長い一日の帰り道
朝からいくつもの出来事を経験した、あい、美咲、由香里。
放課後の図書室での事件を終えた三人は、ようやく学校を出て、それぞれの家へ帰ることになります。
今回は少し戦いから離れて、三人の帰り道と、長すぎた一日の終わりを描きます。
魔法戦士として同じ秘密を抱えるようになった三人が、普通の高校生として過ごす時間をお楽しみください。
◆ 荷物の残る図書室
保健室を出ると、廊下にはいつもの放課後の音が戻っていた。
遠くから聞こえる運動部の掛け声。
階段を下りていく生徒たちの話し声。
教室の扉が閉まる音。
少し前まで保健室の中で妖魔と戦っていたことが、嘘のようだった。
あいは美咲、由香里と並んで廊下を歩きながら、ふっと息を吐いた。
身体が重い。
痛いところがあるわけではない。けれど、肩から腕にかけて、力を使い切ったあとのようなだるさが残っている。
細く絞った《ラブ・バースト》。
あの瞬間の緊張を思い出すと、杖を握っていた手のひらに、まだ感覚が残っているような気がした。
「……疲れた」
隣で、美咲がぽつりと言った。
いつもの美咲なら、もっと勢いよく言いそうな言葉だった。
あいは少し意外に思って横を見る。
「美咲ちゃんでも疲れるんだね」
「なにそれ。私だって疲れるよ」
美咲が口を尖らせる。
「今日は朝からいろいろありすぎ。もう放課後っていうより、一日分追加された感じ」
「それは、ちょっとわかるかも……」
あいが苦笑すると、反対側を歩いていた由香里も小さく笑った。
「私は、朝のことが昨日みたいに感じる」
その言葉に、あいは思わず由香里を見る。
朝。
一時間目。
黒霧に包まれ、保健室へ運ばれた由香里。
それから、マジカル・アロマとして覚醒した。
まだ今日の出来事なのだ。
「そうだよね……」
あいはつぶやいた。
考えれば考えるほど、本当に長い一日だった。
三人は教室棟二階まで上がり、ガラス張りの渡り廊下へ出た。
先ほど、意識を失った生徒を車椅子で運んだ場所だ。
西へ傾いた光はさらに弱くなり、ガラス越しの空は夕方の色を濃くしている。
あの時は、少女の呼吸ばかり気にしていて、景色を見る余裕などなかった。
今は三人とも、自分の足でゆっくり歩いている。
そのことが、あいには少し不思議に思えた。
図書室棟へ入ると、空気が一段静かになった。
図書室の扉を開く。
「……あ」
あいは思わず小さな声を出した。
そこには、さっきまでとほとんど変わらない光景があった。
本棚の間を歩く生徒。
机に向かって参考書を読んでいる生徒。
ノートへ何かを書き込んでいる生徒。
ページをめくる乾いた音が、静かな室内へ時折響いている。
黒霧が現れ、一人の生徒が倒れた場所だとは、とても思えなかった。
もちろん、あの場面を見ていた生徒たちはいた。
けれど彼女たちが知っているのは、誰かが急に体調を崩して、保健室へ運ばれたということだけだ。
妖魔も。
黒霧も。
保健室で行われた戦いも。
誰も知らない。
あいは本棚の奥へ視線を向けた。
あの生徒が倒れた辺りには、もう何の異変もなかった。
ただ、本棚が並んでいるだけだ。
その普通さに、ほっとするような、奇妙な気持ちになる。
「戻ったね」
由香里が小声で言った。
「うん」
あいも小さく答える。
美咲は室内を見回してから、三人が使っていた机へ向かった。
「あー……」
急に、がっくりと肩を落とす。
「どうしたの?」
「これ」
美咲が指差した先には、開いたままの数学の問題集があった。
その横には、途中まで書かれたノートとシャープペンシル。
あいのノートも、由香里のノートも、勉強会を中断した時のままだ。
美咲は椅子の背に手を置きながら、問題集を見下ろした。
「結局、数学一問しか進んでないんだけど」
由香里が、少しだけ口元を緩める。
「ちゃんと一問は進んだじゃない」
「由香里、その言い方、慰めになってないよ」
「でも事実でしょう?」
「そうだけどさあ」
美咲が机に突っ伏しそうになり、途中で思い直したように鞄を手に取った。
あいはそのやり取りを見ているうちに、少しだけ肩の力が抜けた。
ついさっきまで、人の命に関わるかもしれない状況で魔法を使っていた。
それなのに今は、数学の問題が一問しか進まなかったことを話している。
その落差がおかしくて、あいは小さく笑った。
「明日、続きをしよう」
「明日?」
「うん。今日の分まで全部やろうとしたら、たぶん余計に疲れると思う」
「さすがあいちゃん。今日は宿題を減らす方向に頭がいい」
「減らしてないよ。明日に移しただけだから」
「それ、結局やるやつじゃん」
「そうだよ」
あいが答えると、美咲は「ですよねー」と肩を落とした。
由香里がくすりと笑う。
いつもの三人の会話だった。
昨日までなら、それだけだったはずなのに。
今は三人とも、同じ秘密を知っている。
同じ姿へ変身し、同じ妖魔を見て、誰にも言えない出来事を共有している。
それでも、数学の問題集の前では、あいと美咲と由香里のままだった。
「片づけようか」
由香里の言葉に、三人はそれぞれ机の上のものを鞄へ戻し始めた。
あいは問題集を閉じ、ノートを重ねる。
筆箱へシャープペンシルと消しゴムをしまいながら、ふと机の端を見る。
ほんの少し前まで、ここで妖護隊について話していた。
魔法戦士を支える組織。
人払い。
救護。
秘密を守ること。
その話をした直後、本当に誰かを助けることになるとは思ってもいなかった。
「宮本さん」
声をかけられ、あいは顔を上げた。
司書教諭が、少し離れたところに立っていた。
「あの生徒、どうだった?」
心配そうな表情だった。
あいは、美咲と由香里を一度見てから答える。
「目を覚ましました」
「そう。よかった……」
司書教諭の表情が、はっきりとやわらいだ。
「鶴岡先生が診てくださって、今は落ち着いています。本人も歩けるくらいになって、もう帰りました」
もちろん、その間に何があったのかは言わない。
黒霧が身体の中に残っていたことも。
三人で変身したことも。
アロマが生徒を守り、フローラが妖魔を抑え、ラブがコアを撃ち抜いたことも。
司書教諭は何も知らないまま、大きく息を吐いた。
「本当によかったわ。急に倒れたから、心配していたの」
「はい」
由香里が穏やかにうなずく。
「本人も、もう苦しくないと言っていました」
「あなたたちもありがとう。すぐに気づいてくれて助かったわ」
「いやいや、私はたまたま近くにいただけなんで」
美咲が少し照れたように笑う。
あいも小さく頭を下げた。
「無事だったので、本当によかったです」
それは嘘ではなかった。
むしろ、今日一番素直に言える言葉だった。
司書教諭はもう一度礼を言うと、カウンターの方へ戻っていった。
三人はその背中を見送る。
少し間を置いて、美咲が声を落とした。
「……本当のこと、何にも言えないんだね」
「うん」
あいも小さく答えた。
わかっていたことだった。
魔法戦士の存在は秘密だ。
誰かを助けても、その理由を説明することはできない。
感謝されても、「保健室へ運んだだけ」としか言えない。
けれど。
あいは鞄を閉じながら、さっき目を覚ました少女の顔を思い出した。
何も知らないまま、本を鞄へ入れて帰っていった少女。
その姿を見られただけでよかったのかもしれない。
「でも」
由香里が静かに言った。
「知られなくても、あの子が無事なら、それでいいんじゃないかな」
美咲が由香里を見る。
それから、少しだけ笑った。
「……うん。そうだね」
あいも、ゆっくりとうなずいた。
「私も、そう思う」
三人は鞄を持って立ち上がった。
机の上には、もう何も残っていない。
途中だった勉強会も、妖護隊の話も、突然起きた事件も、全部この図書室に置いていくような気がした。
けれど、忘れるわけではない。
明日になれば、また続きをする。
数学の問題も。
三人の学校生活も。
そしてきっと、魔法戦士として知っていかなければならないことも。
「じゃ、帰ろっか」
美咲が言った。
「うん」
「そうね。今日はもう帰った方がよさそう」
三人は並んで図書室の出口へ向かった。
背後では、また一枚、本のページがめくられた。
何事もなかったように続く、静かな放課後の音だった。
◆ 長すぎた一日
図書室の扉が、三人の後ろで静かに閉まった。
それまで耳に入っていたページをめくる音が遠ざかり、代わりに放課後の校舎の気配が戻ってくる。
「あー……」
廊下へ出た途端、美咲が長い息を吐いた。
それにつられたわけではないのに、あいもほとんど同じタイミングで息を吐く。
少し遅れて、由香里まで小さくため息をついた。
三人で顔を見合わせた。
「……みんな同じだね」
あいが言うと、美咲が力なく笑った。
「だって疲れたもん」
いつもの美咲なら、鞄を肩に掛けたまま先へ先へと歩いていく。
けれど今は、あいと由香里の間から離れようともせず、三人でゆっくり廊下を進んでいた。
あいも、肩に掛けた鞄が朝よりずっと重く感じる。
中身が増えたわけではない。
問題集も、ノートも、筆箱も、朝から持っていたものばかりだ。
それなのに、肩へ食い込む鞄の紐まで重く感じられた。
「今日、何回変身したっけ……」
美咲がぼそりと言った。
あいは思わず足を止めかけた。
「えっと……」
頭の中で朝から順番にたどってみる。
瑞穂台駅。
一時間目の保健室。
昼休みの非常階段。
そして、放課後の保健室。
「……四回?」
あいが自信なさそうに答えると、美咲が遠い目をした。
「やっぱ数えるのやめよ。余計に疲れるから」
「美咲が聞いたんでしょう」
由香里が穏やかに言う。
「そうだけど、答えを知りたくない質問ってあるじゃん」
「それは質問する前に気づいた方がいいと思う」
「由香里まで冷静なこと言う……」
美咲が肩を落とす。
あいは少し笑った。
「由香里は、私たちより一回少ないね」
「そうね。朝は……私が助けてもらう方だったから」
由香里の声が、ほんの少しだけ静かになった。
あいは横を見る。
由香里は前を向いて歩いている。
朝の出来事を思い出しているのだろう。
一時間目。
教室で顔色を悪くし、黒霧に包まれ、あいと美咲に支えられて保健室へ向かった由香里。
その由香里が、放課後には別の生徒を助けるために魔法を使っていた。
まだ一日も経っていない。
そのことを改めて考えると、あいには不思議な感じがした。
「でも……」
由香里が続ける。
「朝よりは、少し落ち着いて動けた気がする」
「うん」
あいはすぐにうなずいた。
「保健室でも、ちゃんと鶴岡先生の話を聞いてたし。《アロマ・スリープヴェール》も……」
そこまで言って、あいは周囲を確認した。
廊下の向こうを、二人の生徒が歩いている。
距離はある。
けれど、ここは学校の中だ。
あいは慌てて声を小さくした。
「……あれも、ちゃんとできてたと思う」
由香里も事情を察したらしく、少しだけ笑った。
「ありがとう。でも、すごく緊張したよ」
「そうは見えなかったけどなあ」
美咲が言う。
「私なんて、横で剣持ってるだけなのに、途中で腕が重くなってきたし」
「美咲ちゃんでも?」
「だから、さっきも言ったでしょ。私だって疲れるって」
「そ、そうだったね」
三人はまた歩き出した。
図書室棟二階から、教室棟へ続くガラス張りの渡り廊下へ入る。
外は、もう昼間の明るさではなかった。
夕暮れの光が校舎の壁を斜めに照らし、校庭の向こうでは運動部の生徒たちが片づけを始めている。
少し前。
この同じ渡り廊下を、三人は意識を失った生徒を乗せた車椅子と一緒に通った。
あの時は、立ち止まる余裕などなかった。
あいはガラスの向こうへ目を向ける。
空はまだ明るい。
けれど、一日の終わりが近づいている色をしていた。
「朝はさ」
美咲が言った。
「今日がこんな一日になるなんて思ってなかったよね」
「うん……」
それは、あいも同じだった。
朝、自宅を出た時に考えていたのは、短くした制服のスカートで一日ちゃんと過ごせるだろうか、ということだった。
それだけでも、あいにとってはかなり大きな問題だった。
それなのに。
瑞穂台駅で妖魔と戦って。
美咲が魔法戦士になって。
学校では由香里が黒霧に襲われて。
