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晴れ渡る空の下で(2)

 アメリアは目を丸くしたまま階段を駆け下りた。するとどうだ、わざとらしく店へのドアが開けっぱなしにしてある、台所への道を遮るように。


 ある種予想に違わないが、だからこそ期待が膨らんで爆発し、表情は太陽に負けない明るさで弾けた。足取りも軽やかに亭主の待っている店へと飛び込む。


「やあ、アメリア、おはよう」


 人好きのする顔つきで晴れやかに挨拶する、そんなマスターはカウンターの向こうの客席側に居る。両手に皿を持っていて、それを店の中央に設置されたテーブルに置いた。


 貴人の屋敷の朝食風景、テーブル上を端的に表すのならこうだ。町娘の朝には似つかわしくない豪華な食卓が、夢ではなく現実にあった。清潔なクロスがかけられたテーブルの中央に、きつね色に焼き上げられた塩パンがかごに盛られて鎮座する。ふわふわと漂っている香りで、触れるまでもなく焼きたてであると理解できる。


 そして今しがたマスターが置いた皿には、ふんわりとした青菜入りのオムレツと、脂がとろける様にじっくり炙られた厚切りの燻製肉が盛られている。ピピンの赤い実とロケットの緑の葉が添えられて、彩も実に美しい。


 カウンターの焜炉の上には鍋が火にかかってあり、中を覗くとハーブの香りが立ち昇るスープが入っている。大きくカットされたオニオンや、キャロット、イモといった野菜たちは、しかし柔らかく溶けかかっていて、じっくり時間をかけて煮込まれたものだと物語っている。


 そして、何よりアメリアの心を揺さぶるのは、明らかに二人分の食事が用意されている事実。


「ほらアメリア、こちらへお座り」


 紅潮した顔で口をぱくつかせて動けないでいるアメリアを、マスターが手振りを交えて促した。アメリアは言われるがままテーブルに駆け寄って、燕尾の店主がひいてくれた椅子にそっと座る。彼の所作は装いも相まってさながら執事のよう、ならば自分はお嬢様か、そう思うと少し気恥ずかしくてますます顔が赤くなる。


 マスターは配膳を手伝わせてはくれないようだ。それでアメリアは膝を揃えて、妙にかしこまって座っていた。


 目の前にボウルに盛り付けられたスープが運ばれてくる。一度鍋を見ていて中身を知っているのに、真っ白な器に盛りつけられた状態だと再び新鮮な感動を覚える。


 その後はグラスと水差しだ。マスターのしなやかな指が縦長のグラスの底を持ち、テーブルから離した宙にて水をそそぐ。それから静かに卓に置かれたグラスには、涼やかな露が降りていた。しかもただの水ではなく、花を蒸らした蒸留水を集めたフローラル・ウォーターだ。香りからして、今日はマツリカの花である。甘く華やかな匂いは、しかし食事の味を邪魔しないよう控えめに精製されている。


 これだけでも十分すぎる程なのに、さらにとどめと言わんばかりに、飾り切りのリンゴを盛った皿が追加された。あたかも紅葉した葉が並んでいるような見た目だ。


 このたった一度の食事に、一体どれだけの手間がかかっているか、考えるだけでも頭が上がらない。アメリアは言葉を失くして目を丸くしたままマスターを見ていた。すると彼は嬉しそうに肩をゆすった。


