26.ノクスエモート
その日の夕方。
学院内には妙な噂が広がっていた。
『氷の監査官が異世界教師を認めたらしい』
『いや絶対違うだろ』
『でも少し優しかったぞ?』
『あのセシリア先輩が?』
『終末か?』
食堂事件の影響は思った以上に大きかった。
そして当の本人――セシリアは。
「……騒がしいですね」
学院の来賓用執務室で、静かに紅茶を飲んでいた。
向かいには学長。
老人は楽しそうに肩を揺らす。
「君が他人を口頭で処刑せんかったから、生徒が混乱しとるんじゃろ」
「人聞きが悪いですね」
「実際悪いからのう」
学長はカップを置いた。
「で、どうじゃ。あの異世界教師」
セシリアは少し黙る。
「……現時点では、“危険人物”から“要観察人物”へ変更しました」
「ほっほ。随分な昇格じゃな」
「褒めていません」
即答だった。
だが学長は面白そうに笑う。
「で?」
「……異質です」
「異世界人じゃからか?」
「違います」
セシリアは眼鏡を押し上げた。
「あの男、“感情”を軽視していない」
学長が目を細める。
「魔導師は通常、感情を制御対象として扱います。暴走の原因ですから」
「まあの」
「ですが彼は、“理解するもの”として扱っている」
セシリアは思い返す。
暴走する生徒へ向けた言葉。
価値がないと怯える少年への返答。
あれは精神操作ではない。
もっと地道で、非効率で――だが妙に人間臭かった。
「……面倒です」
ぽつりと呟く。
「感情へ理屈で向き合おうとする。効率が悪い」
「じゃが、お主は嫌っとらんじゃろ」
「違います」
返答が早い。
学長はにやにやした。
「わかりやすいのう」
◇
一方その頃。
「先生、完全に目ぇつけられてますからね」
ルミナが疲れた顔で言った。
「やっぱり?」
「セシリア先輩、基本的に他人信用しませんし」
学院の中庭。
夕暮れのベンチに、チヒロとルミナが並んで座っている。
授業終わりの静かな時間。
風が木々を揺らしていた。
「でもまあ」
チヒロは苦笑する。
「ちょっとでも認めてもらえたなら良かったかな」
するとルミナがじとっとした目を向けた。
「……先生って、たまに意味わかんないくらい前向きですよね」
「そうか?」
「普通、あんな圧強い人に睨まれたらもっと落ち込みます」
「いや胃は痛かったぞ」
「ならもっと深刻そうな顔してください」
チヒロは肩を竦めた。
「でもさ」
「?」
「人って、“怖いから攻撃的になる”ことあるだろ」
ルミナが少し目を瞬かせる。
「セシリア先輩が?」
「責任感強そうだしな。だから危険に敏感なんじゃないか」
「……」
「違ったらごめんだけど」
ルミナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「先生って、敵作るの下手ですよね」
「褒めてる?」
「半分くらいです」
その時だった。
学院中へ鐘の音が響く。
ゴォン――。
重い警鐘。
ルミナの表情が変わった。
「……っ!」
直後。
空が黒く染まる。
「なんだ……?」
空中に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
学院を覆うほどの規模。
ざわめきが広がる。
「結界が……侵食されてる……!?」
ルミナが青ざめる。
そこへ、学長の声が魔導通信で響いた。
『全教員および上級生徒へ通達――まったく、派手にやってくれるのう』
飄々とした声。
だが、その奥に緊張が滲んでいた。
『ノクス・エモートによる大規模干渉を確認した。生徒諸君、慌てるでないぞ』
空気が張り詰める。
『連中の狙いは単純じゃ。“不安”を煽り、人の心を折ること』
「っ……!」
チヒロが立ち上がる。
すると。
上空の黒い魔法陣から、無数の声が降り注いだ。
『お前は嫌われている』
『誰にも必要とされない』
『どうせ失敗する』
『愛される価値などない』
悪意の囁き。
生徒たちの顔色が変わる。
「やば……」
校舎の窓から空を見上げたミレイが、珍しく表情を強張らせた。
ネリィも胸元を押さえている。
「これ……心に直接……」
チヒロは歯を食いしばる。
完全に集団心理攻撃だ。
しかも“不安”を増幅させる形で。
するとルミナが低い声で言った。
「先生、一旦避難を――」
「いや」
チヒロは空を睨む。
「これは逃げたら駄目なやつだ」
「……は?」
「今ここで、“不安に飲まれたら終わる”って学習したら、この学院はずっと支配される」
ルミナの瞳が揺れる。
その時。
背後から冷たい声がした。
「珍しく同意します」
二人が振り返る。
そこにはセシリアが立っていた。
長い紫髪を風になびかせ、杖を構えている。
「セシリア先輩……!」
「感情干渉型呪術は、“恐怖による服従”が本質です」
彼女は空を見上げる。
「ここで屈すれば、敵の思う壺でしょう」
そしてチヒロへ視線を向けた。
「斉藤チヒロ」
「はい?」
「あなたの専門分野でしょう」
セシリアの杖に、氷の魔法陣が浮かぶ。
「感情の制御は私が行います」
「……」
「ですから」
彼女は静かに告げた。
「人の心は、あなたが支えなさい」
すると横で、ルミナが小さく呟いた。
「……先生、あとで倒れても知りませんからね」
「心配してる?」
「してません」
即答だった。
だが彼女は杖を握る手に、わずかに力を込めていた。