由香里まで魔法戦士になって。
昼にはミレニアム王国という知らない世界の話を聞き。
放課後には妖護隊という政府組織について話し。
その直後には、知らない生徒を助けるために三人で魔法を使った。
朝の自分に話したとしても、きっと信じられない。
「長かったね……今日」
あいがつぶやく。
「長かった」
美咲がすぐに答える。
「まだ今日なのが信じられないくらい」
由香里も苦笑した。
渡り廊下を抜けると、三人は教室棟へ入った。
階段へ向かう。
由香里の歩く速さが、ほんの少し落ちた。
あいはすぐに気づいた。
「由香里、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
由香里はそう答えたものの、階段の前で一度だけ足を止めた。
疲れているせいなのか、それとも別の理由なのか。
一段目へ足を下ろす直前、由香里の手が制服のスカートの裾へそっと触れた。
今日から短くした丈は、朝までの由香里なら選ばなかったものだ。
昼休みに比べれば、動きはずっと自然になっている。
それでも、慣れきったわけではないらしい。
由香里は裾の位置を確かめると、すぐに手を離した。
「……まだ、ちょっと気になる」
小さな声で言う。
美咲が振り返った。
「無理して慣れなくてもいいんじゃない?」
「うん。私も、そう思う」
あいも続ける。
「今日はもう、十分頑張ったし」
由香里は二人を見る。
それから、少しだけ表情をやわらげた。
「そうね。今日はもう、頑張らなくてもいいかな」
「いいよいいよ」
美咲が言う。
「というか、今日は全員もう頑張るの禁止」
「それは明日の数学にも適用される?」
「もちろん」
「だめだよ」
あいが即座に答えると、美咲が「あいちゃんだけ厳しい!」と抗議した。
由香里が小さく笑う。
階段を下りる時、三人の歩調は自然とそろっていた。
誰が言い出したわけでもない。
由香里が少しゆっくり歩けば、あいも速度を落とす。
美咲も先へ行かず、その横にいる。
今日の朝なら、こんなふうに三人で歩くことにも、特別な意味など感じなかったはずだ。
同じクラスの友だち。
ただ、それだけだった。
でも今は違う。
三人とも、同じ秘密を抱えている。
普通の生徒には見えないものを見て。
誰にも話せない姿へ変身して。
一緒に誰かを守った。
あいは、階段を下りながら二人の足音を聞いていた。
自分の足音。
美咲の足音。
由香里の足音。
三つの音が、ほとんど同じ間隔で続いている。
それだけのことが、なぜか少し嬉しかった。
一階まで下りると、美咲がもう一度、大きく息を吐いた。
「今日は帰ったら、絶対すぐ休む」
「宿題は?」
由香里が尋ねる。
「……明日の私に任せる」
「あ、それ、さっきも聞いた気がする」
あいが言う。
「今日の私、もう働きすぎだから」
「でも、明日の美咲ちゃんも美咲ちゃんだよ」
「あいちゃん、そういう正論は今いらない」
美咲の返事に、あいと由香里は同時に笑った。
笑うと、少しだけ身体が軽くなった気がした。
疲れていることに変わりはない。
今日あったことが消えるわけでもない。
それでも、こうして三人でくだらない話をしながら帰れる。
それだけでよかった。
昇降口の方から、帰り支度をする生徒たちの声が聞こえてくる。
あいたちも、その声のする方へゆっくり歩いていった。
長すぎた一日は、ようやく帰り道へ向かおうとしていた。
◆ 学校から桜坂駅へ
昇降口まで来ると、放課後らしいざわめきが一気に近くなった。
靴箱の前では、部活動へ向かう生徒と、そのまま帰宅する生徒が入り混じっている。
「また明日ね」
「うん、またねー」
そんな声があちこちから飛び交い、上履きを脱ぐ音や靴箱の扉が閉まる音が重なっていた。
あいは自分の靴箱から外靴を取り出し、壁際へ少し寄る。
いつもなら何も考えずにしている動作なのに、今日は腰を下ろした瞬間、身体の奥に残っていた疲れを改めて感じた。
「あ……」
思わず、小さく息が漏れる。
「大丈夫、あいちゃん?」
隣で靴を履き替えていた美咲が振り向いた。
「う、うん。ちょっと足が重いだけ」
「わかる。私も」
美咲はそう言いながら立ち上がったものの、その動きは普段より少しだけゆっくりだった。
由香里も履き替えを終え、鞄を肩にかける。
「今日は、三人とも早く帰った方がよさそうね」
「賛成ー」
美咲が片手を軽く上げる。
「寄り道禁止。帰ったらすぐ休む」
「美咲ちゃん、自分で言ったからね」
「……宿題の話は別だからね?」
「まだ何も言ってないよ」
「顔が言ってた」
あいは思わず笑った。
由香里も隣で小さく笑っている。
疲れている。
それでも、こうして笑えるくらいには、三人ともいつもの調子を取り戻してきていた。
校舎の外へ出る。
夕方の空気が、頬にやわらかく触れた。
昼間より気温は少し下がっているものの、六月の終わりらしい湿り気はまだ残っている。
校門へ向かう道には、同じように帰宅する生徒たちの姿があった。
数人で並んで歩く生徒。
自転車置き場へ向かう生徒。
部活動の友人らしい相手へ手を振っている生徒。
三人も、その流れの中へ入っていく。
校門を出ると、学校の中とは少し違う音が聞こえ始めた。
道路を走る車。
自転車のベル。
遠くで鳴る信号機の音。
店先から聞こえる声。
少し先には、さくら女子の制服姿の生徒たちが何組も歩いていた。
駅へ向かう、いつもの放課後の風景だった。
あいはその中を、美咲と由香里に挟まれるように歩いていた。
しばらくして、美咲が口を開く。
「ねえ、さっきの――」
そこまで言って、言葉が止まった。
あいが横を見る。
由香里も美咲を見ていた。
美咲は一度だけ周囲へ目をやる。
少し前を歩いている二人組の生徒。
後ろから近づいてくる同じ制服の集団。
距離があるとはいえ、声を張れば聞こえるくらいだ。
「あ……いや」
美咲はすぐに口調を変えた。
「明日の授業って、何あったっけ?」
あまりに急な方向転換だった。
あいは一瞬きょとんとしてから、思わず笑いそうになる。
「美咲ちゃん、変え方が急すぎるよ」
「しょうがないじゃん」
美咲も声を落として笑った。
由香里が静かに言う。
「話したいことは、また人のいないところで話しましょう」
「だよねー」
美咲は少し不満そうに唇を尖らせる。
あいも、同じ気持ちだった。
聞きたいことは、たくさんある。
妖護隊のこと。
鶴岡先生のこと。
今日、保健室で使った魔法のこと。
ミレニアム王国のことだって、まだわからないことばかりだ。
本当なら、帰り道の間ずっと話していたい。
けれど、できない。
三人が知ったことは、誰にでも話してよいものではなかった。
すぐそばを、別の生徒たちが楽しそうに話しながら追い越していく。
「今日の小テストさー」
「ほんと難しかったよね」
そんな普通の会話が聞こえてきた。
あいは少しだけ不思議な気持ちになった。
自分たちも、昨日まではあちら側だった。
テストのこと。
宿題のこと。
誰と一緒に帰るか。
放課後にどこへ寄るか。
そういうことだけを考えて歩いていた。
それが今は、話してはいけない秘密をいくつも抱えている。
「……あ」
美咲がまた声を出した。
今度は、あいと由香里が同時に美咲を見る。
「違う違う。今度は普通の話」
美咲は両手を少し上げた。
「図書室の数学。あれ、明日ほんとに続きやるの?」
「やるよ」
あいはすぐに答えた。
「一問しか進んでないでしょう?」
「それ、覚えてたんだ……」
「さっき話したばかりじゃない」
由香里が言う。
「そうだけどさ。いろいろありすぎて、もう昨日のことみたいなんだって」
「それはちょっとわかるかも……」
あいも苦笑する。
美咲はしばらく考えてから、あいを見る。
「じゃあ明日は、今日の続きから?」
「うん。わからなかったところ、もう一回説明するね」
「やさしくお願いしまーす」
「ちゃんと聞いてくれれば」
「え、あいちゃんがちょっと先生みたいになってる」
「そんなつもりじゃ……」
慌てたあいの横で、由香里が笑った。
「私は、あいの説明、わかりやすいと思うよ」
「そうかな……」
「うん。今日も図にしてくれたでしょう?」
言われて、あいは少し照れた。
数学の話なら、人に聞かれても困ることはない。
そう思うと、不思議なくらい安心した。
「由香里はさ」
美咲が今度は由香里を見る。
「図書室で何か探してなかった?」
「私?」
「ほら、勉強始める前に本棚見てたじゃん」
「ああ」
由香里は少し考えてからうなずいた。
「歴史関係の本を少し見ようと思ってたの。でも今日は結局、そこまで行かなかったわね」
「また今度?」
「そうね。急ぐものじゃないから」
由香里らしい答えだった。
何の本だったのか、あいも少し気になったが、由香里が詳しく話さなかったので、あえて聞かなかった。
もしかすると、単純に歴史の本を読みたかっただけなのかもしれない。
今のあいたちは、何でも魔法や黒霧に結びつけて考えてしまいそうになる。
それも少し危険な気がした。
「そういえば、お昼のお弁当」
美咲が言う。
「あれもずいぶん前に感じない?」
「同じ日だよ」
あいが答える。
「わかってるって」
「私、お昼はまだ少し疲れていたから」
由香里が穏やかに言った。
「今思うと、あの時ちゃんと食べておいてよかったかもしれない」
「それはそうだね」
あいもうなずいた。
昼休みの屋上。
三人で並んで食べたお弁当。
あの時の由香里は、朝より顔色が戻ったとはいえ、まだどこか頼りなく見えた。
それが放課後には、別の生徒を守るために魔法を使った。
ほんの数時間しか経っていない。
「あ、じゃあさ」
美咲が急に明るい声を出した。
「今度は何?」
由香里が尋ねる。
「週末、元気だったらどっか行かない?」
あいは目を瞬いた。
「三人で?」
「そう。せっかく三人でいろいろ――」
美咲がまた言葉を止めた。
今度は自分で苦笑する。
「……仲良くなったし」
ぎりぎりのところで言い換えたらしい。
由香里が少しだけ笑った。
「そうね。予定が合えば」
「私は……たぶん大丈夫だと思う」
あいも答えた。
ただ、週末の具体的な予定はまだわからない。
家族との用事が入るかもしれないし、学校の課題も確認していない。
だから、その先は決めなかった。
「じゃあ、また明日相談ね」
美咲はそれだけ言った。
そのくらいが、ちょうどよかった。
何をするか決めなくても。
どこへ行くか決めなくても。
「三人でどこかへ行こう」と話せることが、あいには少し嬉しかった。
歩いているうちに、桜坂駅へ近づいていく。
学校から駅までの道には、同じ制服の生徒たちが多い。
少し前まで聞こえていた学校の部活動の声は、もう遠くなっていた。
代わりに、人の足音や車の音、駅へ向かう街のざわめきが大きくなる。
三人の会話も、いつの間にかすっかり普通のものになっていた。
数学のこと。
本のこと。
お弁当のこと。
週末のこと。
どれも魔法戦士とは関係のない話だった。
けれど、あいはそれが嫌ではなかった。
話したい秘密を話せないことは、少し苦しい。
美咲が何度も途中で言葉を飲み込むたび、あいも同じようにもどかしくなる。
それでも。
普通の話をしながら、三人で駅まで歩ける。
誰にも怪しまれず、ただの高校生として帰れる。
それも、きっと大切なことなのだ。
やがて前方に、桜坂駅の入口が見えてきた。
帰宅する生徒たちが、次々とその中へ吸い込まれていく。
美咲が少し歩調を速めかけて――すぐに二人に合わせて戻した。
「じゃ、電車乗ったら座れるといいね」
「そうね」
「うん……今日は座りたいかも」
あいが答えると、美咲が笑う。
「それ、あいちゃんが言うと相当疲れてる感じする」
「だって、本当に疲れてるから……」
三人は笑いながら、桜坂駅へ向かった。
話せないことは、たくさんある。
でも、話せることだって、たくさんあった。
そのことに気づけただけで、あいの足取りは、さっきより少しだけ軽くなっていた。
◆ 電車の中では話せない
桜坂駅の改札を通り、三人はホームへ向かった。
帰宅時間の駅には、さくら女子の生徒だけでなく、仕事帰りらしい人や買い物袋を提げた人の姿も増え始めている。
