26.ログ解析
ぼくは佐智子の手を取り患者用の椅子に座らせた。佐智子はハンカチを握り締めたまま素直に移動した。そしてぼくは佐智子のデスクに座るとの目の前の端末を立ち上げた。
「ちょっと借りるよ」
「ええ、どうぞ。パスワードはね…」
「大丈夫。わかってる」
「えっ」
佐智子は驚いて大きな瞳をさらに大きくした。不思議がるのも無理はない。でもぼくはこれでもスーパーハッカーなんだ。
「ソーシャルハッキングさ」
「何それ?」
「入力するキーを見て覚えたりすること。さっきぼくのカルテを入力するときにパスワードを入力するのを横で見て覚えたのさ」
「すごい」
「でも、そんな必要はなかったみたいだね。ほらここに貼ってある」
ぼくは端末の横のポストイットを指した。佐智子はいたずらが見つかったこどものような顔をして、
「見つかっちゃった。だって2ヶ月に1回パスワードを変更しなくちゃいけないから覚えていられないんだもの」
「でもそれじゃパスワードの意味がない」
「そうね。これからは気をつけるわ」
ぼくは端末を立ち上げると、理事長のカルテを開いた。
佐智子は立ち上がり、端末に表示されている理事長のカルテの一箇所を指した。
「ほらここに、ニフェジピン200mgって入力してあるでしょ。本当は20mgなのよ」
「この量なら確認のメッセージが出るんだろ?」
「そうだけど診察のときは理事長との話に夢中だったし、200mgと入力してあるんだもの。無意識で確認ボタンを押したのかもしれない。きっと私が入力を間違ったんだわ」
ばくはキーボードを操作して、200mgと記載されているところに300mgと上書きをしようとすると、確認メッセージが表示された。これでOKを押さないと上書きされない。ぼくはキャンセルのボタンを押した。
「確認メッセージの機能は壊れていないみたいだね。じゃあ本格的に調べてみようか」
ぼくはアタッシュケースから自分の商売道具のノートPCを取り出して、端末のLANコードを自分のノートPCに接続した。
「何をするの」
「ハッキング」
「壊れない?」
「あはは、大丈夫だよ。これがぼくの今の仕事。セキュリティの管理や情報漏洩の防止なんかのITに関するトラブルを解決してる」
「すごいのね」
ぼくはノートPCが起動すると、この病院の電子カルテのログイン画面を開き、佐智子のIDとパスワードを入力した。それからハッキングするための解析ツールを稼動させた。画面一面に英数字が表示され、下から上に流れていった。霧旗はそれを食い入るように見ていた。
「何をしているの?」
「ホストコンピュータに侵入して、このカルテのアクセスログ吐き出しているのさ」
「アクセスログ?」
「誰がこのカルテにアクセスして、どんな入力をしたかという記録だよ」
ぼくは視線をPCの画面にもどした。それから、今日の診療の部分のところを見つけた。やはり変だ。
「ちょっとおかしいな」
「どうしたの?」
佐智子はぼくのノートPCの画面を覗き込んだ。
「これを見て。これは理事長のカルテへのアクセスログの一部なんだが」
11:58 若林でログイン
11:59 理事長先生のカルテにアクセス
12:08 診療記録を入力
12:11 処方箋を入力
12:12 ログアウト
「ここまでは理解できるんだけど、この後に」
12:17 若林でログイン
12:18 理事長先生のカルテにアクセス
12:19 処方箋を再入力
12:19 確認メッセージを承認
12:20 ログアウト
「となっている。一回目は20mgと入力している。でも二回目には200mgと再入力して確認メッセージを承認している。佐智子さんはカルテを二回開いたかい?」
「そんなはずないわ。処方箋を入力したのは一回だけよ。入力したあとすぐに理事長先生の車椅子を押して病室まで送ったのよ。だから二回も開くようなことはしてないわ。二回開けば私だって覚えているわ」
「でも二回とも佐智子さんのIDでログインされている」
「どういうこと?」
「この二回目の入力はあなたのIDとパスワードを盗んだ奴が、あなたが理事長先生を病室に送っている間に『なりすまし』て、故意に薬の投与量を変更したと考えられる」
「そんな…いったい誰が」
さらにぼくは別のハッキングツールを稼動させた。
「今度は何をしているの?」
「外部からの侵入がなかったかどうか調べているのさ」
「どうして?」
