ぶ。
「コアを探して」
「うん!」
妖魔の周囲で、黒い紙片が一斉に跳ねた。
「来る!」
フローラが叫ぶ。
紙片が刃のように飛んでくる。
フローラは片手剣を振り、真正面の一枚を弾いた。
同時に、空中へ淡い桜色の光が浮かぶ。
「《チェリー・ブラッサム》!」
複数の花びら型魔法片が広がった。
黒い紙片と桜色の光がぶつかる。
ぱっと光が散り、紙片の進路が左右へ逸れた。
「ラブ!」
「うん!」
ラブはマジカル・ビジョンへ意識を集中する。
紙片。
墨の帯。
フローラ。
アロマ。
カーテンの向こうの女生徒。
そして妖魔の中心。
点。
線。
位置。
――整理して。
妖魔から、一本の墨の帯が伸びた。
マジカル・ビジョンに警告が走る。
《敵性反応・右側》
「右――」
ラブは身体を動かした。
けれど墨の帯は、追うように軌道を変える。
「ラブ、もう一回来る!」
フローラの声。
右。
中央。
左。
その瞬間、午前中の床に引かれた三本の線が頭に浮かんだ。
反復横跳び。
マイナス一。
ゼロ。
プラス一。
――攻撃の線から、自分を外す。
右へ避けたなら、次に戻る場所。
中央。
そこから逆側。
ラブは一歩戻り、そのまま左へ身体を移した。
黒い帯が、さっきまでラブの身体があった場所を横切る。
「避けた!」
フローラが言った。
「わ……」
ラブ自身が一番驚いた。
速くなったわけではない。
美咲のように反射的に動けたわけでもない。
ただ。
次にどこへ動けばいいのか、ほんの少し迷わなかった。
「ぼーっとしない!」
「う、うん!」
次の紙片が飛ぶ。
ラブは慌てて杖を構え直した。
やっぱり、急に運動が得意になったわけではない。
今度は避けるのが遅れた。
「危ない!」
アロマが手を伸ばす。
「《アロマ・ヴェール》!」
淡いラベンダー色の魔力膜が、ラブの前へ広がった。
飛んできた黒い紙片がヴェールへ触れる。
勢いを失い、黒い粒子へほどけて落ちていく。
さらに墨を霧状にしたような細かな黒い粒が広がった。
それもヴェールに触れると、動きが鈍る。
「ありがとう、アロマ!」
「大丈夫。こっちは任せて」
アロマはカーテンの方も確認している。
女生徒の呼吸を安定させながら、こちらの戦闘も支える。
その集中力に、ラブは改めてすごいと思った。
「黒霧も混ざってる」
アロマが言う。
「少し薄くするね」
両手の間に、淡い光が集まる。
「《アロマ・ピュリファイ》」
柔らかな香りとともに、浄化の魔力が広がった。
妖魔を包んでいた黒い濁りが薄くなる。
その瞬間。
マジカル・ビジョンの表示が変わった。
妖魔の中心。
いや。
中心より少し下。
最初に栞が浮かんでいたあたり。
赤い反応が、一瞬だけ点滅する。
《コア反応》
「あった……!」
「どこ?」
フローラが剣を構えたまま聞く。
「まだ動いてる」
ラブは目を凝らした。
赤い点は、紙片と墨の帯に隠れては現れる。
栞そのものがコアなのかはわからない。
けれど、あの細長い黒い部分の周囲へ反応が集中している。
「最初の栞の近く。そこにコア反応が集まってる!」
「了解!」
フローラが踏み込もうとする。
しかし妖魔が、何本もの黒線を一斉に伸ばした。
「美咲ちゃん、待って!」
「わかってる!」
フローラは無理に突っ込まない。
片手剣で一本を払い、《チェリー・ブラッサム》を横へ展開する。
桜色の魔法片が、左右から黒線へ当たった。
切断するのではなく、進路をずらす。
一本。
二本。
さらに紙片。
妖魔の動きが、少しずつ片側へ寄せられていく。
ラブには、それが線の整理のように見えた。
複雑に交差していた線が減る。
中央へ向かう道が、一瞬だけ開く。
「フローラ、今!」
「うん!」
フローラが床を蹴った。
速い。
迷いがない。
午前中の体育でもそうだった。
美咲は、自分の身体をどこへ動かすかを、いちいち考えてはいない。
見て。
感じて。
そのまま動く。
ラブにはできない動きだった。
だからこそ。
「少し右!」
ラブが叫ぶ。
フローラが身体をずらす。
飛んできた黒い紙片をかわす。
「そのまま!」
マジカル・ビジョンの赤い点が固定された。
《コア捕捉》
「見えた!」
黒い紙片の隙間。
栞だった部分のすぐそば。
小さな赤い核。
「中心より少し下! 赤い点!」
「任せて!」
フローラが一歩踏み込む。
片手剣の切っ先が、まっすぐ伸びた。
大振りではない。
最短の一突き。
剣先が、赤いコアを正確に貫く。