朝ほどではない。
それでも、ホームは決して空いてはいなかった。
「あー……やっぱり座れなさそう」
電車を待つ列を見て、美咲が残念そうにつぶやいた。
「まだ来てもいないよ」
あいが言う。
「でも、こういうのはなんとなくわかるんだって」
「美咲の勘?」
由香里が尋ねる。
「そうそう。こういう勘は当たるの」
「戦う時だけじゃないんだ……」
あいが小さく笑った。
やがてホームへ電車が滑り込んでくる。
扉が開くと、中から降りてくる人たちと入れ替わるように、ホームで待っていた乗客が車内へ入っていった。
美咲の予想は当たっていた。
三人が乗り込んだ時には、座席はほとんど埋まっている。
「ほらね」
美咲が小声で言った。
「嬉しくない当たり方だね……」
三人は無理に奥へ入らず、邪魔にならない場所まで進んで並んで立った。
あいはつり革へ手を伸ばす。
腕を上げた瞬間、肩が思ったより重かった。
「う……」
今日は何度も杖を握った。
虚数空間を作り、維持して、最後には妖魔のコアだけを狙って魔法を撃った。
変身を解除してずいぶん経ったはずなのに、身体はきちんと覚えているらしい。
つり革を握ったまま、あいは肩の力を少し抜いた。
隣では由香里も手すりにつかまっている。
美咲もいつものように立っていたが、三人とも朝の通学時より明らかに静かだった。
発車を知らせる音が鳴る。
扉が閉まり、電車がゆっくりと動き始めた。
身体がわずかに後ろへ引かれる。
あいは反射的に足へ力を入れた。
その時だった。
ふわり、とスカートの裾が揺れる感覚に気づく。
「あ……」
思わず片方の手が下へ動きかける。
けれど途中で止めた。
電車が動き出しただけだ。
別に、何か起きたわけではない。
あいは小さく息を吸った。
――裾ばかり気にしない。
朝から何度も、自分に言い聞かせてきたことだった。
膝上十五センチほどまで短くした制服のスカート。
朝、自宅を出た時よりは、確かに慣れている。
学校で一日過ごした。
階段も上った。
授業も受けた。
屋上へも行った。
それなのに、まだ完全に自然にはできない。
電車が少し揺れるたび、誰かが近くを通るたび、どうしても一瞬だけ意識してしまう。
あいが視線を横へ向けると、由香里も似たような仕草をしていた。
由香里は一度だけスカートの裾へ手を添え、その位置を確かめるようにして、すぐに手を離した。
目が合う。
「あ……」
「……」
二人とも、ほんの少し気まずそうに目をそらした。
その様子を見ていた美咲が、声を出さずに笑う。
「あ、今笑ったでしょう」
あいが小声で言う。
「笑ってないって」
「笑ってた」
由香里まで静かに言った。
「二人そろって同じことしてるから、ちょっとだけ」
「美咲は平気なの?」
由香里が尋ねる。
「んー……」
美咲は自分の制服姿を一度だけ見下ろした。
美咲はもともと、今のあいや由香里と同じくらいの短めのスカートを普段から自然に着ている。
朝なら、そんなことを聞かれても「全然平気」と即答していたはずだった。
けれど今日は少し違った。
「制服は平気なんだけどさ」
美咲は声をさらに小さくする。
「なんか今日だけ、ちょっと変な感じ」
「変な感じ?」
あいが聞き返す。
「なんて言うんだろ。いつもの服なのに、いつもの服じゃないみたいな」
その言葉に、あいはすぐ思い当たった。
変身後の戦闘服。
制服よりずっと軽く、動くことを前提に作られた衣装。
今日はそれを何度も着た。
変身するたびに、身体は違う感覚を覚える。
そして元の制服へ戻っても、その感覚だけが少し残っている。
朝も、美咲は似たようなことを言っていた。
「私も……少しわかる」
あいはうなずいた。
「制服に戻った時、ちゃんと戻ってるってわかってるのに、変身してた時の感じが残ってるというか……」
「そう、それ」
美咲が小さく指を差す。
「あいちゃん、それ」
「私はまだ……」
由香里がためらいがちに口を開いた。
「普通の制服の方にも慣れてないから、どっちの違和感なのかわからないかも」
三人は一瞬黙った。
それから、美咲が吹き出しそうになるのをこらえた。
「由香里、それ結構大変じゃない?」
「自分でもそう思う」
由香里も少し笑った。
「朝までの長さに戻したら、それはそれで落ち着くんでしょうけど」
「無理しなくていいんだよ」
あいが言う。
「うん。わかってる」
由香里は穏やかに答えた。
「自分でやってみるって決めたことだから、もう少し続けてみようと思う。でも、焦らないようにはする」
「それがいいと思う」
あいはうなずく。
由香里の言葉を聞いていると、自分自身にも言われているような気がした。
慣れなければいけない。
そう思いすぎると、それだけで身体が固くなる。
少しずつでいい。
今日一日で全部変わる必要などないのだ。
電車が次の駅へ近づき、速度を落とした。
車内の人が少し動く。
降りる人。
扉の近くへ移る人。
入ってくる人。
三人は自然と身体を寄せ、通路を空けた。
美咲が一歩動き、あいもそれに合わせる。
由香里も少し位置を変えた。
乗客が増える。
朝ほどぎゅうぎゅうではないが、三人で大きな声を出して話せる雰囲気ではなかった。
扉が閉まる。
電車がまた動き出す。
美咲が何か言いたそうにあいを見る。
あいも気づいた。
由香里も気づいたらしく、美咲と目が合う。
「……」
美咲は口を開きかける。
けれど、すぐ近くには知らない乗客が立っている。
座席には、さくら女子の生徒もいる。
美咲はそのまま口を閉じた。
あいには、何を言おうとしたのか、なんとなくわかった。
妖護隊。
ミレニアム王国。
今日の黒霧。
あるいは、鶴岡先生のこと。
三人には話したいことが山ほどあった。
でも、ここでは話せない。
魔法戦士の存在は秘密なのだ。
学校から駅までの道では、普通の話題へ変えることができた。
電車の中では、さらに声を抑えなければならない。
あいは窓の外を見る。
夕方の景色が流れていく。
建物。
住宅。
線路沿いの道。
駅を出るたび、それらが後ろへ送られていった。
窓ガラスには、車内の三人の姿がうっすら映っている。
眼鏡をかけた自分。
その隣に、ショートヘアの美咲。
そして由香里。
三人とも同じ学校の制服を着ている。
どこから見ても、ただ一緒に帰っている高校生だ。
由香里が窓へ視線を向けた。
その目が、ガラスに映った三人の姿を追っているように見えた。
少し不思議そうな表情だった。
「あい」
「なに?」
由香里はすぐには答えなかった。
窓を見たまま、ほんの少し考える。
それから、小さな声で言った。
「普通の放課後みたいなのに、普通じゃないね」
あいは、その言葉の意味を考えた。
朝までの由香里は、魔法戦士ではなかった。
アムルとフルルが見えることには気づいていたけれど、自分が何者なのかは知らなかった。
今は違う。
三人とも、同じものを見ることができる。
同じ秘密を知っている。
同じ言葉で変身する。
それでも、今ここにいるのは制服姿の三人だった。
「……うん」
あいは答えた。
「でも、こういう時間も普通でいいんじゃないかな」
由香里があいを見る。
「こういう時間?」
「電車に乗って、一緒に帰る時間」
口にすると、少し恥ずかしくなった。
あいは窓へ目を戻す。
「今日はいろいろあったけど……帰る時くらいは、普通でもいいと思う」
一拍遅れて、美咲が笑った。
「それ、賛成」
いつもの明るい声より少し小さい。
「今日はもう、普通でいい。むしろ普通がいい」
「美咲はさっきから休むことばかり考えてるね」
由香里が言う。
「だって大事じゃん、休むの」
「それはそうだけど」
「帰ったらご飯食べて、お風呂入って、寝る。完璧」
「宿題は?」
あいが聞く。
「……」
美咲は無言になった。
由香里が口元を押さえる。
あいも笑いそうになる。
「だから、宿題は?」
「今、電車の音が大きくて聞こえませんでした」
「聞こえてるよ」
「聞こえてないでーす」
美咲が窓の方を向いてしまう。
そのやり取りに、あいは小さく笑った。
秘密の話はできない。
本当に話したいことの半分も口にできない。
少し不自由だった。
けれど。
数学のことを話せる。
宿題のことを話せる。
疲れたと笑える。
制服の違和感さえ、三人なら小声で共有できる。
何も話せないわけではない。
そのことが、あいには少し嬉しかった。
しばらくすると、三人の会話も途切れた。
無理に何かを話そうとはしなかった。
電車が走る音。
レールを踏む規則的な響き。
駅に着くたびに開く扉。
車内放送。
周囲の乗客の小さな話し声。
そんな音の中で、三人は並んで立っていた。
パートナー猫たちの姿はない。
声も聞こえない。
今だけは、魔法戦士としてではなく、三人だけで帰っている。
あいはつり革を握りながら、もう一度窓を見る。
映っている三人は、少し疲れた顔をしていた。
由香里はいつもより静かで。
美咲も普段ほど身体を大きく動かさず。
あい自身も、眼鏡の奥の目が少し重たそうに見える。
それでも、三人ともそこにいる。
それだけで十分だった。
やがて電車は、三人の最寄り駅である瑞穂台駅へ近づいていった。
◆ 瑞穂台駅
電車がゆっくりと速度を落としていく。
窓の外を流れていた建物が一つひとつ形を取り戻し、やがて見慣れたホームが近づいてきた。
車内放送が、瑞穂台駅への到着を告げる。
「あ、着いた」
美咲が小さく言った。
その声に、あいはつり革から手を離した。
ようやく帰ってきた。
ただ学校から電車で帰ってきただけなのに、今日はそのことがいつもよりずっと大きく感じられる。
「由香里、大丈夫?」
あいが隣を見る。
「うん。大丈夫」
由香里はそう答えて、鞄を持ち直した。
疲れてはいるようだったが、電車に乗った時より少し表情がやわらいでいる。
「じゃ、降りよっか」
美咲の言葉に、三人は扉の方へ向かった。
電車が停まり、扉が開く。
ホームへ降りた瞬間、夕方の駅の空気が三人を包んだ。
朝とは違う人の流れだった。
学校帰りの学生。
買い物袋を手にした人。
仕事を終えて帰ってきたらしい人。
これからどこかへ向かう人。
ホームには途切れることなく足音が響き、反対側の線路には別の電車が滑り込んでくる。
「朝よりはましだけど、やっぱり人多いね」
美咲が言った。
「この時間だからね」
由香里が答える。
三人は人の流れに合わせて歩き始めた。
あいも一緒に歩きながら、無意識に周囲へ目を向けていた。
ホームの柱の陰。
階段の下。
線路沿いに落ちた暗がり。
自分でも気づかないうちに、何か黒いものがないか探してしまっている。
――何も、いない。
もちろん、それが普通なのだ。
朝までなら、こんなことを考えることさえなかった。
ただ電車を降りて、改札へ向かうだけ。
それが普通だった。
あいは小さく息を吐く。
前を歩いていた美咲が、ちらりと振り返った。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
「ほんと?」
「うん」
あいが答えると、美咲はそれ以上聞かなかった。
三人はホームから二階の改札へ向かう。
今日一日の疲れもあって、急ぐ理由はない。
周囲の人たちと同じ速さで、ゆっくりと進んでいく。
改札階へ近づくにつれ、人の声が重なって聞こえてきた。
電子音。
案内放送。
改札を通る音。
待ち合わせをしている人の声。
駅員の案内。
どれも、何度も聞いたことのある瑞穂台駅の音だった。
そして二階へ上がった時。
あいの足が、ほんの少しだけ遅くなった。
改札の向こう。
南口へ続く方向。
朝、黒い揺らぎが現れた場所だった。
妖魔を見つけた。
駅員たちが人を遠ざけていた。
アムルが現れた。
そして、美咲の前にはフルルが現れた。
あの時、あいはコインロッカーの奥で変身した。
美咲もそこで、初めてマジカル・フローラになった。
ほんの半日ほど前のことなのに。
――あそこで本当に戦ったことが、ずっと昔のことみたい……。
あいは不思議な感覚に包まれた。
今、その場所には黒い影などない。
立入禁止のカラーコーンもない。
「設備点検中」の案内もない。
