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美少女魔法戦士マジカルラブ  作者: 宮本あい
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11/16

少し慣れた朝、歩道橋下の花妖魔

朝の光を浴びて目を覚まし、いつもの制服に袖を通す。


短くなったスカートにも、階段や風にも、日常のちょっとした動作にも。

あいは、以前より少しだけ落ち着いて向き合えるようになっていました。


魔法戦士になったこと。

美咲、由香里と三人で戦うこと。

そして、普通の高校生として学校へ通うこと。


最初は戸惑うばかりだったものが、少しずつ「あたりまえ」の日常へ混ざり始めています。


けれど――慣れてきたからといって、何も起こらなくなるわけではありません。


いつもの通学路。

瑞穂台駅へ向かう歩道橋の下で、再び集まり始める黒い霧。


そこから現れたのは、これまでとは少し違う、花のような姿をした妖魔でした。


少しだけ慣れてきた三人の朝。

その先で、また新しい出来事が動き始めます。


◆ 少し慣れた朝


カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が、部屋の床に細長い帯を作っていた。

宮本あいは、鳴り始めた目覚まし時計に手を伸ばした。

「……ん……」

音を止め、そのまま数秒だけ天井を見つめる。

朝だった。

窓の向こうからは、遠くを走る車の音がかすかに聞こえてくる。どこかの部屋で扉が閉まる音もした。

いつもの朝。

学校へ行く日の、いつもの音だ。

「……起きないと」

あいは眼鏡をかけ、ゆっくりと身体を起こした。

少し前までなら、目を覚ました直後から考えていたことがある。

魔法戦士になったこと。

妖魔のこと。

変身した時の戦闘服のこと。

今日また何か起きたらどうしよう、ということ。

もちろん、今だって忘れたわけではない。

妖魔はいる。

黒霧もある。

自分はマジカル・ラブで、美咲はマジカル・フローラ。そして由香里はマジカル・アロマだ。

それはもう、夢でも勘違いでもなかった。

けれど、そのことを朝からずっと考え続けるわけでもなくなっていた。

「今日は……何の授業あったっけ」

そんな、ごく普通のことを考えながら、あいはベッドを降りた。

クローゼットを開ける。

そこには、さくら女子の夏服が整えて掛けてあった。

白い半袖ブラウス。

薄手の紺色のブレザー。

ピンク色のリボンタイ。

そして、緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。

あいの視線が、そこで止まる。

「……」

今では見慣れてきた――と言ってしまうには、まだ少し早い。

膝上十五センチ程度。

自分でそうなるよう調整しているスカートだった。

初めてこの丈で学校へ行こうとした朝のことを思い出す。

鏡の前で何度も丈を確かめた。

たった一センチを短くするだけなのに、ずいぶん長い時間迷った。

マンションを出てからも、人とすれ違うたびに裾が気になった。

歩道橋では、美咲に見つかっただけで顔が熱くなった。

今思い返すと、少しだけ懐かしい。

――少しだけ、だけれど。

あいはスカートを手に取った。

「……まだ、短いなあ」

小さく呟く。

何日着ても、短いものは短い。

そこだけは変わらなかった。

けれど以前のように、

――こんな格好で外に出るなんて無理。

とまでは思わなくなっている。

着替えを済ませ、姿見の前に立つ。

ブラウスの襟を整える。

リボンの位置を確認する。

ブレザーの前を軽く整える。

最後に、やはりスカートへ目がいった。

緑と紺のチェック柄。

膝よりずっと上にある裾。

「……うん」

あいは一度だけ、裾を軽く整えた。

鏡の中の自分も同じ動きをする。

黒髪のツインテール。

眼鏡。

いつもの制服。

ただし、スカートだけは以前よりずっと短い。

それでも最近では、その姿全部を含めて「学校へ行く自分」として見られるようになってきていた。

「……前よりは、大丈夫」

声に出してみる。

少し恥ずかしい。

でも、本当にそう思った。

恥ずかしくなくなったわけではない。

階段では今でも少し気をつけるし、風が吹けば反射的に裾へ手が動く。

何かを落とした時だって、美咲のように自然に拾える自信はまだなかった。

けれど、それでいいのかもしれない。

いきなり全部できるようになる必要はない。

あいは鏡の前で、そっと背筋を伸ばした。

以前、アムルにも言われたことだった。

裾ばかり気にして動きを固くするより、姿勢を整えて、落ち着いて動く。

変身した時も同じだ。

戦闘服が気になっても、怖くても、まず周囲を見る。

考える。

できることを一つずつやる。

今では、美咲もいる。

由香里もいる。

自分一人で何もかも背負う必要はない。

(もし今日、何かあっても……)

そこまで考えて、あいは鏡の中の自分を見つめた。

妖魔が出ないことが一番いい。

黒霧だって、現れない方がいい。

魔法戦士だからといって、事件を望んでいるわけではない。

普通に学校へ行って。

授業を受けて。

美咲や由香里と話して。

できれば放課後まで何事もなく過ごしたい。

それでも――何か起きたなら。

「……三人で、ちゃんと考えればいいよね」

自然とそんな言葉が出た。

以前なら、「私がちゃんとしなきゃ」と考えていたかもしれない。

でも今は違う。

フローラには、あいにはできない動きができる。

アロマには、人や仲間を支える力がある。

そして自分には、自分なりにできることがある。

全部一人でできなくてもいい。

三人なら、それぞれができることをすればいい。

そう考えると、胸の奥にあった小さな緊張が、少しだけ軽くなった。

「よし……」

あいは鞄を持ち上げた。

もう一度だけ鏡を見る。

スカートの裾へ目がいく。

ほんの一瞬、頬が熱くなる。

それでも、今度は裾を引っぱって隠そうとはしなかった。

代わりに、制服全体がきちんと整っていることを確かめる。

「今日も、ちゃんと学校に行こう」

特別な決意ではない。

魔法戦士としての誓いでもない。

ただ学校へ行くための、ごく普通の言葉だった。

それが今のあいには、少し嬉しかった。

部屋の扉へ向かい、ドアノブに手をかける。

魔法戦士になっても、朝は来る。

制服に着替えて、鞄を持って、学校へ行く。

そんな当たり前のことを続けながら。

宮本あいは、少しずつ――本当に少しずつ、新しくなった自分の日常に慣れ始めていた。


◆ 玄関の母


鞄を肩にかけて部屋を出ると、家の中には朝の静かな空気が残っていた。

父の姿は、もうない。

玄関に置いてある仕事用の靴もなくなっている。

(お父さん、今日も早かったんだ……)

仕事が忙しい父は、あいが起きるより先に家を出ていることも珍しくなかった。

あいは玄関へ降りると、通学用の靴を履くために腰を落とした。

以前よりは慣れてきたとはいえ、短めのスカートでこうした動作をするときには、まだ少しだけ意識する。

膝をそろえて。

慌てずに。

そう思いながら片方の靴へ足を入れたところで、背後から声がした。

「今日は、少し慣れた顔をしてるわね」

「え?」

振り返ると、母の郁子が立っていた。

いつもの穏やかな笑顔だった。

「な、何が?」

聞き返しながら、あいにはなんとなく答えがわかっていた。

郁子の視線が、制服姿のあいを上から下へゆっくり確認する。

白いブラウス。

ピンク色のリボン。

薄手の紺色のブレザー。

そして――緑と紺のチェック柄の、短く整えたスカート。

視線がそこへ届いた瞬間、あいは反射的に膝をそろえた。

郁子がくすりと笑う。

「ほら、それ」

「……それ?」

「前は、お母さんがちょっと見ただけで、すぐ裾を押さえてたでしょう?」

「う……」

言われて、あいは返事に困った。

確かにそうだった。

初めてこの丈で登校した時など、母に見られただけで、何か悪いことをしているような気持ちになっていた。

今も恥ずかしくないわけではない。

郁子に見られているとわかると、やっぱり少し頬が熱くなる。

けれど――。

あいは自分のスカートをちらりと見下ろした。

慌てて裾を引っぱってはいない。

「……そう見える?」

「うん。前よりずっと自然」

「そ、そうかな……」

「そうよ」

郁子は当たり前のことのように答えた。

その言い方が、あいには少し嬉しかった。

褒められるようなことなのかはよくわからない。

それでも、自分ではほとんど気づかなかった変化を、母はちゃんと見ていたらしい。

「でもね」

郁子の声が少しだけ真面目になる。

あいは顔を上げた。

「慣れてきた時の方が油断するから、階段と風には気をつけなさい」

「……うん」

「短いのが悪いって言ってるんじゃないのよ。自分で選んで着てるなら、自分で気をつけるところも覚えないとね」

「うん。わかってる」

そう答えてから、あいは少しだけ考える。

本当は、ただおしゃれのために短くしたわけではない。

魔法戦士の戦闘服に慣れるため。

戦っている時、恥ずかしさに気を取られて動けなくならないため。

そんな理由を、母は知らない。

言うこともできない。

それでも――。

「ちゃんと気をつけるね」

今度はさっきより、はっきり答えた。

郁子は満足そうにうなずく。

「それならよし」

あいはもう片方の靴を履き、立ち上がった。

鞄の位置を直す。

玄関の鏡へ一瞬だけ自分の姿が映った。

やっぱり短い。

でも、さっき自分の部屋で鏡を見た時と同じように、今度も必要以上に裾へ手を伸ばすことはなかった。

「じゃあ、行ってきます」

「はい」

あいが玄関の扉へ手を伸ばした、その時だった。

背中に、ぽん、と軽い感触がした。

振り返る。

郁子の手だった。

「いってらっしゃい。がんばってね」

「……うん」

何を頑張るのか。

郁子は、きっと普通に学校のことを言っている。

授業だったり、勉強だったり、友だちとのことだったり。

魔法戦士として妖魔と戦うことなど、知るはずもない。

それなのに。

「行ってきます、お母さん」

もう一度そう言うと、さっきより少しだけ声が明るくなった。

扉を開ける。

廊下から朝の空気が流れ込んできた。

家の中にある安心感を背中に残しながら、あいは一歩、外へ踏み出した。


◆ 歩道橋のハンカチ


マンションを出て、瑞穂台駅へ向かう。

朝の空気はまだ少しだけ涼しく、歩道には通勤途中の人や制服姿の学生が増え始めていた。

あいは鞄を肩に掛け直しながら、いつもの歩道橋へ向かう。

階段が近づくと、どうしても少しだけ足元を意識した。

母に言われたばかりだ。

階段と風には気をつけること。

「……うん」

誰に言うでもなく、小さく呟く。

慌てない。

背筋を伸ばす。

普通に歩く。

頭の中で確認しながら階段を上っていく。

以前よりは、ずっと楽だった。

周囲に人がいても、必要以上に一人ひとりの視線を気にすることは少なくなった。

もちろん、まったく気にならないわけではない。

風が吹けば、やはり裾へ意識が向く。

後ろから足音が近づけば、一瞬だけ姿勢を確かめたくなる。

それでも、足を止めてしまうほどではない。

階段を上りきったところで、聞き慣れた声が飛んできた。

「あいちゃーん!」

顔を上げる。

少し先で、美咲が手を振っていた。

「おはよう、美咲ちゃん」

「おはよ!」

ショートヘアを揺らしながら、美咲が駆け寄ってくる。

いつもの夏服。

いつもの明るい笑顔。

そして、美咲のスカート丈も、あいと同じくらい短い。

けれど美咲は、そんなことを特に気にした様子もなく立っている。

「あいちゃん、今日ちょっと早い?」

「そうかな。いつもと同じくらいだと思うけど」

「じゃあ私が遅かったのかも」

「それなら急いだ方がいいんじゃ……」

「大丈夫だって。電車一本くらいならまだ余裕あるし」

「その考え方、ちょっと危ないと思う」

「あいちゃん、朝から真面目だなあ」

美咲が笑う。

あいも、つられて少しだけ笑った。

以前なら、美咲と会った瞬間に自分のスカート丈を気にしていた。

今日は違った。

美咲も、あいの制服を見て特に何も言わない。

もう「短いスカートで来たあい」が、特別ではなくなってきているのだ。

それが少し嬉しい。

二人は並んで歩き始めた。

「そういえばさ、宿題やった?」

美咲が何気なく聞く。

「数学?」

「数学も」

「……も?」

「英語も」

「美咲ちゃん」

「その顔やめてよ」

「昨日やるって言ってなかった?」

「言った気はする」

「じゃあ、やってないんだ」

「全部じゃないだけ」

「どのくらい?」

「……半分?」

「それ、たぶん半分もやってない時の言い方だよね」

「さすがあいちゃん。鋭い」

「褒めてないよ」

二人で話しながら歩道橋を進む。

朝の駅へ向かう人の流れは途切れない。

スーツ姿の会社員。

学生服の生徒。

買い物袋を持った女性。

そんな人たちの間を、美咲はいつも通りの歩調で進んでいく。

あいも、その横でできるだけ自然に歩こうとしていた。

「そういえば」

あいは鞄の外ポケットへ手を伸ばした。

「今日、予備のハンカチ入れたっけ……」

「朝から確認?」

「忘れてたら困るから」

「真面目だなあ」

「美咲ちゃんが気にしなさすぎなんだよ」

そう言いながら、あいがポケットを探った、その時だった。

白いものが指先から滑った。

「あ」

小さなハンカチが、足元へ落ちる。

風に押されるように一度だけ転がり、少し前で止まった。

あいの足も止まった。

ハンカチを見る。

次に、周囲を見る。

人がいる。

かなりいる。

けれど。

(……自分で拾わないと)

以前、美咲が見せてくれた動きを思い出す。

膝をそろえる。

身体をゆっくり落とす。

片手でスカートの前を押さえる。

もう片方の手で拾う。

頭の中では完璧だった。

「よし……」

あいは小さく息を吸った。

まず、膝をそろえる。

次に――。

「あれ……」

鞄が肩からずれた。

「わっ」

慌てて肩を上げる。

すると今度は、腰を落としかけていた動きが止まる。

片手で鞄を戻そうとしながら、もう片方の手をスカートへ持っていこうとして――。

「ちょ、あいちゃん、待って待って!」

美咲の声が飛んだ。

「え?」

「慌てないで!」

「う、うん」

美咲が反射的に手を伸ばしかけた。

けれど、その手は途中で止まった。

ハンカチを代わりに拾うこともできる。

たぶん、その方がずっと早い。

それでも美咲は、少しだけ考えたようにあいを見る。

「膝そろえて。そうそう」

「うん」

「鞄は一回ちゃんと肩に戻して」

「う、うん」

「それからゆっくり」

美咲の声に従い、あいは一度姿勢を戻した。

鞄を肩へ掛け直す。

もう一度、足元を見る。

(今度こそ……)

膝をそろえる。

片手をスカートの前へ。

ゆっくり身体を落とす。

ところが。

「……あ」

今度は、押さえる手に意識を向けすぎて、腰を落とす動きが妙にぎこちなくなった。

まるで体育の授業で、見本通りに身体を動かそうとして失敗しているような感覚だった。

「そうそう……いや、ちょっと待って、そんなに固くならなくていいから」

美咲の声が、さっきより少しだけ焦っている。

「あいちゃん、見てるこっちが怖いんだけど」

「だ、だって……ちゃんとしようとすると……」

「考えすぎ!」

「でも……」

「ゆっくりでいいから!」

美咲の方が明らかに緊張していた。

その表情を見て、あいはますます焦りそうになる。

(落ち着いて……)

