顕現
空には薄絹のような雲が掛かっていた。
辰の刻は、とうに過ぎている。
決闘の場へ立ち会う人々は、焦れる心を抑えて厳粛な面持ちを保っていた。
奉行、従者から警護の下士まで、騒ぎ立てる者はおろか、言葉を発する者もほとんどいない。幕をはたく風の音、寄せては返す潮騒がするばかり。
彼等はただ時折、蘇芳色の天幕へ気がかりな目を向けるのだった。
そこには、遅参する相手をなおも静かに待つ者が控えている。
こうやってわざと遅れ、相手を憔悴させようとしているのではないか……そのように邪推する者も少なからずいたが、誰も口にはしない。ただ二人の剣豪が雌雄を決する場を決して邪魔してはならぬと自らを制している。
「……」
天幕の中で、小次郎は無心になってみようと空を見上げた。
蒼穹に目を馳せる。あの空の色はこの試合で自分の生命が消えても変わることはない。この先の未来もずっと色褪せぬまま、あの色であり続けるだろう。
今まで幾多の人々が生と死を繰り返してきた様を、ただ静かに見降ろしてきたように。
(無心になろうともなれずとももう構わない。ありのままの自分で向かおう)
大死一番。禅寺で聞いた言葉がふと心に浮かぶ。
己への執着を捨て去ることで、人は真の悟りを開くことが出来るのだと禅師は説いた。
誰しも完全に煩悩を捨てることなど出来はしない。それでも、ひとつでも捨てることが出来れば仏の尊い悟りへ一歩近づくことが出来るのだと……
自分はどうだろうか。もしかしたら剣によって生への執着を捨て、悟りを得ようとしているのかも知れない。
そう思った時、それまで険しかった小次郎の顔に静かな笑みが浮かんだ。
そこへ……
「武蔵どのとおぼしき小舟が近づいて参ります!」
磯に立って見張っていた藩士の一人が、控えていた人々へ駈けより、大声で告げた。
「ついに来たか!」
立ち上がった者もいたが、たちまち「控えよ!」と叱責を浴びる。
彼等はあくまでこの試合を見届ける公平な立場でなければならないのだ。立ち合いを一切邪魔してはならない……あらかじめ、そう言い渡されているのである。
一人の小者だけが藩役人から「巌流殿へ告げて参れ!」と命じられ、幕の中へと入っていった。
小舟は遠浅の浜辺へ漕ぎよせていたが、やがて浅瀬へ船底が届いたらしく、動きが止まった。
と、同時にそれまで船べりへ立って浜辺を見つめていた男が身軽な動きで跳び下りていた。
武蔵である。
そこは踝ほどの水位しかなく、彼は浅瀬から砂浜へ向って歩き始めた。
彼の頭には、破れた布地をねじり上げた鉢巻が締められていた。
そのとき。
彼の上陸を阻むように、天幕から一人の男が走り出した。
黒みがかった垢の袖無羽織、脇に挟んでいるのは言わずと知れた名刀物干竿。立会人の家老たちですら思わず腰を浮かせた。
「武蔵ッ!」
一方は鋭い叫びと共に水際に立ちはだかり、一方は波に足を洗われながら対峙する。
「待たせたな」
静かに応じた武蔵は腰の両刀はそのままに、手には櫂を削って作った木刀を引っ提げていた。
「約束の刻限に遅れて来るとはあきれた奴。二天の兵法も語るに堕ちたな」
「巌流も所詮は口舌の徒。言葉でしか人を斬れぬ小心者よ」
遅れていながら勝手な言いぐさ、と小次郎の目に怒りが宿る。
それは一見、武蔵の挑発へまんまと乗ったようだったが、血気に逸ればたやすく斬られると己を戒めている小次郎は、そのように自分を見せているだけだった。
武蔵も、既にそれは看破していた。
睨み合う二人の間に見えない激しい火花が散る。
半ば波に足を取られた格好の武蔵に対して有利な地の利を得ながら、これを生かして如何に仕掛けるか小次郎は思いを巡らせていた。
と、武蔵は喚き声をあげるや水を蹴立てて斜めに走り出した。
「待て!」
