60.「乾杯しましょう!」
雨にも関わらず、時間的に花街へと足を向ける者は多い。 目立たぬように身を屈めつつ通りの端を抜けたミルサークは、とある建物の扉を叩く。ドアノブが一瞬淡い光を放ち、カシャリ、と金属音をたてた。一度周囲を見回した上で、細く開けた隙間から素早く中へ滑り込む。
「あ、おかえりなさい。大丈夫でしたか?」
ドナホゥがホッとした表情で訊ねる。
「ああ。誰にも気付かれなかったよ。髪も切ったし、眼も元に戻ったからな。そうそうバレる事は無いさ」
ミルサークはマントを脱ぎ、水滴を払いながら笑う。
でもそのガタイで気付く人は気付きそうですけとねぇ、とドナホゥは胸の中で呟く。とはいえ仕方なかったのだ。ドナホゥはアブラと面識が無いし――。
「あ、お帰りなさい!」
奥の部屋から聞こえたその声に、2人は振り返る。そう、アイシャを行かせるなど、論外なのだから。
「ちゃんと、渡せました?」
「問題無い――心配しすぎだよ、お前らは」
ミルサークは苦笑いを返す。
「良かったです。……でもアレを見たら、驚くでしょうね」
「そりゃあそうでしょ。あたしも随分まとまった量の魔石は見て来ましたけどぉ、個人が集めた量としては異常ですよ、アレは。一気に市場に出回ったら、価格破壊が起こるレベルですぅ」
ネジドから託された、アキルのメモ。そこに記してあった、魔石の隠し場所。念の為、先に確認を済ませていた。眼にした時は、さすがのミルサークも思わず目を疑った程だ。
「アブラなら、そんな真似はしないさ。上手くやってくれる。サマル・マムも居るしな。――それより、そっちは大丈夫なのか」
「はい! さっきまで迷宮で、 母と話していました」
あどけない笑顔で応えるアイシャは、どう見ても普通の子どもにしか見えない。だが今の彼女は魔女、なのだ。魔女アイシャ。シビルを倒しても迷宮の崩壊が起こらなかった時点で、気付けた筈なのだ。魔女シビルは死に、その力はアイシャへ受け継がれたと。
アイシャにしても想定外だったに違い無い。だが彼女は、その事実を受け入れた。そのおかげで迷宮は今も健在であり、中と外、それぞれで暮らす人々もこれまで通りの生活を送っている。何も、知らずに。
「また、『行ってらっしゃい』って言われちゃいましたよ」
新たに迷宮の主となった魔女は、はにかみながら頭を掻く。……さっきまで迷宮で、か。地上からでも迷宮内の行きたい場所、どこにでも移動出来る。それも一瞬で。魔物に襲われる事もない。全て主だからこそ、だ。
「いよいよ、出発ですか。武者震いがしますねぇ。ギル――じゃなくて、ミルサークさんも、本当にいいんですか? 今のギルド長とかに会わなくて」
「死んだはずの人間が今更ノコノコ出て行っても、迷惑になるだけさ。それに何より私が会いたく無いから、問題無い」
ドナホゥは一瞬キョトンとして、吹き出した。
「何か、変わりましたよねぇ! 前はもっと、カタい人だと思ってましたけど――でも、いいと思います!」
アイシャの力で迷宮から脱出して知ったのは、自分が既に死んだ事にされており、新たなギルド長が据えられているという事だった。だがそれぽ寧ろミルサーク望む所でもあった。だからこそ、全ての仕事を放って迷宮に潜ったのだから。アイシャの事を知る者はギルドにも殆ど居なかったから、周囲からは単に乱心したようにしか見えなかっただろう。
新しい人生を、始める。
他の魔女に会いたい、と言ったのはアイシャだった。すなわちそれは、この国から出ていくという事だ。ミルサークとドナホゥは、それに付いていくと決めた。
まさかこの歳で、国を出ていく事が実現できるなんて、な。ネジドの半笑いになった皮肉な唇が、目に浮かぶ。
「確認だが、手筈は問題ないだろうな?」
「大丈夫ですよ。昔のツテで、荷馬車を用意させてるですぅ。……むしろ、疑われてるのはこっちで。ホントに壁の向こう側でいいのか、って。まぁ、前金を払ったら黙りましたけど」
「そこは、任せてください! 私、土の魔女ですから。あんな壁を通り抜ける事位、わけないですよ」
「……くれぐれも、穏便な方法でお願いするですぅ」
薄い胸を張るアイシャにドナホゥが釘を差す。「最初はどこへ行くのか、決めてるんですか?」
「いえ、それはまだ――。でも、何となくは分かるんです。他の魔女の気配が。だからその方向に」
「なんか、テキトーですねぇ」
「ま、いいじゃないか」
そんなに力を込めたつもりは無いが、肩を叩かれたドナホゥは大袈裟に顔をしかめる。
「あとまぁ気になるといえば、ちょっと路銀が心許ないって位ですかねぇ。業者も高かったですし、準備だけであたしの貯え、殆どカラッケツですぅ」
「……カネか」
ミルサークは顎を撫でる。いくら魔女と言えど、生きる為には必要だ。「ま、それは何とかなるさ」
「でも……退職金だって、パーになっちゃいましたしぃ」
アイシャとミルサークが顔を見合わせて笑うのを見て、ドナホゥは首を傾げる。「……何ですぅ?」
「出してくれ」
ミルサークに促されたアイシャがテーブルの上の空間に手をかざすと、そこに開いた黒い穴からいくつかの袋が、重さを感じさせる低い音を立てて落ちてきた。
「えっ! これって――魔石!? ま、まさか、ネジドさんのをネコババしたんじゃ……」
「失礼な事をぬかすな」
目を丸くするドナホゥにミルサークは少し口ごもった後で、「……まぁ何だ、私もやってたのさ。ギルド長特権てヤツだな」
……あぁ、とドナホゥは得たように頷き、ニヤリとしてへぇ、と笑う。
「お主もワルよのぅ、てヤツですね!」
「少しワルい位が、丁度いいのさ」
顔を見合わせて笑うミルサークとドナホゥを見るアイシャの顔にも、自然と笑みが浮かぶ。
――お父さん、おじさん。私は、旅に出るよ。この国を出て、世界を旅して、他の魔女に会いに行く。会えたとして、どうなるか分からないけど、魔女としての生き方。そのヒントを得る為に。
……そう。私は、魔女として生きていく。だから――見守っていてね。
「~~さて、まだ少し時間があるな。紅茶でも淹れるか?」
「えぇ……またですかぁ。今朝だけで5杯は頂きましたけど。確かに時間はありますが、早めに出た方がいいんじゃあ……」
ミルサークの提案に、ドナホゥは露骨に顔をしかめる。
「ここから直接移動もできますから、時間は大丈夫ですよ」
アイシャはドナホゥの表情を見て、吹き出しそうになりながら言った。「出発前に、乾杯しましょう! 旅の幸運を祈って」
「拳合わせの代わりに、って感じですかね」
ドナホゥが肩をすくめて頷く。「……トイレに行っとかないと」
「いいんじゃないか。我々はもう、冒険者じゃ無いしな」
「あ、あたしは元々違いますよぉ。アイシャちゃんだって――」
「まぁまぁ、細かい事はいいじゃないですか! お湯、沸かしますね 」
アイシャはそう言って、笑った。




