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美少女魔法戦士マジカルラブ  作者: 宮本あい
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15/15

母の沈黙、連結部の少女

 朝。


 いつもと変わらない宮本家の食卓。

 母・郁子との何気ない会話。

 学校へ向かうあいを見送る、優しい母の笑顔。


 けれど、あいの知らないところで、ある出来事が起きていました。


 最近、少しずつ変わり始めた娘。

 その変化に気づいている母。


 あいには、家族にも話せない秘密があります。

 そして郁子もまた、すべてを言葉にするわけではありません。


 それでも、母娘の朝はいつもどおりに過ぎていきます。


 一方、学校へ向かう通学電車では、思いがけない出来事が。


 混雑した女性専用車。

 川沿いの少し暗い区間。

 そして、車両の連結部へ向かう、見知らぬ少女。


 魔法戦士になっても、普通の高校生活は続いていく。


 けれど、その何気ない日常の中にも、あい達の知らない世界が広がっているようです。


 今回は、そんな静かな変化を描くお話です。


◆ 郁子への訪問


 宮本家のリビングには、穏やかな静けさが広がっていた。

 窓から差し込むやわらかな光が、テーブルの上を明るく照らしている。

 キッチンでは、宮本郁子が洗い終えた食器を一枚ずつ片づけていた。

 水気を拭き取った皿を棚へ戻し、布巾をきれいに畳む。

 いつもと変わらない、家庭の何気ない時間。

 その静けさを破ったのは、玄関のインターホンだった。

 ――ピンポーン。

 郁子は手を止め、布巾を置いた。

「はい、どちらさまでしょうか」

 壁に取りつけられたインターホンの画面には、一人の女性が映っていた。

 落ち着いた色のスーツを着た女性だった。

「突然の訪問、失礼いたします。内務省の関係者です。宮本郁子様でいらっしゃいますか」

「はい。私ですが……」

「宮本あいさんの件で、少しお伝えしたいことがございまして。お時間をいただけますでしょうか」

 郁子はすぐには答えなかった。

 画面の中の女性は、静かに返事を待っている。

 やがて郁子は、ゆっくりとうなずいた。

「……わかりました。少々お待ちください」

 インターホンを切ると、郁子は玄関へ向かった。

 ほどなくして、宮本家の玄関の扉が開いた。

「お忙しいところ、申し訳ございません」

 女性は丁寧に頭を下げた。

「いえ。どうぞ、お入りください」

 郁子は穏やかな声で応じ、女性を室内へ案内した。


 リビングのテーブルには、二つの湯呑みが置かれていた。

「粗茶ですが、どうぞ」

「ありがとうございます。お気遣いいただいて、申し訳ありません」

 女性はもう一度軽く頭を下げ、湯呑みに手を添えた。

 郁子は向かい側の椅子に腰を下ろす。

「それで……あいのことで、お話があるとか」

「はい」

 女性は背筋を伸ばした。

「本日は、宮本あいさんについて、関係機関で確認された事項をお伝えするために伺いました」

「確認された事項、ですか」

「はい。宮本あいさんに、特別な適性が確認されました」

 郁子は女性の顔を見つめた。

「特別な……適性」

「詳しい内容については、お伝えできる範囲に限りがございます。ただ、今回の確認を受け、今後は学校側や関係機関とも連携し、必要な支援を行うことになります」

 女性の説明は丁寧だった。

 しかし、何についての適性なのか、どのような支援なのか、はっきりとした言葉は出てこない。

 郁子はしばらく黙っていた。

 それから、静かに尋ねた。

「あの子、学校で何か問題を起こしたのでしょうか」

「いいえ。そういうことではございません」

 女性はすぐに首を横に振った。

「宮本あいさんが何か問題を起こされたというお話ではありません。むしろ、ご本人がこれまでどおり学校生活を送れるよう、安全面から必要な対応を行うという趣旨です」

「そうなんですね」

 郁子は小さくうなずいた。

「それでしたら、少し安心しました」

 そう言って、湯呑みに手を伸ばす。

 女性も手元の湯呑みへ視線を落とした。

 しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。

 窓の外からは、遠くを走る車の音がかすかに聞こえてくる。

「宮本様」

 女性が、改めて口を開いた。

「最近、あいさんのご様子に、何か変わったところはございませんでしたか」

 郁子は湯呑みをテーブルへ戻した。

「変わったところ、ですか……」

 少し間を置いて、口元に淡い笑みを浮かべる。

「そうですね。高校三年生ですから、いろいろある年頃だとは思いますけれど」

「はい」

「最近、急に制服のスカートを短くするようになったんです」

 女性は黙って耳を傾けた。

「前は、ずいぶんきちんとした長さにしていたんですよ。あの子、昔から真面目なところがありますから」

 郁子は、懐かしそうに微笑んだ。

「それが、ある朝、ずいぶん短くしていて。最初は少し驚きました」

「そうだったのですね」

「ええ。本人は、友だちと同じくらいにしたいとか、そんなふうに言っていましたけれど」

 郁子はそこで言葉を切った。

「もちろん、スカートを短くすること自体は、珍しい話ではないのでしょうけれどね」

「はい」

「ただ……それだけではなくて」

 郁子はテーブルの端にそろえていた指先を、少し動かした。

「帰ってきたとき、いつもより疲れた顔をしている日があったり。何か聞こうとすると、少し言葉を選ぶようになったり」

 女性の表情は変わらなかった。

「何か心配なことがあるのかと、お尋ねになりましたか」

「少しだけ」

 郁子は柔らかく答えた。

「でも、あまり詳しくは話してくれなくて。学校でいろいろあったのかな、くらいに思っていました」

「そうですか」

「美咲ちゃんや由香里ちゃんとは、仲良くしているようですし。家では、ご飯もきちんと食べていますから」

 郁子は微笑んだ。

「急に何もかも問い詰めるのも、かわいそうでしょう?」

 女性は小さくうなずいた。

「ご本人の気持ちを大切にされているのですね」

「そんな大げさなことではありませんよ」

 郁子は少し照れたように笑った。

「ただ、あの子は昔から、自分でいろいろ考えてしまうところがあるんです。困っていることがあれば話してほしいですけれど、話したくないことまで無理に聞くのは、違う気がして」