ぱきん。
小さな音がした。
次の瞬間。
妖魔の身体が止まった。
空中を舞っていた紙片も。
伸びていた墨の帯も。
黒い線も。
すべてが静止する。
そして。
中心から、淡い光が広がった。
「やった……?」
ラブが呟く。
黒い紙片の端から、光の粒へほどけていく。
一枚。
また一枚。
墨の帯も、細い線も、粒子となって消える。
最後まで残ったのは、あの栞のような細長い黒だった。
それも光に包まれ――
床へ、ひらりと落ちた。
妖魔の気配は消えていた。
黒霧もない。
ただ、魔力を失ったように見える真っ黒な紙片だけが残っている。
「……終わった?」
フローラが剣を下ろした。
ラブはマジカル・ビジョンを確認する。
《敵性反応なし》
「うん。反応、消えてる」
アロマも静かに息を吐いた。
「こっちも大丈夫」
カーテンへ視線を向ける。
女生徒の呼吸は穏やかなままだ。
「よかった……」
ラブは、ようやく肩の力を抜いた。
アムルが残った黒い紙片を見つめる。
「それには触らない方がいいわね」
「そうね」
鶴岡先生が静かに近づいた。
戦闘中も、先生はカーテンの向こうの女生徒と三人の動きを冷静に見守っていた。
「これは私が預かるわ」
「先生、あれって結局……」
ラブが聞きかける。
鶴岡先生は首を横に振った。
「今はまだ、わからない」
その答えに、ラブは頷いた。
普通の栞だったものが妖魔になったのか。
最初から何かが潜んでいたのか。
妖魔が栞を利用したのか。
何一つ、はっきりしていない。
ただ。
あの女生徒が栞を胸ポケットへ入れた直後、黒霧に包まれた。
そして栞を身体から離したあと、そこを中心に妖魔が形成された。
今わかっているのは、それだけだ。
「じゃあ、戻すよ」
ラブは杖を持ち直した。
「《リターン・フィールド》」
空間を包んでいた淡い境界線が消えていく。
ずれていた座標が、現実へ重なり直す。
保健室。
白い壁。
ベッド。
カーテン。
窓から差し込む放課後の光。
すべてが、何事もなかった姿へ戻っていく。
続いて三人は、小さな声を合わせた。
「《ピースフル・モーメント》」
光がほどける。
マジカル・ビジョンが消え、戦闘服が制服へ戻った。
あいは眼鏡の位置を整えた。
さっきまで妖魔と戦っていたとは思えない。
それが、少し不思議だった。
しばらくして。
白いカーテンの向こうから、小さな声が聞こえた。
「……先生?」
鶴岡先生がすぐにカーテンを開ける。
女生徒が、ゆっくり目を開けていた。
「気分はどう?」
「さっきより……大丈夫です」
「吐き気は?」
「ないです」
「立つのはまだ待って。もう少しだけ座ってからね」
鶴岡先生はいつもの養護教諭の顔で、脈や顔色を確認している。
あい、美咲、由香里も、少し離れたところから見守った。
女生徒が三人に気づいた。
「あ……」
「大丈夫?」
あいが声をかける。
「はい。あの……私……」
少し考えてから、女生徒は言った。
「図書室で、気分が悪くなって……」
「うん」
由香里が頷く。
「私たちと一緒にここまで来たの、覚えてる?」
「はい。それは……」
そこまで。
そのあとに何が起きたのか、彼女は知らない。
記憶を消したわけではない。
ただ眠っている間に、カーテンの向こうで戦闘が終わっただけだ。
女生徒は少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。迷惑かけちゃって」
「迷惑じゃないよ」
美咲がすぐに言う。
「具合悪い時はお互いさま」
「そうそう」
あいも頷いた。
「無事でよかった」
女生徒は、ほっとしたように笑った。
しばらく休んだあと、鶴岡先生がもう一度状態を確認する。
「もう大丈夫そうね。でも、帰りにまた気分が悪くなったら、無理しないこと」
「はい」
女生徒はベッドから立ち上がった。
「あの……途中まで読んでた本、図書室に置いたままなので」
「戻るの?」
美咲が聞く。
「本だけ片づけてきます。そのあと帰ります」
「無理しないでね」
由香里が言う。
「はい。ありがとうございます」
女生徒は三人へもう一度頭を下げた。
そして鶴岡先生にも礼を言い、保健室を出ていった。
扉が閉まる。
廊下を歩いていく足音が、少しずつ遠ざかっていく。
何も知らないまま。
彼女はまた、普通の放課後へ戻っていった。
あいは閉じた扉を見つめた。
図書室で本を読む。
気分が悪くなる。
保健室で少し休む。
