第四章 今度はわたくしが欲しいものを選びます
クラリスは、王太子レオナールとの約束の日を迎えていた。
朝七時。
いつもなら、まだ寝台で夢を見ている時間である。
しかし、今日は違った。
「……マーサ」
「はい」
「このドレス、変ではないかしら」
クラリスは鏡の前で尋ねた。
淡い水色のドレスに、銀の刺繍。
髪はゆるくまとめ、小さな真珠の飾りをつけている。
派手すぎず、地味すぎず。
クラリスにとっては、実に無難な装いだった。
「とてもお似合いでございます」
「……本当に?」
「はい」
「でも、少し地味ではないかしら」
「……お嬢様」
「かといって、華美すぎるのも……」
マーサはため息をついた。
「もう三着目でございます」
「……そうね」
「普段は、お洋服など何でもよろしいとおっしゃるのに」
クラリスは黙った。
確かに、そのとおりだった。
今まで、誰かと会うために服を選ぶのは義務だった。
王子妃にふさわしい装い。
公爵令嬢らしい上品さ。
家の名誉を傷つけない華やかさ。
そうした条件を満たすために、服を選んでいた。
しかし今日は違う。
レオナールに、どう思われるだろう。
そんなことを考えている自分に、クラリスは驚いていた。
「……マーサ」
「はい」
「わたくし、少しおかしいのかしら」
侍女は微笑んだ。
「いいえ。とても普通のことだと思います」
「……そう」
クラリスは鏡を見つめた。
普通。
それは、彼女にとって少し不思議な言葉だった。
◇
約束の場所に現れたレオナールは、いつもの王宮での姿とは違っていた。
豪華な礼装ではなく、落ち着いた紺色の上着。
髪も少しだけ無造作に整えている。
「おはよう、クラリス」
「おはようございます、殿下」
「今日は、殿下ではなくレオナールと呼んでほしい」
「……よろしいのですか?」
「もちろん」
クラリスは少し迷った。
「……レオナール様」
彼は嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
たったそれだけのことで、クラリスの胸が落ち着かなくなった。
この人は、本当に困る。
何を考えているのかわからない。
自分の反応を楽しんでいるようにも見える。
それなのに、嫌ではない。
むしろ、もっと話してみたいと思ってしまう。
「……今日は、どちらへ?」
クラリスが尋ねると、レオナールは微笑んだ。
「君の好きな場所へ」
「……わたくしの?」
「ああ。今日は君が行きたいところへ行こう」
クラリスは少し考えた。
そして、遠慮がちに言った。
「……本屋へ行きたいです」
「いいね」
「それから、古書店にも」
「もちろん」
「……できれば、昼食のあとにもう一軒……」
レオナールは声を上げて笑った。
「君は本当に、本が好きなんだな」
クラリスは少し頬を染めた。
「……退屈でしょうか」
「いいや」
彼は首を振った。
「君が楽しそうにしているところを見るのが、私は好きなんだ」
クラリスは黙った。
そして、少しだけ笑った。
「……では、遠慮なく」
その日、二人は王都の本屋を三軒巡った。
クラリスは古い歴史書を見つけて喜び、珍しい旅行記に夢中になり、気がつけば大量の本を買い込んでいた。
レオナールは、そのほとんどを黙って持ってくれた。
「……重くありませんか?」
「少しね」
「……申し訳ありません」
「いいんだ。君が嬉しそうだから」
クラリスは本を抱え直した。
そして、少し考えた。
「……レオナール様」
「何かな?」
「どうして、わたくしなのですか?」
彼は足を止めた。
「……どうして?」
「ええ。わたくしは、それほど立派な人間ではありません」
クラリスは静かに続けた。
「怠け者ですし、性格もよくありません。人間観察などという、少々悪趣味なこともしております」
レオナールは微笑んだ。
「知っている」
「……」
