第三章 妹は王子妃の仕事が欲しくない
「お姉様! 今すぐ王宮へ来てちょうだい!」
クラリスが妹からの手紙を受け取ったのは、婚約解消から三週間後のことだった。
封筒には香水が染み込ませてあった。しかも、紙の端がところどころ破れている。
どうやら、相当興奮して書いたらしい。
クラリスは手紙を裏返した。
「……マーサ」
「はい」
「これは、何のお誘いかしら」
「……拝見しても?」
マーサは手紙を読み、眉を寄せた。
「お嬢様。これはお誘いではなく、ご命令に近いかと」
「まあ。そうなの?」
クラリスはもう一度、手紙を読んだ。
『お姉様が今までしていた仕事が、全部私のところへ来たの! こんなの聞いていないわ! お姉様が説明してくださらないから、アルフレッド殿下まで怒っているのよ! すぐに来て!』
「……説明なら、したのだけれど」
クラリスは首を傾げた。
十二箱の引き継ぎ書類。
項目ごとに整理した業務一覧。
各担当者の名前まで記載した、詳細な手順書。
できる限り親切に準備したつもりだった。
「もしかして、読んでいないのかしら」
マーサは沈黙した。
「……読んでいないのでしょうねえ」
クラリスはため息をついた。
そして、手紙を机に置いた。
「では、返事を書きましょう」
『すべての業務について、引き継ぎ書類を王宮へ提出しております。まずはそちらをご確認くださいませ』
短く書いて、封をした。
「これでよし」
「……お嬢様」
「何?」
「王宮へは行かれないので?」
「ええ」
「よろしいのですか?」
「わたくし、今日は忙しいのよ」
クラリスは読みかけの本を持ち上げた。
「この物語、とうとう犯人がわかりそうなの」
マーサは深いため息をついた。
しかし、以前のように仕事を引き受けてしまうよりは、ずっとよいことなのかもしれない。
◇
エステルは姉からの返事を読んで、怒り狂った。
「何よ、これ!」
手紙を机に叩きつける。
隣ではアルフレッドが頭を抱えていた。
「クラリスは何と言っている?」
「書類を読めですって!」
「……書類?」
「そうよ! 私が困っているのに、助けに来ようともしないの!」
アルフレッドは顔をしかめた。
「まったく、あの女は……」
彼もまた、困っていた。
王宮の業務が、想像以上に複雑だったからだ。
慈善舞踏会は延期。
施療院への寄付金は配分先が決まらず、支払いが遅れている。
商業組合からは、契約条件の再確認を求める書状が山のように届いていた。
これまでは、クラリスが処理してくれていた。
いや、正確には。
自分が何も知らないうちに、すべて終わっていたのだ。
「……エステル」
「何?」
「君は、王子妃になるための教育を受けているのだろう?」
「もちろんよ」
「ならば、こうした業務も少しは理解できるのではないか?」
エステルは目を見開いた。
「……私に仕事をしろって言うの?」
「仕事というか、その……」
「ひどい!」
エステルの目に涙が浮かんだ。
「アルフレッド様は、私を愛しているっておっしゃったじゃない!」
「もちろん愛している!」
「だったら、どうしてそんな難しいことをさせるの!」
アルフレッドは言葉に詰まった。
彼にとって、エステルは可憐で愛らしい少女だった。
明るく、素直で、いつも自分を褒めてくれる。
クラリスとは違う。
そう思っていた。
しかし、クラリスは少なくとも、仕事を頼めば完璧に仕上げてくれた。
エステルは、書類を見るだけで泣き出す。
「……少しは努力してくれないか」
アルフレッドが小さく呟いた。
その瞬間。
エステルの顔が変わった。
「……お姉様なら、できたって言いたいの?」
「……いや」
「そうなのね!」
「違う!」
「やっぱり、お姉様の方がよかったんだわ!」
エステルは泣きながら部屋を飛び出した。
アルフレッドは椅子に座り込んだ。
そして、机の上に積み上がった書類を見た。
その一番上には、クラリスの筆跡で書かれた引き継ぎ書があった。
『施療院への支払いは毎月十五日までに完了すること。遅延した場合、薬剤の仕入れに支障が出る恐れあり』
アルフレッドは顔をしかめた。
なぜ、こんなに細かなことまで気にしなければならないのだろう。
自分は王子なのに。
もっと重要な仕事があるはずなのに。
彼は書類を閉じた。
◇
一方、クラリスは王立図書館の禁書閲覧室にいた。
約束どおり、レオナールが閲覧許可を取りつけてくれたのである。
古い羊皮紙の匂い。
天井まで続く書架。
窓から差し込む柔らかな光。
クラリスは夢見心地だった。
「……素晴らしい」
思わず呟く。
隣でレオナールが笑った。
「気に入った?」
「ええ。ここに住みたいくらいです」
「住むのは難しいな」
「では、週に三日ほど通いたいです」
「手配しよう」