「びっくりしてくれた? 嬉しくない?」


 相変わらず意地悪な人だ、嬉しくないわけがないのに。マスターが自分のために、最後の記念の食事として、手ずから振る舞ってくれたのだ、涙がこぼれそうなくらい嬉しい。


「でも、私、起きたばっかりに、こんなにたくさん食べられないですよう」

「そう? 君はよく食べるから大丈夫だと思ったんだけど。ああ、食後にはお茶もあるからね」

「まだあるんですか」

「お茶を外すわけがないだろう。でも、それは後のお楽しみだ」


 マスターは軽くウインクをしてから、特徴的な燕尾のベストを脱いで椅子に掛け、アメリアの向かいの席についた。


 外から朝食会を邪魔される心配はない、今朝はまだ開店のプレートを出していないし、常連には予め二人の最後の時間を大切にしたいとマスターから根回しがしてある。


 お先にどうぞ、とマスターに手振りで促されると、アメリアは一度ぴんと背筋を伸ばし、無意識に頬を緩ませつつ、まずは焼きたてのパンへと手を伸ばした。



 それから豪勢な朝食は笑顔のまま進められていった。見た目だけではなく、料理の味も文句の付け所がなかった。


 パンは程よく塩味を効かせる事で甘味を引き立ててあり、食感もふんわりかつもっちりとしていて、満足感が尋常ではない。


 ふわりと焼かれたオムレツは、フォークでぷつっと切れば半熟の中身がほどけ、口に入れればまろやかな味わいが花咲くように広がった。まったりとした玉子の味と塩気の強い燻製肉とが、相乗効果でお互いを高め合い、手が進んで仕方ない。付け合わせたロケットのサラダも良い仕事をしているし、ピピンの実を潰し、ソースのようにオムレツに絡めれば、あの独特の酸味がまた抜群の相性だ。


 スープなどもう語るべくもない。食欲に訴えかけるハーブの香りと共に、じっくり溶けだした野菜の旨みが体に染み入る。大ぶりのイモやキャロットも、芯までほくほくの仕上がりだ。熱い熱いと言いながら、ついかき込むように食べてしまう。


 そんな料理の感想を伝えるのに、美辞麗句は必要なかった。ただ笑顔のまま、歓談に興じつつ、残さず平らげて、終わりに一言添えるだけで事足りる。


「全部おいしかったです」


 アメリアは対面のマスターにぺこりと頭を下げて、食後のために残してあったリンゴに手をつけた。しゃりしゃりと噛めば、甘酸っぱくみずみずしい味が溢れて来る。うっすら塩味があるのは、変色を止めるために塩水につけたから。以前マスターから聞いた事がある手法だ。


 おいしかった、本当に。完璧主義者に等しい亭主の料理の腕前もあるが、それ以上に。


「マスターと一緒に食べられたから」

「そうか。……良かった、頑張ったかいがあったよ」


 そう満足げに笑うマスターの皿も空になっていた。おいしいものは一人で食べるより二人で。嬉しい、楽しい、感情の共有は代えの効かない調味料なのだ。



 マスターは再びベストを着直すと、空いた食器を下げ、カウンターへ向かった。そこで食後の茶の用意をする。ただ、物は既にミルクパンの中に完成されてあった。保温の布を払って再度温め、器に注いだらそれでできあがり。


 一体何が出てくるのか、ミルクパンを使った、ならばゆっくり煮出したミルクティだろうか。アメリアは期待に沸いて待ち焦がれていた。


 そんな目の前に登場したのは、座りよく握りも大きい白のマグカップだった。ソーサーも無しで目の前に供されたその中身は、ただの白いミルク……いや、うっすらと緑がかっているから、ただのミルクではない。ミルクティと言い切るにも気が引けるが。


 アメリアの目は真ん丸に見開かれていた。葉揺亭にしては、マスターにしては、あまりにも粗末すぎて落胆した、いいやそうではない。質素な一杯、これは、アメリアにだけはひどく特別なものだった。


 ひどい雨の音の幻聴がアメリアを襲う。忘れて久しい飢えの感覚がうっすらと蘇る。あの運命の雨の日。これは、あの時に目の前に差し出された物とまるで同じ。器も含めて全部、アメリアが初めて葉揺亭で口にした一杯である。


「覚えていたかな」

「ええ、もちろんです。忘れるはずないじゃないですか」

「あの日は、雨だった。君はずぶ濡れで、やせ細っていて――」

「何が欲しいってマスターが聞いたから。寒かったし、すごくお腹が空いていたから、温かいスープが欲しいって、私言ったんです。そしたら『そんな物でいいのか』って笑いましたよね、マスター」

