第一章 妹はわたくしのものが欲しい
「お姉様。お姉様の婚約者、私にちょうだい」
双子の妹がそう言ったとき、クラリス・フォン・エルデンブルクは、読んでいた本から顔を上げた。
「……婚約者?」
「ええ。アルフレッド殿下よ」
「まあ」
クラリスは栞を挟み、本を閉じた。
午後三時。窓の外では庭師が薔薇の剪定をしている。紅茶はまだ温かい。読みかけの本は残り三十七ページ。非常に良いところだった。
そんな平和な午後に、妹は突然、人間を欲しがり始めたのである。
「エステル。念のため確認しますけれど、アルフレッド殿下は王国の第二王子で、わたくしの婚約者でいらっしゃる、あのアルフレッド殿下ですわよね?」
「ほかに誰がいるのよ」
「そうよねえ」
クラリスは頷いた。
双子の妹エステルは、姉と同じ金髪に、同じ青い瞳を持つ美しい少女だった。
ただし、表情はまるで違う。
クラリスが眠たげな目をした穏やかな令嬢であるのに対し、エステルは常に何かを欲しがる子供のような、きらきらとした瞳をしていた。
「ねえ、お姉様。いいでしょう?」
「そうねえ」
「お姉様はいつも私に譲ってくれるじゃない」
「ええ」
「だから、今度もお願い!」
クラリスは妹を眺めた。
なるほど。
これは興味深い。
ついに婚約者まで欲しがるようになったか。
クラリスはテーブルの引き出しから、小さな手帳を取り出した。
「……何を書いているの?」
「ちょっとした記録よ」
「また?」
「ええ。気にしないで」
手帳の表紙には『エステル観察記録・第十一巻』と書かれていた。
第一巻をつけ始めたのは、七歳の頃である。
その日、エステルは姉が大切にしていた青いリボンを欲しがった。
クラリスが譲ると、妹は大喜びした。
ところが三日後、そのリボンは床に放り出されていた。
次に欲しがったのは、母がクラリスに贈った人形だった。
これも二日で飽きた。
さらに、姉の誕生日に贈られた小さな白馬。こちらは五日だった。
クラリスは不思議に思った。
どうやら妹は、品物そのものが欲しいわけではないらしい。
姉が持っているものを、自分のものにすることが楽しいのだ。
試しに、クラリスは一つ実験をしてみた。
庭で拾った、何の変哲もない丸い石を大切そうに磨いてみたのである。
エステルは翌日、その石を欲しがった。
クラリスは感動した。
この子、本当に何でもいいのだ。
以来、妹の行動を観察することは、クラリスの密かな趣味になった。
欲しがるまでの日数。手に入れたときの喜び方。飽きるまでの期間。
それらを記録し、時にはわざと興味を引く品物を用意した。
もちろん、両親は知らない。
父も母も、クラリスを「妹思いの優しい娘」だと信じている。
侍女たちも、おおむねそう思っている。
ただ一人、専属侍女のマーサだけは違った。
「お嬢様、また悪趣味なことをなさって……」
と、しばしば呆れられる。
しかし、クラリスは悪いことをしているつもりはなかった。
欲しがるものを譲っているだけだ。
妹は喜ぶ。両親も喜ぶ。自分は面白い。
誰も損をしていないではないか。
もっとも、妹が飽きた品物を使用人に押しつけたり、壊したりするようになってからは、さすがに注意するようになった。
人間観察は好きだが、他人に迷惑をかけることまで放置する趣味はない。
「お姉様!」
エステルの声で、クラリスは我に返った。
「聞いているの?」
「もちろんよ。アルフレッド殿下が欲しいのね」
「そう!」
「では、殿下ご本人は何とおっしゃっているの?」
エステルは満面の笑みを浮かべた。
「私を愛しているって!」
「まあ」
これは予想外だった。
クラリスは思わず手帳を開き直した。
「……お姉様?」
「ごめんなさい。続けて」
「殿下はね、お姉様との婚約は義務でしかなかったっておっしゃったわ。私といるときだけ、本当の自分になれるんですって!」
「そう」
「それで、婚約を解消してほしいの!」
クラリスは妹の顔をじっと見た。
興奮して頬が赤い。手は落ち着きなく動いている。いつもの宝石やドレスのときより、明らかに熱量が高い。
これは何日もつだろう。
十日?
