21.解明
絵理子と田川は顔を見合わせた。いまの霧旗とのやりとりを見ているとオクトパスは本当に脅迫なんかしていないかもしれない。どうなってるの?
1時間を過ぎても霧旗はもどらなかった。もう午前2時になろうとしている。田川たちはオクトパスが最後に侵入した経路を特定することに懸命だった。絵理子はやることもなく立ち上がった。
「ちょっと霧旗くんを探してくるわ」
こんな深夜に探すあてがあるわけではないが、絵理子はオペレーションルームを出て1階に降りた。
守衛の部屋を通るとき覗き込むと、そこには守衛と談笑している霧旗がいた。
絵理子は守衛室のドアを開けた。
「こんばんは。何してるの?」
霧旗は絵理子に気がつくと手をあげた。
「この守衛さん、すごいんだよ。若いとき十年も東南アジアを放浪していたんだって」
守衛が顔を上げた。
「成瀬さん、お久しぶり。いまはどこの部署にいるんだっけ?」
と聞かれた。絵理子は苦笑しながら、
「ごめんなさい。3月で退職したの。今日は新しい会社の仕事で来てるのよ」
と答えた。守衛は驚いた。
「成瀬さんが辞めるようじゃ『帝都』の行く末も不安だなあ」
霧旗が割り込んだ。
「あれ、この会話一度聞いたなあ。エリー、この人金曜日に会った守衛さんじゃあないの?」
「違うわよ。この守衛さんは吉川さん、この前会った守衛さんはたしか松岡さんですよね?」
「そうじゃよ。成瀬さんは相変わらず記憶力がいいのう。最近は年寄りはみんな同じに見える馬鹿者が多いのに」
「ぼくは馬鹿者の部類ですね。あっ!」
そこで、霧旗は何かに気が付いたように立ち上がった。
「守衛さん、また今度ゆっくり東南アジアの話を聞かせてください」
霧旗はそういってペコリと頭を下げると守衛室を飛び出した。
絵理子も守衛に挨拶すると霧旗を追いかけた。
「ねぇ、どうしたの?」
「オクトパスは本当に脅迫してないのかな」
「わからないわ」
「エリー、脅迫状のコピーを持ってる?」
「十階にあるわ」
二人は十階のオペレーションルームに飛び込んだ。絵理子がファイルから脅迫状のコピーを取り出すと、霧旗に渡した。
「やっぱり」
「どうしたの?」
「オクトパスは脅迫なんかしていない。ほらこれを見てご覧」
霧旗が指差したのは『Ocutopus』という署名だった。
「オクトパスは署名は『0ctopus』と署名する。いいかい、脅迫状の署名は『Octopus』なんだ」
「ごめんなさい。言ってることがわからないわ」
「ハッカーの間では、英語のスペルのうち似ている数字に置き換えるという暗黙のルールがある話をしたよね。Lなら1、Eなら3、Aなら4というようにね。本物の『0ctopus』の『0』(オー)は『0』(ぜろ)なんだ。しかし、脅迫状の『Octopus』は最初の文字は『O』(オー)を使ってる」
霧旗はPCを開いて、改竄されたホームページを表示した。
「ほらホームページを改竄したときは『0』(ゼロ)を使っているよね。これはほんとに『0ctopus』がやったことなんだ。
「つまりオクトパスを偽った別の犯人がいるってことね」
「だから、オクトパスと会話が合わなかったんだ。彼は興味本位で顧客データをコピーした。しかしほんとに削除したんだ。だから、データが彼のPCから見つからなかったんだ。データをコピーしたこともそれを削除したことも本当だったんだ」
「じゃあいったい誰が…」
「ちゃんと捕まえてみせる」
霧旗は真剣なまなざしでPCに向かっていた。
「峻くん、私にできることは?」
「エリー、あのまずいコーヒーを買ってきてくれないか?」
「ま!」
絵理子はいつのまにかデスクにうつぶして眠っていたらしい。目が覚めると午前6時だった。
昨晩、霧旗はまずいコーヒーを飲み終わったあとで、絵理子に言った。
「那智さんがよく言っていた。もし壁に突き当たったら、原点にもどれと」
「原点?」
「ぼくらの原点は顧客情報が何者かに盗まれて脅迫されていること。オクトパスがホームページを改竄したのでてっきり彼が犯人と決め付けてしまった。でも彼は犯人じゃあない。出発点が間違っていたんだ」
「どうするの?」
「もう一度調査のやり直しだ。オクトパスが犯人でなければ、内部の犯行の可能性が高い。このことは田川くんにも仁科部長にも内緒だ」
それから絵理子は霧旗のそばでPCを見ながら「真犯人」を突き止めるためにデータの調査を始めた。
真犯人もどこかで顧客データをコピーしているはずだ。顧客データにアクセスしているIDを洗い出して、犯人を特定しなければならない。しかし、連休明けの顧客データへのアクセスログは膨大な数があった。その調査をしているうちに眠ってしまったらしい。
「いけない」
絵理子が飛び起きると、霧旗が声をかけてきた。
「おはよう」
「ごめんなさい。途中で眠ってしまったみたい。峻くんは徹夜?」
「大丈夫。気にしないで。だいたい調査が終わったから」
「犯人がわかったの?」
「それはまだ。確証がない」
「それでも疑わしい人がいるのね?」
「まあ、数人。ちょっと出てきてもいい?」
「どこへ行くの?」
「自宅に着替えを取りに。あなたも顔を洗ったほうがいい。お肌に悪いよ」
「余計なお世話よ」
「じゃあ」
そういうと霧旗は出て行った。
絵理子は洗面所へ向かった。
鏡の中の顔は疲れていた。この一週間が一年に感じるくらい長い。顔を洗い、化粧ポーチを取り出すと化粧をし直した。口紅を塗ると少し気がひきしまった。
