9.不安の伝染
重い沈黙が落ちた。
学院へ魔獣を放った者がいる。
しかも結界を突破し、影獣を制御できるほどの術者。
それはつまり――学院内部の人間でなければ不可能だった。
「……面倒なことになったな」
カミラ先生が頭を掻く。
だがその目は笑っていなかった。
レオンハルト先生は地面に残る魔法陣を見つめたまま言う。
「術式構成が妙です」
「妙?」
「恐怖感情を増幅している」
私は反応した。
「恐怖……?」
「ええ。通常、影獣は敵意や殺意へ反応します。ですがこの個体は違う」
彼は魔法陣へ指を触れる。
黒い光がわずかに浮かび上がった。
「“恐怖した対象”を暴走させる術式です」
その瞬間。
嫌な予感が背筋を走った。
恐怖。
それは人間の最も根源的な感情の一つだ。
そして――最も操りやすい感情でもある。
「……まるで、パニックを起こすための魔法ですね」
私が呟くと、レオンハルト先生がこちらを見る。
「理解が早い」
「心理学でも同じです。人間は恐怖状態だと、正常な判断が難しくなる」
「集団なら尚更です」
レオンハルト先生は続ける。
「一人の不安は伝染する。恐慌は増幅する。暴動も、差別も、戦争も、始まりは大抵“恐怖”です」
その言葉に、周囲の空気が重くなる。
するとカミラ先生が腕を組んだ。
「つまり犯人は、“学院を混乱させたい”ってことか?」
「もしくは――」
レオンハルト先生が細く目を眇める。
「誰かの感情反応を観察していた」
ぞくり、とした。
感情を見る者。
感情を操る者。
そんな相手が学院内にいる。
その時だった。
「せ、先生!!」
一人の男子学生が駆け込んできた。
顔面蒼白だった。
「大変です! 第二演習棟で学生たちが――!」
◇
第二演習棟。
そこは低学年用の実技施設だった。
私たちが到着した時、中は完全に混乱状態だった。
「やめろって!!」
「近づくな!!」
学生同士が怒鳴り合っている。
中には泣き出している者までいた。
しかも妙だった。
皆、異常に“怯えている”。
「なんだこれ……」
ルミナが眉をひそめる。
ある女子生徒は、友人へ震えながら叫んでいた。
「さっき私の悪口言ったでしょ!?」
「言ってないよ!」
「嘘!! 絶対見下してた!!」
別の男子学生たちは互いに睨み合っている。
「お前、俺を囮にする気だっただろ」
「違うって!」
「どうせ内心バカにしてたんだろ!」
空気が刺々しい。
まるで全員が、“他人を信じられなくなっている”。
私は息を呑んだ。
「……これ」
「感情汚染ですね」
レオンハルト先生が即答する。
「恐怖感情が伝染している」
ミレイア先生が眠そうな顔で呟く。
「……不安が不安を呼んでる」
私は学生たちを見る。
その感情流は滅茶苦茶だった。
黒。
灰色。
濁った赤。
不安。
猜疑心。
劣等感。
そしてその中心には、“拒絶への恐怖”があった。
「まるで……SNS炎上みたいだな」
「えすえぬえす?」
ルミナが首を傾げる。
「あ、いや……」
思わず口を滑らせた。
だが本質は似ている。
人は不安になると、“敵”を探し始める。
誰かが悪い。
誰かが自分を傷つける。
そう考えることで、自分の恐怖を整理しようとするのだ。
すると突然。
「お前だろ!!」
一人の男子学生が、別の学生へ殴りかかった。
「危ない!」
私は反射的に前へ出る。
だが間に合わない――。
その瞬間。
パァンッ!!
乾いた音。
カミラ先生のチョップが、暴れた学生の頭へ直撃していた。
「ぐふっ」
「落ち着けバカ者ォ!!」
豪快だった。
物理だった。
だが。
「……っ」
学生の感情流は、さらに乱れていく。
駄目だ。
恐怖状態の人間を力で抑えると、“敵認定”が強化される。
「カミラ先生!」
「んぁ?」
「今は威圧しない方がいいです!」
「じゃあどうする!」
私は周囲を見る。
怯えた学生たち。
疑心暗鬼。
過剰反応。
――認知が歪んでいる。
なら。
「“安心できる情報”を先に与える」
自然と口にしていた。
「人は不安になると、“最悪の想像”を補完します。だから先に、“安全”を認識させる必要がある」
私はできるだけ落ち着いた声を出した。
「聞いてください!」
全員の視線が集まる。
緊張で胃が死にそうだった。
でも今はやるしかない。
「まず確認します。
現時点で、誰も命に関わる怪我はしていません」
ざわつきが少し弱まる。
「学院結界も機能しています。
教師陣も全員ここにいます」
ゆっくり。
落ち着いて。
「だから、“今すぐ危険な状況”ではありません」
学生たちの呼吸が少し変わる。
レオンハルト先生が、わずかに目を見開いていた。
「……なるほど」
私は続ける。
「不安な時、人は“敵”を探してしまいます。でも今、皆さんが戦う相手は“隣の誰か”じゃない」
感情流が少しずつ落ち着いていく。
「怖い時ほど、“決めつけ”をしないでください」
静寂。
やがて。
「……ごめん」
最初に口を開いたのは、殴りかけた男子学生だった。
「俺、ちょっと怖くなって……」
「……俺も言い過ぎた」
空気が変わり始める。
怒りが下がる。
敵意がほどける。
その様子を見て、ミレイア先生がぽつりと言った。
「……この人、“安心”を作るの上手い」
すると隣でルミナが苦笑する。
「でも本人が一番不安定なんだよね」
「やめてください」
普通に傷つく。
その時だった。
レオンハルト先生が突然、鋭く振り返る。
「――誰だ」
空気が張り詰めた。
演習棟二階。
一瞬だけ、“黒いローブ”が見えた。
「っ!」
次の瞬間、その人物は走り去る。
「待て!!」
カミラ先生が炎を纏って飛び出した。
だが。
バチィン!!
空間が歪み、黒い魔法陣が炸裂する。
「転移魔法……!」
煙が晴れた時には、もう誰もいなかった。
ただ。
床には、一枚の黒い羽根だけが残されていた。
レオンハルト先生がそれを拾い上げる。
そして珍しく、はっきりと険しい顔をした。
「……“夜鴉”」
「知ってるんですか?」
私が聞く。
彼は静かに答えた。
「人の感情を利用し、精神を壊すことを研究している魔導結社です」
その言葉に、背筋が冷えた。
するとレオンハルト先生は、こちらを見た。
「斉藤先生」
「は、はい」
「どうやら貴方、“厄介な連中”に目をつけられたかもしれません」