「それに、君は自分で思っているより、ずっと頑固だ」
クラリスは目を瞬かせた。
「……頑固?」
「ああ」
レオナールは頷いた。
「一度決めたことは、なかなか曲げない。面倒だと言いながら、気になったことは最後まで調べる。人の欠点を見抜くのは得意なのに、自分のことになると途端に鈍くなる」
クラリスは何も言えなかった。
彼は楽しそうに続けた。
「それから、少し意地悪だ」
「……」
「でも、君は他人が本当に困っているとき、それを笑って見ているだけではいられない」
クラリスは顔を上げた。
「……そうでしょうか」
「そうだよ」
レオナールは穏やかに答えた。
「君は、エステル嬢が欲しがるものを譲り続けた。でも、それが彼女のためにならないことも、きっとわかっていたんだろう?」
クラリスは黙った。
そのとおりだった。
妹が何でも欲しがるようになったのは、両親が甘やかしたからだけではない。
自分も、面倒だからと譲り続けてきた。
妹の欲望を観察して楽しみ、その結果を放置してきた。
それは、決して褒められることではない。
「……わたくし、ひどい姉だったのかもしれません」
クラリスは呟いた。
レオナールは少し考えた。
「そうかもしれないね」
思いがけない返事だった。
クラリスは驚いて顔を上げた。
「……否定してくださらないのですか?」
「君は、否定してほしい?」
クラリスは少し考えた。
そして、首を振った。
「……いいえ」
レオナールは微笑んだ。
「なら、しないよ」
彼は続けた。
「君は完璧な人間ではない。私もそうだ。だが、だからこそ面白いんじゃないかな」
「……面白い?」
「ああ」
レオナールはクラリスを見つめた。
「私は、君のそういうところが好きなんだ」
クラリスは固まった。
好き。
今、確かにそう言った。
「……レオナール様」
「うん?」
「それは、どういう意味でしょうか」
彼は少しだけ笑った。
「君が思っている意味だよ」
「……」
「私は、君に恋をしている」
クラリスの顔が熱くなった。
心臓が、驚くほど速く動いている。
何か言わなければ。
そう思うのに、言葉が出ない。
レオナールは、そんな彼女を静かに見つめていた。
「……返事は急がない」
彼は言った。
「君は、ようやく自由になったばかりだからね」
クラリスは目を瞬かせた。
「……はい」
「だから、まずは君の好きなことをしてほしい」
レオナールは微笑んだ。
「そのうえで、私と一緒にいたいと思ってくれたら嬉しい」
クラリスは、しばらく彼の顔を見つめた。
そして、小さく頷いた。
「……考えさせてくださいませ」
「もちろん」
レオナールは嬉しそうに笑った。
クラリスは思った。
この人は、ずるい。
自分が欲しかった言葉を、何の迷いもなく差し出してくる。
しかも、それを受け取るかどうかまで、自分に選ばせてくれる。
そんなことをされたら。
好きになってしまうではないか。
◇
一方、第二王子アルフレッドとエステルの関係は、日に日に悪化していた。
アルフレッドは、王宮での公務を次々と失敗していた。
施療院への支払い遅延。
慈善舞踏会の延期。
商業組合との交渉決裂。
それらの問題について、王太子レオナールは正式な調査を命じた。
調査の結果、アルフレッドが長年、クラリスに公務の大部分を任せていたことが明らかになった。
さらに、本人はその業務内容を十分に理解していなかった。
国王は激怒した。
「お前は、何のために王子として教育を受けてきたのだ!」
アルフレッドは青ざめた。
「……父上」
「婚約者に仕事を押しつけ、その成果を自分のものとしていたというのか!」
「……それは」
「しかも、婚約を解消した途端、何一つまともに処理できなくなったとは!」
アルフレッドは何も言えなかった。
彼は王宮での重要な公務から外され、当面の間、補佐官の指導を受けることになった。