深呼吸。

まず膝。

次に手。

それから身体。

一つずつ。

ようやく指先がハンカチへ届く。

「……取れた」

「よし!」

なぜか美咲が小さくガッツポーズをした。

あいはハンカチを握ったまま、ゆっくり立ち上がる。

立ち上がった瞬間、顔が一気に熱くなった。

「……全然自然じゃなかった」

「うん」

「即答しないでよ……」

「だって、見てるこっちは結構ひやひやしたし」

「そんなに?」

「途中で私が拾った方が早いかなって三回くらい思った」

「三回も……」

あいはがっくり肩を落とした。

美咲は笑いながらも、すぐに続ける。

「でも、自分でできたじゃん」

「……できたって言っていいのかな」

「いいんじゃない?」

「ぎこちなかったよ」

「そりゃ最初から私みたいには無理だって」

「美咲ちゃんは、本当に自然だったもんね」

「慣れてるだけだよ」

美咲はそう言って、あいの手にあるハンカチを指さした。

「ほら。ちゃんと拾えてる」

「……うん」

「だったら成功」

その言い方が、美咲らしかった。

あいはハンカチを鞄のポケットへ、今度は奥までしっかり入れる。

「次は、もう少し自然にできるかな」

「できるできる」

「今、すごく適当に言ったよね?」

「ばれた?」

「もう……」

二人は顔を見合わせて笑った。

あいはもう一度だけ、さっきの動きを頭の中で振り返る。

膝をそろえる。

慌てない。

片手で押さえる。

ゆっくり拾う。

頭でわかっていることと、実際に身体を動かすことは違う。

数学の問題なら、手順がわかれば解ける。

でも身体の動きは、そう簡単にはいかないらしい。

(……こういうのも、練習なのかな)

そう考えると、少しだけ気持ちが楽になった。

完璧ではない。

まだ、美咲のようにはできない。

それでも今日は、自分で拾えた。

以前より一つだけ、自分でできることが増えた。

「あいちゃん、行こ。ほんとに電車危なくなるよ」

「あ、美咲ちゃんが宿題の話をしてたからでしょ」

「え、私のせい?」

「半分くらいは」

「半分って便利な言葉だなあ」

美咲が笑いながら歩き出す。

あいも、その隣へ並んだ。

歩道橋の上を、朝の風が通り抜ける。

あいは反射的に裾へ手を伸ばしかけ――途中で止めた。

必要な時だけでいい。

そう思い直して、鞄の肩紐を握る。

歩き方は、まだ少しぎこちない。

それでも、足取りは前より少しだけ軽かった。


◆ 歩道橋下の黒霧


ハンカチを鞄の奥へしまい直してから、あいと美咲は再び歩き始めた。

「次に落とした時は、もうちょっと自然に拾えるかな……」

「大丈夫大丈夫。今のでもちゃんと拾えたし」

「美咲ちゃん、途中ですごく怖そうな顔してたよね」

「だって、見てる方がひやひやしたんだもん」

「……やっぱり」

あいが小さく肩を落とすと、美咲が楽しそうに笑った。

朝の歩道橋には、瑞穂台駅へ向かう人たちが絶えず流れている。

スーツ姿の会社員。

制服姿の学生。

足早に駅へ向かう人たちの靴音。

その中を歩いていると、さっきまでハンカチ一枚を拾うだけで悪戦苦闘していたことが、急にとても小さなことのように思えた。

あいもつられて少し笑い、前を見る。

駅はもう近い。

「そういえば美咲ちゃん、英語の宿題、本当に半分やったの?」

「そこ戻る?」

「だって気になるし」

「朝から現実に引き戻さないでよ」

「学校に行くんだから、現実だよ」

「あいちゃんって、たまに容赦ないよね」

そんな話をしていた、その時だった。

あいの足元を、黒い影がすっと横切った。

「――あい」

聞き慣れた声。

あいの表情が変わる。

歩道橋の手すり近くに、黒猫のアムルがいた。

ついさっきまでの穏やかな雰囲気とは違う。

アムルは駅の方ではなく、歩道橋の下をじっと見ていた。

「アムル?」

あいは声を落とす。

隣にいた美咲も、すぐに笑顔を消した。

「どうしたの?」

「妖魔の反応があります」

その一言で、あいの胸がきゅっと縮まった。

けれど――足は止まっても、頭までは止まらなかった。

「どこ?」

自分でも意外なほど、すぐに言葉が出た。

「下です。まだ強い反応ではありません。でも、黒霧が集まり始めています」

あいは手すり越しに、そっと下を見た。

歩道橋の下には、道路脇の設備や太い柱が並んでいる。

朝日は周囲の建物や道路を明るく照らしているのに、その一角だけは橋そのものに光を遮られ、濃い影になっていた。

最初は、何も見えないように思えた。

けれど目を凝らすと――。

「……あれ」

柱の根元。

設備の陰。

そこに、黒いものが漂っている。

煙にしては動きが遅い。

風が吹いても流されず、地面の近くを這うように揺れていた。

ひとつだった黒いもやが、少しずつ別のもやと重なっていく。

黒霧。

あいはそれを知っている。

知らなかった頃なら、ただの影か何かだと思って通り過ぎていたかもしれない。

今は違う。

「ほんとだ……」

美咲も欄干越しに下をのぞき、声を低くした。

「でも、朝だよ?」

「橋の下は日光がほとんど届いていません」

アムルが答える。

あいは周囲へ視線を移した。

歩道橋の上には人が多い。

その下を通る道路にも、ときどき自転車や歩行者が行き交っている。

ただ、黒霧が集まっている場所そのものは、駅へ向かう大きな人の流れから少し外れていた。

今のところ、誰かがそこへ近づいている様子はない。

(でも、このままにしておいたら……)

黒霧が何を引き起こすのか。

あいはもう知っている。

人の身体に入り込み、体調を崩させることがある。

実体化して妖魔になることもある。

一般の人には、それが何なのかさえわからない。

「あいちゃん」

美咲があいを見る。

さっきまで宿題の話をしていた時とは、まったく違う目だった。

「行く?」

「……うん」

答えるまでに、ほとんど時間はかからなかった。

怖くないわけではない。

妖魔を見るたび、今でも胸はざわつく。

変身すれば、また戦うことになる。

何が起こるかもわからない。

それでも。

以前のように、どうしたらいいのかわからなくなって立ち尽くすことはなかった。

まず、周りを見る。

一般の人が近くにいないか確認する。

人目の少ない場所へ移動する。

変身する。

そして、一般の人を巻き込まないよう虚数空間へ隔離する。

やることが、頭の中に順番として浮かぶ。

(……少しは、慣れてきたのかな)

朝、鏡の前で思ったこととは少し違う意味で、あいはそう感じた。

その時。

「あい、美咲!」

聞き慣れた声がした。

「由香里?」

二人が振り返る。

駅の方向から、由香里がこちらへ向かってきていた。

いつもの落ち着いた由香里にしては、少し足取りが速い。

その足元にはネロリの姿もある。

「二人とも、気づいてたんだね」

由香里は二人の前まで来ると、軽く息を整えた。

「ネロリが、南口側に黒霧の反応があるって」

「やっぱり、そっちでもわかったんだ」

美咲が言う。

由香里はうなずき、歩道橋の下へ視線を向けた。

「まだ誰かが巻き込まれてる感じはないみたい。でも……」

「集まってきてる」

あいが続けると、由香里は静かにうなずいた。

三人の視線が、橋の下の暗がりへ集まる。

黒霧は、さっきより少し濃くなっているように見えた。

「どうする?」

由香里が尋ねる。

けれど、その声に迷いはなかった。

確認するための問いだった。

「人が来る前に、隔離した方がいいと思う」

あいが言う。

「私もそれでいいと思う」

「じゃ、決まり」

美咲が即座に応じる。

それだけだった。

誰が戦うのか。

本当に変身するのか。

そんなところから話し合う必要は、もうなかった。

あいはもう一度、辺りを見回す。

「ここは人が多いから……下へ降りて、柱の陰に回ろう。黒霧の近くまで行けば、必要な範囲も確認できると思う」

「うん」

由香里が答える。

「了解」

美咲も短く返した。

アムル、ネロリも先に階段の方向へ動き出す。

少し遅れて、白い影が美咲のそばへ駆け寄った。

フルルだった。

「やっぱりいた! 嫌な感じすると思ったんだよね」

「フルル、声」

「あ、ごめん」

美咲に小声で注意され、フルルも声を落とす。

あいは、思わずほんの少しだけ笑いそうになった。

こんな時なのに。

でも、その小さなやり取りのおかげで、胸の奥の緊張がほんの少しだけ緩む。

「行こう、美咲ちゃん、由香里」

「うん」

「行こ」

三人は自然に歩幅を合わせた。

ほんの少し前まで、学校の宿題と落としたハンカチの話をしていた。

その同じ制服姿のまま、今度は人の流れから外れる方向へ進んでいく。

階段を降りるにつれて、朝の日差しが遠ざかる。

歩道橋の下。

柱と設備が作る濃い影の奥で、黒霧がゆっくりと渦を巻いていた。

あいは一度だけ息を整える。

怖さはある。

けれど、隣には美咲がいる。

由香里もいる。

そして、次に何をすればいいのかもわかっている。

三人は互いに目を合わせると、人目の届きにくい柱の陰へ入っていった。


◆ 三人の変身と局所虚数空間


歩道橋の下へ降りると、朝の明るさが一段遠くなった。

頭上を覆うコンクリートの床。

太い柱。

道路脇に並んだ設備。

その奥にあるゴミ箱の周囲には、黒い霧がゆっくりと集まり続けている。

すぐ向こうには駅へ急ぐ人たちがいる。

靴音も、話し声も、車の走る音も聞こえていた。

けれど、柱の陰へ一歩入るだけで、人の流れから少し切り離されたように感じられる。

アムルが周囲を見回した。

「ここなら、直接こちらを見る人は少ないわ。ただし、長くはかけられません」

「うん」

あいは答えながら、柱の向こうを確認した。

通勤客が一人、歩道を横切っていく。

その人が通り過ぎるまで待つ。

美咲も反対側を見ていた。

「こっちも大丈夫そう」

「私の方も今はいないよ」

由香里が静かに続ける。

三人が顔を見合わせた。

以前なら、変身するだけでももう少し気持ちを整える時間が必要だった。

今でも緊張はする。

けれど、ここで何をするのかは、もう三人ともわかっていた。

「じゃあ……いくね」

あいが小さく息を吸う。

胸の奥へ意識を向ける。

「ラブ・レボリューション!」

淡い光が身体を包んだ。

白いブラウスも、紺色のブレザーも、緑と紺のチェック柄のスカートも、輪郭から光の粒子へほどけていく。

その光が身体の周囲を巡り、新しい形へ組み上がる。

紺色のセーラー襟。

胸元の大きなピンク色のリボン。

動きやすく形成されたトップス。

濃紺の短いプリーツスカート。

黒かったツインテールも、光を受けながら自然な金色へ変わっていく。

マジカル・ラブ。

変身した自分の姿が完成した瞬間、あいはほんの一瞬だけスカートへ視線を落とした。

(……やっぱり、こっちは短い)

慣れた。

――とは、まだ言い切れない。

少し頬が熱くなる。

けれど、そこで意識を止めることはなかった。

顔を上げる。

「フローラ・レボリューション!」

美咲の周囲で花びらを思わせる光が弾けた。

制服が光の粒子へ変わり、ラブと同系統の戦闘服が形成されていく。

短い髪が光を受け、胸元には花属性を思わせる色のリボンが形作られた。

「アロマ・レボリューション!」

由香里を包んだのは、香りを感じさせるような淡い光だった。

ラベンダーと淡い水色を帯びた光がゆっくりと巡り、共通のセーラー戦闘服へ変わっていく。

アロマは変身が終わると、一度だけ自分のスカートを見た。

「……うん」

小さく息を整える。

ラブには、その一瞬の間がわかった。

由香里も、まだ完全に平気になったわけではない。

それでも、アロマはすぐに顔を上げた。

その時だった。

ラブの眼鏡の上へ、白く透き通ったフレームが重なる。

マジカル・ビジョン。

ほぼ同時に、フローラとアロマの目元にも同じ形の白いフレームが展開された。

音はしない。

何かが起動したことを知らせる声も、電子音もない。

ただ、それまで普通に見えていた風景の上へ、静かに別の情報が重なった。

「……見える」

ラブは黒霧へ目を向けた。

柱の輪郭に、細い半透明の線が走る。

設備の角には小さな点。

ゴミ箱の外周にも淡い輪郭線が重なった。

そして、その奥で揺れる黒霧。

そこだけは周囲とは違う輪郭で強調されている。

視界の端に、簡潔な文字が浮かんだ。

《黒霧反応》

ラブが少し視線を動かす。

歩道橋の下を通る人。

道路側を歩く人。

駅へ向かう人の流れ。

人そのものへ細かな説明が貼りつくわけではない。

その代わり、複数の動きをまとめるように、淡い線が視界の中を流れていた。

(ここが、人の通るところ)

ラブは杖を思い浮かべる。

掌の上へ光が集まった。

伸びていく光が細身の長い杖となり、その先端にハート形の意匠が現れる。

杖を握る。

それだけで、少し気持ちが戦闘へ切り替わった。

「ラブ、広げすぎないで」

アムルが言った。

「朝は人が多いわ。必要なところだけでいい」

「うん。私も、そうしようと思ってた」

ラブは杖の先をわずかに上げた。

視界の中にあるものを見る。

柱。

設備。

ゴミ箱。

黒霧。

そして、その外を流れている人たち。

以前なら、空間をまとめてひとつの範囲として捉えようとしていた。

でも、今は少し違う。

(点を置いて……)

自分のノートに描いた図を思い出す。

点。

点と点を結ぶ線。

その線が作る境界。

難しい式を解こうとしているわけではない。

魔法が数学そのものだと考えているわけでもない。

ただ、自分にはこの考え方が一番わかりやすかった。

(柱の根元をひとつ)

マジカル・ビジョンの表示と実際の風景を重ねながら、位置を定める。

(設備の角)

もう一つ。

(ゴミ箱の外側)

もう一つ。

そして、黒霧の奥。

そこを囲う。

必要なのは、歩道橋下全部ではない。

人の流れまで巻き込む必要もない。

黒霧と、自分たちが戦えるだけの空間。

それだけでいい。

「ラブ?」

フローラが声をかける。

「大丈夫?」

「うん」

ラブは杖を握り直した。

「たぶん……ここまでなら、いけると思う」

アロマがラブの見ている方向を確かめる。

「外を歩いている人は入れないの?」

「うん。黒霧の周りだけ切り取る。私たちが動ける範囲は残すけど、歩道まで広げないようにしてみる」

「わかった」

アロマはそれ以上聞かなかった。

フローラも軽くうなずく。

「じゃ、あいちゃん……じゃなかった。ラブに任せる」

「もう、美咲ちゃん……」

「今のはまだ戦闘前だからセーフ」

「そういう問題かな……」

一瞬だけ、三人の間の緊張がやわらぐ。

けれど、黒霧がまたひとつ濃く揺れた。

ラブは表情を引き締めた。

「いくよ」

杖の先を地面へ向ける。

「ディストーション・フィールド!」

淡い光が、杖の先から走った。

地面の上を一直線に進むのではない。

ラブが意識した点から点へ。

柱の根元。

設備の角。

ゴミ箱の脇。

光の線が次々と結ばれていく。

最後の一点がつながった瞬間、線で囲まれた空間がわずかに揺れた。

ぐにゃりと景色が歪む。

けれど、それはほんの一瞬だった。

次の瞬間。

空間が、静かになった。

「……入った」

ラブは小さく呟いた。

外の風景は見えている。

歩道橋の向こうを、会社員が歩いている。

制服姿の学生が駅へ急いでいる。

自転車が道路を通り過ぎる。

音も聞こえる。

足音。

車の音。

遠くから聞こえる駅の案内。

何も変わっていないように見える。

けれど――。

すぐ近くを歩いていた女性が、三人の方をまったく見なかった。

黒霧にも気づかない。

マジカル・ラブたちがここに立っていることにも、何の反応も示さないまま通り過ぎていく。

「何回見ても、不思議だよね」

フローラが小声で言った。

「こんな近くにいるのに」

「向こうからは、私たちの戦いは認識できないんだよね……」

アロマも外を見る。

ラブは、わずかに息を呑んだ。

人がいる。

すぐそこに、普通の朝がある。

学校へ向かう人たちがいる。

会社へ行く人たちがいる。

なのに、自分たちだけが現実から一枚ずれた場所に立っている。

以前から知っているはずの感覚。

それでも、こうして人の多い朝に使うと、妙に現実離れして感じられた。

マジカル・ビジョンの中では、今度は境界そのものが細い線となって表示されている。

外側。

内側。

そして、その中央で蠢く黒霧。

ラブは境界を目で追った。

広すぎない。

人の動線とも重なっていない。

(……できた)