 女性はその言葉を聞き、静かに背筋を正した。

「ご家庭でのご様子を伺えて、参考になりました。ありがとうございます」

「いえ。こんなことでよかったのでしょうか」

「はい。十分です」

 郁子はそれ以上、尋ねなかった。


 女性は、改めて今回の連絡について説明を続けた。

「今後、宮本あいさんについては、学校生活との両立を重視しながら、必要に応じた支援を行ってまいります」

「学校生活との両立……」

「はい。日々の授業や進学に向けた準備など、あいさんが大切にされていることを、できる限り妨げないようにする方針です」

「そうですか。あの子、勉強は一生懸命ですから」

 郁子の声が、少し明るくなった。

「特に数学が好きで。難しい問題でも、納得するまで考えていることがあります」

「そうなのですね」

「ええ。でも、何でも一人で抱え込もうとするところもあるので……そこは、少し心配です」

 郁子は湯呑みを両手で包んだ。

「何かあったとき、ちゃんと助けてもらえるのでしょうか」

 女性は姿勢を崩さずに答えた。

「はい。そのために、学校や関係機関との連絡体制を整えてまいります」

「本人だけで、全部何とかしなくてもいいんですね」

「はい。必要なときには、周囲が支援できるようにすることが大切だと考えております」

 郁子は、ゆっくりとうなずいた。

「それなら……よろしくお願いいたします」

「こちらこそ、ご理解いただきありがとうございます」

 二人は静かに頭を下げた。

 女性は手元の資料を確認したが、それを広げて詳しい説明をすることはなかった。

 郁子も、資料の中身を尋ねなかった。

 話題が途切れたところで、女性は湯呑みを置いた。

「本日は突然お伺いしたにもかかわらず、お時間をいただき、ありがとうございました」

「いえ。あいのことですから」

 郁子は静かに首を横に振った。

「親として、できることがあればと思っています」

「ありがとうございます」

 女性は一度、深く頭を下げた。

 そして、最後にもう一つだけ言葉を添えた。

「今回の件については、あいさんご本人がこれまで大切にしてこられた日常を、できる限り守る形で対応してまいります」

 郁子は女性を見つめた。

 窓の外では、風に揺れた木の葉が、さらさらと小さな音を立てていた。

 テーブルの上には、まだ温かさの残る二つの湯呑み。

 郁子はその一つに視線を落とし、少しだけ間を置いた。

 そして、顔を上げた。

「……そうですか」


◆ 朝のあい


 ピピピッ、ピピピッ――。

 枕元から聞こえてきた電子音に、宮本あいはゆっくりと目を開けた。

「……ん……朝……」

 まだ少し眠気の残る手を伸ばし、目覚まし時計のボタンを押す。

 音が止まると、部屋には静けさが戻った。

 あいはしばらく天井を見つめていたが、やがて掛け布団をめくり、ベッドの上で上半身を起こした。

 窓の方を見ると、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。

「……起きなきゃ」

 小さくつぶやき、ベッドから降りる。

 カーテンを開けると、窓いっぱいに明るい空が広がった。

 夏の朝らしい日差しが、部屋の床へまっすぐ伸びている。

 窓の向こうには、いつもの住宅街。

 遠くを走る車の音が、かすかに聞こえていた。

 昨日までと変わらない景色。

 それでも、最近のあいには、こうして普通の朝を迎えられることが、以前より少しだけ特別に感じられるようになっていた。

 魔法戦士になってから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。

 けれど、その間にいろいろなことがあった。

 美咲が魔法戦士になり、由香里も仲間になった。

 自分たちよりずっと長く戦ってきた、紫織や桃歌とも出会った。

 同じ学校に通っているのに、今まで知らなかった人たち。

 自分たちが普通に授業を受けている間にも、誰かがどこかで戦っていたのかもしれない。

「……なんだか、不思議だな」

 窓の外を見つめながら、あいは小さく息を吐いた。

 しばらくして、壁の時計へ目を向ける。

「あっ……あんまり、のんびりしてられない」

 あいは慌てずに寝具を整えると、洗面を済ませるため、自室を出た。


 洗面を済ませ、部屋へ戻ってきたあいは、クローゼットの前に立った。

 扉を開ける。

 中には、学校の制服がきちんと掛けられていた。

 白い半袖ブラウス。

 薄手の紺色のブレザー。

 そして、緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。

 私立さくら女子高等学校の夏制服だ。

 あいはブラウスとブレザーを取り出し、ベッドの上へ丁寧に置いた。

 それから、スカートへ手を伸ばす。

「…………」

 ハンガーから外したところで、あいの手がほんの少し止まった。

 膝上十五センチ程度に調整した、短めのスカート。

 以前のあいなら、まず選ばなかった長さだった。

 あの頃は、膝頭が見える標準的な丈でも十分だと思っていたし、もっと短くしようなどとは考えたこともなかった。

 それが今では、毎朝このスカートを手に取っている。

「……もう、慣れてきたと思うんだけど……」

 スカートを広げてみる。

 濃い緑と紺のチェック柄は、以前と何も変わらない。

 変わったのは、丈の長さだけ。

 それなのに、初めて穿いた朝は、まるで別の制服になってしまったような気がしたものだった。

 あのときは、鏡の前からなかなか動けなかった。

 少し歩いては裾を確かめ、また鏡を見る。

 その繰り返しだった。

 けれど、今は違う。

 あいはスカートを一度見つめると、いつものように着替えを始めた。

 ブラウスに袖を通し、襟元を整える。

 スカートを穿き、ウエストの位置を確かめる。

 プリーツの折り目が乱れていないか、軽く手で整えた。

 そして、薄手の紺色のブレザーを羽織る。

「……うん」

 短く息をついた。

 最初の頃に比べれば、ずいぶん自然に着替えられるようになった。

 もっとも、それは短いスカートがまったく気にならなくなった、ということではない。

 立ったり座ったりするときの姿勢。

 階段を上るときの足の運び方。

 風が強い日の注意。

 以前はあまり意識しなかったことを、今では自然に考えるようになっていた。

 それも、魔法戦士としての適応訓練の一つ。

 変身後の戦闘服は、普段の制服よりもずっと動きやすさを重視した、短いスカートの衣装になっている。

 初めて変身したとき、あいはその姿に驚き、なかなか戦闘へ集中できなかった。

 あのときの戸惑いを少しでも減らすために、日常の中で短いスカートに慣れておく。

 アムルから教えられた、そんな訓練だった。

 もちろん、制服そのものに特別な力があるわけではない。

 ただ、普段から慣れておけば、いざというときに余計なことを考えずに済むかもしれない。

 あいは、そう思って続けていた。

「……でも、やっぱり短いよね……」

 ぽつりと口にして、少しだけ頬を赤らめる。

 慣れてきたとはいえ、鏡を見るたびに何とも思わないほど大胆になったわけではない。

 それでも、あいはスカートを元の長さへ戻そうとはしなかった。

 今では、これも自分で選んだ毎朝の習慣になっていた。


 制服へ着替え終えると、あいは鏡台の前に座った。

 次は髪の毛だ。

 肩の後ろへ流れている長い黒髪を、丁寧にブラシでとかしていく。

 毛先までゆっくりとブラシを通し、絡まったところがないか確かめる。

 それから左右に分け、いつものツインテールに結んだ。

 右側を整え、左側も同じくらいの高さになるように結び直す。

「……こっち、ちょっと低いかな」

 鏡を見ながら、小さく首を傾げる。

 片方の結び目を少し上げると、左右のバランスがよくなった。

「うん。これで大丈夫」

 長い黒髪が、背中の両側へ自然に流れる。

 あいは横を向いて、後ろ髪の形も確認した。

 続いて、眼鏡をかける。

 視界がはっきりすると、鏡の中に見慣れた自分の顔が映った。

 黒髪のツインテール。

 眼鏡。

 さくら女子の夏制服。

 いつもの宮本あいだ。

 そして最後に、学校指定のピンク色のリボンタイを胸元へ結ぶ。

 鏡の中で、少しだけ傾いているリボンを見つけた。

「あ……曲がってる」

 指先で結び目を整え、左右の形を確かめる。

 もう一度、正面から見直す。

「……よし」

 あいは立ち上がり、部屋の隅にある姿見の前へ移動した。

 頭から足元まで、自分の姿を映してみる。

 まず髪型。

 左右のツインテールは、きれいに整っている。

 次にブラウスとブレザー。

 襟元に乱れはなく、肩の位置もおかしくない。

 胸元のピンク色のリボンタイも、今度はまっすぐになっていた。

 そして、スカート。

「…………」

 あいは自然に視線を落とした。

 緑と紺のチェック柄。

 きれいに並んだプリーツ。

 膝より十五センチほど上で終わる裾。

 鏡の中では、やはり少し短く見える。

 あいは無意識に裾へ手を伸ばしかけたが、途中で止めた。

 以前なら、そこで何度も裾を引っ張り、長さを確かめていただろう。

 けれど、今は一度確認するだけで済む。

 丈が変わるわけではないと、もうわかっていた。

 あいは手を離し、姿勢を正した。

 肩を少し後ろへ引き、背筋を伸ばす。

 鏡の中の自分が、ほんの少しだけ落ち着いて見えた。

「……前よりは、自然になったかな」

 誰に聞かせるでもなく、つぶやく。

 美咲のように、最初から短いスカートを気にせず歩けるわけではない。

 由香里とも、戸惑うところは少しずつ違う。

 それでも、自分なりには進んでいる。

 初めて短いスカートで通学した朝。

 緊張しながら玄関を出たこと。

 エレベーターの鏡に映った姿を見て、思わず目をそらしたこと。

 歩道橋で美咲と合流して、少し安心したこと。

 そんな出来事が、ふと頭をよぎった。

 あの頃は、ただ学校へ行くだけでも大変だった。

 今では、こうして鏡の前で制服を整えたあと、次に何を準備するかを普通に考えられる。

 ほんの小さな違い。

 でも、あいにとっては確かな変化だった。

「……今日も、ちゃんとしよう」

 軽くうなずいて、姿見の前から離れた。


 机の上には、昨夜使った教科書とノートが重ねて置かれていた。

 あいは時間割を確認し、必要なものを通学鞄へ入れていく。

 数学の教科書。

 ノート。

 筆箱。

 ほかの授業で使う教材も、順番に確かめる。

「……数学は、これと……」

 一冊ずつ指で数えながら、鞄の中を整理する。

 途中、数学のノートが目に留まった。

 授業の計算問題だけではなく、余白には点や線、座標を描いたページもある。

 あいはその表紙を少し見つめた。

 最近は、数学の問題を解いているときにも、戦闘中に見た光景を思い出すことがある。

 空間の広がり方。

 仲間との位置関係。

 どこまでが安全で、どこからが危険なのか。

 数学と魔法は、もちろん同じものではない。

 それでも、自分が得意な考え方を使えば、まだ理解できていないことも少しずつ整理できるのかもしれない。

 あいはノートを鞄へ収めた。

「……学校の勉強も、ちゃんとしないとね」

 魔法戦士になってから、忙しい日が増えた。

 だからといって、授業や宿題をおろそかにしたくはなかった。

 進学のこともある。

 友だちとの時間も大切だ。

 そして、家に帰れば、いつもの家族との生活がある。

 魔法戦士としての活動は、そのすべてと切り離された別の世界ではない。

 普段の生活を続けながら、少しずつ向き合っていかなければならないものなのだろう。

 あいは鞄のファスナーを閉めた。

 壁の時計を見る。

「……あ、もうこんな時間」

 急がなければならないほどではないが、ゆっくりしすぎるわけにもいかない。

 あいは机の上を軽く整え、忘れ物がないか、もう一度確認した。

 教科書。

 ノート。

 筆箱。

 ハンカチ。

 スマートフォン。

「……大丈夫」

 鞄を持ち上げる。

 そして、部屋を出ようとして――ふと足を止めた。

 もう一度だけ、姿見の前へ戻る。

 黒髪のツインテール。

 眼鏡。

 白いブラウスと紺色のブレザー。

 ピンク色のリボンタイ。

 そして、緑と紺のチェック柄の短いプリーツスカート。

 いつもの制服。

 少しずつ、自分のものになってきた着こなし。

 あいは鏡の中の自分へ、小さくうなずいた。

「……よし。行こう」

 恥ずかしさが、すっかり消えたわけではない。

 それでも、もう、その気持ちだけで朝の支度が止まることはなかった。

 あいは鞄を手に、部屋の扉へ向かった。

 ドアノブに手をかけ、静かに扉を開く。

 廊下の向こうから、食器の触れ合う小さな音が聞こえてきた。

 いつもの宮本家の朝。

 あいは部屋の明かりを消し、廊下へ出た。

 そして、そっと自室の扉を閉めた。


◆ 母との朝食


 自室を出たあいは、鞄を持ってリビングへ向かった。

 廊下を歩いていると、キッチンの方から食器の触れ合う音が聞こえてくる。

 それに混じって、焼きたてのトーストの香ばしい匂いが漂ってきた。

「おはよう、お母さん」

 リビングへ入ると、キッチンに立っていた宮本郁子が振り返った。

「あら、あい。おはよう。今日はもう支度ができたのね」

「うん。忘れ物も確認したよ」

「そう。じゃあ、朝ご飯にしましょうか」

 郁子は柔らかく微笑んだ。

 ダイニングテーブルには、すでに朝食が用意されていた。

 焼きたてのトーストに目玉焼き。小さなサラダと、牛乳の入ったグラス。

 いつもの宮本家の朝食だ。

 あいは鞄をいつもの場所へ置き、椅子に腰を下ろした。

「あれ? お父さんは?」

「今日は少し早く出かけたのよ。仕事が立て込んでいるみたいでね」

「そうなんだ……」

 あいは、父の座る椅子へ目を向けた。

 宮本憲司はITエンジニアとして働いており、仕事で帰りが遅くなることも珍しくない。

 朝早く出かける日もある。

 それでも、家にいるときは穏やかで、あいの学校の話にもよく耳を傾けてくれる父だった。

「お父さん、ちゃんと朝ご飯食べた?」

「ええ。いつもより少し早かったけれど、ちゃんと食べていったわよ」

「よかった」

「ふふ。あいはお父さんの心配ばかりね」

「だって、最近忙しそうだから……」

「そうね。でも、あいもちゃんと食べないとね」

「うん」

 郁子が向かい側の椅子に座る。

 二人は手を合わせた。

「いただきます」

「いただきます」

 あいはトーストを一口かじった。

 さくっとした軽い音がして、焼きたての香ばしさが口の中へ広がる。

「……おいしい」

「よかった。今日はちょうどいい焼き加減だったかしら」

「うん。私、このくらいが好き」

「じゃあ、覚えておくわね」

 そんな何気ない会話をしながら、朝食が始まった。


「そういえば、あい。今日は学校で何か予定があるの?」

 郁子がサラダへ手を伸ばしながら尋ねた。

「えっと……いつもどおり授業があるけど、特別な予定はないかな」

「そう。最近は、お友だちと一緒に遅くまで学校にいる日もあるでしょう?」

「うん。美咲ちゃんと由香里と、勉強したり、お話ししたりしてるから」

「仲がいいのね、三人とも」

「うん」

 あいは自然に笑顔になった。

 美咲とは以前から親しくしていたけれど、最近は由香里とも一緒に過ごす時間が増えた。

 教室でも、通学途中でも、三人で話すことが多い。

 もちろん、その理由のすべてを母に説明することはできない。

 けれど、三人で勉強したり、他愛のない話をしたりしているのも、本当のことだった。

「由香里ちゃんって、どんな子なの?」

「えっとね、すごく落ち着いていて、優しい子だよ。社会科とか歴史にも詳しくて」

「あら、そうなの」

「うん。私がよくわからないことも、丁寧に説明してくれるの」

「それは頼もしいわね」

「美咲ちゃんは、相変わらず元気だけどね」

 あいは小さく笑った。

「ふふ。美咲ちゃんらしいわね」

 郁子も楽しそうに笑う。

「でも、あいがそんなふうにお友だちの話をするの、最近は少し増えた気がするわ」

「……そうかな?」

「ええ。前より楽しそうよ」

 あいは少し照れくさくなって、グラスの牛乳を一口飲んだ。

「……うん。二人と一緒だと、楽しいから」

「それなら、よかった」

 郁子は穏やかにうなずいた。

 あいも小さく笑った。

 友だちのことを話すだけなら、何も隠す必要はない。

 そう思えることが、少し嬉しかった。


 朝食が半分ほど進んだ頃だった。

 郁子がふと、あいの制服へ目を向けた。

「そういえば、あい」

「ん?」

「最近、ずいぶん短いスカートが多いわね」

「……えっ」

 あいの手が、ほんの少し止まった。

 視線を下ろすと、椅子に座った膝の上で、緑と紺のチェック柄のプリーツがきれいに並んでいる。

 朝、自室の姿見で確認したばかりのスカートだった。

「そ、そうかな……」

「ええ。前はもう少し長くしていたでしょう?」

「う、うん……」

 あいは少し頬を赤らめた。

 もちろん、理由はある。

 変身後の短い戦闘服に慣れるための、日常での適応訓練。

 最初は戸惑っていたけれど、最近は少しずつ慣れてきた。

 けれど、その理由を母に話すわけにはいかない。

「えっと……美咲ちゃんと、同じくらいの長さにしてるの」

「美咲ちゃんと?」

「うん。美咲ちゃん、前から短めのスカートを穿いてるでしょう?」

「そうね。美咲ちゃんは、いつも元気いっぱいだものね」

「……うん」

 あいは小さくうなずいた。

 嘘ではない。

 実際、美咲は以前から短めの制服に慣れている。

 あいがスカート丈を調整したときにも、美咲からいろいろと教えてもらった。

 ただ、そのきっかけとなった事情については、どうしても話せない。

「お友だちと同じくらいにしてみたかったの?」

「えっと……それも、あるかな」

 少し曖昧な返事になった。

 郁子はそれ以上、詳しく尋ねなかった。

「そう。あいが自分で選んだのなら、いいと思うわよ」

「……いいの?」

「もちろん。学校の決まりを守っているなら、おしゃれを楽しむのもいいでしょう?」

 郁子はにっこりと笑った。

「ただし――」

「……ただし?」

「階段と風だけは、気をつけなさい」

「……あ」

 あいは思わず小さな声を漏らした。

 階段。

 風。

 その二つは、短いスカートで通学するようになってから、あい自身も気をつけていることだった。

 歩道橋の階段を上るとき。

 駅のホームで風が吹いたとき。

 慌てて身体を動かすとき。

 以前よりも、少しだけ周囲に気を配るようになっている。

「……うん。気をつけてるよ」

「そう。なら安心ね」

 郁子は何事もなかったように、朝食へ戻った。

 あいもフォークを持ち直す。

 けれど、ほんの少しだけ気になった。

 お母さん、ずいぶん具体的に言うんだな……。

 もちろん、短いスカートを穿いている娘へ、階段や風に注意するよう言うのは、おかしなことではない。

 むしろ、ごく普通の母親らしい心配なのだろう。

 それでも、最近の自分が気をつけていることを、そのまま言い当てられたような気がした。

 あいはもう一度、母の顔を見た。

 郁子は、いつもの穏やかな表情で朝食を続けている。

 特に変わった様子はなかった。

「……あい?」

「あっ、ううん。何でもない」

「そう?」

「うん」

 あいは慌てて目玉焼きへフォークを伸ばした。

 考えすぎ、かな……。

 そんなふうに思いながら、また一口食べる。


