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『婚約者を奪った妹へ。次は何を差し上げましょうか?』 ~何でも譲る姉が、初めて妹に譲らなかったもの~  作者: みやこ


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第二章 優しい姉が何もしなくなった結果





 婚約解消から七日目。


 クラリスは、人生で初めて昼過ぎまで眠った。


 正確には、午前十一時四十二分である。


 寝台の横に置いた時計を確認して、彼女は感動した。


「……素晴らしいわ」


 天蓋の向こうでは、柔らかな日差しが揺れている。


 誰も起こしに来ない。


 礼儀作法の教師も、王宮の使者も、朝食会への招待状もない。


 これほど幸福な朝が、世の中に存在したとは。


「マーサ」


「お目覚めでございますか」


「ええ。朝食をお願い」


「もう昼食のお時間でございます」


「では、朝食と昼食を一緒にいただくわ」


「……お嬢様」


 マーサは呆れた顔をした。


「そろそろ、ご生活をお改めになっては?」


「どうして?」


「この一週間、読書とお昼寝しかなさっておりません」


「お散歩もしたわ」


「庭を一周なさっただけです」


「二周よ」


「……大差ございません」


 クラリスは寝台で伸びをした。


 婚約を解消した翌日、彼女はこれまで担当していた仕事の一覧と引き継ぎ書類を王宮に提出した。


 慈善事業の管理については、寄付金の入出金記録、施療院との契約、食料配給の計画表を整理した。


 商業組合との折衝については、各組合の代表者、過去の取引条件、未解決の問題をまとめた。


 王宮行事の調整についても、翌年までの予定を提出した。


 必要な書類は、全部で十二箱になった。


 それを運び込んだとき、王宮の書記官が涙目になっていたのを覚えている。


『……こんなに?』


『ええ。よろしくお願いいたします』


『……これを、これから誰が?』


『アルフレッド殿下とエステルが、お引き受けになるそうですわ』


 書記官は黙り込んだ。


 しかし、クラリスは心配していなかった。


 アルフレッドは立派な王子だし、エステルは人前で話すことが得意だ。


 二人で協力すれば、きっと何とかなるだろう。


 もっとも、クラリスには一つだけ気になることがあった。


 あの二人は、どちらも他人の話を最後まで聞かない。


 そのため、仕事の引き継ぎは少々難しいかもしれない。


「……まあ、わたくしの知ったことではないわね」


 クラリスは呟いた。


 そして、朝食兼昼食を食べに向かった。


 ◇


 その頃、王宮では小さな騒動が起きていた。


「これは何だ!」


 アルフレッド第二王子が、机に書類を叩きつけた。


 目の前に立つ書記官は、今にも泣きそうな顔をしている。


「来月の慈善舞踏会に関するご決裁でございます」


「そんなもの、適当に進めればいいだろう!」


「ですが、今年は三つの施療院から追加支援の要請がございまして……」


「だから何だ!」


「予算配分について、殿下のご判断が必要なのです」


 アルフレッドは舌打ちした。


 これまで慈善舞踏会の準備など、ほとんど気にしたことがなかった。


 クラリスが予定を整え、出席者を調整し、必要な書類を用意してくれていたからだ。


 自分は当日、立派な服を着て挨拶すればよかった。


 ところが、今年は違う。


 誰に招待状を送るか。


 何人の料理人を雇うか。


 寄付金をどの施設へ分配するか。


 すべてを決めなければならない。


「エステル!」


 アルフレッドは婚約者を呼んだ。


 エステルは嬉しそうに駆け寄ってきた。


「殿下! 私、今日のドレスはいかが?」


「綺麗だとも」


「本当? お姉様が以前着ていらしたものより、ずっと華やかにしてもらったの!」


「ああ、よく似合っている」


 アルフレッドは適当に頷いた。


「それより、舞踏会の準備を頼みたい」


「舞踏会?」


「君は社交が得意だろう。招待客の選定を任せたい」


 エステルの顔が輝いた。


「まあ! 私が主催してもよろしいの?」


「もちろんだ」


「嬉しい!」


 アルフレッドは安堵した。


 やはり、エステルはクラリスより素晴らしい。


 あの女は何を頼んでも、まず予算や日程を確認したがった。


 エステルは違う。


 何でも笑顔で引き受けてくれる。


 ところが三日後。


 舞踏会の招待客名簿を確認した書記官は、顔を青ざめさせた。


「……エステル様」


「何?」


「こちらの名簿ですが」


「素敵でしょう?」


「……昨年、王家から招待を控えるよう通達されたご令嬢のお名前がございます」


「だって、私のお友達ですもの」


「それから、隣国の大使ご夫妻のお名前がございません」


「知らない方ですもの」


 書記官は言葉を失った。