すぐ近くの朝早くからやっている喫茶店に行き、トーストをコーヒーを頼んだ。まだ終わったわけじゃない。これからが大変だ。
8時過ぎに喫茶店からもどると、霧旗も戻っていた。しゃきっとした身なりでさっぱりしていた。
「シャワーを浴びてきた。目が覚めたよ」
「私なんか着たきりすずめよ」
「さて、もうすぐ行員さんが出社してくるころだよね」
「絵理子は時計を見て、そうね8時30分にはみんな出社してるわ。どうして?」
「経理部に行ってくる」
「経理?何かわかったの?」
「わからないから行って来る」
「私も行くわ」
「エリー、きみはここにいてくれ。美人は美人に嫉妬する。きみが行くと聞きたい話が聞けなくなる」
「えっ?じゃあ小椋さんに会いに行くのね。あの不正融資メールが関係してるの?」
「まだわからない。エリー、君にお願いがある。山之内頭取と神崎常務をすぐにここへ呼んできて欲しい」
「ここへ?」
「そうここへ。重大なことが判明したと言って呼んできてくれ」
絵理子は霧旗の真剣なまなざしを見て、何かつかんでいることを確信した。
「わかったわ」
絵理子はエレベータに向かった。
「きみにはつらい結果になるかも」
その声は絵理子には聞こえなかったようだ。
絵理子はオペレーションルームにもどると、霧旗はもう戻っていて、仁科部長と二人で話しこんでいた。
「お邪魔かしら」
「どうぞ。いま仁科部長に『オクトパス』が犯人じゃないことを説明してたんだ」
「『O』(オー)と『0』(ゼロ)の件ね」
「そう。それを今話をしたところだ。でもあれだけじゃない。もっと間違いない証拠がある」
「そうなの?」
「それはあとで話そう」
仁科部長は腕組みをしたまま霧旗に尋ねた。
「そうすると、オクトパスは犯人ではないということなんだね?」
「まちがいありません。オクトパスは犯人ではありません」
「そうか…」
そこでオペレーションルームのドアがノックされた。仁科部長が振り向くと、山之内頭取と神崎常務が立っていた。
「頭取、このような場所にお呼び立てしてすみません
霧旗はふたりにパイプ椅子を勧めた。
「ここは初めて入ったよ」
頭取はものめずらしそうにあたりを見回した。PCが何台もならび、付属品のコードが散乱していた。机の上にはUSBメモリやCD‐ROMが雑然と置かれていた。神崎常務は仏頂面をしたままパイプ椅子に腰を降ろし、早速霧旗に尋ねた
「解決のメドはたったのかね」
「もちろん、だからこうしてご足労いただいたんです」
山之内頭取は重々しい口調で霧旗に話しかけた。
「ぜひ聞かせてくれ。わが行の死活問題がかかっている」
霧旗はアタッシュケースから脅迫状の原本と、数枚のUSBメモリを取り出した。その中には送られてきた黒いの顧客データのUSBメモリもあった。そのほかのUSBメモリは白やグレーだった。たぶん、調査結果だろう。
「ホームページの改竄があって、私たちはこの脅迫状にもあるとおりオクトパスの仕業だと思っていました。しかし犯人はオクトパスではありません」
霧旗は絵理子のほうを向いて。
「エリー、あの脅迫状といっしょに送られてきた顧客データの中に君がいたよね?」
「ええ、とても驚いたわ」
「でも本当は君がいてはいけないんだ」
「どういうこと?」
「さっきマンションにもどったとき会社にも顔を出して、那智さんと話をしたんだ」
霧旗は仁科部長のほうを向き、
「那智さんが成瀬さんに1000万円を振り込んだのは5月10日の午後2時です。この顧客データの中に成瀬さんの情報があるということは、このデータはそれ以降にコピーされたものでなければならない。しかし、オクトパスが顧客データにアクセスしてコピーをしたのは5月6日午後11時です。だからオクトパスのデータには成瀬さんの情報はあってはいけないんです」
「ではいったい誰なんだ!」
神崎常務が声を荒げた。霧旗はゆっくりと仁科部長のほうを向き、静かなしかしよく通る声で、
「仁科さん、脅迫をしたのはあなたですね?」
「まさか」
絵理子が口を押さえた。
「あなたはフィッシング詐欺事件でバックドアの調査をしたとき、偽『ナルセエリコ』の存在に気がつきましたね」
仁科部長は黙っていた。
「あなたはオクトパスが顧客データをコピーしたことを知り、自分でUSBメモリにコピーをしてオクトパスの名前で脅迫状を作成した。そして郵送した。この郵送が最初からひっかかっていたんです。本当のオクトパスならメールで送ってくるはずなのに」
全員の視線が仁科部長に注がれた。しかし、まだ仁科部長は黙ったままだった。
「実は送られたUSBメモリの中にあった顧客情報のファイルのプロパティを見てみるとの作成者はあなたでした」
「そんなはずはない。何かの間違いだ」
「いえ、間違いありません」
仁科部長はあきらかに取り乱していた。デスクの上にある脅迫に使われた黒いUSBメモリを机の上からとり、PCに挿入して脅迫に使われた顧客情報のファイルのプロパティを開いた。作成者の欄はブランクで名前などはなかった。
「ほらみろ、作成者に私の名前なんかないじゃないか。私に濡れ衣を着せようとしても駄目だ」
仁科部長は興奮して叫んだ。しかし、霧旗は落ち着いた声で、
「すみません。嘘をつきました。作成者にはあなたの名前はありません。でもあなたは今あなたが行った行動で自分が犯人であることを証明してしまいました」
と、仁科部長をじっと見つめた。