「ところで、あい。最近、少し疲れていない?」

 今度は郁子の方から、別の話題を切り出した。

「えっ?」

「帰ってきたとき、ちょっと疲れた顔をしている日があるから」

「……そう?」

「ええ。勉強も大事だけど、あまり無理はしないでね」

 あいはフォークを置いた。

 最近のことを思い返す。

 学校での授業。

 美咲や由香里との時間。

 そして、誰にも話せない、もう一つの出来事。

 魔法戦士としての戦い。

 妖魔と向き合うときの緊張。

 戦いが終わったあと、急に身体が重く感じられることもあった。

 それでも、母には説明できない。

「……うん。ちょっと、学校でいろいろあったから」

「そう」

「でも、大丈夫だよ。美咲ちゃんも由香里もいるし」

「そうね」

 郁子は優しくうなずいた。

「一人で頑張りすぎないことよ」

「……うん」

「困ったことがあったら、お友だちでも、先生でも、頼っていいんだからね」

 あいは母の言葉を聞きながら、少しだけ目を伏せた。

 美咲。

 由香里。

 アムル。

 鶴岡先生。

 最近の自分は、本当にいろいろな人に助けられている。

 もし一人だったら、ここまでやってこられなかったかもしれない。

「……ありがとう、お母さん」

「ふふ。どういたしまして」

 郁子は微笑んだ。

 その笑顔は、昔から変わらない。

 あいが小さな頃から、失敗したときも、落ち込んだときも、変わらず向けてくれた笑顔だった。

 魔法戦士になってから、自分の中には話せないことが増えてしまった。

 それでも、母と過ごす時間まで変わったわけではない。

 あいは、そんな当たり前のことに少し安心した。


 朝食を食べ終える頃には、リビングの時計の針も進んでいた。

「あっ、そろそろ行く準備しないと」

 あいは時計を見て、少し背筋を伸ばした。

「そうね。今日は余裕を持って出られそうね」

「うん。朝の支度、前より早くできるようになったから」

「あら、それはいいことね」

 郁子が嬉しそうに笑った。

 あいは空になった皿とグラスをまとめた。

「ごちそうさま」

「はい、お粗末さまでした」

 食器をキッチンへ運び、テーブルの上を軽く確認する。

 いつもの朝食。

 いつもの母との会話。

 父が早く仕事へ出かけているのも、珍しいことではない。

 何も特別なことは起きていない。

 それなのに、あいの耳には、先ほどの母の言葉が少しだけ残っていた。

 ――階段と風だけは、気をつけなさい。

 どうしてだろう。

 ただの注意なのに、いつもより少しだけ印象に残っている。

 あいはキッチンに立つ母の後ろ姿を見た。

 郁子は鼻歌を口ずさみながら、食器を片づけ始めている。

 その様子は、普段と何も変わらなかった。

「……うん」

 あいは小さくうなずいた。

 きっと、お母さんは心配してくれているだけ。

 そう思うと、胸の中にあった小さな引っかかりも、少し薄くなった。

「お母さん、私、そろそろ行くね」

「ええ。玄関まで行くわ」

「うん」

 あいは椅子のそばに置いていた通学鞄を手に取った。

 そして、いつもの朝の続きとして、母と一緒に玄関へ向かう準備を始めた。


◆ 玄関


 朝食を終えたあいは、通学鞄を手に玄関へ向かった。

 廊下には、リビングの窓から差し込む朝の光が届いている。

 キッチンでは、母の郁子が食器を片づけている音が聞こえていた。

「お母さん、行ってくるね」

 あいが声をかけると、すぐに返事があった。

「はーい。ちょっと待ってね」

 ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。

 郁子は手を拭きながら、いつもの穏やかな笑顔で玄関へやってきた。

「あら、もう行くの?」

「うん。今日は少し余裕があるから」

「そうね。朝から慌てなくて済むのはいいことだわ」

 あいは鞄をいったん脇へ置き、靴を履き始めた。

 片足ずつ丁寧に履き、かかとを確かめる。

 以前なら、玄関に立つだけでも短くなったスカートが気になって、何度も裾へ手を伸ばしていた。

 けれど今は、少し意識することはあっても、それだけで動きが止まることはない。

 靴を履き終え、顔を上げる。

「……よし」

「あい、ちょっとこっちを向いて」

「え?」

 郁子があいの正面に立った。

「リボンが少し曲がってるわよ」

「あっ、本当?」

「ええ。ちょっとだけね」

 郁子はあいの胸元へ手を伸ばし、ピンク色のリボンタイの結び目をそっと整えた。

 右側を少し引き、左右の形を確かめる。

「はい。これで大丈夫」

「ありがとう、お母さん」

「どういたしまして」

 郁子は一歩下がり、娘の制服姿を軽く見渡した。

 白い半袖ブラウスに、薄手の紺色のブレザー。

 胸元には、今整えたばかりのピンク色のリボンタイ。

 緑と紺のチェック柄のプリーツスカートも、朝の支度できれいに整えられている。

「うん。今日もきちんとしてるわね」

「……そうかな?」

「ええ。髪もきれいに結べているし」

 あいは少し照れくさくなって、自分のツインテールに手を添えた。

「今日は、左右の高さをそろえるのに少し時間がかかったんだ」

「ふふ。そうだったのね」

 郁子は楽しそうに笑った。

「でも、最近は朝の支度がずいぶん手際よくなったんじゃない?」

「うん。前よりは、少しだけ」

 あいも小さく笑う。

 スカートの丈を短くし始めた頃は、鏡の前で何度も立ち止まっていた。

 それを思えば、今はずいぶん落ち着いて準備できるようになったと思う。

 もちろん、美咲のように何も気にせず動けるわけではないけれど。

「でも、慣れてきた頃が一番気をつけないといけないのよ」

 郁子が、ふと思い出したように言った。

「……え?」

「ほら、さっきも言ったでしょう? 階段とか、風の強いところとか」

「あ……うん」

 あいは思わず視線を下ろした。

 膝上十五センチほどのプリーツスカート。

 最初は、その短さばかり気にしていた。

 最近は少しずつ自然に動けるようになってきたけれど、だからといって、気を配らなくてよくなったわけではない。

「ちゃんと気をつけるよ」

「そう。なら、いいわ」

 郁子はそれ以上、スカートのことには触れなかった。

 代わりに、あいの鞄へ視線を向ける。

「忘れ物はない?」

「うん。教科書もノートも確認したし、ハンカチも入れたよ」

「定期券は?」

「あっ……」

 あいは一瞬、目を丸くした。

 慌てて鞄を開ける。

 中を確かめると、いつもの場所に定期券が収まっていた。

「……あった」

「ふふ。よかったわね」

「もう、お母さん。びっくりした……」

「あら、確認しただけよ?」

 郁子は少しいたずらっぽく笑った。

 あいもつられて笑ってしまう。

 こういうやり取りは、昔から変わらない。

 出かける直前になって忘れ物が気になったり、母に声をかけられて慌てて確認したり。

 高校三年生になっても、そんなところはあまり変わっていないのかもしれない。

 あいは鞄のファスナーを閉め、肩に掛け直した。

「……うん。今度こそ大丈夫」

「そうね」

 郁子は玄関の扉の方へ目を向けた。

「今日は暑くなりそうだから、水分もちゃんと取るのよ」

「うん」

「学校で疲れたら、無理しないこと」

「……うん。わかってる」

 あいは少しだけ苦笑した。

「お母さん、今日は心配することが多いね」

「あら、そうかしら」

「うん。朝ご飯のときも、無理しないでって言ってたし」

 郁子は少し考えるように首を傾げた。

「そうねえ……最近、あいも忙しそうだからかしら」

「……そっか」

「でも、元気に学校へ行って、元気に帰ってきてくれたら、それで十分よ」

 その言葉に、あいは少しだけ目を伏せた。

 学校へ行って、授業を受けて、友だちと話して、家へ帰る。

 そんな普通の一日。

 以前なら、特別に意識することもなかった。

 けれど最近は、その普通の一日が、必ずしも何事もなく終わるとは限らないことを知っている。

 妖魔との戦い。

 誰にも話せない秘密。

 自分たちが守らなければならないもの。

 それでも、母の前では、いつもの宮本あいでいたかった。

「……うん。ちゃんと帰ってくるね」

 あいは顔を上げて答えた。

 郁子は優しく微笑んだ。

「ええ」

 ほんの短い返事だった。

 けれど、その声はいつもと変わらず、あいの胸をほっとさせるものだった。


 あいは玄関の扉へ手を伸ばした。

 ドアノブを握り、ゆっくりと扉を開ける。

 共用廊下の明るい光が、玄関の中へ差し込んできた。

 マンションの外からは、遠くを走る車の音や、朝の街のざわめきがかすかに届いている。

 いつもの登校時間。

 いつもの朝の景色。

 あいは一度振り返った。

 郁子は玄関の内側に立ち、穏やかな笑顔を浮かべていた。

「じゃあ、お母さん。行ってきます」

「いってらっしゃい、あい」

 いつもの声。

 小さな頃から、何度も聞いてきた母の声だった。

 あいは自然に笑顔になった。

「うん!」

 廊下へ一歩踏み出す。

 背中には通学鞄。

 きれいに整えたツインテールが、歩き始めた動きに合わせて軽く揺れた。

 ふと、先ほどの母の言葉が頭をよぎる。

 ――元気に学校へ行って、元気に帰ってきてくれたら、それで十分よ。

 あいは少しだけ微笑んだ。

 きっと、どこの家でも聞くような、普通の母親の言葉なのだろう。

 けれど、今の自分には、その何気ない言葉が以前よりも大切に感じられた。

 あいはもう一度、玄関の方へ小さく手を振った。

 郁子も、静かに手を振り返す。

 そして、扉がゆっくりと閉まった。

 カチャリ。

 小さな音が、朝の共用廊下に響く。

 あいは鞄の肩紐を整え、エレベーターの方へ歩き始めた。

 いつもの学校へ。

 いつもの友だちに会うために。

 今日もまた、宮本あいの一日が始まった。


◆ 瑞穂台駅で三人合流


 マンションを出たあいは、瑞穂台駅へ向かういつもの道を歩いていた。

 朝の日差しは、すでに夏らしい強さを帯びている。

 歩道には通勤途中の会社員や、学校へ向かう生徒たちの姿があった。自転車が通り過ぎ、遠くからはバスの走る音も聞こえてくる。

 あいは通学鞄を肩に掛け直し、歩道橋へ向かった。

 少し前までは、この階段を上るだけでも制服のスカートが気になっていた。

 けれど、今は足元を確かめながら、落ち着いて階段を上ることができる。

 もちろん、まったく気にならなくなったわけではない。

 ただ、以前のように裾ばかり見て、周囲が見えなくなることは少なくなった。

「……うん、大丈夫」

 誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやく。

 階段を上りきると、瑞穂台駅の建物が見えてきた。

 その向こうから、朝の街には少し似つかわしくない、大きな声が聞こえてくる。

『――皆さん、今回の選挙では――』

 拡声器を通した声だった。

 あいは顔を上げた。

 駅前では、国政選挙に向けた街頭活動が続いていた。

 南口のロータリー付近には、のぼり旗を掲げた人たちが立ち、マイクを握った人物が通勤客へ呼びかけている。

 少し離れたところからは、別の声も聞こえていた。

『古市やめろ! 古市やめろ!』

 数人の声が重なり、繰り返し響いている。

 その合間を、バスの発車案内や車の走行音、駅へ急ぐ人々の足音が埋めていた。

「……今日も、にぎやかだな」

 あいは少しだけ苦笑した。

 最近は、駅前でこうした光景を見かけることが増えている。

 今回の選挙では、国政だけでなく、東京府や東京市のあり方も大きな話題になっていた。

 社会科の授業でも習ったけれど、あいにはまだ難しく感じられることが多い。

 賛成する人もいれば、反対する人もいる。

 同じ問題について話しているはずなのに、重視していることが人によって違う。

 数学の問題のように、式を順番に解けば一つの答えが出る、というものではないのだろう。

 あいは街頭活動を横目に見ながら、駅の入口へ向かった。

 そのときだった。

「あいちゃーん!」

 聞き慣れた明るい声がした。

 顔を上げると、少し先で橘美咲が手を振っていた。

「あ、美咲ちゃん。おはよう」

「おはよー! 今日はあいちゃんの方が早かったかと思ったけど、ちょうど一緒だね」

 美咲は軽い足取りで近づいてきた。

 いつものショートヘアに、さくら女子の夏制服。

 緑と紺のチェック柄のプリーツスカートは、あいと同じくらいの短めの丈だった。

 けれど、美咲はそんなことを少しも気にする様子がない。

 歩くのも、立ち止まるのも、いつも自然だ。

「美咲ちゃん、今日も元気だね」

「もちろん! ……って言いたいところだけど、ちょっと眠いかも」

「えっ、そうなの?」

「昨日、宿題を片づけるのに時間かかっちゃってさ。数学って、どうしてあんなに問題が多いんだろうね」

 美咲は大げさに肩を落とした。

 あいは思わず笑ってしまった。

「そ、そんなに多くはなかったと思うけど……」

「それは、あいちゃんだからだよ!」

「そ、そうかな……」

「そうだって。あいちゃんには簡単でも、私には大変なんだから」

 美咲はそう言って笑った。

 いつものやり取りだった。

 妖魔と戦ったことも、魔法戦士になったことも、ここでは話題に出ない。

 それでも、こうして美咲と普通に学校の話ができることが、あいには嬉しかった。


 二人が駅の二階にある改札付近へ向かうと、北口側から歩いてくる田村由香里の姿が見えた。

「あ、由香里だ」

 あいが声を上げるより早く、美咲が手を振った。

「由香里ー! おはよー!」

 由香里は二人に気づくと、穏やかに微笑んだ。

「おはよう、美咲、あい」

「おはよう、由香里」

 あいも笑顔で答えた。

 由香里はいつものように、落ち着いた雰囲気で制服を着こなしていた。

 髪も制服もきちんと整っている。

 ただ、以前と少し違うのは、スカートの丈だった。

 由香里も、魔法戦士としての適応訓練を始めてから、短めの丈に調整している。

 あいと同じように、まだ少しずつ慣れている途中だ。

「ちょうど三人そろったね」

 由香里が言った。

「うん。今日はいいタイミングだったね」

 あいが答えると、美咲がにっこり笑う。

「じゃ、今日も三人で行こっか!」

 三人は改札の近くへ向かいながら、自然と並んで歩き始めた。

 周囲には通勤客や学生が多い。

 改札を通る人の流れが途切れることはなく、電車の発車案内も繰り返し聞こえてくる。

「そういえばさ」

 美咲が、少し声を落とした。

「あの二人って、どっちもC組なんだよね」

「あの二人?」

 あいが首を傾げる。

「ほら、紫織さんと桃歌さん」

「ああ……うん」

 あいはすぐに思い当たった。

 藤崎紫織。

 車いすを使いながら、魔法戦士としては空中を自由に移動する、経験豊富な少女。

 そして諸星桃歌。

 瑞穂台駅北口で静かに歌っていた、軽音楽部の少女。

 二人とも、あい達と同じ高校三年生。

 そして、同じ三年C組だった。

「C組、すごくない?」

 美咲は感心したように言った。

「紫織さんも桃歌さんもいるんだよ? 同じクラスに二人もなんてさ」

「……確かに、すごい偶然だよね」

 あいも小さくうなずく。

 つい最近まで、二人が魔法戦士だなんて知らなかった。

 学校では、同じ学年の普通の生徒として過ごしていたはずなのに。

 紫織は、あい達がまだうまく扱えない空中浮揚を、ごく自然に使いこなしていた。

 桃歌は、歌声と魔法のベースで黒霧をほどき、あい達と協力して妖魔を倒した。

 どちらも、自分たちよりずっと長く活動してきた経験者だった。

「でも、二人とも同じC組っていうのは、本当に不思議だね」

 由香里も静かに言った。

「そうそう。偶然なのかな?」

 美咲が首を傾げる。

「どうなんだろう……」

 あいは少し考えた。

 同じ学年で、同じ学校に通っている。

 それなのに、魔法戦士としての経験は、自分たちと大きく違う。

 あい達が普通に授業を受けたり、宿題に悩んだりしていた間にも、二人はどこかで戦っていたのかもしれない。

 そう考えると、同じ学校の風景が、以前とは少し違って見える。

「……もしかしてさ」

 美咲が口を開きかけたところで、由香里がさりげなく周囲へ視線を向けた。

 すぐ近くを、数人の通勤客が通り過ぎていく。

 美咲もそれに気づいたらしく、声をさらに小さくした。

「……ああいう子、ほかにもいるのかな」

 何について話しているのか、周囲にはわからない言い方だった。

 けれど、あいと由香里には十分伝わった。

「……いるのかもしれないね」

 あいも小声で答えた。

「私たち、今まで全然気づかなかったし」

「そうね。紫織さんも桃歌さんも、知り合うまでは普通の生徒にしか見えなかったもの」

 由香里の言葉に、あいはうなずいた。

 魔法戦士だからといって、普段から特別な姿をしているわけではない。

 学校では、ほかの生徒と同じ制服を着て、同じ授業を受けている。

 それだけでは、誰が魔法戦士なのかなんてわからない。

「……なんか、うちの学校って、まだ知らないことがいっぱいありそうだね」

 あいがそう言うと、美咲は楽しそうに笑った。

「だよね! 同じ三年生なのに、全然知らなかったもん」

 そこで美咲は、ふと思い出したように自分の制服へ視線を落とした。

「そういえばさ、最近ちょっと思ったことがあるんだけど」

「なに?」

「あいちゃん、由香里。うちの学校って、短いスカートの子、けっこう多くない?」

 あいは一瞬、目を丸くした。

「……え?」

「ほら、私たちと同じくらいの丈の子とかさ」

 美咲は周囲の生徒たちへ、軽く視線を向けた。

 改札付近には、さくら女子の制服を着た生徒も何人かいた。

 標準的な長さのスカートを穿いている子もいれば、少し短めに調整している子もいる。

 あいは、言われて初めてその違いを意識した。

「……あ、ほんとだ」

「でしょ?」

 美咲は少し得意そうに笑った。

「前からこんな感じだったのかな?」

「そうだと思うわ」

 由香里が答えた。

「うちの学校、制服の着こなしは比較的自由でしょう? きちんとしていれば、スカートの長さもある程度は本人に任されているし」

「そうそう。私も前から短めだったしね」

 美咲は何でもないことのように言った。

 あいは、もう一度周囲へ目を向けた。

 たしかに、以前からそうだったのだろう。

 ただ、あい自身がスカート丈を短くするようになってから、ほかの生徒の着こなしにも目が向くようになっただけなのかもしれない。

「……私、前はあんまり気にしてなかったな」

 あいは小さくつぶやいた。

「そうなの?」

「うん。自分は普通の長さだったから……。美咲ちゃんが短いのは知ってたけど、ほかの子まではあまり見てなかったと思う」

「なるほどねー」

 美咲がうなずく。

「自分が変わると、周りの見え方も変わるってことか」

「……うん。そうかもしれない」

 あいは少し照れながら答えた。

 もちろん、短いスカートを穿いているからといって、特別な事情があるとは限らない。

 美咲のように、以前からその着こなしが好きな生徒もいる。

 単に本人の好みで選んでいるだけかもしれない。

 それでも、今まで気にしていなかったことへ自然と目が向くようになったのは、あい自身が少し変わった証拠なのだろう。

「でも、あい」

 由香里が穏やかに声をかけた。

「最近、前より自然に歩けるようになったんじゃない?」

「……えっ?」

「あまり裾ばかり気にしなくなった気がするの」

 あいは思わず自分のスカートへ視線を落とした。

 緑と紺のチェック柄。