保健室を囲った時とも、非常階段をまとめた時とも違う。

今回は、小さく。

必要な場所だけ。

自分で選んだ範囲を切り取ることができた。

「境界、安定してます」

アムルが確認する。

「このまま維持して」

「うん」

ラブは杖を構えた。

フローラが一歩前へ出る。

アロマも、その少し後ろで両手を構えた。

三人の視線が、同じ場所へ向く。

ゴミ箱の影。

黒霧が、今までより大きく膨らんだ。

地面の上を這うように広がりながら、その中心で何かの形を作り始めている。

ラブのマジカル・ビジョンが、その輪郭を淡い線でなぞった。

まだ、コアの表示はない。

何になるのかもわからない。

ただ――。

そこにいる。

妖魔が、姿を作ろうとしている。

「来るよ」

ラブが言った。

「うん」

フローラが短く答える。

「大丈夫」

アロマの声も続いた。

すぐ外では、何も知らない人たちがいつもの朝を歩いている。

その日常からほんの一枚ずれた場所で。

三人の魔法戦士は、形を持ち始めた黒霧へ向き直った。


◆ 花妖魔と特殊な液体


黒霧が、地面の上でゆっくりと膨れ上がった。

最初はただの黒い塊だった。

けれど、それは次第に形を変えていく。

細長く伸びた影が、何本にも枝分かれする。

「……蔓?」

ラブが呟いた。

黒緑色の蔓が、コンクリートの上を這うように広がっていく。

生きた植物のようにも見える。

けれど、葉はない。

代わりに、蔓の先端には丸みを帯びた小さなふくらみがあった。

ひとつ。

二つ。

三つ。

さらに、その奥にも。

「花……なのかな」

アロマが少し眉を寄せる。

「かわいくはないね」

フローラが片手剣を構えた。

妖魔の中心には、根を無理やりひとまとめにしたような黒い塊がある。

そこから何本もの蔓が伸び、先端のふくらみをゆっくりと持ち上げていた。

花のつぼみ。

そう呼ぶのが、一番近い。

ただし、その色はどれも黒と濁った緑が混じり合っていて、普通の植物には見えなかった。

ラブのマジカル・ビジョンが、自動的に妖魔の輪郭を補正する。

黒霧に紛れていた蔓の縁へ、細い半透明の線が重なった。

つぼみの一つ一つにも、小さなマーカーが浮かぶ。

《敵性反応》

視界の端に文字が現れた。

「反応、出てる」

ラブは杖を握り直す。

「まだコアは?」

フローラが聞く。

「わからない。根のところが怪しいけど……」

視線を妖魔の中心へ移す。

黒い根の塊へ淡い輪郭線は出ている。

しかし、いつもの赤いコア反応はまだ表示されない。

「黒霧が濃すぎる」

ラブが答えた、その時だった。

つぼみの一つが、ぴくりと動いた。

「……え?」

ラブの視界の右端が淡く明滅する。

《警告:敵性反応》

続いて、つぼみからラブのいる方向へ細い矢印が伸びた。

攻撃予測。

「来る!」

アムルの声とほぼ同時に、つぼみが開いた。

花びらではない。

裂け目のように四方へ開いた中心から、黒緑色の液体が勢いよく飛び出した。

「わっ!」

三人が一斉に散る。

ラブは右へ。

フローラは前へ踏み込みながら身体をひねる。

アロマは一歩大きく後ろへ下がった。

液体がコンクリートへ飛び散る。

べちゃり、という湿った音。

「何これ!」

フローラが叫ぶ。

「わからない!」

ラブは答えながら、次のつぼみを見る。

マジカル・ビジョンが、新たな矢印を表示した。

「左!」

「了解!」

今度は二つ。

二方向から液体が飛ぶ。

三人はそれぞれ回避する。

ラブも矢印を追いながら身体を動かした。

ひとつ目は避けた。

二つ目も――。

「っ!」

その時。

冷たいものが、左腕に触れた。

一滴。

ほんの小さな飛沫だった。

痛みはない。

熱くもない。

(……当たった?)

ラブは一瞬だけ袖を見た。

そこで、違和感に気づく。

「え……?」

液体が付いた部分の戦闘衣が、ゆっくりと崩れていた。

焦げるわけではない。

煙も出ない。

破れるのとも違う。

布の表面が、光の粒子になってほどけていく。

丸く小さな範囲から、戦闘衣の表層が消えていく。

「なに、これ……」

ラブの声が震えた。

その内側には、身体へ沿うような薄い魔力の膜が残っていた。

直接肌が傷ついているわけではない。

痛みもほとんどない。

けれど。

戦闘衣そのものが、消えている。

「ラブ、そこから離れて!」

アムルの声が鋭くなる。

ラブは反射的に後ろへ下がった。

「アムル、これ……!」

「身体そのものへの強い毒性は、今のところ感じません」

「じゃあ、どうして……」

「戦闘衣を形成している魔力に干渉しているようです」

「魔力に……?」

ラブは左腕を見た。

崩れた部分は、少しずつ光の粒になりながら消えていく。

その下にある防護の魔力までは失われていない。

けれど、見ているだけで胸がざわついた。

「服だけを……狙ってるの?」

「断定はできません」

アムルは妖魔を見たまま答えた。

「ただ、あの液体が戦闘衣の魔力構成を乱しているのは確かです。直接触れないで」

「う、うん」

ラブは答える。

しかし、その声は少し上ずっていた。

妖魔を見る。

複数の蔓。

複数のつぼみ。

そして、飛んでくる黒緑色の液体。

(全部避けないと……)

そう考えた直後だった。

《警告:敵性反応》

また表示が出る。

「ラブ!」

フローラの声。

ラブは慌てて身体をひねった。

液体が横を通り過ぎる。

避けた――と思った。

けれど、最後の一滴がスカートの端へ触れた。

「っ……!」

濃紺の布地が、そこだけ淡く光った。

次の瞬間。

表面がふわりとほどける。

小さな範囲が光の粒子へ変わり、欠けたように消えた。

「……!」

ラブの呼吸が止まる。

まただ。

痛くはない。

身体には直接届いていない。

でも。

戦闘衣が削られていく。

(これ……)

背筋に冷たいものが走った。

(何回も当たったら……)

視線が、自分の戦闘衣へ落ちる。

袖。

スカート。

まだ損傷は小さい。

内側には防護の魔力も残っている。

それでも、想像してしまった。

もし、もっと多く浴びたら。

もし、あちこちに当たったら。

この戦闘衣は、どこまで保つのだろう。

(もし、全部……)

「ラブ!」

フローラの声が響いた。

「えっ」

「今はそっち考えない!」

ラブは、はっと顔を上げた。

フローラが妖魔とラブの間へ半歩入っている。

頬がほんの少し赤い。

美咲だって、この攻撃が何をするのかはわかっているのだろう。

それでも、片手剣は妖魔へ向けたままだ。

「でも……」

「気持ちはわかる!」

フローラが言い切った。

「私だって、あれ何回も当たりたいとは思わない!」

「……うん」

「でも、今そればっか考えてたら、もっと当たるよ!」

その言葉に、ラブは息を呑んだ。

正しい。

まったくその通りだった。

気にすれば気にするほど動きが固くなる。

それは、ずっと前から自分が苦手としてきたことだ。

変身した時の衣装が気になって、動きが遅れた。

短いスカートが気になって、日常の動作まで不自然になった。

少しずつ、慣れてきたと思っていた。

けれど、今回は違う。

着ていることが恥ずかしいのではない。

身を守っているはずの戦闘衣が、目の前で壊されていく。

そのことが怖い。

「ラブ、呼吸」

今度はアロマの落ち着いた声が聞こえた。

ラブは一度、息を吸った。

ゆっくり吐く。

(見るべきなのは……妖魔)

自分へ言い聞かせる。

もう一度、マジカル・ビジョン越しに前を見る。

黒緑色の蔓。

根の塊。

複数のつぼみ。

それぞれに淡いマーカーが重なっている。

《敵性反応》

表示は消えていない。

つぼみの一つが、またゆっくりと持ち上がる。

今度は目を逸らさない。

「……来る」

ラブは杖を構え直した。

次にどこから飛ぶのか。

どの方向へ避けるべきか。

何より――。

どこにコアがあるのか。

怖さは消えていない。

戦闘衣の欠けた部分も気になる。

それでも、ラブはもう自分の袖を見なかった。

マジカル・ビジョンの中で、次の攻撃予測を示す細い矢印が浮かび上がる。

「右から来る!」

三人が同時に動いた。

歩道橋の下で、黒緑色のつぼみが再び開いた。


◆ アロマ・ヴェール


黒緑色の液体が、再び空を切った。

「右!」

ラブの声と同時に、三人が散る。

液体はさっきまでラブが立っていた場所を横切り、コンクリートの上に飛び散った。

間を置かず、別のつぼみが膨らむ。

マジカル・ビジョンの視界に、小さなマーカーが浮かんだ。

《敵性反応》

そこから細い矢印が伸びる。

「次、左から!」

「わかった!」

フローラが素早く前へ出る。

片手剣を構えたまま、飛んできた液体を避ける。

ラブも身体をひねった。

けれど、避けることに意識を取られるたび、妖魔の中心から視線が外れる。

(これじゃ……コアを探せない)

根の塊。

何本にも分かれた蔓。

その先にある複数のつぼみ。

マジカル・ビジョンは、それぞれの位置を淡い輪郭とマーカーで示している。

情報は見えている。

それなのに、それを落ち着いて読む時間がない。

一つのつぼみを見れば、別のつぼみが開く。

軌道を避ければ、また次が来る。

《警告:敵性反応》

「また……!」

ラブは一歩下がった。

黒緑色の液体が目の前を通過する。

さっき侵食された左袖が、視界の端に入った。

光の粒子へほどけた跡。

スカートの端にも、小さな損傷が残っている。

(当たっちゃだめ)

そう思えば思うほど、意識がそちらへ引っ張られる。

(でも、コアを見つけないと……)

避ける。

見る。

また避ける。

その繰り返しだった。

「ラブ!」

今度はアロマの声だった。

「え?」

「そのままじゃ解析できないでしょう?」

「でも……」

アロマはラブより少し後方に立っていた。

その目元のマジカル・ビジョンにも、同じように妖魔の情報が重なっている。

複数のつぼみ。

開きかけているもの。

まだ閉じているもの。

液体が飛んでくる方向。

危険を示す細い矢印。

それらが現実の風景の上に静かに浮かんでは消えていく。

アロマはその表示を追った。

「……一つずつ避け続けるより」

由香里らしい、落ち着いた声。

「飛んでくる方向をまとめて遮った方がいい」

「遮る?」

ラブが聞き返す。

その瞬間、二つのつぼみにマーカーが灯った。

《敵性反応》

一本。

もう一本。

二本の予測線が、アロマの視界の中でラブのいる位置へ伸びる。

アロマは息を吸った。

ゆっくりと吐く。

「ネロリ」

「ええ。焦らなくて大丈夫」

ネロリの静かな声が届く。

「あなたは、攻撃を押し返そうとしなくていいの」

アロマの表情がわずかに変わった。

「押し返さない……」

「あなたが得意なのは、整えることです」

その言葉に、アロマが小さくうなずく。

マジカル・ビジョンの中で、つぼみから伸びる攻撃予測の線が重なる。

アロマはその線を見る。

どこから来るのか。

どの範囲を守れば、ラブが動かずに解析できるのか。

それを目で追いながら、両手をゆっくり前へ出した。

「……ここなら」

ラブには、その動きがいつもの由香里らしく見えた。

無理に前へ出ようとはしない。

敵を倒そうともしていない。

ただ、今この場で何が必要なのかを見つけようとしている。

アロマの胸元のリボンから、淡いラベンダー色の光が広がった。

「アロマ・ヴェール!」

光が、薄い膜へ変わる。

硬い壁ではなかった。

半透明で、向こう側の妖魔もはっきり見える。

朝靄を一枚だけ切り取って立てたような、柔らかな魔力の膜。

それがラブの前方を覆うように広がった。

「……これ」

ラブが目を見開く。

ちょうどその時、三つのつぼみが同時に開いた。

《警告:敵性反応》

マジカル・ビジョンに三本の矢印が現れる。

「来る!」

黒緑色の液体が飛んだ。

ラブは反射的に身体を動かそうとする。

「ラブ、そのまま!」

アロマの声に、足を止めた。

三本の液体が、ラベンダー色の膜へぶつかる。

ばしゃっ、と液体が広がった。

「……!」

膜は大きく揺れた。

フローラ・シールドのように、攻撃そのものを横へ弾き飛ばしたわけではない。

液体はヴェールの表面へ広がり、薄く引き伸ばされていく。

黒緑色だった色が少しずつ淡くなり、その中に混じっていた濁った魔力が、細かな粒となって散っていく。

最後に残った液体は、勢いを失って地面へ落ちた。

「止めた……?」

ラブが呟く。

「完全には止めてない」

アロマは両手を前へ向けたまま答える。

額に少しだけ力が入っている。

「勢いと、魔力の濁りを弱くしてるだけ」

もう一度、つぼみが動く。

アロマのマジカル・ビジョンにマーカーが浮かぶ。

危険方向を示す線。

それを確認したアロマは、ヴェールの端へわずかに意識を向けた。

薄い膜が、その方向へ静かに広がる。

次の液体がぶつかる。

また膜が揺れた。

今度は最初より小さい。

「マジカル・ビジョンで、どこから来るか見てるんだ……」

ラブは気づいた。

「うん」

アロマは短く答えた。

「全部を覆う必要はないみたい。飛んでくるところがわかれば、必要なところだけ守れる」

マジカル・ビジョンが攻撃を防いでいるわけではない。

ヴェールを作っているのは、アロマ自身だ。

けれど、どのつぼみが動いたのか。

液体がどの方向へ飛ぶのか。

その情報が視界へ重なることで、アロマは自分の魔法を置く場所を迷わず決められている。

(私が射線を見るのと……少し似てる)

