23.病院
風邪をひいたかな。体がだるい。ぼくは右手を伸ばしベッドの脇のサイドテーブルの引き出しから体温計を取り出した。39度5分ある。こんな高熱は何年ぶりだろう。道理で体が動かないはずだ。体温計をもとの引き出しに戻すと、枕元にある携帯電話を見た。午前8時20分。
今日は会社を休ませてもらおう。頭の中で本日のスケジュールを確認したが、特に重要な業務はない。昨日で帝都銀行の事件も解決したし、最近働き過ぎだ。
言うことを利かない体を無理矢理ベッドの上に起こし、携帯電話で会社へ電話をかけた。
「もしもし、霧旗です。那智さんですか?」
「おはよう」
携帯からは那智さんのいつもの渋味のある低いトーンの声が聞こえた。
「すみません、風邪を引いたようで今日は休ませてください」
「わかった。何か業務で引き継いでおくことはないかね」
「業務は特にありません。私がいなくてもちゃんと地球は回ります。気になるのは私のデスクの後ろの熱帯魚の餌やりかな」
「了解。絵理子さんに頼んでおくよ。ちゃんと病院へ行けよ。お大事に」
「ありがとうございます」
ぼくは携帯を切ると立ち上がった。ちょっと足もとがふらつく。マンションの12階の窓から見える空はどんより曇っていた。ぼくの気分と同じだ。2LDKをワンルームに改造した広い部屋は家具が少ないせいか肌寒く感じる。ベッドと反対側にある冷蔵庫までふらふらと歩いていき、ミネラルウォーターを取り出してグラスに注いで飲み乾した。冷たい水がのどをしっかり通っていく。
ちゃんと病院に行けか…。病院は好きではないが、最近巷で流行っているインフルエンザも気になるし、薬だけでももらってくるかな。
それから洗面所へ行き顔を洗った。水があまり冷たく感じない。鏡を覗き込むと、ふだん色白の顔が不健康な赤みを帯びていた。我ながらひどい顔だ。
パジャマを脱ぎ捨て洗濯機に放り込み、新しいシャツとジーンズに着替えると気分が少しさっぱりした。それからデスクの上のパソコンに向かいインターネットで近辺の病院を探した。このマンションから数百メートルの距離にある『恵比寿総合病院』という病院を見つけると、地図の画面を開きその場所を頭に叩き込んだ。
それからカーキ色のフランネルシャツを着て、グレーのジャケットを羽織った。アタッシュケースに商売道具のノートパソコンと保険証を詰め、エレベータホールへ向かった。
マンションを出ると目の前の下り坂を足早に病院に向かった。病院までは15分くらいの距離だ。
その病院は古い概観のわりに、内部は明るく設備も新しい印象を受けた。とはいっても病院は、警察署の次に行きたくない場所だ。
エントランスを入ると正面に受付があった。総合病院だけあって、案内板には内科、外科、整形外科、泌尿器科など十数個の診療科がずらりと並んでいる。初診受付で診察用の申込書に住所、氏名を記入した。それから現在の症状についての問診表も記入させられた。結構しんどい。病人にずいぶんいろんなことを書かせるんだな。
書類を窓口に提出すると近くのソファに腰掛けた。まわりにはあまり患者らしき人はいない。今日は混んでないのかもしれない。しばらく待たされたあと、受付で名前を呼ばれた。四十歳ぐらいの眼鏡をかけたそっけない表情の事務の女性に、カルテを持って内科の外来窓口に向かうように指示された。
床の案内表示に従って内科をめざすと、外来の待合室は予想に反して驚くほど混んでいた。やっぱり帰ろうかな。逡巡しながら窓口でカルテを渡すと2時間くらいかかると言われた。まだ9時30分なのに世の中には病人がたくさんいる。
カルテを受け取った女性の横にいた小太りの化粧っけのない看護師に病院ではマスクをするようにと指示された。持っていないと言うとマスクを渡された。やはりインフルエンザが相当流行っているのか。それにしても看護師というのはいつ会っても愛想がない。仕事だから仕方がないのかもしれないが病人にはもう少し優しくしてもいいんじゃないか。
ずらりと並んだソファの一番端に空いたスペースを見つけて腰を降ろした。回りはほとんどが本当に病気なのかという高齢者ばかりだったが、中にはぐったりしている子供とその母親らしき人も何人かいる。
ぼくは目を瞑り身動きもせずじっと待っていた。一度腰を降ろすと動くのが億劫だ。