 膝上十五センチ程度のプリーツスカート。

 今朝も鏡の前で確認したばかりだった。

「……そ、そうかな」

「うん。前より落ち着いてると思う」

「そうそう! 私も思ってた!」

 美咲が明るく笑った。

「あいちゃん、最初の頃は歩くだけで緊張してたもんね」

「も、もう、美咲ちゃん……」

 あいは頬を赤くした。

 その様子を見て、美咲がさらに笑う。

「でも、いいことじゃん。少しずつ慣れてきたってことでしょ?」

「……うん」

 あいは小さくうなずいた。

「まだ気になることはあるけど……前ほどじゃない、かな」

「それで十分だと思うわ」

 由香里が優しく微笑んだ。

 あいも、つられて笑顔になった。

 以前は、自分だけがこんなことで悩んでいるのではないかと思っていた。

 けれど、今は違う。

 美咲がいて、由香里がいる。

 同じ学校へ通い、同じ秘密を抱えながら、それぞれのペースで進んでいる。

 それだけで、少し心強かった。


 改札の上に設置された案内表示が、次の電車の発車時刻を知らせていた。

「あ、そろそろ行かないと」

 由香里が表示を見上げる。

「ほんとだ。まだ大丈夫だけど、のんびりしてると混むね」

 美咲も時計を確認した。

「じゃ、行こっか!」

「うん」

 あいは定期券を取り出した。

 改札機の向こうでは、乗客たちが階段やエスカレーターへ向かっている。

 その流れに混じり、さくら女子の制服を着た生徒たちの姿も見えた。

 あいは、ふと先ほどの会話を思い出した。

 紫織。

 桃歌。

 同じ学校に通っているのに、今まで知らなかった二人。

 もしかすると、ほかにも自分たちの知らない人がいるのかもしれない。

 けれど、それを今ここで確かめることはできない。

「……あいちゃん?」

 先に進んだ美咲が振り返った。

「あっ、ごめん。今行くね」

 あいは慌てて首を振った。

 そして、定期券を改札機へかざす。

 ピッ。

 軽い電子音とともに、改札の扉が開いた。

 由香里、美咲に続いて、あいも改札を通り抜ける。

 駅前から聞こえていた選挙運動の声は、少しずつ遠ざかっていった。

 代わりに、ホームへ向かう乗客の足音と、電車の到着を知らせる案内放送が聞こえてくる。

「今日も混んでそうだねー」

 美咲が言った。

「朝だからね」

 由香里が穏やかに答える。

「……座れるかな」

 あいが小さくつぶやくと、美咲が笑った。

「どうだろうね。まあ、三人一緒だし!」

「……うん、そうだね」

 あいも微笑んだ。

 三人は並んで、ホームへ続くエスカレーターへ向かう。

 いつもの学校へ。

 いつもの教室へ。

 今日もまた、三人の何気ない登校時間が続いていた。


◆ 女性専用車


 ホームへ降りると、朝の駅らしいざわめきが、あいの耳に飛び込んできた。

 電車の到着を知らせる案内放送。

 ホームを歩く人々の足音。

 そして、少し離れたところから聞こえる、電車の走行音。

「うわぁ、やっぱり混んでるねー」

 美咲がホームを見渡しながら言った。

「朝だから、仕方ないよ」

 由香里が落ち着いた声で答える。

 あいも二人の隣に立ち、ホームの様子を眺めた。

 通勤途中の会社員や、学校へ向かう学生たちが、乗車位置に沿って並んでいる。

 見慣れた制服も、ちらほらと目に入った。

 私立さくら女子高等学校の生徒たちだ。

 白いブラウスに紺色のブレザー。緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。

 同じ制服を着ているだけで、知らない生徒にも少し親しみを感じる。

「今日も女性専用車でいいよね?」

 美咲が、ホームの案内表示を見上げながら尋ねた。

「うん。いつもどおりで」

 あいが答えると、由香里もうなずいた。

「そうね。あそこに並びましょう」

 三人は女性専用車の乗車位置へ向かった。

 床に表示された案内を確かめ、ほかの乗客の後ろに並ぶ。

 あいは通学鞄を身体の前へ持ち直した。

 少し前までなら、こうしてホームで立っているだけでも、短くした制服のスカートが気になっていた。

 けれど、今は周囲の人の動きや、電車が来る方向へ自然に目を向けられる。

 もちろん、まったく気にならないわけではない。

 ただ、気にすることと、いつもどおり行動することを、少しずつ両立できるようになってきた。

「……あいちゃん?」

「え?」

 美咲の声に顔を上げる。

「電車、来たよ」

「あ、うん」

 線路の向こうから、電車が近づいてくる。

 車輪の音が大きくなり、ホームへ風が流れた。

 あいは思わずスカートの裾を気にしかけたが、姿勢を整え、そのまま落ち着いて電車を待った。

 やがて電車がゆっくりと停車し、扉が開いた。

 降りてくる乗客を待ってから、三人は順番に乗り込んだ。


 車内は、思っていたとおり混雑していた。

 座席はすでに埋まっており、通路にも多くの乗客が立っている。

 仕事へ向かうらしい女性。

 制服姿の学生。

 スマートフォンの画面を見つめる人。

 つり革につかまり、眠そうに目を閉じている人。

 それぞれが自分の朝を過ごしていた。

「うーん、座れないかぁ」

 美咲が小さくつぶやく。

「今日はちょっと混んでるね」

 あいも周囲を見渡した。

 瑞穂台駅から桜坂駅までは、快速電車でおよそ三十分。

 立っていられないほど長い時間ではないけれど、朝から座れると少し嬉しい。

「こっちなら、三人で立てそうよ」

 由香里が、通路の少し奥を示した。

「あ、ほんとだ」

 三人はほかの乗客の邪魔にならないよう、ゆっくりと移動した。

 あいは近くのつり革につかまり、鞄を身体の前へ寄せる。

 美咲はその隣で手すりをつかみ、由香里も少し離れた位置に立った。

 無理に横一列には並ばず、互いの顔が見える程度の距離を保つ。

 ほどなくして、発車を知らせる音が鳴った。

 扉が閉まり、電車がゆっくりと動き始める。

「……よっと」

 最初の揺れに、美咲が軽く足の位置を変えた。

 あいもつり革を握り直す。

「大丈夫、あいちゃん?」

「うん。大丈夫」

「由香里は?」

「私も平気よ」

「よし。じゃあ、桜坂までのんびり行こっか」

 美咲は明るく笑った。

 その言葉に、あいも少し笑顔になった。

 朝の電車は混んでいるけれど、三人一緒なら、それほど退屈することもない。


「そういえば、あいちゃん」

 少しして、美咲が声をかけてきた。

「今日の数学って、何か提出するものあったっけ?」

「えっと……今日は提出じゃなかったと思うよ」

「よかったぁ」

 美咲はほっとしたように息を吐いた。

「でも、宿題はやってきた?」

「……一応」

「一応?」

 あいが聞き返すと、美咲は少し困ったように笑った。

「最後の問題がさ、どうしても答え合わなくて」

「ああ、最後の問題……」

 あいは昨夜のノートを思い出した。

 計算の途中で符号を取り違えると、答えがずれてしまう問題だった。

「途中の式を見直すと、わかるかもしれないよ」

「それがさ、見直してもどこが違うのかわかんないんだよねー」

「じゃあ、学校に着いたら一緒に見ようか?」

「ほんと? 助かる!」

 美咲の表情がぱっと明るくなる。

 由香里が横から小さく笑った。

「美咲、昨日も同じようなこと言ってなかった?」

「えっ、そうだっけ?」

「言ってたわよ。最後の問題だけわからないって」

「あはは……やっぱり?」

 美咲は頭をかくようなしぐさをした。

 あいは思わず笑ってしまった。

 いつもの会話だった。

 教室でも、帰り道でも、こんなふうに話している。

 魔法戦士になってから、三人で過ごす時間は以前より増えた。

 けれど、そのすべてが特別な出来事というわけではない。

 数学の宿題に悩んだり、次の授業の予定を確認したり。

 そんな何でもない時間が、今も変わらず続いている。

 あいは窓の外へ目を向けた。

 住宅や建物が、電車の速度に合わせて流れていく。

 窓ガラスには、車内の乗客たちの姿が薄く映っていた。

 ふと、この前、出会った紫織のことが頭をよぎる。

 そして、瑞穂台駅北口で歌っていた桃歌のことも。

 二人とも、普段はこうして電車に乗って学校へ通っているのだろうか。

 魔法戦士として活動しているときの姿しか知らなければ、普通に制服を着ているところを見ても、気づかなかったかもしれない。

 そんなことを考えていると、あいは車内の一角に目を留めた。


 少し離れたドアの近くに、さくら女子の制服を着た女子生徒が立っていた。

 あい達と同じ、白いブラウスに紺色のブレザー。

 胸元にはピンク色のリボンタイ。

 そして、緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。

 同じ学校の生徒だ。

 けれど、あいには見覚えがなかった。

 同じ学年なのか、それとも下級生なのかもわからない。

 ただ、その生徒のスカートが、あい達と同じくらい短めに調整されていることには気づいた。

 ――あ、あの子も……。

 今朝、瑞穂台駅の改札付近で美咲たちと話していたことを思い出す。

 さくら女子には、短めのスカートを穿いている生徒が意外と多い。

 あい自身が最近になって丈を短くしたせいか、以前よりそうした着こなしが目に留まるようになっていた。

 けれど、その生徒が気になったのは、スカートの長さだけが理由ではなかった。

 少女は、片手に小さく折りたたんだ紙を持っていた。

 ちらりと見えた色分けされた線からすると、鉄道路線図のようだった。

 少女はそれを少し確かめると、顔を上げ、扉の上にある車内案内表示へ目を向けた。

 次の停車駅を確認しているのだろうか。

 あいは何となく、その動きを眺めていた。

 電車がカーブに差しかかり、車体がゆっくりと左右へ揺れる。

 あいはつり革につかまる手に、少しだけ力を入れた。

 美咲も足元を踏み直している。

 けれど、少し離れた少女は、手すりを握ったまま、自然に姿勢を保っていた。

 大きく身体が傾くこともない。

 近くを通ろうとした乗客がいると、邪魔にならないよう、さりげなく立つ位置を変える。

 混雑した車内に慣れているように見えた。

 ――電車によく乗る子なのかな。

 あいはそんなことを思った。

 鉄道が好きなのかもしれない。

 それとも、通学で乗り換えが多いだけなのだろうか。

 手元の路線図も、学校へ向かう経路を確認しているだけなのかもしれない。

 特別な理由があるようには見えなかった。

 それでも、あいは少しだけ不思議に感じていた。

 少女はスマートフォンを見続けているわけでもなく、友だちと話しているわけでもない。

 時折、車内案内表示へ視線を向けたり、乗客の流れを確かめたりしている。

 それが、あいにはどこか印象的だった。

「あいちゃん?」

「……えっ?」

 美咲の声に、あいははっと顔を上げた。

「どうしたの? 何かあった?」

「あ、ううん。何でもないよ」

「そう?」

「うん。ちょっと、同じ学校の子がいたから」

 あいが小さく視線を向けると、美咲もそちらを見た。

「ああ、ほんとだ。さくら女子の子だね」

「うん」

「でも、知らない子だなぁ」

「私も」

 あいが答えると、由香里も軽くそちらへ目を向けた。

「学年もクラスも違えば、知らない生徒はたくさんいるものね」

「だよねー」

 美咲はうなずいた。

「うちの学校、毎日同じ校舎にいるのに、知らない子の方が多いんだろうなぁ」

「そうかもしれないね」

 あいも微笑んだ。

 そう考えれば、同じ制服の知らない生徒が電車に乗っていることなど、何も珍しくない。

 まして、朝の通学時間帯だ。

 さくら女子へ向かう生徒が、何人いても不思議ではなかった。

 あいはもう一度だけ少女の方へ目を向けた。

 少女は先ほどと変わらない場所に立ち、車内案内表示を見上げていた。

 その様子も、やはり普通の通学生にしか見えなかった。


 電車は次の駅へ到着した。

 扉が開くと、何人かの乗客が降り、新たな乗客が乗り込んでくる。

 車内の人の流れが変わり、あい達の立つ位置も少しずつずれた。

「わっ……」

 肩に掛けていた鞄が、隣の乗客に触れそうになる。

 あいは慌てて鞄を身体の前へ引き寄せた。

「……すみません」

 小さく頭を下げると、相手の女性も軽く会釈を返してくれた。

 あいはほっと息を吐いた。

「朝はやっぱり大変だね」

 あいが小声で言うと、美咲が笑った。

「まあね。でも、もう少ししたら落ち着くんじゃない?」

「そうだといいけど……」

 由香里も車内を見渡した。

「座れるかどうかは、まだわからないわね」

「だよねー」

 三人は小さく笑った。

 扉が閉まり、電車が再び走り始める。

 窓の外では、朝の街並みが途切れることなく流れていた。

 車内には、レールの継ぎ目を通る音と、低い走行音が響いている。

 あいはつり革につかまりながら、もう一度周囲を見渡した。

 スマートフォンを操作する女性。

 目を閉じたまま立っている学生。

 鞄から小さな本を取り出す乗客。

 そして、少し離れたドア付近にいる、同じ学校の少女。

 少女は変わらず、静かに立っていた。

 手元の路線図を折りたたみ、視線を車内案内表示へ戻す。

 その姿は、朝の車内に自然になじんでいる。

 あいはしばらく眺めていたが、やがて美咲たちの会話へ意識を戻した。

「それでさ、あいちゃん。さっきの数学なんだけど――」

「あ、うん」

 美咲の声に、あいは小さくうなずいた。

 いつもの学校の話。

 いつもの友だちとの時間。

 朝の快速電車は、通勤・通学客を乗せたまま、桜坂駅へ向かって走り続けていた。

 少し離れた場所に立つ少女もまた、何事もないように、車窓の向こうへ一度だけ目を向けていた。


◆ 暗い区間


 ガタン、ゴトン――。

 規則的な走行音を響かせながら、快速電車は朝の街を走り続けていた。

 あいはつり革につかまり、窓の外へ目を向けた。

 さっきまで続いていた住宅街の景色が、少しずつ変わり始めている。

 建物の間から、きらきらと光る水面が見えた。

 川だった。

 線路は川に沿うように延びており、その向こうには建物や道路が続いている。

「……あ、川だ」

 あいが小さくつぶやくと、隣の美咲も窓の方を向いた。

「ほんとだ。今日はよく見えるね」

「うん。朝日が反射して、きれい……」

 あいは窓の外を眺めた。

 川面に映った光が、電車の動きに合わせて細かく揺れている。

 少し離れた場所では、道路を走る車が見えた。

 その一方で、線路の反対側には斜面が迫り、ところどころに高い壁が続いていた。

 電車が進むにつれて、周囲の地面が線路より高くなっていく。

 やがて、窓から差し込んでいた日差しが、ふっと弱くなった。

「……あれ?」

 あいは顔を上げた。

 車内が、先ほどより少し暗く感じられる。

 もちろん、夜のように暗くなったわけではない。

 窓の外では、朝の街が変わらず流れている。

 ただ、建物や斜面の影が重なり、このあたりだけ日差しが遮られているようだった。

 そのせいか、天井に並んだ車内灯の白い光が、いつもよりはっきりと目に入る。

「ここって、ちょっと暗いよね」

 美咲が言った。

「そうね。周りが高くなっているからかしら」

 由香里も窓の外を見た。

「川沿いだから、線路が低いところを通っているのかもしれないわね」

「……そうなのかな」

 あいは窓の向こうを見つめた。

 高い壁が近くを流れていく。

 その表面には、日差しの当たるところと影になっているところが、複雑な模様を作っていた。

 川の方へ視線を戻すと、こちら側はまだ明るい。

 まるで、同じ電車の左右で違う時間が流れているようだった。

「……なんだか、不思議」

 あいは小さくつぶやいた。

「え? 何が?」

「ううん。片方は明るいのに、反対側はこんなに暗いんだなって」

「ああ、なるほどね」

 美咲は笑った。

「あいちゃんって、そういうところによく気づくよね」

「そ、そうかな……」

「うん。私なんか、いつも外の景色をぼーっと見てるだけだもん」

 そう言って、美咲は肩をすくめた。

 あいもつられて笑った。

 何でもない、いつもの通学中の会話だった。

 けれど――。

 その直後だった。


「…………?」

 あいは、ふと口を閉じた。

 何かが気になった。

 耳に聞こえたわけではない。

 誰かに呼ばれたわけでもない。

 ただ、先ほどまで気にならなかった車内の空気が、ほんの少し重くなったように感じられた。

 あいはゆっくりと周囲を見渡した。

 スマートフォンを操作している女性。

 つり革につかまり、目を閉じている学生。

 小さな本を読んでいる乗客。

 誰も特に変わった様子を見せていない。

 電車も、いつもどおり走っている。

 ――気のせい、かな……。

 そう思いかけたとき。

 視界の上の方で、何かが小さく揺れた。

「……え?」

 あいは思わず目を上げた。

 座席の上に設けられた網棚。

 そこに、いつの間にか三匹の猫がいた。

 黒い猫。

 白い猫。

 そして、白でも黒でもない、淡い色合いの猫。

「……アムル?」

 声を出しかけ、あいは慌てて口を押さえた。

 黒猫のアムルが、網棚の上から静かにあいを見下ろしていた。

 額には、見慣れたハート型の紋。

 その隣には、美咲のパートナー猫であるフルル。

 さらに、由香里のパートナー猫、ネロリもいる。

 三匹とも、いつもの穏やかな様子とは少し違って見えた。

 アムルは身体を低くし、車両の奥へ視線を向けている。

 フルルも耳を立て、同じ方向を見つめていた。

 ネロリは静かに座っているが、その目は真剣だった。

 ――いつの間に……。

 あいは網棚を見上げたまま、少し戸惑った。

 つい先ほどまで、そこには猫などいなかったはずだ。

 アムルが突然姿を現すこと自体は、もう何度か経験している。

 けれど、朝の混雑した電車の中で三匹そろって現れたことには、やはり驚いてしまう。

 あいは反射的に周囲を見渡した。

 すぐ近くの女性は、スマートフォンの画面に目を落としている。

 向かい側に立っている学生も、イヤホンをつけたまま目を閉じていた。

 ほかの乗客たちも、車内案内表示を見たり、手元の端末を操作したりしている。

 少なくとも、あいの見える範囲では、網棚の上の三匹に気づいた様子はなかった。

 ――よ、よかった……のかな?

 あいは少しだけ息をついた。

 もっとも、猫が突然現れたことに誰も反応しないのは、それはそれで不思議だった。

 アムルたちは普通の猫とは違う。

 そのことは知っている。

 けれど、どういう条件で誰に見えるのか、あい自身にもまだわからないことが多かった。

 そんなことを考えていると、アムルがこちらへ顔を向けた。

「あい」

 落ち着いた、小さな声だった。

 電車の走行音に紛れるほど控えめな声だったが、あいにははっきりと聞こえた。

「……な、なに?」

 あいも口元を動かす程度の小声で答える。

 アムルの表情は真剣だった。

「連結部の方に、黒霧の反応があるわ」

「……っ!」

 あいは思わず息をのんだ。

 黒霧。

 その言葉だけで、先ほど感じた違和感の意味が少しわかった気がした。

「……ここで?」

「ええ。まだ詳しい状態はわからないけれど、気をつけて」

 アムルは短く答えた。

 あいは車両の奥へ視線を向けた。

 連結部。

 車両と車両の間をつなぐ場所だ。

 今の位置からでは、乗客たちの身体に遮られて、そのあたりをはっきり見ることはできない。

 ただ、奥に連結部へ通じる扉があることはわかった。

 ――こんなところに、黒霧が……?

