第150話:【150日目】二重崩壊の激震と、影から届くノイズ
翌朝。150日目の朝。
「……ふぅ」
俺――タクトは、まだ薄暗い代表取締役執務室に入り、極上焙煎珈琲機で淹れたてのエスプレッソを一口含んだ。
濃厚な苦味と芳醇な香りが脳に広がる。だが、俺の心に漂う暗雲は晴れなかった。
一昨日の深夜にCDOネクロディアが離反し、昨日はスマートシティOSの稼働率低下を補うため、外注プログラマーの緊急手配に追われた。
「ネクロディアを失った穴は大きい。だが、俺がPMとして現場を再構築してみせる……」
俺は自分に言い聞かせるように呟き、メインコンソールの前に立ち、今期の財務ダッシュボードを立ち上げようとした。
ピピッ。ピピピピピピピピピピッッ!!!
その瞬間、執務室全体のクリスタルディスプレイが、一昨日の朝を超える血のような真っ赤な警告色に染まり、部屋中にけたたましい非常アラートが炸裂した。
『警告:深刻なシステムエラーを検知! 最高財務責任者《CFO》の管理者権限が完全にロストしました!』
『財務アクセスキーが破棄され、管理者IDが「魔王軍サーバー」へと完全移籍同期されました!』
「な……ッ! 管理者権限のロスト……!? グレイシア、お前まで……!」
俺の網膜に表示された、信じたくない「移籍同期」のログ。
呆然と立ち尽くす俺の目に、ラウンジのぽっかりと空いた魔導コタツの上に置かれた、虚しく青く光る一通のホログラムレターと、綺麗に整えられた決算補正案のファイルが映った。
俺がそれに触れると、グレイシアのあの鈴を転がすような、だが悲痛な響きを秘めた音声が静かに再生された。
『タクト社長。温かい環境と、たくさんの優しい思い出をありがとうございました。ですが……私は財務官として、不細工な数字に目を瞑り、ぬるま湯の穴埋めに妥協することはできませんの。歪んだ我が社のバランスシートは……私がいなくなり、人件費と配当の支出を自らスリム化させることで、一時的に整合性を引き戻しますわ。……さようなら、タクト様』
「グレイシア……お前まで……俺の『優しさ』が、お前たちを追い詰めていたのか……!?」
俺の全身が、冷たい絶望と凄まじい戦慄に凍りついた。
次の瞬間、俺の手から、温かいエスプレッソの入ったコーヒーカップが滑り落ち――。
ガシャンッ!!!
床の美しい大理石の上に、鋭い音を立てて粉々に砕け散り、黒い液体が無惨に広がっていった。
開発の要《CDO》に続き、財務の要《CFO》までもが失われた。
ホワイト株式会社が誇っていた完璧なガバナンスと楽園の崩壊。二重の失撃という名の致命的な激震が、俺の足を根底からすくっていた。
「タクト様ァッ!!」
ドアが勢いよく開かれ、秘書のシルフィが顔を蒼白にして飛び込んできた。目には溢れんばかりの涙が浮かんでいる。
「グレイシアさんのIDが失効して……外注費の支払い口座と予備費の承認ラインが完全にフリーズしました! 支店からの通信もパニックになっています!」
「シルフィ……落ち着け……」
「タクト様、どうすれば……! ネクロディアさんに続いて、グレイシアさんまで……! 私たちのホワイト会社は、どうなってしまうんですか……っ!」
泣きじゃくるシルフィの肩を、俺は震える手で抱きしめた。
「大丈夫だ……。俺が……俺が絶対に何とかする。だから、泣かないでくれ……」
言葉とは裏腹に、俺の脳裏には前世のデスマーチでプロジェクトが崩壊していく悪夢の光景が、鮮明に蘇っていた。
*
同じ日の朝。魔王城の薄暗い「引きこもり部屋」。
「キタキタキタァァァッ! 150日目のアップデート完了! 今日こそ、俺のためにポテチとゲームを運んでくれる最強の全自動ぐうたら執事をドロップしてやるッ!」
ニートの息子リオンは、カレンダーのシステムロックが解除された瞬間、クリスタルパネルへ跳びつき、150日目の魔導シートを勢いよくスワイプした。
隣では、ピンストライプのスーツを完璧に着こなしたレイカが、腕を組み、不吉な勝利の笑みを浮かべてカレンダーを見つめている。
残り215日 → 214日
シートから溢れ出した白銀の光。リオンは「執事! 今度こそ来い!」と祈ったが、現れたのは、奇妙な金属アンテナとイヤーカップが付いた地味な小型機器だった。
SSR【魔導・盗聴集音器】
『※魔導回路から漏れ出る微弱な音波や通信プロトコルを、遠距離から高精度で受信・解析する携帯型の集音装置です』
「……はあ!? 糊の次は、盗聴器かよ! なんで俺がめくると、こんなスパイごっこみたいなガラクタばかり出るんだよッ!」
リオンがソファの上で頭を抱えて暴れる。
だが、その集音器を滑らかな手つきで拾い上げたレイカは、眼鏡のブリッジを押し上げ、酷薄に微笑んだ。