人々は何も気にすることなく歩いている。
誰かがスマートフォンを見ながら改札へ向かい。
誰かが家族らしい相手を待ち。
学生たちが笑いながら通り過ぎていく。
いつもの瑞穂台駅だった。
朝ここで何があったのか、誰も知らない。
知る必要もない。
「あいちゃん」
隣から小さく呼ばれた。
「え?」
見ると、美咲も同じ方向を見ていた。
目が合う。
美咲は何か言いかけて――周囲を見て、やめた。
「あそこ……」
それだけ言う。
「うん」
あいも、それだけでわかった。
由香里が二人を交互に見る。
由香里は朝の戦いを直接見ていない。
けれど、二人の表情から何かを察したらしい。
何も聞かず、そのまま一緒に歩いてくれた。
三人は改札へ向かう。
あいはICカードを取り出し、改札機へ触れさせた。
短い電子音が鳴る。
それだけだった。
朝、ここを通った時とは何もかもが違っている。
あの時のあいは、美咲が魔法戦士になることも知らなかった。
由香里がその日のうちに仲間になることも。
ミレニアム王国という名前も。
妖護隊という組織も。
そして、放課後に知らない生徒を三人で助けることになるなんて、考えもしなかった。
一日で知ったことが多すぎる。
一日で起きたことが多すぎる。
だから朝の出来事が、ずっと遠く感じるのかもしれない。
改札を抜けた美咲が、数歩先で振り返った。
「二人とも、いる?」
「いるよ」
あいが答える。
「いるわ」
由香里も続く。
「よし」
美咲はそれだけ言って、また歩き出した。
あいは少しだけ笑った。
別に確認する必要などなかった。
三人ともすぐ近くを歩いている。
それでも、美咲も今日は少し違うのだろう。
いつもの場所に戻ってきたからこそ、三人でいることを確かめたくなったのかもしれない。
改札の外には、夕方の人の流れが続いている。
北口へ向かう人。
南口へ向かう人。
駅前の店へ向かう人。
家へ帰る人。
瑞穂台駅は、朝のことなど知らないように動き続けていた。
あいは、そんな光景を見ながら思う。
妖魔が現れなくてもいい。
黒霧がなくてもいい。
何も起こらなくていい。
むしろ、本当はそれが一番いいのだ。
誰も逃げなくていい。
誰も倒れなくていい。
自分たちも変身しなくていい。
ただ電車を降りて、改札を出て、家へ帰る。
その当たり前のことが、今日は妙にありがたかった。
「じゃあ……ここからだね」
由香里が言った。
あいは顔を上げる。
改札を出た先で、人の流れが少しずつ二つの方向へ分かれている。
北口と南口。
三人で歩いてきた帰り道も、ここから先はそれぞれの家へ向かって分かれていく。
長かった一日が、本当に終わりへ近づいていた。
◆ 北口と南口
改札を出て少し歩くと、人の流れがゆるやかに二つへ分かれていった。
北口と南口。
同じ瑞穂台駅を使っていても、家へ帰る道はここから違う。
由香里が足を止めた。
「じゃあ、私はこっちだから」
そう言って、北口へ続く方を指す。
「あ……由香里、北口なんだ」
あいは思わず言った。
同じ駅から毎日通学しているのに、考えてみれば由香里が駅からどちらへ帰っているのか、今まできちんと聞いたことがなかった。
「うん。家は北口の方なの」
「そっか。私たち、南口」
美咲が自分とあいを交互に指差した。
「美咲も?」
由香里が少し意外そうに聞く。
「そうそう。あいちゃんとは途中まで同じなんだよ」
「途中までって言っても、歩道橋を降りるところくらいまでだけど……」
あいが付け加える。
「でも、朝もよく会うじゃん」
「今日も会ったね」
その言葉に、あいは朝のことを思い出した。
歩道橋の上。
いつもより短くしたスカートが気になって仕方なかったあいに、美咲が声をかけてきた。
あの時は、それだけで一日の大事件のように思っていた。
まさか、そのあと瑞穂台駅で妖魔に遭遇して、美咲が魔法戦士になり、学校では由香里まで仲間になるなんて想像もしていなかった。
「あれも今日なんだよね……」
あいがぽつりと言う。
「何が?」
由香里が尋ねる。
「朝、美咲ちゃんと歩道橋で会ったこと」
「ああ」
美咲が声を上げた。
「そうじゃん。あいちゃんの――」
そこまで言って、美咲が一瞬だけ周囲を見た。
人通りは多い。
魔法戦士の話ではないとはいえ、あいは何となく嫌な予感がした。
「美咲ちゃん」
「わかってるって」
美咲がにやっと笑う。
「今朝のあいちゃん、歩道橋ですっごく緊張してたなーって話」
「そ、それは言わなくていいよ」
あいは思わずスカートの裾へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
由香里がくすりと笑う。
「でも、朝よりはずいぶん自然になったんじゃない?」
「そうかな……」
あいは自分の制服姿をちらりと見る。
朝からずっと気になっていた、膝上十五センチほどに調整したスカート。
一日中過ごしたことで、少しは慣れた。
けれど、まだ意識しなくなったわけではない。
階段や風のある場所では、どうしても気になる。
由香里も同じくらいの丈にしているが、今日から始めたばかりだ。
あいよりさらに慣れていないはずだった。
「由香里は?」
あいが聞く。
「私?」
「今日からだったでしょう。短くしたの」
由香里は自分のスカートへ視線を落とした。
「……まだ気になるよ」
正直にそう答える。
「でも、朝だったら、こんなふうに普通に駅を歩けなかったかもしれない」
「じゃ、進歩じゃん」
美咲が明るく言った。
「そうなのかな」
「そうそう。私だって今日はいろいろ変な感じだったし」
「美咲ちゃんは、普段からそのくらいの長さでしょう?」
「制服はね」
美咲は一瞬だけ意味ありげな顔をした。
けれど、その先は口にしなかった。
あいにもわかった。
戦闘服のことだ。
今日は何度も変身したせいで、普段から短めの制服に慣れている美咲でさえ、制服へ戻った後に妙な違和感を覚えている。
けれど、こんな場所で話せることではない。
由香里も察したのか、それ以上は聞かなかった。
三人の間に、短い沈黙が落ちる。
駅を行き交う人々の足音が、その隙間を埋めた。
北口へ向かう人。
南口へ向かう人。
買い物帰りらしい人。
制服姿の学生。
仕事を終えて帰ってきた人。
それぞれが、自分の帰る場所へ向かっていく。
「なんか……」
美咲がぽつりと言った。
「三人でここまで帰ってきたの、初めてじゃない?」
あいは考えた。
確かにそうだった。
三人とも同じ瑞穂台駅を使っている。
けれど、これまではあいと美咲が一緒になることはあっても、由香里を含めて三人で学校からここまで帰ることはなかった。
「そうかも」
「私も、三人では初めてだと思う」
由香里も言った。
「そっかあ」
美咲が少し笑う。
「じゃあ今日、初めて三人で帰った日でもあるんだ」
その言い方が、あいには少し嬉しく聞こえた。
今日は、いろいろなことがあった。
怖いこともあった。
疲れることもあった。
知らなくてもよかったのではないかと思うような秘密まで、いくつも知った。
けれど。
三人で一緒に帰る。
そんな普通の「初めて」もあったのだ。
「また一緒に帰ろうね」
あいが言った。
口にしてから、少しだけ恥ずかしくなる。
けれど由香里は、いつもの穏やかな表情でうなずいた。
「うん」
「もちろん」
美咲もすぐに答える。
「ただし次は、もうちょっと平和な日にしよう」
「それは私たちが決められることじゃないでしょう?」
由香里が言う。
「そこは気持ちの問題」
「美咲ちゃんらしいね」
あいが笑った。
三人もつられて笑う。
その笑いが途切れたところで、由香里がもう一度北口の方を見る。
「じゃあ、本当にここで」
「あ……うん」
あいは少し名残惜しく感じた。
学校ではずっと一緒だった。
電車でも一緒だった。
ここまで三人で帰ってきた。
だから、誰か一人が先に離れることが、いつもより少し寂しく感じられる。
けれど、それぞれに帰る家がある。
「また明日、由香里」
あいが言う。
美咲も手を軽く振った。
「また明日。今日はゆっくり休んでね」
「美咲もね」
由香里が返す。
それから、あいを見る。
「あいも。今日は本当に疲れてるんだから、無理しないでね」
「うん。由香里も」
「二人もね。また明日」
由香里は小さく手を振った。
「また明日!」
美咲が元気よく返す。
「また明日」
あいも手を振った。
由香里は北口へ向かう人の流れに入っていく。
数歩進んだところで、一度だけ振り返った。
あいと美咲がまだそこにいるのを見ると、少し笑って、もう一度手を振る。
二人も振り返す。
やがて由香里の姿は、帰宅する人たちの中へ少しずつ遠ざかっていった。
「……行っちゃったね」
あいが言う。
「家に帰っただけだよ」
美咲が笑う。
「わかってるけど」
「明日また会うって」
「うん」
その通りだった。
明日になれば、また学校で会う。
同じ教室で。
同じ三年A組で。
きっとまた数学の続きをして、普通の話をする。
それでも今日の「また明日」は、昨日までとは少し違う気がした。
魔法戦士として同じ秘密を抱えた三人が、それぞれの日常へ帰っていくための言葉。
だからなのかもしれない。
「じゃ、私たちも帰ろっか」
美咲が南口を指した。
「うん」
あいはうなずく。
二人は並んで歩き始めた。
南口側には、見慣れた駅前の景色が広がっている。
そこから先には、朝に二人が出会った歩道橋がある。
朝は美咲と合流した道を。
今度は、美咲と一緒に帰っていく。
長かった一日の終わりへ向かって、あいと美咲は南口へ歩き出した。
◆ 歩道橋の下で
南口を出ると、見慣れた歩道橋が夕方の空の下に伸びていた。
朝にも通った道だった。
けれど、あいには朝とは少し違って見えた。
空の明るさも、人の流れも違う。
駅へ急ぐ人より、駅から住宅街へ帰っていく人の方が多い。
仕事帰りらしい人。
買い物袋を持った人。
制服姿の学生。
それぞれが一日の終わりへ向かって歩いていた。
「あー……やっとここまで来た」
美咲が歩道橋を見上げながら言った。
「あと少しだね」
「うん。あと少し」
あいも答える。
その「あと少し」が、今日は妙に長く感じた。
二人は並んで階段を上り始めた。
いつもなら何も考えずに上れる階段なのに、今日は足が少し重い。
あいは一段ずつ踏みしめるように上がっていく。
鞄も重い。
身体も重い。
けれど、不思議と嫌な重さではなかった。
疲れている。
ただ、それだけだ。
今日はもう、何かに追われているわけではない。
妖魔もいない。
黒霧もない。
急いで変身する必要もない。
それだけで、同じ階段がずっと穏やかな場所に思えた。
途中で少し風が吹いた。
あいは反射的にスカートの裾へ手を添えた。
朝から履いている、いつもより短い丈。
一日中このまま過ごして、朝ほどの緊張はなくなっている。
それでも、風が吹けばまだ気になる。
「あ」
隣から美咲の声がした。
あいは横を見る。
美咲が少し笑っていた。
「な、なに?」
「いや。朝と同じだなって」
「……朝?」
「ここ上ってる時も、あいちゃんずっとスカート気にしてたじゃん」
「そ、それは……」
あいは顔が熱くなるのを感じた。
朝の自分を思い出す。
膝上十五センチほどにしたスカート。
道を歩くだけで落ち着かなくて。
階段を上るだけでも気になって。
歩道橋の上で美咲に会った時には、そのことだけで頭がいっぱいだった。
「あの時は、本当に恥ずかしかったんだから……」
「今は?」
美咲が聞く。
あいは少し考えた。
「……まだ恥ずかしい」
「正直」
「でも」
一段上がる。
「朝よりは、ちょっとだけ平気かも」
「お」
美咲が嬉しそうに笑った。
「進歩じゃん」
「ちょっとだけだよ」
「それでいいんじゃない?」
美咲の言い方は軽かった。
けれど、からかっている感じはなかった。
あいは小さくうなずいた。
歩道橋の上まで来る。
少し視界が開けた。
夕方の街が広がっている。
朝はここで、美咲に声をかけられた。
その少しあとには、白いハンカチを落として。
拾い方ひとつで慌てて。
美咲に助けてもらった。
あいは、足元の辺りへ何となく視線を向ける。
もちろん、今は何も落ちていない。