一ヶ月?
それとも、さすがに人間ならもう少し長いだろうか。
「……楽しみね」
「え?」
「いいえ、こちらの話」
クラリスは微笑んだ。
「ただし、婚約はわたくし一人で決められるものではないわ。王家と公爵家の正式な契約ですもの」
「そんなの、お姉様がいいって言えば済むでしょう?」
「そうはいかないのよ」
「お姉様は意地悪だわ!」
エステルは唇を尖らせた。
クラリスは首を傾げた。
「意地悪?」
「だって、私が欲しいって言っているのに!」
「そうねえ」
妹は本当に、七歳の頃から変わっていない。
クラリスは少し感心した。
ここまで成長しないのも、一種の才能ではないだろうか。
「ともかく、殿下とお父様にお話ししてみましょう」
「本当!?」
「ええ。正式な手続きを踏めば、わたくしに異存はないわ」
エステルは歓声を上げた。
「お姉様、大好き!」
妹はクラリスに抱きつき、嬉しそうに部屋を飛び出していった。
その背中を見送ってから、クラリスは手帳に書き込んだ。
『十八歳七ヶ月。対象、第二王子アルフレッド。過去最高額の要求。本人の同意あり。持続期間は不明』
さらに一行。
『物品から人物への移行を確認。観察には慎重を要する』
「……お嬢様」
背後で声がした。
マーサだった。
「はい?」
「今度ばかりは、少々度が過ぎるのではありませんか?」
「そうねえ」
「お嬢様の婚約者でいらっしゃいますよ」
「ええ」
「悲しくはございませんか?」
クラリスはしばらく考えた。
アルフレッド王子とは、十二歳のときに婚約した。
穏やかな顔立ちの、少々気位の高い青年である。
クラリスは、彼を嫌ってはいなかった。
ただし、特別に好きだったかと尋ねられれば、答えに困る。
婚約が決まって以来、王子妃教育を受け、王宮の公務を手伝い、彼が失敗するたびに後始末をしてきた。
アルフレッドは人前では堂々としているが、細かな仕事が苦手だった。
それに、褒められることが大好きで、叱られることが嫌いだった。
クラリスは、そうした彼の性格をよく理解していた。
だから、彼が喜ぶように仕事を整え、成果を譲り、面倒なことを引き受けてきた。
婚約者として、そうするべきだと教えられていたからだ。
「……マーサ」
「はい」
「わたくし、これでようやく朝寝坊ができるのかしら」
侍女は目を瞬かせた。
「……はい?」
「王子妃教育がなくなれば、朝六時に起きなくてもよいでしょう?」
「それは、そうですが……」
「王宮の慈善事業も、殿下の公務の補佐も、全部しなくてよいのよね?」
「……おそらく」
「まあ!」
クラリスは嬉しくなった。
「では、これからは毎日、好きなだけ本が読めるのね!」
マーサは額を押さえた。
「お嬢様……」
「何?」
「少しは失恋した令嬢らしく、悲しんでくださいませ」
「……努力するわ」
クラリスはそう答えた。
しかし、窓辺の長椅子に寝転がった途端、思わず笑みがこぼれてしまった。
婚約が解消されれば、六年間の義務から解放される。
しかも、妹の観察は続けられる。
悪くない。
実に悪くない話である。
だが、クラリスはまだ知らなかった。
妹の欲望よりも、もっと厄介な人物が、ずっと前から自分を観察していたことを。
◇
三日後。
王宮の白薔薇の間で、アルフレッド第二王子は婚約破棄を宣言した。
「クラリス。私はエステルを愛している。君との婚約を解消したい」
王妃、宰相、公爵夫妻、そして関係する貴族たちが居並ぶ前でのことだった。
クラリスは丁寧に一礼した。
「承知いたしました」
アルフレッドは拍子抜けした顔になった。
「……それだけか?」
「ほかに何かございますか?」
「君は、私を引き留めないのか?」
クラリスは少し考えた。
「お引き留めした方がよろしいのでしょうか?」
「いや、そうではない!」
王子は顔を赤くした。
「ただ、六年間も婚約していたのだぞ! 少しは未練というものが……」
「殿下」
クラリスは穏やかに遮った。
「わたくしが引き留めれば、エステルが悲しみますわ」
その言葉に、妹は感激したように胸を押さえた。
「お姉様……!」
クラリスは微笑んだ。
それに、正直なところ、今さら引き留めても面倒なだけである。
