誘い
昨日から、霧のような雨が降り続いていた。
視界を白く覆う雨を見て彼はぼんやりと思った。
――自分のようだ、まるで。
ただ、孤剣に恃み、孤剣に縋って、今は行く先も見えず、行く気力さえ湧かない……
人がいなければ廃屋ともあばら屋とも見えそうな掘っ立て小屋の軒先で、男はその手紙を受け取った。
「……拝見の上、ご承諾のお返事を賜るように私は言われております」
「……」
男は渡された手紙を一読するや、雨の中を悄然肩を落とした。
薄汚れた衣服を濡れてゆくに任せたままぼう然としていて、使いに立った男の言葉も耳に入っていないようだった。
馬から降り、丁重な挨拶と共に手紙を渡した使者、桐田伊左衛門は笠の下から男をじっと見つめた。
雨に濡れた服が浮き彫りにした男の肉体は、今まで見たことがないほど逞しく、見事に鍛え抜かれていた。
それだけに、失望して悄然としている様子が余りにも似つかわしくなかった。
とぼとぼと歩き出した男は、縁側にへたり込むとそのまま顔を上げようともしない。
「……失礼いたします」
使いに立った手前、返事をもらわないうちは帰れない。
伊左衛門は笠と蓑を外すと声を掛け、同じように腰を降ろした。
「名乗るのが遅れてました。私は桐田伊左衛門と申します」
男は俯いたままだったが、しばらくして「委細承知したと……そうお伝えくだされ」と、つぶやいた。蚊の鳴くような声だった。
「何か、申し添えることはございませぬか?」
思わず心配して声を掛けてしまうほど、男はうち萎れている様子だった。
「私は手紙の文面は皆目存じませぬが……もしや果し合いを中止にするとのお達しでしたか?
男は黙って首を横に振った。
「逆だ。中止はあり得ぬと。わしは、戦わず負けたことにしてくれと申し上げていたのだが……」
「なんと! そのようなことを申し出られておられたのか」
男は黙ってうなずく。伊左衛門は呆気に取られ、うなだれた男を見つめる。
果し合いの前に負けを申し出るなど「臆病風に吹かれた腰抜け」と嘲笑われ、後ろ指を指されよう。
だが、と伊左衛門は男を厳しく睨む。
「何故なのです。だって貴方は……」
宮本武蔵。
身の程をわきまえぬ軽輩や三下ならいざ知らず、ここにいるのは剣豪の名を欲しいままにする男なのだ。その剣の下に名だたる剣士をどれほど斃してきたことか。それが……
男は、ちらりと手紙に目をやった。雨に濡れそぼったそれは、もう読むことも出来なくなっている。
「剣を交えず敗など言語道断。逃げることも許さぬ、他日に伸ばすことも出来ぬ。約定通りの刻と場所で尋常に勝負せよと……」
伊左衛門は男の手を見た。それは寸毫も震えていない。
やはり果し合いに怯えるような男のはずがない。別の理由があるのだと彼は確信した。
「何故」
咎めるような視線を横から浴び、男は独り言のように語った。
「……斬るたび学んだ。わしの剣は命懸けの学びだった。戦いに勝つ為にはどうすればよいか。先んじて相手を制すこともあれば、後れて突きかかる相手をいなし、斬ることもある。相手の呼吸を読んで掛かることもあれば、こちらの呼吸など読ませまいと咄嗟に打って出たときもある」
「……」
「一対一で立ち会うばかりではなかった。大勢に囲まれ、斬り抜けたこともあった。泥田まで必死に逃げ、畦の一本道で迎え撃ち……無我夢中だった。二天一流は命懸けで培った。それも多くの血て智を贖った技だ。だが、ここ数年はもう学ぶべきものは何も得られなんだ」
「では、佐々木殿ほどの剣からも、得るものはないと?」
