19.ハニーポット
翌日もまた絵理子は9時に出勤した。やはり銀行時代の習慣が抜けない。しかし、寝不足で頭がぼんやりしている。昨夜は霧旗の車で横浜のマンションまで送ってもらい、午前1時前には着いたが、それからオクトパスとのやりとりを思い出してなかなか眠れなかった。
どうせ霧旗はまだ出勤していないだろう。きのう霧旗が言っていた『ハニーポット』について館長に教えてもらおう。
絵理子は館長のところへ行った。館長はお茶を啜りながら新聞を広げていた。
「おはようございます」
「おはよう。少しは慣れたかな?」
「ええ、でも霧旗くんに振り回されています」
絵理子は笑いながら答えた。
「霧旗くんも悪い奴じゃあないんだが」
「でもどこまでほんとなのか冗談なのかがつかめなくて困ってしまいます」
館長は遠くをみるような視線で、
「彼は小さいころに父親を亡くして、母親を支えながら自分ひとりで生きてきたので、人を信用することが苦手のようだ。大目に見てやってくれ」
「そうなんですか」
「まあ、世の中も世知辛くなってきとるから、何でも信用するのはどうかと思うがね。しかし、人を信じられないのも辛かろう」
人を信じることができなければ、好きになることもない。霧旗くんが本当に人を好きになったことがないと言ったのはまんざら嘘ではなかったんだ。
「それで、何か用事かな?」
「すみません。『ハニーポット』というのは何ですか?」
「『ハニーポット』かね。なかなか大掛かりになってきたね」
そういうと館長は書架へ行き、一つのレポートを取って戻ってきた。
「これを呼んでご覧。概要は前のほうに記載してある。実際のプログラムの設計は後半にくわしく載っている」
「ありがとうございます」
絵理子はページをめくった。概要のところには以下のように書かれていた。
『ハニーポット-』
クラッカーの侵入手法やコンピュータウイルスの行動様式などを調査・研究するためにインターネット上に設置された、わざと侵入しやすいよう設定されたサーバやネットワーク機器のこと。
「甘い蜜の入ったつぼ」の意味で、クラッカーやウィルスを「おびき寄せる」という意味からこのように呼ばれる。
ハニーポットはネットワーク越しには単なる脆弱なサーバーやネットワーク機器にしか見えないが、侵入しても外部に攻撃できないような設定がされており、また、侵入者やウィルスなどが介入できない方法で詳細な記録を採っている。
ハニーポットにおびき寄せられた侵入者の行動記録を調査することによって、コンピュータへの侵入や攻撃の手法を研究したり、いち早くウィルスの亜種を「捕獲」して分析するといったことが可能となる。
ハニーポットは囮のために設置するので正規の通信が発生しないという特徴がある。これは、記録に残るアクセスはすべて不正アクセスとなるので、誤検知を減らし検知洩れを無くすことができる。ハニーポットの目的として、ウィルスやワームの検体の入手、不正アクセスを行うクラッカーをおびき寄せ重要なシステムから攻撃を逸らしたり、記録された操作ログ・通信ログなどから不正アクセスの手法と傾向の調査を行うなど挙げられる。
ハニーポットは「本当に」侵入されてはならない。つまり、ハニーポットを動作させている基盤のシステムを乗っ取られたり、ハニーポットを踏み台に他のネットワークを攻撃されたり、不正なファイル交換に利用されてはならない。侵入を許しつつ実際の被害を抑えるようなシステムを設置・運用するのは、非常に高度な知識が要求される。また、ハニーポットで収集されるデータは多岐にわたり、そのデータを基に、攻撃の手法や不正な行為の証拠を特定するには、多くの知識や経験と時間を必要とする
絵理子は『ハニーポット』の存在を初めて知った。後半のページを見ると、詳細にコードが記載されていた。
「これお借りしてもいいですか?」
「どうぞ、使い終わったらH-3の棚へもどしておいてくれ」
「ありがとうございます」
廊下に出た瞬間、霧旗と鉢合わせた。
「あれ?もう来てたの?」
「うん、ハニーポットの準備にね」
霧旗は手配師の部屋へ向かっていた。絵理子はレポートを携え、いっしょについて行った。