王位継承の順位が直ちに変わるわけではなかったが、王族としての評価は大きく落ちた。
一方、エステルもまた、王子妃教育の継続を命じられた。
しかし、彼女はそれを拒んだ。
「嫌です! 私はそんなことをするために結婚するのではありません!」
王妃は静かに尋ねた。
「では、あなたは何のためにアルフレッドと結婚するのですか?」
エステルは口を開けた。
しかし、答えられなかった。
愛しているから。
そう言えばよかった。
だが、今の彼女には、その言葉を口にすることができなかった。
アルフレッドは以前ほど優しくない。
仕事の失敗を責め、エステルに努力を求め、時にはクラリスと比較する。
そんな彼を、エステルはもう好きではなかった。
「……お姉様なら」
思わず呟いた。
「お姉様なら、もっと上手にやってくれたのに……」
その瞬間、王妃の表情が変わった。
「……エステル嬢」
「……はい?」
「あなたは、クラリスがどれほど努力していたか、ご存じなのですか?」
エステルは黙った。
「彼女が六年間、どれほどの時間を費やしてきたか」
「……」
「あなたは、その結果だけを欲しがったのではありませんか?」
エステルの顔が歪んだ。
「……違います」
小さな声だった。
「……私は、ただ……」
言葉が続かなかった。
王妃は深いため息をついた。
「婚約については、改めて両家で話し合いなさい」
◇
その夜、エステルはクラリスのもとを訪ねた。
以前のように、勢いよく部屋へ入ってくることはなかった。
扉の前で、長い間ためらっていた。
「……お姉様」
「どうしたの?」
クラリスは本を閉じた。
妹は、ひどく疲れた顔をしていた。
「……アルフレッド様との婚約を、解消することになったわ」
「……そう」
クラリスは静かに頷いた。
予想していたことだった。
しかし、実際に聞くと少し複雑な気持ちになった。
「……お姉様」
「何?」
「私、どうしていつも、お姉様のものが欲しくなるのかしら」
クラリスは目を瞬かせた。
妹が、そんなことを尋ねるのは初めてだった。
「……そうねえ」
彼女は少し考えた。
「あなたは、わたくしが持っているものを、とても良いものだと思っているのでしょうね」
「……」
「でも、手に入れた途端、興味がなくなってしまう」
エステルは俯いた。
「……そうかもしれない」
クラリスは妹を見つめた。
「エステル。あなたは、何が好きなの?」
妹は顔を上げた。
「……何って?」
「あなた自身が、好きなものよ」
エステルは黙った。
長い沈黙が流れた。
やがて、彼女は小さく呟いた。
「……わからない」
クラリスは頷いた。
「そうでしょうね」
エステルの目に涙が浮かんだ。
「……お姉様」
「何?」
「私、どうしたらいいの?」
クラリスは少し考えた。
そして、静かに答えた。
「……まずは、自分で考えてみたら?」
妹は目を見開いた。
「……お姉様は、教えてくれないの?」
「ええ」
「……」
「わたくしが答えを教えてしまったら、また同じことの繰り返しでしょう?」
エステルは唇を噛んだ。
クラリスは続けた。
「でも、あなたが自分で見つけたものなら、きっと大切にできると思うわ」
妹は何も言わなかった。
ただ、静かに涙をこぼしていた。
クラリスは、その涙を見つめた。
以前なら、すぐに慰めていただろう。
何かを譲って、機嫌を取っていただろう。
しかし、今日はそうしなかった。
妹が泣いている。
それでも、助けない。
自分で立ち上がるまで、待つ。
それは、クラリスにとっても初めてのことだった。
◇
半年後。
クラリスは王宮の慈善事業改革を終えていた。
新しい管理組織は順調に動き始め、施療院への支援も安定した。
クラリスがいなくても、業務は問題なく進んでいる。
それを確認した日、彼女は心から満足した。
「……これで、ようやくお休みできますわ」
隣でレオナールが笑った。