「ですが、外交上たいへん重要な……」


「難しいことは嫌いなの」


 エステルは笑った。


「私は楽しい舞踏会が開きたいだけよ!」


 書記官は天井を仰いだ。


 ◇


 クラリスが最初の異変を知ったのは、マーサからだった。


「お嬢様。王宮で大変なことになっているそうです」


「そう」


 クラリスは本を読みながら答えた。


「第二王子殿下主催の慈善舞踏会が、延期になりました」


「まあ」


「招待客の選定に問題があり、隣国の大使館から正式な問い合わせがあったそうです」


「そうなの」


 クラリスはページをめくった。


 マーサは少し待った。


「……お嬢様」


「何?」


「驚かれないのですか?」


「招待名簿をエステルに任せたのでしょう?」


「……はい」


「なら、起こりそうなことだわ」


 クラリスは本を閉じ、引き出しから手帳を取り出した。


 そして、何かを書き込んだ。


「……また観察記録ですか?」


「ええ」


「今度は何を?」


「エステルが最初に失敗するまでの日数よ」


 クラリスは微笑んだ。


「予想では五日だったの。実際は三日。少し早かったわね」


 マーサは額を押さえた。


「本当に、悪趣味でございます」


「そうかしら」


「そうでございます」


 クラリスは少し考えた。


「……では、もうやめようかしら」


 マーサは驚いた。


「本当ですか?」


「ええ。最近、あの子の行動が少し退屈になってきたの」


 妹は何かを欲しがる。


 手に入れる。


 飽きる。


 また欲しがる。


 その繰り返しだ。


 以前は面白かったが、最近では次の行動が簡単に予測できる。


 しかも、今回の相手は人間である。


 クラリスは妹の観察を続けるつもりだったが、以前ほど楽しめなくなっていた。


「……人間は、もう少し複雑な方が面白いわ」


 そう呟いたときだった。


「それは耳が痛いな」


 窓の外から、聞き覚えのある声がした。


 クラリスは振り返った。


 庭園へ続く開いた窓の向こうに、黒髪の青年が立っていた。


「……レオナール殿下?」


「こんにちは、クラリス」


 王太子は穏やかに微笑んだ。


「君のお父上に許可をいただいて、訪ねてきた」


「……窓から?」


「玄関から入ったよ。君が庭園にいると聞いたのでね」


「……ここは二階ですが」


「階段を上がった先の回廊だ。窓から見える位置にいるだけだよ」


 クラリスは黙った。


 少し考えればわかることだった。


 しかし、驚きすぎて頭が回らなかったのである。


 レオナールは楽しそうに笑った。


「君にも、そういう顔ができるんだね」


「……殿下」


「何かな?」


「わたくしの観察日記について、どこでお知りになったのですか?」


 クラリスは単刀直入に尋ねた。


 レオナールは少し考えた。


「君が十二歳の頃かな」


「……はい?」


「王宮の庭で、妹君が君の髪飾りを欲しがったことがあっただろう?」


 クラリスは記憶を探った。


 確かに、そんなことがあった。


「君は笑顔で譲った。そのあと、誰もいないと思ったのか、手帳を開いて何かを書いていた」


「……」


「私は偶然、近くにいたんだ」


 クラリスは青ざめた。


「……中身をご覧になったのですか?」


「いや。表紙だけだよ」


「……」


「ただ、あのときの君の顔が忘れられなくてね」


 レオナールは微笑んだ。


「まるで、珍しい昆虫を見つけた学者のような顔だった」


 クラリスは両手で顔を覆いたくなった。


 十二歳の頃から。


 六年間も。


 この人は、自分の本性を知っていたというのか。


「……殿下」


「うん?」


「どうか、忘れてくださいませ」


「難しいな」


「……なぜです?」


「面白いから」


 即答だった。


 クラリスは言葉を失った。


 自分が妹について思っていたことを、そっくりそのまま返された気がした。


「それに」


 レオナールは少し声を落とした。


「君が誰にも見せない顔を、私は気に入っている」


 クラリスの胸が跳ねた。


 これは、いったいどういう意味だろう。


「……からかっていらっしゃるのですか?」


「少しはね」


 彼は悪びれずに笑った。


「だが、本心でもある」


 クラリスは困った。


 この人は、表情が読めない。


 穏やかに笑っているのに、何を考えているのかわからない。


 自分がいつも人にしていることを、逆にされているような気分だった。


「……本日は、何のご用件でしょう?」


 クラリスは話題を変えた。


 レオナールは頷いた。


「君にお願いがある」


「……お仕事でしょうか」


「そうだ」


「お断りします」


 クラリスは即答した。


 王太子は目を瞬かせた。


 そして、声を上げて笑った。


「まだ内容も聞いていないだろう?」