「では、婚約解消に伴い、わたくしの担当しておりました公務はすべて返上いたします」
「……何?」
「王子妃教育も終了させていただきます。慈善事業の管理、各商業組合との折衝、王宮行事の調整なども、今後は殿下のお手元へお返しいたしますわ」
アルフレッドは眉をひそめた。
「そんなことまで、今ここで決める必要があるのか?」
「もちろんでございます」
クラリスは持参した書類を差し出した。
「婚約者としてお引き受けしていた仕事ですもの。婚約が解消される以上、正式に引き継がなくてはなりません」
宰相が書類を受け取り、目を通した。
その表情が徐々に険しくなる。
「……クラリス嬢」
「はい」
「これは、すべてあなたが担当していた業務なのですか?」
「ええ。六年間、少しずつ増えてしまいまして」
宰相はもう一度、書類を見た。
そして、静かに尋ねた。
「……殿下は、こちらの業務内容をご存じでしたか?」
アルフレッドは鼻で笑った。
「当然だ。クラリスが手伝っていただけだろう」
「……そうですか」
宰相は何とも言えない顔になった。
クラリスは胸の内で首を傾げた。
どうしたのだろう。
それほど難しい話ではないはずなのに。
「いずれにせよ、私にはエステルがいる」
アルフレッドは誇らしげに言った。
「彼女はクラリスよりも明るく、社交的で、魅力的な女性だ。王子妃としても申し分ない」
エステルは嬉しそうに頬を染めた。
「殿下……!」
クラリスは二人を見比べた。
確かに、お似合いかもしれない。
二人とも、人に褒められることが大好きなのだから。
「では、わたくしはこれで」
クラリスは立ち上がった。
そのとき。
「待ちなさい、クラリス」
落ち着いた男性の声が響いた。
部屋の奥から、一人の青年が歩み出てきた。
黒髪に灰色の瞳。
整った顔立ちには、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
王太子レオナール。
アルフレッドの兄であり、次期国王となる人物だった。
「殿下」
クラリスは礼を取った。
レオナールは微笑んだ。
「婚約解消について、少し確認したいことがある」
「何でしょう?」
「君は本当に、すべての役目を返上するつもりかい?」
「はい」
「……惜しいな」
青年は小さく呟いた。
クラリスは首を傾げた。
「何がでございますか?」
「いや、こちらの話だ」
レオナールは笑った。
「ところでクラリス。君は今後、何をするつもりなんだ?」
「……そうですね」
クラリスは少し考えた。
そして、正直に答えた。
「しばらく、何もしたくありません」
部屋が静まり返った。
「……何も?」
「はい。朝は好きな時間に起きて、本を読み、気が向いたら庭を散歩して、午後にはお昼寝をしたいと思っております」
誰も何も言わなかった。
クラリスは不安になった。
さすがに、公の場で怠けたいと宣言するのはまずかっただろうか。
ところが。
「……なるほど」
レオナールは口元を押さえた。
肩が小さく震えている。
「実に君らしい」
クラリスは目を瞬かせた。
彼は笑っていた。
どうやら、心底楽しそうに。
「……殿下?」
「いや、失礼」
レオナールは笑みを収めた。
「では、ゆっくり休むといい」
「ありがとうございます」
「ただし」
彼は少し身を屈め、クラリスにだけ聞こえる声で囁いた。
「君の観察日記の続きは、ぜひ私にも聞かせてほしいな」
クラリスの背筋が凍った。
「…………はい?」
レオナールはにっこり笑った。
「第十一巻だったかな?」
クラリスは固まった。
なぜ。
どうして。
この人が、あの手帳のことを知っているのだろう。
レオナールは彼女の反応を眺め、満足そうに笑った。
「また会おう、クラリス」
そう告げて、悠々と去っていった。
クラリスは、その背中を見つめた。
婚約破棄されたことよりも。
妹に婚約者を奪われたことよりも。
今の一言の方が、よほど衝撃的だった。
この男。
いったい、どこまで知っているのだろう。
クラリスは初めて、自分が観察される側に回ったことを理解した。
そして、非常に不本意ながら。
少しだけ、胸が高鳴ってしまったのである。