彼女にとって今日の出来事は、それだけなのだろう。
それでいい。
むしろ。
それがいいのだと思う。
「……戻れたね」
あいが小さく言う。
美咲が頷く。
「うん」
由香里も、静かに微笑んだ。
保健室には、四人だけが残った。
あい。
美咲。
由香里。
そして、鶴岡先生。
さっきまでの戦闘が嘘だったように、部屋は静かだった。
ただ一つ。
鶴岡先生の手元には、あの真っ黒な紙片が残っている。
それを見たあいは、ふと図書室の机に広げた古い東京の地図を思い出した。
東京府。
東京市。
東京都。
そして、何本もの境界線。
今日、自分たちは知らないことを調べていた。
けれど。
まだ知らないことは、それだけではないような気がした。
◆ 東京の広域結界
保健室の扉が閉まってからも、あいはしばらくその向こうを見ていた。
先ほどまでベッドで休んでいた女子生徒は、もう図書室へ戻っていった。
本人にとっては、少し気分が悪くなって、保健室で休んだ。
それだけの出来事だ。
紙と墨のような妖魔も。
三人の変身も。
虚数空間も。
何一つ知らない。
それでいいのだと、あいは思う。
けれど。
保健室には、まだ非日常が残っていた。
鶴岡先生のそばに置かれたトレー。
その上には、妖魔が消えたあとに残った真っ黒な紙片がある。
さっきまで本の栞だったもの。
あるいは、栞のような何か。
その正体は、まだわからない。
アムル、フルル、ネロリの三匹も、少し離れた場所からそれを見つめていた。
「先生」
美咲が先に口を開いた。
「それ、どうするの?」
「預かっておくわ」
鶴岡先生は短く答えた。
「今はもう強い反応はないけど、普通の紙として捨てていいものかはわからないから」
「調べるんですか?」
あいが尋ねる。
「ええ。ただし、何かわかったとしても、すぐに答えが出るとは限らないわ」
鶴岡先生らしい言い方だった。
わからないものを、わかったふりはしない。
あいは小さく頷いた。
「栞と、あの本に関係があったのかな」
美咲が言う。
「東京の歴史の本だったし」
由香里がすぐに答える。
「それも、まだわからないよ」
「だよね」
「栞がその本に入っていたのが偶然なのか、意味があるのかもわからないし」
「うん……」
あいも、その意見に賛成だった。
東京について調べていた。
そこで真っ黒な栞が見つかった。
妖魔が現れた。
順番だけを見ると、何かがつながっているように感じる。
でも。
順番に起きたからといって、原因と結果だとは限らない。
数学なら、そこを勝手につなげたら間違いになる。
鶴岡先生は、そんな三人を見てから言った。
「ところで」
「はい?」
「あなたたち、図書室で何を調べていたの?」
三人は顔を見合わせた。
「東京のことです」
由香里が答えた。
「この前の社会科で、東京都化の話が出たので」
「ああ」
鶴岡先生は納得したように頷いた。
「東京府と東京市、それから東京都のことを調べてたんです」
あいも続けた。
「戦争中に一度東京都になって、戦後にまた東京府と東京市に戻ったこととか……」
「《府市あわせ》とか」
美咲が付け加える。
「あと、戦前は東京府の人口の九割以上が東京市に集中してた時期があったんだって」
「今は七割くらいだけどね」
由香里が補足した。
「だから、昔と今では条件が同じじゃないって話をしてたんです」
「なるほどね」
鶴岡先生は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、あいには少し気になった。
いつもの先生なら、
「選挙なんだから、ちゃんと自分で考えなさいね」
くらい言いそうなのに。
鶴岡先生は、トレーの上の黒い紙片へ一度視線を落とした。
それから。
「東京府について、そこまで調べたのなら」
ゆっくりと言った。
「あなたたちには、もう一つ知っておいてもらった方がいいかもしれないわね」
「もう一つ?」
美咲が首を傾げる。
鶴岡先生は保健室の扉を確認した。
鍵はかかっている。
カーテンの向こうにも、もう一般の生徒はいない。
それでも少しだけ声を落とす。
「これは、一般には知られていない話よ」
あいの背筋が自然に伸びた。
美咲の表情からも軽さが消える。
由香里も黙って先生を見る。
鶴岡先生は静かに言った。
「東京府には、古い広域結界があるの」
あいは瞬きをした。
一瞬。
言葉の意味が頭に入ってこなかった。
「……結界?」
ようやく、それだけ言う。
「ええ」
