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晴れ渡る空の下で(1)

 双月季(そうげつき)第二節、末週金鐘(きんしょう)の日。ノスカリアの上空は厚い雨雲に覆われていた。


「雨、止みませんね」

「……ああ」


 風音と共に雨粒がこつこつと硝子を打つ。その反対側で、アメリアは硝子に額を押し付け、外を食い入るように眺めていた。どれだけ見ていても雲はちっとも流れていかない。朝からずっとこうして雨を見ていて、時計はもう昼過ぎを指している。長い金色の編み髪が、叱られた仔犬の尾のようにしょんぼりと背中に流れている。


 ついに明日が地陸(ちりく)の日、いよいよ出立の日なのである。それなのに、この大雨。


「このまま明日まで降ってたら……どうしましょう」

「お好きなように。雨宿りしていったって構わないさ。いつまでも、ね」


 マスターは手元の紙束から顔を上げ、アメリアに冗談めいた微笑みを投げかけた。アメリアもまた、はにかむ。


 そう、始まりは雨宿りだったのだ。世界に居場所を失くした少女の手を、世界から浮いて暮らす男の手が取ったのは、こんな大雨の最中であった。


 再現するかのように、アメリアは同じ窓から外を見る。


 ――でもあの時より、外は明るく見える。


 窓硝子にうっすらと反射するアメリアの顔はほんのりと笑っていた。外には行きたくない、雨がずっと降っていて欲しい、そう怯えていたあの時とは違う。


「マスター、雨、明日までに止むと思いますか?」

「どうかなあ。だけどさ、僕が作ったあれを被っていけば、雨の中でも平気じゃあないか。北の街道なら足下も悪くない、ミスクまではしっかりした馬車道が整備されている」

「だけど、一人じゃないですもの」

「異能者ギルドの人間なんて、濡れるのなんかそう気にしないだろうけど……ああ、駄目か。アーフェン君は気にしそうだ」


 苦笑まじりのマスターに、アメリアは大きく頷いた。


 最初の目的地である大陸統都ミスクまで、道中の用心棒としてギルドの人間を雇うとは早々に決めたことだった。一体どこへ発注しようか、そう迷っていた折に、凄い勢いで立候補してきたのがアーフェンであった。アメリアとしては、もっと頑強でどんな嵐がきても屈しなさそうな人物を考えていただけに、少し迷った。しかし結局、彼のどこから来るのかわからない熱意に負けて、もう一人付けてもらう事を条件に、彼の所属ギルド「銀の灯燭(シルバライツ)」へと依頼したのだった。

 

 ともあれ同道する仲間が居るわけである。本当に天候さえ回復すれば、何も問題は無い気楽な道のりなのだが。ふうっとアメリアは息を吐いた。


「雨が止まなかったら、延期ですね」

「えっ、いいの?」 

「いいんです、急がなくったって。明日が駄目なら明後日がありますから。雨宿りに期限は無いから、急ぐ理由がないですよ」

「ああ、そうだね」

「それに、雨の日はマスターとゆっくりおしゃべりできるから、それはそれで結構好きですもの」


 天気が悪いと客足はほぼゼロになる。普段は閑古鳥が鳴く事に文句を言っていても、誰にも邪魔されない二人きりの世界が確定なら、その状況を心の底から楽しめる。


 それを聞いたマスターは、自分も同じだと頬を緩めた。ただ、目線は手元に積んだ紙の束に向けられていた。雨の日は中断なしで私的な作業に打ち込める、それもまた事実だ。


 積まれた紙には文章や図がびっしりと書き込まれている。その最後の一枚を見直すと、一番上と下にやや厚みのある色紙を挟んだ。それから錐を手に持ち、分厚い紙束の長辺に二か所の穴をあけた。最後に金糸の混ざった黒い紐を取り出し、穴に通して紙を綴る。


 そうしながらアメリアに問いかける。


「荷造りは完璧に終わったのかい?」

「ええ。着替えも、非常食も、わけてもらったお茶の葉も、全部詰め込みました。言われた通り、ちょっと隙間があるくらいに減らしましたけど、それでも一杯です」


 からからと彼女は笑った。


 荷物は多ければ多いほどいいわけではない、そんなマスターの忠告によって、前回の荷づくりより体積が減っている。


 都市間にも宿場や小さな村が点在しているのだから、大抵の物資は行きずりで調達できる、よって最初に詰めた携行調理道具や野宿に備えた寝具なんかは不要だと指摘された。「そんなものが必要になる秘境を初心者が進むべきじゃない、前提が間違っている」と呆れ顔で説かれ、惜しみながらも鞄から放りだした。残したのは十分な資金と最低限の衣服と非常時の保存食をおよそ三日分、それくらいだ。


