足跡
(奴を斬る)
(無想無念となって、斬らねばならぬ)
一心不乱に、ただ刀を振る。
木刀の動きは緩やかだったから、傍目にそれは単調で平凡な素振りのように見えた。
正眼の構えから静かに頭上へ振りかぶり、その軌道を確かめるようにゆっくりと下ろす。
規則正しい動きが、飽くことなくひたすら繰り返された。
身体の鍛錬と精神の精進を目的とした動作は今、何かを己の中に問う為のそれとなっていた。
武道の心得のある者なら、あるいはそれに気がついたかもしれない。
(雑念を捨てたとて勝てるか分からぬ男)
(だが、無我の境地で臨まねば決してあれには勝てぬ)
呼吸を整える。
(よし、仕掛けてみよう)
意識する。眦に厳しい色が混ざるや、剣を持つ男の動きが別人のように変わった。
中段に構え、摺り足でじりじりと斜めに右、あるいは左からにじり寄る。
それは、明らかに何もない空間に架空の相手を見据えた動きだった。
架空の相手は上段に構えているらしい。彼はぴたりと静止し、呼吸を整えて打つ隙を伺う。
打つなら胴。だが相手の出方によっては攻撃する前に面をやられる。
では如何に動く? 逡巡は敵に利する。
男は瞬時に正攻法を選んだ。
――抜き胴
一瞬身体を沈めると彼は胴を狙って飛び込む。振り下ろされた相手の剣を神速の動きで跳ね上げ、翻した剣でそのまま見えぬ相手の横腹を薙いだ。
着地と同時に身体を捻り、向き直る。もし攻撃がかわされていれば、背を追う相手とここから受け身で剣を交えることになる。
「……」
虚空を睨んだ男は、大きく息を吐くとそこで刀を降ろした。
(首尾よく斬ったかもしれぬ)
(あるいは己が斬られたかもしれぬ)
どちらだろう。
長年心の中で相対した強敵を、そうそう簡単に斬れるはずがない。
だが、己とて同じ歳月ひたすら剣を磨いてきたのだ。為すすべなく斬られるはずがないという自負があった。
木刀を腰に添え、黙ったまま横に視線を向けると、細川家に召抱えられてから彼に仕えている小侍が、佇んでいた。主の邪魔をすまいと思い、来客を待たせる失礼を承知で待っていたものらしい。
男は黙ってうなずくと、もろ肌脱ぎで汗をぬぐい、衣服を整えて屋敷の縁側へと歩いた。
「これは岩間殿か。お待たせして申し訳ない」
「佐々木殿、頭をおあげ下され。試合を前にして、平静を必要とされる貴殿の心をお騒がせし、こちらこそ失礼をした」
藩老の岩間角兵衛は、年若くして剣豪と謳われる青年佐々木小次郎へ静かに頭を下げた。
「長居せぬゆえ茶もいりませぬ」
「……されば、こちらの縁側へ」
小次郎の目に、この男は切れ者とはほど遠く、いたって凡庸だった。
だが、いつも穏やかで物静かな物腰に好感を持っていた。細川家へ推挙された恩義は別としても、この老人は小次郎にとって心安く何事も話せる数少ない知己だった。
縁側へ案内しながら「せめて水を」と、小侍へ命じる。
「如何されておられた?」
「武蔵との試合の日取りが決まり、試合が終わるまで出仕に及ばずと殿よりお心遣いをいただいてから、この通り心静かに鍛錬しております」
「それは重畳」
角兵衛は頷いた。
「訪問する者もおらぬ。ありがたいことだ」
「そのことでな」
小次郎の横顔へ、目を細めた翁のような笑顔が向けられる。
「実は殿が家中に漏らされたことでの」
「なんと」
主君の言葉を語る前に角兵衛は、居ずまいを正した。
「武運を祈ると訪ねれば、己の生命を賭けて臨もうとする者には却って負担にしかならぬ。真に彼の勝利を願うなら押し掛ける振る舞いなどせず、己の中で祈るべきであろう。余はそうする、と申されての」
「……」
しばらくの間、主君の言葉を噛み締めていた小次郎は立ち上がると、城の方向へ向かって深々と頭を下げた。
「もったいない。小次郎は、良き主君に拾われました」
「儂がここへ参ったのは、誰も来ぬことで却って佐々木殿が不審に思われ心を乱してはと思い、それだけを伝えようと。いらぬお節介、どうかご容赦下され」
小次郎は心の中で手を合わせた。流浪の身であった頃、このような温かい人情を掛けられたことなど幾度あっただろうか。
水を入れた椀が運ばれてくる。小次郎は美味そうに冷水を飲んだ。
「ありがとうございます。これ以上ないはなむけをいただきました。これで無心に戦えまする」
「勝てればよし。負けてもどうか、悔いのない試合を」