「東京府に?」
美咲が聞き返す。
「そうよ」
鶴岡先生は頷いた。
あいは無意識に、図書室で見ていた古い地図を思い出した。
東京府。
東京市。
境界線。
二つの行政区域。
でも。
今、先生が言ったのは行政の話ではない。
「広域って……」
あいは言葉を探した。
「学校とか神社とか、一か所を囲う結界じゃなくて……」
「もっと大きなもの」
鶴岡先生が答える。
「東京府という地域に関わる、古い魔法的な構造が存在していることは確認されているわ」
「東京府全部を囲ってるんですか?」
思わず、あいは聞いた。
頭の中に地図が浮かんでいた。
東京府の境界。
その線に沿って結界が走っているのだろうか。
けれど鶴岡先生は、すぐに首を横に振った。
「そこまで単純ではないわ」
「違うんですか?」
「今の行政区域と、結界の範囲が完全に一致しているとは限らない。それに、どういう仕組みで維持されているのかも、全部わかっているわけじゃないの」
「じゃあ……」
あいは少し考える。
「東京府っていう名前だから、結界があるわけでもない?」
鶴岡先生は、少しだけ目を細めた。
「それも、断定できない」
また。
わからない。
けれど今度の「わからない」は、何も知らないという意味ではなかった。
何かが存在することはわかっている。
ただ、その仕組みまでは解けていない。
あいは、その違いを感じた。
由香里が静かに口を開く。
「先生。その結界って……いつからあるんですか?」
「正確な起源はわかっていないわ。少なくとも、今の行政制度よりずっと古いものだと考えられている」
「東京府になる前から?」
「可能性は高いわね」
由香里は考え込んだ。
歴史が得意な由香里なら、その一言だけでもいくつもの時代を思い浮かべているのだろう。
美咲はもっと直接的だった。
「東京だけなんですか?」
「え?」
「そういう広い結界があるの」
鶴岡先生は少し考えてから答えた。
「東京だけではないわ」
三人が揃って先生を見る。
「ほかの《府》でも、似た古い魔法的構造が記録されたり、調査されたりしている地域がある」
「府……」
由香里が繰り返した。
「県じゃなくて?」
「そこも、まだ単純には言えない」
鶴岡先生はすぐに続けた。
「《府なら必ず結界がある》《県にはない》という話ではないの。地域ごとの歴史も違うし、確認されているものの性質も同じとは限らない」
「じゃあ、府と結界に何か関係があるかもしれないけど……」
あいが言う。
「どういう関係なのかは、まだわからない?」
「そういうこと」
鶴岡先生が頷いた。
あいは、図書室で何気なく開いた日本地図を思い出した。
府。
県。
なぜ違うのだろう。
そんな軽い疑問だった。
それが急に、別の意味を持ち始めている。
「……由香里」
美咲が小声で言う。
「これ、また調べること増えたんじゃない?」
由香里は少し困ったように笑った。
「増えたね」
「私、東京だけでも大変だったんだけど」
「私も……」
あいも思わず苦笑する。
ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が緩んだ。
けれど。
あいの頭には、一つの疑問が残っていた。
東京府。
東京市。
東京都。
選挙。
そして、広域結界。
「あの」
あいは先生を見る。
「じゃあ……」
口に出す前から、少し怖かった。
「今、東京都にする話がありますよね」
鶴岡先生の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
「うん」
「東京府と東京市を一つにして、東京都にしたら……」
あいは続ける。
「その結界は、どうなるんですか?」
保健室が静かになった。
美咲も。
由香里も。
答えを待っている。
鶴岡先生はすぐには話さなかった。
窓から差し込む夕方の光が、白い床に伸びている。
やがて。
先生は静かに答えた。
「わからない」
短い言葉だった。
「……わからないんですか?」
美咲が聞く。
「ええ」
「でも、結界があることはわかってるんですよね?」
「それはわかっている」
「じゃあ、行政区分を変えた時にどうなるかは?」
「そこが、わからないの」
鶴岡先生は三人を順番に見た。
「名前が変わることが影響するのか」
「行政区域の再編が影響するのか」
「都市の構造が変わることが影響するのか」
「あるいは、ほとんど影響しないのか」
一つずつ。
可能性を並べる。