水辺を走る武蔵を陸地から追う小次郎はたちまち追いつく。
追いつかれた武蔵は……予めそれを待っていたのだろう、足取りを変え、やおら小次郎の間合いに踏み込んできた。
「!」
倒れるような踏み込みに体重に加えて放たれた上段の打ち込みを小次郎は滑るように避け、そのまま武蔵へ肉薄する。長刀物干竿をそのまま槍にした突きが走った。
しかし、小次郎同様に武蔵も、その動きを肌に迫る剣風で感じ取っていた。
汚れた服が鋭い音と共に切り裂かれたが、はだけて見えた肌には赤筋ひとつ走っていない。
かわされた小次郎は、しかしこちらも顔色ひとつ変えない。身体を捻って体勢を立て直した武蔵が目まぐるしく面から小手、小手から胴へと繰り出す連撃をその長刀で的確に受け、あるいは流す。
と、先ほどは槍のように見えた物干竿が今度は棍棒のように横殴りに武蔵を襲う。潮に濡れた木刀がそれを真っ向から受け止めた。
木刀から木片が散り、二人は同時に飛び退り、互いに距離を置いた。
離れた場所から見守る人々はその場に凍り付いたようだった。動けばそれが技になる、そんな二人の動きは舞踊のようでもあり、思わず見惚れてしまっていたのである。
瞬きすら忘れ、両雄の死闘を食い入るように見つめている。
そして……
それは、二人の視界の中にいながら、その姿を隠して死闘を己の戦いのように感じていた「彼」も同様だった。
(このような辺境に、これほどの凄い戦士がいたのか!)
(それも二人も!)
もし、彼らが自分の種族であれば、間違いなくひとかどの戦士として畏怖と敬意を集めるに違いない。
それが、原始にも等しいこんな辺境の惑星に……
彼は驚愕し、感嘆し、息を呑んで戦いを見守り続ける。
それまで、二人をそれぞれ観察するたび「彼」は興味が深まっていった。いずれも劣らぬ剣の使い手。この二人が戦えば一体どちらが勝者となるのか。剣の使い方、戦い方もまったく異なる。それぞれが独特のスタイルを持っていた。
なにより二人には「戦う」ことに、なにか深い哲学を見出している。それが「彼」には新鮮な発見だった。
それがあの強さの礎なのか、それゆえに他を圧倒する強さを身に着けたのか、と彼には思えるのだった。
そして……
――自分も彼等と互いに剣を交え、戦いたい。
最初は邪魔を排除し見ているだけのつもりだった。
だが、彼は次第に己も戦いに加わりたいという願望を抑えきれなくなった。
この身に着けた装備を用いれば彼等を狩ることなどおそらくたわいもないだろう。
だが、それは絶対にやってはならない。二人の偉大な戦士に対する侮辱に他ならないのだ。
戦うのであれば彼等と同じ立場でなければならない。この腕の剣だけを恃み、己の才覚と技、そして身体だけでなければ意味はない。
(戦いたい)
(己もひとかどの剣士として彼等と交わり、認められたい!)
身体に流れる血が、凄まじい勢いで脈打つ。
彼は、ようやく得心した。長老が、このとき、この場所に在れと自分を送り出したのは何故なのかを。
こうなるであろうことを彼は知っていたのだ。
(彼は何故死んだのです?)
あのとき疑問に思った先達の死の意味。
そうか、今の自分と同じように対等に戦いたいという高貴な欲望に彼は忠実に従ったのだ。
敗れたときもきっと、誇り高く戦って散ったその生き様に満足して……
(今こそ、自分も従おう)
この二人に対しては既にやみがたいほどの深い敬意が生まれていた。
彼等を己の力で倒し、その死を賞杯に出来るならどれほど誇らしいだろう。逆に彼等に敗れ、斬られても少しも悔いはない。
己の身を風景に溶け込ませて遮蔽する装置のスイッチを、「彼」はその尖った指で切った。
虚空を放電が走り、光学迷彩が消え去る。
剣を交え、火花を散らしていた両雄を前に「彼」は、ついにその姿を晒した。
「何奴!」