ラブは思った。

同じマジカル・ビジョンでも、使い方は一つではない。

自分は点や線を見て、コアや射線を探す。

アロマは敵の攻撃方向を見て、仲間を守る範囲を決める。

表示そのものは同じでも、そこから何を読み取るかは使う人によって違う。

「ラブ」

アロマが振り返らずに言った。

「こっちは私が守る。コアを探して」

「……由香里」

思わず普段の名前が出そうになって、ラブは言い直した。

「ありがとう、アロマ」

「うん」

アロマはそれだけ答えた。

また一つ、つぼみが開く。

マジカル・ビジョンに矢印が走る。

アロマはその方向へヴェールを寄せる。

黒緑色の液体が膜へぶつかり、勢いを失う。

その間、ラブはもう避けなくていい。

身体を動かさず、妖魔を正面から見ることができる。

根の塊。

蔓。

複数のつぼみ。

その奥を漂う黒霧。

マジカル・ビジョンの表示が、一つずつ落ち着いて読めるようになった。

(探せる)

ラブは杖を構え直した。

(今なら……)

アロマが守ってくれている。

フローラが前にいる。

自分がするべきことは一つだった。

妖魔を倒すための場所を見つける。

その中心にある、コアを。

ラブの視線が、黒い根の塊へ集中する。

輪郭線が淡く揺れた。

その奥で、ほんの一瞬だけ。

赤い光が、点のように瞬いた。


◆ チェリー・ブラッサムとマジカル・ビジョン


赤い光は、ほんの一瞬だった。

「……今の」

ラブは目を凝らした。

根の塊の奥。

黒霧に隠れるようにして、一点だけ赤い反応が瞬いた。

けれど、すぐに消える。

《解析中》

マジカル・ビジョンの片隅に、半透明の文字が浮かぶ。

(やっぱり、あそこに何かある)

そう思った直後、視界の別の場所で複数のマーカーが明滅した。

《敵性反応》

「また来る!」

ラブが声を上げる。

黒緑色の蔓の先で、いくつものつぼみが持ち上がった。

ひとつだけではない。

右にも。

左にも。

その奥にも。

細い予測線が、マジカル・ビジョン越しの風景へ次々と重なる。

「多すぎない!?」

フローラが片手剣を振るった。

伸びてきた蔓を刃の腹で払い、ラブの前から遠ざける。

別の蔓が足元を這う。

「こっちも!」

フローラは一歩踏み込み、それも剣先で進路を変えた。

けれど、その間にも別のつぼみが開き始める。

「美咲ちゃん……!」

「わかってる!」

フローラは振り返らずに答えた。

液体を飛ばすつぼみは複数。

片手剣一本で一つを抑えている間に、別の方向から次が来る。

どれほど美咲の動きが速くても、全部を同時に相手にするのは難しい。

フローラ自身も、それを感じたようだった。

「剣だけじゃ追いつかないか……」

小さく呟く。

そのすぐ横を、黒緑色の液体が飛んだ。

ラベンダー色の膜が受け止める。

アロマ・ヴェール。

液体がその表面へ広がり、勢いと濁った魔力を失っていった。

「フローラ、ラブの前は私が守る」

アロマが言う。

「だから、動けるところをお願い」

「了解!」

フローラが答えた。

その声に、迷いはなかった。

片手剣を右手で構えたまま、左手を軽く開く。

「だったら――これ!」

胸元のリボンが、淡く輝いた。

「チェリー・ブラッサム!」

光が弾ける。

「……わあ」

ラブは思わず声を漏らした。

フローラの周囲に浮かび上がったのは、桜の花びらだった。

もちろん、本物ではない。

一枚一枚が淡い光で形作られた、桜の花びら型の魔法片。

いくつもの花びらがフローラの周囲をふわりと舞う。

一瞬だけなら、春の風景のようにも見えた。

けれど。

「行って!」

フローラが左手を振る。

空中を漂っていた花びらが、一斉に動いた。

ひとつの塊にはならない。

それぞれが別の軌道を描きながら、黒緑色の蔓へ向かって飛ぶ。

淡い光が、一本の蔓の側面を打った。

蔓が横へ跳ねる。

別の花びらは、開こうとしていたつぼみのそばを鋭く通過した。

つぼみが反射的に向きを変える。

直後に吐き出された液体は、ラブではなく斜め上へ飛び、虚数空間の地面へ落ちた。

「すごい……」

ラブが呟く。

「まだまだ!」

フローラは剣で目の前の蔓を払いながら、さらに花びらを動かした。

右手の剣。

左手側を舞う光の花びら。

美咲は細かな計算をしているようには見えなかった。

目の前の動きに合わせて、一番邪魔なところへ剣を出し、一番危ないところへ花びらを飛ばしている。

考えるよりも先に身体が動く。

いつもの美咲そのものだった。

「こっちは行かせない!」

地面を這ってラブへ伸びていた蔓へ、二枚の光が続けて当たった。

蔓の先が横へ押し戻される。

そこへフローラが踏み込み、片手剣でさらに進路を外へ逸らした。

「ラブ、今!」

「う、うん!」

ラブは妖魔へ向き直った。

今度こそ、解析へ集中する。

マジカル・ビジョンの白いフレーム越しに、花妖魔を見る。

現実の風景に、半透明の情報が重なる。

複数のつぼみ。

それぞれの位置へ小さなマーカー。

地面を這う蔓には淡い輪郭線。

根の塊には、その形を囲むような補助線。

周囲を覆う黒霧は、濃い部分ほど輪郭が見えにくく、薄い部分では内部構造が少しずつ浮かび上がっている。

さらに、つぼみが動くたびに攻撃予測を示す細い矢印が現れる。

(つぼみじゃない)

ラブは思った。

つぼみは攻撃するための部分。

蔓も、動くための部分。

それだけを一つずつ壊していても、妖魔は消えない。

(コアは別にある)

視線を根の塊へ戻す。

さっき赤い反応が見えた場所。

けれど、黒霧が濃い。

マジカル・ビジョンは情報を表示してくれる。

どこに蔓があるか。

どのつぼみが危険か。

どちらから攻撃が来るか。

けれど。

(答えを教えてくれるわけじゃない)

どこを見るのか。

何を重要だと判断するのか。

どこへ攻撃を通すのか。

それを決めるのは自分だ。

「アロマ」

ラブが呼ぶ。

「黒霧を少し薄くできる?」

「やってみる」

アロマは《アロマ・ヴェール》を維持したまま、呼吸を整えた。

ラベンダー色の保護膜がラブの前に残る。

その向こう側で、アロマの淡い魔力が静かに広がった。

「アロマ・ピュリファイ!」

やわらかな香気を帯びた光が、花妖魔の周囲へ流れていく。

攻撃するような激しい光ではない。

黒霧の中へ静かに入り込み、その濁りを少しずつほどいていく。

黒かった霧が薄れる。

一本。

また一本。

隠れていた根の輪郭が見えてくる。

「もう少し……」

ラブは杖を握った。

赤い反応はまだ完全には見えない。

けれど。

(さっき光ったのは、この辺り)

マジカル・ビジョンに映る根の形を目で追う。

根が集まっている。

そこから蔓が伸びている。

黒霧も、その場所を中心にして濃くなっている。

(もし、ここが中心なら……)

ラブの頭の中で、点と線がつながる。

蔓。

つぼみ。

根。

黒霧の広がり。

それらを一つずつ別々に見るのではなく、一つの構造として捉える。

どこから全部が伸びているのか。

どこを中心に動いているのか。

その時だった。

マジカル・ビジョンの中央近くで、小さな光が灯った。

赤。

「……見えた」

最初は点だった。

黒霧がさらに薄くなるにつれて、赤い反応がはっきりしていく。

半透明のマーカーが、その一点を囲んだ。

《コア反応:捕捉》

「見つけた!」

ラブが声を上げる。

「どこ?」

フローラが蔓を払いながら聞く。

「根の奥! 少し右寄り!」

「了解!」

フローラが即座に動いた。

しかし、コアとラブの間にはまだ蔓がある。

一本。

二本。

その向こうにも。

ラブのマジカル・ビジョンに、杖の先端からコアへ至る直線が重なった。

射線。

けれど、途中で蔓と交差している。

(このままじゃ、通らない)

「フローラ、その線!」

「どれ?」

一瞬だけ思ってから、ラブは杖で示した。

「私の杖の先から、コアまで!」

フローラは一度だけ視線を動かした。

そして、すぐに理解した。

「そこね!」

フローラが左手を払う。

「チェリー・ブラッサム!」

桜色の魔法片が飛んだ。

一枚が蔓を外側へ押す。

もう一枚が別の蔓の進路へ割り込み、その動きを逸らす。

さらに複数の花びらが射線上を横切り、邪魔になる蔓を次々と散らしていく。

「ラブ、今なら通る!」

マジカル・ビジョンの補助線を見る。

杖。

空間。

コア。

三点が一直線につながった。

その線上にフローラはいない。

アロマもいない。

外側を歩く一般人は、そもそも局所虚数空間の外だ。

(大丈夫)

ラブは息を吸った。

アロマ・ヴェールへ、また液体がぶつかる。

膜が大きく波打った。

「アロマ!」

思わずラブが振り返りかける。

「大丈夫!」

アロマの声が返った。

両手を前へ向けたまま、ヴェールを維持している。

「ラブ、こっちは見なくていい」

アロマは苦しそうではあったが、その声は落ち着いていた。

「コアをお願い」

「……うん!」

ラブは前へ向き直った。

フローラが射線を開けている。

アロマが自分を守っている。

だったら。

自分がやるべきことは、一つ。

杖の先端へ、ピンク色の光が集まり始めた。

「ラブ・バースト!」

強い光が収束する。

広がらせない。

狙うのは、マジカル・ビジョンが囲んだ赤い一点。

ただし、最後にそこへ杖を合わせたのは、ラブ自身だった。

「お願い――届いて!」

光が放たれた。

ピンク色の閃光が、フローラの開けた隙間を一直線に駆け抜ける。

蔓と蔓の間。

黒霧の薄くなった場所。

その先。

赤いコアへ。

光が突き刺さった。

一瞬、すべての蔓が止まった。

「……!」

黒緑色のつぼみが閉じる。

地面を這っていた蔓から力が抜けた。

そして。

赤いコアに、細い亀裂が走る。

ぱきん。

小さな音とともに、中心が砕けた。

次の瞬間。

花妖魔の全身が、光の粒へほどけ始める。

根の塊。

蔓。

つぼみ。

黒霧。

すべてが輪郭を失い、細かな光子状の粒となって虚数空間へ散っていく。

最後まで残っていた一本の蔓も、先端から静かに崩れた。

黒緑色の影が消える。

マジカル・ビジョンに表示されていた複数のマーカーも、一つずつ消えていった。

《敵性反応:消失》

あとに残ったのは、歩道橋下のコンクリートと、三人だけ。

「……終わった?」

フローラが片手剣を下ろす。

桜の花びら型の魔法片も、淡い光となって消えていく。

「うん……反応、ない」

ラブは杖を下ろした。

アロマもゆっくりと両手を下げる。

ラベンダー色の《アロマ・ヴェール》が薄くなり、静かに消えた。

三人の間に、ほんの短い沈黙が落ちる。

ラブはフローラを見る。

次に、アロマを見る。

「……二人とも、ありがとう」

「え?」

フローラがきょとんとする。

「だって、美咲ちゃんが蔓をどかしてくれて、由香里が守ってくれたから……私、ちゃんとコアを見られた」

フローラは一瞬黙ってから、にっと笑った。

「じゃあ、成功じゃん」

アロマも小さく微笑む。

「三人で倒したってことでいいんじゃない?」

「……うん」

ラブも笑った。

自分がコアを見つけた。

自分が《ラブ・バースト》を撃った。

でも、それだけでは倒せなかった。

剣だけでもない。

浄化だけでもない。

マジカル・ビジョンだけでもない。

違うことが得意な三人が、それぞれにできることを重ねた結果だった。

そしてラブは、消えていく最後の光を見ながら、もう一つ思う。

マジカル・ビジョンは便利だ。

自分では見えないものを見せてくれる。

危険な方向も教えてくれる。

コアを見つける手助けもしてくれる。

でも――。

(どう使うかを決めるのは、私なんだ)

どの情報を見るか。

何を信じるか。

どの一本の線を選ぶか。

そこまで自動で決めてくれるわけではない。

だからこそ。

自分も、もっと上手に使えるようになりたい。

ラブは、白く透けるマジカル・ビジョンの向こうで、妖魔の消えた場所をしばらく見つめていた。


◆ 戦闘のあと


妖魔が消えた場所には、もう何も残っていなかった。

黒緑色の蔓も。

不気味なつぼみも。

地面を覆っていた黒霧も。

マジカル・ビジョンの視界に浮かんでいた敵性反応の表示は消え、そこには歩道橋下の柱や設備の輪郭だけが静かに重なっている。

ラブは、しばらく杖を構えたまま動かなかった。

「……本当に、いなくなったよね?」

念のため、妖魔がいた場所をもう一度見る。

赤いコア反応はない。

黒霧の揺らぎもない。

「反応は消えています」

アムルが答えた。

その声を聞いて、ラブはようやく肩から力を抜いた。

「はぁ……」

息が漏れる。

「終わったぁ……」

隣では、フローラが片手剣を下ろしていた。

さっきまで周囲を舞っていた《チェリー・ブラッサム》の光も、もう消えている。

「なんか今日の、今までと全然違ったね」

「うん……」

アロマも《アロマ・ヴェール》を完全に消し、ゆっくりと腕を下ろした。

「攻撃されて痛い、じゃなくて……魔法そのものに触られてるみたいだった」

「そうだね」

ラブは答えた。

そして――。

左腕を見る。

「……」

さっき、黒緑色の液体を受けた場所。

戦闘衣の袖は、一部が光の粒子へほどけたままだった。

スカートの端にも、小さく欠けたような跡が残っている。

妖魔を倒しても、すぐ元通りになるわけではないらしい。

「ラブ」

フローラが少し心配そうに見る。

「それ、大丈夫?」

「たぶん……」

答えながらも、ラブ自身にはわからなかった。

痛みはない。

少なくとも、戦っている間はなかった。

それでも自分の戦闘衣が崩れた状態を見ると、やはり落ち着かない。

「まずここを戻しましょう」

アムルが言った。

「外の人たちに異変はありません。虚数空間も安定しています」

「うん」

ラブは周囲を確認した。

虚数空間の外では、何も知らない人々が今も駅へ向かっている。

会社員が足早に歩き。

学生が友人と話し。

自転車が道路脇を通り過ぎていく。

ほんの少し前まで、このすぐそばで妖魔との戦いが行われていた。

けれど、誰一人としてこちらへ注意を向けてはいない。

ラブのマジカル・ビジョンには、局所虚数空間の境界がまだ細い線として残っていた。

(ここを、元に戻す)