「ただの盗聴器? 違うわ、リオン。これは敵のパニックログをリアルタイムで傍受し、次のターゲットの隙を突くための、完璧な『広域データ波長解析器』よ」
「え……? スパイ道具が解析器になるの?」
「ええ。昨日までに確保したテスター、ドライバー、そしてシールド・グルーとこの集音器を接続するの。これで、CDOとCFOを失ってパニックを起こしているホワイト株式会社の内部通信ログが、リアルタイムで我が社へ丸見えになるわ」
レイカはビジネスバッグからコンソールを展開し、魔改造された集音器をセットした。
一瞬にして、ホワイト本社のシルフィの悲鳴や、システムのエラー音がホログラムとして魔王城に再生される。
「クスクス……哀れね、タクト。開発と財務を失い、あなたの楽園は完全に機能不全に陥っているわ。そして、次なるターゲットは――ホワイト株式会社の最高情報責任者、シオンよ」
レイカの眼鏡の奥で、冷徹な勝利の光が妖しく明滅した。
*
同じ日の午後。ホワイト株式会社の本社ビル。
「……各支店への説明は完了。外注プログラマーへの個別契約の付け替え、完了。予備費の暫定手動承認、完了……」
最高情報責任者のシオンは、情報管理室のホログラムウィンドウに囲まれ、不眠不休でキーボードを叩き続けていた。
元暗殺者である彼女の研ぎ澄まされた集中力。
ネクロディアとグレイシアという二大幹部を失い、絶望に打ちひしがれるタクトを支えるため、彼女は己の脳内処理能力を限界までオーバードライブさせ、殺到するパニックログとエラーアラートを一人で捌いていた。
「……タクト様を、これ以上困らせるわけにはいきませんの。私が、すべての情報をソートし、防壁を維持しますの……」
シオンの涼しげな額から、一筋の冷や汗が伝い落ちる。
どれだけ処理しても、次から次へと溢れ出すシステムのバグとパニックの波。
その時だった。
シオンの網膜UIに、突如として不可視の青いノイズが走り、スマートシティOSのセキュリティを完全にバイパスしたハッキング通信が滑り込んできた。
『お見事ね、最高情報責任者シオン。たった一人で、崩壊寸前の泥舟の浸水を必死に汲み出しているわけだわ』
「……ッ!? このハッキングポートは……魔王軍臨時CEO、レイカ……!」
シオンの瞳が、暗殺者としての冷酷な光を帯びて鋭くなる。
『そう警戒しないで。私はあなたの頑張りを称賛しに来たのよ。……けれど、哀れね、シオン。あなたは前世の過ちを悔い、タクトに命を救われた恩義だけで、その優秀な「情報屋としての牙」を死蔵させている』
「黙りなさい……! 私はタクト様に光を与えられたの。タクト様の作られたこの温かい会社を、あなたのような怪物に壊させはしませんの!」
『光? ふふ……いいえ、シオン。タクトがあなたに与えたのは、光ではなく「見やすい檻」よ。彼は「プライバシー保護」や「社員の安心」という甘ったるいお題目で、あなたに『見たい情報しか見せない目隠し』を強いているわ。……あなたは本当は、世界中のすべてのログ、すべての真実をリアルタイムで見通したいと、情報屋としての魂が叫んでいるのではないかしら?』
「な……っ!?」
シオンの骨の指が、ピタリと止まった。
レイカの冷酷な、しかし真実を射抜く声が、シオンの心の奥底に封印していた「全知への欲求」を鋭く抉っていた。
『明日の朝、あなたに真の「全知」を見せてあげるわ。……タクトの優しい目隠しの中で、一生盲目として過ごす気?』
通信が途切れ、静まり返った情報管理室。
シオンは一人、震える指先を自分の目元に当て、冷たい闇の中で激しく息を吐くのだった。
(残り214日。明日は何が出る?)
【150日目時点の主要キャラクター紹介】
■ タクト(代表取締役兼PM)
状況:ネクロディアに続き、CFOグレイシアの「涙の離反(FA移籍)」を検知。手にしたコーヒーカップが砕け散り、開発と財務を同時に失う二重崩壊の絶望に直面している。
■ シルフィ(社長秘書)
状況:グレイシアの離反による財務ラインのフリーズとパニック対応に追われ、タクトの目の前で涙を流しながら必死にコンソールを叩いている。
■ シオン(CIO)
状況:二幹部を失ったパニックログを不眠不休で処理する中、レイカから不可視のハッキング通信を受け、「プライバシー保護という名の目隠し」を突かれて心が揺らぎ始めている。
■ リオン(魔王の息子/共同経営者)
状況:150日目の朝に「盗聴集音器」を獲得。お姉様の手でそれがパニックログ解析器へと魔改造され、ホワイト社の内部崩壊を覗き見しながら不労所得の夢を見ている。
■ レイカ(魔王軍 臨時最高経営責任者)
状況:集音器を解析器へ魔改造し、ホワイト社の内部通信を完全傍受。第三のターゲットであるCIOシオンへ「全知の誘惑」を仕掛け、第3の引き抜きを開始した。