小次郎の顔に、ふっと猛々しいものが浮かんだ。
「いえ、小次郎は勝たねばなりませぬ」
「おや、無心で臨むと先ほど言われたが。どうか気負わず、心のままに」
小次郎は黙って首を振った。
「武蔵は私が斬らねばならぬ」
「佐々木殿」
「二天一流、彼奴の剣は野に鍛えた非情の剣と聞く。強敵であろうと頑是ない子供であろうと向かう者は容赦なく斬ってきたのだと。今までの彼の剣歴は岩間殿も知っておられよう」
角兵衛は、黙ってうなずいた。
「勝つのに手段を選ばず、敬意も憐憫も一切を切り捨てたあの残忍さ……私はそれがゆるせないのです。剣の高みを目指す者ならば決して無頼の徒のように剣を抜いてはならないはずだ。妙技神に入ろうとも、ただ斬ることのみ追い求めた者は、もはや人と云えぬ」
「……佐々木殿は、宮本氏をそのように見ておられるのか」
小次郎は立ち上がると「こちらへ」と、角兵衛を招いた。
庭の一角を板で囲っている奇妙な一角がある。促され、何が……と覗き込んだ彼は、そこのあった異様なものに目を見開いた。
「なんだこれは……」
黒ずんだ土に記されていたのは何者かの足跡だった。
だが……その足型は明らかに人のそれではなかった。
人の足に近いが、足指のあるべき部分は鍵爪で刻まれている。それも蹴ることで殺すことも出来そうな鋭さがうかがえた。
指の間には鰓のようなものが広がっている。
爬虫類の足に見えなくもないが、なにより大きさが違い過ぎる。
「佐々木殿、これは一体……」
息を呑んで見つめる角兵衛に「見つけたのは一昨日のことです」と、小次郎は告げた。
「その前から感じていました。私が独りで居合いの鍛錬をしていると、己の前に人ならぬ気配がしていると」
「なんと……」
「剣を構えている先で風景がかすかに揺らめき、何者かの息遣いも聴きました。当初は己の目や耳を疑いましたが、これを見て、そうではないことを確信いたしました」
この異質な足跡を見ては、角兵衛も信じざるを得なかった。
「物の怪の類なのだろうか……」
「さて」
小次郎は肩をすくめた。
「今日はその気配を感じませぬ。居るならば斬ってみるつもりでしたが……おそらくは何処へか去ったのでしょう」
怖じず物の怪を斬ろうとしたと聞いて、角兵衛は若き剣豪へ感嘆の念を禁じ得なかった。
「これが何かは見当もつきませぬが、これをここに招いた原因が何か、それだけは分かります。武蔵だと」
「まさか……そんな」
「……彼奴は剣人のあるべき道を外れ、入り込んではならぬ領域へついに踏み込んだのでしょう。そうでなければ人ならぬ怪をこのように呼び寄せてしまうことなど出来るはずがない」
「……」
昂然と胸を逸らし、虚空を睨んだ小次郎は、ふと我に返ると角兵衛に向かって静かに笑った。
「だから、私は彼を斬らねばならぬのです」
「佐々木殿。わしは……わしに何かお力添え出来ることはないだろうか」
「何も。ただ、見守っていて下さい」
老いた角兵衛が見たのは、男惚れしそうなほど爽やかな笑みだった。
「佐々木小次郎、若輩ながら畢生の剣を持って武蔵に天誅を加えるつもりです。天よ、ただご照覧あれ」
「ご武運を……どうか、ご武運を……」
角兵衛は、もはやそれしか言えなかった。
しばらくして、彼は長居してしまったことを丁寧に詫び、萩之小路の屋敷を辞した。
先ほど見たはずの足跡も、小次郎の話も、なにか夢でも見たように感じる。
足取りもおぼつかず、どれくらい歩いたか。
歩くうちにようやく人心地のついた角兵衛は独りごちた。
「あまりと言えば、あまりに奇怪な話だ。さすが、佐々木殿は平静さを失っていないが、これはさすがに聞き捨てておけぬ……どうしたものか」
藩老たちへ報告し、相談すべきではないかと彼が考え込んだ……そのときだった。
「テンヨ」
「!!」
人の言葉かも怪しい発音で、何者かがささやきかけたのだ。
「テンヨ、タダ、ゴショウランアレ」
「何者!」
思わず腰の佩刀へ手を掛けて鋭く叫んだ彼へ向かって、どこからか爬虫類のような乾いた声が呵々と大笑した。
紛れもなく、彼の狼狽する様を嘲笑った声だった。
「天狗か、物の怪か、どこにいる無礼者! 姿を現せ!」
鋭く周囲を睨めつける彼に、それきり応じる声はなかった。正体を見せる者も。
ただ、杉の樹が風に枝を揺らす音が聞こえるばかり……