思わず声を荒げた伊左衛門に初めて顔を向けると、男は「わしなどまだまだ未熟。得るべきはまだ山のようにあるはずだ」と首を振った。
「勝負のたびに言われる、勝敗に一切の遺恨はないと。だが試合が終わった後で、そのような約定など反故にして必ず誰かが恨みに燃え、わしへ斬りかかってきた。死者が生前に交した証文を見せても、そのようなもの知ったことかと。そうして道場の一門が、家族が……それを斬れば更に別の縁者が」
「……」
「この怨恨の連鎖はわしの剣でさえ斬れぬ。せめて学ぶものがあれば、敗者の死も無意味にはならぬであろうが……だが今は怨恨だけが深まってゆく。それが虚しくてならぬのだ」
「だから、自ら負けを申し出て果し合いを止めようとされたのか……」
男は、つぶやくように応えた。
「今さら生命など惜しまぬ。斬れるならいつでも奪ってゆけばいい……遺恨を残さぬと嘘をつき、何故わしの前に立つ。未熟なこの武蔵の前に」
語るうちに胸の中に渦巻く鬱屈したものに火がついたのか、裸足のまま雨の中へ歩き出した。
「わしはしょせん剣に憑かれただけの野人。そして学ぶべきはきっとまだどこかにあるはずなのに見出せぬ」
「宮本様」
ひげ面の顔は濡れそぼり、雫を垂らしていた。伊左衛門の目には泣いているようにも見えた。
「佐々木小次郎。名を成さしめようとする剣を、この未熟な武蔵に求めるな……わしの剣に新たな道あるべしとどうか教えてくれ。生死一如、死して悟るべき剣があるなら喜んでこの生命くれてやろうぞ」
突如、裂帛の気合と共に男は剣を抜き、虚空を払った。
抜刀した瞬間、その瞳に紫電の電光が差し込んだ。人間離れした挙動で躍動した肉体が、横一線に剣を振り抜く。
「オオオッ!」
まるで男の獣じみた咆哮が風を煽ったように雨が横殴りに吹きつける。風を、雨を、切り裂くように剣がうなる。
その動きは、まるで目に見えぬ相手と激しく剣を斬り結んでいるように見える。
伊左衛門は思わず身を乗り出した。男の眼前に誰かいるような錯覚に一瞬囚われたのだ。
「来い!」
架空の相手は上段の打ちを放ったのか、男は滑るような身のこなしでそれをかわし、そのまま前に進んだ。相手の間合いに入った刹那、胴を蹴破るような突きが走る。
「!!」
そのとき……伊左衛門のすぐ傍で動く気配があった。
ぎょっとなって振り返る。
男の内に燃える烈しい炎に触発され、それは動いた……そうとしか思えなかった。
「誰……!」
伊左衛門の視界には何も映っていなかった、
しかし、目の前の何もない空間が陽炎のように揺らめいたのを彼の目ははっきりと捉えた。
揺らめきは、霧のような雨の中へそのまま滑っていった。
全身が総毛立った伊左衛門が絶叫する直前、男は伊左衛門を正面から見据えていた。
その口から激しい問いが放たれる。
「わしは……行くべきなのか。巌流島へ……得るものがそこにあるのか」
謎の気配と男の問い。
伊左衛門がどちらへ応じるべきか一瞬躊躇していると……雨の中から何者かが短く応えた。
「コイ」
伊左衛門の狼狽とは対照的に、男の眼にカッと燃え立つものがあった。
「よし! では巌流島で!」
そのまま男は雨の中を疾風の如く走り出した。伊左衛門が待てと呼び止める暇もなく。
「武蔵殿、待て! 待ってくれ!」
烈しい炎の如きものを心に抱いた男の耳に、呼び止める声はもう届かない。
己を誘ったものが人ではない誰かと知る由もなく。
慌てて雨の中を飛び出した伊左衛門だったが、山の中へ分け入った男の姿を見つけることはもう出来なかった……