 あいはつり革を握り直した。

 これまで妖魔や黒霧と遭遇した場所は、駅構内や学校、建物の陰などだった。

 けれど、今は走行中の電車の中だ。

 しかも、朝の通勤・通学時間帯。

 周囲には大勢の乗客がいる。

 この状態で何かが起きたら――。

 そこまで考えたところで、あいは小さく首を振った。

 まだ、何が起きているのかもわからない。

 まずは落ち着かなければ。


「……あいちゃん?」

 美咲が、あいの表情の変化に気づいた。

「どうしたの?」

 あいは美咲へ目を向け、それから、そっと上を示した。

 美咲は不思議そうに首を傾げたが、網棚を見上げた途端、目を丸くした。

「……あっ」

 思わず声を出しかけ、美咲もすぐに口を閉じる。

 フルルが、網棚の上から小さく前足を動かした。

 まるで、静かにするよう伝えているみたいだった。

 美咲はあいの方へ顔を寄せた。

「……フルルたち、いたんだ」

「う、うん。今、気づいたの」

「何かあった?」

 あいは周囲へ注意を向けながら、小さく答えた。

「……奥の方に、反応があるみたい」

 美咲の表情が変わった。

「……そっか」

 それだけで、詳しい意味は伝わったらしい。

 美咲も、さりげなく車両の奥へ視線を向けた。

 由香里は二人の様子を見て、静かに尋ねた。

「……どうしたの?」

 あいは少し身体を寄せた。

「由香里、上……」

 由香里が網棚を見上げる。

 ネロリと目が合った。

「あら……」

 由香里も驚いたようだったが、すぐに表情を落ち着かせた。

「……何かあったのね」

 あいは小さくうなずいた。

 網棚の上から、ネロリの穏やかな声が聞こえた。

「今は、周囲の安全を優先してください」

 由香里はわずかにうなずいた。

「……わかった」

 美咲が車両の奥を見つめる。

「……行けそうかな」

 あいも同じ方向を見た。

 連結部までは、それほど遠くない。

 けれど、目の前には大勢の乗客が立っている。

 座席の前にも、ドアの付近にも人がいる。

 無理に通り抜けようとすれば、ほかの人にぶつかってしまうかもしれない。

 電車は走行中だ。

 揺れた拍子に誰かが転倒する危険もある。

「……今は、難しいかも」

 あいが答えた。

「そうね。無理に進むのは危ないわ」

 由香里も小声で言った。

 美咲は少しもどかしそうに唇を結んだ。

「……でも、何かあったら……」

「うん」

 あいも同じことを考えていた。

 黒霧が本当にそこにあるのなら、放っておくわけにはいかない。

 けれど、周囲の乗客を危険にさらすような動きもできない。

 いつものように、人目を避けて変身できる場所があるわけでもなかった。

 あいは網棚の上のアムルを見た。

 アムルは相変わらず、車両の奥へ注意を向けている。

 フルルも、ネロリも同じだった。

 その様子を見て、あいの胸に緊張が広がった。

 ――どうしよう……。

 電車は止まらない。

 車内の乗客たちも、何事もないように朝の時間を過ごしている。

 誰かのスマートフォンから、かすかな操作音が聞こえた。

 吊り下げられた広告が、車体の揺れに合わせて小さく動いている。

 普段なら気にも留めないものばかりだった。

 けれど今は、そんな日常の音が、妙に遠く感じられた。


 そのときだった。

 あいの視界の端で、一人の少女が動いた。

「……あれ?」

 思わず目を向ける。

 少し離れたドアの近く。

 そこに立っていた、さくら女子の制服を着た少女だった。

 さっき、見かけた、あの生徒。

 手元に小さな路線図のような紙を持ち、車内案内表示を時折確認していた少女だ。

 少女は、いつの間にか紙をしまっていた。

 そして、車両の奥へ顔を向けている。

 あいは思わず、その視線を追った。

 ――連結部の方……?

 少女は、すぐには動かなかった。

 車内の様子を一度確かめるように周囲へ目を向け、それから、ゆっくりと歩き始めた。

 慌てている様子はない。

 足早に駆け出すわけでもない。

 近くの乗客が動くのに合わせ、空いた場所へ自然に身体を移していく。

 まるで、混雑した車内をどう進めばよいのか、よくわかっているようだった。

「……あいちゃん」

 美咲が小さく声をかけた。

「……うん」

 あいも、少女から目を離さずに答える。

 少女は一人の乗客を避け、手すりの横を通り抜けた。

 そして、少しずつ連結部へ近づいていく。

 ――あの子……。

 あいの胸に、小さな疑問が浮かんだ。

 ただ別の車両へ移動しようとしているだけなのかもしれない。

 混雑を避けようとしているのかもしれない。

 それとも――。

 あいはそこで考えるのをやめた。

 少女が何を考えているのかなんて、わからない。

 まして、黒霧の存在に気づいたのかどうかも。

 ただ一つ、確かなことがあった。

 アムルたちが連結部の異変を知らせた直後に、あの少女が同じ方向へ動き始めた。

 それだけだった。

「……あの子、さっきの……」

 由香里も気づいたらしい。

「うん。同じ学校の子……」

 あいは小さく答えた。

 少女は、さらに数歩進んだ。

 その先には、車両の連結部へ通じる扉がある。

 あいはつり革を握ったまま、少女の動きを見守った。

 追いかけたい気持ちはあった。

 けれど、目の前には何人もの乗客がいる。

 無理に進むわけにはいかなかった。

 網棚の上では、アムルが静かに身を乗り出していた。

 フルルとネロリも、少女の向かう先を見つめている。

 少女は扉の前で立ち止まった。

 そして、ためらう様子もなく、連結部へ向かって手を伸ばした。

 ――え……?

 あいは思わず息をのんだ。

 朝の車内は、相変わらず混雑している。

 乗客たちはそれぞれの時間を過ごし、電車は何事もないように走り続けていた。

 その中で、あい、美咲、由香里の三人だけが、同じ学校の見知らぬ少女をじっと見つめていた。

 少女は連結部の扉を開け、その向こうへ足を踏み入れようとしていた。


◆ 連結部の少女


 少女が、連結部の扉を開けた。

 ガタン、ゴトン――。

 電車の走行音に混じって、扉の開く小さな音が聞こえた。

 さくら女子の制服を着た少女は、周囲を一度だけ見渡すと、車両と車両の間へ静かに足を踏み入れた。

 そして、扉が閉まる。

「……あっ」

 あいは思わず、小さな声を漏らした。

 少女の姿が、扉の向こうへ消えてしまった。

 少し離れた場所に立っていた美咲も、同じ方向を見つめている。

「……行っちゃったね」

「う、うん……」

 あいはつり革を握り直した。

 連結部。

 先ほど、アムルが黒霧の反応を知らせた場所だった。

 けれど、あの少女がそれを知っているとは限らない。

 たまたま別の車両へ移動したかっただけかもしれないし、何か別の用事があったのかもしれない。

 それでも、あいには気になって仕方がなかった。

「……アムル」

 あいは周囲に聞こえないよう、そっと声を落とした。

 座席の上の網棚では、黒猫のアムルが連結部の方を見つめていた。

「……あの子、どうしたんだろう」

「まだわからないわ」

 アムルは短く答えた。

 その声も、電車の走行音に紛れるほど小さかった。

 隣ではフルルが耳を立て、ネロリも静かに身体を起こしている。

 三匹の視線は、連結部へ向けられたままだった。

 あいも、もう一度扉の方を見る。

 そこまでは、それほど遠くない。

 けれど、朝の車内には多くの乗客が立っている。

 無理に進めば、誰かにぶつかってしまうだろう。

 しかも、電車は走行中だ。

 あいは一歩踏み出しかけたものの、すぐに足を止めた。

「……行けないね」

 美咲が、もどかしそうにつぶやいた。

「うん……」

 あいも小さくうなずく。

 普段なら、美咲の運動神経を頼りにすることもできる。

 けれど、こんなに人が多い場所では、素早く動けることが必ずしも役に立つとは限らない。

 何より、周囲の人を危険に巻き込むわけにはいかなかった。

 由香里が、二人の顔を交互に見た。

「……今は、様子を見るしかなさそうね」

「……そうだね」

 あいは連結部の扉を見つめた。

 その向こうで何が起きているのか、ここからではわからなかった。


 電車は、相変わらず暗い区間を走っていた。

 窓の外では、高い壁や斜面の影が流れていく。

 反対側には、川沿いの景色が時折見えていた。

 朝の光が完全に消えたわけではない。

 ただ、車内の照明がいつもより明るく感じられる程度に、外から差し込む日差しが弱まっていた。

 ガタン、ゴトン。

 車輪の音が続く。

 その規則的な響きの中で、あいは連結部の方を見つめていた。

 ――あの子、何をしてるんだろう……。

 扉の向こうは、ほかの乗客たちの身体に遮られて、ほとんど見えない。

 あいは少しだけ背伸びをしてみた。

 けれど、見える位置はほとんど変わらなかった。

 そのときだった。

「……え?」

 あいの視界の奥で、何かが揺れた。

 ほんの一瞬。

 連結部の扉の向こうに、赤い光が見えた気がした。

 ――今の……?

 あいは目を凝らした。

 続いて、黄色。

 そして、青。

 三つの色が、扉の向こうで一瞬だけ揺れた。

 まるで、信号機の色を思わせる光だった。

 けれど、道路にある信号機のように、はっきりとした形が見えたわけではない。

 赤、黄、青。

 それぞれの色が、ほんのわずかな時間だけ光ったように見えた。

 ――何、あれ……?

 あいは息をのんだ。

 そして、その直後。

 胸の奥に、かすかな違和感が走った。

 ぞくり、とした感覚。

 ただ怖いというのとは、少し違う。

 どこか覚えのある、不思議な気配だった。

 ――これって……。

 あいは思わず、自分の胸元へ手を当てた。

 初めて変身したとき。

 アムルに導かれ、自分の中から不思議な力があふれ出したとき。

 そして、美咲や由香里が魔法戦士へ変身したとき。

 そのときに感じたものと、どこか似ていた。

 けれど、まったく同じかと聞かれれば、自信はなかった。

 光の色も、感じられた気配も、これまでに見てきたものとは違っている。

「……あいちゃん」

 美咲の声が聞こえた。

 あいは振り返る。

 美咲も、少し驚いたような表情をしていた。

「……今、見えた?」

「……うん」

 あいは小さくうなずいた。

「赤いのと……黄色と……青い光……」

「やっぱり、あいちゃんにも見えたんだ」

 美咲は連結部の方へ視線を戻した。

「……何だったんだろう」

「……わからない」

 あいは正直に答えた。

 由香里も、静かに口を開いた。

「私も、少しだけ見えたわ」

「由香里も?」

「ええ。でも、何の光なのかまでは……」

 三人は顔を見合わせた。

 同じものを見たらしい。

 それでも、何が起きたのかは誰にも説明できなかった。

 あいは網棚の上へ目を向けた。

 アムルも、フルルも、ネロリも、まだ連結部の方を見つめている。

 その様子から、何か普通ではないことが起きているように思えた。

 けれど、アムルたちも何も言わなかった。

 ――もしかして……。

 あいの頭に、一つの可能性が浮かんだ。

 魔法戦士。

 あの少女も、そうなのだろうか。

 けれど、あいはすぐには結論を出せなかった。

 変身するところを見たわけではない。

 変身の言葉も聞こえなかった。

 そもそも、連結部で少女が何をしているのかさえ、わからないのだ。

 似た気配を感じたからといって、それだけで決めつけるわけにはいかなかった。


 しばらくして、窓の外が少し明るくなった。

 電車は、周囲の影が濃い場所を抜けつつあるようだった。

 高い壁の向こうから差し込んできた日差しが、車内の床を淡く照らす。

 天井の照明も、先ほどほど目立たなくなった。

 あいは、もう一度連結部へ目を向けた。

 あの赤、黄、青の光は、もう見えない。

 何かが動く気配もない。

 ――終わった……のかな?

 けれど、何が終わったというのだろう。

 あいには、まだ何もわからなかった。

「……アムル」

 小さく呼びかける。

 アムルは連結部を見つめたまま、耳をわずかに動かした。

「……さっきの反応、どうなったの?」

 少し間があった。

「先ほどよりは、弱く感じるわ」

「……そうなんだ」

「でも、何が起きたのかは、ここからではわからない」

「……うん」

 あいは小さくうなずいた。

 黒霧の反応が弱まった。

 それ自体は、少し安心できることかもしれない。

 けれど、あの少女が何かをした結果なのか、それとも別の理由なのかはわからない。

 あいは、先ほど見えた光を思い返した。

 赤。

 黄。

 青。

 ほんの一瞬だったのに、その色だけは、妙にはっきりと記憶に残っていた。

「……何だったんだろうね」

 あいがつぶやくと、美咲が小さく息を吐いた。

「ほんと、それ」

 由香里も静かにうなずいた。

 三人はしばらく、何も言わずに連結部の方を見つめていた。

 車内には、いつもの朝の音が戻っている。

 いや、正確には、最初から変わっていなかったのかもしれない。

 乗客たちは、相変わらずスマートフォンを操作している。

 つり革につかまったまま眠そうにしている人もいれば、窓の外を眺めている人もいる。

 あの不思議な光について話している人は、あいの見える範囲にはいなかった。

 ――誰も、気づいてないのかな……。

 あいは小さく息を吐いた。

 妖魔との戦いでは、誰にも知られないまま終わることがある。

 一般の人たちは、何も起きなかったと思ったまま日常へ戻っていく。

 それは、これまでにも経験してきたことだった。

 けれど今回は、自分たちが何もわからない側にいる。

 そのことが、あいには少し不思議だった。


 やがて、連結部の扉が動いた。

「……あっ」

 あいは思わず声を漏らした。

 扉の向こうから、一人の少女が姿を現した。

 さくら女子の制服。

 白いブラウスに紺色のブレザー。

 胸元のピンク色のリボンタイ。

 緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。

 先ほど連結部へ入っていった、あの少女だった。

「……戻ってきた」

 美咲が小さくつぶやいた。

 あいは少女から目を離せなかった。

 少女は扉を閉めると、周囲の乗客の流れを確かめながら、ゆっくりと歩き始めた。

 慌てている様子はない。

 走っているわけでもない。

 何かから逃げてきたようにも見えなかった。

 むしろ、先ほどと同じように落ち着いている。

 ――あれ……?

