第146話:【146日目】資本効率の悪夢と、揺らぎだした黄金比
翌朝。146日目の朝。
「ふぅ。今日もいい天気だな」
俺――タクトは、出勤時間よりも少し早く執務室に入り、極上焙煎珈琲機で淹れたてのエスプレッソを一口含んだ。
芳醇な香りが脳細胞を心地よく刺激する。だが、俺の心の奥底には、昨夜から消えない微かな「澱み」があった。
昨日、ネクロディアの魔力出力に不自然なスパイクが発生していたこと。そして、彼がどこか遠くを見るような、哀しげな目をしていたこと。
「……やはり、少し疲れているのかもしれないな。今日はもう一度、彼と1on1の時間を作って、ゆっくり休むよう言おう」
俺はそう呟き、今日も完璧なガバナンスでスマートシティを回すため、代表取締役執務室のメインコンソールへと歩み寄った。
ピピッ。ピピピピピピピピピピッッ!!!
その瞬間、執務室全体のクリスタルディスプレイが、見たこともない血のような真っ赤な警告色に染まり、けたたましい非常アラートが鳴り響いた。
『警告:深刻なシステムエラーを検知! 最高デジタル責任者《CDO》の管理者権限が完全にロストしました!』
『コア・アクセスキーが破棄され、管理者IDが「魔王軍サーバー」へと完全移籍同期されました!』
「え……? 管理者権限の、ロスト……? ネクロディア、お前……」
俺の網膜に表示された、信じられない「移籍同期」のログ。呆然と立ち尽くす俺の目に、ネクロディアの空っぽのデスクの上で虚しく青く光っている、一通のホログラムレターが映った。
俺がそれに触れると、ネクロディアの、あの聞き慣れたカタカタという魔導音声が、静かに再生された。
『タクト社長。温かい環境を、本当にありがとうございました。ですが、私は……技術の臨界点へ挑むために行きます。合理的成果主義の嵐の中で、私の真の価値を証明して見せます』
「ネクロディア……お前が……裏切った……のか……!?」
俺の全身が、冷たい戦慄と絶望に凍りついた。次の瞬間、俺の手から、温かいエスプレッソが入ったコーヒーカップが滑り落ち――。
ガシャンッ!!!
床の美しい大理石の上に、鋭い音を立てて粉々に砕け散り、黒い液体が広がっていった。完璧だったはずの、ホワイト株式会社の「楽園」。その完璧なガバナンスに、初めて絶対的な崩壊を告げる、致命的な一撃(仕様変更)だった。
*
同じ日の朝。魔王城の薄暗い引きこもり部屋。
「キタキタァァァッ! 146日目の朝! 今日こそ、俺のためにポテチとゲームを運んでくれる最強のぐうたら執事をドロップしてやるぞッ!」
リオンは、カレンダーが青い輝きを取り戻した瞬間、146日目の魔導シートを勢いよくスワイプした。隣では、ピンストライプのスーツを完璧に着こなしたレイカが、腕を組んで冷徹な視線をカレンダーに注いでいる。
残り219日 → 218日
シートから弾け飛んだ白銀の粒子。光の霧が晴れた後、ソファの上に転がっていたのは、木と真鍮で作られた、古めかしい算盤だった。
SSR【魔導・精密算盤】
『※一秒間に数十万回の金流シミュレーションを行い、組織全体の無駄なアロケーション(配分)や資本効率を完璧にビジュアル化する魔法の算盤です』
「……はぁ!? ただのそろばんじゃん! 炭酸水やネジ回しの次は、算数の教材かよ! なんで俺がめくると、こんなゴミしか出ないんだッ!」
リオンが再び絶望して床を転げ回る。
しかし、その算盤を拾い上げたレイカは、眼鏡のブリッジを軽く押し上げ、冷たく微笑んだ。
「ただのそろばん? 違うわ、リオン。これは敵対組織の財務のボトルネックをスキャンし、資本効率を限界まで最適化するための、完璧な『財務攻撃盤』よ」
「え……? 攻撃の盤?」
「ええ。ホワイト株式会社の最大の弱点。それは、全社員に一律で一株ずつの利益を均等に配る、あのぬるい『全員一律配当制度』よ。優秀な者も、ただぶら下がっている無能なフリーライダーも、同じように甘やかす。これは資本効率の観点から見て、最悪のバグだわ」
レイカはビジネスバッグから魔導タブレットを展開し、ホワイト株式会社の財務諸表のデータをスキャンし始めた。
「ネクロディアを失ったことで、あちらの基幹システムの維持効率はすでに15%低下している。そして次のターゲットは――ホワイト株式会社の最高財務責任者、グレイシアよ。彼女を揺さぶるための、完璧なアプローチをキックオフするわ」
レイカの眼鏡の奥で、冷徹な勝利の光が怪しく明滅していた。
*
その日の午後。ホワイト株式会社の本社。
「……信じられませんわ。この、美しく整えられていたバランスシートが、わずか一日のシステムダウンで、これほど歪んでしまうなんて……」
コタツの中から首だけを出していたグレイシアは、手元の魔導端末に表示された、荒れ狂う赤字の補正データを見つめ、青ざめていた。