「ここだったね」
美咲が言った。
「え?」
「ハンカチ」
「あ……」
やっぱり美咲も覚えていたらしい。
「朝のあいちゃん、すごかったよね」
「もう、その話はいいよ……」
「だって、膝曲げないで拾おうとするんだもん」
「仕方ないでしょう。慣れてなかったんだから」
「今ならちゃんと拾える?」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
美咲が笑う。
あいもつられて笑った。
朝なら、こんな話をされるだけで顔を真っ赤にしていたかもしれない。
今も恥ずかしい。
でも、美咲となら少し笑える。
それも、今日一日で変わったことの一つなのかもしれない。
二人は歩道橋を渡り始めた。
しばらく、会話はなかった。
車の走る音が下から聞こえる。
夕方の風が、二人の髪を少し揺らす。
美咲も、いつものように先へ行こうとはしなかった。
あいの横を、同じくらいの歩幅で歩いている。
やがて、美咲がぽつりと言った。
「今日、長かったね」
さっきまでの軽い声とは少し違った。
あいは前を見たまま答える。
「うん……」
本当に長かった。
朝、この歩道橋で美咲と会った時。
その時には、まだ美咲は魔法戦士ではなかった。
由香里もそうだった。
美咲は、あいが何を隠しているのか知らなかった。
由香里は、パートナー猫を見ることができる理由さえ知らなかった。
それが今は。
三人とも魔法戦士になった。
同じ秘密を知っている。
同じ場所で戦った。
三人で一人の生徒を助けた。
「朝からずっと、普通じゃなかった」
あいが言う。
「うん」
「朝ここで美咲ちゃんと会った時は、今日こんなことになるなんて思ってなかった」
「私も」
美咲は短く答えた。
少しだけ間が空く。
「朝の私に言っても絶対信じないと思う」
「何を?」
「全部」
美咲は苦笑した。
「猫がしゃべるとか。あいちゃんが実は――」
そこで言葉を止める。
歩道橋には、少し離れたところを別の人も歩いている。
美咲は声をさらに小さくした。
「……すごい秘密持ってたとか」
あいも苦笑した。
「私も、美咲ちゃんが同じになるなんて思わなかったよ」
「由香里までね」
「うん」
美咲は少しだけ空を見上げた。
それから、静かに言った。
「でも、三人でよかったね」
あいは美咲を見る。
美咲もこちらを見ていた。
いつもの明るい笑顔ではなかった。
冗談を言う時の顔でもない。
ただ、素直にそう思っている顔だった。
あいは今日一日を思い返す。
黒霧の中で苦しんでいた由香里。
初めてマジカル・アロマへ変身した由香里。
屋上で三人並んでお弁当を食べたこと。
非常階段での戦い。
放課後の図書室。
保健室のベッド。
三人で力を合わせて、名前も知らない生徒を助けたこと。
一人だったら。
美咲がいなかったら。
由香里がいなかったら。
今日の出来事は、きっと全然違っていた。
「うん」
あいは答えた。
それだけで十分だった。
「三人でよかった」
今度は、あいの方から言った。
美咲が少し笑う。
「でしょ?」
「うん」
二人はそのまま、歩道橋の向こう側へ歩いていった。
階段が見えてくる。
朝は、あいがこの階段を上ってきた。
上りきったところに美咲がいた。
今は二人で、同じ階段を下りていく。
あいは一段目へ足を下ろす。
夕方の階段は、朝とは逆方向の景色を見せていた。
スカートの丈はまだ少し気になる。
だから、慌てず。
一段ずつ。
姿勢を崩さないように。
朝に美咲から教えてもらったことも、今日は少し自然にできている気がした。
美咲も先に行かず、隣を歩いてくれる。
階段を下りきる。
そこで、二人は足を止めた。
ここから先は道が分かれる。
あいはマンションへ。
美咲は別の方向へ。
毎日のことなのに、今日は少しだけ別れが惜しく感じられた。
「じゃあ」
美咲が言う。
「私はこっち」
「うん」
「ちゃんと休むんだよ、あいちゃん」
「美咲ちゃんもね」
「私は大丈夫だって」
「今日ずっと疲れたって言ってたでしょう?」
「……言ってたっけ?」
「何回も」
「じゃあ、帰ったら休みます」
美咲が少しだけ姿勢を正して答える。
あいは笑った。
「うん。そうしてください」
「なんで敬語?」
二人で笑う。
笑い終わると、ほんの少しだけ静かになった。
美咲が手を上げる。
「じゃあ、また明日」
あいも手を上げた。
「うん。また明日、美咲ちゃん」
「またね、あいちゃん」
美咲は自分の家へ向かう道を歩き始めた。
数歩進んだところで振り返り、もう一度手を振る。
あいも振り返した。
それから、美咲の姿は少しずつ遠ざかっていった。
あいはその場に立ったまま、ほんの少しだけ歩道橋を振り返る。
朝。
この歩道橋の上で、美咲と合流した。
夕方。
今度は、その歩道橋の下で美咲と別れた。
同じ一日。
同じ場所。
なのに、朝の自分とは何かが違っている。
魔法戦士として強くなったから、というだけではない。
秘密を共有できる友だちが増えた。
由香里も仲間になった。
一人で抱えていたものを、三人で抱えられるようになった。
それが、あいには少し心強かった。
「……帰ろう」
誰に言うでもなく、小さくつぶやく。
マンションまでは、もう遠くない。
あいは鞄を持ち直し、今度は一人で歩き始めた。
朝には美咲と出会った帰り道を。
長すぎた一日の最後に、自分の家へ帰るために。
◆ 一人の帰り道
美咲の姿が見えなくなるまで、あいはしばらくその場に立っていた。
角を曲がる直前、美咲がもう一度だけ振り返って手を振った。
あいも小さく手を振り返す。
それから美咲の姿が建物の向こうへ消えると、辺りには夕方の街の音だけが残った。
「……帰ろう」
もう一度、小さくつぶやく。
今度は本当に、一人だった。
あいは鞄を肩に掛け直し、マンションへ向かって歩き始めた。
駅前から離れていくにつれ、人の数は少しずつ減っていく。
車の走る音。
バスが停留所を離れていく音。
スーパーの袋を提げた人たちの足音。
どれも、いつもなら特に意識しないものばかりだった。
朝も通った道だ。
何度も歩いてきた、家までの道。
それなのに今日は、景色が少しだけ違って見える。
空は夕暮れの色に変わりつつあった。
まだ明るさは残っているけれど、建物の影は少しずつ長くなっている。
黒い影。
そう思った瞬間、あいの視線が無意識にそちらへ向いた。
何もいない。
ただの建物の影だった。
「……もう」
自分に苦笑する。
妖魔を探しているつもりなどなかった。
それでも今日一日、あまりにも何度も黒霧や妖魔を目にしたせいなのだろう。
普通の影まで、ほんの一瞬だけ気になってしまう。
あいは小さく息を吐いた。
今日はもう、何も起きなくていい。
本当に。
何も。
鞄の重さを肩に感じながら歩いていると、ふと由香里の顔が浮かんだ。
朝の由香里ではない。
少し前、瑞穂台駅の北口へ向かう前に、「また明日」と言って笑った由香里だった。
朝までは。
由香里は、いつもの友だちだった。
同じ三年A組で。
社会や歴史が得意で。
あいより落ち着いていて。
美咲の勢いを穏やかに受け止めてくれる友だち。
それが今日一日で、ずいぶん変わった。
由香里自身が別人になったわけではない。
笑い方も。
話し方も。
あいを見る時の穏やかな表情も、何も変わっていない。
それでも今は、同じ秘密を知っている。
あいにも美咲にも見えるものを、由香里にも見ることができる。
同じように変身して。
同じ場所に立って。
一緒に誰かを守ることができる。
――三人になったんだ。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
昨日の夜。
初めて妖魔と向き合った時は、アムルしかいなかった。
何をすればいいのかもわからなかった。
怖くて。
恥ずかしくて。
それでも逃げられなくて。
あの時の自分に、今のことを話したらどう思うだろう。
美咲も一緒に戦っている。
由香里も仲間になった。
きっと信じられない。
あい自身、朝の時点でも想像していなかったのだから。
「三人、か……」
小さく口にしてみる。
なんとなく照れくさくなって、あいは眼鏡の位置を直した。
しばらく歩く。
交差点の信号が変わり、あいはほかの歩行者と一緒に横断歩道を渡った。
その途中で、今度は別の言葉が頭に浮かんだ。
妖護隊。
放課後の図書室で、由香里から聞いた名前。
内務省の所管下にある、表には出ない組織。
人払い。
避難。
救護。
秘密を守るための対応。
そして、魔法戦士が普通の生活を続けられるように支えること。
話を聞いた時には、どこか遠い世界のことのように思えた。
政府の中に、自分たちのことを知っている人たちがいる。
それだけでも、あいには現実感が薄かった。
自分たちは、誰にも知られてはいけない存在だと思っていたからだ。
けれど、完全に誰にも知られていないわけではない。
知られないようにするために。
その秘密のまま守るために。
動いている人たちがいる。
あいは朝の瑞穂台駅を思い出した。
あの時、あまりにも手際よく人々を遠ざけていた駅員たち。
普通の設備点検に見えるように置かれていたカラーコーン。
あのすべてが妖護隊そのものだったのかは、まだわからない。
けれど。
今まで「たまたま助かった」と思っていたことの中にも、自分たちの知らないところで誰かが動いていたことがあるのかもしれない。
そう思うと、不思議な気持ちになった。
魔法戦士になった時。
あいは、自分だけが突然、普通の世界から外へ押し出されたように感じていた。
けれど実際には。
普通の世界と魔法戦士の世界の間を、つないでいる人たちもいる。
まだ何も知らない。
妖護隊がどんな人たちなのか。
自分たちと、これからどう関わるのか。
それはわからない。
だから、今は勝手に決めつけない方がいい。
あいはそう思った。
わからないことは、わからないままでいい。
少しずつ知っていけばいい。
それは、アムルから最初に教えられたこととも似ている気がした。
また少し歩く。
やがて、駅前のにぎやかさがさらに遠くなった。
あいの頭に、放課後の少女の顔が浮かんだ。
名前も知らない。
何年何組なのかも知らない。
図書室で本を探していて。
黒霧に包まれて。
眠るように倒れた女の子。
保健室で目を覚ました時、その子は自分に何が起きたのか知らなかった。
黒霧のことも。
妖魔のことも。
目の前にいた三人が、ほんの少し前まで魔法戦士の姿で戦っていたことも。
何も知らないまま。
鞄と本を持って帰っていった。
それでいい。
あいは、改めてそう思った。
知らないままでいられた。
いつもの生活へ帰ることができた。
それが、今日の戦いの結果だった。
妖魔を倒したことよりも。
細く絞った《ラブ・バースト》を成功させたことよりも。
あの子が普通の生徒として図書室を出ていけたこと。
その方が、今は強く心に残っている。
誰にも知られない。
褒められることもない。
何をしたのか、説明することもできない。
それでも。
――ちゃんと、守れたんだ。
あいは歩きながら、少しだけ笑った。
魔法戦士になる前なら、「守る」という言葉はもっと大げさなものだと思っていたかもしれない。
何か特別なことをして。
誰かから感謝されて。
そういうことなのだと。
でも、今日の少女は、本当のことを知らない。
そのまま帰っていった。
たぶん明日になれば、また学校へ来る。
友だちと話して。
授業を受けて。
図書室へ行くことだってあるかもしれない。
そういう普通の一日を続けられること。
それを守るのも、魔法戦士の役目なのかもしれなかった。
まだ、あいにははっきりとはわからない。
自分がこれからどんな魔法戦士になるのかも。
何を求められるのかも。
知らないことばかりだ。
それでも。
今日、三人で一人の生徒を日常へ戻せた。
そのことだけは確かだった。
ふと顔を上げる。
見慣れたマンションが、夕暮れの街の中に見えてきた。
家。
その言葉だけで、身体から少し力が抜けるような気がした。
もうすぐ帰れる。
制服を脱いで。
鞄を置いて。
家族とご飯を食べて。
いつもの自分へ戻れる。