「そうだよ。他に何かあるだろうって聞いたらさ、『じゃあ、温かいミルクも』って言うんだから、もっと笑った。ちょっと困ったんだよ、期待していた答えと違ったもの。人間の望みは、もっと尊大なものだと思っていたから」

「それで、出て来たのがこれですよね」

「その通り。まったく同じ物だよ」


 一言一句、一挙一動、何も忘れていない。お互いに。


 窓辺のテーブル席にて、魂が抜けて人形になったように蹲っていた。そんなアメリアの前に、亭主はこのカップを持ってやって来た。


『スープは今作っている。先にこれを飲むといい。しばらく碌に物を食べていないんだろう? ゆっくりと、少しずつ、お腹をびっくりさせないようにね』


 そう言って彼はアメリアの頭を撫でると、燕尾を翻して奥の空間へと消えたのだった。


 本当にいいのだろうか、後で対価をせしめられたりしないだろうか。普通なら少しは躊躇う場面だが、孤独と空腹に灯火を消されかけていたアメリアは、骨と皮しかない小さな手で一心にマグカップを取った。


 そっとか細い息を吹きかけて、舐めるように飲んだ人肌よりもやや温かいミルクは、アメリアの心に火を灯した。こんなにおいしい物がこの世にあるなんて。温かく優しい光に包みこまれ、アメリアは無我夢中にそのミルクを飲んだ。ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら。


 ――今はもう、泣かないけれど。


 これは世界で一番おいしい飲み物だ、往時の思い出のミルクを再び。静かに胸をときめかせながら、温かい液体に口をつける。


 しかし。アメリアは顔をしかめた。


「……全然おいしくない」


 眉間に深い谷を刻んだまま、そっと重たいカップを置く。おかしい、どこか舌に障る苦味とえぐみがあって、おまけに青臭い。とても飲めた代物ではない。まさかマスターが失敗作を人に飲ませる、そんな事あり得るだろうか。


 本当にあれと同じ物なのか。無言のまま怪訝な表情でアメリアはマスターに問う。すると彼は肯定を示しながら、種明かしをした。


「おいしくない、そりゃそうだ。そこには色々な薬草が混ぜてある。とにかく君の体をどうにかしなければいけなかったのだから、味になんて構っている暇が無かった」


 死に瀕していた、いや、既に首まで死の淵に漬かっていた。豪雨の中に伏せる少女を亭主が見出した時には、そんな有様だったのである。栄養状態が悪い、擦りむいた傷は膿んでいる、内臓は弱っているし、発熱もひどい、おまけに精神も参っていた。一刻も早く、正しい処方が必要であった。さもなくば、命は雨に流され消えていた。


 良薬は口に苦い、しかし効くとわかっていれば我慢して飲めるし、味にすら構っていられないほど窮まった状況ならどんなものでも受け入れる。逆に薬湯など必要ないと状況が変わったなら、体が拒絶するのも当然である。


「だから、おいしくなくていいんだよ。君の感じたことが正解なんだ。それはもう、今の君には必要ない、君は外の風に負けないくらい強く元気になった。そういう証なのさ」


 マスターは感慨深く目を細めながら、マグカップを取り上げてしまった。アメリアも追いすがりはしなかった。


 口直しの茶は、なんでも好きなものを淹れよう。そんなマスターの言葉に、アメリアは一瞬も迷わずイチゴのミルクティをリクエストした。


 アセムの茶葉とイチゴをふんだんに使って、濃い紅茶を淹れる。それと温めたミルクを混ぜ合わせ、カップに注いだら出来上がり。もちろんじっくり煮出して作ったミルクティも良いものだが、食後の飲み物としては少し濃厚過ぎるだろう。


 ティーセットを整えながら、マスターが不意に講釈を始めた。


「これは僕の持論なのだけど。ミルクを飲むと心が休まるのは、きっと母親の腕に抱かれる赤子の頃を感じられるからだと思うんだ。無意識の下で、だけど」

「……はあ」

「温かい愛情が人間には何よりの力の源となる。そう思って飲むと、きっとより一層おいしく感じられるよ。茶を喫するとはそういうものさ。――さあ、どうぞ」


 母親。目の前に置かれたカップを見ながら、アメリアはぼんやり思った。


 実の両親はまったく覚えていない。母の顔も、父の顔も、アメリアは知らない。こうして産まれたからには絶対に親が居たはずなのだが、どれだけ振り返っても欠片すら記憶にない。きっと物心がつく前に別れてしまったのだろう。


