20.オクトパス
侵入者が訪れる11時まであと2時間になっていた。
オペレーションルームはキーボードを打ち込む音だけが響いている。
絵理子は霧旗が打ち込むコードを追いながらその横顔を見つめていた。ちゃらんぽらんでも結果を出せばいいと言っていたけど、とてもちゃらんぽらんには見えない。私にはとてもかなわない。
ようやく霧旗は一息ついた。
「さてぼくのほうもほぼ完成だ。奴がこのハニーポットに侵入してきたら、奴のIPアドレスを読み取るように仕組んである。奴のIPアドレスをつかんだら、こちらから奴のサーバーにアクセスして顧客情報を消去しよう」
霧旗は立ち上がって背伸びをした。ずっと座っていたので体が硬くなっていたのだろう。
「ねえ、コーヒーを飲みに行かない?インスタントだけど」
「そうだね。のぞき屋くんはどうする?」」
「ぼ、ぼくは自分の仕事が終わったからもう帰るよ」
絵理子は、のぞき屋を送り出すと7階のリフレッシュルームへ霧旗を案内した。
自動販売機で100円のインスタントコーヒーを買って霧旗に渡した。
「ブラックでよかったわよね?」
「うん、ありがとう」
霧旗はコーヒーを受け取り口をつけ、妙な顔をした。
「まずくない?」
「あら、私たちはいつもこれだったのよ。我慢して飲みなさい」
「はい」
霧旗は苦笑しながら返事をした。
「きみは変わってる」
「そうかしら」
「ぼくの回りの女の子は、いつも甘えてきたり、顔色をうかがったりしてたけど、きみは全く違う。ぼくを叱るのはきみとお袋ぐらいだ」
「おかあさまと並べていただいて光栄だわ」
午後11時が近づいてきた。
霧旗は鼻歌を歌いながら、PCに向かっていたが、田川も周りのSEたちも緊張していた。
「エリー、どんなIDで侵入してくると思う?」
「ITの実務担当者じゃないかしら?何でもできる権限があるし」
「だめだめ、まだ発想がサラリーマンだね。たぶん役員クラスのIDを使ってくるとぼくは思うよ」
「役員?」
「役員には上位権限が与えられているだろう?でも自分で使うことがほとんどないから、IDが重複することがない。ましてこの時間は銀行にいるはずもない。どこかのクラブで取引先の社長連中とカラオケでも歌ってるだろうから」
「ぷっ」
それを聞いて、田川が吹き出した。
「さて、いよいよ決戦だね」
「そうね」
11時10分を過ぎた時、霧旗が声をあげた。
「きた!」
周囲に緊張感が走った。
「やっぱり、役員のIDだ。ヤマノウチだって。これ頭取だよね?」
『ヤマノウチ』はログインをすると掲示版からチャットへ向かっていた。
ハニーポットはその途中に設置してある。
『ヤマノウチ』はハニーポットのファイアウォールに気が付いたようだ。
ファイアウォールのまわりでセキュリティホールを探していたようだ。一箇所で動かなくなった。
新しいファイアウォールに戸惑っているのだろう。
「侵入できないんじゃないかしら」
絵理子は霧旗に声をかけた。
「いや、絶対侵入してくる」
霧旗は黙ったまま監視を続けた。
10分ほど経って、また『ヤマノウチ』が移動した。
「侵入した」
霧旗は画面で行動の監視を続けた。
絵理子はため息をついた。自分のファイアウォールがいとも簡単に破られたのだ。
侵入されないと今夜の作戦は成り立たないが、侵入されるということは、自分のスキルがまだ未熟だということを思い知らされた。
「エリー、もう少ししたらハニーポットの中のチャットに到達する。そしたら奴に話しかけてくれないか。内容はなんでもいい。とりあえず引き伸ばしてくれ」
「わかったわ」
絵理子はチャットに『ヤマノウチ』がアクセスしたのを確認して、キーボードを叩いた。
―こんばんわ。オクトパスさん。
―きのうの姉ちゃんか?
―そうよ。成瀬絵理子よ。すごいわ、やっぱり侵入してきたのね。
―おれにできないことはないといったはずだ。
―このサーバーまで侵入されるなんてショックだわ。ファイアウォールは私がプログラムしたのに。
―それはお気の毒さま。この程度のファイアウォールなら簡単に突破できる。
―どこがいけなかったのかしら?