「今の段階では、確定したことは言えないわ」
由香里が尋ねた。
「戦争中に東京都だった時は?」
その質問に。
鶴岡先生は、わずかに間を置いた。
「結界に異変があった、という記録や説はある」
あいの胸が小さくざわつく。
「じゃあ……」
「でも」
鶴岡先生が先に言った。
「東京都にしたから異変が起きた、と証明されているわけではない」
あいは口を閉じた。
「戦争中よ」
先生は静かに続ける。
「行政制度だけじゃなく、都市そのものも、社会も、人の暮らしも、大きく変わった時代だった。結界に影響を与えそうな要因はいくらでも考えられる」
「だから……」
由香里が言う。
「東京都化だけを原因にはできない」
「そう」
鶴岡先生が頷く。
それは、由香里が図書室で何度もしていた説明とよく似ていた。
事実。
推測。
わからないこと。
それを分ける。
あいは、少しだけ安心した。
怖い話ではある。
けれど、
《東京都にすると結界が壊れる》
と最初から答えが決まっているわけではない。
だからこそ、もっと難しいのかもしれない。
美咲が腕を組む。
「じゃあ、一般の人は結界のことを知らないまま、東京都にするかどうか考えてるってこと?」
「そうなるわね」
「それって……」
美咲は言葉に詰まった。
あいにも、その戸惑いはわかった。
一般の人たちは、
二重行政。
行政効率。
権限集中。
歴史。
首都ではない東京が《都》を名乗ること。
そういう材料で考える。
自分たちは、そこへもう一つ。
広域結界という秘密の情報を知ってしまった。
でも。
「私たちだけ、違う条件で選挙を考えることになるんですね」
あいが言う。
「そうかもしれない」
鶴岡先生は答えた。
「でも、だからといって、魔法の話だけで政治を決めていいわけでもない」
「……はい」
あいは頷いた。
それもわかる気がした。
東京都化が結界へ影響するかもしれない。
でも、影響しないかもしれない。
一方で、行政制度は普通に暮らす何百万人もの人に関わる。
どちらか一つだけを見ればいい話ではない。
「難しすぎる……」
美咲がぽつりと言った。
今度は誰も笑わなかった。
本当に、その通りだったからだ。
あいは、図書室の古い地図を思い出す。
東京府の境界線。
東京市の境界線。
同じ場所に重なる二つの行政単位。
そこへ今度は。
目には見えない、もう一つの線が加わった。
広域結界。
それがどこを通っているのか。
何を守っているのか。
なぜそこにあるのか。
まだ何も知らない。
――座標にしたら、どうなるんだろう。
そんな考えが、一瞬だけ浮かんだ。
けれど、あいはすぐに打ち消した。
まだ早い。
数学で整理する前に、知らないことが多すぎる。
「先生」
あいは聞いた。
「これって……私たちが知っていいことなんですか?」
鶴岡先生は少しだけ笑った。
「もう、あなたたちは魔法戦士でしょう」
「あ……」
「全部を教えるわけにはいかない。でも、自分たちが活動している土地に、そういうものがあるということくらいは知っておいた方がいい」
そこで先生の表情が少し真面目になる。
「ただし、もちろん秘密よ」
「はい」
三人の返事が重なった。
鶴岡先生が、トレーに残る真っ黒な紙片へ視線を戻す。
「それと、今日の妖魔が東京府の結界と関係していたかどうかも、今はわからないから」
「そこも、決めつけちゃだめなんですね」
由香里が言う。
「そう」
あいも頷いた。
わからないことを、勝手につなげない。
それは数学でも。
歴史でも。
魔法でも。
同じなのかもしれない。
保健室の外から、部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえてきた。
いつもの学校。
いつもの放課後。
その学校がある場所は、
東京府東京市桜区。
今朝までなら、それはただの住所だった。
昼には、選挙で考える行政制度になった。
放課後には、戦争と戦後の歴史を持つ名前になった。
そして今。
そのさらに奥に。
一般の人が知らない、古い広域結界がある。
あいは、自分が住んでいる東京という場所が、急に何層にも重なって見えるような気がした。
一つの地図では足りない。
一つの座標だけでも足りない。
知らないことが。
まだ、たくさんある。
けれど今日は。
そのうちの一つだけ。
確かに知った。
東京府には。
目には見えない、古い結界がある。
◆ 名前の向こう側