戦闘前に決めた点。

柱。

設備。

ゴミ箱の周囲。

そして、一般人の通行経路を避けて引いた境界。

それらをもう一度確認する。

「二人とも、解除するね」

「うん」

アロマが答える。

「お願い」

フローラも片手剣を消した。

ラブは杖を構え直した。

「リターン・フィールド」

杖の先から淡い光が広がった。

境界を示していた線が、ひとつずつ薄くなる。

柱の根元。

設備の角。

地面。

最後の一点が消える。

ふっと、空気の感触が変わった。

景色そのものは同じだった。

けれど、現実から一枚ずれていた空間が、元の場所へぴたりと重なったような感覚がある。

歩道橋の下へ、朝の街の音が一気に近づいた。

車の走行音。

人の足音。

駅の方向から聞こえてくるざわめき。

「戻った……」

ラブは小さく呟いた。

「じゃ、次」

フローラが周囲を見回す。

柱と設備のおかげで、三人の姿は通行人から見えにくい。

とはいえ、いつ誰が入ってくるかわからない。

「早く戻ろう」

「うん」

三人は顔を見合わせる。

「ピースフル・モーメント」

声をそろえた。

淡い光が三人を包む。

マジカル・ビジョンの白いフレームが透けるように消えた。

続いて、戦闘衣が光の粒子となってほどけていく。

胸元のリボン。

セーラー襟。

短い戦闘用のスカート。

すべてが光へ戻り、その下からいつもの制服が形作られていく。

白いブラウス。

薄手の紺色のブレザー。

ピンク色のリボンタイ。

緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。

金色になっていたあいのツインテールも、いつもの黒髪へ戻った。

「……戻った」

あいは、自分の左腕を見た。

制服の袖。

何もない。

「え……?」

今度はスカートを見る。

こちらも、いつも通りだった。

戦闘衣にあった欠けた跡は、制服には残っていない。

「よかった……」

ほっとして、思わず胸をなで下ろす。

「制服まで穴あいてたら、学校どうしようかと思った」

美咲も安心したように言った。

「さすがに説明できないよね」

由香里が苦笑する。

「『朝、歩いてたら服が光になって消えました』とか?」

「美咲ちゃん、それ絶対だめ」

「冗談だって」

いつもの調子に戻った美咲を見て、あいも少し笑った。

けれど。

「……あれ?」

左腕に、妙な感覚があった。

あいは笑顔を止める。

「どうしたの?」

由香里がすぐに気づいた。

「なんか……ここ」

あいは、液体が付着した辺りへ手を添えた。

袖の上から軽く触れる。

傷がある感じではない。

押しても痛くない。

けれど、皮膚の少し奥――というより、その周囲だけが、じんわり熱を持っているように感じる。

「熱い?」

「ううん。熱いっていうほどじゃなくて……」

言葉を探す。

「ちょっと、ひりひりするような……。でも、痛いわけじゃないの」

「こっちは?」

由香里が、スカートの端へ液体が付いたことを思い出したように尋ねる。

あいはそこも意識してみた。

「……少しだけ。同じ感じかも」

「見せて」

美咲が心配そうに顔を近づけかける。

「ちょ、美咲ちゃん」

「あ、ごめん」

あいが反射的に後ろへ下がると、美咲もすぐ止まった。

「でも、本当に大丈夫?」

「うん。普通に歩けるし、強い痛みもないよ」

あいは腕を軽く動かしてみた。

問題なく曲がる。

足にも違和感はない。

制服の上から見える範囲にも、赤くなっているところや傷はなかった。

それでも、じんわりとした感覚だけは消えない。

「アムル……これ、何なの?」

足元の黒猫へ尋ねる。

アムルは少し考えるように、あいを見上げた。

「正確なことは、まだわかりません」

「やっぱり……」

「あの液体が戦闘衣の魔力構成へ干渉していたことは確かです。でも、解除したあとに残っているこの感覚が、どういう仕組みによるものなのかまでは判断できません」

断定しない。

その答えに、あいはむしろ少し安心した。

わからないものを、わかったふりで説明されるよりいい。

「今すぐ危ない感じではないの?」

「少なくとも、急激に悪化している様子はありません」

今度はネロリが答えた。

由香里のそばから、あいの様子を静かに見ている。

「呼吸も乱れていないし、立っていることにも問題はなさそうです。ただ……」

「ただ?」

「特殊な魔力干渉を受けたこと自体は間違いありません。学校へ着いたら、鶴岡先生に診てもらった方がいいでしょう」

「あ……」

鶴岡先生。

その名前を聞いて、あいは納得した。

保健室の養護教諭。

普通の怪我や体調不良だけでなく、黒霧や魔法戦士に関わることも知っている人。

「そうだね。鶴岡先生なら……」

「私もそれがいいと思う」

由香里が言った。

「これが普通の怪我なのか、魔力の影響なのか、私たちだけで決めない方がいいよ」

「うん」

「今、アロマ・ヒール使ってみる?」

由香里が尋ねてから、少し考えて首を振った。

「……でも、何が残ってるのかわからない状態で、勝手に重ねない方がいいかな」

「そうね」

ネロリが静かに同意する。

「緊急性が低いなら、まず状態を見てもらいましょう」

「わかった」

あいもうなずいた。

無理に何かをする必要はない。

痛みが強いわけでもない。

なら、学校へ着いてから詳しい人に診てもらえばいい。

「じゃあ、保健室寄ろう」

美咲が言う。

「三人で行く?」

「でも、一時間目もあるし……」

あいが言うと、美咲がじっと見る。

「こういう時まで真面目だなあ」

「だって……」

「授業より、あいちゃんが変な液体くらった方が大事でしょ」

「変な液体って……」

「実際、変だったじゃん」

否定できなかった。

由香里が小さく笑う。

「とりあえず学校までは一緒に行こう。着いてから、状態を見て決めればいいよ」

「……うん」

そのくらいなら、あいも素直に受け入れられた。

美咲が腕時計を見る。

そして。

「あ」

「どうしたの?」

「あいちゃん」

「うん?」

「そろそろ、本気で行かないとまずいかも」

「えっ」

あいも時間を確認する。

「……ほんとだ!」

妖魔を見つけて。

変身して。

虚数空間を作って。

戦って。

思っていたより時間が経っている。

「電車!」

「一本遅いのでも間に合うと思うけど、余裕はないね」

由香里が冷静に言う。

「走る?」

美咲が聞く。

「走るのはちょっと……」

あいは自分の制服のスカートを見て、すぐに首を振った。

「早歩きにしよう」

「了解」

「それがいいね」

三人は鞄を持ち直した。

つい先ほどまで妖魔がいた場所を、あいは最後に振り返る。

もう黒霧はない。

不気味な植物の姿もない。

特殊な液体も、妖魔の魔力とともに消えている。

歩道橋の下には、ただ朝の影が落ちているだけだった。

そのすぐ外では、何も知らない人たちが瑞穂台駅へ向かって歩いている。

(また、普通に戻ったんだ)

そう思った。

完全に元通りではない。

左腕には、まだかすかな熱感が残っている。

それでも、日常は止まらない。

「行こう、あいちゃん!」

「あ、待って、美咲ちゃん」

「急ぐんでしょ?」

「急ぐけど、走らないでってば」

少し先へ行った美咲を追い、あいも歩き出す。

由香里がその隣へ並んだ。

「無理しないでね」

「うん。ありがとう、由香里」

三匹のパートナー猫も、それぞれのそばをついてくる。

三人は再び、瑞穂台駅へ向かう朝の人の流れへ戻っていった。

あいの左腕には、まだほんの少しだけ。

妖魔の残した、理由のわからないひりつきが残っていた。


◆ 車いすの少女


瑞穂台駅へ着く頃には、三人ともすっかり朝の人波へ戻っていた。

ついさっきまで妖魔と戦っていたことなど、周囲の誰も知らない。

改札へ向かう人。

スマートフォンを見ながら歩く人。

友人同士で話しながら進む学生。

駅の中には、いつもの朝が流れていた。

「間に合いそう?」

美咲が前を見ながら聞く。

「たぶん」

由香里が答える。

「でも、あまりゆっくりはできないね」

「じゃあ早歩き継続で」

「美咲ちゃん、走らないでね」

「わかってるって」

そう言いながら、美咲は少しだけ歩幅を狭くした。

あいは、その隣を歩く。

左腕には、まだかすかな違和感が残っていた。

制服の上から見れば、何も変わっていない。

痛いわけでもない。

けれど、戦闘衣が光の粒子へ崩れた時の感覚を思い出すと、どうしても少し気になる。

(学校に着いたら、鶴岡先生に……)

そう考えながら、あいは前を見た。

その時。

「あ」

少し先の人波の中に、さくら女子の制服が見えた。

同じ白いブラウス。

薄手の紺色のブレザー。

ピンク色のリボンタイ。

緑と紺のチェック柄のスカート。

同じ学校の生徒だ。

ただ、その少女は歩いていなかった。

車いすに乗っている。

それ自体が珍しかったわけではない。

さくら女子の校内にはエレベーターもあり、車いすを利用する生徒が通えるよう設備が整えられている。

けれど、あいの目が止まった理由は別にあった。

「……すごい」

思わず、小さく声が出た。

「ん?」

美咲が振り向く。

「あの子」

あいが視線で示す。

少女は、人の多い駅構内を車いすで進んでいた。

制服のスカートは短めに整えられている。

丈そのものは、あいや美咲と大きく変わらないように見えた。

けれど座った姿では、その印象は少し違う。

スカートの前側には、小さなポーチが取り付けられていた。

派手なものではない。

制服の色合いになじむ、落ち着いた上品なデザイン。

前側を自然に安定させながら、小物も入れられそうな実用的な形をしている。

「同じ学校だね」

由香里も気づいた。

「うん」

あいは少女の動きを目で追った。

そこで、もう一度驚く。

人が多い。

それなのに、少女はほとんど止まらない。

前から会社員が歩いてくる。

少女は、その人が近づくより少し前に、ほんのわずか車いすの向きを変えた。

すれ違う。

そのまま元の進路へ戻る。

柱がある。

壁際を歩く人がいる。

横から別の学生が出てくる。

けれど少女は、慌てる様子もなく、それらの間をするりと抜けていく。

「上手……」

あいは思わず見入った。

車輪へ手をかける動きも速すぎない。

大きく切り返すわけでもない。

必要な時に必要なだけ力を加えて、自然に方向を変えている。

曲がり角へ差しかかった。

向こう側から人が来るかどうか、あいの位置からはよく見えない。

少女は少しだけ速度を落とす。

そして、角から女性が現れる直前に進路をわずかに外した。

女性も少女も止まらない。

互いに自然にすれ違っていく。

「……今の、見えてたのかな」

あいが呟く。

「何が?」

美咲が聞く。

「角の向こうの人。出てくる前に避けてたから」

「音とかでわかったんじゃない?」

「そうかもしれないけど……」

あいは首を傾げる。

また少女が人をかわす。

今度は、前を歩いていた学生が急に横へ寄った。

その瞬間にはもう、少女の車いすは反対側へ少しだけ軌道を変えていた。

「なんていうか……」

あいは言葉を探した。

数学の図を見る時とは違う。

それでも、なぜか自分には気になる動きだった。

人の位置。

柱。

壁。

通路の幅。

曲がり角。

空いている場所。

それら全部を、少女は一つの空間として見ているように感じる。

「周りとの距離を、全部わかってるみたい……」

あいが言うと、美咲も少女を見た。

「言われてみれば、全然ぶつかりそうにならないね」

「慣れてるんだろうね」

由香里が穏やかに言う。

「ずっと使っているなら、私たちが歩くのと同じくらい自然なのかもしれない」

「そっか……」

あいは納得しかけて、もう一度少女を見る。

その姿は確かに自然だった。

特別なことをしているようには見えない。

あいが歩く時に、いちいち右足をどこへ置くか考えないのと同じなのかもしれない。

それでも――。

(すごいな)

あいには、そう思えた。

自分は空間を考える時、点や線に置き換える。

柱を基準点にして。

境界を線として見て。

どこをどう結べばいいかを考える。

けれど、あの少女はそんなことを考えているようには見えない。

身体でわかっている。

そんな感じだった。

「……あい?」

由香里の声で、あいは我に返った。

「え?」

「見すぎじゃない?」

「あっ」

言われて、あいは慌てて視線を外した。

「ご、ごめん。別に、その……」

「気になるのはわかるけど」

美咲が笑う。

「同じ学校なら、そのうち校内で会うんじゃない?」

「そうだね……」

あいは少し恥ずかしくなった。

知らない人をじっと見るのはよくない。

そう思って前を向こうとした、その時だった。

車いすの少女が、ふとこちらを見た。

「……え」

あいの心臓が小さく跳ねた。

(見てたの、気づかれた?)

思わず眼鏡の奥で目を逸らしかける。

けれど。

少女の視線は、あいではなかった。

少し低い。

あいたちの足元の方。

(……?)

そこには、アムルがいた。

少し離れてフルル。

由香里の近くにはネロリもいる。

もちろん、朝の駅を歩く他の人たちは三匹に何の反応も示していない。

パートナー猫の姿は、普通の人には明確に認識されない。

なのに。

少女の目が、一瞬だけアムルの位置で止まったように見えた。

(今……)

あいは息を止める。

(アムルを見た?)

ほんの一瞬だった。

少女は表情を変えない。

驚きもしない。

声もかけない。

ただ、そこに何かがいることを確かめたように視線を動かし――そのまま前へ戻した。

車いすが再び進む。

「……あいちゃん?」

美咲が怪訝そうな顔をする。

「あの子がどうかした?」

「う、ううん……」

あいは答えながら、遠ざかっていく少女を見る。

人波の中を、迷いのない動きで進んでいく。

「たぶん、気のせい」

「何が?」

「……なんでもない」

まだ言うほどのことではない。

ただ偶然こちらを見ただけかもしれない。

アムルではなく、その向こうにある何かを見ていたのかもしれない。

あい自身、確信はなかった。

それなのに。

胸の奥に、小さな引っかかりが残った。

以前にも似たことがあった。

誰にも見えていないはずのものを、自然に見つけた人がいた。

今、隣を歩いている由香里だ。

(でも……まさかね)

あいは、自分の考えをそこで止めた。

知らないことを、勝手に決めつけてはいけない。

それは魔法について考える時にも、自分が何度も気をつけてきたことだった。

「ほら、行こ!」

美咲が先を促す。

「本当に電車乗れなくなるよ」

「あ、うん」

「急ごう」

由香里も歩き出す。

あいは最後に一度だけ振り返った。

車いすの少女はもう、人の流れの向こうへ溶け込んでいた。

名前も知らない。

何年生なのかも知らない。

ただ、さくら女子の生徒だということだけ。

それでも。

あいの中には、その迷いのない車いすの動きと――一瞬だけアムルへ向けられたように見えた視線が、妙にはっきりと残っていた。


◆ 風の強い校門


桜坂駅の改札を出た瞬間、あいの頬を強い風がなでた。

「わっ……」

思わず足を止める。

駅前の建物の間を抜けてきた風が、制服のスカートを揺らした。

あいは反射的に片手を添える。

「今日、思ったより風あるね」

美咲が前髪を押さえながら言った。

「朝、家を出た時はここまでじゃなかったのに……」

あいは答えながら、姿勢を整えた。

玄関で母から言われたことを思い出す。

――慣れてきた時の方が油断するから、階段と風には気をつけなさい。

(お母さん、こういうことだったのかな……)

さっそく注意された通りになっている。

由香里、大丈夫?」

美咲が横を見る。

「うん」

由香里は答えたものの、いつもより少しだけ歩き方が慎重だった。

あいと同じく、由香里も短めのスカートに慣れる途中だ。

風が吹くたび、自然に対応する美咲と比べると、まだわずかに身体へ力が入っているのがわかる。

「美咲は慣れてるね」

由香里が言う。

「まあね」

美咲は軽く笑う。

「風と階段は敵に回さないのが一番」

「それ、なんか魔法戦士みたいな言い方……」

あいが小声で言うと、美咲が「あ」と口をつぐんだ。

周囲には、同じ学校へ向かう生徒が何人もいる。

「危ない危ない」

「美咲ちゃん……」

「今のは普通の話ってことで」

「普通かな……」

由香里が小さく笑った。

三人はそのまま学校へ向かう。

朝の戦闘が嘘だったかのように、通学路はいつもと変わらない。

ただ、あいの左腕にはまだ、ごくかすかな熱っぽさが残っていた。

痛いほどではない。

けれど、忘れてしまえるほどでもない。

(学校に着いたら、鶴岡先生に……)