手配師の部屋にいっしょに入ると、そこには小柄なチェック柄のシャツを着た青年がいた。霧旗は彼に向かって尋ねた。
「手配師さん、頼んでたサーバーは?」
「どうだい。これ?見た目は小さいけど高性能だ」
手配師と呼ばれた男は、自慢そうに答えた。
「うん、良さそうだね」
霧旗はサーバーといっしょについていたカタログを見ながら満足そうだった。
「思ったより小さいのね」
と、絵理子がサーバーをのぞきこんだ。
「最新型だ。でも性能はあのコンピュータルームのでかいサーバーの2台分はある」
絵理子は手配師と目が合い、軽く会釈した。手配師は霧旗の肩を小突いた。
「ところで、後ろにいる美人は誰だい?」
「ああ、手配師さんは初めてだったね。先週金曜日に入社した成瀬絵理子さんだよ」
「はじめまして成瀬です。よろしくお願いします」
「こんちわ、峻、こんな美人、なんでもっと早く紹介してくれなかったんだ」
「だって、手配師さん、いなかったんだもん」
手配師が握手を求めてきたので、絵里子は手を差し伸べた。
「久しぶり女性の手を握ったよ」
と手配師はうれしそうに手を握ったままひょうきんに言った。
「手配師さん、もう離して」
いつまでも手を握られていた絵理子は苦笑ながらお願いした。手配師は手を離し、頭を搔いた。
「これは失礼。ご要望のものがあればなんでも調達してきます。IT機器だけでなく、骨董品からコンサートのチケットまで大丈夫。以後お見知りおきを」
手配師はぴょこんと頭をさげた。
「わかりましたわ。これからもよろしくお願いします」
絵理子は手配師に挨拶をすると、タワー型サーバーを台車に載せて運ぶ霧旗の後を追った。
「ハニーポットには何を格納するの?」
「それはこれからのお楽しみ」
霧旗はのぞき屋の部屋の前に台車を止めノックをした。
「準備はできたかい?」
「お、お待たせ」
ドアが開くと、そこには髪をきれいに撫で付け、はちきれそうなスーツを着たのぞき屋がいた。その姿を見た絵理子は吹き出しそうになるのを必死にこらえた。
「よし行こう。エリーはこのサーバーを一階のエントランスまで運んでくれる?」
「どこへ行くの?」
「もちろん、帝都銀行だよ」
「向こうでセッティングするの?」
「もちろん。システムの仕様を同じにしなければ、ハニーポットがばれてしまうからね」
「わかったわ。ちょっと待って」
絵理子は自分の部屋に戻り、カバンに先程のハニーポットのレポートとノートPCを突っ込むとエレベータのところへ戻った。霧旗は車を回すと言って先に降りた。絵理子はサーバーを乗せた台車を押しながら、のぞき屋とともにエレベータに乗った。
「き、きのう峻から連絡があってスーツを着ていっしょに来て欲しいと言われたんだけど、ち、ちょうどいいのがなくて、昔のをひっぱりだしたら小さくなってて、こ、この格好おかしいでしょ?」
のぞき屋も自分の服装はきにしているようだ。
「そうね、もう一回り大きいほうがいいかも。でものぞき屋さんはスーツを着てもカッコイイわよ」
「ありがとう」
のぞき屋は照れていた。顔が赤くなっているところが可愛い。
そういえば、このサーバーとのぞき屋さんとあのポルシェに乗るのかしら。私が後ろで小さくなって乗るしかないわね。
エントランスでポルシェを待っていたので、別の車から霧旗が降りてきたのに気が付かなかった。
「どこ見てるの?」
と霧旗が声をかけてきた。見るといつものポルシェではなく、ジャガーのセダンだった。
「どうしたの?これ」
「那智さんの車。借りてきた。ぼくのポルシェの後部座席にのぞき屋くんを乗せるのは可哀想だから」
どうやら霧旗くんにもわかっていたらしい。とにかく後ろで小さくなる必要はなさそうだ。
霧旗は助手席のドアを開け、絵理子をエスコートした。自分でドアを開けることは許されないみたい。
「ありがとう」
絵理子が乗り込むと。トランクにサーバーを積み、後部座席にのぞき屋を乗せて発進した。サスペションが効いて、非常に乗り心地がよい車だった。
午後1時に大手町の帝都銀行に到着した。10階のオペレーションルームに上がると田川たちが集まってきた。霧旗は運んできたタワー型のサーバーを見せた。