あいは少しだけ歩く速度を上げた。
今日知ったことも。
今日守った秘密も。
全部、鞄の中へしまうことはできない。
けれど、それらを抱えたままでも家へ帰ることはできる。
由香里が仲間になったこと。
自分たちを支える人たちがいるらしいこと。
そして。
誰にも知られなくても、誰かの日常を守ることができたこと。
その三つを胸の中に残したまま。
あいは、いつものマンションへ向かって歩いていった。
◆ 家の明かり
マンションが近づくにつれて、あいの歩く速さは少しずつゆっくりになった。
疲れているから、というのもある。
けれど、それだけではなかった。
見慣れた建物の窓に明かりが灯っている。
その中の一つが、自分の帰る家なのだと思うと、急いでいた気持ちがほどけていくようだった。
朝、このマンションを出た時には、今日がこんな一日になるとは思っていなかった。
いつもより短くした制服のスカートが気になって。
ちゃんと学校まで歩けるだろうかと、そればかり考えていた。
今となっては、それすらずいぶん前のことのように感じる。
あいはエントランスへ入り、エレベーターを待った。
扉が開く。
乗り込んで、いつもの階のボタンを押す。
壁の鏡に、自分の姿が映った。
少し乱れた黒髪のツインテール。
眼鏡。
制服。
肩には鞄。
朝と同じ自分のはずなのに、顔にははっきり疲れが出ていた。
「……ひどい顔」
小さくつぶやく。
目の下が少し重そうに見える。
姿勢も、朝よりわずかに崩れていた。
あいは反射的に背筋を伸ばした。
けれど、すぐに力を抜く。
今日はもう、無理にきれいに立たなくてもいい気がした。
エレベーターが止まる。
廊下を歩き、自宅の前に立つ。
鞄から鍵を取り出そうとして――手を止めた。
玄関の向こうから、かすかに物音が聞こえる。
母がいる。
そう思っただけで、胸の奥が少し温かくなった。
あいは鍵を開け、扉を押した。
「ただいま」
自分でもわかるくらい、少し力の抜けた声だった。
奥からすぐに返事が来る。
「おかえりなさい」
母・郁子の声。
それだけで、あいはほっとした。
靴を脱ぐ。
今日は朝からずっと履いていた靴なのに、脱いだ瞬間、足まで軽くなったように感じた。
廊下の奥から、郁子が顔を見せる。
「おかえり、あい」
「うん。ただいま」
郁子はいつものように笑っていた。
けれど、あいの顔を見ると、その表情が少しだけ変わった。
「あら」
「……なに?」
「今日はずいぶん疲れてるみたいね」
あいは一瞬、言葉に詰まった。
そんなにわかりやすいだろうか。
「そう見える?」
「見えるわよ」
郁子は苦笑する。
「朝よりずいぶん元気がないもの」
「……うん」
否定する気にはなれなかった。
今日は本当に疲れている。
鞄を持つ肩も。
歩き続けた足も。
何度も緊張した頭も。
全部が、もう休みたいと言っているようだった。
「ちょっと、いろいろあって」
「学校で?」
郁子が自然に尋ねる。
あいの心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。
学校で。
間違ってはいない。
けれど、その先を本当のまま話すことはできない。
由香里が黒霧に襲われたこと。
三人で変身したこと。
妖護隊について知ったこと。
知らない生徒を助けるために、保健室で妖魔と戦ったこと。
どれも言えない。
言ってはいけない。
あいは少し視線を落とした。
「友だちと、いろいろ話したの」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
完全な嘘ではない。
今日は確かに、美咲と由香里とたくさん話した。
普通のことも。
秘密のことも。
将来につながるかもしれないことも。
郁子は深く問いたださなかった。
「そう」
それだけ言って、やわらかく笑う。
「話せる友だちがいるのは、いいことね」
あいは顔を上げた。
「……うん」
胸の奥に、静かにその言葉が落ちた。
話せる友だち。
全部を話せるわけではない。
むしろ、あいたち三人は誰にも話せないことを抱えている。
でも。
美咲には話せる。
由香里にも話せる。
一人で抱えていた時とは違う。
「うん」
あいはもう一度答えた。
今度は少しだけ、はっきりと。
「そうだね」
郁子はそれ以上何も聞かなかった。
そのことも、ありがたかった。
「お父さんは?」
あいが尋ねる。
「まだよ。今日は少し遅くなるみたい」
「そっか」
父・憲司は仕事で忙しい。
帰宅が遅くなること自体は珍しいことではない。
けれど今日は、父の顔も少し見たかった気がした。
何を話すわけでもない。
ただ、いつものように家にいてくれれば、それだけで安心できそうだった。
「夕飯、もうすぐできるから」
郁子が言う。
「先に着替えてくる?」
「うん。そうする」
あいは自分の部屋へ向かいかけた。
その途中で、ふと振り返る。
郁子はもうキッチンへ戻っている。
夕食の準備をする音が聞こえた。
いつもの音。
いつもの家。
今日、学校では誰かの「いつもの日常」を守った。
その時は、それがとても大切なことだと思った。
そして今。
自分もまた、その日常の中へ帰ってきている。
あいは自室の扉を開けた。
鞄を机の横へ置く。
肩から重みが消えた瞬間、大きく息が漏れた。
「はぁ……」
ようやく、本当に帰ってきた気がした。
制服の上着へ手をかける。
朝は鏡の前で、スカート丈ばかり気にしていた。
学校でも、電車でも。
何度も気になった。
それでも一日を終えて、ちゃんとここまで帰ってきた。
あいは少しだけ笑った。
今日は長かった。
本当に、長すぎた。
けれど。
玄関を開ければ母がいて。
父も仕事が終われば帰ってくる。
夕食があって。
自分の部屋がある。
それは昨日までと変わらない。
その変わらなさが、今のあいには何よりありがたかった。
着替えを手に取ったところで、廊下の向こうから郁子の声がした。
「あい、ご飯できたら呼ぶわね」
「うん」
あいは扉越しに答える。
「ありがとう、お母さん」
少しだけ間があって。
「どういたしまして」
いつもの母の声が返ってきた。
あいは目を閉じ、ほんの少しだけその場に立ち止まった。
話せないことはある。
言えない秘密も増えた。
それでも、自分には帰る場所がある。
そのことが、今日はいつもよりずっと嬉しかった。
◆ お風呂
夕食を済ませたあと、あいは浴室へ入った。
扉を閉めた瞬間、家の中の音が少し遠くなる。
服を脱いで、眼鏡を外す。
一日中かけていた眼鏡を置くと、急に視界がぼんやりした。
それだけなのに、学校にいた時とは違う自分へ戻ったような気がする。
制服もない。
鞄もない。
問題集もない。
もちろん、杖もマジカル・ビジョンもない。
今ここにいるのは、ただの宮本あいだった。
シャワーのお湯を出す。
温かい水が肩へ当たった瞬間、
「はぁ……」
自分でも驚くほど深い息が漏れた。
肩から、背中から、腕から。
一日中入っていた力が、お湯と一緒に流れていくようだった。
朝からずっと、身体のどこかが緊張していたのだと思う。
短くした制服で家を出た時から。
瑞穂台駅で異変に気づいた時。
学校で由香里の様子がおかしくなった時。
そして、魔法を使うたび。
いつ次の何かが起きるかわからない。
そんな気持ちが、無意識に身体を固くしていたのかもしれない。
あいは目を閉じた。
お湯の音だけが聞こえる。
今日はもう、周囲を警戒しなくてもいい。
黒い影を探さなくてもいい。
マジカル・ビジョンでコアを探さなくてもいい。
誰かの呼吸を気にしなくてもいい。
ただ、お湯を浴びていればいい。
それだけのことが、今はとても贅沢に感じられた。
身体を洗ってから、あいは湯船へ入った。
足先からゆっくりとお湯につかる。
「……あったかい」
誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやく。
肩までつかると、全身から力が抜けた。
湯船の縁に背を預ける。
しばらく、何も考えなかった。
考えようとしても、頭が動かなかったと言った方が近い。
身体が先に休みたがっている。
腕が重い。
脚もだるい。
特にどこかを怪我しているわけではない。
それでも、普通に学校で一日過ごした時とは違う疲れがあった。
何度も変身して。
虚数空間を作って。
維持して。
妖魔の位置を追って。
最後には、眠っている生徒と仲間たちの間を通す細い射線を探した。
あの時は気づかなかった。
緊張している間は、疲れているという感覚さえ後回しになっていたのだろう。
今になって、まとめて身体へ戻ってきたようだった。
「魔力疲労……なのかな」
あいはぼんやり考える。
その言葉自体は知っている。
魔法を使えば消耗する。
だから回復や休息が必要になる。
けれど、自分の身体のどの疲れが魔力によるものなのか、単に一日中動き回ったせいなのか、あいにはまだ区別できなかった。
判断する材料がない以上、勝手に決めつけることもできない。
ただ一つわかるのは。
今日は、ちゃんと休んだ方がいい。
それだけだった。
「美咲ちゃんも、由香里も……ちゃんと休んでるかな」
電車の中で交わした会話を思い出す。
美咲は、帰ったら休むと言っていた。
宿題の話になると急に聞こえないふりをしていたけれど。
思い出して、あいは少し笑った。
由香里も疲れていた。
むしろ、今日一番変化が大きかったのは由香里かもしれない。
朝には黒霧に苦しめられていたのに。
その日の放課後には、自分とは別の生徒を守る側に立っていた。
《アロマ・スリープヴェール》。
《アロマ・ピュリファイ》。
由香里は、怖くなかったのだろうか。
きっと怖かったはずだ。
それでも、眠っている生徒のそばを離れなかった。
美咲もそうだ。
妖魔が生徒へ戻らないように、ずっと前に立っていた。
そして自分は。
二人が作ってくれた時間の中で、コアを狙った。
三人だったからできた。
その事実を思い出すと、疲れているはずなのに胸の奥だけが少し温かくなった。
湯船のお湯とは違う温かさだった。
あいは両膝を軽く抱えるようにして、もう少し深くつかった。
今日、助けた生徒の顔が浮かぶ。
保健室のベッドで、ゆっくりと目を開けた少女。
何が起きたのか知らないまま。
自分たちへお礼を言って。
鞄と本を持って帰っていった。
あの子は今頃、家に着いているだろうか。
家族と夕食を食べているかもしれない。
今日、図書室で倒れたことを話しているかもしれない。
「ちょっと貧血だったみたい」
そんなふうに。
本当のことは知らない。
それでいいのだと思う。
黒霧のことを知らなくても。
妖魔を知らなくても。
自分たちが変身したことを知らなくても。
あの子が普通に家へ帰れた。
それだけでいい。
あいは、ゆっくり息を吐いた。
湯気が揺れる。
昨日の夜。
初めて妖魔と戦ったあとも、こうしてお風呂に入った。
あの時は、目を閉じるたびに戦いがよみがえった。
黒い影。
転んだ時の感覚。
初めて見たコア。
そして、自分が着ていた戦闘服のこと。
怖さと恥ずかしさで、身体はお湯の中にいるのに、心だけがまだ夜道に残っているようだった。
今日は違う。
戦ったことを思い出しても、あの時ほど胸が縮まらない。
怖くなかったわけではない。
慣れてしまったわけでもない。
ただ。
戦いのあとに、無事だった人の顔を思い出せるようになった。
それが少し違う。
あいは浴室の曇った壁をぼんやり見つめた。
ふと、今日一日着ていた制服のことを思い出す。
朝は、いつもより短くしたスカートだけで頭がいっぱいだった。
変身すれば、それよりずっと慣れない戦闘服になる。
何度元へ戻っても、しばらく身体には違和感が残った。
それでも今は。
制服も。
魔法戦士の戦闘服も。
どちらも身につけていない。
誰かに見られることも。
裾を気にすることも。
戦いやすいかどうかを考えることもない。
あいは、自分の肩から力が抜けていることに気づいた。
「……何も着てない時が、一番普通なのかな」
口にしてから、自分で少しおかしくなった。
当たり前のことだ。
けれど、その当たり前を意識するようになるなんて、少し前までは思ってもいなかった。