そう思いながら歩いていると、やがて校門が見えてきた。

そして。

「あ……」

あいは少しだけ身構えた。

校門の横に、高瀬真帆が立っている。

体育教師らしい姿勢のよさで、生徒たちへ次々と声をかけていた。

「おはよう!」

「おはようございます!」

「はい、おはよう。今日は風が強いからね。短めの子は特に気をつけなさい」

「はーい」

数人の生徒が明るく返事をして通り過ぎる。

怒っているわけではない。

スカート丈を一人ずつ細かく確認しているわけでもない。

ただ、今日の風を見て、安全面から注意しているようだった。

(やっぱり言われるよね……)

あいは無意識に背筋を伸ばす。

裾を気にしすぎない。

でも、風には注意する。

その二つを同時に考えると、少しだけ歩き方が硬くなる。

「宮本さん」

「は、はい!」

名前を呼ばれて、あいはびくっとした。

高瀬先生がこちらを見ている。

「そんなに緊張しなくていいから」

「……はい」

「今日は本当に風が強いからね。階段も気をつけて」

「はい。気をつけます」

高瀬先生はそれ以上何も言わず、今度は隣の二人を見る。

「橘さんは……まあ、大丈夫そうね」

「先生、それどういう意味ですか」

「あなたはこういう時だけ妙に動きがいいから」

「こういう時だけってひどくないです?」

美咲が不満そうな顔をする。

高瀬先生は笑いながら、由香里へ目を移した。

「田村さんも、無理に慌てて歩かないようにね」

「はい」

由香里も穏やかに答えた。

けれど高瀬先生から視線が外れた瞬間、ほんの少しだけ息を吐く。

「あい」

「うん?」

「こういうの、まだちょっと緊張するね」

「……うん。わかる」

二人が小声で話していると、美咲が振り返った。

「二人とも真面目すぎだって」

「美咲ちゃんが慣れすぎなんだよ」

「そう?」

「そう」

今度は由香里まで即答した。

「えー」

美咲が笑う。

そんなやり取りをしながら校門をくぐろうとした時だった。

「あ」

あいは、少し後ろから近づいてくる姿に気づいた。

車いすの少女。

瑞穂台駅で見かけた、あの生徒だった。

(やっぱり、同じ学校……)

もちろん制服を見ればわかっていたことだ。

それでも、実際に校門へ向かってくる姿を見ると、妙に意識してしまう。

駅と同じように、少女は自然な動きで車いすを進めている。

風が吹いても慌てる様子はない。

制服の前側にある小さなポーチも、そのまま落ち着いて収まっている。

高瀬先生も彼女に気づいた。

「藤崎さん、おはよう」

「おはようございます、高瀬先生」

明るい声だった。

「今日、風強いから気をつけてね」

「はい、大丈夫です」

少女――藤崎さんは、慣れた様子で笑う。

高瀬先生も、それ以上特別なことは言わなかった。

他の生徒と同じように朝の挨拶を交わし、安全に気をつけるよう一言添えただけ。

藤崎さんも、そのまま校門を通っていく。

(藤崎さん……)

あいはその名字を心の中で繰り返した。

その時、校内から別の女子生徒が近づいてきた。

「あ、紫織!」

車いすの少女が顔を上げる。

「おはよう」

「おはよう、紫織。今日ちょっと早くない?」

「そう? いつもと同じくらいじゃない?」

「私が遅いのかなあ」

「それじゃない?」

「ひどい」

二人が笑う。

どこにでもある、友人同士の朝の会話だった。

(紫織……)

藤崎紫織。

あいの中で名字と名前がつながった。

「あの子、紫織っていうんだ」

美咲も小さく言う。

「藤崎紫織さん、みたいだね」

由香里が答える。

「知ってた?」

美咲が聞く。

「ううん。今初めて」

「私も……」

あいは、紫織の後ろ姿を見た。

友人と話しながら、車いすを進めていく。

特別にゆっくり合わせてもらっているわけでもない。

友人が必要以上に世話を焼いているわけでもない。

紫織が何か困っている様子もない。

「ねえ、昨日の――」

「それ、ほんと?」

「ほんとだって」

そんな普通の会話をしながら、二人は校舎へ向かっていく。

途中、人の流れが少し詰まった。

紫織は、ごく自然に車いすの速度を落とす。

前を横切る生徒を待ち。

空いた瞬間に少し向きを変え。

別の生徒とぶつからない距離を取って、その間を滑るように抜けていった。

(やっぱり……)

駅で見た時と同じだ。

周囲の人との距離を、最初から全部知っているように見える。

そして。

あいは、もう一つのことを思い出した。

駅で、一瞬だけアムルの方へ向けられたように見えた視線。

(……藤崎紫織さん)

名前を知ったことで、さっきまで「知らない車いすの少女」だった存在が、急に少しだけ近くなったような気がした。

「どうしたの、あいちゃん?」

美咲の声で、あいは我に返った。

「え?」

「また見てる」

「あっ……」

あいは慌てて視線を前へ戻した。

「ご、ごめん」

「気になる?」

「うん……ちょっとだけ」

「車いすの動き?」

由香里が聞く。

「それもあるけど……」

あいは少し迷った。

アムルを見たように感じたことを話そうかとも思う。

でも、まだ確信はない。

ただの偶然かもしれない。

「……ううん。まだ、よくわからない」

結局、そう答えた。

由香里は追及せず、「そう」とだけ言った。

美咲も「そっか」と笑う。

「同じ学校なんだから、また会うかもね」

「……うん」

あいはうなずいた。

藤崎紫織。

それだけを、覚えておくことにした。

今は、それで十分だった。

「ほら、三人とも」

背後から高瀬先生の声が飛んでくる。

「校門で立ち話してると、本当に遅れるわよ」

「あっ」

三人同時に時計を見る。

「やば」

「美咲ちゃん」

「だから走らないって!」

「早歩きにしよう」

由香里に促され、三人は校舎へ向かって歩き出した。

風がまた、校庭を抜けていく。

あいは一瞬だけ姿勢を意識し、それから前を見る。

少し先には、友人と話しながら進む藤崎紫織の姿があった。

朝の学校の中へ溶け込んでいく、ごく普通の生徒の一人。

けれどあいの胸には、その名前が小さな違和感とともに残っていた。


◆ 社会科――東京府か、東京都か


一時間目の始業を知らせるチャイムが鳴った。

三年A組の教室に、それまで広がっていた朝のざわめきが少しずつ収まっていく。

あいは自分の席で教科書とノートを机の上に並べた。

左腕には、まだほんのわずかな違和感が残っている。

痛いというほどではない。

けれど、袖の内側が少し熱を持っているような、ひりつくような感覚が完全には消えていなかった。

(あとで、鶴岡先生に診てもらわないと……)

そう考えたところで、教室の扉が開いた。

「はい、おはようございます」

三条千景が入ってくる。

「おはようございます」

教室全体から声が返った。

三条先生は教卓へ資料を置くと、いつもの落ち着いた調子で教室を見回した。

「今日は予定していた範囲を少し変更します」

その言葉に、教室のあちこちから小さな反応が起こる。

「変更?」

「テスト範囲増えるやつ?」

「それは嫌なんだけど」

三条先生は苦笑した。

「安心してください。今日は教科書を進めるというより、皆さん自身に関係する話です」

そう言って、黒板へ向かう。

白いチョークで大きく書かれたのは、

――選挙。

という二文字だった。

「あ……」

由香里が小さく反応する。

あいは隣を見る。

由香里はすでにノートの新しいページを開いていた。

「皆さんの多くは、もう十八歳ですね」

三条先生が言う。

「十八歳ということは、今回の選挙では有権者になります」

教室が少しざわめいた。

「そうだった」

「初めてだよね」

「投票所ってどこ行くの?」

あいも、改めてその事実を考える。

(……私も、投票するんだ)

十八歳になったこと自体はもちろんわかっていた。

けれど「選挙権がある」と言われると、急にその年齢が別の意味を持ったような気がした。

これまではテレビや新聞で選挙の話を見ても、大人たちの話という感覚がどこかにあった。

今回は違う。

自分も選ぶ側になる。

「しかも」

三条先生が続けた。

「皆さんの初めての選挙としては、かなり大きなものになりました」

黒板へ新しく文字が増える。

衆議院総選挙。

参議院選挙。

「今年は参議院選挙の時期に合わせる形で衆議院が解散されました。そのため、衆議院と参議院の選挙が同じ日に行われる、いわゆる衆参同日選挙になります」

「両方……?」

あいは思わず呟いた。

三条先生はさらに書く。

最高裁判所裁判官国民審査。

「国政については、こちらもあります」

そこから少し間を置いて、今度は黒板の別の場所へ書き始めた。

東京府知事選挙。

東京府議会選挙。

東京市長選挙。

東京市議会選挙。

教室が一瞬静かになった。

そして。

「多っ!」

誰かが声を上げた。

あちこちから笑いが起きる。

美咲が、黒板を数え始めた。

「衆議院でしょ、参議院でしょ、国民審査で……府知事、府議会、市長、市議会……」

指を折っていた美咲の動きが途中で止まる。

「あの、先生」

「はい、橘さん」

「投票用紙、何枚書くんですか?」

教室にまた笑いが広がった。

「それ、私も思った」

「初めてなのに難易度高すぎない?」

三条先生も少し笑う。

「実際の投票方法は選挙管理委員会から案内がありますから、投票所でいきなり全部覚えていないといけない、ということではありません」

「よかったぁ」

美咲が机へ少しだけ沈んだ。

「でも橘さんの疑問は大事ですよ」

「え?」

「制度を理解する時には、実際に自分が何をするのか、というところから考えるのも立派な入り口です」

「おお……なんか褒められた」

「美咲、ちゃんと聞いた方がいいよ」

由香里が小声で言う。

「聞いてる聞いてる」

「今、ちょっと得意そうだったけど」

あいが言うと、美咲が笑った。

「だって褒められたし」

その横で、由香里のペンは止まらない。

国政。

府政。

市政。

それぞれを分けるように、きれいに項目を整理している。

(由香里、やっぱり社会好きなんだなあ……)

あいも慌ててノートを取る。

けれど、黒板に並んだ制度を見ているだけで、少し頭が混乱してくる。

衆議院。

参議院。

東京府。

東京市。

知事。

市長。

議会。

同じ東京に住んでいるのに、いくつもの枠組みが重なっている。

「さて」

三条先生がチョークを置き直した。

「そして今回、東京の選挙で特に大きな争点になっている問題があります」

黒板の中央を、一度きれいに空ける。

そこへ、ゆっくりと書いた。

東京府か、東京都か。

教室が静かになった。

あいはその文字を見る。

(東京……都?)

聞いたことがない言葉ではない。

歴史の授業では出てきたはずだ。

でも、今の自分たちが住んでいる場所は東京府だ。

「東京は、現在は東京府と東京市という二つの地方行政の仕組みを持っています」

三条先生が黒板を指した。

「私たちの学校で言えば、所在地は東京府東京市桜区ですね」

あいはノートにそのまま書く。

東京府。

その中に東京市。

その中に桜区。

「ですが、歴史上ずっとこの形だったわけではありません」

三条先生は別の色のチョークを取った。

「戦時中、東京府と東京市は統合され、一度『東京都』という制度へ再編されました」

黒板に、


 東京府+東京市

   ↓

  東京都


と簡単な図が描かれる。

「あ……それ、歴史でやった」

美咲が小さく呟く。

由香里はうなずいた。

「戦後に戻ったところも」

「そうなの?」

あいが尋ねる。

「うん」

由香里が声を落として答える。

「戦後の行政再編で、東京府と東京市に戻されたの」

黒板でも、三条先生がちょうど同じ説明をしていた。

「戦後、東京都の制度は改められ、東京府と東京市が再び置かれました。それが現在まで続いています」

チョークが黒板を滑る。


 東京都

   ↓

 東京府+東京市


「ところが今回、その仕組みをもう一度見直そう、という議論が大きくなっています」

先生は教室を見回した。

「つまり――」

黒板の中央にある言葉を指す。

「今の東京府と東京市を維持するのか。それとも両者を再編して、再び東京都という一つの広域自治体へまとめるのか」

あいは黒板を見つめた。

(まとめる……)

なんとなくはわかる。

けれど、なぜそれが必要なのかまでは、まだぴんとこない。

三条先生は黒板を左右に分けた。

左に、

東京都化。

右に、

府市制度維持。

と書く。

「では、まず東京都への再編を支持する側の考えから見てみましょう」

左側へ箇条書きが増えていく。

国際都市としてのわかりやすさ。

政府・経済機能の実態との整合。

そして――。

府市二重行政の解消。

三条先生は、最後の言葉へ線を引いた。

「現在の議論で、特に大きく取り上げられているのがこれです」

「二重行政……」

あいが呟く。

「東京府と東京市は、同じ地域に対して、それぞれ行政機能を持っています」

三条先生が説明を続ける。

「もちろん役割は分担されています。ただ、分野によっては似た仕事を府と市の双方が行ったり、計画の調整に時間がかかったりすることがあります」

「同じことを二回やってるってことですか?」

前の方の生徒が尋ねた。

「必ずしも全く同じことを二回しているわけではありません。ただ、似た権限や業務が重なることで、効率が悪くなるのではないか、という批判があります」

先生は言葉を選ぶように答えた。

「そのため、『府と市を一つの東京都へ再編して、行政をわかりやすくした方がよい』というのが支持側の代表的な主張です」

由香里が静かにノートを取る。

あいも書き写しながら考える。

(同じ場所に、府と市がある……)

頭の中に、自然と数学の図が浮かんだ。

一枚の平面。

その上に引かれる座標軸。

そして、同じ場所へもう一組の座標軸を重ねる。

(なんだろう……)

それなら少しわかる気がする。

(同じ場所に、二つの座標系が重なってるみたい)

東京府という枠組み。

東京市という枠組み。

どちらも同じ地域を見ているけれど、基準や役割が少し違う。

完全に同じものではない。

でも、重なっているところもある。

(それを、一つにするってことなのかな)

ようやく少しだけ形が見えてきた。

「また、東京には中央政府の行政機能や、大きな経済機能が集中しています」

三条先生が続ける。

「その実態に合わせて、東京を一つの広域都市として整理した方がよいという意見もあります。海外から見た時にも、『東京都』という一つの都市単位の方が理解されやすい、という主張があります」

美咲が小声で、

「外国の人からしたら、東京府の中に東京市って、ややこしいのかな」

と言った。

「私たちは慣れてるからね」

由香里が答える。

「でも、制度がややこしいことと、変えた方がいいことは別の話だと思う」

「さすが由香里」

「まだ先生が反対側を説明してないでしょう」

「あ、そっか」

三条先生が今度は黒板の右側へ移る。

「では、現状の東京府・東京市制度を維持すべきだという側は、何を問題にしているでしょうか」

右側へ文字が並んだ。

首都は京都にある。

権限集中への懸念。

戦時中の東京都制度への歴史的抵抗感。

先生は最後の項目へ線を引いた。

「こちらで特に重要なのが、歴史的な問題です」

教室の空気が少しだけ真面目になる。

「東京都という制度が最初に成立したのは戦時中でした」

三条先生は淡々と話す。

「行政を一元化し、戦時体制の中で都市を強く統制するという目的と結びついていた制度でもあります」

あいのペンが少し止まった。

「そのため、『二重行政が不便だから一つにすればいい』という話だけでは済まない、と考える人たちもいます」

三条先生は、東京都という文字を見た。

「制度そのものが現在と全く同じ形で復活するとは限りません。それでも、戦時中に作られた制度を再び採用することに抵抗を感じる人がいる。その歴史的な感情は、現在の議論でも無視できません」