―今度Shunがいないときに教えてやるよ。どうせおれのこと監視してるんだろう。
霧旗は絵理子に合図をして、チャットに参加した。
―オクトパス、何が目的なんだ。
―別に目的なんてないよ。ただ散歩しているだけさ。
―侵入経路はわかったよ。すぐにパッチを当てる。IDもすべて変更する。お前は今度こそ侵入できない。
―おれにできないことはないといったはずだ。
―それはどうかな。いまからすぐにこのサーバーを遮断する。じゃあな。
霧旗はハニーポットとホストコンピュータを繋ぐLANケーブルを引き抜いた。
これで物理的に侵入は不可能だ。
それから自分のPCですばやくファイアウォールのパッチを田川に渡した。
「すぐにメインシステムのファイアウォールにこのパッチを当ててくれ」
田川はメインシステムのファイアウォールのプログラムを変更する作業に入った。
「仁科さん、役員の方々のIDのパスワードをすべてリセットするように指示してください」
仁科は了解したというようにうなずいた。
絵理子は、霧旗に向かって、
「このパッチを当てれば、ほんとうにもう侵入できないの?」
「奴が侵入していたセキュリティホールは以前ぼくが見つけたものと同じだった。そのパッチは作ってあったから、これを当てればたぶん大丈夫だと思う。絶対はないけどね」
それから、霧旗はそういうと自分のPCをハニーポットに直接接続し、解析を始めた。
「これからハニーポットにあるデータを分析して奴のIPアドレスを探りあてる」
「あれま、韓国のサーバーを経由してるよ」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。踏み台になっている韓国のサーバーにアクセスして、奴のIPアドレスをちゃんと解明するから」
霧旗は韓国のサーバーのポートスキャンを行い、ファイアウォールを突破し侵入した。
これじゃあどちらがクラッカーかわからない。さらにサーバー内を検索し、オクトパスのIPアドレスを探り当てた。
「さてと、これから人質を救出に行きますか」
「オクトパスに見つかるんじゃない」
「彼は今、帝都のセキュリティを破ることに夢中だ」
霧旗はオクトパスのサーバーに侵入し、顧客データのスキャンを開始した。15分が経過した。しかし、顧客情報はヒットしない。霧旗の顔にあせりの表情が浮かんだ。おかしい。どこを探しても見つからない。
「なぜだ?顧客情報が見当たらない。奴は顧客情報をコピーしたと言った。それなのに奴のPCの中にはどこにも見当たらない」
そこへ再び帝都のファイアウォールを突破する警報が鳴った。
オクトパスは、霧旗が作ったパッチも易々と突破してきたらしい。
―Shun、どうだ。おれに不可能なことがないのがわかったか。
―オクトパス、おれの負けだ。顧客情報を返してくれ。
―何を寝言を言ってる。顧客情報なんかとうの昔に削除した。
―じゃあなぜ脅迫状を送りつけた?
―脅迫状なんか知らん。
―そうか。お前のサーバーには顧客情報はなかったが、そのかわりお前の個人情報をコピーさせてもらった。顧客情報を返さなければこれをネットにばら撒くぞ。
―なんだと!いつのまにおれにサーバーに。
―お前が一生懸命帝都銀行のファイアウォールを破ろうとしているときさ。
―Shun,前にも言った通り、確かに顧客データにアクセスしたよ。金持ちの名前を見てみたくてな。政治家や悪徳弁護士の名前がずらりと並んでいたよ。でも脅迫なんかしてないぜ。別におれは金に困っているわけではないし、そこまで落ちぶれちゃいない。見損なわないでほしいね。
霧旗は一瞬考え込んだ。
―本当に脅迫していないんだな。
―本当だ。
―わかった。お前を信じよう。帝都銀行のホストに二度と侵入しないと誓うならお前の個人情報は削除する。
―しかたがない。だいたい見終わったし、これ以上帝都のホストには侵入しない。誓うよ。
ここでオクトパスはログアウトした。
霧旗はネクタイを緩め、椅子の背もたれに大きく寄りかかった。たぶんオクトパスは嘘をついていない。じゃあいったいどうなってるんだ。
ガタンと椅子を蹴り、立ち上がると、
「ちょっと外の空気を吸ってくる?」
と、言い残して霧旗はオペレーションルームを出て行った。