あまりにも簡単に答えられて、クラリスは顔を上げた。
「……本当によろしいのですか?」
「君が嬉しそうだからね」
「……」
「それに、君の研究にも役立つだろう?」
クラリスは少し警戒した。
レオナールは、何でも見透かしているような顔をしている。
「……殿下」
「何かな?」
「わたくしを懐柔するおつもりですか?」
「もちろん」
即答だった。
クラリスは絶句した。
「……もう少し隠してくださいませ」
「どうして?」
「その方が、こちらも警戒せずに済みます」
「では、隠した方がいいのかな」
「……そうです」
「残念だ。君には、できるだけ正直でいたいんだけれど」
クラリスは困った。
この人は本当に、どこまで本気なのだろう。
レオナールは笑った。
「ところで、君に確認したいことがある」
「……はい」
「先日提出してくれた慈善事業の改革案についてだ」
クラリスは表情を改めた。
改革案は、王族個人の裁量に頼っていた事業を、独立した管理組織へ移すというものだった。
寄付金の用途を明確にし、毎年監査を行う。
さらに、責任者が変わっても事業が継続できるよう、手続きを標準化する。
「実現可能だと思う」
レオナールは言った。
「ただ、一つ問題がある」
「何でしょう?」
「現場の担当者を、誰が育成するかだ」
クラリスは頷いた。
それは、彼女も気になっていたことだった。
「……候補者はおります」
「誰かな?」
「現在、王宮の慈善事業を担当している書記官たちです」
クラリスは説明した。
彼らはすでに業務内容を理解している。
ただし、これまでは最終判断を王族や婚約者に委ねていた。
それを少しずつ、自分たちで決定できるようにすればよい。
「……なるほど」
レオナールは感心したように頷いた。
「君は、人の能力をよく見ているね」
「人間観察が趣味ですので」
言ってから、クラリスは固まった。
しまった。
つい、正直に答えてしまった。
レオナールは嬉しそうに笑った。
「知っている」
「……」
「だから、君に頼みたいんだ」
クラリスはため息をついた。
「……何をでしょう?」
「人材の選定と、最初の三ヶ月の指導を」
「……」
「もちろん、正式な報酬を用意する」
「……」
「その後は、君がいなくても運営できるようにする」
クラリスは考えた。
三ヶ月。
それなら、悪くない。
何より、自分が考えた仕組みが実際に動くところを見てみたい。
「……条件がございます」
「聞こう」
「週に二日は、必ず休ませてください」
「もちろん」
「仕事を自宅へ持ち帰ることはいたしません」
「ああ」
「それから、会議はできるだけ短くしてくださいませ」
レオナールは笑った。
「私も長い会議は嫌いだ」
クラリスは頷いた。
「では、お引き受けいたします」
「ありがとう」
レオナールは満足そうに微笑んだ。
そして、ふと思い出したように言った。
「そうだ。もう一つ、お願いしてもいいかな」
「……何でしょう?」
「今度の休日、私と出かけてほしい」
クラリスは目を瞬かせた。
「……視察ですか?」
「いや」
「……会議?」
「違う」
「……では?」
レオナールは少しだけ困ったように笑った。
「普通の外出だよ」
「……普通?」
「そう。二人で街を歩いて、食事をして、君の好きな本屋へ行く」
クラリスは黙った。
それは。
もしかして。
「……逢瀬、でしょうか?」
「そう受け取ってもらえると嬉しい」
クラリスの顔が熱くなった。
レオナールは、そんな彼女をじっと見つめた。
「……君は、そういう顔をするんだね」
「……殿下」
「何?」
「観察しないでくださいませ」
レオナールは笑った。
「難しいお願いだな」
◇
その頃、王宮ではさらに大きな問題が起きていた。
施療院への支払いが遅れたことで、薬剤の仕入れが止まりかけていたのである。
王宮の書記官たちは、何度もアルフレッドへ決裁を求めた。
しかし、彼は忙しいと言って後回しにしていた。
エステルとの喧嘩。
舞踏会の延期。
貴族たちからの問い合わせ。
そのすべてが、彼の機嫌を悪くしていた。
「……こんな仕事、クラリスにやらせればいいだろう!」
とうとう、アルフレッドは怒鳴った。
書記官が青ざめた。
「ですが、クラリス様はすでに……」
「元婚約者だろうが、王家のために働く義務はある!」
「……ございません」
静かな声がした。
振り返ると、レオナールが立っていた。
「兄上……!」
「アルフレッド。少し話をしよう」
王太子の表情は穏やかだった。
しかし、その目は笑っていなかった。
「君は、クラリスがどれほどの仕事をしていたか理解しているかい?」
「……もちろんです」
「ならば、なぜ引き継ぎを確認しない?」
「……」
「なぜ、決裁を後回しにする?」