保健室を出ると、廊下にはいつもの放課後が戻っていた。
部活動へ向かう生徒たちの声。
階段を下りていく足音。
教室の方から聞こえてくる、椅子を動かす音。
窓から差し込む夕方の光が、床の上を長く伸びている。
ほんの少し前まで、この場所のすぐ近くで妖魔と戦っていたなんて、誰も知らない。
そして。
この学校が建っている東京府に、古い広域結界があることも。
「あいちゃん?」
少し前を歩いていた美咲が振り返った。
「どうしたの?」
「ううん……」
あいは歩きながら、眼鏡の位置を直した。
「ちょっと、考えてただけ」
「東京の結界?」
由香里が聞く。
「うん」
三人は並んで歩き始めた。
図書室へ戻れば、机の上には途中まで読んでいた本や古い地図が残っている。
それを片づけなければならない。
いつもの放課後なら、それだけのことだった。
でも今は。
あいの頭の中に、同じ言葉が何度も浮かんでいた。
――東京府。
朝までなら。
それはただ、自分の住所に書く言葉だった。
東京府東京市。
その先に区や町名が続く。
書類にも書く。
学校の所在地にも書かれている。
特別な意味など考えたこともなかった。
ただ、自分が住んでいる場所を示すための名前。
それだけだった。
けれど。
社会科の授業で、その言葉が少し変わった。
東京府。
東京市。
東京都。
今度の選挙。
府と市を分けたままにするのか。
もう一度まとめて東京都にするのか。
行政効率。
権限の集中。
戦争中に成立した制度。
東京が首都ではないこと。
歴史。
政治。
人によって違う考え方。
東京府という言葉は、ただの住所ではなくなった。
自分も十八歳になり、投票する側になった。
自分で考えなければいけない問題になった。
そして今日。
さらにもう一つ。
その下に、今まで知らなかったものが重なった。
広域結界。
「……なんか変な感じ」
あいがぽつりと言った。
「何が?」
美咲が聞く。
「東京府って、ずっと同じ言葉なのに」
あいは少し考えてから続けた。
「今日だけで、何回も意味が変わったみたい」
由香里が静かに聞いている。
「最初は住所だったでしょう?」
「うん」
「それから選挙の話になって。歴史の話になって」
あいは足元へ目を落とす。
「今は……結界まである」
美咲が少し笑った。
「確かに盛りすぎだよね、東京府」
「美咲」
由香里が苦笑する。
「だってさ。普通、住所に結界が付いてるなんて思わないじゃん」
「それはそうだけど」
あいも思わず笑った。
でも。
笑ったあとにも、胸の奥の不思議な感覚は残った。
図書室へ戻る。
机の上には、出かける前と同じように本が置かれていた。
古い東京の地図。
東京都制について書かれた資料。
現在の東京府と東京市を説明した本。
まるで何も起こらなかったように。
三人は静かに席へ戻った。
「片づけようか」
由香里が言う。
「うん」
本を一冊ずつ閉じていく。
あいは最後に、古い東京の地図を見た。
紙の上には、境界線が引かれている。
東京府。
東京市。
時代によって変わった区域。
人が決めた線。
――でも。
あいは、鶴岡先生の言葉を思い出す。
今の行政区域と、結界の範囲が完全に一致するとは限らない。
つまり。
この地図には、描かれていない線がある。
目には見えない。
一般の地図にも載らない。
それでも存在しているらしい線。
広域結界。
あいは指で地図をなぞろうとして、途中でやめた。
どこにあるのかわからないものを、勝手に線として引くことはできない。
「……わからないな」
「何が?」
由香里が尋ねる。
あいは地図を見たまま答えた。
「どうして東京府なんだろう」
「どうして?」
「うん」
あいは顔を上げた。
「先生、ほかの《府》にも似たものがあるって言ってたでしょう?」
「そうね」
「だったら……」
少し間を置く。
「どうして《府》と《県》があるんだろう」
由香里も答えなかった。
今までなら、歴史上の行政制度として説明してくれただろう。
でも。
今は、それだけでは足りないことを三人とも知っている。
美咲が言った。
「府だから結界ができたのか、結界があるから府になったのか、ってこと?」
「……たぶん」
あいは頷いた。
「それとも、全然違う理由なのかもしれない」
由香里が続ける。
「鶴岡先生も、そこはまだわからないって言ってたし」
「うん」
わからない。
今日、何度その言葉を聞いただろう。
でも。
不思議と、嫌ではなかった。