あいは小さく笑う。
魔法戦士になったからといって、一日中マジカル・ラブでいるわけではない。
学校では宮本あい。
家でも宮本あい。
こうして一人でお風呂に入っている時も、宮本あいだ。
マジカル・ラブは、自分とは別人ではない。
でも、それが自分の全部でもない。
まだうまく言葉にはできない。
けれど。
制服姿の自分も。
変身した自分も。
今こうして湯船でぼんやりしている自分も。
全部つながっている。
そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「あつ……」
長く入りすぎたらしい。
頬が熱くなってきた。
あいは湯船から少し身体を起こした。
その途端、腕の重さをまた感じる。
やっぱり疲れている。
今日は無理をしない方がいい。
いつもの自分なら、これから勉強しなければと思うところだった。
数学の問題もある。
今日、図書室で途中になった勉強会もある。
けれど美咲に言ったのだ。
明日、続きをしよう、と。
だったら自分も、今日は休んでいいはずだ。
「少しだけなら……」
それでも、数学のノートくらいは開いてしまいそうな自分がいる。
あいは苦笑した。
美咲に知られたら、
「ほら、あいちゃんも休んでないじゃん」
と言われそうだ。
由香里なら、
「無理しなくていいよ」
と静かに言うだろう。
二人の声が、簡単に想像できた。
それが少し嬉しかった。
朝には、こんなふうに三人のことを考えながら一日を終えるとは思っていなかった。
あいは最後にもう一度、肩までお湯につかった。
大きく息を吸う。
そして、ゆっくり吐く。
今日一日ずっと張りつめていたものが、その息と一緒に少しずつ外へ出ていく。
明日のことは、明日考えればいい。
妖護隊のことも。
ミレニアム王国のことも。
魔法のことも。
わからないことは、まだたくさんある。
けれど今は。
誰かを助けられた。
美咲も由香里も無事だった。
自分も家へ帰ってこられた。
それで十分だった。
「よし……」
あいは小さく声を出し、湯船から立ち上がった。
浴室を出れば、またいつもの夜が続いている。
自分の部屋があって。
机があって。
教科書があって。
明日になれば、また学校へ行く。
今日は、魔法戦士として何度も戦った一日だった。
それでも一日の最後には、お風呂に入って身体を温めている。
そんな普通のことが、今のあいにはとても大切に思えた。
制服でもない。
マジカル・ラブでもない。
ただの宮本あいとして過ごせる、静かな時間。
あいはようやく、長すぎた一日の緊張から少しだけ解放された気がしていた。
◆ 数学と魔法
お風呂から上がると、身体はずいぶん軽くなっていた。
完全に疲れが取れたわけではない。
腕にも脚にも、まだ一日分の重さが残っている。
それでも、湯船につかる前に比べれば、肩のあたりに張りついていた緊張はかなりほどけていた。
あいは自分の部屋へ戻ると、椅子を引いた。
「少しだけ……」
机の前に座る。
今日はもう休もう。
さっきまで、そう思っていたはずだった。
けれど、机の上を見ると、どうしても気になってしまう。
数学の教科書。
問題集。
そしてノート。
図書室でほとんど進まなかった勉強の続きを始めるつもりはない。
本当に、少しだけ。
あいは数学のノートを開いた。
ページには、今日の授業で扱った式や図が整然と並んでいる。
複素平面。
実軸と虚軸。
点の位置。
座標。
あいはその文字を眺めた。
今朝、北山先生の授業で黒板に立った時には、いつもと同じ数学だった。
少なくとも、問題を解いている間はそう思っていた。
けれど、そのあと。
保健室で《ディストーション・フィールド》を展開した時。
非常階段の複雑な形を、一つの空間として捉え直した時。
そして今日の放課後。
眠っている生徒のすぐそばに現れたコアへ、《ラブ・バースト》を撃った時。
頭の中に浮かんでいたものは、どれもどこか似ていた。
「……座標」
あいは小さくつぶやいた。
机の端に置いてあったシャープペンシルを取る。
ノートの新しいページを開こうとして――手が止まった。
「……だめ」
これは学校でも使うノートだ。
もし誰かに見られたら。
そこに「妖魔」や「魔法」などと書いてあれば、説明に困る。
魔法戦士については秘密にしなければならない。
家族にも。
学校の生徒にも。
誰にでも見られる形で残していいことではない。
あいは少し考えてから、すでに書いてある数学の問題の下へ視線を移した。
余白がある。
ほんの少しだけ。
「これなら……数学の図にしか見えないよね」
自分に確認するようにつぶやく。
まず、縦と横に二本の線を引いた。
交点を原点にして、小さく x と y を書く。
その上に、四つの点を置く。
点を直線で結ぶと、四角形になる。
あいはそれをじっと見た。
保健室。
――とは書かない。
あの部屋を、そのまま写す必要もない。
ただ、四つの点で囲まれた領域。
そこから少し離れた場所に、もう一つ点を置いた。
P。
さらに別の位置へ、Q。
二つの点の間へ、細い直線を一本引く。
「……こう」
今日の保健室で、自分が見ていたものに少し似ている。
一方の点。
もう一方の点。
その間を結ぶ、一番細い経路。
あの時は、そんなふうに考えていたわけではなかった。
もっと必死だった。
マジカル・ビジョンが示すコアを見て。
眠っている生徒を傷つけないようにして。
美咲と由香里の位置を確認して。
撃てる場所を探した。
けれど、今になって思い返してみれば。
――あれも、点と点の問題だったのかもしれない。
あいは直線の横へ、小さく数字を書こうとしてやめた。
正確な距離はわからない。
角度も測っていない。
実際の数値がないのに、それらしい数字を書いても意味がない。
「そこは、まだわからない……」
消しゴムを使うまでもなく、シャープペンシルを机へ軽く当てる。
わからないことを、わかったことにしない。
数学でも同じだ。
条件が足りなければ、答えは決められない。
魔法も、きっと同じように考えた方がいい。
――きっと。
そこで、あいは自分の考えを訂正した。
「……同じかどうかも、まだわからないか」
魔法が本当に数学の法則どおりに動いているのか。
数式だけで完全に説明できるものなのか。
そんなことは、まだ何もわかっていない。
ただ。
自分が魔法を使う時に、数学の考え方が役に立っている。
それだけなら、確かだった。
あいはもう一度ノートへ目を落とす。
四角形の周囲に、今度は少し丸みを帯びた曲線を引いた。
閉じた境界。
その線を見た瞬間、《ディストーション・フィールド》を展開する時の感覚がよみがえる。
空間の端を意識する。
ここまで。
その外側は含めない。
内側だけを、現実とは少し違う場所へずらす。
瑞穂台駅では、境界を保つだけで精いっぱいだった。
保健室では四隅を意識した。
非常階段では、それだけでは足りなかった。
階段。
踊り場。
折り返し。
そのままでは複雑だった空間を、頭の中で並べ直した。
回して。
ずらして。
重ねて。
一本の流れとして考える。
北山先生が黒板に描いた座標の図が、あの時は自然に頭へ浮かんだ。
あいは余白へ、もう一つ小さな図を描いた。
曲がった線。
その横に、まっすぐな線。
二つの間を、小さな矢印で結ぶ。
何の説明も書かない。
数学の授業中に見れば、座標変換を考えた落書きにしか見えないだろう。
「回転……平行移動……」
声に出しかけ、そこで止まる。
あいはシャープペンシルの先を見つめた。
もしかすると。
魔法を使った時に感じたものを、もっとこうして整理できるのではないだろうか。
どこを境界にしたのか。
どこを基準点にしたのか。
何を動かして考えたのか。
どの方向へ魔力を通したのか。
戦っている最中は、そんなことを一つひとつ振り返っている余裕はない。
けれど、あとから図にしてみれば。
次に似た場所で《ディストーション・フィールド》を使う時、もっと早く形を決められるかもしれない。
今日のように、狭いところへ《ラブ・バースト》を通さなければならない時も。
もっと安全な経路を考えられるかもしれない。
「……整理、できるかも」
あいはつぶやいた。
魔法と数学がつながった。
そんな大げさな発見ではない。
それなら、とっくに気づいている。
複素平面も。
座標変換も。
すでに戦いの中で使ってきた。
今考えているのは、その次だった。
戦っている時に頭の中だけで行っていたことを。
感覚だけで終わらせず。
あとから図にして。
順番をつけて。
確かめて。
自分なりの方法として整理していくこと。
それができれば。
次は、もう少し落ち着いて動けるかもしれない。
あいはノートの余白を見つめる。
四角形。
座標軸。
二つの点をつなぐ細い線。
その外側を囲む曲線。
矢印。
どれも、ただの数学の図に見える。
そこには「妖魔」とも書いていない。
「魔法」とも。
「ラブ・バースト」とも書いていない。
それでいい。
むしろ、その方がいい。
秘密を残さず。
それでも、自分には意味がわかる。
「あ……」
あいは少しだけ笑った。
なんだか、暗号みたいだった。
もちろん本当の暗号ではない。
数学の図として成立している。
けれど、今日の自分にだけは、もう一つの意味が見える。
この曲線は境界。
この点は守らなければならない位置。
この細い線は、安全に通したかった経路。
あいは最後に、そのページの端へ小さく日付だけを書いた。
それ以上は書かない。
ページを閉じようとして、ふと手が止まる。
北山先生の顔が浮かんだ。
今朝の数学の授業。
黒板の前で問題を解き終えたあいに向けられた、落ち着いた視線。
解き方をきちんと見てくれていた。
複素平面を、ただ計算としてではなく、位置や変換として捉える考え方。
もし。
こんな図を北山先生が見たら。
どんなふうに読むのだろう。
「……ただの数学の落書きって思うよね」
あいは小さく笑った。
それ以上は考えなかった。
北山先生が魔法戦士について何か知っているなど、あいには知るはずもない。
今のあいにとっては、数学を教えてくれる先生だ。
それで十分だった。
あいはノートを閉じた。
今日は問題を一問も解いていない。
それでも、机へ向かった意味はあった気がした。
数学は数学。
魔法は魔法。
同じものではない。
けれど。
自分が魔法を理解するための言葉として、数学を使うことはできるかもしれない。
「少しずつ、かな」
その言葉は、どこかアムルに言われた言葉にも似ていた。
全部を一度に理解する必要はない。
一つずつ。
わかるところから。
あいはシャープペンシルを筆箱へ戻した。
そして、机の上のノートを閉じる。
その中には、秘密の名前は一つも書かれていない。
ただの図と、線と、点だけ。
けれどその小さな余白には。
宮本あいが、自分なりの方法で魔法戦士という存在を理解し始めた、その最初の整理が静かに残っていた。
◆ 三人のメッセージ
数学のノートを閉じると、部屋の中が急に静かになった。
机の上には、教科書と問題集。
その隣には、さっきまであいが眺めていた数学のノートがある。
余白に描いたのは、座標軸と点と線、それから境界を表す曲線だけ。
知らない人が見れば、数学の授業で思いついた図にしか見えない。
それでいい。
あいはシャープペンシルを筆箱へ戻した。
「今日は……もういいかな」
結局、図書室で途中になった問題は一問も進めていない。
けれど、不思議と罪悪感はなかった。
今日は十分すぎるくらい、頭も身体も使った。
明日続きをやればいい。
あいは椅子から立ち上がり、軽く伸びをした。
お風呂で少し楽になったとはいえ、肩にはまだ疲れが残っている。
ベッドへ腰を下ろすと、そのまま後ろへ倒れ込みたくなった。
「……眠い」
ぽつりと口にする。
その時。
机の上に置いていたスマートフォンの画面が明るくなった。
通知が一件。
あいは手を伸ばしてスマートフォンを取った。
表示されていたのは、美咲からのメッセージだった。
三人で使っているグループチャット。
あいは画面を開く。
美咲:今日はほんとにおつかれ!
