3.異世界転移者、恋愛学教師になる
少女は私の手首を掴むと、そのまま草原を駆け出した。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私は運動靴じゃ──」
「黙って走って!」
速い。
細い身体のどこにそんな脚力があるのか分からない。
だが、彼女は風を切るように草原を進んでいく。
私は必死で後を追った。
その間にも、空では二つの月が淡く輝き、見たこともない鳥の群れが飛んでいる。
夢にしては現実感がありすぎた。
「……本当に異世界なのか」
「今さら?」
少女は呆れたように言った。
「月が二つあって魔法が飛んでる時点で察しなさいよ」
正論だった。
数分ほど走った頃だろうか。
森を抜けた先で、私は思わず足を止めた。
「……これは」
巨大だった。
山肌そのものを削って建てられた白銀の建築群。
無数の尖塔。
空中に浮かぶ円環状の構造物。
青白い光を流す水路。
そして建物全体を覆う半透明の膜。
まるで幻想小説の表紙そのものだった。
「あれが、“セレスアストレア魔法大学院”」
少女は息を切らしながら言った。
「この大陸最大の魔導教育機関」
「大学……?」
「正確には学院都市だけど。あなたの世界の“大学”に近いかな」
私は言葉を失った。
異世界。
魔法。
学院。
情報量が多すぎる。
だが次の瞬間、さらに混乱する光景が飛び込んできた。
学院の正門前で、ローブ姿の若者たちがこちらを指差して騒いでいる。
「お、おい見ろ!」
「誰だあの筋肉!?」
「魔導騎士団の人間か!?」
「いや違う、ローブ着てないぞ!」
やめてほしい。
なぜ異世界でも第一印象が筋肉なのか。
少女は面倒臭そうにため息をついた。
「……ルミナ」
「え?」
「私の名前。ルミナ・フェルシア」
「あ、どうも……斉藤ちひろです」
「チヒロ?」
「はい」
ルミナは私の顔を見て、それから胸板を見た。
「その名前でその見た目なの、ちょっと詐欺じゃない?」
「私も昔からそう思っています」
即答だった。
すると彼女は初めて少し吹き出した。
「ふっ……変なの」
笑われた。
女性に笑われた経験が少なすぎて、どう反応していいか分からない。
その時だった。
学院を覆う半透明の結界が、突如として赤く明滅した。
ビィィィィン、と耳障りな警告音が響く。
周囲の学生たちの顔色が変わる。
「空間震……!?」
「また発生したのか!?」
「結界維持班を呼べ!」
ざわめき。
緊張。
そして私は気づく。
空気が、歪んでいた。
いや。
“感情”が揺れている。
恐怖が伝播し、集団心理として空間全体へ広がっている。
私は無意識に口を開いていた。
「……群衆不安による連鎖反応ですね」
「え?」
ルミナがこちらを見る。
「恐怖は周囲へ感染します。誰か一人がパニックを起こすと、それが全体へ伝播する。今は結界異常そのものより、“不安の増幅”の方が危険です」
学生時代から何百回も読んだ理論だった。
心理学。
行動分析。
感情伝染。
恋愛は分からない。
だが、人間心理そのものなら、私は誰より研究してきた。
すると。
学院の塔の上から、一人の老人がこちらを見下ろしていた。
黒銀の法衣。
長い白髪。
異様な威圧感。
周囲の学生たちがざわめく。
「学長だ……!」
「エルグラン学長!?」
老人――エルグランは、鋭い目で私を見つめていた。
「ほう……」
低い声。
だが不思議とよく通る。
「異界人でありながら、“感情流”を視認できるのか」
「感情流……?」
「この世界では、感情は魔力と結びつく」
老人はゆっくりと杖を掲げた。
すると空中に、淡い光の流れが可視化される。
赤。
青。
紫。
学生たちの感情が、霧のように空間を漂っていた。
私は息を呑む。
「まさか……」
感情が空間を歪ませていたのではない。
この世界では本当に、“感情そのものが力”なのだ。
エルグラン学長は興味深そうに目を細めた。
「面白い男だ」
嫌な予感がした。
こういう「面白い」は大抵ろくなことにならない。
学長はゆっくりと言った。
「ちょうどよい。恋愛感情理論学の教員が一人不足していてな」
「…………」
私は固まった。
ルミナが「うわぁ……」みたいな顔をした。
「君、教師をやっていたのだろう?」
「い、いや、待ってください」
「専門は心理学」
「それはそうですが」
「感情理論にも理解がある」
「いやしかし」
私は震える声で言った。
「私は恋愛経験がありません」
沈黙。
数秒後。
学長は真顔で頷いた。
「素晴らしい」
「なぜ!?」
「偏見がない」
暴論だった。
だが学長は続ける。
「恋愛とは未知への探求。経験の有無より、観測と分析こそ重要だ」
「いや、でも学生から絶対に説得力ないって言われますよ」
「安心しろ」
学長は厳かに言った。
「この学院の恋愛学教師は、大体全員どこかおかしい」
終わっていた。
こうして私は。
異世界へ転移したその日に。
魔法大学院の教師としてスカウトされることになったのである。