「お仕事は、もう十分でございます」


「そうか」


「はい」


「では、仕事ではなく、相談ということにしよう」


「……同じでは?」


「報酬は出すよ」


「……」


「君の好きな王立図書館の禁書閲覧室も、特別に利用できるよう手配しよう」


 クラリスは顔を上げた。


 禁書閲覧室。


 そこには、一般の貴族には閲覧が許されない古い歴史書や、異国の研究記録が保管されている。


 クラリスは以前から、一度でいいから入ってみたいと思っていた。


「……ずるいですわ」


「そうかな?」


「わたくしの弱点をご存じなのですね」


「少しは」


 レオナールは微笑んだ。


「君のことは、六年間見てきたから」


 クラリスは黙った。


 それから、長いため息をついた。


「……お話だけは、伺います」


「ありがとう」


 レオナールは満足そうに頷いた。


「実は、君が管理していた慈善事業について、少し問題が起きている」


「存じております」


「そうだろうね」


「ですが、わたくしはもう関係者ではございません」


「もちろんだ」


 レオナールは真剣な顔になった。


「だからこそ、君に聞きたい。あの事業を、アルフレッド抜きで継続する方法はあるだろうか」


 クラリスは目を瞬かせた。


「……殿下抜きで?」


「ああ」


「王家の事業ですのに?」


「王家の事業だからこそ、責任者の能力に左右されない仕組みが必要だと思っている」


 クラリスは少し考えた。


 それは、以前から彼女が気になっていた問題でもあった。


 慈善事業は、王族の善意だけで成り立っているわけではない。


 寄付をする商人がいる。


 食料を運ぶ者がいる。


 施療院で働く医師や看護人がいる。


 何百人もの人間が関わっている。


 責任者が変わっただけで機能しなくなるのなら、それは仕組みそのものに問題がある。


「……一つ、方法がございます」


 クラリスは呟いた。


「聞かせてほしい」


「ですが、殿下」


「何かな?」


「わたくしは、働きたくありません」


 レオナールは笑った。


「わかっている」


「本当ですか?」


「ああ」


 彼は穏やかに答えた。


「君が働かなくても済む仕組みを、一緒に考えよう」


 クラリスは思わず顔を上げた。


 それは。


 なんて魅力的な提案なのだろう。


 レオナールは彼女の反応を見て、満足そうに笑った。


 どうやら、すっかり興味を引かれてしまったらしい。


 クラリスは悔しかった。


 今まで人の欲望を観察して楽しんできたのに。


 自分の欲望が、こんなにも簡単に見抜かれてしまうなんて。


 ◇


 その日の夕方。


 クラリスは久しぶりに机へ向かっていた。


 王宮の慈善事業を、特定の王族に依存せず運営するための仕組みを考えていたのである。


 寄付金の管理は独立した会計部門へ移す。


 施療院との契約は三年ごとに更新する。


 事業責任者が交代しても、運営が止まらないようにする。


 書き始めると、次々に考えが浮かんできた。


「……お嬢様」


 マーサが声をかけた。


「もう夕食のお時間でございます」


「あと少しよ」


「……先ほども、そうおっしゃいました」


「そうだったかしら」


 クラリスは筆を動かし続けた。


 マーサは小さく笑った。


「……楽しそうでございますね」


 クラリスは手を止めた。


 確かに。


 不思議なことに、嫌ではなかった。


 以前はあれほど面倒だった仕事が、今は少し楽しい。


 なぜだろう。


 彼女は考えた。


 そして、気づいた。


 今回は、自分で選んだ仕事だからだ。


 誰かに押しつけられたわけではない。


 誰かの手柄にする必要もない。


 自分の考えが、そのまま形になる。


「……なるほど」


 クラリスは小さく笑った。


 どうやら、自分は仕事そのものが嫌いなのではなかったらしい。


 嫌いだったのは、自分の意思を無視されることだったのだ。


 彼女は手帳を開いた。


 エステルの観察記録の最後のページに、一行を書き加える。


『本日、新たな観察対象を発見』


 少し考えて、続けた。


『対象、王太子レオナール。極めて危険。こちらの行動を予測する能力あり』


 さらに一行。


『接近には十分注意すること』


 クラリスは満足して手帳を閉じた。


 その直後。


 窓辺に一羽の伝書鳥が舞い降りた。


 脚に結ばれた手紙には、見覚えのある筆跡があった。


『明日も会えるだろうか。君の新しい研究対象より』


 クラリスは手紙を見つめた。


 しばらくして。


「……どうして、わかるのかしら!」


 彼女は生まれて初めて、机に突っ伏した。


 その姿を見て、マーサは声を殺して笑った。


 どうやら、お嬢様にもようやく天敵が現れたらしい。

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