第149話:【149日目】コタツ破りの旅立ちと、美しき貸借対照表
「キタキタキタァァァッ! 149日目のアップデート完了! 今日こそ、俺のためにポテチとゲームを運んでくれる最強の全自動ぐうたら執事をドロップしてやるッ!」
魔王城の薄暗い「引きこもり部屋」。
ニートの息子リオンは、朝カレンダーのシステムロックが解除されるやいなやクリスタルカレンダーへと飛びついた。
隣では、ピンストライプのスーツを完璧に着こなしたレイカが、腕を組んで冷徹な視線をカレンダーに注いでいる。
「さあ、めくるぞ!」
リオンが興奮に目を血走らせ、149日目の魔導シートを勢いよくスワイプした。
残り216日 → 215日
シートから溢れ出した白銀の光。リオンは「執事! 今度こそ執事来い!」と祈りながら光の収束を見守ったが、現れたのは、小さな白いプラスチック容器に入った地味な液体だった。
SSR【魔導・事務用糊】
『※魔導書類や紙媒体の接合部を物理的かつ魔術的に寸分狂わず接着し、一度貼り合わせたら二度と剥がれない強力な粘着力を持つ高品質な事務用糊です』
「……はあ!? ホッチキスの次は、ただのノリかよ! なんで俺のカレンダーからは、こんな文房具屋のワゴンセールみたいなゴミばかり出るんだよッ!」
リオンが頭を抱えてソファの上でジタバタと暴れる。
だが、その容器を滑らかな手つきで拾い上げたレイカは、眼鏡の奥の切れ長の瞳を妖しく輝かせ、冷徹に微笑んだ。
「ただのノリ? 違うわ、リオン。これは敵の財務監査ポートを完全に目封じし、我が社の裏取引ログを物理的に遮断するための、完璧な『財務遮断具』よ」
「え……? ノリで監査を防ぐの?」
「ええ。このノリの魔術的接着力を、昨日までのハッキング回線に流し込むの。これにより、ホワイト株式会社のセキュリティシステムが我が社の介入を検知・監査しようとするアクセスを、完全に目封じして無効化するわ。これで、彼女が移籍するための道筋はすべて完璧に整ったわ」
レイカは冷徹にコンソールを操作し、ハッキング回線の最後の接合部を完璧にシール(遮断)した。
「今日が、グレイシアに提示したキャリア・コンサルの最終期限よ。合理的成果主義に例外はないわ。彼女が自分の専門性を否定されたぬるま湯で腐るか、それとも最高美の数式を描く財務官として目覚めるか……答えを出してもらいましょう」
冷徹なビジネスの怪物の瞳に、不吉な勝利の光が深く明滅していた。
*
同じ日の夕暮れ。ホワイト株式会社の本社ビル。
「……ハァ」
最高財務責任者のグレイシアは、フリーアドレスのラウンジに置かれた、特注の「魔導コタツ」の中で、静かに目を閉じていた。
ラウンジでは、出勤を終えた社員たちが楽しそうに談笑し、フードコートから漂う温かい夕食の香りが広がっている。誰もが笑顔で、誰もが満足そうに今日という一日を終えようとしていた。社長であるタクトが創り上げた、地上で最も優しく、最も暖かい楽園。
しかし、グレイシアの網膜UIに表示されている財務コンソールの数字は、泥のように乱れ、不細工に赤く点滅し続けていた。
CDOネクロディアの離反に伴う緊急外注費の爆増。人件費と外注費の比率は崩れ、貸借対照表の左右の美しき調和は完全に破壊されていた。
「グレイシアさん、お疲れ様です! あつあつの特製スープ、持ってきましたよ!」
秘書のシルフィが、最高の笑顔で温かいスープの入ったトレイを置いてくれた。
「タクト様も心配されていました。『グレイシアには無理をさせず、コタツでゆっくり休んでもらってくれ』って。決算の修正作業なんて気にしないで、今はご自身の体を一番に考えてくださいね」
シルフィの言葉には、一分の偽りもない、純粋な優しさと気遣いが込められていた。
「……ありがとうございます、シルフィさん」
グレイシアは小さく微笑み、スープのカップを両手で包み込んだ。温かい。心まで溶けてしまいそうなほど、優しいぬくもり。
だが――シルフィが去った後、グレイシアの目からポロポロと大粒の透明な涙がこぼれ落ちた。
「後回しでいい……無理をせず、コタツで休んでいればいい……」
タクトも、シルフィも、みんな本当に優しい。しかし、その優しさは、グレイシアにとって「あなたの専門性も、あなたが命を懸けて描いてきた数字の美しさも、この会社には必要ない」と宣告されているのと同義だった。
不細工な赤字を放置して休め。不調和なバランスシートは予備費で適当に穴埋めしておけばいい。それは、財務官としての自負とプライドを粉々に打ち砕き、「コタツの中で可愛く丸まっているだけの置物」として彼女を甘やかして隔離する、甘ったるくも恐ろしい檻だった。
