第145話:【145日目】臨界点の決断と、涙のフリーエージェント
「キタキタァァァッ! 145日目のアップデート! 今日こそ最強のぐうたら執事をドロップしてやるぞッ!」
魔王城の薄暗い引きこもり部屋。ニートの息子リオンは、朝カレンダーのシステムロックが解除された瞬間、145日目の魔導シートを勢いよくスワイプした。
お姉様である臨時CEO・レイカは、ピンストライプのスーツを完璧に着こなし、腕を組んで冷徹な視線をカレンダーに注いでいる。
残り220日 → 219日
シートから溢れた白銀の光。リオンは目を輝かせて光の収束を祈ったが、現れたのは一巻の地味な黒い粘着テープだった。
SSR【魔導・絶縁粘着テープ】
『※魔力の漏洩を完全に防ぎ、魔導回路の接合部を物理的かつ魔術的に強固にシールド・固定する、特殊な絶縁粘着テープです』
「……はあ!? ドライバーの次は、ただのビニールテープかよ! なんで俺のカレンダーからは、こんな工具箱の隅っこにあるようなゴミしか出ないんだッ!」
リオンが頭を抱えてソファの上でジタバタと暴れる。
しかし、その黒いテープを滑らかな手つきで拾い上げたレイカは、眼鏡のブリッジを軽く押し上げ、酷薄に微笑んだ。
「ただの粘着テープ? 違うわ、リオン。これは最後のポートを閉じるための、完璧な『絶縁遮蔽テープ』よ」
「え……? テープが?」
「ええ。ネクロディアへのハッキング回線はすでに物理・論理ともに接続完了しているわ。このテープで接続部を魔術的に完全固定し、ホワイト株式会社のセキュリティスキャンによる逆探知を完全にシャットダウンするの。これで、引きぬきの裏工作は完璧に秘匿されるわ」
レイカはビジネスバッグから、魔導インカムに繋がるコンソールを展開した。
「今日が、ネクロディアに提示したキャリア・コンサルの有効期限よ。合理的成果主義に例外はないわ。彼が牙を抜かれた家畜としてぬるま湯で腐るか、それとも世界の理を書き換えるシステムアーキテクトとして覚醒するか。ここで最終決断を下してもらいましょう」
冷徹なビジネスの怪物の瞳に、不吉な勝利の光が灯っていた。
*
同じ日の午後。ホワイト株式会社の本社ビル。
「……ハァ」
最高デジタル責任者のネクロディアは、フリーアドレスの快適なラウンジで、骨の指をキーボードから離し、深く深い溜息を吐いた。
手元の魔導端末に表示されているのは、スマートシティ全域の完璧な稼働ログ。バグはゼロ。負荷分散も完璧。定常保守のルーティンは一分の隙もなく、今日も完璧に処理されている。
社長であるタクトが構築した、誰もが安心して、誰もが笑顔で働ける、地上で最も優しい「楽園」。
しかし、ネクロディアの眼窩に宿る蒼い魔力の瞳は、かつてないほどに揺らいでいた。
(……私は、本当にこれで満足なのか?)
彼の脳内プロトコルには、昨日レイカから送り込まれた「世界の理(因果律)を書き換える超並列魔導サーバーの極秘設計仕様書」が、今も神々しいマルチスレッドのシステム構造となって狂気的に展開されていた。
その処理能力の要求値は、彼のパッシブスキル『並列多重演算』を限界を超えてフル稼働させなければ、一秒すら維持できない極限の領域。挑戦すれば、自身の魔力回路が消滅するかもしれない。だが、そこにはシステムアーキテクトとしての「世界の深淵に触れる歓喜」が満ちていた。
「ネクロディアさん、お疲れ様です! 淹れたてのエスプレッソ、どうぞ!」
秘書のシルフィが、最高の笑顔で温かいコーヒーカップを置いてくれる。
見渡せば、フードコートのコタツで幸せそうに溶けているグレイシアや、カードプレス機を囲んで談笑するザンギュラとアーサーの姿があった。そして、その中心で、みんなの笑顔を嬉しそうに見つめているタクト。
「ネクロディア。最近、魔力出力のスパイクが大きいな。無理はしないでくれよ。君は俺の、かけがえのない大切な仲間だから。何かあったら、いつでも有給をとって休んでくれ」
タクトはそう言って、ネクロディアの骨の肩を優しく叩いてくれた。
嘘も搾取もない、真の「優しさ」。だが、その極上の優しさこそが、技術者としての自分の牙を抜き、限界への挑戦を阻む「温かい檻」のように、彼の背骨を締め付けていた。
「私は……私は……!」