 あいは少し首を傾げた。

 もし連結部で何か大変なことが起きていたのなら、もっと疲れていたり、息が乱れていたりするのではないだろうか。

 けれど、少女の呼吸が荒くなっている様子は見えない。

 髪も制服も、特に乱れていなかった。

 短めのプリーツスカートも、先ほどと変わらず自然に整っている。

 少女は、近くに立つ乗客を避けながら、元の場所へ戻っていった。

 そして、何事もなかったかのように手すりへ手を添えた。

 それだけだった。

「……え?」

 あいは、思わず小さく声を漏らした。

 先ほどの光は。

 あの不思議な気配は。

 連結部の黒霧反応は。

 いったい何だったのだろう。

 少女は何も説明しない。

 もちろん、あい達が尋ねたわけでもない。

 少し離れた場所で、同じ制服の少女が普通に立っている。

 ただそれだけの光景だった。

「……あいちゃん」

 美咲が、あいの方へ少し顔を寄せた。

「……な、なに?」

 美咲は周囲を一度だけ確かめた。

 それから、ほとんど息だけで話すような小声で尋ねた。

「……今、変身してた?」

 あいの胸が、どきりとした。

「……えっ」

 思わず、もう一度少女の方を見る。

 少女は相変わらず、手すりにつかまって立っていた。

 ほかの乗客と同じように、車内案内表示へ目を向けている。

 変身後の姿ではない。

 少なくとも、あいが見ているのは、ごく普通の制服姿だった。

「……わ、わからない」

 あいは小さく答えた。

「でも……さっき、変身したときみたいな感じがしたよね」

「うん。私も、ちょっとそう思った」

 美咲は真剣な表情でうなずいた。

 由香里も二人へ顔を寄せた。

「私も、何か特別な反応があったようには感じたわ」

「……やっぱり?」

「ええ。でも、実際に変身したところを見たわけではないでしょう?」

 由香里の言葉に、あいはうなずいた。

「……うん」

「だから、まだわからないと思う」

「……そうだね」

 あいはもう一度、少女の方を見た。

 少女は何事もなかったかのように立っている。

 先ほどまで、連結部にいたはずなのに。

 あの不思議な光が見えた場所にいたはずなのに。

 それなのに、今は普通の通学生にしか見えなかった。


 電車が小さく揺れた。

 あいはつり革を握り直し、足元を確かめた。

 美咲も由香里も、それぞれ姿勢を整えている。

 少女もまた、揺れに合わせて自然に重心を移していた。

 その動きには、どこか余裕があるように見える。

 ――あの子……。

 あいは、今朝の瑞穂台駅での会話を思い出した。

 紫織。

 桃歌。

 同じ学校に、自分たちよりずっと経験のある魔法戦士がいたこと。

 つい最近まで、そんなことは知らなかった。

 普通に制服を着て、同じ学校へ通っているだけでは、誰がどんな秘密を持っているのかなんてわからない。

 もしかすると、あの少女も――。

 そこまで考えて、あいはそっと首を振った。

 ――まだ、わからないよね……。

 短いスカートを穿いているからでもない。

 電車の中で落ち着いているからでもない。

 そして、連結部へ入っていったというだけでもない。

 ただ、あの光だけは、気になっていた。

 赤、黄、青。

 信号機を思わせる三つの色。

 それに、変身したときに似た、不思議な魔力の気配。

 何かが起きたのだと思う。

 けれど、その何かを、あいはまだ知らない。

 あいは網棚の上を見上げた。

 アムルは静かに座り、連結部の方へ注意を向けていた。

 フルルとネロリも、先ほどまでの緊張を少し緩めたように見える。

 それでも、三匹とも何が起きたのかを説明しようとはしなかった。

 あいも、それ以上は尋ねなかった。

 周囲には大勢の乗客がいる。

 ここで詳しく話せることではなかった。

「……学校に着いたら、鶴岡先生に聞いてみようか」

 あいがそっと提案すると、由香里が小さくうなずいた。

「そうね。その方がいいと思う」

「うん。私も気になる」

 美咲も同意した。

 三人は顔を見合わせた。

 誰も大きな声を出さない。

 誰も慌てて動き出さない。

 ただ、互いの表情を見ただけで、同じことが気になっているのだとわかった。

 あいは再び、少し離れた場所に立つ少女へ目を向けた。

 少女はもう、連結部を振り返っていなかった。

 車内案内表示を見上げ、次の停車駅を確認しているようだった。

 普通の制服。

 普通の通学鞄。

 普通の朝の電車。

 その中で、あの少女だけが、あいには少し違って見えた。

 ――何をしてたんだろう……。

 答えは出ない。

 あいが見たのは、少女が連結部へ入っていったこと。

 その向こうで、一瞬だけ不思議な光が揺れたこと。

 そして、何事もなかったように戻ってきたこと。

 それだけだった。

 けれど、あいの胸には、一つの疑問が残っていた。

 ――もしかして、あの子も……。

 電車は変わらず、朝の街を走り続けていた。

 乗客たちは誰も騒がず、それぞれの時間を過ごしている。

 そんな何気ない風景の中で、あいはもう一度だけ、さくら女子の制服を着た少女の横顔を見つめた。

 そして、まだ知らない誰かが、自分たちのすぐ近くにもいるのかもしれないと感じていた。


◆ 桜坂駅に着いて


 ガタン、ゴトン――。

 電車の規則的な走行音が、少しずつ変わり始めた。

 窓の外には、再び明るい朝の街並みが広がっている。

 先ほどまで続いていた川沿いの暗い区間は、もう通り過ぎたようだった。

 宮本あいはつり革につかまりながら、車内案内表示へ目を向けた。

 次の停車駅は、桜坂駅。

 私立さくら女子高等学校の最寄り駅だ。

「……もうすぐ着くね」

 あいが小さく言うと、隣にいた美咲が顔を上げた。

「あ、ほんとだ。なんか今日は、あっという間だったね」

「そうね」

 由香里も表示を確認した。

「いつもと同じくらいの時間なんでしょうけど」

「……うん」

 あいは小さくうなずいた。

 瑞穂台駅から桜坂駅までは、快速電車でおよそ三十分。

 毎日の通学で、すっかり慣れた時間だった。

 けれど、今日は少し違って感じられた。

 あの暗い区間。

 アムルたちが知らせた黒霧の反応。

 そして、連結部へ入っていった、同じ学校の少女。

 赤、黄、青。

 ほんの一瞬だけ見えた、不思議な光。

 思い返すと、あいは今でも胸の奥が少し落ち着かなくなる。

 ――あの子、何をしてたんだろう……。

 あいは、さりげなく車内を見渡した。

 先ほど少女が立っていた場所には、何人かの乗客がいる。

 スマートフォンを操作する女性や、降りる準備をしている学生たち。

 けれど、その中に、あの少女の姿は見当たらなかった。

「……あれ?」

 あいは思わず首を傾げた。

「どうしたの、あいちゃん?」

 美咲が尋ねる。

「ううん。さっきの子……」

「ああ、あの子?」

 美咲も、そっと周囲を見渡した。

「……あれ? いないね」

「うん……」

 あいは少しだけ背伸びしてみた。

 しかし、朝の混雑した車内では、少し離れた場所に誰が立っているのかさえ、よくわからない。

 途中の駅で降りたのかもしれない。

 別の場所へ移動しただけかもしれない。

 あるいは、ほかの乗客の陰に隠れているのかもしれなかった。

「……もう降りちゃったのかな」

 あいがつぶやくと、由香里が静かに答えた。

「そうかもしれないわね。でも、まだわからないわ」

「……うん」

 あいはもう一度だけ車内を見渡した。

 それでも、少女の姿は見つからなかった。

 やがて、電車がゆっくりと減速し始めた。

『まもなく、桜坂、桜坂です――』

 聞き慣れた車内放送が流れる。

 あいはつり革を握り直した。

 今日は、もう学校へ着く。

 いつもの一日が、これから始まるのだ。


 電車はゆっくりと桜坂駅のホームへ滑り込んだ。

 窓の向こうに、ホームで電車を待つ人々の姿が見える。

 学校へ向かう生徒たち。

 仕事へ向かう人たち。

 そして、見慣れたさくら女子の制服を着た少女たち。

 電車が完全に停車すると、扉が開いた。

 プシューッ。

 空気の抜ける音とともに、ホームのざわめきが車内へ入り込んでくる。

「よし、降りよっか」

 美咲が鞄を持ち直した。

「うん」

「慌てなくて大丈夫よ。順番に行きましょう」

 由香里も落ち着いて答える。

 三人はほかの乗客の流れに合わせ、ゆっくりと出口へ向かった。

 朝の車内は混雑している。

 誰かが急に立ち止まれば、後ろの人も足を止めることになる。

 あいは周囲の動きを見ながら、一歩ずつ進んだ。

 やがて扉の前へたどり着き、ホームへ降りる。

「……ふう」

 あいは小さく息を吐いた。

 車内よりも少し広い空間に出て、ようやく肩の力が抜ける。

 ホームには、朝の駅らしいさまざまな音が響いていた。

 発車を知らせる案内放送。

 行き交う人々の足音。

 キャスター付きの鞄が床を転がる音。

 そして、電車を降りたばかりの学生たちの話し声。

「あー、やっと着いた!」

 美咲が軽く背筋を伸ばした。

「今日はずっと立ってたね」

 あいが言うと、美咲は大げさに肩を落とした。

「ほんとだよー。朝から三十分も立ってると、ちょっと疲れるよね」

「美咲でも疲れるの?」

 あいが聞くと、美咲は笑った。

「そりゃ疲れるよ! 私だって普通の高校生なんだから」

「ふふ、そうだね」

 由香里も笑った。

 三人はホームの端へ寄り、通行の邪魔にならない場所で鞄を持ち直した。

 電車の扉が閉まり、再び発車する。

 あいは何となく、その車両へ目を向けた。

 さっきまで自分たちが乗っていた女性専用車。

 その隣には、あの不思議な光が見えた連結部がある。

 けれど、走り去っていく電車は、どこから見ても普通の快速電車だった。

 何かが起きたことを示すものは、何も見当たらない。

 ――本当に、何だったんだろう……。

 あいは、遠ざかっていく車両を見送った。

 そして、小さく首を振った。

 今ここで考えても、答えが出るわけではない。

「……あいちゃん、行こ?」

 美咲が声をかける。

「あ、うん」

 あいは振り返った。

 三人は、ほかの通学客と一緒に改札へ向かって歩き始めた。


 桜坂駅のホームには、さくら女子の制服を着た生徒が何人もいた。

 あい達と同じ高校三年生らしい生徒もいれば、まだ少し幼さの残る下級生らしい少女もいる。

 友だち同士で楽しそうに話す二人組。

 スマートフォンを見ながら歩く生徒。

 教科書らしい本を片手に、何かを確認している生徒。

 それぞれが、いつもの学校へ向かっていた。

「……あの子、いるかな」

 美咲が小さくつぶやいた。

 あいはすぐに意味を理解した。

「……さっきの子?」

「うん。同じ学校の制服だったし、ここで降りるかもしれないじゃん」

「……そうだね」

 あいも、さりげなく周囲へ目を向けた。

 白いブラウス。

 紺色のブレザー。

 ピンク色のリボンタイ。

 緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。

 同じ制服の生徒が、次々と通り過ぎていく。

 けれど、あの少女は見つからなかった。

 手元に小さな路線図を持っていた、落ち着いた様子の少女。

 顔をはっきり覚えているつもりでも、これだけ多くの同じ制服の生徒がいると、見つけるのは難しい。

「……見当たらないね」

 あいが言うと、由香里もうなずいた。

「そうね。別の場所から降りたのかもしれないし」

「そっかぁ……」

 美咲は少し残念そうな声を出した。

「ちょっと気になったんだけどな」

「……私も」

 あいも正直に答えた。

 少女に何か尋ねたかったのかと聞かれれば、うまく説明できない。

 名前も知らない。

 クラスも知らない。

 そもそも、あの光と少女が本当に関係しているのかどうかさえ、わからない。

 けれど、気になることだけは確かだった。

 あいは、もう一度だけホームを振り返った。

 それでも、少女の姿は見つからなかった。

「……行こうか」

 由香里が穏やかに声をかけた。

「そうだね」

 あいはうなずいた。

 三人は、いつもの通学客の流れに戻った。


 改札へ向かう途中、少し先の人の流れが、自然に左右へ分かれた。

 その隙間を、一台の車いすが軽やかに進んでいく。

「あっ」

 あいは思わず声を上げた。

 見覚えのある姿だった。

 肩より少し下まで伸びた、まっすぐな髪。

 さくら女子の夏制服。

 そして、使い慣れた車いすを自然に操作する、明るい雰囲気の少女。

「……紫織さん?」

 あいが小さく名前を呼ぶと、少女がこちらへ顔を向けた。

「あら、あいさんたち。おはよう!」

 藤崎紫織だった。

 紫織はにこやかに手を上げると、車いすを滑らかに動かして三人の近くへやってきた。

「おはようございます、紫織さん」

 あいが挨拶すると、美咲も元気よく声を上げた。

「紫織さん、おはよー!」

「おはようございます」

 由香里も微笑んで会釈した。

「三人とも、今日も一緒なのね」

「うん! 瑞穂台駅で合流してきたんだ」

 美咲が答える。

「そうなんだ。仲がいいね」

 紫織は楽しそうに笑った。

 その間にも、周囲では大勢の乗客が移動している。

 紫織は通路の中央に留まらないよう、車いすの向きを少し変えた。

 後ろから歩いてくる人の進路を確かめ、邪魔にならない位置へすっと移動する。

 その動作には、ほとんど無駄がなかった。

 車いすの左右の車輪を、ほんの少し違う動きで操作する。

 それだけで、周囲の人との距離を保ちながら、滑らかに方向が変わる。

 あいは、その動きを思わず見つめていた。

 ――相変わらず、すごいな……。

 初めて紫織を見かけたときも、そう思った。

 人の多い駅構内でも、柱や壁、通行人との位置関係を自然に把握しているように見える。

 狭いところを通るときも、急に止まったり、慌てて方向を変えたりしない。

 まるで、周囲の空間がどのくらい空いているのか、身体でわかっているみたいだった。

 それは、魔法戦士として空中を移動していた紫織の姿にも、どこか通じるものがあった。

 けれど、今の紫織は変身しているわけではない。

 車いすに座り、普通の制服を着て、普通に学校へ向かっている。

 その姿も、あいにはとても自然に見えた。

「……あいさん?」

「あっ、はい!」

 紫織に声をかけられ、あいは慌てて顔を上げた。

「どうしたの? 何か気になることでも?」

「い、いえ……その、紫織さん、車いすの動かし方がすごく上手だなって……」

 言ってから、あいは少しだけ頬を赤らめた。

 以前にも似たようなことを思ったのを覚えている。

 何度も同じことを言うのは、少し変だろうか。

 けれど紫織は、明るく笑った。

「あはは。毎日使ってるからね。もう慣れたものよ」

「……そうなんですね」

「それに、朝は人が多いでしょう? 周りをちゃんと見てないと危ないから」

 紫織はそう言って、近くを通り過ぎる学生たちへちらりと目を向けた。

「急いでる人も多いし、お互い気をつけないとね」

「……はい」

 あいは小さくうなずいた。

 車いすだから特別なのではない。

 人の多い場所では、周囲をよく見て、安全に移動する。

 それは、あい達が混雑した電車で気をつけていたことと同じだった。

「でも、紫織さんって、ほんと動きが軽やかだよね」

 美咲が感心したように言った。

「曲がるときとか、すっごく自然!」

「そう?」

 紫織は少し楽しそうに笑った。

「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいな」

 そして、三人の方へ顔を向ける。

「じゃあ、私もそろそろ行くね。また学校で!」

「あ、はい!」

「またね、紫織さん!」

「また学校で」

 三人が挨拶すると、紫織は軽く手を振った。

 それから、車いすを滑らかに動かし、改札の方へ進んでいく。

 人の流れに合わせて速度を調整し、前を歩く人が立ち止まると、自然に間隔を取る。

 少し先で通路が広くなると、軽やかに向きを変えた。

 肩の下まで伸びた髪が、動きに合わせてさらりと揺れる。

 あいは、その後ろ姿をしばらく見送っていた。

「……紫織さん、今日も元気そうだったね」

 由香里が言った。

「うん」

 あいはうなずいた。

 美咲も楽しそうに笑う。

「やっぱり紫織さんって、かっこいいよねー」

「……うん。そうだね」

 あいも微笑んだ。

 つい最近まで、紫織がどんな人物なのか、ほとんど知らなかった。

 今では、同じ学校に通う経験豊富な魔法戦士だと知っている。

 けれど、こうして朝の駅で挨拶を交わす紫織は、どこにでもいる明るい高校三年生の一人だった。

 ――学校では、みんな普通なんだよね……。

 あいは、そんなことを思った。

 紫織も、桃歌も。

 そして、自分たちも。

 それぞれに秘密や経験を抱えていても、制服を着て学校へ向かう朝は、変わらず訪れるのだ。


 三人は改札を通り、駅の外へ出た。

 朝の日差しが、再びあい達を包み込む。

 駅前には学校へ向かう生徒たちの姿が多く、通学路には明るい話し声が広がっていた。

「……さて、と」

 美咲が鞄を持ち直した。

「今日は一時間目、何だっけ?」

「えっと……」

 あいは少し考えた。

「時間割、ちゃんと確認したはずなんだけど……」

「あれ? あいちゃんが忘れたの?」

 美咲が面白そうに笑った。

「わ、忘れたわけじゃないよ。ただ、ちょっと……」

「ふふ。今朝はいろいろあったものね」

 由香里が小さく笑った。

「……うん」

 あいは苦笑した。

 確かに、今朝はいろいろなことがあった。

 普通の通学電車に乗っていただけなのに。

 いつもと同じように、三人で学校へ向かっていただけなのに。

