25.投与ミス
ぼくはバタバタという足音で目を覚ました。隣の診察室に誰か入ってきたんだろう。腕時計を見ると1時間くらい眠っていたようだ。点滴は終わっていた。診察室のほうに声をかけたが返事はない。枕元にある呼び出し用のブザーに手を伸ばしボタンを押すと、小太りの看護師が急ぎ足で現れ、点滴の針を抜いた。
「お疲れ様でした。8番の窓口に行って会計をしてください。それから処方箋がでていますので9番の窓口で受け取ってください」
と、早口でまくしたてると看護師は治療室を出て行った。やっぱり看護師って愛想がない。
ぼくは治療室のベッドのうえに起き上がった。よくこんな狭いベッドから落ちなかったものだと感心した。立ち上がると近くにあった鏡で髪の乱れを直した。覗き込んだ顔色は少し赤みがひいていた。それからハンガーにかけてあったジャケットを羽織り、服装を整えるとアタッシュケースを抱え診察室に入った。
そこには佐智子が自分のデスクで顔を押さえうなだれていた。
ぼくは彼女に近寄ると声をかけた。
「ありがとう。すっかり気分がよくなったよ」
佐智子はゆっくりとぼくのほうを向いた。
「よかったわね。お大事に」
そういう佐智子は鼻声で、泣きはらしていたみたいで目の周りが赤くなっていた。瞳からこぼれる涙を親指でぬぐった。
ぼくは驚いてアタッシュケースを脇の台におくと、患者用に椅子に腰掛けた。
「佐智子さん、どうしたんだい?」
「なんでもないの」
「なんでもないようには見えない」
ぼくは佐智子の目をのぞき込んだ。彼女が目を伏せた。
「あなたには関係ないことよ」
佐智子は弱々しい笑顔で静かに首を振った。
「そっか。ま、いろいろあるだろうけどがんばって。じゃあ」
そういうとぼくは立ち上がり手を上げて佐智子に挨拶をして、診察室を出ようとした。関係がないと言われてしまえば、これ以上はおせっかいになる。ぼくは昔からそうだが、いらないと言われれば素直に手を引く。ぼくが逆の立場なら余計なお世話はしてほしくない。自分のことは自分で何とかする。これが友達の少ない理由かもしれない。
すれ違いざまに、足音を響かせて金縁眼鏡の勝山事務長が怒鳴り込んできた。相変わらず騒々しい奴だ。
「いま受付で聞いたが、理事長が集中治療室に運ばれたんだって?何があったんだ」
佐智子は立ち上がり、事務長に深々と頭を下げた。
「勝山事務長、申し訳ありません。私が理事長先生に投与する薬の量を間違えて入力してしまいました」
「なんだと!それで、理事長は死んだのか」
事務長は急き込んで尋ねた。
「いいえ、大丈夫です。緊急処置を行い、いま集中治療室にいらっしゃいますが、命に別状はありません」
「そうか」
勝山事務長は苦味つぶした表情で、恐縮している佐智子に向かって、
「医療過誤だな。責任は取ってもらうよ」
と、言い放った。
佐智子は下を向いたままだった。
「君の処分は懲罰委員会で決めよう。それまで謹慎しておきなさい」
そういうと勝山事務長はどかどかと足音を立てて出て行った。
佐智子は力なくデスクに腰を降ろした。
ぼくはそばで一部始終を聞いて、帰りかけた足を止めた。そして佐智子のところまで戻ると、両手で顔を覆っている彼女の肩に手を置いた。
「ご覧のとおりよ。私はもう少しのところで理事長を殺してしまうミスをしたの」
「そうか」
「もう終わりだわ。私なんか医者をやる資格なんてないわ」
佐智子の瞳から涙が溢れてきた。彼女はそれを拭こうともせず、取り乱したようにぼくにしがみついて泣き崩れた。こんなときは気持ちが治まるまでしばらくそのままにしておくしかない。ぼくは彼女の髪をなでながらじっとしていた。一頻り泣いたところで、ぼくはポケットからハンカチを出して佐智子に渡した。
「ありがとう。せっかく会えたのにこんなところを見せてごめんなさい」