以前なら、わからないことは不安だった。
数学の問題なら、わからなければ答えへたどり着けない。
けれど。
魔法のこと。
妖魔のこと。
ミレニアム王国のこと。
そして東京府。
この世界には、まだ答えが出ていないものがたくさんある。
それを知ること自体が、少しずつ当たり前になってきていた。
「戦争中に東京都だった時、結界が乱れたっていう話も……」
美咲が言う。
「結局、理由はわからないんだよね」
「うん」
由香里が頷く。
「東京都になったことが原因かもしれないし、違うかもしれない」
「あの時代には、ほかにもいろんなことがあったんだもんね」
あいも言う。
都市の変化。
戦争。
人の暮らし。
妖魔。
そして、まだ知らない魔法側の出来事。
どれか一つだけを取り出して、
これが原因だ、
と言うことはできない。
「じゃあ、選挙どうする?」
美咲が突然言った。
「え?」
あいと由香里が同時に見る。
「だって東京都化の話、選挙の争点なんでしょ?」
「そうだけど……」
「結界のこと知っちゃったじゃん」
美咲は少し困った顔をする。
「余計難しくなってない?」
「……なってる」
あいは素直に答えた。
由香里も苦笑した。
「簡単にはなってないね」
「だよねえ」
美咲が肩を落とす。
あいは少し考えてから言った。
「でも……知らなかった時よりはいいと思う」
「そう?」
「うん」
答えは出ていない。
けれど。
知らないまま決めるのと。
知らないことがあると知った上で考えるのは。
たぶん違う。
「東京都にしたら絶対危ない、ってことでもないし」
あいは続けた。
「絶対大丈夫ってことでもない」
「そうね」
由香里が頷く。
「だから、今わかっていることと、わからないことを分けて考えるしかないと思う」
その言葉に、あいは少し笑った。
やっぱり由香里らしい。
「また調べる?」
美咲が聞く。
由香里が答えるより先に。
あいは地図を見た。
府。
県。
東京。
京都。
大和。
まだ自分が知らない地名。
知らない歴史。
知らない境界。
「……調べたい」
自然に、そう答えていた。
「お」
美咲が笑う。
「あいちゃん、社会に目覚めた?」
「そういうんじゃないよ」
「でも前より興味出てるじゃん」
「それは……そうかも」
否定できなかった。
数学ほど得意にはならないと思う。
歴史の年号を全部覚えたいわけでもない。
政治の専門家になりたいわけでもない。
でも。
自分の住んでいる場所のことくらい。
少しは知りたいと思った。
魔法戦士だから、というだけではない。
ここで生きている一人として。
「じゃあ次は府県制度だね」
由香里が言う。
美咲の顔が引きつった。
「ほんとにやるの?」
「美咲が聞いたんでしょう?」
「いや、そうだけど……」
「大丈夫。今日はやらないよ」
「よかった……」
美咲が本気で安心したので、二人とも笑った。
あいも笑いながら、本を閉じた。
今日の調べ物は、ここまで。
答えは出なかった。
東京都にするべきなのか。
東京府と東京市のままがいいのか。
広域結界に何が影響するのか。
なぜ《府》なのか。
なぜ《県》なのか。
なぜ戦時中の東京都時代に、結界が乱れたと言われているのか。
何一つ、まだわからない。
それでも。
朝のあいとは少し違う。
朝なら。
《東京府》
という文字を見ても。
住所。
それだけだった。
今は違う。
その一文字の向こう側に。
歴史がある。
政治がある。
選挙がある。
人々の暮らしがある。
そして。
誰にも知られていない、魔法の歴史がある。
あいは最後に、地図の上の《東京府》という文字を見つめた。
《府》。
たった一文字。
でも。
その向こうには。
自分の知らない世界が、まだずっと続いている。
あいは静かに本を閉じた。
◆人物紹介
【古市里美 (ふるいち さとみ)】
日本国の内閣総理大臣。
さくら義塾女子大学の卒業生で、大蔵大臣の高山瑞希、内務大臣の小田美紀とともに、新聞やテレビなどでは「さくら三姉妹」と呼ばれている。
現在の政権を率いる女性総理として高い注目を集めており、今回の衆参同日選挙も、報道では「古市政権選択選挙」と表現されることがある。
また、政治家としてだけではなく、働く女性の一人として憧れを集める存在でもある。
最近では、古市里美が公の場で使っている手帳や筆記具、バッグなどと同じものや、似た雰囲気のものを選んだり、服装や仕事のスタイルを参考にしたりすることが「サト活」と呼ばれ、一種の社会現象になっている。