 途中で黒霧の反応があり、知らない少女が連結部へ入っていった。

 その向こうで、不思議な光が見えた。

 そして、少女は何事もなかったように戻ってきた。

 あいは、ふと歩きながら顔を上げた。

 空は明るく、雲も少ない。

 道路には車が走り、歩道には制服姿の生徒たちが続いている。

 先ほど見た赤、黄、青の光など、最初から存在しなかったかのような景色だった。

 ――あの子も、学校に来るのかな……。

 同じさくら女子の制服を着ていたのだから、その可能性は高いだろう。

 けれど、本当に同じ学校へ向かっていたのかどうかも、今は確かめようがなかった。

 名前も知らない。

 何年生なのかもわからない。

 そして、連結部で何をしていたのかも。

 あいは小さく息を吐いた。

「……あいちゃん?」

 美咲が顔をのぞき込む。

「あっ、ううん。何でもない」

「また何か考えてた?」

「……ちょっとだけ」

 あいが照れたように笑うと、美咲も笑った。

「まあ、気になるよね。でも、今ここで考えてもわかんないし」

「……うん。そうだね」

 由香里も穏やかにうなずいた。

「まずは学校へ行きましょう。遅刻するわけにはいかないもの」

「そうそう! それに、私の数学も見てもらわないと!」

「ふふ。美咲、それは忘れてなかったのね」

「もちろん!」

 美咲が胸を張る。

 あいは思わず笑ってしまった。

「……うん。教室に着いたら、一緒に見ようね」

「やった!」

 三人の間に、いつもの明るい空気が戻ってきた。

 あいは通学鞄を肩に掛け直し、前を向いた。

 少し先には、同じ制服を着た生徒たちが歩いている。

 その中には、さっき駅で挨拶した紫織の姿も、もう見えなくなっていた。

 学校へ向かう道は、いつもどおりだった。

 朝の日差し。

 友だちとの会話。

 通学鞄の重み。

 歩くたびに揺れる、緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。

 すべてが、普段と変わらない。

 それでも、あいの胸には、あの見知らぬ少女の姿が残っていた。

 連結部へ向かって歩いていった、落ち着いた後ろ姿。

 そして、扉の向こうで一瞬だけ揺れた、赤、黄、青の光。

 ――いつか、わかるのかな……。

 あいは心の中で、そっとつぶやいた。

 答えは、まだない。

 けれど、今はそれでいいのかもしれない。

「あいちゃん、早く早く!」

 少し前を歩く美咲が振り返った。

「……うん、今行く!」

 あいは笑顔で答え、少しだけ歩く速度を上げた。

 由香里が隣に並び、三人は再び一緒に歩き始める。

 いつもの通学路を、いつもの学校へ。

 朝の桜坂の街には、制服姿の生徒たちの足音と、楽しそうな話し声が続いていた。


◆ いつもの教室


 私立さくら女子高等学校の校門をくぐると、宮本あいは小さく息を吐いた。

「……着いたね」

「うん! 今日も無事に到着!」

 隣を歩いていた美咲が、いつもの明るい声で答える。

「まだ一日が始まったばかりだけどね」

 由香里が微笑むと、美咲は楽しそうに笑った。

「そうなんだけどさ。朝の電車、今日はちょっと落ち着かなかったし」

「あ……うん」

 あいは小さくうなずいた。

 瑞穂台駅から桜坂駅までの快速電車。

 いつもと同じ通学時間だったはずなのに、今朝は少し違っていた。

 川沿いの暗い区間。

 連結部の方から感じられた黒霧の気配。

 そして、さくら女子の制服を着た、名前も知らない少女。

 あの赤、黄、青の光は、いったい何だったのだろう。

 思い返すと、まだ胸の奥が少し落ち着かない。

 けれど、校門の向こうには、いつもの学校の風景が広がっていた。

 友だち同士で話しながら歩く生徒たち。

 部活動の荷物を抱えた生徒。

 少し急ぎ足で昇降口へ向かう生徒。

 誰も、今朝の電車で何があったのかなど知らないようだった。

 ――……まあ、知らないのが普通だよね。

 あいは、通学鞄の肩紐を持ち直した。

「じゃ、教室行こっか!」

 美咲が少し先へ進む。

「うん」

「そうね」

 あいと由香里も、その後に続いた。


 昇降口には、朝のにぎやかな声が響いていた。

 靴箱の前では、何人もの生徒が外靴から上履きへ履き替えている。

 友だちと話しながら靴を脱ぐ生徒もいれば、片手に教科書を持ったまま、慌ただしく上履きを探している生徒もいた。

「あ、そうだ!」

 美咲が靴箱の前で声を上げた。

「何、美咲ちゃん?」

「数学の宿題!」

「……え?」

「さっき電車でも話したじゃん。最後の問題!」

「ああ……うん」

 あいは思い出してうなずいた。

 美咲が昨夜、最後まで答えを合わせられなかったという問題だ。

「教室に着いたら見せてもらっていい?」

「うん。まだホームルームまで時間があると思うし」

「やった!」

 美咲は嬉しそうに笑った。

 その横で、由香里が落ち着いた声をかける。

「美咲、まずは上履きに履き替えましょう」

「あっ、そうだった」

 美咲は自分の靴箱へ向き直った。

 あいは思わず笑ってしまった。

 こういうところも、いつもの美咲らしい。

 数学の宿題を気にしているのに、目の前のことを少し忘れてしまう。

 けれど、そんな美咲の明るさに助けられることも多かった。

 あいも自分の靴箱を開けた。

 外靴を脱ぎ、上履きへ履き替える。

 それから鞄を持ち直し、足元を確認した。

「……よし」

 以前は、ここでも短くした制服のスカートが気になって、動作がぎこちなくなったものだった。

 けれど今は、落ち着いて上履きへ履き替えられる。

 もちろん、何も考えずに動いているわけではない。

 少しだけ姿勢に気をつけて、慌てずに行動する。

 それが、だんだん自然になってきた。

「準備できた?」

 由香里が尋ねた。

「うん。大丈夫」

「私も!」

 美咲も上履きへ履き替え終えた。

 三人は靴箱を閉め、階段へ向かった。


 三年A組の教室は、校舎の三階にある。

 あい達は階段を上がりながら、周囲の生徒たちの流れに合わせて歩いていた。

 廊下には、朝の学校らしいさまざまな音が響いている。

 上履きが床を踏む音。

 教室の扉を開ける音。

 友だちを呼ぶ声。

 そして、どこかの教室から聞こえてくる楽しそうな笑い声。

 階段を上がりきると、三年A組の教室はすぐ近くだった。

「あ、まだ結構時間あるね」

 美咲が廊下の時計を見上げた。

「うん。今日は余裕があるね」

 あいも時計を確認した。

 少し前までは、朝の支度に時間がかかって、駅へ向かうだけでも落ち着かなかった。

 それを思えば、今日はずいぶん余裕を持って登校できた気がする。

 ただ――。

 今朝の電車のことを考えると、いつもの朝だったとは言い切れなかった。

 あいは教室の扉へ目を向けた。

 中からは、クラスメイトたちの声が聞こえてくる。

 その音を聞いた途端、電車の連結部で見た不思議な光が、少し遠い出来事のように感じられた。

「……あい?」

 由香里が声をかけた。

「あっ、ううん。何でもない」

「そう?」

「うん。教室、入ろう」

 三人は並んで、三年A組の教室へ入った。


「おはよー!」

 美咲が明るく声を上げる。

 教室にいた何人かのクラスメイトが顔を上げた。

「おはよう!」

「美咲、今日も元気だね」

「おはよ、あい、由香里」

 あちこちから挨拶が返ってくる。

「お、おはよう」

 あいも小さく会釈した。

「おはよう」

 由香里も微笑んで答える。

 教室には、いつもの朝の風景が広がっていた。

 窓際では、数人の生徒が楽しそうに話している。

 黒板の近くでは、教科書を片手に何かを確認している生徒がいた。

 机の上にノートを広げ、宿題の答え合わせをしている生徒もいる。

 スマートフォンを鞄へしまう生徒。

 飲み物を一口飲んでから、ホームルームの準備を始める生徒。

 それぞれが、思い思いに朝の時間を過ごしていた。

 ――……いつもどおりだ。

 あいは、教室を見渡した。

 少し前まで、自分たちは電車の中で黒霧の気配を感じていた。

 もしかすると、あの連結部では何かが起きていたのかもしれない。

 けれど、ここでは誰もそんなことを話していない。

 当たり前のように教科書を開き、友だちと笑い合い、これから始まる授業の準備をしている。

 その光景を見ていると、あいの肩から少しずつ力が抜けていった。

 魔法戦士になってから、普通の日常が突然変わってしまうことを何度か経験した。

 けれど、変わらず続いているものもある。

 この教室も、その一つだった。

「あいちゃん、こっちこっち!」

 美咲の声に、あいは顔を上げた。

「あ、うん」

 三人の席は、教室の後ろの方にある。

 あいは自分の席へ向かい、鞄を置いた。

 椅子を引いて腰を下ろす。

 机の上に筆箱を出し、時間割を確認する。

 何度も繰り返してきた、いつもの動作だった。


「ねえ、あいちゃん。ちょっといい?」

 美咲が、自分の席から数学のノートを持ってやってきた。

「あ、うん。宿題だよね」

「そうそう!」

 美咲はノートを開き、あいの机の上へ置いた。

「ここなんだけどさ」

 指さしたのは、最後の問題だった。

 途中まで計算が書かれている。

 けれど、最後の答えには、大きな疑問符がついていた。

「あ……ここかな」

 あいはノートを少し引き寄せた。

「この式までは合ってると思うんだけど……」

「うんうん」

「次のところで、符号が変わっちゃってる」

「……え?」

 美咲が顔を近づける。

 あいは、途中式の一か所を指さした。

「ここ。マイナスを掛けるから、こっちも変わるはずなんだ」

「……あっ!」

 美咲が小さく声を上げた。

「ほんとだ!」

 その声が少し大きかったらしく、近くのクラスメイトがちらりとこちらを見た。

 美咲は慌てて口元を押さえる。

「あはは……ごめん」

 あいは小さく笑った。

「ううん。わかってよかった」

「いやー、助かった! 昨日、何回見直してもわかんなかったんだよね」

「一か所違うと、最後まで答えが合わなくなるから……」

「そうなんだよ! もう、途中から全部やり直しちゃったもん」

 美咲は少し悔しそうな顔をした。

 その様子を見て、由香里も微笑む。

「でも、自分で最後まで計算したんでしょう?」

「まあね」

「それなら、次は同じところに気づけると思うわ」

「そうだといいなぁ」

 美咲は笑った。

 あいもつられて笑う。

 数学の宿題。

 授業の準備。

 友だちとの他愛のない会話。

 いつもの教室では、そうしたことが何よりも自然だった。

 ――……やっぱり、学校に来ると落ち着くな。

 あいはそんなことを思った。

 魔法戦士になったからといって、数学の問題が急になくなるわけではない。

 美咲が宿題に苦戦するのも、由香里が丁寧に話を聞いてくれるのも、以前と変わらない。

 そのことが、少し嬉しかった。


 美咲がノートを閉じ、自分の席へ戻ろうとしたときだった。

「あいちゃん」

 声が少し小さくなった。

「……ん?」

 あいが顔を上げると、美咲は周囲へ軽く視線を向けた。

 近くのクラスメイトたちは、それぞれの会話や準備に集中している。

「……さっきのこと、やっぱり気になるね」

 あいは、すぐに何の話かわかった。

「……うん」

 思わず声を落とす。

 美咲はノートを抱えたまま、少し考えるように首を傾げた。

「……あの子、結局どこ行ったんだろうね」

「……わからない」

 あいは小さく答えた。

 桜坂駅で降りたあとも、三人で少女の姿を探してみた。

 けれど、あれだけ多くの通学客がいたのだから、見つけられなくても不思議ではない。

 同じさくら女子の制服だった。

 だから、この学校にいる可能性はある。

 けれど、名前も学年もわからない。

 今のあい達には、手がかりらしい手がかりがほとんどなかった。

 由香里も、二人の方へ少し身体を向けた。

「気になるのは、あの子がどこへ行ったかだけじゃないわね」

「……うん」

 あいはうなずいた。

 思い浮かぶのは、あの三つの色だった。

 赤。

 黄。

 青。

 連結部の扉の向こうで、ほんの一瞬だけ揺れた光。

 そして、変身したときに似た、不思議な感覚。

 何が起きたのか、まだわからない。

 ただ、あれを偶然見えた光として片づけてしまうには、少し気になることが多すぎた。

「……ここで話すのは、やめておいた方がいいよね」

 あいが小声で言うと、由香里がうなずいた。

「そうね。誰が聞いているかわからないもの」

「だよねぇ……」

 美咲も、声を抑えた。

 教室には大勢のクラスメイトがいる。

 今はそれぞれ別のことをしているけれど、すぐ近くで話していれば、何気ない言葉が耳に入ることもあるだろう。

 あい達にとっては大切な秘密でも、周囲の生徒にとっては、ただ聞こえてきた会話にすぎない。

 その何気ない会話から、知られてはいけないことが伝わってしまう可能性もある。

 あいは机の上のノートへ視線を落とした。

 数学の記号や数字なら、ここでいくら話しても問題はない。

 けれど、今朝の電車で見たものについては、そうはいかなかった。

「……鶴岡先生に、聞いてみようか」

 あいは小さな声で提案した。

 由香里が顔を上げる。

「私も、それがいいと思うわ」

「うん。鶴岡先生なら、何か知ってるかもしれないし」

 美咲もすぐにうなずいた。

 鶴岡紗英。

 学校の保健室にいる、穏やかな養護教諭。

 普段は生徒の体調や怪我を診てくれる先生だけれど、あい達にとっては、それだけではない人だった。

 魔法戦士に関する事情も知っていて、これまで何度も相談に乗ってくれている。

 今朝のような出来事についても、鶴岡先生なら話を聞いてくれるだろう。

 ただ、ここで気になることが一つあった。

「……でも、いつ行こう?」

 あいが尋ねた。

「今からだと、ホームルームが始まっちゃうよね」

 美咲が教室の時計を見る。

「そうね」

 由香里も時間を確認した。

「もうすぐ始まるし、今から一階まで行って戻ってくるのは難しいと思うわ」

 三年A組の教室は三階。

 保健室は一階にある。

 移動するだけなら、それほど大変な距離ではない。

 けれど、今朝のことを説明して相談するとなると、ある程度の時間は必要だろう。

 ホームルームに遅れるわけにもいかない。

「……じゃあ、お昼休み?」

 美咲が尋ねた。

 あいは少し考えた。

 お昼休みなら、確かに時間は取りやすい。

 けれど、今朝の出来事は、できればもう少し早く確認しておきたかった。

 あの黒霧の反応は、どうなったのだろう。

 連結部へ入っていった少女は、何をしていたのだろう。

 今すぐどうにかしなければならない状況なのかどうかも、あいにはわからない。

 だからこそ、わかる人に相談しておきたい。

「……一時間目が終わったら、どうかな」

 あいが言った。

「一時間目?」

「うん。そのあとの休み時間に、保健室へ行ってみるの」

 由香里は少し考えてから、うなずいた。

「そうね。それなら授業の途中で抜ける必要もないし」

「先生が忙しそうだったら、都合を聞いてみればいいと思う」

 あいが続けると、美咲も笑顔になった。

「あ、それいいね!」

「……うん」

「じゃあ、一時間目が終わったら、三人で行こっか」

「そうね」

 由香里がうなずく。

 あいも、ほっとしたように小さく微笑んだ。

「……うん。そうしよう」

 何かがわかったわけではない。

 あの少女の名前も、連結部で何が起きたのかも、まだ知らないままだ。

 それでも、次にどうすればいいかは決まった。

 それだけで、少し気持ちが落ち着いた。


 そのとき、教室の前の方で声が上がった。

「もうすぐホームルーム始まるよー!」

「あっ、ほんとだ!」

 美咲が時計を見上げた。

 教室のあちこちで、生徒たちが自分の席へ戻り始める。

 話していた友だち同士も会話を切り上げ、机の上の教科書やノートを整えていく。

 それまでにぎやかだった教室が、少しずつ落ち着いていった。

「じゃ、またあとで!」

 美咲は数学のノートを抱え、自分の席へ戻っていった。

 由香里もあいへ小さくうなずいた。

「一時間目が終わったらね」

「……うん」

 あいは微笑んで答えた。

 由香里が席へ戻ると、あいも自分の机へ向き直った。

 筆箱を整える。

 教科書を重ねる。

 時間割をもう一度確認する。

 いつもの学校生活の準備だった。

 窓の外からは、校庭の方を歩く生徒たちの声がかすかに聞こえてくる。

 朝の日差しが、教室の床を明るく照らしていた。

 あいはふと、窓の外へ目を向けた。

 ほんの少し前まで、電車の連結部で見た光のことが頭から離れなかった。

 今も気になっている。

 けれど、そればかり考えていては、目の前の授業に集中できなくなってしまう。

 ――……まずは、一時間目。

 あいは小さく息を吸った。

 学校にいる間は、普通の高校三年生として過ごす時間も大切にしたい。

 勉強も、友だちとの会話も、進学に向けた準備も。

 どれも、自分にとって大切なものだった。

 魔法戦士になったからといって、それらを後回しにしたくはない。

 やがて、朝のホームルームを知らせるチャイムが鳴った。

 教室のざわめきが静まっていく。

 あいは背筋を伸ばし、前を向いた。

 いつもの教室。

 いつもの机。

 いつもの朝。

 あの電車で何が起きたのか、答えはまだ出ていない。

 それでも、今は授業に向き合おう。

 そして、一時間目が終わったら、美咲ちゃんと由香里と一緒に鶴岡先生のところへ行こう。

 あいはそう決めて、机の上に置いた教科書をそっと開いた。


◆ 保健室での確認


 キーンコーンカーンコーン――。

 一時間目の終わりを知らせるチャイムが、校舎に響いた。