開発の要であるネクロディアの管理者権限ロストに伴い、スマートシティOSの保守稼働率が急降下。それに連動して、各支店のドローンのエネルギー伝送ロスが発生し、調達コストが急激に跳ね上がっていたのだ。
「ネクロディアの離反は、システムのバグだけでなく、我が社の無形資産の価値を大幅に引き下げていますわ。この損失、どう補填すれば……」
グレイシアが小さく呟き、コタツの中で丸くなろうとした、その瞬間。
彼女のプライベートな魔導端末の画面が、突如として砂嵐のようなノイズを放ち、冷徹な女性の音声が直接、彼女の脳内へと滑り込んできた。
『美しい数字を愛する、最高財務責任者グレイシア。あなたのその優秀な頭脳が、コタツというぬるま湯の檻の中で、資本の無駄遣いを眺めて凍りついているわね』
「……っ!? 誰ですの、私のセキュアな財務コンソールに直接ハッキングを仕掛けてくるのは!」
グレイシアがコタツから身を乗り出し、周囲を見回す。だが、オフィスには誰もいない。
『私はレイカ。魔王軍の臨時最高経営責任者。……グレイシア、あなたに「真のバランスシートの美学」を提示しに来たのよ』
「レイカ……!? タクト社長のお姉様であり、魔王軍を乗っ取った合理的成果主義の怪物……! 私を揺さぶろうとしても無駄ですわ。私は、タクト社長がくれたこの温かいコタツと、配当金制度を心から愛していますの!」
グレイシアは毅然と言い放った。だが、レイカの冷酷な声は、彼女の「財務エリートとしての本能」を正確に撃ち抜いた。
『配当金? 全員に一律で一株ずつの利益を分配する、あの不公平極まりないぬるま湯システムのこと? 汗水垂らして働く者も、コタツの中でただ眠っているフリーライダーも、一律で同じ利益を受け取る。……グレイシア、あなたは本当に、その「不合理の極み」のような数字の羅列を、美しいと思っているの?』
「な……っ!?」
『見てみなさい。これが、私が設計した、魔王軍の徹底的な成果主義の財務シミュレーションモデルよ』
突如として、グレイシアの網膜に直接、極めて緻密で、一切の無駄が排除された、神々しいまでに美しい財務設計図が展開された。
そこには、無駄な福利厚生や一律の利益分配をすべて「デリート(排除)」し、成果を上げた者だけに富がダイレクトに還流する、完璧な傾斜配分のアルゴリズムが記述されていた。
「これ、は……。なんという、完璧な、無駄のない資本の循環……。これに比べれば、我が社の全員一律の配当は、まるで……ただの、お金のばら撒き(浪費)……?」
グレイシアの宝石のような瞳が、財務エリートとしての本能によって、激しく、怪しく輝き始めた。
無駄を極限まで削ぎ落とし、効率のみを追求した、究極に美しいバランスシート。
それは、彼女が「コタツのぬるま湯」に浸かる中で、見ないように蓋をしていた、数字の真の美学の極致だった。
『甘ったるいホワイト株式会社は、優秀なあなたの才能を甘やかし、退化させる檻よ。私のもとに来なさい。あなたのような天才には、すべての資本を掌握する権限と、成果に応じた無限のインセンティブを提供するわ。……コタツの中で、その数字の魂を腐らせる気?』
「く……っ、あ……あぁ……!」
グレイシアの額から、冷たい汗が伝う。
タクト社長への恩義、温かいコタツの快適さ。
だが、財務のプロとして、この「完璧に美しいバランスシート」を自らの手で動かしてみたいという狂気的な渇望が、彼女の心を内側から激しく揺さぶり始めていた。
合理的成果主義の、不気味で冷徹な嵐が、ホワイト株式会社の財務の要へと、確実に吹き荒れようとしていた。
(残り218日。明日は何が出る?)
【人物紹介】
■ タクト(代表取締役兼PM)
状況:出社した直後、長年開発を支えてきたCDOネクロディアの突然の「離反・魔王軍移籍」を検知。手にしたコーヒーカップが砕け散るほどの衝撃を受け、完璧だった「楽園」の最初の崩壊に直面し、戦慄している。
■ シルフィ(社長秘書)
状況:ネクロディアの離失に伴う、スマートシティOSの保守稼働率低下のアラート対応に奔走。激しく動揺するタクトを必死に支えようと、気丈にコンソールを叩いている。
■ グレイシア(CFO)
状況:レイカお姉様の「悪魔の財務コンサル」により、全員一律配当の不合理さを突かれ、完璧に美しいバランスシートの極致を突きつけられる。温かいコタツの快適さと、数字の絶対的な美への渇望の間で、激しく葛藤し始めている。
■ リオン(魔王の息子/共同経営者)
状況:146日目の朝に「精密算盤」をドロップ。お姉様の手でそれが最強の財務攻撃盤へと魔改造され、ホワイト社のCFOを狙い撃ちにする光景にワクワクしながら、不労所得の夢を見ている。
■ レイカ(魔王軍 臨時最高経営責任者)
状況:カレンダーから獲得した算盤を「財務攻撃盤」へとバリューアップ。ホワイト株式会社の財務の隙(全員一律配当の非効率性)を突いてグレイシアへ精神的ハッキングを仕掛け、第2の引き抜きを画策する冷徹無比な怪物。




