掃討
潮の色は暗く深かったが、それとは対照的に空の色は澄みきっていた。心を空にして剣を交えようとしている者達へ、神からのせめてもの心づくしのように……
狭いこの海峡を流れる潮はやや激しかったが、この海域ではさほど珍しいものではない。
二人の剣豪が雌雄を決する舞台、船島からずっと離れた彦島の浜から彼方を見やる一群の人々にはしかし、そんな厳しい潮の色や流れに気に留める者など誰もいなかった。
「まだ、見えぬか?」
「まだだ。まだ武蔵の舟は見えぬ」
彼等は血走った眼をしきりに海の向こうへ走らせている。殺気立った顔を見合わせ、ささやきあっているのはいずれも年若い侍だった。小次郎を師として剣を学ぶ、巌流の門人たちである。
今日は「船止め」が藩から布令されている。この海に一切の船を出すことは許されない。
そして、無論のこと、如何なる助太刀、加勢、邪魔立ての類も。
だが、小次郎を「先生」と尊敬してやまない彼等は「万が一でも先生が斃されるかもしれないなら後でどんな処罰を受けても構わない、試合の前に武蔵を待ち受け、数を恃んで討ち取ってしまおう」と、数日前から密かにこの浜辺へ上陸していたのである。
「約束の時刻なら、もう一刻以上も過ぎているはずだぞ」
「ふん、やはり巌流先生に恐れをなして逃げよったか」
「然らば重畳、武蔵には汚名が付き、これにて先生の身は何事もなし」
ホッとしたように誰かが笑みを見せた時……
「見えた、見えたぞッ!」
彼等が屯している浜辺から離れた小高い所からずっと見張っていた男が叫んだ。
「来たか武蔵ッ!」
すわ! と、色めきだった門下生たちは、男が指さす方向を見る。
手をかざし陽がぎらぎら反射する海面へ瞳をこらすものの、まだその姿は見えない。
だが、武蔵が来たという一報だけで、逸り立っていた彼等の気は一気に昂ぶった。まるで、各々が武蔵と決闘するその人であるかのように。
一人が煽るように叫ぶ。
「よし、行くぞ! 足場のおぼつかぬ海の上ならば、いかな武蔵とて!」
彼等は口々に「オオッ!」と応えた。
「未熟な我等でも力を合わせれば!」
「抜かるな、一同!」
彼等のまとめ役らしい男が、さっと手を振る。
「よし、みな舟に乗りこめ!」
綱を切ればすぐ漕ぎ出せるよう、既に舟の準備は岸に出来ている。彼等は走り出そうとした。
ふと気づいた一人が「待て」と一同を制し、小次郎がいる船島へ向かって頭を下げる。
「巌流先生、どうかお許し下さい。万が一にも貴方の剣の教えが絶えるようなことがあってはならぬのです」
荒ぶっていた一同はハッと我に返り、同じようにそれぞれの頭を下げた。
おそらく生涯に二度と相まみえることがないほどの宿敵。覚悟し、同時に胸も躍らせているであろうその決闘に敢えて水を差そうというのだ。その失望を思った彼等はしばらくの間、その人のいるであろう方角へ黙って頭を下げ、心の中で詫びた。
しばらくの間、浜には静かな潮騒の音だけが聞こえていた。
ややあって頭をあげた誰かが「我々は先生には不本意なことを承知の上でしようとしている。みな、それを覚悟のうえで盟を結んだのだ。今さら後悔すまいぞ!」と檄を飛ばした。
門人たちの顔に再び決意の色がみなぎる。
「よし、行こう!」
「許されなくとも後悔すまいぞ。先生の栄達を武蔵づれなどに邪魔はさせん!」
うなずいて彼等が再び走り出そうとした……そのときだった。
突然、一人の男が奇妙な声をあげると立ち止まり、両手を振り回した。
「おい、富樫。どうし……」
声を掛けた同僚の顔に噴水のように真っ赤な血しぶきが降りかかる。
富樫と呼ばれた男の腹から突然、血しぶきと共に反り返った刃が現れた。その瞳がぐるりと白目を剥き、絶命した身体が大きく弧を描いて宙を飛ぶ。
無造作に投げ飛ばされた男の身体は彼方の砂浜に落ち、砂まみれになって転がるとそれきり動かなくなった。
「……!」
一体何が起こったのか解らずポカンと立ち尽くしていた門下生たちの中の一人が再び突然奇声をあげる。何事と注目を浴びた男は、虚空から現れた刃によって無惨に切り裂かれていた。そのまま後ろへどうと倒れる。
「久米島!」
「一体なにが起きた!?」
