10.初めての授業
その言葉に、思わず変な声が出た。
「……え?」
「いやぁ人気者じゃん、斉藤先生」
カミラ先生が笑う。
「笑い事じゃないですよ!?」
「大丈夫大丈夫。学院で命狙われるのなんて年に三回くらいだ」
「多い!!」
私が叫ぶと、ルミナが呆れたように肩をすくめた。
「まあでも、“感情操作”系の連中が先生に興味持つのは分かるかも」
「……どういう意味?」
「先生、魔法なしで人の感情動かしてるから」
その言葉に、少しだけ空気が静まった。
レオンハルト先生は黒い羽根を見つめながら言う。
「夜鴉は、“人間心理そのもの”を魔術体系へ組み込もうとしている組織です」
「心理学を……魔法に?」
「ええ。恐怖、依存、崇拝、服従。感情は強力なエネルギーになる」
私は思わず眉をひそめた。
確かに感情は人を動かす。
だが、それを“利用する前提”で研究するのは違う。
「……人の心は、操作するための道具じゃない」
自然と口に出ていた。
するとレオンハルト先生が、少しだけこちらを見る。
「だからこそ、彼らは貴方を気に入らないのでしょう」
◇
その日の夜。
私は教員寮の自室で、机に向かっていた。
机の上には大量の紙。
開きっぱなしのノート。
そして冷えた紅茶。
「……明日の授業どうしよう」
結局そこに戻る。
世界が不穏でも、教師は授業をするのだ。
しかも明日は問題の――
『恋愛心理学・実践基礎』
である。
「なんで異世界来てまで恋愛講義してるんだろうな俺……」
しかも実践授業。
座学ではない。
実際に学生同士へコミュニケーション技術を使わせる授業だ。
胃が痛い。
すると。
コンコン、と扉が鳴った。
「斉藤先生ー、生きてる?」
ルミナだった。
「どうぞー」
「失礼しまーす」
彼女は部屋へ入るなり、机を見て苦笑した。
「うわ、散らかってる」
「準備してるんだよ」
「真面目だなぁ」
そう言いながら、彼女は机の資料を一枚拾う。
『初対面における心理的距離の縮め方』
『ミラーリング効果』
『自己開示の返報性』
「……相変わらず意味わかんない単語多いね」
「心理学用語です」
「で、明日は何やるの?」
私は少し迷ってから答えた。
「“会話の安心感”を作る授業」
「安心感?」
「恋愛って、結局“この人といると安心する”が大きいから」
ルミナが「へぇ」と目を丸くする。
「もっとこう、顔とか強さとかかと思ってた」
「もちろん第一印象は大事。でも長期的な関係は別」
私はノートへ簡単な図を書く。
『緊張』
↓
『自己防衛』
↓
『会話が噛み合わない』
「人は緊張すると、“評価される側”になる」
「……あー」
「だから会話が尋問みたいになるんだ。“嫌われないように”って」
ルミナが苦笑する。
「それ、学生たちめっちゃやりそう」
「なので今回は、“相手を安心させる聞き方”をやる」
「例えば?」
「否定しない」
「普通だね」
「でも皆できない」
私は真顔で言った。
「人は不安な時ほど、“正しさ”を優先するから」
今日の演習棟がまさにそうだった。
恐怖。
疑心暗鬼。
相手を否定することで、自分を守ろうとする。
でも、本当に必要なのは逆だ。
「“理解されている感覚”があると、人は落ち着く」
「……なるほど」
ルミナは少し感心したように頷いた。
その時。
再び扉が鳴る。
「入るぞ」
低い声。
レオンハルト先生だった。
「れ、レオンハルト先生!?」
「……何故そんな驚く」
いや怖いからです。
彼は相変わらず無表情のまま、部屋へ入ってくる。
「明日の授業資料を届けに来た」
「資料?」
渡されたのは分厚い紙束だった。
『対人感情反応における魔力波長の変化』
「…………」
「…………」
「難しくないですか!?」
「基礎だ」
「絶対違う!!」
ルミナが吹き出した。
するとレオンハルト先生は淡々と言う。
「貴方の授業、“感情変化”を扱うのでしょう」
「え、まあ」
「なら魔力反応との関連性も理解しておくべきです」
そう言って彼は机のノートを見る。
「……“ミラーリング”」
「はい?」
「興味深い」
彼は少し考えるように黙った後、ぼそりと言った。
「確かに人は、“自分と似た反応”へ安心感を抱く」
「え?」
「魔導戦闘でも同じだ。呼吸を合わせると連携精度が上がる」
私は少し驚いた。
この人、意外とちゃんと会話するんだな。
するとレオンハルト先生は真顔で続けた。
「ただし誤用すると気味悪がられる」
「実践的!!」
思わずツッコんでしまった。
その瞬間。
ふっ――
ほんの僅か。
本当に僅かだが。
レオンハルト先生が笑った気がした。
「……え?」
だが本人はもう無表情に戻っていた。
「では失礼する」
そのまま部屋を出ていく。
扉が閉まる。
数秒の沈黙。
そして。
「今、笑った!?」
「笑ったね!?」
「初めて見たんだけど!!」
ルミナと二人で大騒ぎになった。
◇
翌日。
恋愛心理学・実践基礎。
教室には妙な緊張感が漂っていた。
「今日は実践授業を行います」
「おおー……」
学生たちがざわつく。
私は黒板へ大きく書いた。
『本日のテーマ
“安心できる会話”』
「恋愛で最も重要なのは、“面白い話”ではありません」
「えっ」
「顔でもありません」
「ええっ」
一部の男子学生が絶望した顔をした。
「大事なのは、“この人と話していると安心する”です」
私は教室を見渡す。
「なので今日は、“相手を否定せずに会話を続ける訓練”をします」
その瞬間。
一人の男子学生が手を挙げた。
「先生!」
「はい」
「女子と話すと緊張して何話せばいいか分かりません!」
「正常です」
「正常なんだ……」
教室に笑いが起きる。
少し空気が和らいだ。
「まず覚えてください。“面白くしなきゃ”と思うほど失敗します」
「えっ」
「人は緊張すると、“評価されること”ばかり考えるからです」
私は教壇から降りる。
「なので最初にやるべきは、“自分を良く見せること”ではない」
学生たちを見回しながら言った。
「“相手を安心させること”です」
その時だった。
教室後方。
一人だけ、妙に冷たい感情流を持つ学生がいた。
黒い感情。
底の見えない観察眼。
そして。
口元だけが、笑っていた。