 宮本あいは、開いていたノートから顔を上げた。

 教室の前では、授業を終えた先生が教科書を片づけている。

 周囲の生徒たちも、机の上の筆記用具をしまったり、友だちと話し始めたりしていた。

「……ふう」

 あいは小さく息を吐き、ノートを閉じた。

 一時間目は、いつもどおりの授業だった。

 黒板に書かれた内容をノートへ写し、先生の説明を聞き、問題を解く。

 途中、今朝の電車で見た光が頭をよぎることもあったけれど、授業中はできるだけ勉強へ意識を向けていた。

 けれど、チャイムが鳴った今、気になっていたことが再び浮かんでくる。

 赤、黄、青。

 連結部の扉の向こうで、一瞬だけ揺れた不思議な光。

 そして、何事もなかったように戻ってきた、さくら女子の制服を着た少女。

 ――……やっぱり、気になるな。

 あいがそんなことを考えていると、隣から明るい声が聞こえた。

「あいちゃん!」

「……あ、美咲ちゃん」

 振り返ると、美咲が自分の席からやってきたところだった。

「一時間目、終わったよ!」

「う、うん。終わったね」

「じゃ、行こっか!」

 美咲は声を少し落とした。

 あいも、すぐに何のことかわかった。

「……保健室?」

「うん!」

 美咲が小さくうなずく。

 そこへ、由香里も近づいてきた。

「二人とも、準備できた?」

「うん。大丈夫だよ」

 あいは筆箱を机の中へしまい、椅子から立ち上がった。

 由香里が教室の時計を見上げる。

「次の授業まで、あまり時間はないわね」

「そうだね。手短に聞いてみよう」

「よし、じゃあ出発!」

 美咲が元気よく言いかけて、すぐに声を抑えた。

 あいは思わず笑ってしまった。

 三人は周囲の生徒たちの邪魔にならないよう、教室を出た。


 三年A組の教室を出ると、廊下には休み時間らしいにぎやかさが広がっていた。

 友だち同士で話しながら歩く生徒。

 次の授業で使う教科書を抱えた生徒。

 窓際に集まって、楽しそうに笑っている生徒たち。

 いつもの学校の風景だった。

 あい達も、その中に混じって階段へ向かう。

「……鶴岡先生、いるかな」

 あいが小さく尋ねた。

「いると思うけど、誰か診てるかもしれないね」

 美咲が答える。

「そのときは、またあとで来ればいいわ」

 由香里が落ち着いた声で言った。

「そうだね」

 あいはうなずいた。

 保健室は、魔法戦士のためだけにある場所ではない。

 体調の悪い生徒や、怪我をした生徒が訪れる、学校の大切な場所だ。

 あい達も何度か助けてもらったことがある。

 けれど、今は誰かが怪我をしたわけでも、具合が悪くなったわけでもない。

 今朝の出来事について、少し相談したいだけだった。

「……あまり長くならないようにしないとね」

 あいが言うと、美咲もうなずいた。

「うん。次の授業もあるし」

 三人は階段を下り、一階の廊下へ向かった。


 保健室の前へ着くと、あいは扉の横に立ち止まった。

 中からは、特に話し声は聞こえてこない。

「……入っても大丈夫かな」

「まずは、聞いてみましょう」

 由香里の言葉に、あいはうなずいた。

 コンコン。

 扉を軽くノックする。

「はい、どうぞ」

 聞き慣れた穏やかな声が返ってきた。

 あいは扉を開けた。

「失礼します」

「あら、宮本さん。橘さんと田村さんも」

 保健室の中では、鶴岡紗英が机に向かっていた。

 黒髪を一つにまとめ、白衣をきちんと着た、いつもの落ち着いた姿。

 三人の顔を見ると、柔らかく微笑んだ。

「どうしたの? 誰か具合が悪い?」

「あっ、いえ。体調は大丈夫です」

 あいは慌てて首を横に振った。

「そう。なら、よかった」

 鶴岡先生は椅子から立ち上がった。

「何か相談かしら?」

「はい。ちょっとだけ、お聞きしたいことがあって……」

 あいは室内を見渡した。

 ベッドのカーテンは開いており、今のところ、ほかの生徒の姿は見えない。

 鶴岡先生も、三人の様子から何か察したように、扉の方へ目を向けた。

「少しお話ししましょうか」

 先生は扉を静かに閉めた。

「でも、休み時間でしょう? 次の授業に遅れないようにしましょうね」

「はい」

 三人はそろってうなずいた。


「それで、どうしたの?」

 鶴岡先生が尋ねた。

 あいは美咲と由香里の顔を見た。

 最初に口を開いたのは、美咲だった。

「あの、先生。最近、私たち、紫織さんと桃歌さんに会ったんです」

「藤崎さんと諸星さんね」

「はい!」

 美咲はうなずいた。

「二人とも、私たちよりずっと経験があるんですよね」

「そうね。あなたたちより長く活動しているわ」

 鶴岡先生は穏やかに答えた。

 あいは、紫織が車いすからふわりと浮かび上がり、滑るように移動していた姿を思い出した。

 桃歌の歌声と、魔法のベースの響きも、まだ記憶に新しい。

 どちらも、自分たちにはできないことを自然にやっていた。

「それで、二人とも三年C組なんですよね」

 由香里が続けた。

「そうね」

「同じクラスに、経験者が二人もいるなんて……ちょっと驚きました」

 美咲が言うと、鶴岡先生は小さく微笑んだ。

「そうでしょうね」

「あの……」

 あいは少し迷ってから、口を開いた。

「もしかして、ほかにもいるんでしょうか」

「ほかにも?」

「はい。私たちがまだ知らない、経験のある人が……この学校に」

 鶴岡先生は、すぐには答えなかった。

 あいは少し不安になって、言葉を付け足した。

「あ、もちろん、全員を教えてほしいっていうわけじゃないんです。ただ……」

「ええ。わかっているわ」

 先生は優しくうなずいた。

「藤崎さんや諸星さんと出会って、今まで知らなかったことが気になり始めたのね」

「……はい」

「それは自然なことだと思うわ」

 鶴岡先生は三人の顔を順番に見た。

「でも、あなたたちも、自分の事情を学校中の人に知ってほしいわけではないでしょう?」

「あ……」

 あいは小さく声を漏らした。

 確かに、そのとおりだった。

 魔法戦士であることは、誰にでも話していい秘密ではない。

 あい自身、クラスメイトにはもちろん、家族にも伝えていない。

「……そうですね」

「ほかの人にも、それぞれの事情があるの。だから、誰が何を知っているかについては、慎重に考えないといけないわ」

 鶴岡先生は静かに続けた。

「気になることがあったら、こうして相談に来てくれればいいのよ」

「……はい。ありがとうございます」

 あいはほっとして、小さく頭を下げた。


「そういえば、先生」

 今度は美咲が口を開いた。

「最近思ったんですけど、うちの学校って、短いスカートの子、けっこう多いですよね」

「あら、急に制服の話?」

 鶴岡先生が少し不思議そうに首を傾げた。

「はい。今まであんまり気にしてなかったんですけど……」

 美咲は、あいと由香里へ視線を向けた。

「私たちと同じくらい短い子も、意外といるなって」

 あいは思わず、自分の制服へ目を落とした。

 緑と紺のチェック柄のプリーツスカート。

 今では膝上十五センチ程度の丈にも、少しずつ慣れてきている。

 けれど、最初に短くしたときは、学校中の人から見られてしまうのではないかと心配したものだった。

 実際には、思っていたほど目立たなかった。

「そうね」

 鶴岡先生はうなずいた。

「さくら女子は、もともと制服の着こなしにある程度の自由がある学校だから。スカート丈にも個人差があるわ」

「やっぱり、そうですよね」

「ええ。短めの丈が好きな生徒もいれば、落ち着いた長さが好きな生徒もいる。それぞれよ」

 そこで先生は、三人へ少しだけ視線を向けた。

「もちろん、あなたたちには、短めの丈に慣れておきたい理由もあるでしょうけれど」

 あいは小さくうなずいた。

 変身後の戦闘服に慣れるための適応訓練。

 それは、あい自身が続けていることだった。

「でも、ほかの生徒まで同じ理由で短くしているとは限らないわ」

「……はい」

 由香里が答えた。

「そうよね。単に、その着こなしが好きなだけかもしれないもの」

「そのとおり」

 鶴岡先生は微笑んだ。

「制服だけを見て、何か特別な意味があると思わないことね」

「なるほどー」

 美咲は納得したようにうなずいた。

 あいも、少し安心した。

 最近、学校の中で以前とは違うものが目に留まるようになった。

 けれど、それは周囲が急に変わったからではない。

 自分が今まで気にしていなかったことに、気づくようになっただけなのかもしれない。


「……あの、先生」

 あいは、そこで本題を切り出した。

「今朝の電車で、ちょっと気になることがあったんです」

 鶴岡先生の表情が、わずかに引き締まった。

「電車で?」

「はい。瑞穂台駅から桜坂駅へ向かう快速電車です」

 あいは、できるだけ手短に説明しようとした。

「女性専用車に乗っていたんですけど、途中で、連結部の方に黒霧みたいな反応があって……」

「それは、あなたたちが気づいたの?」

「アムルたちが教えてくれたんです」

「そう」

 先生は静かにうなずいた。

「それで?」

「でも、車内がすごく混んでいて、すぐには動けなかったんです」

 そこで美咲が会話を引き継いだ。

「そしたら、同じ学校の制服を着た子が、連結部の方へ行ったんですよ」

「さくら女子の生徒?」

「はい。私たちと同じくらい短いスカートで、落ち着いた感じの子でした」

 美咲が答える。

 あいも続けた。

「最初は、普通に電車に乗っていたんです。小さな路線図みたいなものを見たり、車内の案内表示を確かめたりしていて……」

「路線図……」

 鶴岡先生が小さくつぶやいた。

「それで、その子は連結部へ入ったのね」

「はい」

 あいはうなずいた。

「私たちからは、扉の向こうがよく見えなかったんですけど……」

 少しだけ言葉に詰まる。

 あの光を、どう説明したらいいのだろう。

「……そのあと、一瞬だけ、光が見えたんです」

「光?」

「赤と、黄色と、青です」

 鶴岡先生は、あいの顔を見つめた。

「赤、黄、青……」

「はい。信号機みたいな色でした」

 由香里が静かに補足した。

「私たち三人とも、光は見ています。ただ、何が起きたのかまでは確認できませんでした」

「……そうなのね」

 鶴岡先生は、少し考えるように目を伏せた。

 あいは、その様子を見ながら続けた。

「あの……光が見えたとき、変身したときみたいな感じがしたんです」

「変身したときみたいな?」

「はい。でも、同じかどうかはわからなくて……」

 美咲が小さくうなずいた。

「私も、ちょっと似てるなって思いました」

「そのあと、その子は?」

 鶴岡先生が尋ねた。

「普通に戻ってきました」

 あいは答えた。

「制服のままで、疲れている様子もなくて……何事もなかったみたいに、また立っていたんです」

「そう……」

「アムルは、黒霧の反応が弱くなったって言ってました。でも、どうしてそうなったのかはわからないんです」

 鶴岡先生は静かに話を聞いていた。

 あいは少し迷ってから、最後の疑問を口にした。

「……先生。もしかして、あの子も魔法戦士なんでしょうか」

 部屋の中が、少し静かになった。

 廊下の向こうから、休み時間の生徒たちの話し声がかすかに聞こえてくる。

 鶴岡先生はすぐには答えなかった。

 あいも、美咲も、由香里も、先生の返事を待っていた。

 やがて、先生が静かに口を開いた。

「……実際に何が起きたのか、あなたたちは見ていないのよね」

「……はい」

「なら、今の話だけで、変身していたと決めつけることはできないわ」

 あいは小さくうなずいた。

「……そうですよね」

「でも、何か気になることがあったのは確かなのね」

「はい」

 今度は、はっきりと答えた。

 あの光。

 あの気配。

 そして、連結部へ向かった少女の姿。

 何だったのかはわからないけれど、あい達が見たものまで消えてしまったわけではない。

 鶴岡先生は、しばらく考え込んでいるようだった。

 それから、ふと何かを思い出したように顔を上げた。


 そのとき、廊下の向こうから、次の授業を知らせる予鈴が聞こえた。

「あっ……」

 あいは時計を見た。

「もう、こんな時間……」

「そろそろ戻らないとね」

 由香里も立ち上がる。

 美咲は少し残念そうな顔をした。

「えー、もうちょっと聞きたかったのに」

 鶴岡先生が小さく笑った。

「続きは、また時間のあるときにしましょう。授業に遅れてはいけないわ」

「……はい」

 あいはうなずいた。

 まだ、答えは出ていない。

 けれど、今の話を聞いてもらえただけでも、少し安心した。

「先生、ありがとうございました」

「どういたしまして」

 三人が扉の方へ向かおうとした、そのときだった。

「……ああ、そういえば」

 鶴岡先生が、小さく声をかけた。

 あいは振り返った。

「……はい?」

 先生は、あい達の顔をもう一度見た。

「路線図を見ていて、連結部へ向かった、さくら女子の生徒……」

「はい」

 あいは思わず、一歩だけ足を止めた。

 鶴岡先生は、何かを確かめるように少し考えた。

 その表情には、わずかな心当たりが浮かんでいるように見えた。

 あいは、先生の次の言葉を待った。

 美咲も由香里も、黙って振り返っている。

 けれど、鶴岡先生はそれ以上、詳しい説明を始めなかった。

 ただ、静かに小さくつぶやいた。

「……あの子かな」



◆用語説明


【さくら女子のミニスカート】


 私立さくら女子高等学校では、生徒の自主性を尊重する校風から、制服の着こなしに比較的高い自由度が認められている。

 学校指定の制服は、緑と紺のチェック柄のプリーツスカートを採用しており、標準丈は膝頭が見える程度となっている。

 しかし、実際のスカート丈には個人差があり、膝上十五センチほどのミニスカートを穿く生徒も珍しくない。

 おしゃれとして短めの丈を選ぶ生徒もいれば、標準的な長さを好む生徒もいる。教師も、極端に乱れた着こなしでなければ大きく問題視せず、階段や風の強い日などには安全面から注意を促す程度である。

 一方、魔法戦士である宮本あいや田村由香里には、短めのスカートを穿く別の理由がある。

 魔法戦士の戦闘服はスカート丈が短いため、変身後の衣装に戸惑って戦闘へ集中できなくならないよう、日常生活でも短いスカートに慣れる訓練を行っているのだ。

 ただし、これは本人の意思による適応訓練であり、魔法戦士に義務づけられたものではない。また、通常の制服に魔力を高めたり、調整したりする効果はない。

 さくら女子の自由な校風は、もともと魔法戦士の存在を隠すために設けられたものではない。

 しかし結果として、あいたちが短めのスカートで通学していても、周囲から特別に目立つことは少ない。

 もちろん、ミニスカートを穿いているからといって、その生徒が魔法戦士であるとは限らない。

 同じ制服を着て、同じ教室で学び、友人たちと学校生活を送る。

 その何気ない日常の中に、誰にも知られていない秘密を抱えた少女たちがいるのかもしれない。


 読んでいただき、ありがとうございます。


 第十五話「母の沈黙、連結部の少女」は、これまでの戦いから少し離れ、あい達の日常を中心に描いたお話でした。


 今回は、母・郁子のもとを内務省の女性職員が訪れる場面から始まります。


 娘のあいに特別な適性が確認されたこと。

 学校生活や安全面について、関係機関が必要な支援を行うこと。


 郁子はその説明を静かに受け止めます。


 最近、短くなった制服のスカート。

 少し疲れた表情。

 娘の小さな変化に気づいていた郁子ですが、その理由をあいに問い詰めることはありません。


 あいもまた、魔法戦士として活動していることを母には話せないままです。

 それでも、二人で朝食をとり、制服のリボンを整えてもらい、「いってらっしゃい」と見送られる。

 秘密があっても、変わらない母娘の日常。

 今回は、そんな関係を大切にしてみました。


 郁子が内務省の女性職員の話を静かに受け止めた理由については、まだ詳しく語っていません。

 そのあたりも、今後少しずつ描いていけたらと思います。


 そして、後半は通学電車での出来事です。

 最近、藤崎紫織や諸星桃歌といった経験豊富な魔法戦士に出会ったあい達。

 同じ学校に通っていても、まだ知らない人がいるのかもしれない。

 そんな疑問を抱き始めた三人の前に、今度は名前も知らない少女が現れます。


 混雑した女性専用車。

 黒霧らしい反応。

 連結部へ向かう少女。


 そして、扉の向こうで一瞬だけ見えた、赤、黄、青の不思議な光。

 何が起きたのかはわかりません。

 少女は何事もなかったように戻ってきて、電車も普段どおり桜坂駅へ到着します。

 あい達は自分たちが変身することもなく、いつもの学校生活へ戻っていきました。


 今回は、魔法戦士になっても普通の高校生としての日常が続いていることを、改めて描きたいと思いました。

 その一方で、自分たちの見えないところでも、誰かが何かをしているのかもしれません。

 最後の保健室では、鶴岡先生が少し心当たりのある様子を見せました。

「……あの子かな」

 この言葉の続きは、次回以降のお楽しみです。


 あの少女は何者なのか。

 連結部では何が起きていたのか。

 そして、さくら女子には、まだどんな少女たちがいるのでしょうか。


 少しずつ、世界が広がっていくようなお話にしていきたいと思います。


 感想や気になった場面などがありましたら、ぜひお気軽にお寄せください。


「郁子さんのことが気になる」

「連結部の少女をもっと知りたい!」

「紫織さんや桃歌さんにも、また登場してほしい」


 そんな一言でも、とても嬉しいです。


 次回も、読んでいただけたら嬉しいです。


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