24.感情の暴走
昼下がりの講義棟。
斉藤チヒロは、恋愛心理学演習の資料を抱えながら廊下を歩いていた。
先日の“告白の練習”は、予想以上に反響が大きかった。
生徒たちは互いの気持ちを言葉にする難しさを知り、同時に、自分がどれほど「拒絶されること」を恐れているかを理解し始めていた。
だが――。
その副作用のようなものが、静かに学内へ広がっていた。
「先生!」
廊下の向こうから、ルミナが駆け寄ってくる。
銀色の髪を揺らしながら、珍しく表情が硬い。
「大変です。第二演習棟で……感情暴走が」
「感情暴走?」
「生徒同士が突然泣き出したり、怒鳴り合ったり……。魔力まで不安定になっています」
チヒロの顔色が変わった。
「……結社か」
ルミナは頷く。
かつて学内へ潜入していた感情操作結社。
人間の不安や欲望を増幅させる、危険な集団。
以前は一部の生徒へ個別に干渉していたが、今回は規模が違う。
「学長は?」
「結界維持へ向かっています。でも原因が掴めていません」
「行こう」
二人は演習棟へ走った。
◇
第二演習棟。
そこは、もはや普段の学院ではなかった。
「なんで私を見て笑ったのよ!!」
「違うって言ってるだろ!」
「どうせみんな私を馬鹿にしてるんだ!!」
怒号。
泣き声。
魔力の暴発。
感情に反応するこの世界の魔法は、精神状態と密接に結びついている。
つまり感情が暴走すれば、魔力も暴走する。
机が浮き、窓ガラスが割れ、空気が震えていた。
「これはまずいですね……」
ルミナが杖を握る。
チヒロは周囲を見渡した。
(全員、被害妄想が異常に強い)
視線を向けられただけで敵意だと思い込み、少し否定されただけで人格を拒絶されたように感じている。
恋愛心理学でいう認知の歪み。
だが今は、それが魔力によって増幅されていた。
「先生!」
一人の女子生徒が泣きながら縋りつく。
「友達が私を嫌ってるんです……!」
「何か言われたのか?」
「……今日は挨拶の声が小さかったから……」
「……」
重症だ。
本来なら軽く流せる違和感を、脳が“拒絶の証拠”として確定させている。
その時。
廊下の奥から、黒い霧のような魔力が漂った。
「っ!」
ルミナが前へ出る。
「先生、下がって!」
霧の中から、ローブ姿の男が現れる。
顔は仮面で隠されている。
「……恋愛心理学教師、斉藤チヒロ」
低い声が響く。
「人の心を安定させる異物め」
「ノクス・エモートか」
「感情とは、本来もっと激しく、醜く、支配的なものだ」
男の背後で黒い魔法陣が広がる。
「恐怖、不安、嫉妬――それこそ人を動かす本能。貴様はそれを弱めている」
チヒロは静かに息を吐いた。
「違うな」
「……?」
「感情は否定するものじゃない。飲み込まれないために理解するものだ」
その瞬間。
男が魔力を放つ。
黒い波動が生徒たちへ広がった。
「きゃああっ!」
「う、うわぁぁ!」
さらに混乱が増す。
だがチヒロは叫んだ。
「みんな、深呼吸しろ!!」
生徒たちが混乱の中で彼を見る。
「今、自分の頭の中で何を決めつけてる!?」
「え……?」
「“嫌われてる”“否定された”“見捨てられる”――証拠もないのに決めつけてないか!?」
何人かの動きが止まる。
「感情は事実じゃない!!」
チヒロは続けた。
「不安になった時、人は“最悪の解釈”を選びやすい! でもそれは心が疲れてるだけだ!」
暴走していた空気が、わずかに揺らぐ。
ノクスの男が舌打ちした。
「言葉だけで止める気か」
「言葉は、人の認識を変える」
チヒロは男を見据える。
「認識が変われば、感情は変わる。感情が変われば、行動も変わる」
その横で、ルミナが魔法陣を展開した。
「先生!」
「ああ!」
ルミナの光魔法が黒い霧を押し返す。
そしてチヒロは、生徒たちへ向かって叫んだ。
「隣の人を見ろ!! 本当に敵か!?」
沈黙。
やがて。
「……違う」
「俺、勝手に思い込んで……」
「ご、ごめん……」
感情の連鎖が、少しずつ止まり始める。
黒い霧が弱まった。
「馬鹿な……!」
仮面の男が後退する。
「人は、そんな簡単に不安を手放さないはずだ!」
チヒロは静かに答えた。
「一人じゃ無理でも、誰かが言葉にすれば止まれることがある」
その瞬間。
ルミナの光が炸裂した。
白い閃光。
黒霧が吹き飛ぶ。
「ぐっ……!」
仮面の男は霧となって消えた。
「……覚えていろ、異世界の教師」
静寂が戻る。
生徒たちは呆然としていた。
やがて、一人がぽつりと呟く。
「……先生、すごい」
「いや」
チヒロは苦笑する。
「ただの心理学だよ」
その横で、ルミナが小さく笑った。
「……でも」
「?」
「先生が来てから、この学院、少し変わりました」
彼女はそう言って視線を逸らす。
耳が少し赤い。
「みんな……前より、自分の気持ちを話すようになったから」
チヒロは少し照れながら頭を掻いた。
「それなら、教師としては嬉しいかな」
するとルミナがぼそっと呟く。
「……ずるいですよ、そういうところ」
「え?」
「なんでもありません!」




