19.感情の距離
結社《静寂の秤》による“感情封鎖事件”は、学院全体を揺らしていた。
生徒たちは感情を表に出せなくなり、
笑うべき場面で笑えず、
怒るべき時に怒れず、
好きな相手を前にしても、胸が動かない。
まるで、“人間らしさ”だけが削ぎ落とされたようだった。
学院内では不安が広がっていた。
「これ、治るんですよね……?」
「もし一生このままだったら……」
だが、チヒロは静かだった。
「……違和感があります」
職員会議室。
学長アルヴェイン、ルミナ、レオノーラ、他の教師たちが集まる中、チヒロは資料を見ながら言った。
「結社は“感情を消している”わけじゃない」
「抑圧しているだけです」
「何が違うのだ?」と学長。
「人間の感情は、完全には消えません」
「抑え込まれるほど、別の形で漏れる」
チヒロは紙に円を描いた。
「例えば怒りを禁止されると、人は無気力になります」
「悲しみを押さえ続けると、身体症状が出る」
「感情は、水みたいなものなんです。塞いでも、別の場所から滲む」
ルミナが腕を組む。
「つまり、どこかに“漏れ”がある?」
「はい」
チヒロは頷いた。
「結社の術式は、“感情表現”を封じているだけです」
「だから逆に、“無意識の反応”は消せない」
「……具体的には?」
「視線です」
一同が沈黙する。
「人は感情を隠しても、“見たいもの”を無意識に目で追います」
「恋愛心理学でいう選択的注意です」
レオノーラが呆れた顔をした。
「また恋愛心理学か」
「かなり有効ですよ」
チヒロは真面目だった。
「つまり、術式の中心人物を見つければいい」
「感情を奪われた人間でも、“恐れている対象”や“依存している対象”には視線が集まる」
学長が目を細めた。
「……面白い」
そして即座に命令を出した。
「全校生徒を講堂へ集めろ」
◇
講堂には、生徒たちが静かに座っていた。
異様な空気だった。
誰も騒がない。
誰も雑談しない。
まるで魂だけが薄くなったようだった。
壇上に立ったチヒロは、小さく息を吐く。
(こういう大人数の前、苦手なんだよな……)
すると横からルミナがぼそっと言った。
「顔が引きつってるぞ」
「……緊張してます」
「意外だな」
「人前慣れしてるように見えます?」
「いや、全然」
「ひどい」
少しだけ。
ルミナが笑った。
その笑顔を見て、チヒロは一瞬だけ言葉を失った。
(……あ、今の普通に可愛かったな)
だが次の瞬間。
「何ぼーっとしてる。始めろ」
「はい」
現実は厳しい。
◇
チヒロは壇上で言った。
「皆さんに質問します」
「今、一番会いたい人を思い浮かべてください」
生徒たちは無表情のまま沈黙している。
「誰でもいいです」
「家族でも、友人でも、好きな人でも」
静寂。
だが。
チヒロは見逃さなかった。
数人の視線が、
講堂後方の“ある男子生徒”へ向いた。
(いた)
チヒロは確信した。
感情を失っていても、
依存や恐怖は無意識に残る。
そして、その男子生徒――ユリウス派の残党だった青年は、自分へ視線が集まった瞬間に顔色を変えた。
「そこです」
ルミナが即座に動く。
雷光のような速度。
「なっ――!」
青年が逃げようとした瞬間、
床に魔法陣が展開された。
学長だった。
「終わりだ」
重圧。
圧倒的魔力。
青年は膝をつく。
「な、なんで分かった……!」
チヒロは静かに答えた。
「人は、“心を奪われても”
本当に大事なものからは目を逸らせないんです」
◇
術式核が破壊され、
数時間後。
学院には少しずつ感情が戻り始めた。
泣き出す生徒。
笑い合う生徒。
抱き合う友人たち。
食堂にも久しぶりの騒がしさが戻っていた。
チヒロは隅の席でぐったりしていた。
「疲れた……」
「お疲れ」
向かいにルミナが座る。
珍しく、柔らかい声だった。
「今回は助かった」
「……珍しいですね。素直に褒めるなんて」
「茶化してほしいのか?」
「いえ、今のままでお願いします」
ルミナは少しだけ目を逸らした。
「お前の理論、最初は嫌いだった」
「でしょうね」
「人の感情を分析して、“理解した気になる奴”に見えた」
その言葉は、昔のチヒロなら刺さっていた。
だが今は違った。
「……そうだったと思います」
「ん?」
「昔の俺は、“傷つかずに人を理解したい”と思ってました」
「理論なら安全だから」
ルミナは黙って聞いている。
「でも今は分かります」
「人を理解するって、たぶん……」
「ちゃんと向き合って、失敗して、嫌われる怖さを知ることなんですよね」
静かな沈黙。
やがてルミナが、小さく笑った。
「少しは教師らしくなったな」
「それ褒めてます?」
「たぶん」
その時だった。
食堂の奥から声が飛ぶ。
「おーい! チヒロ先生ー!」
ネリィたち女子生徒だった。
「先生またルミナ先生と二人でご飯食べてるー!」
「えっ」
「やっぱ付き合ってるんですかー!?」
ぶふっ、と誰かが吹き出した。
周囲が一気にざわつく。
「え!?」
「マジ!?」
「ついに!?」
チヒロの顔が真っ赤になる。
「ち、違います!!」
一方ルミナは。
「……別に、嫌ではないが」
「!?」
食堂が静まり返った。
チヒロの思考が停止する。
「えっ」
ルミナは紅茶を飲みながら平然と言った。
「少なくとも、お前といると退屈はしない」
「…………」
「どうした」
「いやその……」
「心臓が今すごいことになってます」
ネリィたちが悲鳴を上げる。
「きゃーーーー!!」
「青春だーーーー!!」
学長は遠くからその様子を見ながら、静かに笑った。
「……なるほど」
「理論だけでは、人の心は救えんか」
だが。
「理論があったからこそ、
彼は人と向き合えたのだろうな」