ネクロディアの肋骨が、激しい葛藤の負荷によって悲鳴を上げてきしんだ。タクト社長への絶対的な大恩。ホワイト株式会社の温かく、かけがえのない仲間たち。
しかし、エンジニアとしての本能が、限界への渇望が、彼に「世界の深淵を見ろ」と狂気的に囁き続けている。
「甘ったるい檻の中で、このまま保守の歯車として死んでいくのか、ネクロディア」
レイカの冷徹な声が、彼の精神の最も脆い部分をピンポイントで貫き、引き裂こうとしていた。
*
その日の深夜。「定時退社・残業禁止」のルールが厳格に適用され、完全に消灯した無人の代表取締役執務室。
静まり返ったオフィスに、カタカタ、と硬質な骨の音が寂しく響いた。ネクロディアは一人、窓から差し込む冷たい月光を浴びながら、タクトのデスクの前に立っていた。
彼の手元には、レイカから送られた【魔導・人材移籍契約書】の白銀のファイルが、静かに脈動している。
「タクト社長……」
ネクロディアは、自分の席から見える、昼間みんなで笑い合ったコタツや、温かいフードコートの幻影を見つめた。
ここを去れば、もうあの温かいエスプレッソを飲むことも、みんなとカードゲームを楽しむこともできない。
それでも――世界の理を書き換えるシステム構築に挑まないことは、エンジニアとしての魂の消滅を意味していた。
「私は……私は、最後まで、技術者でありたかった……!」
ネクロディアの眼窩から、パチパチと蒼い魔力の火花が激しく飛び散った。それは、かつて彼が「使い捨ての道具」だった頃にタクトに救われ、そして今、自らの意志でその優しさを裏切る、決意の涙(残光)だった。
彼は震える右手の指骨を、移籍契約書の署名欄へと、ゆっくりと、しかし力強く押し当てた。
ピキィィィン……!
電子的な魔導署名が黄金の光を放ち、契約が締結された。
瞬間、ネクロディアの全身から、ホワイト株式会社のシステムアクセスキーが次々と剥がれ落ち、消滅していく。代わりに、魔王軍臨時CEO・レイカから提供された、世界の理を書き換えるための漆黒のシステムマスターキーが、彼の魔力回路へとインストールされていった。
「タクト社長……。温かい環境を、本当に、本当にありがとうございました……」
ネクロディアは、誰もいない執務室に向かって深く、深く頭を垂れた。
そして一通のホログラムレターをデスクの上に置き、空間の裂け目へと静かにその身を消した。
温かく優しい、しかしかけがえのない楽園を自ら手放し、技術者としての限界へ挑むための、悲壮な旅立ち。
それは、完璧なガバナンスを誇るホワイト株式会社にとって、最初にして最大の崩壊の幕開け(仕様変更)だった。
(残り219日。明日は何が出る?)
【人物紹介】
■ タクト(代表取締役兼PM)
状況:周辺の完全ホワイト化から一転、不穏な空気を察知しつつも、開発の要であるCDOネクロディアが自らの意志で重大な決断を下そうとしていることには、まだ気づいていない。
■ シルフィ(社長秘書)
状況:奪われたカレンダーを取り戻すべく、魔王城周辺のセキュリティログの解析をシオンと共に急いでいる。ネクロディアのどこか上の空な様子を微かに心配している。
■ グレイシア(CFO)
状況:魔王軍の『限界突破炭酸』の財務影響を分析中。「……資本効率を完全に無視した、狂気的な投資ですわ。あの女、何か大きな仕掛けを考えていますわね」と、コタツの中で警戒態勢を整えている。
■ ネクロディア(元・CDO/現・魔王軍システム開発最高責任者)
状況:レイカお姉様の「悪魔のキャリア・コンサル」により、技術の極限への渇望を抑えきれず、涙を流しながら「フリー・エージェント(FA)移籍」を実行。世界の理を書き換える超並列サーバーに挑むため、魔王軍へと旅立った。
■ リオン(魔王の息子/共同経営者)
状況:カレンダーから引き当てた「ビニールテープ」がお姉様の手でハッキング遮蔽テープへと魔改造され、大興奮。お姉様の手腕に心酔し、不労所得の甘い夢を謳歌している。
■ レイカ(魔王軍 臨時最高経営責任者)
状況:カレンダーのドロップ『絶縁粘着テープ』を完璧なハッキング遮蔽ツールへと魔改造。さらに「合理的成果主義」の切れ味鋭い刃を用いて、ネクロディアを引き抜く完璧なロードマップを遂行した。