ただし、「サト活」に関心を持つことと、古市政権の政策を支持することは必ずしも同じではない。
妖魔、黒霧、魔法戦士、妖護隊に関する最高機密を知る政府中枢の一人でもあり、妖護隊の運営や関係省庁の連携について、内閣として最終的な承認を行う立場にある。
【高山瑞希 (たかやま みずき)】
日本国の大蔵大臣。
古市里美、小田美紀と同じく、さくら義塾女子大学の卒業生。
人が同時期に政権中枢を担っていることから、新聞やテレビなどでは「さくら三姉妹」の一人と呼ばれている。
国家予算や財政を担当する立場から古市政権を支えており、妖護隊を維持するための機密予算についても把握している。
妖護隊の現場活動や魔法戦士を直接指揮する立場ではなく、財政面と限定的な監査を通して、秘密組織の活動を支える政府中枢の一人。
古市里美、小田美紀とは同じ大学の出身だが、「さくら三姉妹」はあくまで報道上の通称であり、三人は実の姉妹ではない。
【小田美紀 (おだ みき)】
日本国の内務大臣。
古市里美、高山瑞希と同じく、さくら義塾女子大学の卒業生。
新聞やテレビなどでは「さくら三姉妹」の一人と呼ばれている。
地方行政や国内危機管理を担当する内務省の責任者であり、妖魔・黒霧事件への国内対応や秘密保持、関係省庁・自治体との調整について報告を受ける立場にある。
魔法戦士を保護・支援する非公開組織《妖護隊》が内務省の所管下にあるため、妖護隊の存在と活動内容を知る政府中枢の一人でもある。
ただし、個々の妖魔事件や魔法戦士の戦闘を直接指揮するのではなく、内務省と妖護隊の行政上の責任を担う立場。
古市里美、高山瑞希とは同じ大学の卒業生だが、「さくら三姉妹」は正式な政治グループ名ではなく、三人の政策や考え方がすべて同じという意味でもない。
読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、体育の授業から始まり、放課後の図書室での調べ物、そして保健室での妖魔との戦いへとつながるお話でした。
更衣室で体育着に着替えること。
ランニングをすること。
反復横跳びで左右へ身体を動かすこと。
どれも、ごく普通の学校生活の一場面です。
けれど魔法戦士として戦うようになった今、あい達には、それまでとは少し違って見えるようになりました。
魔法戦士に必要なのは、魔法だけではありません。
体力。
呼吸。
姿勢。
周囲を見ること。
そして、自分の身体をどう動かすのか。
特にあいは、体育が得意になったわけではありません。
それでも、自分なりに「右・中央・左」と位置を整理することで、妖魔の攻撃を避ける最初の一歩につなげることができました。
苦手なことでも、自分に合った理解の仕方を見つければ、少しずつ前へ進める。
今回は、そんな小さな成長も描いています。
放課後の図書室では、選挙と東京の歴史について三人で調べました。
十八歳になったあい達にとって、選挙はもう遠い世界の出来事ではありません。
東京府と東京市。
戦時中の東京都。
そして、現在議論されている東京都化。
どちらが正しいのか、簡単に答えが出る問題ではありません。
さらに、真っ黒な栞をきっかけに現れた妖魔との戦いを経て、三人は鶴岡先生から初めて、
「東京府には、古い広域結界がある」
という秘密を知らされます。
ただし、東京都化すれば結界が壊れるのか。
なぜ《府》と結界に関係があるように見えるのか。
戦時中の東京都時代に起きたとされる結界の異変と、行政制度の変更に本当に因果関係があるのか。
その答えは、まだわかりません。
あい達が今回知ったのは、答えではなく、
「自分たちが暮らしている場所には、まだ知らない歴史や仕組みが重なっている」
ということでした。
これまで住所の一部でしかなかった《東京府》という言葉。
その一文字の向こう側に、政治があり、歴史があり、そして魔法の秘密がある。
第十二話は、そんな世界の広がりを描く回になりました。
なお、本作はフィクションです。
登場する人物・団体・行政制度・歴史設定・政治制度・魔法設定などは、現実の事象を参考にしている部分があっても、作品独自の架空設定として描いています。
感想や気になったシーン、
「この三人で、こんな授業回が見たい!」
「この設定をもっと知りたい!」
などありましたら、お気軽にお寄せください。
次回も、読んでいただけたら嬉しいです。