「これにハニーポットを搭載します。このプログラムの作成をするため仲間をひとり連れてきました。紹介します。牧原くんです。通称のぞき屋くんです」
のぞき屋さんが『牧原』という名前だということを初めて知った。
田川が近づいて握手をした。
「よろしくお願いします」
「よ、よ、よろしく」
のぞき屋は照れながら挨拶をした。
それからサーバーをホストコンピュータに接続した。
「ハニーポットには何を入れるの?」
「奴が興味をもつようなセキュリティ関するものをいれようかと思ってる。プログラムとその要件定義書、それに実際のセキュリティにヒットしたメールなんかも」
「それでのぞき屋さんを呼んだのね」
「その通り」
霧旗は自分のPCを立ち上げ、プログラムの作成にかかった。
「エリー、きみはこのハニーポットに現在の帝都銀行のファイアウォールと同じ仕組みのセキュリティを搭載させてほしい」
帝都銀行のファィアウォールは統合時に再構築したもので、そのとき絵理子もメンバーだったのでその内容はよく把握していた。
「わかったわ。でもわざと侵入させるように作るんでしょ?」
「心配はいらない。奴なら全く同じふぁぃあウォールを作っても侵入してくるよ。どれくらいでできる?」
「1時間は欲しいわ」
「わかった。じゃあ午後3時をメドによろしく」
絵理子は自分のPCをハニーポットに接続するとファィアウォールのプログラムを作り始めた。確かにこのファィアウォールは一度突破されているが、前回突破された部分はすでにパッチを当てているので同じ方法では突破できない。どうやって侵入してくるのだろう。
約1時間後、絵理子はファィアウォールを作り上げた。
「峻くん、できたわよ」
「ありがとう。ぼくのほうはもう少しかかる。のぞき屋くんを手伝ってあげてほしい」
絵理子はのぞき屋の隣の席に移動した。
のぞき屋は自分のPCをホストコンピュータに接続した。それから、メールサーバーにアクセスしていた。
「どんなメールがヒットしてる?」
「し、し、私用メールだとか、コンプライアンス違反のメールだとかだよ」
「ふうん」
絵理子はPCを覗き込むと、検索でヒットしたメールがどんどん蓄積されていた。
「どんな私用メールがあるの?」
「ほ、ほ、ほとんどが社内恋愛っぽいね。不倫系もあるよ」
「ほんと?社内恋愛は厳禁なのに」
「で、でもたくさんあるよ」
絵理子は田川に向かって、
「私用メールって毎日ITで検閲してるわよね」
「はい、やってます」
「こんなにたくさんあったっけ?」
のぞき屋はその会話を聞いて得意そうに、
「た、た、たぶん検索用のキーワードが違うと思う。ぼくはかなり隠語をキーワードにしてるから」
「どんな」
のぞき屋はリストを見せてくれた。
そこには「いつもの場所で」「あなたのご都合のいいときに」「例の件はいかが」などふだん業務でも使いそうでよく考えると使わない言葉で、実は恋愛の隠語として使う言葉が列挙されていた。
「田川くん、うちの検索用のキーワードを見せて」
田川が見せたリストは「愛してる」「会いたい」「大好き」などの言葉が並んでいた。
「これじゃ検索にひっかからないわけね。こんな言葉を社内メールで発信する馬鹿はいないわ」
「そうですね、今後は見直したほうが良さそうですね」
のぞき屋がひとつのメールを指差した。
「み、み、妙なメールを見つけたよ」
霧旗は首を伸ばしてのぞき屋のPCをみた。
―お客様の訪問が近いので、100Mの回収が必要です。詳細はいつもの場所で―
差出人は経理課の小椋小夜子となっていた。あて先は携帯のメールアドレスだった。
「エリー、何だろうね、これ?」
霧旗は絵理子に質問した。
「たぶん不正融資じゃないかしら。お客様というのは金融庁検査のことで、100Mというのは1億円、回収というのは貸し付けた資金の返済のことを意味してると思うわ」
「この小椋小夜子さんって知ってる?」
「話をしたことはないけど、顔はわかるわ。とっても美人よ」
「会いに行って来ようかな」
「こらこら、いまそんな場合じゃないでしょ」
「はいはい」
霧旗は舌を出して、自分の仕事に戻った。
それから霧旗は真剣なまなざしでPCに向かっていた。