「……それは」
「君の判断が遅れたことで、施療院の薬剤が不足しかけている」
アルフレッドは顔をしかめた。
「ですが、兄上! 私にはほかにも重要な仕事が……」
「何かな?」
「……」
「具体的に、何をしていた?」
アルフレッドは答えられなかった。
レオナールは深いため息をついた。
「……君は、王子であることを何だと思っている?」
アルフレッドは顔を上げた。
「……何ですって?」
「王子とは、褒められるために存在するものではない」
レオナールは静かに言った。
「国民の生活を守るために働く立場だ」
その言葉に、アルフレッドは何も言えなくなった。
◇
翌日。
クラリスのもとに、エステルがやってきた。
事前の約束もなく、突然の訪問だった。
「お姉様!」
扉が開くなり、妹は叫んだ。
「どうして助けてくださらないの!」
クラリスは本を閉じた。
「……何のお話?」
「王宮のお仕事よ!」
「まあ」
「お姉様が今までしていたことじゃない!」
「そうね」
「だったら、今までどおりやってくださればいいでしょう!」
クラリスは妹を見た。
エステルは泣きそうな顔をしていた。
しかし、その涙にはまだ少し余裕がある。
いつものように、泣けば誰かが助けてくれると思っている顔だ。
「……エステル」
「何よ!」
「あなたは、アルフレッド殿下が欲しかったのよね?」
「そうよ!」
「殿下の婚約者になりたかったのよね?」
「ええ!」
「では、王子妃になるためのお仕事も、あなたのものよ」
エステルは目を見開いた。
「……そんな!」
「どうして?」
「だって、私は殿下と結婚したかっただけだもの!」
クラリスは少し考えた。
そして、静かに尋ねた。
「……あなた、結婚したら何をするつもりだったの?」
エステルは答えられなかった。
「綺麗なドレスを着て、お茶会に出て、皆様に褒められるだけだと思っていた?」
「……」
「残念だけれど、王子妃にはお仕事があるのよ」
「……そんなの、知らないわ!」
クラリスは頷いた。
「そうでしょうね」
妹は昔から、欲しいものの表面しか見ていない。
美しいドレスが欲しい。
けれど、手入れはしたくない。
可愛い犬が欲しい。
けれど、世話はしたくない。
立派な王子が欲しい。
けれど、王子妃の仕事はしたくない。
何も変わっていない。
クラリスは少し悲しくなった。
十八歳になっても、妹はまだ七歳のままだった。
「……お姉様」
エステルは涙をこぼした。
「お願い。助けて」
クラリスはしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……嫌よ」
エステルは固まった。
「……え?」
「もう、あなたの代わりに何かをするつもりはないわ」
「……どうして?」
「わたくし、疲れたの」
クラリスは微笑んだ。
「今まで、ずいぶん譲ってきたでしょう?」
「……」
「これからは、わたくしの時間をわたくしのために使いたいのよ」
エステルの顔が歪んだ。
「……お姉様の意地悪!」
「そうね」
「昔はもっと優しかったのに!」
クラリスは少し考えた。
そして、初めて本音を言った。
「……エステル」
「何よ!」
「わたくし、昔からそれほど優しくなかったわよ」
妹は呆然とした。
クラリスは穏やかに続けた。
「あなたが欲しがるものを譲っていたのは、争うのが面倒だったから」
「……」
「それに、あなたが何を欲しがるのか、少し面白かったの」
エステルの顔から血の気が引いた。
「……面白い?」
「ええ」
クラリスは微笑んだ。
「でも、もう飽きてしまったわ」
妹は何も言えなかった。
クラリスは本を開いた。
「……お話はそれだけ?」
エステルはしばらく立ち尽くしていた。
やがて、何も言わずに部屋を飛び出していった。
クラリスはその背中を見送った。
そして、長いため息をついた。
「……少し、言いすぎたかしら」
マーサが静かに答えた。
「いいえ。いつかは、お伝えになる必要があったかと」
「……そう」
クラリスは本に目を落とした。
しかし、文字が頭に入ってこなかった。
初めて妹を泣かせた。
今までは、泣かせないように何でも譲ってきた。
それが優しさではなかったとしても。
妹が泣いている姿を見るのは、やはり気持ちのよいものではない。
「……マーサ」
「はい」
「わたくし、少しだけ悪い姉だったのかもしれないわ」
マーサは何も言わなかった。
ただ、静かに紅茶を注ぎ直した。
クラリスはカップを手に取った。
そして、窓の外を見た。
妹は、もう子供ではない。
自分も、いつまでも姉として妹の面倒を見続けるわけにはいかない。
たとえ嫌われても。
今度こそ、自分の人生を選ばなければならない。
クラリスは、そう思った。