短い一文。
それだけなのに、美咲の声まで聞こえてくるようだった。
あいは少し笑った。
学校を出て。
電車に乗って。
瑞穂台駅で由香里と別れて。
歩道橋の下で美咲とも別れた。
それぞれ自分の家へ帰ったのに、こうしてまた三人がつながる。
あいは文字を入力した。
あい:おつかれさま。二人とも、もう家に着いてる?
送信する。
少しして、既読がついた。
最初に返ってきたのは由香里だった。
由香里:うん。着いてるよ。今はもうゆっくりしてる
続けて、美咲。
美咲:私も着いてる!
そして、すぐにもう一つ。
美咲:ちゃんと休んでます!
あいは思わず笑った。
帰り道で「帰ったら休む」と何度も言っていた美咲らしい。
あい:宿題は?
送る。
すぐに返事が来た。
美咲:その話は明日!
「やっぱり……」
声に出してしまう。
すると由香里からも続いた。
由香里:数学も明日続きをするんでしょう?
美咲:由香里まで!
あい:一問しか進んでないから
美咲:それ今日何回言うの!?
あいはスマートフォンを持ったまま、くすくす笑った。
ほんの少し前まで。
三人は、普通の言葉では話せないことを共有していた。
図書室でも。
保健室でも。
帰りの電車でも。
周りに誰かがいないか確かめながら、声を落として話していた。
そして今も、それは変わらない。
この画面に、本当のことを書くわけにはいかない。
今日見たものの名前も。
三人がなったものの名前も。
放課後に助けた生徒に何が起きていたのかも。
文字として残さない方がいい。
もし誰かに画面を見られても、これはただの高校生三人の会話にしか見えない。
宿題。
数学。
疲れた。
明日また学校で会う。
それだけだ。
少し不自由ではある。
けれど、あいはそのことを、学校からの帰り道ほど苦しくは感じなかった。
書けないことがある一方で。
こうして普通のことを話せる。
それもまた、三人の関係なのだと思う。
画面が再び動いた。
今度は由香里だった。
由香里:でも、今日は二人がいてくれてよかった
あいの指が止まった。
短い言葉だった。
何が、とは書いていない。
何について、なのかも。
誰かがこの一文だけを見ても、たぶん意味はわからない。
でも。
あいには、わかった。
今日の朝。
保健室。
屋上。
放課後。
由香里にとっては、何もかもが一日のうちに起きた。
知らなかったことを知り。
自分自身のことまで知ってしまった。
それでも。
最後まで三人で一緒にいた。
あいは、歩道橋で美咲が言った言葉を思い出した。
――三人でよかったね。
胸の奥が、また少し温かくなる。
あいはゆっくり文字を打った。
あい:私も。二人がいてくれてよかった
送る。
少し恥ずかしくなった。
直接口にするのとは違う。
文字になると、自分の気持ちがそのまま残ってしまうようで、余計に照れる。
けれど消したいとは思わなかった。
美咲から返事が来た。
美咲:なに二人だけでいい話にしてるの
一秒ほど間を置いて。
美咲:私もだからね!
「美咲ちゃんらしい……」
あいは笑った。
そして、その下に由香里から小さな返事が続く。
由香里:うん。三人ね
その一文を見て、あいはしばらく画面から目を離さなかった。
三人。
今日だけで、何度その言葉を意識しただろう。
朝はまだ、あい一人だった。
それから美咲が加わって。
由香里も加わった。
今は三人。
でも。
ここに表示されているのは、特別な名前ではない。
ラブでも。
フローラでも。
アロマでもない。
あい。
美咲。
由香里。
学校で呼び合っている、いつもの三人の名前だった。
あいには、それがなんとなく嬉しかった。
魔法戦士だから三人なのではない。
その前から友だちで。
これからも、学校では同じ教室で過ごす。
明日も授業があって。
数学の続きもある。
お昼になれば、また何か話すだろう。
そういう普通の時間が続いていく。
あいはもう一度、文字を打った。
あい:明日もよろしくね
由香里からすぐに返ってくる。
由香里:こちらこそ。二人とも今日はゆっくり休んでね
美咲も続いた。
美咲:はーい
そのあと、少しだけ間が空いた。
これで終わりかな。
あいがスマートフォンを置こうとした時。
もう一件、通知が届いた。
美咲:明日は普通の日だといいね
あいは、その言葉を見つめた。
普通の日。
朝起きて。
制服を着て。
瑞穂台駅から電車に乗って。
学校へ行く。
授業を受けて。
三人でお昼を食べて。
図書室で数学の続きをする。
そして、何事もなく帰ってくる。
昨日までなら、それは当たり前だった。
今日を経験した今は。
それが、とても大切なことに思える。
あいは少し考えてから返信した。
あい:うん。普通の日がいいな
由香里からも返事が届く。
由香里:そうね。明日、学校で
そして最後に、美咲。
美咲:じゃあまた明日! おやすみ!
由香里:おやすみなさい
あいも指を動かした。
あい:おやすみ。また明日
送信する。
画面には、三人の短いやり取りが残った。
どこにも秘密は書かれていない。
今日、本当は何があったのか。
この文章だけを読んでも、誰にもわからないだろう。
それでいい。
あいはスマートフォンの画面を消した。
部屋が少し暗くなる。
机の上には、数学のノート。
その余白には、意味を隠した点と線。
スマートフォンの中には、普通の言葉だけで交わした三人の会話。
秘密を守りながら。
それでも、自分たちなりに気持ちを残している。
あいはベッドへ入り、布団を引き上げた。
身体を横にすると、一日の疲れが一気に戻ってきたようにまぶたが重くなる。
今日、本当にいろいろなことがあった。
けれど。
最後に思い浮かんだのは、戦った時の光景ではなかった。
歩道橋で手を振った美咲。
北口へ向かう前に「また明日」と言った由香里。
そして、さっき画面に並んでいた三人の名前。
あいは目を閉じる。
「……明日は、普通の日だといいな」
小さくつぶやいた。
もちろん、明日のことはわからない。
それでも今夜くらいは、そう願ってもいい。
長すぎた一日は、ようやく終わる。
そして明日になれば。
また三人で、新しい一日が始まる。
そんなことを思いながら。
あいは少しずつ、静かな眠りへ落ちていった。
◆人物紹介
【宮本あい/マジカル・ラブ】
私立さくら女子高等学校三年A組。
真面目で少し引っ込み思案な少女。数学を得意としており、魔法戦士としても感覚だけに頼らず、空間や位置関係を理屈で理解しようとする。
この日、《ディストーション・フィールド》や《ラブ・バースト》を使った経験を振り返り、魔法を座標や図として整理できないか考え始める。
美咲、由香里と三人で戦うようになったことで、一人で秘密を抱えていた頃から少しずつ変わり始めている。
【橘美咲/マジカル・フローラ】
あいの友人で、同じ三年A組。
明るく行動力があり、思ったことを素直に口にするタイプ。魔法戦士としては片手剣を使い、前線で仲間を守りながら戦う。
普段は三人の空気を明るくすることが多いが、長い一日の帰り道では、あいに素直に「三人でよかったね」と伝える。
あいとは瑞穂台駅南口から途中まで同じ帰宅路を使っており、朝に合流した歩道橋で、今度は夕方に別れることになる。
【田村由香里/マジカル・アロマ】
あい、美咲と同じ三年A組の友人。
穏やかで落ち着いた性格で、社会や歴史が得意。魔法戦士としては、香りを利用した回復・浄化・安定化を得意とする。
この日の朝までは、自分が魔法戦士になるとは知らなかった。
しかし一日の終わりには、あい、美咲と同じ秘密を抱える仲間となり、三人で瑞穂台駅まで帰る。
自宅は瑞穂台駅北口側。
「長い一日の帰り道」をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は妖魔との戦いではなく、戦いを終えたあいたちが日常へ戻っていく姿を中心に描きました。
朝にはまだ想像もしていなかった出来事をいくつも経験し、美咲、そして由香里と三人の仲間になったあい。
同じ瑞穂台駅まで電車で帰り、途中で由香里と別れ、朝に美咲と出会った歩道橋で、今度は「また明日」と別れる。
一日の始まりと終わりが同じ場所につながる構成になっています。
家へ帰れば、母とのいつもの会話があり、お風呂があり、数学のノートがあり、友だちとのメッセージがあります。
魔法戦士になっても、あいは宮本あいのままです。
そして、誰かを守ることは、妖魔を倒すことだけではなく、その人が何も知らないまま「いつもの日常」へ帰れるようにすることでもあります。
そんなことを、あいが少しずつ感じ始める一話になりました。
また、あいはこれまで戦いの中で使ってきた数学的な考え方を、今度は自分なりに整理し始めています。
点と線、座標、境界。
一見するとただの数学の図ですが、それがこれからどのようにつながっていくのかも、見守っていただければと思います。
そして最後は、三人のメッセージ。
「明日は普通の日だといいね」
長すぎた一日を終えた三人にとって、何も起こらない一日は、以前より少し大切なものになったのかもしれません。
次回もよろしくお願いします。