佐智子はハンカチで目じりを押さえた。
「元気出せよ。結局のところ理事長は助かったんだろ」
「そうね」
佐智子は弱々しく頷いた。
「でもおかしいな」
「え、どうしたの?」
「さっきの事務長が『理事長は死んだのか』っていったよね。普通は『理事長は大丈夫か』だよね。まるで死んで欲しいような口ぶりだった」
「事務長と理事長先生は仲が悪いから」
「そうか」
霧旗は佐智子の顔を見つめたまま黙っていた。しばらく佐智子は目を伏せそのままの姿勢でいたが、それから観念したようにぼくに経緯を訥々と話し始めた。
「あなたの診察のあと、理事長先生が来てたでしょ?」
「ああ、挨拶をした」
「理事長先生はもともと糖尿病と高血圧があって入院をしているんだけど、今日は事務長と喧嘩をしたみたいで血圧があがったとおっしゃっていたの。それで降圧剤を処方したわ」
「どんな喧嘩をしたんだ?」
「事務長が最新型の電子カルテを導入するために経費がかかるので看護師を減らしたいというのを聞いて、理事長が腹を立てたみたい。機械じゃ病気は治らんって」
「それはそうだ」
「それから理事長先生は病室に戻られたわ。私が車椅子を押してエレベータに乗って病室まで連れて行ったわ。それから私はここへ戻り、さっき事務長が言ってたレポートの作成を書き始めて、めどが立ったので昼食に行こうかなとしていたときに電話が鳴って、看護師から理事長先生の容態がおかしいからすぐに来て欲しいと連絡があったの。驚いて、急いで理事長先生の病室に行ってみると、理事長先生は呼吸が乱れていて、顔色が悪く、血圧が異常にさがっていたわ。そばにいた看護師に聞いたら、降圧剤を投与したら容態が急変したということだったの」
「いつも使っている降圧剤かい?」
「ええ、そうよ」
「それですぐに集中治療室へ運んで応急措置をしたの。とりあえず一命は取り留めたわ。でも降圧剤でこんなことになるなんて変だから看護師に聞いたの。そしたら分量が…」
そこまで言うと佐智子はまた大粒の涙が溢れてきた。ぼくは自然に彼女の手を握っていた。
「ありがとう」
佐智子はハンカチで涙を拭くと話を続けた。
「なぜこんなにたくさんの降圧剤を投与したのかと看護師に尋ねるとカルテ通りに処方したという答えだったわ。そのカルテがこれよ」
佐智子は白衣のポケットから二つ折りになったカルテを取り出した。
「そこにある通り確かに降圧剤の分量が間違っていて10倍の量になっていたの」
「でも看護師はいつも投与してるんだろ。これが普通の量じゃないってわからなかったのか?」
「理事長先生担当の看護師が事務長のランチミーティングに出席していたので、今日はたまたま新米の看護師が投与したみたい」
「ランチミーティング?」
「月に1回看護師と事務長が病院の課題についてのミーティングをやってるの」
「それはたまたま今日だった?」
「いえ、今日は臨時のミーティングだったみたい。さっき看護師長に聞いたわ」
「それでその降圧剤を10倍の量を投与するとどうなるんだ?」
「実は10倍の量は投与してないの。その新米の看護師は一度に投与せず20mgずつ投与しようとして、60mg投与したところで容態が急変したといってるわ」
「3倍か」
「10倍の量を投与していたら、たぶん亡くなっていたと思うわ」
「たまたま助かったのか」
「そうね」
ぼくはさっきから気になることがあった。クスリの量が多過ぎた場合確認ボタンがでるはずだ。その確認ボタンを無意識に押すものだろうか?何かバグが発生したのではないか?ITは得意分野だ。ちょっと確かめてみたい。
「本当に佐智子さんのミスかな?」
「どういうこと?ほらこのカルテにはちゃんと記録されているのよ」
「コンピュータだって間違うことはあるよ」
「まさか」