「本当に、君は働くことが嫌いなんだね」
「ええ」
クラリスは即答した。
「できれば、一生本を読んで暮らしたいです」
「そうか」
「……呆れましたか?」
「いいや」
レオナールは微笑んだ。
「では、私の書斎を君に半分譲ろう」
クラリスは顔を上げた。
「……半分?」
「ああ」
「……本当に?」
「もちろん」
クラリスは少し考えた。
「……蔵書は、何冊ほどございますか?」
「数えたことはないが、三千冊ほどかな」
クラリスの目が輝いた。
「……三千!」
レオナールは楽しそうに笑った。
「君なら、半年ほどで読み終えてしまいそうだな」
「そんなことはございませんわ。じっくり読みますもの」
「それは安心だ」
クラリスは少し考えた。
そして、ふと気づいた。
「……レオナール様」
「何かな?」
「それは、もしかして……」
彼は微笑んだ。
「うん」
「……」
「私と一緒に暮らしてほしい、という意味だよ」
クラリスは固まった。
レオナールは彼女の前に立った。
そして、静かに手を差し出した。
「クラリス。私と結婚してくれないか」
クラリスは何も言えなかった。
心臓が、驚くほど速く動いている。
この人は、ずるい。
書斎などという魅力的な条件を出してから、結婚を申し込むなんて。
断れるはずがない。
いや。
違う。
クラリスは思った。
書斎がなくても。
本がなくても。
この人と一緒にいたい。
そう思っている自分がいる。
「……レオナール様」
「うん?」
「わたくし、一つだけお願いがございます」
「何かな?」
「……これからも、わたくしを観察していてくださいませ」
レオナールは目を瞬かせた。
クラリスは少し頬を染めた。
「でも、時々は……わたくしにも、あなたのことを観察させてください」
レオナールは笑った。
「もちろん」
そして、彼女の手を取った。
「一生かけて、観察し合おう」
クラリスは微笑んだ。
「……はい」
その日、彼女は生まれて初めて、自分の欲しいものを自分で選んだ。
誰かに譲るためでもなく。
誰かを喜ばせるためでもなく。
ただ、自分が欲しいと思ったから。
そして、その選択を、誰にも譲るつもりはなかった。
◇
結婚式の前夜。
クラリスは久しぶりに、エステル観察記録を開いた。
第十一巻。
最後のページには、半年ほど前の記録が残っていた。
『対象、第二王子アルフレッド。持続期間、約一ヶ月。婚約解消により観察終了』
クラリスは小さく笑った。
エステルは、あれから少しずつ変わり始めていた。
最初は何をしてよいかわからず、毎日のように困っていたらしい。
しかし、最近は母と一緒に刺繍を習い始めたという。
姉が持っているものではなく、自分が好きだと思ったものを選んだのだ。
クラリスは、それを聞いて少し嬉しかった。
そして、手帳の最後のページに、新しい一文を書き加えた。
『観察対象、クラリス・フォン・エルデンブルク』
少し考えて、続ける。
『十八歳。怠け者。人間観察好き。少々性格が悪い』
さらに一行。
『現在、恋愛に夢中。判断力が低下している可能性あり』
クラリスは満足して手帳を閉じた。
そのとき、窓辺に一羽の伝書鳥が舞い降りた。
脚に結ばれた手紙には、見覚えのある筆跡があった。
『明日から、よろしく。私の可愛い観察対象へ』
クラリスは手紙を見つめた。
そして、思わず笑ってしまった。
「……本当に、ずるい方」
窓の外では、星が静かに瞬いている。
明日からは、また新しい人生が始まる。
誰かのために譲り続ける人生ではない。
自分で選び、自分で決める人生だ。
クラリスは手紙を胸に抱いた。
そして、小さく呟いた。
「……今度こそ、絶対に譲りませんわ」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、静かな夜に溶けていった。
――おしまい。