 ただ、要不要とは別にどうしても大事な宝物たちは置いていけなかった。思い出は胸の中に、と言っても、しかし形ある物をないがしろにできようか。悩んで取捨選択はした。マスターと撮った写真、レインが縫ってくれたマスターとお揃いの衣装、魔法屋クシネから贈られた不思議なカップ、ヴィクターから託された銀のダガー――小さな物は一つの箱にまとめて入るだけ、大きな物は鞄が難なく取り込める限り、そうやって小さな体で無理なく持ち運べる物を持てるだけ持ったのである。


 ――後に残していく物は、マスターの分の宝物です。


 そんなことを思いながら、アメリアは食器棚の上を見やった。残していく宝物の筆頭、レインが贈ってくれた二人の人形がそこに居る。あれは葉揺亭の守り神のようなもの、これからも自分の代わりにマスターを支えてくれるだろう。


 アメリアの視界の片隅で、マスターがふっと笑いながら手もとの紐を固く結んだ。そうして一つの書物が出来上がった。鳶色の色紙を表にし、題字に「覚書」と。本当はもっと分厚くもっと立派な装丁になる予定だったのだが、いかんせんアメリアの事があって、それどころではなくなってしまった。そう、ちょうどあの処刑宣告が成された朝に書き始めていた物である。間に合わせるだけで精一杯だった。


「さてアメリア。悩んで荷造りした後に悪いけれど、一つ、これも加えてもらえないかな」


 なんだろうと首を傾げたアメリアだったが、しかしマスターの手に掲げられたものを見て、すぐに合点がいった。「完成したら見せてあげる」そう言っていた、直筆の書物である。


「ずっと書いてたの!」

「その通り。今後の君に役立ちそうな知識をまとめたものだ。茶や料理のレシピから、ハーブや薬草の種類、簡単な薬の調合法、それと、ごく弱い魔法材料の扱い方も。君なら知識の悪用はしないだろうしね」

「おおお……!」

「後は、忘れちゃいけない、病気の対処法や怪我の応急処置の仕方。特に包帯の巻き方は、この上なく丁寧に書いたよ。あんなやり方、僕だから『痛い』だけで済んのだぞ」

「あははは……」


 意外と根に持っている。アメリアはそう捉えて、乾いた笑いと共に目を逸らした。


 何はともあれ。おっほん、とマスターは芝居がかった咳払いをして、にわかに厳格めいた顔をつくる。


「葉揺亭の主が贈る、我が秘伝の書である。ありがたく受取りたまえ」

「ははあ、ありがたく頂戴しまあす」


 こみ上がる笑いを殺しながら、アメリアは重々しく頭を垂れて、一子相伝の文書を拝領した。こんな風に馬鹿な冗談を言って笑い合えるのも今日が最後だ、思う存分楽しもう。




 明くる日。雨は夜更けに上がり、太陽の昇った空は混じりっけ一つない青に染まっていた。


 日の出からまださほど経っていない時間に自然と目を覚ましたアメリアは、カーテンを払いのけてまばゆい朝日を浴び、思わず小躍りした。まばたき一つだけで眠気など一切残らず吹き飛んでいた。


 くるくると手を動かして、身繕いを整える。服を着替え、髪をとかし、編んでリボンで留め。


 同時に考える、葉揺亭での最後の食事は何にしようか。


 そう、朝食は大事だ。起き抜けの空っぽのお腹のままだなんて、とても歩く元気が出ない。マスターからもゆっくり朝食をとってから出発できるように目を覚ますよう、しかと言い含められていた。


 心が先に台所へ飛んでいき、想像する。タマゴを茹でて丁寧に潰して、スライスしたオニオンと一緒に炙って柔らかくしたパンではさんで。燻製肉とロケットをさっと煮たスープも用意して。後はマスターに大好きなイチゴのミルクティを作ってもらって。それを全部つやつやのテーブルに並べて。――ああ、これで完璧だ。自分で用意できる限り、最高の朝食だ。


 いざ台所へ、とアメリアは自室の外へ出た。


 その瞬間、食欲中枢を刺激する香りが鼻をついた。例えば、そう、オーブンでパンを焼いた時のような。そこに混じるのは、燻製肉を炙ったような。これから頑張って作ろうと想像していたものたちの香りが、既に辺り一面に漂っている。こんな魔法みたいな朝、今日が初めてだ。


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