由香里が特に丁寧に書いている。

(由香里、この辺り好きそう……)

歴史が得意な由香里にとっては、単なる制度の話ではなく、その制度が作られた背景も重要なのだろう。

「それから」

三条先生が続ける。

「現在の日本の首都は京都にあります」

黒板へ京都府と書く。

「中央政府の実務機能が東京に多く置かれていても、東京が首都であるということと同じではありません」

「じゃあ、『都』って名前にするのがおかしいってことですか?」

別の生徒が質問する。

三条先生はすぐには肯定しなかった。

「そう考える人もいます」

あくまで穏やかに答える。

「一方で、『都』という名称を必ず首都だけに限定する必要があるのか、現代の大都市制度として考えればよいのではないか、という意見もあります」

「なるほど……」

教室のあちこちから声が漏れる。

「さらに、府と市を統合すれば、広い権限が一つの自治体へ集中します」

三条先生は右側の「権限集中への懸念」を指した。

「行政が効率化するという見方もできますが、一方では、それぞれ別に存在していた府と市の権限を一つへまとめることになります。地方自治の観点から、それを慎重に考えるべきだという意見もあります」

黒板の左右。

東京都化。

府市制度維持。

どちらにも理由が書かれている。

あいはそれを見比べた。

「先生」

一人の生徒が手を挙げた。

「結局、どっちがいいんですか?」

教室が少し静かになる。

三条先生は、すぐには答えなかった。

黒板の左右を一度見てから、生徒たちへ向き直る。

「それを決めるのは、先生ではありません」

「え?」

「少なくとも、この授業ではね」

三条先生は微笑んだ。

「二重行政を整理することを重視するなら、東京都化に魅力を感じるかもしれません」

左側を指す。

「歴史的な経緯や権限集中を重く見るなら、現在の府市制度を維持したいと考えるかもしれません」

今度は右側。

「あるいは、東京都化には賛成だけれど制度設計には反対、という考えもあるでしょう。逆に、現状維持を支持しながら、府市の役割分担はもっと整理すべきだと考える人もいるはずです」

あいは、少し意外に思った。

賛成か反対か。

二つしかないように見えた。

でも実際には、その中にもいろいろな考え方がある。

「選挙というのは、正解を当てるテストではありません」

三条先生が言った。

「候補者や政党が何を主張しているのか。その制度を変えた時に何が起こるのか。変えなかった時には何が残るのか。それを自分で考えて選ぶものです」

あいは黒板を見た。

十八歳。

有権者。

自分で考えて選ぶ。

(……難しいな)

数学なら、条件が決まっていれば答えを求められる。

式を整理して。

順序を追って。

最後には正解へたどり着く。

でもこれは違う。

どちらにも理由がある。

何を大事にするかによって、答えが変わる。

あいはノートの端へ、小さく二つの四角を描いた。

東京府。

東京市。

重なるように線を引く。

(同じ場所に、二つの座標系が重なっているみたい)

もう一度、そう考える。

もし二つを一つにまとめれば、確かに仕組みは単純になるかもしれない。

けれど、一つにした時に失われるものもあるのかもしれない。

「あい」

小さな声がした。

由香里だった。

「大丈夫?」

「え?」

「さっきから腕、少し気にしてるでしょう」

「あ……」

無意識のうちに、あいは左腕へ右手を添えていた。

「うん。まだちょっとだけ。でも、授業は大丈夫」

「無理しないでね」

「うん」

三条先生の声が続いている。

「皆さんは今回、初めて投票する人が多いと思います」

先生は黒板の一番上に書いた「選挙」という文字へ戻った。

「ですから、ニュースの言葉だけで決めるのではなく、一度、自分で調べてみてください。東京都化についても、賛成意見と反対意見の両方を読んでみること」

少し間を置く。

「初めての一票だからこそ、『なんとなく』だけで終わらせないこと。それが今日の授業で一番覚えてほしいことです」

チャイムまでは、まだ少し時間がある。

由香里は黒板を見ながらノートを整理している。

美咲は、自分のノートに書いた選挙の数を眺めていた。

「……やっぱり多い」

「美咲、まだそこ?」

「だって初めてなんだよ? 間違えそうじゃん」

「投票所で案内してくれるって先生が言ってたでしょう」

「由香里、一緒に行こうよ」

「投票所が同じならね」

二人の小声のやり取りを聞きながら、あいはもう一度黒板を見る。

東京府か、東京都か。

少し前までなら、ただの地名の違いにしか思わなかったかもしれない。

けれど、その後ろには行政の仕組みがあり、歴史があり、人によって違う考えがある。

(東京府が東京都になったら……)

あいは眼鏡の奥で、わずかに目を細めた。

(何が変わるんだろう)

今のあいには、まだ答えはわからなかった。

ただ、その疑問だけが、黒板の文字と一緒に心の中へ残った。


◆ あいの違和感


三条先生の授業は、その後も続いていた。

黒板には、

東京府か、東京都か。

という文字が残っている。

その左右には、東京都への再編を支持する意見と、現在の府市制度を維持する意見が、それぞれ整理されていた。

あいもノートへ書き写していた。

府市二重行政。

権限の集中。

戦時中の東京都制度。

首都と政府機能の違い。

少し難しい。

けれど、さっきよりはわかる。

東京府と東京市。

二つの仕組みが同じ場所に重なっている。

そう考えると、数学の座標のようで、少しだけ頭の中に形を作りやすかった。

(同じ場所を、違う枠組みで見ている……)

あいはノートの端に、小さな四角を二つ重ねて描いた。

その時だった。

「……っ」

ペン先が止まる。

左腕に、じわりと熱が広がった。

(また……)

朝から残っていた違和感。

花のような妖魔が放った黒緑色の液体。

変身中、その飛沫が戦闘衣の袖へ付着した場所だった。

制服へ戻った時には傷もなく、見た目には何も残っていなかった。

それでも、皮膚の表面というより、その少し内側に熱がこもっているような感覚だけは続いていた。

さっきまでは、気にしなければ忘れられる程度だった。

けれど今は。

(……少し、強くなってる?)

あいは左腕へ視線を落とした。

白いブラウスの袖。

見た目は普通だ。

赤くもなっていない。

腫れてもいない。

右手で、そっと袖の上から触れてみる。

痛くはない。

ただ、ひりつく。

熱いお湯へ触れたあとに残るような、弱い熱感。

さらに、戦闘衣のスカートの端へ液体が触れたあたりにも、似たような違和感があった。

(大丈夫……)

あいは自分に言い聞かせる。

(強い痛みじゃないし)

三条先生の声へ意識を戻す。

「――東京都への再編に賛成する場合でも、具体的にどの権限を統合するのかによって、制度の評価は変わってきます」

黒板を見る。

ノートを見る。

ペンを動かす。

けれど。

「……」

また左腕が気になった。

一行書いて、止まる。

もう一行書いて、袖を見る。

さっきまで理解できていた先生の話が、少しずつ頭へ入らなくなっていく。

(集中しないと……)