「どこからかは知らぬが賊がいる! みな刀を抜け!」
武道の心得を持ち、日々剣を鍛えている青年たちである。姿形が見えぬ敵に驚きこそすれ、ただ怯えるだけの無力な者ではなかった。敵の襲撃と悟るや鞘からそれぞれの愛刀を抜き放つ。
「同士討ちに気を付けろ!」
「どこから仕掛けて来るや分からぬ。背中合わせに互いを守れ!」
まとめ役が声を掛ける。それはこの場ではもっとも的確な指示だったが……
「くそ、何者だ!」
そう叫んだ男の胸元へ、虚空から突然現れた銀色の長い槍が突き刺さる。
それは、背中合わせに立っていた男も貫き、引き抜かれるや二人は血を噴きながらその場に崩れ落ちた。
「ひ、卑怯な!」
「武蔵の手の者か? 姿を見せろ!」
槍を引き抜いたところに、姿を見せぬ敵がいると知った一人が喚きながら飛び掛かる。
彼等はそのとき、目に見えぬ相手の声を聞いた。
……いや、正確には声でなく奇妙な音というべきだろう。それは、喉を鳴らしたような乾いた音だった。
そして、咆哮にも似た声があがるや、手甲鉤のように腕に装着した剣が飛び掛かった男を袈裟斬りに切り裂いた。
天高く血飛沫があがり、男は血まみれの無惨な屍と化して砂浜に倒れ伏した。
「な、なんなんだお前は……一体何者なんだ……」
明らかに、相手は人間ではない。
同僚の惨殺を目の当たりにした男が、思わず震え声で問い掛ける。喉を鳴らしたような声が嘲笑うように応えた。
同時に虚空から現れた網が空から数人を絡めとった。そのまま自動的に巻き取られてゆく。絡めとられた男たちは手にした剣で必死に網を斬り破ろうとしたが、特殊な鋼材で作られているらしいその網には傷ひとつつかない。
そして一塊まで網の中に詰め寄せられた者たちは、絶叫と共に無惨な肉片と化してしまった。
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
このような人の殺し方など、今まで見たことも聞いたこともない。
もはや武蔵を討ちとるどころの話ではなく、残った門下生たちは数々の惨殺を前に闘志をへし折られた。背中を向けて我先に逃げ出す。
彼等の中に自分達が「狩られている」ということに思い及んだ者はいなかった。
「……」
襲撃者は逃げ散ってゆく者たちを黙って見つめた。その喉から蔑みの音が鳴る。
ここに、勇を鼓してなおも自分へ立ち向かおうとする者はいない。彼等に生きる価値などない。
彼はそう思った。無論のこと、ここから誰一人逃すつもりはなかった。
腰に下げた銀の円盤を構え、投げつける。
よほど重いものなのか、かろうじて空に浮かぶようにのろのろと投擲されたそれは、しかし次の瞬間には凄まじい勢いで加速し、複雑な軌道を描いて空を薙いだ。円盤は矢のような速さで逃げ惑う人々の間を一巡する。
そして、投擲した者の手元へと再び戻った。
同時に、逃げ散っていた者たちの胴から次々と首が落ち、続いて意思を失った身体がバタバタと砂浜に崩れ落ちた。断末魔の声ひとつ、なかった。
逃げる者たちの中で最も遅れて走り出した男だけが偶然その円盤の刃から逃れたが、自分の先を走っていた者たちが首を飛ばされてゆくのを見て腰を抜かし、その場にへなへなとへたり込んだ。
怯えた目で振り返った彼の前で、虚空から「それ」は初めて姿を現した。
落ち着いた様子で円盤を腰へ下げると、こちらへ向かってゆっくりと歩いて来る。
「なんだ、お前は……」
その奇怪な容貌を見た男は恐怖に泣き出した。逃れられぬ死を前に、震える手で愛刀を握り直すとあらん限りの声で叫びながら斬りかかった。
「なんで俺たちを殺すんだ! なんでだよ!」
上段から振り下ろされた剣を見ようともせず、「それ」は腕の手甲鉤で受けた。震える手で握っていた剣は手を離れてくるくると宙を舞い、「それ」は落ちて来た剣を手にするや鋭い動きで真横へ薙ぐ。
男の首は顔に涙を濡らしたまま、コロリと地へ落ちた。
浜辺には、再び潮騒の音だけが響いている。
遠く目を凝らせば、一艘の小舟が彼方の島へと向かっているのが見えた。
それを遮ろうとした者たちの死にざまを冷ややかに一瞥し、「それ」が発した言葉を聞いた者は誰もいなかった。
「ジャマヲ……スルナ……」