 向かいの席でマスターがそうするように、アメリアもミルクティを飲んだ。優しく、甘やかで、温かい。覚えていないだけで、こうした気持ちで母親に抱かれていた時代があったのだろうか。父親に無垢な笑顔を振りまいていたのだろうか。それは、わからない。


 ただ、血のつながりは記憶になくとも、無類の愛情を与えられる心地よさは知っている。その主は、幻想の中の存在などではなく。


「マスター」

「なんだい?」

「もう一つだけ、お願いがあるんです」


 一度カップを置いて、少し畏まったように座り直し。


 ずっと思っていたことだった、いつかきちんと伝えたい想いだった、しかし気後れや気恥ずかしさでうやむやにし、結局、こんな別れ際になってしまった。今なら言える、今しか言えない。


「もし、これから、私の家族のことを聞かれたら。そしたら、葉揺亭のサベオルさんが私のお父さんですって、そう言いたいんです。マスターじゃなくって、そうやって紹介しても……いい、ですか」


 言い切ってなお、鼓動が大きく鳴っている。既に事実上家族のようなものだったが、明確に宣言するのは初めてだ。しかし、客観的にもわかりやすい呼称が欲しかった。店主と店員という関係性が解かれても、決して切れることが無い二人の絆の糸を表す言葉が。


 マスターは思慮深い目を細めた。戸惑っているように小さく震える唇を動かして、押し出したような声で言葉を紡ぐ。


「本当に、僕なんかでいいのかい? 僕は――」

「マスターがいいんです」

「……質問に質問で返すのは無粋だったな」


 マスターは押し殺した笑いを上げた。ますます細くなった目からこぼれた雫を、前髪をかき上げるふりして指で拭っている。それをわざわざ指摘するのも無粋だ、アメリアは膝の上で手を握り、静かに答えを待った。


「もちろんさ。君は、僕の大事な娘なんだから」


 湿り掠れた音だった。潤んだ三日月状の目に真っ直ぐ見つめられ、アメリアは気恥ずかし気に笑んだ。ありがとうございます、そう言って、そそくさとカップを取って己の表情を隠す。さっきよりも甘さが増したミルクティには、喉の奥で嬉しいしょっぱさが溶けた。



 最後の茶話は穏やかな夢を語るひと時だった。食堂とか酒場とか、色々な種類のお店で働いて経験を積んでみたい。落ち着いたら手紙を書く。いい人に巡り合って結婚して、子供も欲しい。いつか必ず自分の店を持つ、そうしたら絶対に遊びに来てください。とめどなく語られるアメリアの願望を、頷き、応援し、時には冗談を交えてからかいながら、マスターは終始微笑みと共に聞いていた。これまでの日常と何ら変わらない、茶を片手に広げられる穏やかな会話劇だった。これまでの日常と変わりなく、いつまでも続いていきそうな茶話だった。


 しかし、終わりの時は来てしまった。


 かちりとなった時計の針を見て、二人は同時に悟る。そろそろ発たねば、同道者との待ち合わせに間に合わない。


 アメリアは席を立ち自室へ戻り、準備してあった鞄を背負う。窓からの風景を真剣に見納めて、反転、確かな足取りで階段を駆け下りた。歩き慣れた廊下を堂々と進み、長きを過ごしたカウンターを抜け、一歩一歩確かめるように店を横切り、玄関へ。


 玄関の扉はマスターが開いてくれた。外は快晴だ。眩しい光が差し込んで、二人仲良く目を眩ませた。


「……いい天気だ」

「本当ですね」

「馬車を使わないのは正解だったね。のんびり歩いた方が気持ちの良い空だ」


 アメリアは頷いて、一歩前へ出た。葉揺亭の境界線を跨いで、もう外に居る。だからマスターとはここでお別れだ。彼は下手に外へ出られない、だから最後まで見送ってくれと無理を言うつもりはなかった。