そう思うほど、逆に違和感を意識してしまう。

「あい」

小さな声がした。

「え?」

隣を見る。

由香里が、あいを見ていた。

「……あい、大丈夫?」

「うん」

反射的に答える。

けれど、由香里の表情は変わらなかった。

「たぶん……」

あいは付け加えた。

「たぶん、って」

「朝からあったのが、少し気になるだけだから」

「少し?」

「うん。強い痛みじゃないよ」

嘘ではない。

本当に強い痛みではない。

けれど由香里は、それだけでは納得しなかったようだった。

あいの左腕を見る。

次に、顔を見る。

「さっきから、同じところ何回も触ってるよ」

「……そう?」

「うん」

言われて、あいは右手を離した。

自分では気づいていなかった。

「それに、さっきまで先生の話、ずっとノート取ってたでしょう?」

「うん」

「今、ほとんど止まってる」

「あ……」

ノートを見る。

確かに、途中から文字が急に少なくなっていた。

由香里は、こういうところをよく見ている。

「保健室、行った方がいいと思う」

「でも……」

「あい」

少しだけ強い口調だった。

怒っているわけではない。

けれど、「大丈夫」と言って済ませようとしていることを見抜いた声だった。

「朝、学校に着いたら診てもらうって話したよね」

「……うん」

「それなのに、さっきより気になるんでしょう?」

「……うん」

今度は素直に認めた。

由香里の表情が少しやわらぐ。

その時。

前の席から、美咲がちらりと振り返った。

先生の目を気にして、一瞬だけ。

けれど、あいと由香里が小声で話している様子を見ると、すぐに眉を寄せた。

『どうしたの?』

声を出さず、口の動きだけで聞いてくる。

由香里が自分の腕を軽く指して、それからあいを見る。

美咲の表情が変わった。

「あいちゃん、まだ変なの?」

かなり小さな声だった。

「う、うん……ちょっとだけ」

「さっきより?」

「……少し」

美咲はすぐに椅子から腰を浮かせかけた。

「じゃ、保健室――」

「橘さん」

「はいっ!」

教室の前から声が飛んだ。

三条先生だった。

美咲はぴたりと固まる。

クラスの何人かが振り返った。

「何かありましたか?」

「あ……えっと」

美咲が困ったようにあいを見る。

由香里が静かに手を挙げた。

「先生」

「はい、田村さん」

「宮本さんが、少し体調が悪いみたいです」

三条先生の表情がすぐに変わった。

「宮本さん?」

「はい」

あいは小さく返事をした。

「どんな感じですか?」

魔法のことは言えない。

妖魔の液体を受けたことも。

戦闘衣が侵食されたことも。

あいは少し迷ってから、一般的に説明できるところだけを口にした。

「腕のあたりが、少し熱っぽい感じがして……。強い痛みではないんですけど、さっきより気になってきて」

「気分が悪いとか、めまいは?」

「それはないです」

「歩けますか?」

「はい」

三条先生は少し考えてから、うなずいた。

「それなら、保健室で診てもらいなさい」

「はい」

そこで、美咲が今度はきちんと手を挙げた。

「先生。私、付き添ってもいいですか?」

三条先生が美咲を見る。

「橘さんが?」

「はい。朝からずっと一緒だったので。宮本さんの様子も見てました」

それは、一般人にも説明できる範囲では本当だった。

今朝、あいと美咲は一緒に登校してきた。

三条先生はあいの様子を確認してから、うなずいた。

「わかりました。では橘さん、お願いします」

「はい!」

美咲の返事が少し大きい。

「ただし、廊下は走らないこと」

「あ……はい」

教室に小さな笑いが起こった。

美咲が少し照れたように座り直す。

由香里はあいへ顔を寄せた。

「私は授業を聞いておくね」

「由香里……」

「今日の内容、たぶんこの後も大事なところがあると思うから」

由香里は自分のノートを軽く指で示した。

東京府と東京都。

府市二重行政。

戦時中の制度。

きれいに整理された文字が並んでいる。

「あとで三人で話そう」

「……うん」

あいは少しほっとした。

「お願い」

「任せて」

由香里が微笑む。

社会や歴史のことなら、本当に任せられる。

美咲が立ち上がり、あいのそばへ来た。

「あいちゃん、歩ける?」

「うん。普通に歩けるよ」

「じゃあ、ゆっくり行こ」

「美咲ちゃんの方が急ぎそうだけど」

「今日は急がないって」

「先生にも言われたしね」

由香里が静かに付け加える。

「由香里まで……」

美咲が少しむくれる。

三条先生が教卓から声をかけた。

「宮本さん、具合が悪ければそのまま休んでくださいね」

「はい。ありがとうございます」

「橘さんも、保健室へ送ったあと、どうするかは鶴岡先生の指示を聞いてください」

「はい」

あいは椅子から立ち上がった。

その瞬間。

「……っ」

戦闘衣のスカートに液体が触れた場所に対応するあたりへ、またわずかな熱感が走った。

ほんの一瞬だけ、動きが止まる。

美咲がすぐに気づいた。

「あいちゃん?」

「大丈夫。ちょっとだけ」

「……それ、保健室行って正解だからね」

「うん」

今度は、あいも否定しなかった。

美咲と一緒に教室の扉へ向かう。

扉のところで、あいは一度だけ振り返った。

由香里がこちらを見ている。

あいが小さくうなずくと、由香里も静かにうなずき返した。

その机の上には、社会科のノートが開かれたままだ。

「それでは授業を続けます」

三条先生の声が教室へ戻る。

「東京都への再編を考える時には、制度だけでなく、その成立した歴史も見る必要があります――」

扉が静かに閉まる。

廊下へ出ると、教室の声が少し遠くなった。

「あいちゃん」

隣で美咲が言う。

「腕、ほんとに大丈夫?」

「うん。でも……さっきよりは、ちょっと気になる」

「だったら無理しない」

「うん」

あいは素直に答えた。

二人で階段へ向かう。

今朝、妖魔と戦った時。

フローラは前に出て、蔓やつぼみからラブを守ってくれた。

今は制服姿に戻っている。

剣もない。

魔法も使えない。

それでも、美咲が隣にいることは変わらなかった。

「ゆっくりね、あいちゃん」

「うん」

階段へ差しかかり、あいは手すりへ軽く手を添えた。

左腕にはまだ、朝の戦いの続きを思わせるような、じんわりとした熱が残っている。

その頃、教室では。

由香里が三条先生の話を聞きながら、黒板の内容を一つずつノートへ書き留めていた。

あとで三人で話すために。


◆ 鶴岡先生の診立て


三階から一階へ向かう階段を、あいと美咲はゆっくり下りていった。

「ほんとに走らなくて大丈夫だからね」

隣を歩く美咲が言う。

「走ってないよ」

「階段で急ごうとしてた」

「……ちょっとだけ」

「ほら」

すぐに見抜かれて、あいは言葉に詰まった。

左腕には、まだじんわりとした熱が残っている。

それだけではない。

朝の戦闘で、花のような妖魔が放った液体が戦闘衣へ触れた場所。

その辺りにも、弱いひりつきのような違和感が続いていた。

強い痛みではない。

普通に歩くこともできる。

だからこそ、つい「このくらいなら」と思ってしまう。

「由香里にも言われたでしょ」

美咲が前を向いたまま言った。

「無理しない方がいいって」

「うん……」

「それに鶴岡先生なら、普通の保健室じゃわかんないこともわかるかもしれないし」

「……そうだね」

その言葉には、あいも素直にうなずいた。

黒霧。

妖魔。

魔法戦士。

それらの存在を知る人は、学校の中でも多くない。

少なくとも、鶴岡先生が自分たちの秘密を知っていて、魔力の異変にも対応できることは、これまでの出来事でわかっている。

やがて、一階の保健室が見えてきた。

美咲が扉を軽くノックする。

「失礼します」

「はい、どうぞ」

中から聞き慣れた声が返ってきた。

扉を開ける。

白いカーテン。

整えられたベッド。

消毒液のかすかな匂い。

以前にも何度か入ったことのある、いつもの保健室だった。

白衣姿の鶴岡紗英が、机から顔を上げる。

「あら、宮本さんと橘さん」

穏やかな表情。

けれど、あいの顔を見た瞬間、その目つきが少しだけ変わった。

「授業中でしょう?」

「はい」

あいが答える。

「三条先生に許可をもらって来ました」

「宮本さんがちょっと変なんです」

「美咲ちゃん、その言い方……」

「あ、ごめん。体調が」

鶴岡先生は苦笑したものの、すぐに立ち上がった。

「とりあえず座って。どんな感じ?」

あいは丸椅子へ腰を下ろす。

「左腕の辺りが、少し熱い感じがして……。あと、もう一か所も少しひりひりするというか」

「いつから?」

「朝からです」

「朝?」

鶴岡先生が聞き返す。

あいは一瞬、美咲と顔を見合わせた。

ここでなら話していい。

そう判断する。

「……登校途中に、妖魔が出ました」

鶴岡先生の表情から、わずかに笑みが消えた。

「場所は?」

「瑞穂台駅の南口側です。歩道橋の下」

「一般の人は?」

「巻き込まれてません」

美咲がすぐに答えた。

「三人で虚数空間に入れて倒しました」

「三人ということは、田村さんも?」

「はい」

あいがうなずく。

「由香里は今、教室で授業を受けてます」

「そう」

鶴岡先生はそれだけ確認すると、あいへ視線を戻した。

「妖魔は、いつもの黒霧型?」

「それが……ちょっと違って」

あいは朝の出来事を順番に説明した。

黒霧が植物のような形を作ったこと。

黒緑色の蔓があったこと。

先端にいくつものつぼみがあったこと。

そのつぼみから、黒緑色の液体が飛んできたこと。

そして――。

「その液体が戦闘衣に付いたら、そこだけ光の粒みたいに崩れ始めたんです」

鶴岡先生の眉がわずかに寄る。

「戦闘衣が?」

「はい」

「身体は?」

「その時は、痛くありませんでした。戦闘衣の下の防護みたいなものは残っていた感じで……」

「解除したあとは?」

「制服には何も残ってません。でも、その場所だけ今も少し熱いです」

鶴岡先生はしばらく黙って聞いていた。

「ほかに症状は?」

「めまいはないです。気分も悪くないです」

「吐き気は?」

「ないです」

「息苦しさは?」

「それもないです」

「わかった」

鶴岡先生は、まず普段の保健室と同じようにあいの状態を確認した。

顔色。

脈。

呼吸。

体温。

「熱はないわね」

「はい」

「腕を見せてもらえる?」

「はい」

あいは左腕の袖を上げた。

妖魔の液体が触れた場所に、大きな傷はない。

赤く腫れている様子もない。

鶴岡先生は直接強く触れず、まず周囲を確認した。

「ここ?」

「……はい。その辺りです」

「触ると痛い?」

「痛くはないです。ただ、内側が少し熱い感じがします」

「なるほど」

鶴岡先生は静かにうなずいた。

そして、あいの顔を見る。

「もう一か所は?」

「あ……」

あいが少し言いにくそうにすると、美咲がすぐに察した。

「私、カーテンの外にいるね」

「え?」

「先生に診てもらうんでしょ?」

「あ……うん」

美咲は何でもないことのようにカーテンの外へ出ていく。

「何かあったら呼んでね」

「うん。ありがとう」

鶴岡先生も特に急かさず、カーテンを閉めた。

必要な場所だけを確認する。

こちらにも目立った外傷はなかった。

「見た目には、どちらも大きな傷はないわ」

確認を終えると、鶴岡先生はそう言った。

あいは少し安心した。

「じゃあ、大丈夫なんでしょうか?」

「それは、まだ何とも言えないわね」

「え……」

鶴岡先生の口調は穏やかだった。

「怖がらなくていいの。少なくとも、今すぐ危険な状態には見えない」

「はい」

「ただ、普通の傷がないから、何も起きていないとは限らない」

あいは黙って聞く。

「あなたたちの戦闘衣は、普通の布でできているわけじゃないでしょう?」

「……はい」

「変身中の魔力によって形成されている。その魔力構成に外から強い干渉を受けたのなら、変身を解除したあとにも、身体側の魔力の流れに一時的な乱れが残る可能性はあるわ」

「魔力の流れ……」

「可能性よ」

鶴岡先生はすぐに付け加えた。

「今回の妖魔が放った液体を、私は実際に見ていない。どういう性質なのか、どうして戦闘衣へああいう作用をしたのかも、まだわからない」

「先生でも?」

カーテンの外から、美咲の声が聞こえた。

「ええ。わからないものは、わからないわ」

鶴岡先生はあっさり答えた。

「妖魔の現象を何でも説明できるわけじゃないもの」

その言葉に、あいは少しだけ肩の力を抜いた。

アムルも同じようなことを言っていた。

知らないものを、無理に知っていることにしない。

「だから今は、見えている症状に対して処置をしましょう」

鶴岡先生は立ち上がると、保健室の奥にある鍵付きの収納へ向かった。

鍵を開ける。

中から取り出したのは、小さな容器だった。

「それ、普通の薬ですか?」

あいが尋ねる。

鶴岡先生は少しだけ笑った。

「普通ではないわね」

「やっぱり……」

「ミレニアム王国から取り寄せたものよ」

「えっ」

カーテンの外から美咲の声がした。

「そんなのあるんですか?」

「あるのよ」

それ以上詳しく説明する様子はない。

あいも、容器を見つめる。

「何の薬なんですか?」

「今は『魔法の薬』くらいに思っておいて」

「名前とかは?」

「それも今はいいでしょう」

「……はい」

名前を聞いても、今のあいにはきっとわからない。

鶴岡先生は容器を開けた。

「強い薬ではないわ。魔力の乱れが残った部分を落ち着かせるために使うもの」

そう説明しながら、まず左腕へ薄く薬を塗っていく。

「冷たい……」

「しみる?」

「いえ。大丈夫です」

ひんやりとした感覚。

その直後、じんわりと残っていた熱が、少しずつ遠のいていく気がした。

「あ……」

「どう?」

「さっきより、楽です」

「そう。なら反応は悪くなさそうね」

もう一か所についても、必要な処置を済ませる。

あいが制服を整えるまで待ってから、鶴岡先生はカーテンを開けた。

美咲がすぐに顔をのぞかせる。

「あいちゃん、どう?」

「少し楽になった」

「ほんと?」

「うん」

美咲の顔がぱっと明るくなる。

「よかったぁ……」

「でも」

鶴岡先生が言った。

美咲がすぐに姿勢を正す。

「あ、はい」

「治ったと決めつけないこと」

二人の表情が同時に引き締まった。

「今は症状が落ち着いただけ。あの液体がどんなものだったのか、まだわかっていないんだから」

「はい」

あいは素直にうなずいた。

「今日は無理をしないこと」

「……はい」

「体育があるなら、状態を見て見学も考えましょう。授業中にまた熱感が強くなったり、ひりつきが広がったり、ほかの症状が出たりしたら――」

鶴岡先生はあいの目を見る。

「すぐ来なさい」

「わかりました」

「『このくらいなら大丈夫』って我慢しないこと」

「……はい」

その言葉には少し心当たりがあった。

さっきまで、まさにそう思っていた。

美咲が横から、

「先生、もっと言ってください」

「美咲ちゃん」

「だって、あいちゃん絶対我慢するじゃん」

「そんなにしないよ……」

「する」

「……」

言い返せなかった。

鶴岡先生は二人のやり取りを見て、少し笑った。

「橘さんも、宮本さんが無理していたら連れてきてね」

「はい!」

「返事だけは本当にいいわね」

「だけってなんですか、先生」

保健室に小さな笑いが広がった。

その笑いに混じって、あいも少し笑う。

左腕へ意識を向けてみる。

まだ、ごく弱い違和感はある。

けれど、授業中のようなじんわりとした熱はかなり落ち着いていた。

「少しここで休んでいく?」

鶴岡先生が尋ねる。

あいは一瞬、教室へ戻ることを考えた。

三条先生の授業。

黒板の文字。

途中から聞けなかった話。

けれど。

「……少しだけ休みます」

自分でも意外なくらい、素直に答えられた。

「そうしなさい」

「美咲ちゃんは戻って大丈夫だよ」

「えー」

「授業あるでしょ」

「でも……」

「大丈夫。鶴岡先生もいるし」

あいが言うと、美咲は少し迷ったあと、ようやくうなずいた。

「わかった。でも、次の休み時間に来るからね」

「うん」

「絶対ね」

「うん」

美咲は鶴岡先生にも頭を下げ、保健室を出ていった。

扉が閉まる。

急に静かになった室内で、あいはベッドの端へ腰を下ろした。

鶴岡先生は机へ戻り、何かを記録している。

あいはぼんやりと窓の方を見た。

朝から、本当にいろいろなことがあった。

歩道橋で、落としたハンカチを自分で拾った。

そのすぐあと。

歩道橋の下に集まった黒霧。

植物のような妖魔。

戦闘衣を侵食する、見たことのない液体。

アロマが初めて使った《アロマ・ヴェール》。

フローラの《チェリー・ブラッサム》。

三人が別々の役割を果たして、コアを撃ち抜いた。

少しずつ、戦い方が変わっている。

少しずつ、自分たちもできることが増えている。

それなのに。

知らないことも、増えているような気がした。

あの液体は何だったのか。

どうして魔法戦士の戦闘衣を崩したのか。

そして――。

瑞穂台駅で見かけた、車いすの少女。

藤崎紫織。

人の流れや柱との距離を、全部わかっているように進んでいた少女。

あの時。

(やっぱり……アムルを見てたのかな)

わからない。

ただの偶然かもしれない。

名前を知っただけで、その子のことを何か知ったわけではない。

そしてもう一つ。

社会科の黒板。

白いチョークで大きく書かれた言葉が、頭の中に浮かんだ。

東京府か、東京都か。

東京は、かつて一度東京都になった。

戦後に東京府と東京市へ戻った。

そして今、もう一度東京都へ再編しようという議論がある。

由香里なら、授業の続きをきっときれいに整理しているだろう。

あとで三人で話したい。

できれば、図書室で資料も見てみたい。

「……知らないこと、まだいっぱいあるんだな」

あいは小さく呟いた。

「そうね」

不意に鶴岡先生の声が返ってきた。

「えっ」

聞かれていたことに気づき、あいは少し恥ずかしくなる。

けれど鶴岡先生は、記録から顔を上げただけだった。

「知らないことがあるのは、悪いことじゃないわ」

「……そうでしょうか」

「ええ。わからないって気づけたなら、調べられるでしょう?」

それだけ言って、鶴岡先生はまた手元へ視線を戻した。

あいは少し考えてから、

「はい」

と答えた。

魔法のことも。

妖魔のことも。

藤崎紫織のことも。

そして、自分たちが暮らしている社会のことも。

まだ知らないことばかりだ。

すぐに全部の答えを出す必要はないのかもしれない。

窓の外では、風に揺れる木の枝へ朝の光が差していた。

あいは、左腕の違和感が少し落ち着いたことを確かめる。

そして、授業で見た黒板の文字をもう一度思い出した。

(東京府が東京都になったら……)

あいは眼鏡の奥で、静かに目を細めた。

(本当に、何が変わるんだろう)

答えは、まだわからない。

その疑問だけを胸に残したまま、あいは保健室の静かなベッドで、しばらく身体を休めることにした。



◆用語説明

【チェリー・ブラッサム】

マジカル・フローラが使用する、桜の花びらをモチーフとした補助攻撃魔法。

淡い桜色の光でできた花びら型の魔法片を空中へ複数展開し、それぞれを飛ばして妖魔への攻撃や牽制を行う。

魔法片は単純に敵へ撃ち込むだけでなく、敵の動きを妨害したり、攻撃方向をずらしたり、仲間へ近づく敵を押し戻したりするなど、状況に応じた柔軟な使い方ができる。

マジカル・フローラは主武器である片手剣と《チェリー・ブラッサム》を同時に扱うことで、近距離では剣、少し離れた位置には花びら型の魔法片を使うという、立体的な前衛戦闘を行う。

今回、本格的に実戦投入され、複数のつぼみを牽制し、蔓の進路を変え、マジカル・ラブの《ラブ・バースト》の射線を確保するために使用された。

同時に展開できる魔法片の正確な数は、現時点では未確定。



読んでいただき、ありがとうございます。


今回はタイトルの通り、あいが「少し慣れてきた朝」を描きました。


短めの制服での歩き方や、階段、風、しゃがむ時の動作。

最初は何をするにも意識しすぎていたあいですが、少しずつ自分なりのやり方を覚え始めています。


歩道橋でハンカチを落とした場面も、その小さな成長を表す場面のひとつです。

まだ美咲から見れば「ひやひやする」動きではありますが、それでも今回は自分で拾うことができました。


そして、歩道橋下で現れた花のような妖魔。


今回の戦闘では、三人それぞれの役割も、これまでよりはっきりしてきました。


フローラは、片手剣に加えて 《チェリー・ブラッサム》を本格的に実戦投入。

桜の花びら型の魔法片で複数の蔓やつぼみを牽制し、ラブの射線を作りました。


アロマは、新しい防御・保護魔法 《アロマ・ヴェール》を使用。

自分が妖魔を倒すのではなく、仲間が力を発揮できる状況を作るという、由香里らしい支援型の戦い方が少しずつ形になってきています。


そしてラブは、マジカル・ビジョンに表示される情報を見ながら、妖魔の構造や攻撃方向、コアへの射線を自分自身で判断しました。


マジカル・ビジョンは「答えを教えてくれる装置」ではありません。

見えている情報から何を読み取り、どの線を選ぶのか。

そこは、あい自身が考えなければならない部分です。


三人の得意なことが少しずつ違ってきたことで、今回の戦闘では「三人で戦っている」感じを、これまで以上に出せたのではないかと思います。


一方で、花妖魔が放った黒緑色の液体は、これまでにはなかった攻撃でした。


身体を直接傷つけるのではなく、魔法戦士の戦闘衣を形成する魔力へ干渉する。


戦闘が終わって制服姿へ戻ったあとも違和感が残り、あいは鶴岡先生に診てもらうことになります。


あの液体が何だったのか。

どうして戦闘衣へ作用したのか。


このあたりは、まだあい達にもわかっていません。


そして今回、もうひとり新しく姿を見せたのが、車いすを使うさくら女子の生徒――藤崎紫織です。


瑞穂台駅の人混みの中を、周囲との距離を自然に把握しながら車いすで進んでいく姿。

そして、一瞬だけアムル達の方を見たように感じられた視線。


この時点では、あいにも紫織がどんな人物なのかはわかりません。


ただ、少し気になる同じ学校の生徒として、あいの記憶に残りました。


もうひとつ、今回から物語の中へ入ってきたのが「選挙」と「東京府」の話です。


あい、美咲、由香里は十八歳。

魔法戦士として妖魔と戦う一方で、初めて選挙へ参加する有権者でもあります。


社会科の黒板に書かれた、


「東京府か、東京都か」


という言葉。


府市二重行政を解消するために東京都へ再編するべきなのか。

それとも、歴史的な経緯や権限集中への懸念から、現在の東京府・東京市を維持するべきなのか。


今のあいには、まだ答えはありません。


魔法のことにも、知らないことがある。

妖魔のことにも、知らないことがある。

そして、自分が暮らしている社会についても、知らないことがたくさんある。


今回の最後にあいが感じた「知らないことが、まだいっぱいある」という感覚は、これからの物語にもつながっていくと思います。


魔法と学校生活。

仲間との成長。

そして少しずつ広がっていく、あい達の暮らす世界。


それぞれが少しずつ重なっていく物語にしていければと思っています。


感想や気になったシーン、

「このキャラクターをもっと見たい!」などありましたら、

お気軽にお寄せください。


次回も、読んでいただけたら嬉しいです。


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