本当に2時間ほど待たされてやっと名前が呼ばれた。どうやら眠っていたらしい。気がつくと回りにいた患者はほとんどいなくなっていた。先程の小太りの看護師から中待合室に入るように指示があった。診察室3と書かれた部屋の前でさらに待たされた。やれやれ、いつになったら薬がもらえることやら。
そのドアには医師『若林佐智子』と書かれた札がかかっていた。どこかで見たことがある名前だが、高熱にうなされているこんな頭じゃ何も思い出さない。
「霧旗さん、どうぞ」
と、診察室の中から女性の声がした。ぼくは体を引きずるようにしてその診察室の中に入った。
「今日はどうしました?」
端末の画面から目を離しながらぼくを見て若い女医が質問をした。白衣の下からすらりと伸びた脚が綺麗だ。病人のくせにぼくはどこを見てるんだ。ぼくがマスクをはずすと、女医はかなり驚いたような顔をした。
「霧旗峻くん?」
「え?どこかで会いました?」
ぼくは女医の顔をまじまじと見つめた。まだ若い女医は端正な顔立ちをしていた。口を半開きにして、その大きな瞳がさらに大きくなってぼくを見つめていた。同い年くらいか。だけど何も思い出さない。医者に知り合いはいないはずだ。
「中学のクラスメイトの伊達佐智子よ。お久しぶり」
「ああ、伊達さん」
やっと思い出した。でも高校のとき彼女とあまり話しをしたことが記憶がない。もっともぼくはあまり友達が多いほうではなかったし、まして女の子の友達はひとりもいなかった。
「びっくりしたわ。12,3年ぶりくらいね。霧旗くんは変わってないわ」
「伊達さんも変わってない」
「佐智子でいいわよ」
「相変わらず綺麗だ」
「上手ね、ありがとう。でもそんなことはないわ。もうおばさんよ」
佐智子は皺のない顔でにこりと笑った。
「頭が良くてスポーツ万能で、そして美人だった佐智子さん」
「過去の栄光ね。でもあのころ霧旗くんは私のこと見向きもしてくれなかったでしょ?」
「佐智子さんはクラスの男子のあこがれの的で、いつもきみの回りには男の子が群がってた。ぼくには高嶺の花だった」
「あら、霧旗くんだって女子の間ではファンが多かったのよ。あなたは確か奇術部だったでしょ。高校の文化祭のときあなたは人を宙に浮かせる手品をやったじゃない。それを見たとき私は感動したんだから。実は私も霧旗くんの隠れファンの一人だったのよ」
「そりゃどうも」
「でもあなたはいつも一人で、ほかの人を寄せ付けない冷たい雰囲気だったわ。私だって話しかけたいのになかなかきっかけが見つからなかったわ」
「友達を作る必要性を感じていなかったんだ」
「相変わらず、ハードボイルドのようなしゃべり方ね。変わってないわ。あの頃はどちらかといえば、自分から拒絶しているみたいだったわよ。」
「確かに高校生のときは佐智子さんとあんまり話をした記憶がない」
思い出した。佐智子は高校生のときはかなりロングヘアだった。今目の前の彼女はショートカットにしている。髪型が変わると女性は別人のようだ。
「さて、今日はどうしたの?」
佐智子はやっと女医の仕事を始める気になったようだ。
「風邪を引いたみたいだ」
「熱は?」
「39度5分。今朝計った」
「ちょっと高いわね。はい、じゃ口をあけて」
「同級生に診察されるなんて妙な感じだ」
「黙って口を開けなさい」
ぼくは近づいてくる佐智子の瞳をのぞき込んだ。
「ちょっと!照れるじゃない。まじめに診察させて」
佐智子はぼくの肩を小突いた。そしてぼくののどを覗き込んだ。
「ちょっと腫れているわね。では胸を出して」
「胸が見たいのか?」
佐智子は笑い出した。ぼくはジャケットを脱ぎ、シャツをたくし上げた。佐智子は笑いをこらえながら聴診器をあてた。
「深呼吸して。次は背中よ」
ぼくは後ろを向きながら佐智子に話しかけた。
「結婚したのか?」
「一度したけど、今はフリーよ。離婚したの。霧旗くんは?」
「したいと思ったことがない」
「じゃあ私が迫っちゃおうかな。はい、よし。前を向いて」
ぼくは服を降ろして前を向いた。こんなに会話をしながらちゃんと診察できているのだろうか?
「たぶん風邪ね。一応インフルエンザを検査しておく?」
「よろしく」
「じゃあ上むいて」
佐智子は乱暴にぼくの鼻の穴に長い綿棒のようなものを突っ込んだ。
「痛いなあ。もっとやさしく」
「我慢しなさい」
ぼくは顔をゆがめた。結構痛い。
「十五分くらいで結果がでるわ」
「どうも」