 アメリアは道の真ん中まで出ると、これで見納めだと葉揺亭を振り仰いだ。崖のふもとの木造の一軒家、いつ見ても、お店になんて見えない。でもここは素敵な喫茶店だ。自分の帰るべき場所、マスターの聖域。


 そのマスターが、アメリアの隣に寄り添って来た。予想外の事にアメリアは口をあんぐりとさせる。もちろん装いはいつもの燕尾とシャツのままで、身を守る手立ては一切していない。燦々と注ぐ直射日光に黒い髪が艶めくが、色白の肌はいささか景色に不調和だった。


「いいんですか、そのまま外に出て」

「いいんだよ。だって、娘の旅立ちを見守らない親がどこにいるんだい? 今まで良く働いてくれた愛弟子の門出を見送らない主人だなんて、最低じゃあないか?」

「だけど……」

「なにかあったら、なんとかするさ。僕を誰だと思っているんだ、あまり見くびってもらったら困る」


 マスターは得意気に眉目を上げた。葉揺亭の主の裏の顔は、世界屈指の魔術師だ。あの手この手で奇跡を起こし、悠久の時を生きていく。今までもそうで、これからもきっとそうなのだ。


 心配するのは無用だ。アメリアは四の五の言うのを止め、素直に甘えることにした。


「それでも、見送りはここで構いません。マスターには、マスターのお仕事がありますから。お店の準備をしないと」

「……ああ、そうだね」


 そして、最後に固い握手をした。その後は抱擁も。小さな体は優しく包み込まれるようで、アメリアはしばらく温もりに身を預けた。


 そして最後に、アメリアは思い切り背伸びをして、ついには少し跳ねるようになりながら、マスターの頬にキスをした。親愛、感謝、そんな思いを込めて。


 思ってもいない贈り物に、マスターは面食らっていた。しかしお返しはしっかりと。若干膝を曲げ、アメリアの額にキスをする。やましい気持ちは一切ない、無償の愛と祝福のしるしとして。


 お互い少し照れくさそうに頬を色めかせ、視線をかわす。一心地ついたところで、二人は同じ方向を見た。


 晴れ渡る空の下、道は長く遠く続いて、終わりは見えない。アメリアは一つ深呼吸をした。そして。


「マスター、行ってきます!」

「ああ。アメリア、いってらっしゃい、良い旅を。体に気を付けてね」

「マスターも、元気で居てくださいね!」


 アメリアは笑顔で手を振って、真っ直ぐ行く先を見て、自分の道を歩き始めた。遠ざかる背中は一度も振り返らない。時々目のあたりに手を伸ばしているが、足取りは頼もしい。迷う事なく歩いていく。


 太陽の光を一心に浴びて、彼女はどこまでも、どこまでも、自分の未来を進んで行くだろう。



 マスターは、アメリアの姿が完全に視界から消えるまで、ずっと背中を見送っていた。初めて会った時の様子が嘘のように、たくましく、頼もしく、明るい後姿だった。なんの不安も無く外の世界へ送り出せた。


 最後に触れた小さなぬくもりを思い出し、自分の手をじっと見つめた。この手とあの手が離れても、心はいつも繋がっている。思い浮かべればいつでも傍らにいる。だから、笑って見送れた。笑いながら、泣いていた。誇らしげに。満足げに。


 そしてしばらく一人で風に当たった後、快晴の空に向かって大きく伸びをした。


「さて、と。僕も自分の仕事を、やらなくちゃあね」


 久々に直接浴びた陽の光に名残惜しさを感じながらも、彼は店の中へと帰ることにした。葉揺亭の主として、客を迎える準備をしなくてはならない。まずは朝餉の後を急いで片付ける必要がある、露骨な生活感を客に見せるわけにはいかない。


 いざ、蔦の葉扉の向こうへ。


 晴れ渡る空の下、一人で燕尾を翻したマスターが進む足取りにも、迷いや未練の類は存在しなかった。


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