「私は……私は、タクト様に褒めていただきたかっただけですのに……。『見事な財務管理だ、グレイシア』と、あの温かい手で頭を撫でていただきたかっただけですのに……っ!」
どれほど悔やんでも、一度狂った数字は、タクトが温情で追加予算を投げ続ける限り、二度と美しさを取り戻すことはない。自分の存在が、この温かい楽園のバランスシートを不細工に汚しているという耐え難い現実。
「……私が、ここに居続けてはいけませんわ」
グレイシアは小さく呟き、膝を抱えて、暗くなりゆくラウンジの中で静かに震えた。
*
その日の深夜。「定時退社・残業禁止」のルールが徹底され、すっかり消灯した無人の本社ラウンジ。
静まり返った暗闇の中で、ふわりと、小さな人影が動き出した。
グレイシアだった。彼女は、これまで自分が片時も離れなかった、あの特注の魔導コタツのふちを、細い指先で愛おしそうに撫でた。
「……さようなら、私の大好きなコタツ。私に本当の温もりと、たくさんの優しい思い出をくれて、ありがとうございました」
彼女は涙を拭い、決意を固めた瞳で、自らの足でコタツの外へと一歩を踏み出した。ずっと逃げ込んでいた「ぬるま湯の檻」からの、悲壮な脱出(コタツ破り)だった。
冷たいオフィスの床に立ち、彼女はタクトのデスクの前へと歩み寄った。手元には、レイカから送られた【魔導・人材移籍契約書】の白銀のファイルが、静かに光を放っている。
『さあ、グレイシア。成果を出した分だけ正当に評価され、一分の無駄もない最高美の数式を描く場所へ来なさい』
レイカの冷徹な声が、脳裏に蘇る。
「タクト様……。私のような未熟な財務官に、温かい居場所をくださり、本当にありがとうございました……」
グレイシアは、月光が差し込むタクトの空のデスクに向かって、深々と頭を垂れた。
「ですが、私は……自分の専門性を捨ててまで、不細工な数字に目を瞑ることはできませんの。歪んだ我が社のバランスシートは……私が去り、人件費と配当の支出を自らスリム化させることで、一時的に整合性を引き戻しますわ」
自分が去ること自体を、最後の「財務補正(スリム化)」として捧げるという、悲痛なまでのプロフェッショナルな決断。
「……さようなら、タクト様」
グレイシアは氷の粒子のような涙をポロポロと散らしながら、震える指先を移籍契約書の署名欄へとしずかに押し当てた。
ピキィィィン……!
電子的な魔導署名が眩い黄金の光を放ち、契約が完結する。瞬間、グレイシアの全身からホワイト株式会社のCFOアクセスキーが解かれ、代わりに魔王軍最高財務責任者としての漆黒のマスターキーがインストールされていった。
彼女はタクトのデスクの上に、自らが最後まで徹夜で計算し尽くした「完璧な財務補正案」と、退職のホログラムレターをそっと置いた。そして、空間の裂け目から溢れ出るゴールドの光の中へと、静かにその身を消していった。
温かく優しい楽園を自ら手放し、数字の絶対美と自らのプライドを守るための、涙の旅立ち。ホワイト株式会社から、また一つ、かけがえのない「要」が失われた瞬間だった。
(残り215日。明日は何が出る?)
【人物紹介】
■ タクト(代表取締役兼PM)
状況:グレイシアを心から心配して休養を勧めたが、それが彼女のプロとしての誇りを傷つけたことにまだ気づいていない。翌朝、CFO失奪という第二の崩壊に直面することになる。
■ シルフィ(社長秘書)
状況:グレイシアに温かいスープを届け、優しく休養を勧めた。しかし、彼女が残した静かな涙の意味を悟れず、胸の不吉な胸騒ぎに震えている。
■ グレイシア(元・CFO/現・魔王軍最高財務責任者)
状況:タクトの「優しさ」によって専門性を否定されたと感じ、涙を流しながら自らの意志でコタツを這い出る(コタツ破り)。完璧な数理の美を描くため、「フリー・エージェント(FA)移籍」を実行し、魔王軍へと旅立った。
■ リオン(魔王の息子/共同経営者)
状況:149日目の朝に「事務用糊」を獲得。お姉様の手でそれがハッキング遮蔽具へと魔改造され、ホワイト社のCFOを手に入れたことに大歓喜している。
■ レイカ(魔王軍 臨時最高経営責任者)
状況:ドロップ品をハッキング遮蔽具へ魔改造し、監査アクセスを完全遮断。グレイシアの「数字への渇望」を完全に掌握し、ネクロディアに続く二人目の幹部引き抜きを完全完遂した。