「アメリカでは、犯人がインターネットを経由して電子カルテを改竄し、殺人未遂事件を起こした例が報告されている」
「えっ!」
「そんなことはないと思うけどね。一応調べておく」
「そんなこと調べられるの?」
「大丈夫」
ぼくはPCの画面を真剣に見つめていた。画面ではさきほどと同じように下から上に英数字が流れるように表示されていた。ぼくはそれを時々とめてチェックした。外部からの侵入の痕跡はなさそうだ。やはり内部の人間の犯行か。
そのとき、診察室の扉が開き、若い男性があわてた様子で入ってきた。
「柴崎くん」
と、佐智子は入ってきた男性に声をかけた。柴崎と呼ばれた男性は背が高く痩せぎすで、青白い顔をしていた。彼は堰を切ったように、しゃべり始めた。
「若林先生、先生のIDからホストコンピュータへの不正アクセスのアラームが出ています。いったい何をやったんですか?」
ぼくはPCの画面から顔をあげると、入ってきた男性に声をかけた。
「おたくのホストコンピュータを診察してたのさ」
「あなたは誰です?」
と、男性は咎めるような声で尋ねた。佐智子があわてて、
「ごめんなさい、紹介するわね。こちらは私の同級生の霧旗くん。ITの会社に勤務してるの。彼はうちの病院のITを担当している柴崎くん」
「霧旗って…、もしかして『ガイア』の霧旗さんですか?」
柴崎はうわずった声で聞いた。
「そうだよ」
ぼくはPCの画面から視線をはずし、柴崎と呼ばれた男性のほうを向いて返事をした。
「お会いできて光栄です」
柴崎はあきらかに興奮していた。そしてぼくに近づき握手を求めた。今までの疑い深い目つきが変わっていた。ぼくを信用してくれたようだ。ぼくも立ち上がって握手をした。佐智子は理由がわからずきょとんとしていた。
「霧旗さんに会えるなんて…若林先生、彼は伝説のスーパーハッカーなんですよ」
「ハッカー?」
佐智子はぼくを犯罪者を見るような不審な目で見た。それに気づいた柴崎は、
「若林先生、誤解しないでください。マスコミが『ハッカー』という言葉を犯罪者のように表現していますが、もともとはコンピュータに精通した優秀な人を指す言葉なんです。コンピュータウィルスをばら撒くような犯罪者のことは『クラッカー』っていうんですよ」
「そうなの…」
「霧旗さんは20XX年に科学技術庁やその他の官庁のホームページが海外からハッキングされて改竄された事件で、政府がお手上げになったとき、その犯人を撃退したんです。確かそのとき高校生でしたよね。この事件はいまでもハッカー仲間では語り草になっています」
「もう古い話だよ」
と、ぼくはまだ続きをしゃべりたそうな柴崎を制した。
「ところで柴崎くん、この病院のセキュリティはしっかりしているようだ」
「ありがとうございます。霧旗さんにほめていただけるなんて」
柴崎は恐縮していた。
「でもファイアウォールの一部にセキュリティホールがある」
ぼくは画面を指差して、
「ほら、こことここだよ」
柴崎も画面をのぞき込んだ。
「あとでパッチのコードを送るから書き換えをしたほうがいい」
「すみません。すぐに対応します。何かお手伝いしましょうか?よろしければ管理者権限のIDをお貸しましょうか?」
「いや、大丈夫だ。もう、だいたいわかった」
「何でもおっしゃってください」
ぼくはPCの画面を確認して、机の上のメモに走り書きをした。そしてそのメモを柴崎に渡しながら、
「じゃあ、このPC番号の所有者を調べてくれる?それからこの理事長先生のカルテを隔離して、アクセスをシャットアウトしてくれるかい?」
「お安い御用です。PCの所有者はすぐにわかります。カルテについては、その電子カルテを閉じていただければすぐにやります。誰かがアクセスしていると、管理者権限でもアクセスできない仕組みなんです」
「了解」
そういうとぼくはカルテを閉じた。
「でも、理事長先生に何かあったんですか?」
「うん、理事長先生はいびきがひどいので治してほしいらしい。でも他の人にカルテを見られると立場がなくなるから隠しておいてほしいんだ」
芝崎は笑いをこらえながら、
「わかりました」
と答えるとすぐに診察室を飛び出して行った。
佐智子は手を口にあてクスリと笑い、そしてぼくに向き直って、
「すごいのね」
と感心した口調で言った。
「昔はやんちゃもやったんだ。ハッカーってほんとは悪い奴なんだ」
とぼくは佐智子の耳元で囁いた。
「そうね、理事長先生はいびきなんかかかないわ」
二人は顔を見合わせて笑った。




