24.電子カルテ
佐智子は処置室に行き、綿棒を試験薬に付けて戻ってきた。
そして、会話を続けた。こっちは病人なんだけど・・・
「霧旗くんにはいつも数学だけはいつも勝てなかった悔しい記憶があるわ。結構意識してたんだから」
「それはうれしいね」
「実は霧旗くんのことは気になっていたのよ。私が医大に決まって、あなたがどこに行くのか気になって、友達にそれとなく聞いたらアメリカに行くって聞いてびっくりしたわ」
「ちょっと出稼ぎに行ってきたんだ。いいのかいこんなに長く診察していて?」
「午前中はあなたが最後よ。だから大丈夫。霧旗くんは今何してるの?」
「ITセキュリティの仕事をしてる」
「そういえば霧旗くんは高校時代からパソコンが得意だったわね。それに比べて私なんか毎日悪戦苦闘してるわ」
佐智子は目の前の端末を指差した。そしてデスクのほうを向くと、パスワードを入力して端末を立ち上げた。
「つい最近うちの病院が最新の電子カルテを導入したの」
「ふうん」
ぼくは画面を覗き込んだ。
「何でも高性能の電子カルテなんだって。体温や血圧などの症状を入力すると、疑わしい病名の一覧が出てくるの。特殊な病名も出てくるから診療には便利ね。そして必要な処方箋の一覧も出てくるの。これで誤診も少しは減ると思うわ。その代わり、セキュリティが厳しくて入力は医師しかできないようになっているし、見るのだって、医師と看護師しかみることができないのよ」
「誤診することもあるんだ」
「はっきりしたデータはないけど、私の勘では内科医の診療の三割か四割は誤診よ」
「そんなに?ちょっと怖いな」
「まあ、医者を信じちゃいけないってことよ」
「佐智子さんも医者だろ」
「私は大丈夫よ。誤診なんて日常茶飯事だと思っているから」
佐智子はペロリと舌を出した。何が大丈夫なんだか。
ぼくは画面に表示されている電子カルテを指差した。
「このボタンは何?」
「これは処方箋を選択できるようになっているの。薬の名前をいちいち覚えなくても、症状を入力すると処方箋が一覧で出てくるからそのへんは楽になったわ」
「分量を間違えたりしないのか?」
「間違えて大量に入力すると確認のメッセージがでるわ」
「じゃあ、誤診はあっても誤入力は少ないか」
「そう思いたいわ」
佐智子は診察結果をぼくのカルテに入力を始めた。
「この電子カルテが普及すれば、どの医師がいつどのような診察をして、どんな処方箋を出したかがわかるし、それにレントゲンやMRIの結果なども全部記録されているの。だから担当医がいなくてもいつでも他の医師が診療を変わることができるわ。それにもし他の病院に転院してもこのカルテを送信すれば同じ検査をする必要がないし、それまでと同じレベルの診療を受けることができるはずよ」
「すごいね」
「でも患者さんからは評判が悪いのよ。先生はいつも画面ばかりみて患者のほうを向いてくれないって。だから私はなるべく診察が終わってから入力するようにしてるの」
その時、診察室の裏側からスーツ姿で金縁の眼鏡をかけた50歳代の男性がせかせかと大股で近づいてきた。それは初めて会うぼくでさえ佐智子に好意をもっていないということがわかる態度だった。
頼まれてもお友達になりたくないタイプだ。
「勝山事務長。どうしたんですか?」
「また、電子カルテの悪口かね」
「いえ、別に」
佐智子は勝山事務長の方を振り向きもしなかった。
「この電子カルテは、これからの地域医療を変える技術なんだ。よくわかりもせず批判はして欲しくないね」
「どんな御用ですか?私はいま忙しいんです」
佐智子は強い口調で言い放った。
勝山事務長はやっとそばにいるぼくに気が付いて、慇懃無礼なお辞儀をした。ぼくも軽く会釈をした。
「お前はここで何をしてる?」
診療に決まってるだろ。でもこんな奴に正直に話すのも馬鹿馬鹿しい。ぼくはとぼけて、
「はい、若林先生に新薬の効能をご説明にまいりました」
「何だ、薬屋か。新薬を導入する場合は私のところに報告に来るようになっているはずだぞ。そうじゃないと電子カルテに搭載できない」
「まだ、使っていただけるかどうかご相談中です」
「若林くん、その新薬を使うときは私に連絡するように。それから、次の内科診療レビュー会議のレポートが出ていないぞ、それを伝えに来ただけだ」
「わかりました。すぐ提出します」
勝山事務長はふんと鼻をならし、じろりとにらむと来た時と同じような大股で診察室を出て行った。
「ごめんなさい。いつもああなの」
「気にしてない」
「霧旗くん、薬屋になっちゃったのね?」
「ああいう奴を見るとからかいたくなるんだよ」
佐智子はあははと笑った。
「今の事務長、ちょっと変だな」
「何が?」
「いや、あいつは何をしに来たんだ?」
「レポートの督促よ」
佐智子はふてくされたような口調だった。
「そんなことはメールでも済むんだろ」
「じゃあ、私をいじめにきたんでしょう」
「佐智子さんは事務長さんのこと嫌いだな?」
「もちろんよ。私がこの病院に勤務し始めたころあの事務長からしつこく口説かれたわ。最初のうちはやんわり断っていたんだけど、あまりにもしつこいのであなたのことは嫌いだと怒鳴ったことがあるの。それ以来あんな感じでいじめにくるのよ」
「美人は大変だなあ」
佐智子は立ち上がり、ぼくのインフルエンザの結果を見に行った。そしてもどってくると、
「大丈夫よ、陰性だわ。たぶんインフルエンザではないわね」
「たぶん?」
「これからさらに熱がでてインフルエンザになる人もいるのよ。でもたぶん大丈夫よ」
「どうも。誤診でないことを祈ってる」
「点滴でも打っていく?少しは元気になるわよ」
「そうしようか」
そのとき車椅子にのって白衣を着た老人が看護師に押されて診察室に入ってきた。さっきの事務長とは違い、威厳はあるが物腰の柔らかい笑顔でぼくに会釈をした。ぼくも思わず頭を下げた。
「理事長先生」
「まだ診察中かね?」
「いえ、もう終わりました。ちょっとお待ちください」
それから、佐智子はぼくを隣の治療室のベッドに案内し、右腕に点滴を指した。横になると体が沈んでいくような錯覚に襲われた。やっぱり体調は普通ではない。佐智子はぼくの体に薄い毛布をかけた。
「一時間ぐらいかかると思うわ。しばらく寝てなさい」
「ありがとう」
ぼくは急激に睡魔に襲われた。
それから佐智子はスタスタと診察室に戻り、自分のデスクに腰掛けて理事長に話しかけた。
「どうしたんですか?御用があれば私から病室に伺いますのに」
「いやいや、君の顔を見に来たんだよ」
理事長は手を振りながら、笑顔で答えた。
「何かあったんですね?」
「相変わらず君は鋭いね。実はさっき勝山くんと口論をしてしまって…」
「あれま」
佐智子はくすっと笑った
「それで血圧が少し上がったので、降圧剤を処方してもらおうと思ってね」
「わかりました」
佐智子は血圧計を取り出し、理事長の左腕に当てた。
「勝山事務長となぜ口論を?」
「彼はさらに新しい電子カルテを導入したいらしい。しかし、経費が足りないので看護師を減らしたいと言ってきた」
「看護師を?」
「そうだ。確かにうちの病院は医療法の看護師配置基準は満たしているが、私はそれでも患者たちに対して十分なケアができているとは思っていない」
「医は仁術ですものね」
「その通りだ。なのにあいつは機械のことばかり気にしおって」
「この電子カルテは導入したばかりじゃないですか。もう新しいのに変えたいということですか?」
「このあたりの医療施設ではうちの機械が最先端ではないらしい。何でも来月近辺の医療事務関係者がうちの医療施設を見学に来るそうだ。そのときまでに最新の機械を入れたいといっていた。どうせ偉そうに見せびらかしたいだけなのだろう。あいつは機械をよくすれば病気が治ると思っておる。いくら機械をよくしても間違った入力をすれば、人を殺すこともあると言ってやった」
「それで喧嘩を?」
「あんまりしつこいんで、それならば事務長を降りてもらうと言い渡した」
「個人的には賛成ですけど…」
「君は勝山くんが嫌いだったな。まあわしもあまり好きではないが、いい薬になっただろう。彼はもともと優秀だ。少し頭を冷やして欲しい」
佐智子は血圧を計り終えると、
「やはり血圧はちょっと高めですね。あまり興奮なさないでくださいね」
「わかっとる。だから、君の顔を見にきたんだ」
「まあ、お上手だこと。降圧剤を出しておきますから病室で」
「わかった」
「じゃあ病室までお送りしますわ」
佐智子は理事長の後ろに回り車椅子を押した。




